はてなキーワード: 仲裁とは
一方的に怒鳴られる立場にいない人間や、第三者が仲裁に入るしか仕方がない。
何度も理不尽なことで怒鳴られた経験のある側は、心理的なしこりがあるのが普通だからね。
>すかさず「じゃあ後で詳しく説明したいので、この件で打ち合わせの時間を取っていただけますか?」
実は既に、もう何度も奮起してやっていることだったらどうする?
元気のある初めの内は、こういうことをするんだけね…。
今務めている部署では、ある先輩社員と、自分含めて先輩の目下に当たる社員複数の間で、冷戦状態が続いている。
先輩の人柄を、後輩たちが取り扱いに困っていると言い換えてもいい。
そんな先輩社員の性格だが、一言で言い表すなら「感謝と謝罪という言葉が辞書にない、人間関係を上下のけじめのみで捉えている」という感じである。
どうも「下手に感謝を表出すれば貸しを作ることになる、謝罪すれば舐められる」という人生訓をお持ちのようで、まあ男社会は少なからずそういう要素があるので、そのような結論に至る人がいても不思議ではないが。
また、目下からの不明瞭な発言・不用意な発言は基本一切容赦なく拒絶し、切り捨てる一方で、目下に対しては自身の端的な物言いから気を利かせることを強く要求してくる。
目上に対しては守勢一辺倒。とにかく余計な仕事が増えないように立ち回り、そのための筋立てを作ることしか考えていない。
そしてこの先輩と我々が一緒に仕事で組むと、誰がやっても、必ず最終的には愚痴が漏れ聞こえてくるという結果になる。
とはいえ、我々も先輩から強い態度で拒絶あるいは叱責された時に、すかさず「じゃあ後で詳しく説明したいので、この件で打ち合わせの時間を取っていただけますか?」といった提案の一つもせず「なんだよやってらんねーな」とすぐ自分の殻に閉じこもるわけで、そうして歩み寄りの努力もせず後で愚痴るというのは、全くフェアではない。
そんな両者の仲裁ばっかりやらされている上司曰く「どっちもどっち、お前らもっと真面目に仕事しろ」というスタンスだったり。
まあ、メンバーシップの欠片もない組織のリーダーをやらされていたら、誰だってそう言うだろう。
せっかくなので、通信メディアの個人史を書いてみたい。自分のブログでやっても良いのだが、わざわざ誘導するのも申し訳ないので増田で書くことにする。あと、前半部分は「通信メディア」の話ではない。
ぼくが初めてパソコンに触れたのは小学校4年生のころだった。当時、既に型落ちだったNECのPC-6001を買ってもらったのだ。当時はまだ「パソコン」か「マイコン」かで名称が統一されていなかった時代でもある。記録媒体はカセットテープ。ゲームをするためにはまず、何十分もかけてロードをしなくてはならない。あとちょっとでロード完了というところでエラーが出たりすると泣きそうになった。
市販のゲームは高価だったので、ぼくは当時の多くのパソコン少年と同じく、雑誌の載っていたプログラムをよく入力していた。姉の使っていた譜面台にパソコン雑誌を乗せ、そこに掲載されたプログラムを延々と入力していく。もちろんミスが多発する。エラーが出ると雑誌とにらめっこをしながら、どこが間違えているのかを必死で探す。デバッグがすべて完了するころにはゲーム自体に飽きているということもよくあった。
当時はまだ、パソコンのメーカーがそれぞれの独自の規格でPCを開発していた時代だった。しかも、同じメーカーのパソコンであっても機種が違えば互換性がないことが多かった。だから、NECのパソコンのソフトがシャープのパソコンで動かないのは言うまでもなく、PC-6001はPC-8001よりも新機種であったにもかかわらず、後者のプログラムは前者では動かない。パソコン雑誌で他の機種用の面白そうなゲームプログラムを見ては悔しい思いをよくしていた。移植をする技術はぼくにはなかった。
その後、中学校に上がると、ぼくのパソコンはPC-8801mkII FRになった。名機と言われたPC-8801mkII SRの後継機だ。記録媒体は5インチのフロッピーディスクになり、一瞬でセーブやロードができるようになった。ただし、中学生にとってフロッピーディスクは高価な代物で、500円で10枚入りという安売りのものを愛用していた。ちなみに、安いディスクだとドライブに入ただけでシャカシャカシャカシャカ…という音がする。仲間のあいだでは「シャカシャカディスク」と呼ばれていた。
せっかくの新マシンではあったが、やはり用途はゲームだった。雑誌に掲載されるプログラムも徐々に高度になり、マシン語を使ったものも多かった。01 C3 AA 90…みたいな文字列を果てしなく入力していく作業はかなりの苦行で、エラーが起きると手に負えなくなることも多く、挫折ばかりしていた。
なお、当時はすでにパソコン通信が始まっており、PC-VANやアスキーネットなどの大手もすでにサービスを開始していた。当初は音響カプラという装置を使っていたのではないかと思うが、詳しくはわからない。ぼくにとってパソコン通信は遠い世界の話で、雑誌でたまに見る程度のものだった。
