はてなキーワード: グラデーションとは
はてブ市民によると、女子中学生の水着姿の撮影会は公序良俗に反する、けしからん、いかがわしい催しであるらしい。
しかし、そうだとすると、たとえば、スポーツブランドのカタログに載っている写真はどうだろう。
スポーツブランドのカタログに、中学生モデルがジュニア向け水着を着用してポーズをとっている写真が載っていたとする。
これはセーフだというのがおそらく社会通念だろう。
それとも、その写真が撮られた目的が健全だからセーフなのだろうか。
プロのカメラマンがスタジオで撮影しているからセーフなのだろうか。
カタログを手にとって見るのは主に就学児童を持つ親御さんだからセーフなのだろうか。
カタログが置かれるのがスポーツ用品店の店頭だからセーフなのだろうか。
どこかのブクマで「撮影者が性的に興奮してたらアウト」という意見を見かけた。
健全な目的の撮影でカメラマンが性的に興奮していないと言い切れるだろうか。
私は健全な企業活動の一貫として女性向け下着のプロモーションに携わったことがあるが、その業務に従事している間しばしば性的な興奮を覚えた。
しかし女性用下着の開発や販売促進が公序良俗に反する行為とは特に考えなかったし社会通念上もそうであろう。
話が脱線した。
グラドルとは、自らのセクシュアリティを経済的価値を持つ資源と自覚し、自己表現や自己実現あるいは利益獲得の一貫としてそれを衆目に晒すことを業とする者を言う。
その営みは、成熟した大人が個人の判断において行う分には何も問題はないが、少なくとも未成年にはふさわしくないと思う。
しかし未成年とてアイドルを夢見、スタアを志す。というか、若いアイドルたちの大半は未成年でデビューする(成人してまでアイドルになりたいなどと寝言を言っている大人がいたら早く目を覚ませと言ってやるべきだろう)。
そうした未成年たちに許される営為の範囲とはどこからどこまでだろう。
そもそも女性アイドルは、プールサイドで撮影会なんかしなくても男性ファンから性的にまなざされることが宿命である。
思春期の男は誰しも多かれ少なかれ、あのアイドルを恋人にしたい、あの子とチョメチョメしたいと思うのである。雑誌に水着の写真があれば健康的なポーズであっても10円玉で隠したりするし、顔面アップの写真には精液をぶっかけるのである。
フリフリのロングドレスを着て能天気な歌を歌っているくらいなら健全です、と確信を持って言えるだろうか?
年齢に関わらず、女性はスタアを志した時点で自らの「女性性」を資源にしている。
極端な話、地上波の歌番組でピョンピョン踊っているアイドルと、アダルトビデオでドロドロにされている女優は地続きである。距離的な隔たりこそ大きいが、その間には滑らかなグラデーションが広がっいて、セクシュアリティの比重というパラメーターがアナログに異なっているだけだ。
スイッチのON・OFFみたいに「これはエロい」「これはエロくない」やないんやね。
男はあらゆる女の仕草にエロスを感じ取っていて、そのエロスが強いか弱いかなんやね。
多くの人が強く感じるか、それとも一部のフェチだけが強く感じるのか、っちゅうのもあるわね。
単純に「少しでもエロいと感じるポーズは禁止」とした場合、女のあらゆるポーズが禁止されてしまうわけで、
それは困るやろうから、「このくらいのエロスならOK」という線引きが必要なんやけど、
フェミさんの要求は過激やから、どこで線が引かれるかわからんっちゅう話なんやね。
「線引きがわからん」っちゅうたけど、もちろん現状で何の規制もない無法状態なわけやない。
この程度ならR18じゃなくてOK、この程度ならテレビで流してOK、この程度ならイベントでやってもOK。
ところがその「常識」で行動するとフェミさんが文句を言ってくることが多くなった。
そりゃ難しいわよね。
自分の常識的な感覚どおりに「このくらいならOK」と思って行動したら「NGやわ」って言われる。
それなのに「常識的な感覚を持っていれば何がNGかわかるやろ?」って言われとるんや。
そんな風なことになるのは「エロさ」の感覚が容易に変動するからや。
エロさレベル10の環境、たとえばヌーディストビーチで育った人間はエロさレベル9では興奮しない。
エロさレベル2の環境、たとえばイスラム教圏で育った人間はエロさレベル1だけで興奮する。
極端に言えばそう言うこっちゃね。
