はてなキーワード: 課題とは
死にたいって言えば目の前に山積する問題を希死念慮にすり替えて思考停止できるから安直だよなあって思う
そうやって逃げてないで課題に一つ一つ向き合うべきなのは分かっているけれどそれには疲弊しすぎている
でも疲労なんて自覚しなければここまでメンタルに響かないので、根本的に問題なのはストレスのほうなのだろう
多分理想が高すぎて、誰もお前にそこまで期待してないし求めてないっていうところまで自分に求めているから勝手に落ち込みまくってつらくなっている、
でも貴重な資源を使って何の成果も出てませんって報告するのは気が重すぎて報告する前に5回くらい飛び降りたくなる
このままだと本当に病むからその前に辞めたいけど何の成果も出なくてつらいのでやめます!って言うのは癪だし申し訳ない、だから論文までもっていってから辞めたい、そこまで病まずにいられる自信もない
頑張って生きててえらいって自分を肯定したいけど20年以上生きててそんなふうに無邪気にいられないし、他人の金とか時間とかいろんなもの使って生きてて努力だけを評価されるような人間でありたくない
もっと頑張って胸張って生きていたいけどあまりに疲れている、いや疲れてるって言えるほど頑張ってもない、お前が怠惰なだけ
こうやって病んでるアピールしてつらいふりして怠けるのはもうやめたい
あと数か月もしたら環境が変わってマシになるかもしれないけど結局別のことに疲弊してつらいアピールし始めるのが目に見えている
金曜ワイ「はい!」
とは言ったもののやる気なくて全く手付けてないわ。
やっぱワイに転職は無理やな。
っていうか面接だけで済ませろや。
課題とか何様や。
東工大の女子枠が〜とかなんとか話題になってるけど、理系大学の中の人の1人として他の大学でもやっていったほうが良いと思っている。
昨年より工業大学で事務系の仕事をしているんだけど、女子学生が健全に学習できる環境ではないな、と思う。
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共学ではあるものの今まで男子しかいなかったところにここ数年女子も一定数入学するようになったんだけど
施設の使い方やルールが完全に男子学生しかいない前提になってるんだよな。そしてそれを頑なに改善しようとしない。
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課題のために実験室とか器具がある部屋で夜中までかかって作業してるようなんだけど、寝泊まりする部屋が一緒で男女で雑魚寝していて着替えたいときもトイレとか使うみたいなんだよね。
さすがに分けた方が良いのではないか、夜中までかかるなら一定の時間以降は空いてる教室を使わせてあげれば良いのでは、
と事務方(主に女性)や何かあってから責任追及されたくない教授陣の一部から声が上がってるし
同様の男子学生からも、もちろん女子学生からも要望は出るんだけど
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権力握ってる教授とかが「男性ばっかの環境だと分かってて入学してるんだからそれに従え、それが理系の社会だしそれが受け入れられないなら研究続けてもやってけないだろうから出て行けば良いよ」って感じ。
さすがに引いたよ。
学生集めるためにも設備やルールを改革してそこアピールしたほうがいいんじゃないですかね、と進言したことも何度かあるみたいなんだけどそれでも「変えたくない」んだよ。
今のままが教授陣にとって居心地が良いのか、何か理由をつけて「変えない」結論に結びつける。
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施設の使い方に限らないんだけど何にしても「男性社会に望んで入ってきたんだから俺たちに合わせろ」を貫く権力層がドンと上に乗っかっている環境で生活するので女子学生が
2.適応できずに精神的に追い詰められる子(1を頑張ったが無理がたたって2に移行する子もいる)