中学3年生になり、高校受験を控えたぼくは、何を思ったかパソコンで受験勉強をしようと思いついた。受験RPGなるものをN88-BASICで作ろうとしたのだ。街を歩いているとモンスターに遭遇する。そのモンスターが出してくる問題に正解すれば、プレイヤーは経験値を稼げる。最終目標は名門ナダール高校への合格という、ゲームと勉強の両立を目指したものだった。結果はまあ、書く必要もないだろう。世の中にそんな都合のいい話はないのである。
高校に入学すると、ぼくの関心はパソコンから遠ざかっていった。部活が忙しくなったほか、当時のバンドブームにのってギターなどを始めてしまったからだ。無論、このあたりはぼくの黒歴史になっている。
ちなみに、ぼくとほぼ同年代の英国人ライター、スティーブン・プールには『トリガー・ハッピー』(2001年)というテレビゲームの歴史を扱った著作がある。この本を読んでいると、高校時代にゲームから離れてバンドをやるところまでまったく同じだった。ここには国境を越えた何かがもしかするとあったのかもしれない。
しかし、大学受験を前にして、ぼくは再びパソコンに向かい始める。3年前に挫折した一大プロジェクトである受験RPGの製作にふたたび乗り出したのだ。アホだ。予備校の夏期講習を受けながら、頭のなかで構想がどんどん膨らんでいった。
技術は全く進歩していなかったが、根気だけはついていた。ゲームの目標を大学合格に切り替え、パソコンのメモリの少なさに苦労しながら様々なアイテムやイベントまで用意した。しかし、言うまでもなく受験には全く何の役にも立たなかった。大学受験が始まる数日前、ほんの気晴らしのつもりで始めたドラクエ3を受験日程がすべて終了するまでにクリアしてしまったのが悪かったのか、1年目のぼくは受験に失敗し、浪人生活に突入したのである。
1年間の辛い浪人生活を経て、ぼくは東京の私立大学になんとか滑りこむことに成功した。入学式当日、知り合いの誰もいないキャンパスを一人で歩いていると、同じく新入生とおぼしき一団が歩いていた。彼らの一人が「あいつのポケベルの番号、いくつだっけ?」と言うのを耳にしてぼくは衝撃を受ける。東京の学生はポケベルを持っている!ぼくにとってポケベルというのはサラリーマンのためのツールであって、普通の学生が持つようなものではないと思い込んでいたからだ。
入学式の時点でグループができているということは、彼らはおそらく付属校か東京の進学校の出身者のグループだったのではないかと想像する。この時点ですでに情報メディアの利用をめぐってかなりの格差が生まれていたのかもしれない。
いずれにせよ、その後のぼくの生活にやはりポケベルは無縁だった。女子高生のあいだでポケベルが流行っているというのも別世界の話題だった。女子高生の妹がいる友人によると、メッセージが来るとすぐに返信しないと仲間はずれにされかねないということだったので、それはそれで大変そうだと思ったのを記憶している。
その一方で、大学に入学してから、ぼくは固定電話と大変に仲が良くなった。一人暮らしを始めたこともあって、友人とよく長電話をするようになったからだ。コードレスではなかったので、硬い床に寝転がりながら何時間も話をした。「いやー、今日はよく話したよね。ところで、いったい何を話していたんだろうね」などと会話を振り返り始めることで会話がまた長くなるという、まったく生産性のないことをよくしていた。ただ、こうした長電話はぼくに限った話ではなく、わりと一般的に行われていたのではないかと思う。一人暮らしの寂しさを紛らわせるうえで固定電話は重要なツールだったのではなかろうか。
あるとき、風呂にお湯を張っていると、たまたま当時好きだった女の子から電話がかかってきたことがあった。話しているうちに浴槽が一杯になった。コードレスではないので電話をしたままではお湯を止めにいくことができない。だが「お湯を止めてくる」と言えば、電話を切られてしまうかもしれない。そのため、浴槽からお湯が溢れるのをただ眺めながら会話を懸命に続けていたことを思い出す。
ぼくが「インターネット」という言葉を初めて聞いたのは国際政治の授業だった。大学2年生のころだったから1994年のはずだ。日本でもインターネットの商業利用は1992年にすでに始まっていたが、パソコンに関心を失っていたぼくには全く無縁の話だった。大学のパソコン室でタッチタイピングは修得したものの、授業で履修したC言語はあっさり挫折した。数学が果てしなく苦手だったぼくは、理解できない数式をパソコンに解かせるという作業について行けなかったのだ。
大学2年生の終わりごろ、ゼミの選考があった。メディア系のゼミを志望したせいか、志望者には新しいもの好きが多かった。面接の待機場所では多くの志望者が携帯電話を持ち、お互いの番号を交換していた。衝撃的な光景だった。彼らは無意味に相手を電話にかける遊びなどをしていたので、単に見せびらかしたかっただけかもしれない。