フェミさんも、性的なものに対する感覚が従来より厳しくなっとるから、男の感覚と衝突しとるんやね。
「ほなら感覚が変動するたびに規制も変更したらええんやない?」って言うやろけど、
これは逆に「規制によって感覚が変動する」っちゅう話になるんやね。
イスラム教圏の男性が女性の生足だけで興奮するのは、生来の脚フェチが多いからやなくて、「女性は肌を見せない」という規制のせいや。
そしてイスラム教圏の女性の「これはさすがにエロすぎNG」のラインは、日本のラインよりも遥かに厳しい。
つまり単純に規制を厳しくしても、男は慎ましくなるんやなくて性的興奮の閾値が下がるだけやし、
【中学生くらいの頃】
・純粋に子どもが好き。将来はお父さんとお母さんみたいに結婚して子ども産んで生きていくのだろうと思っていた。
というか、子ども欲しいとか欲しくないとか、そんなことはただ考えず漠然と家庭を築いているんだろうなぁと想像妄想していたと思う。
【高校生くらいの頃】
・メンタルがやられ、なんて自分はダメ人間なんだと本当に落ち込む。絶対来世は人間にならないと誓う。絶対に人間なんかなるもんか。自殺は痛いから嫌だけど、本当に消えたかった。
・もしかしたら、いじめられるかもしれないし、人をいじめるかもしれないし。すごく理不尽な目に遭うかもしれないし、悲惨な事故に巻き込まれるかもしれない。可哀想で辛すぎる。そこまでひどくなくても、まぁ生きていれば辛いことがある。そんな酷い仕打ちを我が子にはさせたくない。が、かといって辛いことが何もありません、というふにゃけた人間になっても生きづらいだろうな、と思う。
・自分は子どもを産むことが許されるほど、能力を持っていない。子どもに受け継がれる全ての遺伝子が可哀想。ごめんね。
・絶対に子どもは産まない!と固く決意し、兄弟に子どもを産みたいと言ったら全力で止めてねと言っておく。いや〜止めないよ。と和やかに言われる。
・なんと好きな人ができて、この人に子どもを抱っこさせたい、でも私の子どもは嫌だという大問題に直面。ただ好きな人の子どもは私だって見たい。
・自分の遺伝子が問題なんだよ。でも好きな人に他人の卵子と受精させ子を育てさせること、養子をとることは違う気がする。代理母出産も申し訳ない。その痛み経験したい気もする。なんてわがままなんだ。
彼に失礼。自分のメンタル治せ!いや性分か?自分を愛することで他人を愛することができる!と自分の中の修造が言っている気がする。
・ごちゃごちゃ言いつつ、なんだかんだ今とても幸せで、人と環境と運に恵まれたと感じている。今の人生と同じ人に巡り会えるならもう一度人間をやってもいいかな、と思えるようになった。
・生まれてくる子は絶対大変だ、辛いはずと決めつけてしまっていたが、それは私が決めることではないし、今わかることではない。辛いかもしれないし、辛くないかもしれない。それは本人のメンタルの持ちようにもよるだろうし。まぁそのメンタルの基盤を作るのは、本人の性分と、親がいかに関わるか、周りの環境がどうであるかではあるのですが。遺伝と環境の相互作用。辛いか辛くないか、それは私達の努力も大切ではあるが、それが全てだと思わなくてもいいのかな?と考えるようになった。
・周りの子は経済的に不安を感じて出産を悩んでいた。私も友人もありがたいことに何不自由なく育ててきてもらっており、親がしてくれたような水準で子どもに関わってあげられる自信がない。そう思うと、大学まで金銭的援助ができる自信がないのに産んでいいのか?と不安になる。だって大学のお金まで出してあげたいと思ってしまう。理想としては。
「身の丈をわきまえろ」「脳内お花畑か」「奨学金制度使えばいいじゃないか」と言われそうだが、奨学金を借りない方向で子育てをしたいと考えている為、何不自由なく過ごせる経済的自信がないのなら産まない方がいいのかな?と思っているが、そもそも経済的自信満々で子育てをしている人はごく僅かだと思う。なんだかんだうちも「家計が火の車だよ」と言っていた。親のやりくり力すごい。
・優生思考、資本主義社会のこの世の中で戦い抜ける我が子を産み育てる自信がない。そもそも遺伝子に自信がないのだから、ね。親はちゃんとしていたのに、親に申し訳ない。
・私ものらりくらりと生きているということは、なんとか楽しく生きられる可能性50%、毎日死にたく生きる可能性50%?そもそも人間の人生って白か黒か、くっくり色分けできるものではなくグラデーションなのでは?なので何とも言えないのか?
