はてなキーワード: 同窓とは
って書くとアダルトな感じがしてしまうのだけど、そうじゃなくて。
かつてmixiが盛り上がったみたいに、今、「普通の大人」が気軽に友達なり知り合いなり、新しい人脈と繋がれるSNSはないのだろうか。
結婚できないって言ってる人、子育てがつらいって言ってる人、きもくて金がない人、ブラック企業にお勤めの皆さん、それ、ゆるい繋がりがあれば楽になると思いませんか。
いつでも繋がれていつでも離れられるような繋がりがあればいいのにと思うのは、自分がその関係をリアルでつくれない社会不適合者だからなんだろうか。
(正確には「友達がほしい」のではなくて「いつでも友達をつくれる」場なりシステムなりがほしいのだ。安心して一人でいられるように。必要な時に助け合えるように。)
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おじさんが一番、参加できるコミュニティが少ないと思った。おじさんの気持ちはわからない。会社にも家庭にもコミットできない/したくないおじさんはそれなりにたくさん、でも周りに同じような人は見当たらないくらい少数派として、いそうだけれども。
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追記2
自分はつい、検索したい(みんななにかしらのマイノリティなので)、リアルな場に出ていけない人(性格的に、時間的に、経済的に)こそつながりが必要、という発想でSNSを求めていたのだけど、普通の大人は自分の足で動けるのかも?
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追記3
覗いてみた。ユーザーが偏っていそうだった。
英語ができれば
好きならきっと楽しいと思う
リアルに繰り出していく系
その他
サービス終了
久しぶりに「ほえる犬は噛まない」(以下犬噛)を見たら(2回目) 意外と「パラサイト」そっくりじゃん!と思ったので書く。
下書きなし。
・大枠…社会階層
上→→→→→下
犬噛:学長→→→大学同窓の先輩後輩→主人公コ・ユンジュ夫婦→パク・ヒョンナム(ペ・ドゥナ)とチャンミ≒ピョン警備員≒つば吐きおばさん(Granny,キム・ジング)→浮浪者(Shadowman、キム・レハ)
パラサイトは「格差社会」映画とよく言われるが、犬噛と併せて考えると「勝ち組と負け組」の映画と言った方が適切かもしれない。
犬噛の方には、上記のほか、パク・ヒョンナムの上位者としての団地管理人の上司たちがいる(勝ち組)。また、電車の中で物乞いをする肺病の親子も出てくる(負け組)。
主人公コ・ユンジュは文系の大学教員。真面目系クズ。同期(や後輩)が出世したり安定した生活をしているのに、ほぼ無職。子供のころは死ぬほど勉強すれば(するだけで)教授になれると思っていたが…
犬噛の最下層の住人は半地下の誕生日トラウマ全地下おじさんにビジュアル面では瓜二つである。
その予期せぬ登場がストーリー上の重要ポイントであるところも似ている。
違うのはShadowmanの方が知的障碍者である一方、誕生日トラウマおじさんは法律にも詳しいインテリであるところ。
さすがに現代で知的障碍者が殺人を犯しますよ、とか直球のタブーだからやむを得ない。
・夫婦仲
コ・ユンジュ夫婦は二人暮らしの家庭(妻は妊娠中) 上述のように人文系大学教員≒無収入の夫を銀行で働く妻の収入で支えている。
家庭内には明白なヒエラルキーがあり、妻の理不尽にも思える命令に反発しつつも逆らえない子供じみたダメ夫ユンジュの生態がおもしろおかしく(そしてかなしく)描かれるのが前半の流れである。
昔から住んでいる土地ならともかく、わたしは大学進学のため当時アパートで一人暮らしをしていたので、そもそも成人式に出席するつもりがなかった。知らない土地の成人式に一人で行っても仕方ない。当日はバイトでも入れてただの祝日を過ごそうと思っていた。
が、東北の実家からわざわざ母が上京し、一生に一度のことなんだから是非出席しろとしつこい。振り袖なんて着なくてもスーツで良いんだから、行って記念品でももらって来いとうるさく言う。耐えかねて、わたしは出かけることにした。
着て行ったのは、大学の入学式用にアウトレットモールで購入したスーツ(確か9500円)。
