はてなキーワード: 臨床心理士とは
また、特定の自助グループを非難する意図も、自助グループの存在を非難する意図もありません。
先日、初めてある自助グループに参加した。
私は既婚なのだが、夫婦間での問題が実害として表れ始めたので、相談機関に相談したところ、自助グループに参加することになった。
自助グループとはどういうものかというと、なにかしらの問題を抱える人が集まり、お互いの経験や現状を話し、つらさなど気持ちを分かち合う場だ。基本的に「言いっぱなし・聞きっぱなし」、すなわち問題や気持ちを吐き出して整理する場所で、傾聴に重点がおかれた形式をとることが多い。
なぜ、傾聴が重視されるかというと、発言に対して正論で責められると吐き出すものも吐き出せず、結局そこでは安心して話せないことになるからだ。
そもそも、正論で片付けられるような状況であればそこまで困っていないというのもある。問題というのは様々なバックボーンや出来事のタイミングなど複雑な要素で成り立っているので、誰かにとっての正論が必ずしも当てはまるものではないということは確かだ。
とりあえず、誰にも言えないことを吐き出せる。そういう場所として自助グループがある。
(結論からして、具体的なアドバイスは医師やカウンセラー等、金銭的対価を払って、ある意味「職業的責任を持ってくれる」人たちに頼ることが良いかと思う。
ただ、他の人の経験を聞ける、自分も経験を話せると言う点では自助グループは有意義だとも思う。個人的な感想です。)
私もメンタルの病を持っており、医師やカウンセラーに頼りつつ、同じようにメンタルの問題がある人と繋がったり、信頼できる人を見つけて、お互いに傾聴するような関係を築いたりもしてきた。そういう前提のもと、前述の経緯で、ある自助グループに参加した。
~~~~~~~~~~~
びっくらこいた。
形式上は傾聴だ。まずミーティング的なものがあり、その際は順々に気持ちを吐露していく。これについてその場でアドバイスされることはない。
また、ミーティング中は特定の施設や団体等の名前を出すことは禁止されている。
しかしその後「ご飯行きましょ」という流れがあり、どこの病院がいいとかそういう話はミーティング後にすることになる。正直状況的には藁をも掴む思いなので、参加した。
前述の通りミーティング後の食事等でまた状況の話をするわけだが、何を話しても「それは病んでいる」「おかしい、普通じゃない」といった反応がくる。
正直病んでてもともとなのである。
自分の話になるが、物心がついたときから「死にたい」と言って暴れたり、自傷行為に走ったりしてきて、頻繁に家出もしていた。大人になってからやっとの思いでメンタルクリニックにつながり、服薬とカウンセリングでなんとか生きてきたし、今もそうだ。
親との関係がそもそも拗れていたのだが、最近になって親との関係も徐々に清算されてきた。親元はすでに離れているのだが、親も勉強したり考えたりしたようで、こちらも落ち着いて話せる環境になってきた。親には、「心配はするけど、生きたいように生きなさい」と言ってもらえて、荷が下りたような気持ちになったのが、最近のことである。
病みつつ、病んでるなりになんとかやっていっている。
そこに状況の否定が来ると、混乱する。
おかしいと言われれば、たしかにおかしいだろう。病んでいる。そんなことはわかっている。
まあ、おかしいだとか普通じゃないと否定される分には「世間的にはそうですよね」で片付けられるのだが、決定的にしんどかったことの一つが、自助グループ以外の繋がりを否定されたことだ。
前述のとおり、同じような境遇の友人がそれなりの数居り、お互い「それはつらいね」「そういうとき、私はこうしたよ」など、傾聴を重視した関係を築くことに成功したわけだが、そのことをぽろっと自助グループで話したところ「友人に話すことはあまりよくない」といったことをアドバイスされた。
また、親とも少しずつ和解しており、今では困ったことがあると相談する関係なのだが、そのこともぽろっと話したら「親に相談することも良くない」らしかった。
そして、「自助グループで話すのがいい」という流れになる。相談するなら自助グループの人にしなさいと連絡先を渡された。
友人に話すことには良くない面もある、それは理解できる。
「死にたい」「つらい」「助けて」といったことを頻繁に友人に対して言うのは、友人に心的介護を要求することになる。それは友人にとって良くないのはもちろん、自分にとっても良くない。介護する側と介護される側となると、対等な関係ではなくなるからだ。