【今の考え】
・この先100年辛そうだし、子どもが可哀想だからあんまり産みたくはない。しかし彼の人生にも関わることだから、申し訳ない。彼のことを考えると産みたい。多分いいパパになれると思うから。
でもそれが「自分は本当は別の性別だったんだ!」に飛躍するのは理解が出来ない。
なんでそうなるんだよ!?
例えば男で言うと、戸籍上の性別はちんちんがついてるかどうかで決まる。
そしてちんちんがついてるだけで男性のジェンダーロールを担うように育てられ、社会ではその振る舞いを要求される。
大人へと成長していく中で、「あれ・・・?ちんちんがついてるから男性って言われてるけど、自分は本当に男性なのか・・・?」と性自認の違和を感じる人がいる。「では自分の性自認は男じゃないとしたら何があてはまる?」と考えた時に女が当てはまる人、これがトランスジェンダー。
一方、女が当てはまらない人もいる。そういった人達はXジェンダーと呼んだり、ノンバイナリー(自分の性自認を男と女の2者で決めない人)と呼んだりする。
元増田は「飛躍している」と言っているが、男性じゃない気がする→女性な気がするって思うのは多様性後進国の日本では自然なことだと思う。性について、グラデーションという考え方があまり浸透しておらず男と女の二元論で語られることが多いから。
性的対象(好きになる性)も似たような話で、「自分はちんちんついてて、男として育てられたし自分は男だと思ってるけど、女性に性的興奮が無いな・・・」ってのが同性愛者。
自分は男性同性愛者で、ソースはないけど遺伝子のバグで脳が男と女のミックスみたいな脳になってしまっているせいでこういったことが起こるんだと勝手に思ってる。完全にハズレくじをひいてしまったよ。トホホ・・・。
めちゃめちゃビックリした。
人間の都合で調教して人間の都合でムチ入れて人間の都合でレース走らせて人間の都合で屠殺する競技の関係者が、他人を「動物虐待」って言って責める資格あると思ってるんですね。すごいなぁ。
当たり前だけど、何千万もの募金集めてようやく十数頭の馬を救っても焼け石に水で、本当に馬の福利を考えるのであれば競馬を廃止するか、年の競走馬生産を計50頭以内に抑えるのが一番手っ取り早いからね。
ダービーの実況で「○千頭の頂点!」みたいに言われることがあるけど、それだけの馬を生産してることが動物愛護の観点からいえば異常なわけで。
20年ものあいだ、全体からみれば微々たる数の馬を救うことで満足し、競馬廃止運動などを繰り広げてこなかった団体なんだから、てっきり動物虐待に対する体系的な問題関心を持ってるわけじゃないと思ってたんだけど、見込み違いだったかな(体系的な問題関心を持ってないのは悪いことじゃないよ、念のため)。
増田は動物愛護には何の関心もないオタクなので、普通に競馬を楽しむし、ナイスネイチャバースデードネーションにも寄付したし、それと同様に上げ馬神事についても「まあ伝統の神事なんだから別にいいじゃん」と思うけど、競馬産業を放置してる団体が上げ馬神事をあげつらうのはおかしい。
たかが数頭の馬が伝統行事で酷使される程度のことに怒るならば、より身近で体系的な競馬とかいう動物虐待に対してもっと真摯に向かい合うべきだっただろう。競馬廃止の運動をするとか、競馬関係者を糾弾して社会的に非難される職業にするとか、競走馬を生産する牧場のボイコットを呼びかけるとかね。
ナイスネイチャバースデードネーションで俺も含む大勢の人が寄付したわけだし、そのパワーを競馬廃止運動や牧場ボイコット運動や騎手の吊し上げに向けてはいかが?