しかし、ぼくが携帯電話、というよりPHSを購入したのは大学4年生も終わりに差し掛かったころだった。1996年から1997年にかけて携帯電話・PHSの普及率は25%から46%に跳ねがっているが、こうした指標では若者が先行しがちなことを考えると平均的か、やや遅いぐらいではなかったかと思う。
当時は街のいたるところでPHSの安売りをしていた。今川焼を売っている店でさえ扱っていたぐらいだ。PHSを1年ほど使い、その後はドコモの携帯電話に切り替えた。通話が途切れやすいという難点はあったものの、PHSのほうが音質は良かったのではないかと思う。
他方で、大学3年生になると、ぼくは再びパソコンに関心を持つようになった。1995年、ウィンドウズ95が発売された年である。「インターネット」という言葉が急激に人口に膾炙していった。大学のパソコン室で友人に電子メールを送るようにもなった。当時はメールが来るだけで嬉しかったものだ。ブラウザはまだモザイクを使っていた人が多かったのではないかと思う。しかし、当時のぼくはまだブラウザという概念を理解していなかった。周囲のひとが「モザイク」という言葉を口にするたび、それはエッチな何かなのかとあらぬ妄想に浸っていたのだった。
ともあれ、エプソン製のノートパソコンを購入し、自宅からインターネットに接続するようにもなった。大学の授業でホームページを作ったという友人に刺激を受け、自分でも卒業の直前ぐらいに朝日ネットでホームページを立ち上げた。いまでもそのアドレスにはぼくのホームページが置いてあるので、もうかれこれ20年近くになる。先日、インターネット・アーカイブで自分のページを探してみたところ、16年ぐらい前まで遡ることができた。若気の至りというのは本当に恐ろしいものである。
もっとも、ぼくの目線からすると、当時のインターネットはそれほど面白いものではなかった。今ほどに情報が充実していたわけでもなく、それを探すためのスキルもなかった。ぼくにとってインターネットよりも面白かったのがパソコン通信だった。当時、すでにパソコン通信の時代は終わりつつあったはずだが、それでも見知らぬ人たちとやりとりをするのが面白くて仕方がなかった。もちろん喧嘩も多く、罵り合いをなんとか仲裁したいと思いつつ、結局はうまくいかないということばかりだった。
ぼくが参加していたのは朝日ネットのフォーラムだが、恐ろしいことにいまでもログインすれば当時のログを見ることができる。「ネット上からはとうに消え去ってしまったはずの今なき父親の情報が、パソコン通信のログに残っていることを主人公が発見する」というフィクションを考えていたのだが、興味のあるひとは使ってみてください。
その後、パソコン通信は急速に退潮し、インターネットの時代が本格的にやってきた。ネット上で怪しい情報が飛び交うサイトがあるということを最初に教えてくれたのは知人だった。言うまでもなく「2ちゃんねる」である。それ以前にも「あやしいわーるど」や「あめぞう」といった掲示板はあったはずだが、それらはぼくの全く知らない領域の話だった。
…と、ここまで書いて力尽きた。ここから先は特筆すべきこともあまりないので、唐突ではあるが、このあたりで終わろうと思う。ずいぶんと長くなったが、最後まで読んでくれたひとは果たしているのだろうか…。
普段は、とても朗らかでよく笑い、明るい人柄の父親ががらっと変貌してしまう。
母親に一切の否がないとは言い切れない。お互い、いい大人なのだから、譲れない部分もあってのことなのだろう。
けれど、男と女の力の差なんてはっきりしているのに。
最近ある程度の稼ぎができて、思うようになった。
「父親ももう還暦過ぎ。生まれ故郷に帰ってゆっくりすればいいのに」と。
家庭環境は少し複雑で、母親と父親は入籍していない。同居はしているが、住民票は別々。言ってしまえば、他人なのだ。
本人はまだまだ働き続ける気でいるのだから、言えるわけもない。しかし、父親の収入はほとんどないに等しい。前妻に慰謝料を払い続けているからだ。
私の自分勝手な考えなのか、父親のことを考えてなのか、半々くらいかなあ。
年金をもらえるような身分ではない父親である上、毎月払っている慰謝料はたとえ年金が貰えたとしてもそれだけでは賄えない額。
近々、姉が一人暮らしを始める。
金銭面で頼りにしていた姉という大きな存在。
今まで、両親の喧嘩を止めてくれていた、姉の旦那も、当然居なくなる。
私一人になった時、両親の仲裁をできるだろうか。きっと無理だ。子が親の間に割って入ったところで、なんの意味も持たないだろう。しょせん子供なのだから。
ついこの間、仕事から帰ると、リビングにズボンが干してあった。
スマートフォンの使い方も、ようやく覚えてきたとのこと。
この父親は、一人では何もできないけれど、人と居るとつい気が大きくなり、酒を飲み、暴力的になる。
今年はあまり仕事をしなかったけれども、もう12月も終わりなのか、1年が経過した実感がほとんどない。
で、タイトルの話なのだが、2年前のちょうどこの時間に上司に殴られた。厳密に言えばミドルキック1発と、投げ飛ばされたギャボーってな勢いで吹っ飛ばされた。