しかし、そこは理解した上で、友人とは付き合っている。本当にどうしようもないときは、病院やカウンセリングに頼る。友人にサービスは要求しない。傾聴はするし、お互いの嬉しかったことや悲しかったことを共有こそするが、それは友人関係の範囲でのことだ。逆に、その辺りの意識が共有できない相手に相談することはない。
これは(成人して一応社会生活を送れる身としては、)友人を親に置き換えてもほぼ当てはまる。少なくとも私の状況では。
なので、病院やカウンセリングを中心に頼っている今は、友人たちとも親ともかなり良好な関係が築けていると思っている。
友人や親とは一応心配しあってはいるし、お互いの状況や気持ちを聞いて「そりゃきびしいなあ」とか「やったやん」などと言うことはあるが、それで「あれをしてあげた、これをしてあげた」ということはない。
そんな関係を、あまり詳しく話をしていない段階で否定されたことに衝撃を受けた。
また、そもそも傾聴が重視されるはずの自助グループで傾聴が機能していなかったことも衝撃だった。
夫とはクールダウン期間として別居しているのだが、事情を考慮した結果、また同居をするつもりでいる。
その旨を話すと、鬼のように止められた。
たしかに同居にはデメリットもある。心理的に距離が保てない(=自他境界が曖昧な)二人が同居すると、それはそれはトラブルが絶えない。
しかし、「自他境界が曖昧で問題が起こる」ということを自覚した上で、病院やカウンセラーを頼りつつ落としどころを見つけていく、ということはそんなにまずいことなのだろうか。
実際、別居のメリットも十分感じた。
最初はお互い(別居に対する)抵抗感があったが、一回離れてみると見えてくることはたくさんある。自分の生活を律するのは最終的に自分だということ、金銭的にお互いを頼ることはなるべく避けた方が良いこと、べったりと一緒にいなくても生きていけること、たくさん気づくことがあった。
でもその上で、仕事場へのアクセスや金銭的事情、また単純に「適度に自他境界をつくり、一緒にいる楽しさに目を向けられる関係を目指したい」という点で、つまり試行錯誤をするというプロセス上、とりあえず同居してみてもいいのではないかと思っている。
トラブルがあれば、その都度カウンセリングや医療機関を頼る、また一時的に親族の元に身を寄せることもできる体制を構築した。これが保険となり、同居を前向きに考えられるようになった。
細々(こまごま)とした事情を自分の中の天秤にかけた結果が「同居」なのだが、それは自助グループ的にはあり得ない様子なのである。
これがまた結構な人数で説得される。そうなると場としては同調せざるを得なくなってしまい、「確かにそうですね…」と言ってしまった。
そのことがまあまあなダメージで、自助グループに行く度に「同居絶対ダメ」と説得されるのだが、そのあと1~2日はもやもやして寝込んだり泣いたりしてしまった。
もともとメンタルの病で意志薄弱なところがあるのだが、私のことは私で決める、ということが少しずつ出来るようになってきたところだ。
そこに大人数の説得が来て、かなり混乱した。もしバックボーンが違えども混乱するのではないか、と思う。
また付け加えると、ミーティング中の発言に関しても多少の突っ込みを受けた。これでは「言いっぱなし聞きっぱなし」の意味がなく、傾聴とは言えないのではないだろうか。もやもや、もやもや…
~~~~~~~~~~
その自助グループに参加してから、混乱したり寝込んだり涙したりしていたわけだが、その自助グループで「確かにそうですよね」等と言っていると、どんどん自助グループへの関与を勧められる。毎日どこかしらでやっているので、ほぼ無限に勧めることが可能なのだ。
それで、その場の流れで「では、~曜日は~でやっている会に参加します」などと言ってしまった(本当は、要らないことは言わなければいいので、ここは私の落ち度と思う。)。
その場では参加する宣言をしたわけだが、私の場合、しんどさは大体翌日~翌々日にやってくるので、その場は平気でも後々「あんなことを言ってしまったが、行かなければならないのか…死にたい…」という状態になる。
行く宣言をした自助グループの会を翌々日に控え、「死にた~い…」となっていたとき、前からかかっているカウンセラーの顔が浮かび、カウンセリングで相談したらいいのではないかと考えた。
ここ数ヵ月希死念慮は無かったのに、こんなに死にたいのはまずい状況だ。しかし意志薄弱傾向もあって、「自分で決められない、誰かに相談しないと落ち着かない…誰か背中を押してくれ…でも友達にも親にも話すのはやめた方がいいって言われたし…」等と、くどくど考えていたが、最終的に友人が背中を押してくれたので、すぐカウンセリングに行くことにした。