競馬に情熱を注ぎ込んできた人たちが大勢いるように、地域の伝統行事を大切にしてきた人たちも大勢いて、それはどちらも尊重すべき人間の文化の一部だと思う。片方を「たとえ伝統文化だとしてもダメ」と切り捨てるのであれば、当然、競馬にも同じ刃を向けるべきだし、これまで20年以上も競馬関係の業界にいながら競馬のシステムへの根本的な批判を行ってこなかった団体がいきなり伝統文化に口を出すのは、ちょっと受け入れがたいものがあるなぁ。五十歩百歩ってご存知?
ところで、動物虐待罪は悪法であり廃止されるべきである。動物は権利を享有する主体と見做されるべきではない。動物の所有者が(絶滅危惧種ではない)動物をどのように扱おうが、それは所有者の自由だ。動物虐待を行った者が友達を失くしたり近所の住民に軽蔑されたりするのは仕方ない(誰しも友達を選ぶ自由はある)けど、それは他人の権利を侵害しているわけではないのだから、刑罰を科すのは間違っている(他人の動物を虐待したら器物損壊で処罰すればよい)。
動物虐待罪の保護法益は「動物愛護の良俗」とされているが、こんなものがまかり通るなら、「天皇を敬愛するという良俗」を保護対象にして、天皇の写真を焼くアートを取り締まる立法だって許されることになってしまう。多くの善良な日本人は日の丸をあえて損壊する行為に心理的抵抗を感じるだろうが、では日の丸を損壊する行為に刑事罰を科すことは妥当だろうか? 俺は天皇の写真を焼くようなパフォーマンスをする連中とは友達になりたくないが、そいつらが逮捕されることには断固として反対する。そして、動物虐待も同じだ。
動物愛護が美徳であることは否定しない。天皇や日の丸に敬意を払うのと同じくらいには市民の美徳だろう。だがある行為が美徳であることは、それを毀損した者に刑罰が科されるべきであることを意味しない。天皇の写真を焼き日の丸を破り捨てる行為がどれだけ腹立たしくとも合法であるべきであるように、犬を殴り、猫を焼き、馬にムチを入れレースで走らせたり神事で酷使したりする行為は、それがいかに嫌悪感を催すものであろうが、合法であるべきだ。動物虐待罪は市民の自由を奪う悪法である。一刻も早く動物愛護法を改正し虐待罪を削除すべきだ。
動物愛護を本気で考えてる人が競馬を批判するならまあ理解できるが、「俺は動物愛護に反対だけどね」は醜悪だわ。動物愛護にもグラデーションはあって「そりゃそんな使い方したら死ぬだろ」っていうのはあるでしょ。
ですよねえ。数十キロの重り背負わせて高速で東京競馬場や阪神競馬場走らせたら、そりゃ死にますよねえ。「原因はわからないんじゃない、ないんだ!」って、いやいやどう考えてもそれが原因でしょっていうね。
上げ馬神事で馬死なせるのと沈黙の日曜日とで何が違う? 俺にはわからない。片方が起きるような環境を文化として擁護するならもう片方も擁護すべきだし、片方を嵩にかかって糾弾するならもう片方も追及しないとおかしい。これまで競馬に深く関わっておきながらダンマリだった連中が上げ馬神事に強い言葉で物申すのは醜悪だと思うよ。
不快なものは規制してよい論者だ! 論拠が素朴すぎて絶滅したと思ってたけどまだ生きてたんだ! すごい! 超レア! サインください!
俺も隣人が犬や猫をいたぶって遊んでたら嫌すぎるし、今後のお付き合いは考え直すだろうが、隣人が刑務所に送られたり罰金を払わされたりするのは間違ってると思うよ。
逆に何故それは理解できるの?