事の発端は俺にある。体調も悪く死ぬほど機嫌が悪かったので、忘年会に参加したくなかったのだが、どうしても直属の上司の許可が降りずに欠席ができなかった。
元々酒を飲むことが苦手だし、酒を飲んで盛り上がることが嫌いなのに、ただでさえ嫌な気分で酔っぱらいの相手をすることに対してもイライラしていた。
おとなしくしていてくれればいいのに、毎度毎度ハメを外しその時も飲み物は何回もこぼすは、グラスは割るはで非常にめんどうだった。
それでもなるべく遠くで眺めているだけだったのが、なぜかひな壇で胴上げが始まり、クソ面倒くさいことに自分も引っ張り出されかかった。当時腰痛がとても醜くてイスに10分ぐらいしか座ってられないレベルで、胴上げなんてされたらマジで腰が崩壊すると思ったので、丁重にお断りした。
だが、酔っぱらいの他部署の上司(その時は降格しており俺と同じ平社員)が俺を引きずっていこうとしたので、最初は手を振り放ったのが、それでも引っ張ろうとしてきたので、思いっきり手を押しのけてしまった。案の定逆上した彼は俺の胸ぐらを掴んできたタイミングで、他の社員が間に入り一旦お開き。
そして俺が帰ろうとしていたら、再び彼がやってきて「調子に乗るな!」的な感じでまた絡んできた。幸い同僚がいたのだが、同僚を振りきって俺にミドルキックを見舞ってきた。不意打ちもあり、思いっきりミドルキックを人生で初めて受けて、仲裁に入った同僚ごと俺をふっ飛ばした。この時、ギャボーという効果音のように見事に吹っ飛び完全に腰が崩壊し、そのまま動けなかった。マジでダメージがでかくて頭のなか真っ白け状態だった。
その間同僚は必死に俺を守ってくれていたのだが、その同僚も殴る勢いだったので、タックルしてすぐに横四方固めをした。この時初めて高校の体育の柔道が役に立ったと実感したのは置いといて、最悪なことに俺が上になっている状態で、他の社員に見つかり、喧嘩両成敗的な感じになった。
元々、彼が俺を殴ってきたのは俺の仕事ぶりが気に食わなかっただけで、前から殴りたかったんだと思う。冷静に見れば三ヶ月も休職していた俺も悪いのだが、毎日来なくても遅刻してもいいという社長の了解があったので、無理して会社に戻っただけで、仕事に対してのモチベーションなんて全くなかった。だから、俺のことを気に食わなくても当然だったとは思う。
結局それ以来正月休みが明けても一度も出社しないで退職をした。今でも腰が治っていないのは、その時の影響もあるんだろうな。腑に落ちないのは会社の姿勢にもある。治療費なし、本人の謝罪なし、だから俺も社会人としての最低の対応をしてしまった。
仕事のことで殴り合いは歓迎するが、気に食わないとかで殴って何か解決するのかな?彼は今年から正社員ではなく、契約社員になったらしい。本人の希望か会社の意向かはわからんが部長から降格して平社員になっても何の成果が出なかったので必然的にそうなったのではないかと思う。
俺の器が小さいところは、2年前のことでも根に持っていることだ。
今年は少ししか働かなかったので、収入も本当に最低だった。来年は、今年の彼の年収を超えることが数字の目標で、法人化のメドをつけたいと思う。
来年は笑い話にして済ませられるほど、充実した1年にしたい。
女性の踊り子を集めて観客を集めるショーパブみたいな店がある。
ステージで見せる踊りに対しては観客からチップがつくので、女性達は互いに競い合っていた。
女性ばかりの店内でトラブルが起きたとき、仲裁するのはフロアマネージャーのK氏である。
彼は長年、本店のほうを取り仕切っていただけに、この店でも一定の信頼を得ていた。
この間も大阪からやって来た行儀の悪い踊り子Mが、路上でS組の構成員とその妻との間にトラブルを起こした際、K氏が踊り子に解決方法をアドバイスしたらしい。
そんな中、踊り子達の中で頭角を現したN子は、フロアマネージャーのK氏と内縁関係を結ぶようになる。
堅物で通っていたK氏がN子の手に落ちたことについては驚きと憶測が広まった。
そのうちN子は楽屋内で起こったトラブルをK氏に逐一報告するようになり、K氏は私情に引きずられN子にとって益となる処理をすることが続いた。
性の芽生えというか、性交の本当の姿を知ったのは高校一年生の頃。
男子としては恐らく遅い部類だ。
中学まではセックスという言葉の意味と定義は知っていたが、実際に布団やベッドの上で何が行われているかなんて知らなかった。
知ったのは高校一年の秋ごろ、友達から借りたエロ小説の挿絵でセックスの正体を知った。
それまでは精通もしてなかったし、子どもを作る方法は何らかの手段で精子を取り出して、病院かどこかで女性の子宮に入れるものとばかり思っていた。
話はそれたが、そんな経緯があってか僕は恋と言うものが分からなかった。
好きな女の子とか言われても、顔や性格が好みだなぁというくらいにしか思わなかった。
出来たというよりは、一年生頃から徐々に潜在的に気になっていたのを改めて自覚したといったところだ。