カウンセラーにつらさを話すと、まずつらさを肯定してくれた。もうこの時点で涙が出るほど安心した。
一通り打ち明けたところ、自助グループの役割や傾聴の意義について説明を受けた。また、傾聴が徹底されている自助グループもたくさんあり、自助グループが全部私の経験したような場所ではないことも教えてくれた。
心の底から、「このカウンセラーさんと繋がっていて良かった…」と思った。
結局、しんどかった自助グループとは距離を置くことにした。今は、カウンセラー、医師と相談しつつ生活を建て直し、また傾聴が機能している他の自助グループに参加してみる方向で動いている。
何故この文章を書いたかというと、「自助グループ しんどい」で検索すると、「自助グループに行きたくないというのは偏見があったり、病識がないからだ」「とりあえず継続して行った方がいい」といった記事が出てくるからだ。
その自助グループや、自助グループというもの自体を否定する気持ちは全く無い。実際、それで助かっている人はたくさんいるからだ。継続して色々な場所の会に通えば、どこかしらで自分と合った環境が見つかることも考えられる。吐き出せる場所が見つかれば、問題を抱えた人にとっては大きな助けになる。
私も、「それはそう、でも私はこうする」という切り分けができれば、多分その(しんどかった)自助グループに通っていたと思う。また、そこはしんどくても、同じグループの他の会を探すとか、しんどくてもご飯の流れだけは断って自衛するとか、そういう手もあった。
でも、傾聴があまりよく機能していない自助グループに、病気持ちで意志薄弱の傾向がある人が行くと、調子を崩すこともある。
場の流れを崩す恐怖が強くて、うまく自衛ができない人もいる。
その場合は、カウンセラーや医師に相談してみてほしい。自助グループは、死にたくなってまで行くものではないと思う。また、そこまで病的に意志薄弱(または意志があってもそれを伝えるのが苦手)なのであれば、まず医療機関等を頼るのが最優先だ。
それに、自助グループはたくさんあるので、「ここしかない」ということもない。その点でも、医師やカウンセラーと相談して、安心して話せる自助グループを探してみてほしい。
(カウンセラーについても、無資格のカウンセラーはたくさんいますが、臨床心理士さんのいるカウンセリングルームの方が安定感があるのでおすすめします。ライフハック。
臨床心理士さんが居る相談機関を探せるホームページがあるので、リンクを張っておきます。
また、特定の自助グループを非難する意図も、自助グループの存在を非難する意図もありません。
先日、初めてある自助グループに参加した。
私は既婚なのだが、夫婦間での問題が実害として表れ始めたので、相談機関に相談したところ、自助グループに参加することになった。
なにかしらの問題を抱える人が集まり、お互いの経験や現状を話し、つらさなど気持ちを分かち合う場だ。基本的に「言いっぱなし・聞きっぱなし」、すなわち問題や気持ちを吐き出して整理する場所で、傾聴に重点がおかれた形式をとることが多い。
なぜ、傾聴が重視されるかというと、発言に対して正論で責められると吐き出すものも吐き出せず、結局そこでは安心して話せないことになるからだ。
そもそも、正論で片付けられるような状況であればそこまで困っていないというのもある。問題というのは様々なバックボーンや出来事のタイミングなど複雑な要素で成り立っているので、誰かにとっての正論が必ずしも当てはまるものではないということは確かだ。
とりあえず、誰にも言えないことを吐き出せる。そういう場所として自助グループがある。
具体的なアドバイスは医師やカウンセラー等、金銭的対価を払って、ある意味「職業的責任を持ってくれる」人たちに頼ることが良いかと思われる。(個人的感想です。)
私もメンタルの病を持っており、医師やカウンセラーに頼りつつ、同じようにメンタルの問題がある人と繋がったり、信頼できる人を見つけて、お互いに傾聴するような関係を築いたりもしてきた。そういう前提のもと、前述の経緯で、ある自助グループに参加した。
~~~~~~~~~~~
びっくらこいた。
形式上は傾聴だ。まずミーティング的なものがあり、その際は順々に気持ちを吐露していく。これについてその場でアドバイスされることはない。
また、ミーティング中は特定の施設や団体等の名前を出すことは禁止されている。
しかしその後「ご飯行きましょ」という流れがあり、どこの病院がいいとかそういう話はミーティング後にすることになる。正直状況的には藁をも掴む思いなので、参加した。
①全体的に否定される
前述の通りミーティング後の食事等でまた状況の話をするわけだが、何を話しても「それは病んでいる」「おかしい、普通じゃない」といった反応がくる。