会場であるどこかの会館で受付葉書を出して、偉い人の話を聞く。
女性でスーツで出席しているのはわたし一人だった。華やかな装いで、友達と連れだって、さらに同窓生を見つけて叫声をあげる同い年の女の子たち。
振り袖が着たい気持ちなど一ミリもなかったが、それ以上居心地の悪さに耐えきれなかった。
「それでは、出身中学ごとに分かれてご歓談下さい」的なアナウンスがあった辺りで、いたたまれなくなって会場を出た。記念品の紅白まんじゅうとクオカード(確か1000円分)はしっかりと頂いてきた。
最近、はれのひ事件の振り返りのニュースで女の子が「わたしだけスーツで行っても惨めなだけだから成人式には出席しない!」と言いながら泣いている映像を見て、このことを思い出した。
小学生の頃は頭がよかった。暇つぶしに塾に通って、自分の実力相応の学校を受験、いわゆる御三家の中高一貫校に入学したけど病気して通えなくなり仕方なく中退。ちなみに中高では成績全然よくなかったし格好よくもなかった。
で、自分はそこから拗ねてしまった。どうせバカだし、高校さえ卒業できないし。
どうにか大検とって現役の歳で大学受験しようとしたけど、あの環境にいれば自然とするであろう努力も病んだ身体でひとりだとできない。結果、MARCHさえ受からなかった。そこで折れた。
今思えば試験受ける体力がなくて受験中に朦朧としてほとんど試験受けてないから当然なんだけど。出願したから受かったボーダーフリーのいわゆるFランにとりあえず入学したんだけど、ガラの悪いやつや勉強に興味のない品の悪いやつが多くてショックを受けてやめてしまった。大学は勉強するところだと信じてたのに違ったんだよな。
中高の同窓生は仲良かったし、みんなと違う道を歩いてきたよ人生ネタだよって話してた。少しずつ自己肯定感も吐く具まれてきた。
でも最近思うんだ。みんなそこそこいい学校出て大手でバシバシに先進的なことをやっている。俺は手取20弱で旧体制の誰も名前知らない中小企業。
手取として金に変換された瞬間にまた折れてしまった。病気さえしなければ、諦めさえしなければ。最近は自分の人生が恥ずかしい、きっと誰もバカにしないんだけれど。自分が仕事をまじめにやっていないツケでもあるんだろうな。胸が張れない。
自分語りが長くなった。
それで、とにかく俺はプライドをズタズタにしてしまったんだよ。頭よかったなんて過去の話に過ぎない。元増田が守り続けたプライド、俺は傷つけ続けてしまった。だから俺は元増田のことすごく格好いいと思うよ。残るものが空疎かもしれないけれど、枠を作ることは大切だから。その枠が元増田を守ることはあるよ。
いつか元増田が躓いて、自尊心がやせ細ったとき。かわいいと言われなくなったとき。もう何もないじゃんって喚き散らしたくなることあると思うんだけどさ、枠さえありゃいくらでもキラキラしたもの詰めていけるから。
元増田です。
藝大デザイン科を卒業された経験者の方からご回答をいただけてとても嬉しいです!
1~4までの項目を熟読しました。
同窓生のうち2~4人、率にして大体5~10%が任天堂に就職されるというのは、やはりさすが藝大は驚異的な就職倍率ですね。
デザイン科45人中の5~10%ですから、いずれにせよ過酷な競争であることに変わりはないですが、しかし私大と比べるとパーセンテージとしては圧倒的数値かと。
参考になりました。
藝大の倍率低下によって現役合格率が上がっているのは私にとって嬉しい追い風ですね。
ただ勉強の出来る受験生も増えているということで、学科を抜かりなくやっていこうかと。
また、藝大と私大における機材と制作環境の違いはとてもよくわかります。藝大・武蔵美・多摩美はオープンキャンパスに行ったことがあるのですが、私大二校の華々しい制作環境と比べると藝大はミニマムな環境で、良くも悪くも国立という点が出ていましたね。特にデザイン科のMACなど、機材に期待はしません。お話しいただいたように、日本最高レベルの同期と切磋琢磨して制作できる環境が藝大の何よりのメリットだと考えています。
藝大進学を「選択肢としては現実的だと思う。」と言ってくださるのはとてもありがたいです。
高3夏時点での実力判定で厳しいものがあったとしても、その年は藝大専願で受けるかと思いますが、もし入試に失敗した場合は1浪目で私大も併願し受験する柔軟さを持ち保険としたいと思います。
ありがとうございました!