実はその時僕とその子と、僕たちの共通の友人の中でひと悶着あった。
その友人はその子の元カレで、別れる際その子に嫌がらせをしたんだ。
クラスの女子全体を巻き込んでのちょっとした騒動になったがまぁ何とか収まって、それに対しての仲裁に入ったこともあり、その後僕とその子は良い感じになった。
下の名前で呼び会うようになり、学校帰りに港の近くで夜の海を眺めながらタバコを吹かしたりした。
今思えば、青い関係だった。でも、それも長くは続かなかった。
僕の方から一方的にメールを無視するようになり、やがて自然と会話もなくなった。
彼女のことが嫌いになったわけではない。ただ、僕の心はいきなり彼女に対し無関心になった。
むしろ逆に、彼女と肉体的関係を結ぶ自分の姿を想像し、心底気持ちが悪いと思った。
そして、その感情は今でも変わらない。
誰かを好きになるたび、その記憶が呼び出されては好きな人と距離を置いてしまう。
今ではもう、女性として人を好きになることもなく、人を人としてしか好きになれなくなった。
皆、人を好きになり、その人と幸せになっていくのに、僕は人を好きにすらなれない。
好きになったとしても、皆と同じような普通の恋愛なんて出来ない。
性嫌悪なのか、無性愛なのか。
僕は自分の正体が知りたい。
幸せに、なりたい。
遠方に住んでる俺のために事前に書類を送ってくれるはずが、何かの行き違いで俺に届かなかった。
父の言い分:弁護士が俺に郵送するって言ってた
弁護士の言い分:弁護士が他の兄弟の分もまとめて父に郵送して、父から俺に個別郵送するって言った
(父には書類は1部しかきてなかったからたぶん弁護士のミスだとは思う。父に届いた書類見たら結構ゴツイ封筒に入ってたので俺が見過ごすのも考えにくい)
そんなこんなで父と弁護士で送った送ってないの押し問答やってて話が先に進まないので俺が素晴らしい解決策を提示。
俺「犯人探しする時間も無駄なので、その書類早くコピーしてください」
俺「」
原因追求する時間も無駄なのでそれなら必要な書類をささっとコピーした方が早いと思って仲裁したのに、なぜか俺が悪者になってた(;´Д`)
(原因特定したところで結局俺のために書類コピーするというのは変わらないので、それなら無駄な時間を使いたくなかった)
面倒くさい手続きを代行してくれる弁護士先生に感謝する気持ちはあれど敵意を抱く理由はどこにもない。
結局父が仲裁してくれて事務の人が書類コピーしてくれて万事解決。
たぶん職業柄「犯人」って言葉に過剰反応したのかなぁと思ってる。
ファック
そして、誰かに言われるままに犯人かどうかも分からない人間を取り押さえて
あまつさえ逮捕能力がないにも拘らず勝手に拘束して探偵を気取ってみせるその姿勢は
それなのにこの世の中は勧善懲悪でまかり通っている。
しかしながら、その勧善懲悪主義も真実が根底になく、あくまで自らをアピールする場と化しており
そして警察や鉄道警備隊、駅員の仕事さえも奪いかねないのである。
冤罪事件の多くは、そうした身勝手な信条で以って犯人かどうかも事前に見ない歪んだ正義感出しまくってる
勘違い野郎の責任であり、本来当事者同士に公的な立場の第三者の仲裁によって事件解決に向かっていくはずが
ただ、どこまでこの勘違い野郎の介入が許されるべきか法律上定まっていない事が甚だ冤罪被害者にとって悲劇といえよう。
痴漢被害者などが「この人、痴漢です!」と叫んだ瞬間から冤罪の可能性が孕んでいるにも拘らず
己が信条に揺り動かされた自称正義漢が悪を倒すヒーロー物に憧れて目の前の悪を防ぐ事について、一瞬でもいいので
考えて欲しい。
本当にそいつが犯人なのか瞬間的にでもいいのでよく調べてみることだ。
冤罪被害者にとって悲劇なのは痴漢被害者などがあくまで主観でしか判断できないという点を以って警察など司法は有罪に持っていくのだから、
為す術がない、いわゆる弱者的立場なのだという事をよく考えて行動して欲しいのである。
もしも本当に冤罪だった場合、この勘違い野郎は果たして自らの行動に反省するだろうか。
いやしないだろう。
何故なら正義感を持った殆どの勘違い野郎は、それが勘違いである事にさえ気付かない夢見がちな少年の心を持った甘い奴なのだ。
まずはじめに、マンガ「ナウシカ」をお読みになっていない読者のために、そのあらすじをやや詳しく説明しておこう。
すでに多少説明したことでもあるし、本書の読者であれば、マンガ「ナウシカ」を読んでおられなくても、すでに何度となく
テレビで放送され、どこのレンタルビデオショップにも置いてあり、へたをすればほとんど国民的映画扱いのアニメ「ナウシカ」
をごらんになっているであろうから、アニメと漫画双方に共通する限りでの設定の説明は省略する。
しかし、漫画「ナウシカ」のストーリーはきわめて複雑に錯綜しているため、必ずしもテクスト通りには整理できないがご容赦いただきたい。
もちろん、この記述で納得なさらずに漫画「ナウシカ」のテクストに実際に当たられることが一番である。
物語の発端はアニメ「ナウシカ」と同様に、風の谷」付近の「腐海」でのナウシカとユパの再会、ユパの風の谷訪問である。