…
「それ」が何を指してるのか不明瞭だけれど必ずしも、女が好きだから私は男だ、ってなる訳じゃないよ。
理解不能だから本人の方に問題があると考えることこそ現実歪曲強迫症候群でしょう。
まさしく、その通りでポイントをついていると思う。
LGBTs の旗がレインボーなのは性別はハッキリ分かれてるのではなくグラデーションがあるって意味だと聞いたことがある。体や心の違和感は個人によって大きく差異があり、同一感が強い人には共感できないほど乖離がある人もいる。
ツイッター見てるとそれっぽく書かれてる世に倦む日日の悪意あふれる記事を丸ごと鵜呑みにしてる人が(著名な言論人の方でも)多いようで、ネットリテラシーについて考え込んでしまう。危ないっすよマジで。
高知のカフェの件(マンガ)は、わかりやすいが故にかなり一方的な記述が気になったのは確かで、相手方が名誉毀損で訴えてきたら微妙だなとは思ったけど、すべてが利権や捏造で構成されていたとも思えない。土佐市NPO側と、カフェ側それぞれに主張や文脈があって、その中間、グラデーションの中にしか「真実」はないんだと思いますね。
https://twitter.com/tsuda/status/1659006099255877632
まあでも「ひろゆき嫌い」がある種のポリティクスの磁場になっているのだな、と確認できた感じ。単純な左右ではもちろんなく、woke / 反wokeという軸だけでもない、ネット上の言論空間の歪さがよく現れてますね。そういう中で妄想や陰謀がまた力を得ていて、ある種ポスト真実2.0になった感もある。
「NHKのクレイアニメ『ニャッキ!』で青虫のニャッキが巨大化する回に興奮をおぼえる人間が存在する」というのを風の噂で聞いた。
当初は「またまた、ご冗談を」というのが私の感想だった。千差万別、八百万のフェチが幅を利かせているこの現代社会においても、教育番組の中の粘土でできた青虫に、ましてやそれが巨大化するさまに興奮する人間など一人もいないと思っていたのだ。
だが、いた。しかも一人でなく、掲示板で、SNSで、まばらにではあるがニャッキの巨大化に興奮する旨の書き込みがいくつも見られた。さらには、「分からないと思っていたが段々わかってきた」「そんな気がしてきた」と非ニャッキ巨大化回興奮者がニャッキ巨大化回興奮者に転化する過程のグラデーションのような書き込みまでもが散見された。
つまり、ニャッキの巨大化に興奮するというフェチは先天性のものだけではないということだ。転機さえあれば、人は後天的にニャッキ巨大化フェチを獲得することができる。
そう思うと俄然知りたくなった。人はいかにしてニャッキの巨大化に興奮するに至るのだろうか。
私はこの好奇心に取り憑かれてニャッキの巨大化回をとにかく見た。いっぱい見た。そのうちに、「もしかしたらこういうことかもしれない」という仮説をいくつか得ることができた。
今日は読者の中にもきっと存在しているであろうニャッキ巨大化回興奮者に向けてこの文章を書く。
仮説を順に挙げていくので、「これこれ!」と思うものがあれば教えてほしい。私はあなたたちのことが知りたいのだ。
ニャッキ!はクレイアニメなので、巨大化するときのアニメーションはニャッキの体に順に粘土を継ぎ足していくことで表現する。
それをアニメーションで追ってみると、ムクムクムク……というか、モリモリモリ……というか、ちょうど映画AKIRAで鉄雄の身体が膨張していくシーンのような絶妙に生々しい動きになるのだ。
この動きは確かに言いようもない刺激を私たちの心に与えてくれる気がする。もしかして、これに興奮しているのだろうか。
ニャッキはただの青虫である。お弁当代わりの実をかじり、這いずりながら暮らしてきた。それ以外の事象に対しては、虫一倍に鈍感であった。
そんなニャッキが「?」「?」としきりに疑問符を浮かべながら膨張していくのには、いわゆる無知シチュのような趣がある。自分の体がどうなっているか分からない、持ち主ですら把握できない変化が身体にどんどん起きていく、というシチュエーションは相応にフェティッシュなことなのではないだろうか。だとすればこれがトリガーである可能性もある。
破壊にフェチをおぼえる人間もいるだろう。ニャッキは身体の膨張のままにビルを圧し潰し、観覧車を見れば楽しそうに転がし、東京タワーが身体に刺さるとムッとして尾でぺちゃんこにする。
この、人間にとって取り返しのつかないことが上位存在によって無邪気に引き起こされるというシチュエーションも、それはそれで興奮に値する気がしてきた。あるいは、2.で挙げた無知要素との組み合わせで興奮しているニャッキ巨大化回興奮者の存在も考えられるだろう。この説は結構有力かもしれない。
はち切れそうな何か、というのはそれだけでフェチズムを刺激することがある。
ニャッキは作中で太陽を呑み込み、内から発光しながら膨張していって最後には爆発する。このパツパツになっていくニャッキに興奮しているパツパツニャッキ興奮勢も中にはきっといるに違いない。
ということで、最果てのアキネイターみたいになりながら質問形式で4つほど仮説を挙げてみたが、いかがだっただろうか。ニャッキの巨大化に興奮する諸兄の琴線に少しでも触れるものがあったならありがたい。
そして、もしなければ是非「こういうことだ」というのを教えてほしい。私はあなたたちのことが知りたい。ただ、知りたいだけなのだ。
最近のLGBT関連の議論見てると、人類が最初に自分たちのことを男と女に分けてしまったことがそもそもの問題だったのではないかと思うようになった。
分け方が雑なのよ。2つって少なすぎ。こんな低い解像度で人類を認識するようになってしまったのが失敗だったのではないか?