元増田です。
藝大デザイン科卒の大先輩からご回答をいただけまして大変嬉しいです!
まずは、私のような若輩者に対して、ここまで親身になっていただき、藝大受験における詳細な体験描写も交え基礎教養や広い視野の重要性を説いてくださったことに本当に感謝申し上げます。
隅から隅まで拝読致しました。一文一文が私の琴線を強く打ち、全身を稲妻が走るような興奮と感動を覚えました。ありがとうございます!
高校で得られる基礎教養につきまして、私が軽視していたことは否めない事実です。高校というのは現代においては退屈な義務教育の延長であり、その授業内容というのもまた中学の内容の延長であり、あくまで大学入試のために設けられたノルマとしての学科であるから真剣に学ぶ必要のないものと勝手に決めつけていました。しかし、実は高校で学ぶ教養というのは人生において後々実り、視野を広げる重要なものであると、多様な学びの礎となるものだということを、トラバ主様のご指摘に加え、他のトラバを書かれた方やブクマを書かれた方からも数多くのご指摘を受け、これは軽々しく切り捨てていいものではないと気付かされた次第であります。貴重な内省の機会をいただきました。ありがとうございます。
他のトラバの方のご回答で、一切高校進学をしないのではなく夜間高校や通信高校という選択があるのではないか?というご指摘を受けたのもハッとさせられるものでした。完全に盲点でした。お恥ずかしい話ですが、学校というものは昼間通うもの(全日制)という既成概念に縛られていました。確かに、昼間は美大予備校で学び、夜間になれば夜間高校なり通信高校で高校教科をしっかり学ぶ・高校教科の教養を得るという選択肢も充分有り得るものです。高校の一切を切り捨てるのではなく、かといって美大予備校での学びの時間を減らすこともない、ハイブリッドな形態には魅力を感じました。
このハイブリッドな勉強形態を採択することで、トラバ主様や、他のトラバ、ブコメの方のご指摘に沿い高校教科による幅広い教養を得られるならばそれも良いものと感じます。この方向で、前日の無謀・蛮勇な計画をいささか見直そうと検討しています。
藝大浪人時代、そして、藝大学生時代の体験談。そして、任天堂に入社した同窓の方のお話。いずれも胸を打たれました。
同窓の方がブコメで指摘されているようにゼルダの青沼さんであるということで、そんな青沼さんが学生時代は実に多様な趣味を持ち、世界の幅広いことに対してアンテナを張っていたという事実。これは、藝大受験と戦おうとすることで知らぬ間に視野狭窄に陥っていた、私元来の知的好奇心を充分に奮い起こさせるものでした。今後は、受験勉強の最中であっても心にどこか余裕を持ち、幅広いことに対して興味を持ち見識を積み、創作の際に必要となる引き出しを四次元ポケット並に拡充するため学びと遊びを硬軟織り交ぜて経験していきたく思います。
トラバ主様の今回の貴重な投稿は即座にブクマさせていただきました。
今後も、何かあるたびにこのトラバ主様の投稿を読み直し、心を奮い立たせていきます。
入試の倍率が今の2~3倍くらいの時に多浪して藝大デザイン科入った卒業生です。
学部・修士を経て、自分の学年をはじめゲーム好きが多い学年だと同窓生2~4人くらい任天堂に就職してた。
今は定員が45人なので、率にしてだいたい同窓の5~10%弱の人が就職してる。今も多分似たようなものじゃないかね。
昔は狂気じみた技巧と努力が必要だったけど、今はそうでもない。っていうか、現役藝大生でしっかりとした実力があるのは一部で、あとは凡庸。うっかり受かっちゃったみたいな実力の子も多い。
最近の子の受験時代の作品を見る機会があったが、デッサンはまあまあ上手いけど、平面と立体は結構下手。現役合格も全然現実的だと思うよ。間違いなく少子化の賜物。
逆に、昔と比較して賢い子は増えた印象。絵にステータスガン振りして頭がパーって子はいなくて、みんな頭がいい。