平和なこの国も別転地ではなく、「腐海」の毒は確実に浸透し、人口は年々減り続けているし、近々始まる戦争にナウシカは
時期族長として、病める父、ジルに変って、同盟宗主国トルメキアの軍に従軍しなければならない。
そんな時、谷付近で不時着した飛行船から隣国ペジテが同盟国であるトルメキアから滅ぼされたとの報が入る。
飛行船に乗っていたペジテの姫ラステルはいまわの際に、ナウシカに謎の「秘石」を渡し、それをトルメキアの王に渡すことなく
兄の元に届けるように依頼する。
ペジテ避難船の動向を察知したトルメキアの部隊は程なく、風の谷に現れ、谷の代表として対峙したナウシカと一瞬即発の事態
の空気が流れるが、ユパの仲裁によって事なきを得る。しかしその際トルメキア兵を一人殺めてしまったナウシカは自分の中に
眠る力と凶暴性に恐怖する。
出発前夜、ユパはナウシカが管理する城の地下最下層にある部屋に案内され、そこでナウシカが管理する「腐海」の植物群を
目にする。通常の「腐海」の環境下では瘴気を発する植物群も、清浄な地下水と土で育てれば、毒を発しないのである。
これを見てユパは腐海の生態系が土壌中の有害物を還元して無害化し、かつての産業文明が汚染した地球環境を浄化している
という自らの仮説に確信を抱き、独力で実験的に結論に到達したナウシカこそ、人類の未来を握る存在だと直感する。
ナウシカは谷の将来のためにあえて、若者を残し、老人達ばかりの戦闘従者率いて、ガンシップ(小型の戦闘用高速飛行艇)とバージ(艀
ガンシップに牽引されて滑空する輸送用グライダー)で、近隣の、同じく「腐海」のほとり(この地域は「辺境」あるいは「エフタル」と呼ばれる。)に位置する小国家郡の軍勢とともにトルメキアの部隊に従軍するべく出立する。彼女達が合流する部隊の長はトルメキアの第四皇女クシャナである。彼女は本来一大軍団の長であるが、自軍の兵力の大半を主戦線に召し上げられ、今はペジテ攻略のためのわずかな兵力しか手元にない。彼女の任務は当初、ペジテで偶然発見され、その危険性を察知したペジテ当局によって封印された最終戦争「火の七日間」の超兵器、巨神兵の奪取だったが、其の復活の鍵である秘石の紛失によって当面巨神兵は役に立たない。
ついで新任の参謀クロトワによって、現有兵力プラス辺境諸族の同盟軍によって「腐海」を突破し、主戦線とは別方向から遊撃を行えとの指令が中央からもたらされる。彼女の側近たちは激昂し、この作戦自体が彼女の政敵である兄皇子たちによる、彼女を陥れる為の罠ではないかと憂慮するが、クシャナはおとなしく指令どおりに行動することを決める。
クシャナの軍とナウシカら辺境諸族の軍は「腐海」上空で合流するが、ランデブーポイントに突如ペジテのガンシップが飛来し、攻撃を仕掛けてくる。それはラステルの双子の兄アスベルであった。攻撃に巻き込まれて風の谷のバージは牽引ロープを切られ「腐海」に不時着する。
初めて本格的な戦闘行動に直面したナウシカは、機敏な行動でバージを不時着へ誘導し部下の命を守ったものの、殺戮に軽いパニック状態になりテレパシーでアスベルに攻撃をやめるよう呼び掛ける。
そのため隙を作ったアスベルもまた、クロトワの操るコルベット(戦闘用高速飛行艇)撃墜され「腐海」に不時着する。
「腐海」に降りてバージを救ったナウシカは、そこで「腐海」の主とも言える巨大な蟲王蟲と接触し、アスベルの生存を察知し、ただ一人メーヴェ(一人乗りの動力凧)に乗って救出に向かう。辛くも生き残ったアスベルは「腐海」の蟲たちを殺しすぎ、蟲の群の集中攻撃を受けていた。
ぎりぎりのところでナウシカはアスベル救出に成功するが、二人して「腐海」最下層へ落ちてしまう。気を失ったナウシカを守ろうとするアスベルの前に現れた王蟲は、ナウシカを小サキ者と呼び、彼女がそう望むから殺さない、早く去れ、自分達は助けを求める遠い南の森へ行く、と言い残して去る。
「腐海」最下層は瘴気が無く、空気も水も清浄な場所であった。ここでナウシカは「腐海」が地球環境を浄化しているという自らの直感の裏づけを得る。そしてナウシカとアスベルはメーヴェで「腐海」から脱出するが(ここまでで単行本第一巻)
元増田です。
子育てって人生って疲れるけど子どもってたまに狙わずにすごい幸福感くれるよねって話なのが、
すごくずれてしまった。
私が姉に冷たいって数多くのご指摘は否定しない。事実そうだと思うから。
私の人生を姉に捧げる気はない。
こう思えたのが40歳くらいのこと。もう私は十分頑張った。
病名に関していい加減なことを言ったのは私にとっての問題は病名ではないからだけど
いざその病気で苦しむ人には配慮がなかったと思う。申し訳ありません。
酔ってたし感動してたしで長男をいたく美化して書いたが
優しいのは事実だが、まあ年相応に弟にひどい時も多く、日頃は喧嘩ばっかり。
ただ弟はいらんことしつつも兄ちゃん大好きだし、
じゃあ見に行ってやるけど兄ちゃんのジャンプ絶対さわるなよ!みたいな会話を見てて