3.適応する必要なくね?と中指立てて教授に嫌われて明らかに不当に評価を下げられている子
に分かれてくる。
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こんなこと当たり前にやってたら女子学生なんか増えないだろうと思う。
リケジョ(笑)とか言ってるけど男の社会で男の領分を脅かさない程度の、手伝いにはなるけど男より優秀だと思わせない女だけが求められているんだなあ、というのを感じる。
まだ勤務し始めて1年程度の自分では何もしてやれないし、身近にうちの大学受けたいという女子高校生いたら考え直せといいたいし、
webは最新の技術を得ることが一番重要です, 既存の技術はプログラミングのバイト先のおっさんに聞くぐらいにして学びたい技術の本を読んでさっさと手を動かしましょう
法律の知識は将来フリーになったときに使えます, 授業の出席も必要ないです
税理士試験の受験資格を得ることができます, K小室みたいにNYで働くこともできます
ぴえん
なんだっけ。忘れないうちにメモ。
最近、ゴッホの絵画など芸術作品にトマトスープをかけたり、ウォーホルのアートカーに小麦粉をかけたりする気候変動対策を訴えながら過激な抗議活動が耳目を集めている。
ブクマもよくされているが、ほとんどが環境テロ、という認識で眉をひそめたコメントにあふれている。
もちろん許されない犯罪として国内外で報道されているわけだが、しかし、海外のメディアでは、テロという表現(ラベリング)は少なく、抗議団体が自称するCivil resistance(市民的抵抗)という表現を紹介していることが多い。正直、この種の活動で昔から有名なグリーンピースもそうだが、テロ呼ばわりされてもおかしくない運動ではあることは確かだが、報道はニュートラルに構えているのだろう。
そんなおり、斎藤幸平が、「ゴッホ名画にスープ投げ」を理解しないのは、日本人の想像力の欠如だ、と述べてブコメから総すかんを食らっていたのをみかけた。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/toyokeizai.net/articles/-/631285
しかしそもそも、テロという認識が日本では強いのはわかるけれど、実は欧米での反応というのはそれほど強くなく、むしろ彼らが自称するCivil resistanceへの一定の理解の上に立った報道も多く見受けられるように思える。
https://time.com/6234840/art-climate-protests-margaret-klein-salamon/
そして、よく考えると、そもそもテロまがいのデモというのは、現代の人権の歴史を振り返ると、一定程度、社会変革の不可避な副産物として、憲法などのシステムにビルトインしてきた経緯がある。典型的かつ最初の事例は、20世紀初頭の資本主義社会における労働環境を前提とした社会権。
https://artnewsjapan.com/news_criticism/article/508によると、世界的な環境活動家グループ「Extinction Rebellion」の共同創設者であり、ジャスト・ストップ・オイルの活動に加わっているサイモン・ブラムウェルは、アートニュースのインタビューで、若い活動家がこの抗議行動のスタイルを選択した理由を次のように説明する。
「これはアートの美しさを否定するのではなく、今の私たちの優先順位が絶対的におかしいということを言いたいのです。アートに美を見出し、ギャラリーを訪れる人たちがいる。にもかかわらず、消えつつある太古の森の美しさや、日々絶滅していく何百もの生物たちには目を向けないのです」
アートの美しさを否定しないといいつつ、美の概念の相対化というか、再構築といった意味では、形而上学的な禅問答である。
この説明を聞いて、素直に納得できる人の割合が多いか少ないか、という視点でみると、ヨーロッパに比べると恐らく日本人は少ないだろう。