良くも悪くも藝大と私大は全然違う。藝大は貧乏なので機材や制作環境には絶対期待しないこと。指導も含めて、私大の方が手厚い。藝大は「藝大に受かった人と一緒に制作ができる」っていうのが最大のメリット。レベルの高い人ばかりなので切磋琢磨の次元が違う。逆に言えばそれだけ。
ついでに。「私大と比較して藝大なんて就職できない」はもう昔話。業界を問わずデザイン科の卒業生の活躍はあちこちで聞くよね。
昔より入りやすいし、選択肢としては現実的だと思う。制作環境は決して良くないが、自由でアットホーム。卒業生の母校愛が強いことからもいい学校だというのは実感できるよ。
だいぶ前に藝大デザイン科を卒業し、同窓に任天堂がいるから回答しておく。(ブコメだと書けないからね
デザイナーといっても様々でジャンルの幅が広いが、どのジャンルでも基本的な教養は重要。
CG造形をやりたいということであるが、高校で学ぶような基礎教養、一見無駄な知識と思えるものでも後々重要になる。要求されるものについての文化的な素養や知識があるのとないのとでは大違いである。後々苦労する。なので高校で学ぶ学問を軽視してはいけない。独学では視野が狭くなる。無駄と思える知識まで広げておく必要があるので寧ろ、高校時代は可能な限り学科はやっておくべし。私がいた頃は美校の試験学科の成績は実技と比して全然重視されていなかった(酷いものであった)が、試験勉強していないだけで教養がある学生は多かった。無駄なことまでアンテナを張って知的好奇心を養うことができるのは高校時代である。ちなみにその学科試験も昨今は重視するようなので怠らない方がいいと思う。
浪人時代というのは辛い。私の場合、浪人の時は藝大一本に絞ったので後がなかった。学生証もなく、落ちたら身分のない年月がさらに続く。その危機感で毎日絵を描いていた。一日一枚石膏デッサン。夜は水彩描いていた。日本画の模写もした。このようにして絵を描くマシンになり、見ないでもパジャントが描けるようになってしまった。モリエールやマルス、ブルータスなど木炭紙に入れる比率を体で覚えてしまった。デッサンバカになった。学科なんぞやらない。絵しか描かなかった。二度ともうあの日々には戻りたくない。その一念でなんとか一浪で入ったはいいが、入ったら2浪生が一番多く、デッサンの神様みたいなのまでいて、打ちのめされた。
そのような世界なので、実は芸大生は互いにビクビクしていた。自分が下手なんじゃないかと。自分の絵が下手くそに見えて仕方がなく、他人の天才にビクビクしているのであるが、実はみんなが互いにそう思っていたというのはのちにわかった。実際、弱肉強食な世界なので、下手くそはバカにされる。なので精神を病んでしまう者も少なからずいる。が、概ねは互いに勝手にビクビクしているだけである。
さて件の任天堂に行った同窓であるが、ゲームなんぞやったこともなく(当時はファミコンだった)「任天堂に決まったんだけど、俺よくわかんないんだよな、どうしよう」と困っていた。彼は院まで行ったのであるが、院では木工で立体作品を作っていた。入ってからしばらく周りから話が合わず浮いていて「やめたい」などとぼやいていたが、そのうち「俺の会社は〜」「俺がやったゲームあるからよろしくな!」などと言っていた。
つまり、ゲームを初めから目指しているよりも、そのズレた新鮮な目線が会社にとって、とても有益であったということ。
どちらかというと音楽が好きで、ファッションに興味があり、ハイデザインに興味があり、およそゲームとはかけ離れた分野の知識があったのが活かされたようだ。
つまり、元に戻るが、広い視野を養うべき。映画を観て、音楽を聴き、友人と交流し、世間で流行っているものに敏感になり、アートについて知識を深め、乱読で様々な本を読み、とにかくあらゆるジャンルに知的好奇心のアンテナを広げておく、それがデザイナーに最も必要な資質なのである。