正直病んでてもともとなのである。
自分の話になるが、物心がついたときから「死にたい」と言って暴れたり、自傷行為に走ったりしてきて、頻繁に家出もしていた。大人になってからやっとの思いでメンタルクリニックにつながり、服薬とカウンセリングでなんとか生きてきたし、今もそうだ。
親との関係がそもそも拗れていたのだが、最近になって親との関係も徐々に清算されてきた。親元はすでに離れているのだが、親も勉強したり考えたりしたようで、こちらも落ち着いて話せる環境になってきた。親には、「心配はするけど、生きたいように生きなさい」と言ってもらえて、荷が下りたような気持ちになったのが、最近のことである。
病みつつ、病んでるなりになんとかやっていっている。
そこに状況の否定が来ると、混乱する。
おかしいと言われれば、たしかにおかしいだろう。病んでいる。そんなことはわかっている。
②繋がりを否定される
まあ、おかしいだとか普通じゃないと否定される分には「世間的にはそうですよね」で片付けられるのだが、決定的にしんどかったことの一つは、自助グループ以外の繋がりを否定されたことだ。
前述のとおり、同じような境遇の友人がそれなりの数居り、お互い「それはつらいね」「そういうとき、私はこうしたよ」など、傾聴を重視した関係を築くことに成功したわけだが、そのことをぽろっと自助グループで話したところ「友人に話すことはあまりよくない」といったことをアドバイスされた。
また、親とも少しずつ和解しており、今では困ったことがあると相談する関係なのだが、そのこともぽろっと話したら「親に相談することも良くない」らしかった。
そして、「自助グループで話すのがいい」という流れになる。相談するなら自助グループの人にしなさいと連絡先を渡された。
友人に話すことには良くない面もある、それは理解できる。
「死にたい」「つらい」「助けて」といったことを頻繁に友人に対して言うのは、友人に心的介護を要求することになる。それは友人にとって良くないのはもちろん、自分にとっても良くない。介護する側と介護される側となると、対等な関係ではなくなるからだ。
しかし、そこは理解した上で、友人とは付き合っている。本当にどうしようもないときは、病院やカウンセリングに頼る。友人にサービスは要求しない。嬉しかったことや悲しかったことを共有こそするが、それは友人関係の範囲でのことだ。逆に、その辺りの意識が共有できない相手に相談することはない。
友人たちとはかなり良好な関係が築けていると思っている。そこを、あまり詳しく話をしていない段階で否定されたことに衝撃を受けた。(今思うとあまり詳しく話をしていない状況だったから否定されたのかもしれない。)
③傾聴が機能していない
また、そもそも傾聴が重視されるはずの自助グループで傾聴が機能していなかったことも衝撃だった。
夫とはクールダウン期間として別居しているのだが、事情を考慮した結果、また同居をするつもりでいる。
その旨を話すと、鬼のように止められた。
たしかに同居にはデメリットもある。心理的に距離が保てない(=自他境界が曖昧な)二人が同居するとそれはそれはトラブルが絶えない。
しかし、「自他境界が曖昧で問題が起こる」ということを自覚した上で、病院やカウンセラーを頼りつつ落としどころを見つけていく、ということはそんなにまずいことなのだろうか。
実際、別居のメリットも十分感じた。
最初はお互い(別居に対する)抵抗感があったが、一回離れてみると見えてくることはたくさんある。自分の生活を律するのは最終的に自分だということ、金銭的にお互いを頼ることはなるべく避けた方が良いこと、べったりと一緒にいなくても生きていけること、たくさん気づくことがあった。
でもその上で、仕事場へのアクセスや金銭的事情、また単純に「適度に自他境界をつくり、一緒にいる楽しさに目を向けられる関係を目指したい」という点で、つまり試行錯誤をするというプロセス上、とりあえず同居してみてもいいのではないかと思っている。
トラブルがあれば、その都度カウンセリングや医療機関を頼る、また一時的に親族の元に身を寄せることもできる体制を構築した。これが保険となり、同居を前向きに考えられるようになった。
細々(こまごま)とした事情を自分の中の天秤にかけた結果が「同居」なのだが、それは自助グループ的にはあり得ない様子なのである。
これがまた結構な人数で説得される。そうなると場としては同調せざるを得なくなってしまい、「確かにそうですね…」と言ってしまった。
これがまあまあなダメージで、自助グループに行く度に「同居絶対ダメ」と説得されるのだが、そのあと1~2日はもやもやして寝込んだり泣いたりしてしまった。