いいなと思って書き込んでみたら、正直反響の大きさにびっくりした。
長男や次男に理想を求めすぎないようには気をつけてる、でもこれからも気をつけるよ。
子どもが親の顔色見てるのも自分がそうだったからよく知ってる。
例えばあの時、長男にありがとう!!って私が涙なんて流したら、長男は学習してそればっかり言う。
テレビ見て、なんでもないことのことに守ってあげたのにねって言うから
こっちも内心涙出そうに感動したけど、なんでもないことのようにさらっと流した。多分長男はもう忘れてる。
反抗期迎える前の煌めきだし、長男だって次男だって悪い時もいい時もある。
子どもの出す物音がすごく苦手みたい。
機嫌がいいと一方的に話しかけてくるけど、誰かに何か一つでも指摘されると不機嫌になって戻らない。
でも自分はすぐ人をしつこく攻撃する。我慢できずに相手が反撃すると不機嫌になって会話終了。
家族相手には甘えて強く出るが他人には不機嫌になるだけで何も言えない。
5年前に工場の職場で揉めて退職して以来、今はずっと家にいる。
全く姉にいい思い出がないなんてこともない。愛情がないこともない。
だから姉がかわらないかな、ちょっとでもいい方向に行かないかと努力したこともあったが
だから自分が壊れてしまう前に、姉を恨んでしまう前に逃げただけだ。
恨んだり嫌いとかでもない、ただ諦めたのだ。
姉をクズと思ってるとかじゃなくただ途方にくれてる。一体どこに解決する道があるんだろう?
子供相手に姉の文句を言うこともない。そもそも会話に上らない。
ただ、なんでおねえちゃんは挨拶しても無視するの?って聞かれたら
おねえちゃんは子どもの立てる物音が苦手みたい、あなたが悪いわけじゃないからそっとしておいて。って答えてる。
姉と私は一緒に遊ぶわけでも電話するわけでもない。いくら子供でも仲良しと思う方がどうかしてる。
会話にならないんだからもちろん長男や次男が姉を救えるはずなんてない。
大人になって親は親で大変だったろうなと思えた。
私に普通の娘像を求めるのもまあわからんでもない。お姉ちゃんをなんとかわかろうとして頑張ってた。
そこに親の気持ちを察した妹が顔色見てピエロになってくれたら助かるのも無理はない。
今も無職の姉を老いた両親はなんとか社会復帰させようと支えてる。
あなたがお姉ちゃんの人生に責任持つ必要はないって言ってくれるだけまともだ。
みんなが姉であり長男であり私であり、色んな角度から手厳しいコメントをくれたように本当に家族って難しい。
正解はどこにあるのかわからないけど、子供たちが幸せになってくれるように
長々とすみません。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS0900U_Z01C13A2EB1000/
大きな下方修正となったのは、公共投資の伸び率が下がったため。実質で見ると推計値は前年度比14.9%増だったが、国や自治体の決算をもとに算出した確報値では同1.3%増だった。
なぜこれほどまでに修正が入ったかというと、GDPの速報値では公共投資は主に建設総合統計の出来高ベースから推計しているが、この統計が厄介なことに現実と離れてしまっているから。
建設総合統計の出来高ベースは、他の一次調査の数字を加工して作る。具体的には、建設工事受注動態統計調査、建築着工統計調査、そして建設工事進捗率調査の3つの統計を加工して作る。建設工事受注動態統計調査では請負契約額が、建築着工統計調査では工事費予定額がそれぞれ請負時、着工時に一度に計上されるので、それを建設工事進捗率調査の進捗率を使って数ヶ月にならして割り振っていく。たとえば進捗率調査の結果が一月目50%、二月目20%、三月目30%となる工事を100億だけ4月に請負えば、4月50億、5月20億、6月30億というように割り振りこれを出来高とする。
ここで問題となるのが、建設総合統計で使われる最新の建設工事進捗率調査が平成18年のものである点。これが調査から時間がたち、さらに震災復興という特殊要因が働く現在の実情と大きく離れてしまっている。当時より土木建設業での人手が不足しており、また特に復興のような集中的な発注に対しては処理能力、供給能力が平時より大きく不足する。そのため、請負った、着工したはいいがその後にほとんど進捗していない例が多い。しかし、建設総合統計ではその請負や着工が平成18年時点での進捗率に従って出来高が出来ていると推計することになり、それを用いるGDPの速報値も実際以上に早いペースでの公共投資額を計上してしまっている。
一方で自治体などの決算をベースにした確報値はより実際の出来高に基づいた推計がなされることになる。その結果、公共投資は大幅な下方修正を受けることになり、それによってGDP成長率そのものも大きく下方修正されたのである。