そしてデッサンは1ピクセルの狂いもズレも許さない、水平垂直の狂いを許さない視点を獲得するために必要なので、そこもしっかり脳が魔改造されておくこと。魔改造されると、定規を持たなくても目視で大きさが把握できるようになるし、カメラ的記憶が発達したりする。フリーハンドで直線も引けるし円も描けるようになる。それはCGを作る際におおいに生きてくると思う。
また自然観察する目を養う必要もある。そこにあるものの細部のディテールまで見なくても再現できる観察力を養う為にデッサンや水彩という訓練が必要なのである。
なので、時間的制約や年齢的な制約よりも、何を学べたかが重要なので、変な時間的制約は設けないほうがいい。クリエイティブ魂にはバイオリズムがあるのでスランプという谷間とアゲアゲな時をなんども繰り返して体験することの方が大切。
あとは・・・・運だ。
こればっかりはどうにもできない。
人生を決めつけすぎて、コケると人生の棒を振るので、その時その時で考えていけばいい。
実際は、どの大学出ようが、どこの会社行こうが、自分がうまくハマったとこで、表現をしていければいいと思う。
フリーで仕事していた時は、出身大学なんぞ意識したことなかった。
社会に出たらその時の仕事内容でしか自分を証明できない。もっと過酷な砂漠である。
頑張ってください。
ほとんど話したこともないような奴で京アニに就職したというのも風の噂のようなものだ。もしかすると全く別の会社で働いているかもしれない。
それでも京アニのような名声を集めてやまない企業に、机を並べた人間が働いているかもしれないということは、僕にとってちょっとした誇りになっていた。
あの事件が起こってから彼のことが気がかりだったが、卒業後全く連絡をとっていなかった輩がとってつけたように心配の言葉を周囲に投げかけまわるのは醜悪だと思いずっと黙っていることにした。
京アニにとって僕は一視聴者一ファンでしかない。その僕が心配のポーズをとって感傷的な言葉を撒き散らすのは、関係者や遺族にとって目障りになるはずだ。「本当に悲しい」「犯人を絶対許さない」という類の言葉が彼らの励みになる筈はないし、そんな当事者意識の強い言葉を吐く資格が僕にはあるのだろうかとも思う。僕らは所詮野次馬になるのが精一杯で、京アニと因縁があったヤマカンにすら視線を合わせることができない。僕らが遺族に同情したりあまつさえその心情を代弁しようというのはおこがましいことこの上ない。
応援なり追悼なら募金とたわむけの花で充分。金がないなら近くの寺や教会で手を合わせてひとしきり祈った後で京アニに向けたファンレターにひとしきりポジティブな言葉書いて送ればいい。
なんか勘違いしてね?遺族を疲弊させるのはマスコミじゃなくて野次馬になった僕ら"一般人"なのよ。マスコミはきっかけ作ってるだけにすぎない。
マスコミが被害者情報という餌をちらつかせても一般人が食いつかなければ問題はない。世間にいるのは下衆い奴ばかりということをわかってて、中にはそれを利用するつもりでマスコミは報道していると側面は確かにあるが、遺族のもとに凸ったり誹謗中傷を浴びせたり根も葉もない噂を流すのは結局僕ら側の野次馬である。
心配する声やよかれと思っての情報拡散すら被害関係者にはノイズとなるかもしれない、下手すればそのせいで間違った情報が広まり状況を混乱させるかもしれない。
京アニが今どんな状況か僕は知らない。来年公開予定の映画の進捗状況の詳細や公開の行方、そしてその後の京アニがどんな企画にどんな形で携わっていくつもりなのかに関する確証がある情報は何一つ知らない。僕と同じようなネット記事やSNSから情報を得るだけの一ファンの皆さんもそれは同じだろう。
その程度の人間があたかも京アニは再起不能だと言うような大げさなコメントを投げかけている様子は多々見受けられるが、彼らは自分の言っていることの意味を理解していてその責任を負うつもりでちゃんと発言しているのだろうか。