アリストテレスの時代から愛だの美だの徳だのといったことをテーマに発展した形而上学から学問が枝分かれしてきた欧米と、近代以降のすでにたこつぼ化した個々のジャンルとして完成形をみた成果を受け取ってそれを解読して発展してきた日本では、こういう抽象的なテーマの抗議の趣旨を理解できるのは圧倒的に少ないだろうと想像できる。
これは、作品の美の価値が分かればわかるほど、スープをかける行動の意図もわかる、という構図でもあり、実際、被害を受けた美術館が環境問題の意義に言及するなどしている。作品に接したこともなく、それこそ「ウォーホル」だ、「ゴッホ」だと資産的な記号程度にしか理解していない人ほど抗議行動の意図自体を測りかね、なんじゃこの奇行は?という反応になっているようにみえる。
そういう意味では、当然、環境急進派の行動は、そもそも抗議の意図が分からない地域では成功しない(日本ではテロ以外の認識は生まれないだろうし、絶望的に無理だろう)。
しかし、欧米では、意外と功を奏しているのかもしれないと思える。感心はしないが、ああ、なるほどね、くらいの素養のある人は日本よりは多いだろう。
おおざっぱにいうと、日本人は経験から教訓を得て社会設計をしていくのが得意。いわば帰納法的な解決が染みついている。一方、欧米、ひろくラテン系言語圏含めて、日本人とは比べ物にならないほど、なにかにつけ演繹的な入り方をする。言葉の定義から始まり、指導原理を引き、タスクを明示する、という物事の進め方へのこだわりが強い(日本人の自分からみると)。
一方、構造化された概念、ルール化された行動原理(法)にのっとって行動する、という相互の信頼がないと不安なのが欧米社会。そこに、デモや過激な運動の機会に、自分たちが共有していない別の概念がオルタナティブとして提示されたときにみせる反応というのは、おのずと異なる。
そのもうひとつの理由が、市民的不服従という考え方や人々の認識の違い。
欧米では、恐らく日本人が想像している以上に、Civil resistanceというアプローチ自体の価値を社会変革のダイナミズムとして認めている。
それが今回の場合、限度を超えたものであり、法的に違法である、というときに、運動の趣旨は理解はするが違法である、という具合に飲み込みながら。
この違法性というのは、実は重要な視点。それを理解するには、市民社会を根本から支える憲法など、法について考えないとわからない。
近代から現代へ20世紀に法の考え方が近代法が大きくバージョンアップした際に、社会権が組み込まれたのは、中学生で習う話。
日本の学校では昔から、社会権を生活保護など、上から目線な形で教えてきた傾向があった。
しかし、社会権のうち、争議権を思い出してみればわかるように、実際はボトムアップな契機をはらんでいる。
他者危害禁止の近代法の原則をはみ出した形で、ストやピケなど市民的な抵抗の暴力性を認める市民権が存在する。
考えてみれば、他者に損害を与え暴力的な行動をとっていい、というのが「労働」に関してのみ例外的に憲法に組み込まれている、というのは、よくよくなぜなのか歴史を知っておく必要がある。一歩間違えれば、革命のトリガーになりかねないボトムアップの暴力。これをあえて憲法に明記するのは、明記することでコントロールしたいという、上と下のせめぎ合いのようなものも感じる。しかし、なんだったらいつでも政府がおかしければ転覆して革命をおこせるんだぜ、と市民に思わせておく、オーナーシップ感覚を絶妙なバランスで持たせる機能を果たしているともいえる。
マルクスの時代、そしてワイマール憲法の時代、社会権を育んできた思想運動や社会の歴史のなかで、当時「労働」が最重要課題で、社会権の大きな柱として考えられたのは自然な流れだっただろう。抵抗の暴力は、労働問題を争うツールであるというのが20世紀だった。しかし、抵抗の暴力は資本主義社会のなかで、たまたま労働がキーワードになっただけであって市民社会としては、労働である必然性はない。20世紀には「環境」といったテーマはシステムにビルトインされなかったわけだけど、80年代後半にブルントラント委員会が「我ら共有の未来」といって今日のSDGの原型となるコンセプトを立ち上げたときに、労使間に代わる、世代間の闘争といったことがテーマになりうることはうすうす予測がついていたように思う。