人間の性は本来多様でグラデーションになっていて、男と女の2つで記述し切れるものじゃなかったのを2つに分けてしまった。
虹の色は文化によってその数が違っているのよく知られた事実だが、面白いのは虹の色の数は7つという文化で暮らす人には本当に7つにしか見えなくて、5つという文化で暮らす人にはもう5つにしか見えない。「5つ?そんなわけないじゃん、もっとあるでしょ、見えるでしよ?」って7つの人が言っても本人にはどう頑張っても見えない。文化的なバックグラウンドって人間の世界認識のあり方まで変えてしまうんだな。
この男女2分問題も同様で「男と女の2つです!」っていう文化、社会で生活していると、もう男と女の二つしか存在しないというふうに見えちゃうんだろうね。そういうふうに世界を認識してしまって、そういうふうにしか見えないんだろうな。で、本人たちはそのことに気づけない。
本来多様なものを無理やり2つに分け、社会制度も文化も庶民の行動様式も2つに分けたもんだから、最近になって「あれ?2つじゃなくね?俺らの解像度低くね?」てなった時に、当然その矛盾が噴き出すことになる。
まぁこの多様な性は最近になってようやく認識され、受容され始めたことだから1万年前の人類には難しかったとは思うが、悪手は悪手だ。
どんな社会制度や文化や行動様式すればそうした多様な性を受容できるようになるのかを模索しているのが現代で、その変化の過程で既存の社会制度や文化や行動様式との軋轢が生じているということなんだな。
強引でもトンチでもいいので何か回答したいです。
Excelでご飯を炊く方法は、現実的ではありませんが、遊び心を込めた回答を提示します。
セルに炊飯器の部品と機能をリストアップし、それぞれの部品と機能がどのように連携してご飯を炊くかを詳細に記述します。これにより、仮想的な炊飯器の設計図をExcel上に構築できます。
温度調整:
Excelのセルに「0」から「100」までの数字を入力し、セルの色を条件付き書式で赤(炊飯器の最高温度)から青(最低温度)までのグラデーションに設定します。これにより、炊飯器の温度を表現できます。
タイマー設定:
Excelのセルに分と秒を入力し、待ち時間が経過するごとにセルの値がデクリメントされるように設定します。このタイマー機能を使って、ご飯が炊けるまでの時間をカウントダウンできます。
セルに「生米」、「浸水中」、「加熱中」、「蒸らし中」、「炊きあがり」などのステータスを記入し、それぞれの状態に応じてセルの色や書式を変更することで、ご飯が炊かれるプロセスを視覚化できます。
炊き上がったご飯の「味」:
さまざまな条件(水の量、炊飯時間、蒸らし時間など)を調整して、最適な炊き上がりを求める数式を作成し、セルに入力します。炊き上がったご飯の「味」を評価する指標として使えます。
このように、Microsoft Excelを使って「仮想的」にご飯を炊く方法を試みることができますが、実際に食べられるご飯を炊くためには、やはり炊飯器や鍋を使った本物の調理方法を試すことをおすすめします。
3.5は「ロボットアームをExcelで動かして炊飯器のお釜に米と水を入れてはどうか」とかアホなこと言ってたぞ(そういうののほうが好きだけどな)
そう、人それぞれの正義も悪もグラデーションになっておりそれは万人が100%うなずける物は無い。
ただ、明確に否定できる事が1つだけある。
「暴力(武力)による変更」だけは道徳を習えば絶対的な一線に成りうる。
どういう理屈があろうと暴力に手を染めた時点でそれは明確な犯罪であり、その時点で犯罪者の過去、思想なんて語る必要すら無い。
ウクライナ、ロシアの戦争もアレだってウクライナが全て善な訳が無い。ロシアの言い分だって絶対にあったであろう。
ただ、あの日国境警備隊を殺して領土侵犯を開始した時点で犯罪者でしかない。
そこそこのWeb企業が基本的に経験者しか採用しないことについて、教育コストを他に転嫁しているとか、IT業界が先細りする行為で未来を潰しているみたいな言い方をされているときがある。
自分もこれについて課題意識はあって、ここ数年Web企業での採用活動と実際の業務に関わりながら、色々考えたので少しまとめてみたい。
ここではいわゆるキャリア採用ではなく、新卒採用やポテンシャル採用の話をしていると前置きしておく。