京アニには焼けたものとは別のスタジオが二つあってそこで70名近い社員が働いていることは流石に僕でも知っている。今回の事件で京アニが死に体になったかように語るのは働いている社員の方々に失礼だし、京アニの経営存続が難しいという印象が一人歩きして風評被害にもなりかねない。アニメーターとすれば9月に公開される新作映画に作品と無関係の事件を結びつけてネガティブな印象を持たれることもなるべく避けたいとも思っているかもしれない。
この事件は遺族の情報が公開されなくてもその分野次馬は京アニという会社や八木社長といった著名な関係者に飛びついていたんだろうと思う。紋切り型の「遺族の心情に寄り添わない傍若無人なマスコミ報道」批判がどれだけ吹き上がっても、京アニという会社そのものが好奇の目に晒されているのではないかと危惧する声はあまり見られない。こういった様を見ると結局僕ら一般人はマスコミ批判の出汁に事件を利用しているだけで、関係者のことなんて本当は考えていないんだろうなとなんともなしにため息が漏れでてしまう。
選挙行かない人に「なんで?」と思う気持ちは私にもあるんですけど、行かなかった人に「信じられない」とか「お前らは政治でどんなことが起きても文句言うなよ」とか「与党に入れたお前らだけで税金払え」みたいな言葉をかけるの、違くない?
違くない?というか絶対違うだろという確固とした気持ちがあるので言ってるのですけれど。そういうのがめちゃくちゃ拡散している。最近アレです。
我々はどうせ一つになれないのだから、自分の人生や思想はバイアスだらけだ。
たまたま自分は投票する側だった、っていう自覚がある。「たまたま」じゃないか、人ひとりの人生や思想のすべては。
他ならぬ自分自身が「強い言葉」大好きマンだからこれは自戒の意を大きく込めるけれど、冒頭に書いたような強い否定の言葉って相手を委縮させるし、なによりもまず相手の存在を否定しているじゃないですか。
政治の話ほど対話が必要なことないでしょ。対話する相手の存在を否定するってあるかよ。
怒るなよ、って言いたいわけではない。言っていいことと悪いことがあるだろ、というだけ。
強い失望とか傷付きを感じた時に、その失望が「怒り」に転じるのも「無気力」に転じるのもわかる。
(私は「無気力」側の人間だ。だから毎回、この一票が何になるんだと思いながら投票しているよ正直。それでも投票しているのは小学生の頃の担任の言葉が理由だけれど、同じ言葉を聞いていたけれど投票にいってない同窓生はザラにいるだろう。)
たぶんこのトピックでいちばんモヤモヤしているのは「みんな自分の生存バイアスを過信しすぎじゃない?」ということだ。
他人の存在を認めるってめちゃくちゃ難しい。そういうことも最近すごく考えている。
死ねって思うようなやつにも生きる権利があること、当たり前に認められるようにならないといけない。
これも自戒の意を込めるんですが、私は人間のこと全員うーーーっすら嫌いなので、赤の他人にすぐ「死ね」って思っちゃう。
でも死ねとか頭おかしいんじゃねーかコイツって思うようなやつにも生きてきた時間があって積み重ねてきた思想があって、って考えて途方もなくなる。途方もなくなって思考がそこで止まってしまうのですが、絶対に、ここで止まってはいけないんだと思う本当に。
これ同じ話じゃないですか。違う話になっていたらごめんなさい。
政治、基本的にめちゃくちゃこちらを傷つけてくる側面あるので「なんで?」って思う。(けどまあ現状の困っていること・悪いことに目を向けることでもあるからそりゃそうか。)
政治に・現状に怒っている人からすれば、選挙に行って自分の意見を表明しない奴は共犯者だ。自分だって傷付いて怒っているのに、その状態で共犯者を慮ってって言われるの嫌だろうな。
でもアナタが政治に関心を持っているのはアナタの生存バイアスだってことをどうか忘れないでほしい。投票に行かなかった人に私刑みたいな罵りをかけていい理由にはならない。
怒られそうな物言いだな。行かない人を擁護したいわけではない。
何度も言うけど、投票いかない人に怒れるのは正常な気持ちだと思います。