なので、抵抗の暴力が労働問題ではなく、環境をめぐる世代問題だとしても、その新たなムーブメントの市民社会における意義が注目されるのも自然な流れだ。
ここで、はい違法です、はいテロです、といってしまうのは簡単だが、思考は停止する。
一方日本では。
「労働」というキーワードで戦後、日本ははじめて市民的不服従の権利を手にした。市民社会における抵抗という考え方に「労働」というコンセプトが、時代の要請でむすびついていた、というのは押さえておくべき文脈。
しかし、その権利の過激な行使は、1950年代から60年代、大衆の心を猛烈にイラつかせた。
日本の高度経済成長を支えた大手企業は、大規模な争議に悩まされた。
民間では、1960年の三井三池炭鉱紛争など半年を超える争議も珍しくなかった。しかし、ほぼ100%ユニオンショップで、従業員全員が労働組合員という会社組織風土のなかでは、会社は家族みたいなものであり、労使一体みたいなのが当たり前であり、60年をピークに民間の争議はピークアウトする。そのなかにあって、国鉄だけは年中行事のように、順法闘争やストライキを繰り返して市民生活に甚大な影響を及ぼし、会社のみならず社会的に損害を与えた。さらにベトナム戦争反対や成田闘争など、新左翼の政治闘争が加わっていくなかで、日本人のいら立ちは頂点に達していく。
国鉄やら共産党やら新左翼にひどい目にあわされた、という日本社会のこの経験というのは、争議だなんだといっても社会に迷惑をかけてはいけない、という教訓を強く残し、憲法に組み込まれた暴力的な契機をできるだけ抑制的にするべきだ、という認識が支配的になるきっかけだったんだろう。1973年の最高裁は、それまでリベラルと保守の裁判官の間で揺れ動いていた官公労組の争議権の是非について、完全に保守化の方向に舵をきり、封殺する結論に至る。公労協のスト権奪還スト(1975年)を時代の潮目に、公社の民営化路線が進められていく。争議権だかなんだが知らないが、憲法に書いてあったとしても、市民としては正直、うんざりしてしまったというところだろう。戦後、長い間、政治闘争の旗手として大きな存在だった総評、そしてその大半を国労が占めていた時代は終わる。
ということで「労働」をキーワードにせっかく手に入れた不服従の暴力は、迷惑をかけんじゃねーという市民社会常識を繰り返し強化する経験を重ねることにより、空洞化した。
その後の日本社会では、エスタブリッシュメントと化して長い間、社会運動の先頭に走っていた労組が今度は勢いを失うと、どういうことになるか。
例えば、正規雇用、非正規雇用のギャップみたいに新たな問題が浮上してきたとしても、ユニオンショップに非正規も入れてあげたほうがいいんじゃない?、という手続き的な、上から目線的な議論の仕方に収れんしてしまう。日本社会があまりにも保守化してしまって、そもそも争議という暴力的な手法は何のために憲法というシステムに組み込まれたのか、根本的な思想がわからなくなってしまっているようにも思える。言い換えると、憲法をさらにメタな視点からとらえる思想的な背景がさらに弱くなっている。
歴史を振り返ると、20世紀初頭、メタな視点があったからこそ、資本主義社会の現状と課題に即して、社会権という新しい権利が組み込まれたのだが、現行憲法を頂点とし、人権の普遍性や憲法の最高規範性を強調してしまうと、憲法の思想の根拠はと問われたときにフリーズしてしまう。日本では制憲者の意思の議論は起こらず、代わりに基本書読め、といってなぜか憲法学者に振られるのが定番。(制憲者があいまいなのも諸悪の根源かもしれないし、ステートに対するネイションのオーナーシップの違いとも思える。)