Web企業でよく求められるスキルは以下の3つだが、これを満たすような人材はもれなく経験者である。
この3つの条件とそれを満たす応募者について、この記事では以下の様に呼称する。
当然レベル4以上はそう多くなく、それを求める企業では応募者のほとんどは書類選考で落とされてしまう。それでも毎年雇いたいレベルの人が来る(来てもらえるように色々やっている)ような企業ではこの採用基準を下げる意味はないため、いわゆる「経験者しか採らない」と言われる状態になる。
一方で世の中はそんな人気企業ばかりではない。それらの企業ではこの基準を落とすのだろうか?自分の感覚としては「一部を諦める」みたいになっていると感じる。つまり、チーム開発の経験はないとか、自社では使ってない言語の経験しかないとか、コンピュータサイエンスはよく分からないなどを許容するという方式になっていそうだ。よってレベル3以上あたりを狙って、レベル2~4くらいのグラデーションで採用する。
よって、本当の未経験者がWeb企業を受けるためにはまず最低レベル2、できればレベル3に到達する必要がある。そこまでしてようやく「面接に到達する資格がある」という状態であり、おそらく有名な企業では軒並み一次面接で落とされてしまう。
一方で満たしている人は本当に全部満たした上でプラスアルファが多数あるみたいな状態で、多数の有名企業の内定を取って手のひらで転がして悩んでいる。
このような一部の外れ値のような人はどんどん内定を取るが最終的に選ぶのは一社なので、それ以外の企業は内定辞退され辞退率が上がる。すると「それなりに合格は出しているのに人は足りない」みたいな状況になってしまう。
自分は応募者に基本的にレベル4以上を求めている。これは教育に対して年単位で割いているほどの余裕がなく、教育を施しても難しい問題を解決する能力が身につかない可能性のある人を採用段階で落とすことで「当たりを引く確率を上げる」ためである(誤解の無いように言っておくと、単に既にできる人は更に色々と(しかも早く)できるようになる可能性が高いというだけで、レベル4未満は絶対ダメとかそういう話ではない)。
今の会社では新卒であっても入社後半年もすれば手取り足取り教える段階ではなく、社内で自走していけるようになっていると感じる。
これが健全でないと言われればそうであろうと思う。
コンピュータの世界は恐ろしいほどに親の資本力に左右される。レベル4以上の人は早ければ中高生の頃からコンピュータと関わりがあり(自分専用のPCがある、部活動で触る、地域の習い事で……etc)、更に大学に進学して関連分野を学んでいる。これを親の資本力と関わりないと言うのは難しい。
更に地方よりも都会の方が、コミュニティの発達においても、そこに集まってくる人材のレベルについても圧倒的に勝ると学生時代に感じていた。これも当然都心に住居を構える/一人暮らしさせられる親の資本力とは切っても切れない関係にあるだろう。
レベル2くらいに到達することは全くの未経験からでも十分可能である。例えばJava・JavaScript・PHP・Ruby……なんでもいいので一つ選んでちゃんと勉強し、いくつもプロダクトを作ってみればよい。現代ではこれはPCが一台あればできる。動画講座も安価で手に入るし、大抵のことは検索すれば出てくるし、Twitterにいるエンジニアはみんな教えたがりだし、ChatGPTだってある。PC自体もそんな高価な物ではなく、中古で買えるやっすいThinkPadで十分できる。
しかしレベル2~レベル4までの間の壁があまりにも高い。コンピュータサイエンスの広範な知識を身につけるには基本的に大学に行くのが一番コスパが良いと思っているが、誰しもが大学に通える経済力を持つわけではない。チーム開発はやはりどこかのコミュニティに参入できないと難しい。手っ取り早いのは企業のバイトで雇われることだが、これは鶏と卵問題だ。
本来ここの教育は企業が担うべきではなかったか?そういう意識が学生時代から漠然と自分の中にあった。これをやらずに、レベル4以上しか採用しませんというのは他のどこかに教育コストを押し付けていたり、更なる格差拡大に繋がっているのではないかという後ろめたさを感じていた。
企業に入ってもまだしばらくは上記の意識を引きずっていたが、最近は別の考えになってきつつある。