「死ね」って思う奴に向かって本当に「死ね」って言っていいわけじゃない、みたいな話を延々としている。読んでてくどいか、すまない。
選挙行かない人、それで今まで生きてこれたっていうのはアナタの生存バイアスでしかないよ。取り返しのつかないことになる前にどうか自分の手で自分の意志を表明してほしい。
いま私は全員に人権がある前提で話している。でももしかしたらこの世の誰かが意志を表示しなかった結果、誰かから人権が奪われる可能性は全然ある。この「意志を表示しなかった/奪われた誰か」は私かもしれないし、アナタかもしれない。
政治とか選挙のこと、もし不安に思うことがあるなら周りの人に話してみる、ってことができる環境に、皆があるといいよね。
今まで/今回選挙に行かなかったからといって、今人権が奪われるわけではない。ないということを維持するためにも選挙には行こう。
学生だった1990年代中盤、ウィンドウズ95フィーバーの中、マッキントッシュ・パフォーマをパソコン通信(NIFTY-Serve)に繋いでネットワークを体験する。
ワープロに過ぎなかったデスクトップコンピュータが、コミュニケーションの道具になった瞬間だ。パソ通にのめりこみ、PowerBookを購入した。
当時、インターネットの定額接続はまだ普及しておらず、高くて繋がりにくいもの。パソ通では、投稿やログのダウンロード時に最小限だけ回線に接続し、読み書きはオフラインで行っていた。
90年代末になり、常時接続の値段がこなれてきて自宅でもインターネットを使うようになる。
ハマったのは2ちゃんねる。ニフティには無かった、匿名ゆえの過激な本音が楽しかった。とは言え、当時常駐していた地方板では、コテハン宅でオフ会をするなど、牧歌的な付き合いがあった。
2000年代半ば、転勤先で出来た友人に勧められmixiを使うようになる。実名や社会的属性もある程度分かり、友達の友達に繋がりが広がっていくSNS時代の到来。
ネットの人間関係は転勤先での仕事にも役立ったし、今でも付き合いが続いている。
また、趣味のコミュニティでは2ちゃんのような煽り合い抜きで情報交換を楽しめた。
ただ、mixiも度重なる機能改悪で迷走。コミュニティでもルールにこだわるタイプのデリケートな人が増えて疲れを感じてきた。
ブログのようでもあり、ハッシュタグを使えばbbs的にも機能し、全ての発言を時系列で把握できる。自分が求めていたのはこれだ!と、のめり込んだ。
最初は実名でツィートしていたが、Twitter絡みのトラブルがニュースになるのを見聞きするうち、ハンドルネームに移行して今も続けている。
この頃、フェイスブックを始めた。
FBは完全実名の世界。同僚や同窓生から始まった友達付き合いは、研究者や作家、地方議員といった、普通にしていたら知り合わなかった方々まで広がった。
その一方で、シガラミも発生してきた。エコーチャンバーという言葉もあるように、SNSのタイムラインは自分に近い考え方の人が集まり、意見が増幅されてしまう。
自分は元々リベラル寄りだったが、FBで繋がった方はガチの活動家も居る。呑気な発言にご指摘を受けてしまうこともあり、段々と慎重にせざるを得なくなった。
気が付くと、FBで建前を書く一方で、5ちゃんねると名前を変えた巨大掲示板群で趣味のスレで伸び伸びと本音を書くことが増えた。
また、Twitterのまとめサイト・togetterにもちょくちょく書き込んでいるんだが、こちらは今の若者の無邪気な本音なんだろうが、無意識的な保守傾向というか、与党や大企業的なものに盲従する一方、労働運動や権力に疑義を持つ人たちへの冷笑的な姿勢が増えてきて、ちょっと疑問を感じることが増えてきた。
そんな流れから、きょう、アノニマス・ダイアリーを始めてみた。
匿名と記名を行ったり来たりして辿り着いたここが、自分にとってどんな遊び場になるかな、とワクワクしている。
まあ、FBで溜まった心の澱みたいなものを流し込む場になるのかもしれないけれど。
じゃ、よろしくね。