欧米の環境運動というのは、あるいはLGBTも同様だけど、恐らくそうじゃないんだと思う。
既存の規範に書いてないものであっても、新たなムーブメントの意味を真剣に見極めようとする思想文化があるんじゃないと思える。
そのムーブメントの暴力性を違法と認識しつつも、時代のダイナミズムとしてとらえようとする、というか。
繰り返すと、
・美の概念など、概念の構想力、概念について深く考えたがる文化の違い。
・憲法など国の根本的なシステムのアップデートするのに必要な社会のダイナミズムへの関心の低さ。
この二つをひとまとめにして、斎藤幸平氏のように想像力の欠如といってしまえるのかもしれないが、因数分解すると、社会設計をするのに基本的に重要な2つの能力、この二つには欧米社会と大きく差があるように思える。
トイレの日ってなんじゃそれ、と思いますが屋外で排泄する人が何億人と居るのだそう。
あと不衛生な設備を利用してる人も何十億人もいらっしゃるのだとか。
SDGsの目標の一つらしいです。あれって17も目標があるんですね。
言うのもアレですが、一つも覚えてないです。よくないですね。
良くすることのための策なはずなのですが、なんだか形骸化して名前を聞くだけで微妙な気持ちになりますね。
まぁ何かを良くしようと思うことは大事ですね。
それを具体的に書いたら17個も出てきたってことなんでしょう。
大罪ですら7つもあるのに、現代人の課題は17個もあるだなんて
簡潔に1つだけ目標を抱くことすら、なかなか難しいことですのにね。
ということで本日は【目標の確認よいか】でいきたいと思います。
コントローラーを持ったままではプレイできない。全部ハンドジェスチャーだけど手だけ使っても上手く指揮できない。右手にペンか何かを持って初めて指揮の快感を味わえる。
Masterclassという副題の通り、最初にチュートリアル的なモードがあって、隣にイカツイ顔した初老の指導者がいて指揮の仕方を指導してくれる。全部英語で何言ってるか分からないけど課題をクリアしたら表情変わらないけど言葉でものすごい褒めてくれてるっぽい。進めてくだけでいい気分になれる。
授業を全部受けたらステージに立つわけだけど、目の前にはオーケストラ、後ろには大観衆。臨場感が凄い。観客を前に拍手が起きると思わずお辞儀をしてしまう。タクトを上げるとオーケストラが楽器を構える。スタートは指揮者のタイミングで振り下ろすと演奏が始まる。曲が終わると観客はスタンディングオベーション。気分がいい。
MetaQuest2 のAppLabで無料リリースされてるものだから実質クラシック1曲しか入ってないんだけど何度でもやりたくなる。多分正式に製品リリースされたら中身はオールジャンルで曲が入ることだろう。
Oculus Quest 2の「Maestro: The Masterclass」 | Oculus
https://www.oculus.com/experiences/quest/4813149252124417/?locale=ja_JP
https://anond.hatelabo.jp/20221117054344
この件で北村氏が本質的には謝っていないという話はまあそうだと思うのよ。北村氏に限らず、本件で謝らない(謝れない)フェミニストがいるのもそう。
なぜかというと、「①性被害の告発は基本的に証拠がない状態でなされる」うえ、「②告発を疑うことは、告発が本当だった場合にセカンドレイプにつながる」。
だから、「③性被害の告発は疑うことができない/疑うべきではない」し、「④嘘の性被害による偽の告発を初手で弾けない」んだよ。
もっと言えば、性被害は密室で行われる事が多く、証拠が少なくなりがちであるから告発の論拠が被害者の証言によるところが大きく、そのことが被害者にとって大きな負担であるから歴史的に泣き寝入りさせられがち。その為、そのような状況を改善するために、「⑤性被害の告発がしやすい状況が作られるべき」。
だから、④と⑤が組み合わさって「⑥性被害の告発が嘘である可能性が高まった場合でも、性被害の告発がしにくくなるので「謝罪」ができない」。