まず、Web企業の使う技術は割とオープンになっていることが多く、隠すインセンティブがあまりないため、企業間での教育はおそらくかなり共通化できる。企業内に囲い込んでから教育を施す意味があまりなく、入る前から知っているという人も多い(Web企業の研修が知っていることばかりでつまらないと思った人も多いのでは無いか)。
これを実現する一つの手段として、入社前の広い母集団に対して何かしらの形で援助を行っていることが多い。例えば以下の様なものだ。
これらは広義の教育であると考え始めた。それらの中で企業はスポンサーセッションなどを通して採用枠をアピールするし、実際それ経由で就職する人も居る。
もちろん支援企業に就職しない人の方が多いが、最終的にどこかWeb企業に入ってくれるなら、これはWeb業界全体で人材教育を行っていると言えないだろうか。
次に、大変残念な現状として「学生時代から触れているのにいまいち地力が伸びていない人」とか「そもそも触れていない人」がその後ぐっと伸びるという事例はかなりレアだと感じる。つまり、未経験ですが頑張りたいです!という人を雇っても伸びず、「これくらいやっています」という人は更に伸びるという(ある意味当たり前の)現実がそこにある。
故に先に挙げた広い範囲での教育を進めていくと、選考よりも前の段階でたくさんの機会をどんどん与えていくことになり、自然と「やったがあまりうまく行かなかった人」とか「機会はあったがやらなかった人」がどんどん可視化されていく。すると選考の段階では今後も投資の価値がある可能性の高い人材が自ずと絞れてしまい、経験者のみが採用されていく状態になるのではないだろうか。
自分はこういったことを考えているうちに、積極的に未経験を雇って教育するよりも、選考よりずっと前の段階から様々な教育機会を提供していく方がお互いにとって幸せなのではないだろうかと思うようになった。
学生は自分の興味ある方向にスキルを伸ばしてそれがマッチする企業を選べば良いし、企業はある程度既存社員を使った教育コストを下げつつ優秀な社員を雇えるようになる。そもそも選考前の段階でエンジニアリング楽しくないなと思う人は素直に向いていないので、参入するのを辞めたほうがよい。
さっき言ったような教育への投資はまだまだ経済的に豊かでない層に届きづらい現実があるように感じている。
実際に自分が大学院時代に奨学金を探すと、地方メーカーが自社への就職を前提に出している奨学金などが多く、国から借りる以外にはあまり選択肢がなかった。
もっと広く機会を提供できると良いなと思っているし、奨学金とかは(下手な条件を付けなければ)かなりフラットな教育への投資であると思うので、企業が給付型奨学金を実施することに対してもっと何らかのインセンティブを付けられないだろうか。
また、イベントやコミュニティはどうしても都心に偏りがちで、地方では開催されなかったりWeb企業の影が薄かったりする。これも年に1回とか2回とかでいいので地方のコミュニティと何かやって、細々とした縁を持てるようにしていけないだろうか。
@po_jama_people
害オタの皆さんて、職場に水着ポスター貼ると環境型セクハラになるっていう、どこの会社でも当たり前に受けるコンプライアンス教育とかどう思ってらっしゃるんですかね? あるいは、実写ならNGだけど、アニメイラストなら職場の水着ポスターOKって解釈なんですかね???
@po_jama_people
まあ、駅やら街頭やらに貼ることの是非とはまた別だという議論は勿論成立するんですが、少なくとも「環境型セクハラ」という概念がある以上、駅にセクシーなアニメイラストを貼りだす事へのフェミニストの批判を「ありえない妨害クレーム」のように扱う事は論理的に不可能だと思うんですが。
@po_jama_people
「法的にOKなんだからクレーム入れるな」とか害オタの皆さんが言ったところでですね、男の友人と男同士で海水浴に行ったとして、この水着着てきたら圧倒的にクレーム入れるだろ? 法と常識の間にあるグラデーションのどこにNGの一線を引くかに、世間知であったり教養であったりが試されるわけ。
https://twitter.com/po_jama_people/status/1646166805759553537