ここから言える教訓は2つ。1つは、復興の必要性にもかかわらず伸びない公共投資は政府がケチっているからではない。速報値では伸びていたように請負額、つまりは発注額は増えている。しかしお金だけ出しても進んでいないのである。ある場所でいつも以上にお金を積んで無理繰り進めてさえも、そのために別のところで進まない形になってしまっている。また、復興を早期に進めるためにはお金だけではなく、仲裁に政府が積極的に乗り出す必要があることも示している。2つめは、土木建設業の人手不足は深刻化しているため、今後も建設工事進捗率調査にそった進捗は望めず、速報値で公共投資が伸びていても確報値で下方修正されることがしばらく続く危険性がある。逆に、速報値ではずっと前に計上していた出来高が随分と遅れて確報値に出てくることもある。GDPギャップの評価や消費税引き上げ判断のためのGDP騰勢チェックなどの際にも注意しなければいけない。
こちらの出した提案に対して文句を言われた。
その提案には、別部署で窓口のように動いてくれていたとある後輩が携わってくれていたが、
その後、自分と上司の喧嘩がエスカレートしてしまい、ある先輩が仲裁に入ってくれた。
その後輩の上司だった。
諸問題が残っていたため、すべてがクリアになった時点で、
窓口として動いてくれていた後輩に提案が通った事を真っ先にメールした。
そしたら後輩から、「先輩とかと進める前に、まず自分にも話を通してくれるのが筋でしょ」
って返信があった。
はじめは、全てをクリアしないと変に期待を持たせてしまうという考えもあったし、
この提案が通れば、自分も後輩もみんなハッピーになれるしって考えてたから、
正直、後輩の発言にいらっとしたし、悲しくもあった。
何度かメールをやり取りしながら、言葉の行き違いがあると思ったか、
最初の内は後輩も「一般的に〜」とか「筋が〜」って言っていたが
気分を害してしまった事に対して謝罪すると、
ショックだった。
自分が嫌っていた、上司と同じ行動を、下にもしていたことに気づかされた。
今思えば、自分でケリをつけようとか、面倒事に後輩たちを巻き込んではいけないとかで
無意識に行動していたように思う。
悶々として眠れないから吐き出してみた。
これは、市民が、核を持っている各国に対して発している。
現状、核所有は国際的に認められてる国は認められており、それを罰することは出来ない。
現状、"ある"ものに声を出している。
テロが公然と行われていて、それに政府も誰も対処しないなら連呼しだす市民は出るだろう。というか出る。
現状、そのような組織は少なくとも日本には表立って居ない。そのような組織を全てつぶせ、といった様な運動ならサリン事件後にいくらでもあった。
政府が対処したことで、現状表だっては居ないし危険も感じないのでいう必要を感じない。
アメリカがもし仮に、法を破ってまで対テロ対策や紛争仲裁にでもサリンを使うようならサリン反対運動は起こる。
だが現状法で禁止されており政府側は使わない。
テロに関しては、サリンを使おうが何を使おうが社会に害が及ぼされるものであれば断罪される。それを政府が見逃してたり、上手く抑えられなければ、
それに対して運動は起こる。
また、テロに関しては、テロを行ってる本人たちはどの様な結果をもたらすか、わかった上でやっている。
麻薬は危険だからやってはだめ、と同じようにそのサリンは危険だからヤっては駄目、と本人たちに言っても何も意味がない。
その理由として、麻薬により廃人とかすから。その危険性を充分理解できずに走ってしまう人が居る。
おわかりですか?
新宿駅の構内で二人の男性がケンカをしているのに仲裁を入った事があります。
すごい剣幕で怒っていて殴りかからんとする勢いをみてさすがにコレは止めないとなぁと思いました。(当時の私は岩手と言う田舎から出たばっかりの初心な少年で、今はそんな事はできない)
怒っている人は関西弁の30代の男性、怒られているのは同い年くらいの大学生でした。
胸倉を掴むその人を何とか剥がして、話を聞いた。
ぶつかったおじさんに謝りもしない学生を注意したら、反省の色も無く言葉だけ落とした。誠意を見せてもらう為に土下座しろ。という事だった。
新宿駅の構内で土下座なんか出来るものかと言いたくなる気持ちをグッと堪えてなんとか説得してると、今度は学生が「あやまってんじゃん」とゆとり世代を代表するような逆切れをし始めた。
関西弁のおじさんは「てめえ、殺したろか」といって殴ろうとし始めた頃、やっと40代くらいの駅員さんが来て、「警察呼びますか?」と話し始めるとだんだん話は収束し始めた。
その後、やっとケンカが終わりかえろうとする僕に駅員さんは
大学生の彼は「ついてないわー、意味わかんないわ」と呟き捨てると早々帰っていった。
関西弁のおじさんには「こんなクズのためにようがんばるな、兄ちゃん」と言われた。
なんかすっきりしない気持ちで帰った。
別にヒーローになりたかったわけでもないし、感謝されたいからやったわけじゃない。
ただ単に人が殴りあったり傷つけあったりそういうのを見たくないだけだった。直感で助けた方が良いんじゃないかという心に従ったまでだった。
良かれと思って行動した事が邪魔といわれ、無駄な努力をしたなと言われた気がした。
というただのチラ裏な話。