今起きてるのはこういうことだと解釈している。
そういう話をすると、「だから性被害の告発に乗っかるフェミニストは駄目なんだ」という話になるんだけれど、個人的にはしゃあないのかなと思ってる。たとえば、山口敬之氏や園子温氏みたいな「告発された側の対応がひどく、外から見てこいつは黒」とそこそこの強度で告発を信用できる例なんかは、やっぱり告発の味方をすべきだろうし。それができるようになったのはフェミニズムのいいところだとは思ってるので。
ただ、山口氏の「運転手やホテルスタッフの証言で警察が逮捕状発行してる」とか、園氏の「同様の告発が複数人から出ている」みたいなのは、外からみても「こらあかんやろ」って判断できる案件だったわけじゃん。それくらいなら告発に乗っかっても違和感ないのよ。でも全部が全部そうじゃないわけで、今回みたいな一件があると、フェミニストじゃない人間は基本乗っかるべきでないと思っちゃうんだよ。なぜなら、そもそも性被害の告発って「告発を信用したら、えん罪に荷担するリスクを追う」し、「告発を疑ったら、セカンドレイプに荷担するリスクを追う」んだよ。どっちを支持してもえん罪かセカンドレイプのリスク追うのって結構厳しいぜ? フェミニストの人からしたら日和見主義って言われるんだろうけど、こんなん静観一択でしょ。
フェミニストは被害者のエンパワーメントの為にえん罪のリスクを追う選択してると解釈してるが、やっぱり草津町の一件はウカツだったと思うよ。もうちょいえん罪リスクについて敏感になろうよ。
元の話題に戻るが、だから北村氏が謝罪しないのは別に一貫してるのよ。ここで謝罪しているのは「フィクションに引きつけて現実の出来事をフレーミングし批判に安直に乗っかったうかつさ」であって、「性被害の告発の味方をしたこと」は謝罪できないってことなのだと思うから。いや流石に好意的に解釈しすぎかもしれないが、自分は誰に対しても可能な限り善意を読み取っておきたい方なので。
なお、本増田は現段階においても結局ことの真偽は判断がつかないので、判断保留です。正直「草津町の性被害は嘘だった」という前提で話を進めるのもかなり危ない。司法に任せとけばいいでしょ。
「すずめの戸締り」観てきた.新海誠作品は全部観てきたけど,さすがにもういいかなと思ってしまった.
色々言いたいことはあるけど,脚本がダメ過ぎる.脚本には多くの問題があるが,一番問題なのが物語を通じて主人公に成長が無い点である.
主人公は最初から何の問題も抱えていない.何の問題も抱えていないのだから成長しようがないのである.
伯母との距離感に悩んでいたり将来への不安を抱えていたりといった,思春期特有の課題を何一つ抱えているように見えない主人公は,最初から最後まで万能感溢れる陽キャ的存在である.
このようなキャラがわざわざ旅に出て何かを達成する必要があるのだろうか?陽キャで特に欠点もなさそうな女子高生が旅に出たらそりゃ大体何やっても上手くいって当然としか思えない.
だから観ていて自分はこの主人公に好感を持てないし,主人公を応援しようとも思えなかった.
また,多くの「使えそうな設定」があるにも関わらず,ただの舞台装置として浪費してしまっている点も問題であると感じた.
主人公は過去に母親を失うという喪失を経験しており心に傷を負っているのだが,その設定が物語後半になるまで生きてこない.これは非常に勿体ない.
震災を経験したせいで将来に対して異常に悲観的になっているとか,地震や自然災害に対して人一倍敏感になってるとか,そういうフックとして使える設定なのに何故か物語前半では全く活かしきれていない.
ベタではあるがこういう分かりやすい特徴が一つでも欲しかった.そうすればそこから成長につなげる道筋が立ち,旅に出る動機が明確になるのである.
他にもせっかくうまく活かせそうな設定が沢山あるのに,殆どがただの舞台装置として消化されてしまっている.とても勿体ない.今からでも遅くないからコミカライズする時は使えそうな設定をもう一度拾い直してくれ.
琉球大学ということで思い立つけど、アファーマティブアクションでアフリカ系受験生の枠を作ってほしい。
東大もダイバーシティの危機感を上野先生の祝辞で共有したし、一足先に動いた東工大も今まさに話題になっているとこだけど、沖縄にある琉大もこの機会に抜本的なアクションを起こしたい。
沖縄にはアメリカにルーツも持つ人々も少なくなく、アメリカにならったアファーマティブアクションもすぐ取り入れられる土壌がある。
そこで琉球大学の受験の一般枠のうち、100人程度の範囲で、アフリカ系の受験生の専用枠にするのはどうだろうか。
沖縄科学技術大学院大学では世界中から様々な肌の色や性の学生が集まって多様性に富んでいるけど、琉大はまだまだ画一的。
東大と同じく、琉大も地元出身者が大半を占めるという貧弱な多様性の課題を抱えている。
しかも入学者のほとんどが日本国籍者らしく、このままでは大学院大学の方ばかり注目されて琉大が没落してしまう。
そこでまず、できることから。
アフリカ系の受験生、続いてヨーロッパ系の受験生を積極的に受け入れることで、アジア系の日本国籍者ばかりだった琉大の多様性が増強され、偏差値だけしかとりえのない画一的な大学群をごぼう抜きできる。
世論調査の専門家や有識者はもう何週間も前から、「赤い波」が押し寄せると警告していた。連邦議会でも全米各地の州知事をはじめとする公職ポストでも、赤をイメージカラーにしている共和党が圧勝し、ジョー・バイデン大統領を民主党に強烈な「ノー」をくらわせるはずだと。
しかしアメリカで8日の選挙から一夜明けてみれば、共和党が期待したその「津波」は実現しなかったことが、はっきりした。
インフレと景気。有権者にとって大事な二大テーマだが、民主党が恐れていたほど、投票への影響は深刻ではなかった。
確かにアメリカ経済の伸びは鈍化しているものの、景気はそれなりに元気だ。これが影響しているのではないかと、アナリストは見ている。確かに生活費は上昇していえるものの、経済成長も続いているし、失業率は低いままだ。
「今の経済が最高だという人はあまりいないが、職を失ってはいない。その分だけ、中絶や移民や、右派が主張する『大きなうそ』などの問題が、選挙終盤にあれだけ大きく注目されたのだと思う」と、調査会社イプソスのクリス・ジャクソン上級副社長は言う。
経済について何をどう心配するか。このことも、世論の分断を反映する。
民主党支持者は今年になって経済について前より厳しい見方をするようになったが、それでも共和党支持者や無党派層に比べれば前向きだ。優先課題の順番でいうと、民主党支持者にとっては気候変動や人種差別、人工中絶などの問題が、景気対策より優先した。
学生時代なら友達を作る、勉強する、運動する等。二十代なら金を稼ぐ手段を身につける、家庭を持つ等。三十代なら子供を育てる、身の振り方を見直す、親の生活を確認する等。
ま、しなくても生けていけるけどな。
そういう意味では、現状、理工系のブルーオーシャンを開拓する可能性が高い女性の方が、男性より高い課題解決能力のポテンシャルを秘めている、という立場に立つと思います。
そして、研究能力は互いに作用し合うので、女性のそういったポテンシャルが男性側にも良い影響を及ぼすことも十分に考えられると思います。(結果として男性側も引き上げられて差がなくなるかもしれません)
これは他の研究領域において男女逆転しても同じことが言えるでしょう。
結論としては、「男女の多様性が科学に資するかどうか」について、男女間には差異があるため、同性だけのグループよりも男女混合グループの方が科学に資する可能性があると国や大学は考えている、と思います。
「視点や価値観」の男女差が、科学的思考や課題解決能力に影響してるんであれば、それは一般的に能力差と言われるだろ?逆に、そういったポテンシャルに影響しない「視点や価値観」であれば、いくら多様であっても科学に貢献しないから、男性単独だろうが男女混合だろうが差異はないってことだろう。
最初の論点は「性別が異なっているほうがより多様性が増すかどうか」という点だったと思うので、「科学一般に女性が必要かどうか」の根拠はお話ししていない。
「科学一般に女性が必要かどうか」については、これまで理工系の女性が少ない環境の中でまだ判断できるものではなく、増やしてから検証すべき事柄だと考える。
ではなぜ判断できないのに女性を増やすべきだと考えているのか。
それは多様な背景を持った研究者同士が意見を交わしあい、それぞれの研究領域を連携・横断・融合することが次代の技術革新を生み出す、という考え方が現在の主流だからである。
例えば東工大で実施されている卓越大学院プログラムは「材料×情報」「エネルギー×情報」「量子力学×情報」などの専門領域の掛け合わせを強力に推進し、結果を出している。
この考え方を拡張し、男女の多様性においても適用できるだろうという類推のもと、このような施策が行われていると理解している。
複雑化する社会課題の多くは,個々が専門とする単一分野の知識だけでは対処することが難しくなっている。
このような考え方は現在の主流ではない、ということをお伝えしておく。
持って生まれたモノ、人生で積み上げたモノ、それをどこまで注ぎ込めるかをプレイヤーに問うことが出来ている。
いいゲームってのはプレイヤーに本気を出させちまえるかで決まると思う。
「とりあえずサッサと始めろ」
「工夫しろ」
「工夫できないなら金を出せ」
「それも無理なら情報を集めろ」
「とにかく時間や金や才能を使える限り使ってみろ」
「お前の引いた手札を組み合わせろ。お前が元々持っていた手札も使い切れ」
そういう圧が凄い。
ただそういう圧をかけてくるゲームってのは既に世の中にいくらでもあるからある程度ゲームに慣れてるプレイヤーはもう「コノジャンルはコウヤルとチョットウマクイク」の答をもう持ってる。
そこでガチャだ。
ガチャで全部グチャグチャにかき混ぜて手札を配りなおす。
正解を知っていてもその手札が自分になければ切ることは出来ない。
多くのゲームはそれを生まれ持った才能に依存させまくってくる。
格ゲーなんて最たるもので「その技の発生見てから昇龍拳出せばいいんですよ」→「動体視力が足りません」みたいな事が往々にしてある。
才能という手札があれば解決できるはずの最適解を得られない苛立ちが、結果として「自分にも出来る弱者の兵法を探す旅」の始まりとなる。
それこそが「本物の体験」なんだ。
ガチャゲーは多くのプレイヤーから最適解を奪い取っていく、「1凸以上のAに3凸以上のBを装備させたのと完凸のCと完凸のDを組み合わせてループを組めばいいんだよ」という攻略動画上がっても、多くのプレイヤーはそんなの真似できない。
低レアクリアの動画があっても大抵は「低レアだけどその代わり限界まで育成してます」というパターンだから実際には真似出来なかったりする。
そういった諸々の状況の中で、それでも自分なりに工夫して課題に挑戦できる。
似たような状況を作り出すゲームに「多人数対戦ゲーム」が存在するが、こちらは最強のカード「味方が弱かったのが悪い」でプレイヤーは「本物の体験」をする機会を自分から放棄できる。
でもガチャゲーは違う。
多くのガチャゲーは多少のギルド要素はあっても戦い自体は個人VSエネミーだ。
最終的に戦力を決定するのはどこまでも自分の手持ちだ。
「ギルドの仲間が弱いせいでレイドに負けました」ぐらいならまだしも、「イベントのボスが倒せなかったのは強いフレンドを借りられなかったからです」は流石に厳しいものがある。
そんな状況だというのに、ゲームは容赦なく「手札」を引っ掻き回してあるかないかを運任せにしてしまう。
反射神経さえあればどんなSTGでもそのうちクリア出来るプレイヤーだろうが、頭が良くてボードゲームをあっという間に理解するプレイヤーだろうが、ガチャゲーを前にすればそれらの才能を剥奪されて必死に足りない手札をやりくりさせられる。
本気になるしかないんだぞという圧が凄いんだ。
才能があることに甘えることも、ないことに甘えることも出来ない。
強いレアを持っているくせにクリア出来ないと嘆けばネットでは叩かれるし、弱いキャラしか持ってないからと嘆いても乞食は黙れと叩かれる。
この孤独さこそが「自分だけの旅」であり「本物の体験」なんだ。
ガチャゲーはその良し悪しとはまた別に「本物の体験」が出来るゲームジャンルなのは間違いないよ。
そのこと自体は称賛されるべきだ。