もともとメンタルの病で意志薄弱なところがあるのだが、私のことは私で決める、ということが少しずつ出来るようになってきたところだ。
そこに大人数の説得が来て、かなり混乱した。もしバックボーンが違えども混乱するのではないか、と思う。
また付け加えると、ミーティング中の発言に関しても多少の突っ込みを受けた。これでは「言いっぱなし聞きっぱなし」の意味がなく、傾聴とは言えないのではないだろうか。もやもや、もやもや…
~~~~~~~~~~
それで混乱したり寝込んだり涙したりしていたわけだが、その自助グループで「確かにそうですよね」等と言っていると、どんどん自助グループへの関与を勧められる。毎日どこかしらでやっているので、ほぼ無限に勧めることが可能なのだ。
それで、その場の流れで「では、~曜日は~でやっている会に参加します」などと言ってしまった(本当は、要らないことは言わなければいいので、ここは私の落ち度と思う。)。
それで参加する宣言をしたわけだが、私の場合、しんどさは大体翌日~翌々日にやってくるので、その場は平気でも後々「あんなことを言ってしまったが、行かなければならないのか…死にたい…」という状態になる。
行く宣言をした自助グループの会を翌々日に控え、「死にた~い…」となっていたとき、前からかかっているカウンセラーの顔が浮かび、カウンセリングで相談したらいいのではないかと考えた。
ここ数ヵ月希死念慮は無かったのに、こんなに死にたいのはまずい状況だ。しかし意志薄弱傾向もあって、「自分で決められない、誰かに相談しないと落ち着かない…誰か背中を押してくれ…でも友達にも親にも話すのはやめた方がいいって言われたし…」等と、くどくど考えていたが、最終的に友人が背中を押してくれたので、すぐカウンセリングに行くことにした。
カウンセラーにつらさを話すと、まずつらさを肯定してくれた。もうこの時点で涙が出るほど安心した。
一通り打ち明けたところ、自助グループの役割や傾聴の意義について説明を受けた。また、傾聴が徹底されている自助グループもたくさんあり、自助グループが全部私の経験したような場所ではないことも教えてくれた。
心の底から、「このカウンセラーさんと繋がっていて良かった…」と思った。
結局、しんどかった自助グループとは距離を置くことにした。今は、カウンセラー、医師と相談しつつ生活を建て直し、また傾聴が機能している他の自助グループに参加してみる方向で動いている。
何故この文章を書いたかというと、「自助グループ しんどい」で検索すると、「自助グループに行きたくないというのは偏見があったり、病識がないからだ」「とりあえず継続して行った方がいい」といった記事が出てくるからだ。
その自助グループや、自助グループというもの自体を否定する気持ちは全く無い。実際、それで助かっている人はたくさんいるからだ。継続して色々な場所の会に通えば、どこかしらで自分と合った環境が見つかることも考えられる。吐き出せる場所が見つかれば、問題を抱えた人にとっては大きな助けになる。
私も、「それはそう、でも私はこうする」という切り分けができれば、多分その(しんどかった)自助グループに通っていたと思う。また、そこはしんどくても、同じグループの他の会を探すとか、しんどくてもご飯の流れだけは断って自衛するとか、そういう手もあった。
でも、傾聴があまりよく機能していない自助グループに、病気持ちで意志薄弱の傾向がある人が行くと、調子を崩すこともある。
場の流れを崩す恐怖が強くて、うまく自衛ができない人もいる。
その場合は、カウンセラーや医師に相談してみてほしい。自助グループは、死にたくなってまで行くものではないと思う。また、そこまで病的に意志薄弱(または意志があってもそれを伝えるのが苦手)なのであれば、まず医療機関等を頼るのが最優先かと考えている。
あと、自助グループはたくさんあるので、「ここしかない」ということもない。その点も、医師やカウンセラーと相談して探してみてほしい。
(カウンセラーについても、無資格のカウンセラーはたくさんいますが、臨床心理士さんのいるカウンセリングルームの方が安定感があるのでおすすめします。ライフハック。
臨床心理士さんが居る相談機関を探せるホームページがあるので、リンクを張っておきます。
今までカウンセリングを10人以上から受けてきた俺の経験から言うと、
保険適用ではない一般のカウンセラーは自分の意見を言うことが多い。
50分5000円だと保険適用外かなと思うので、そのタイプかなと思う。
なぜ自分の意見を言わず傾聴するかというと、問題は相談者本人が解決すべきという理念があるから。
でも、資格持っててもちょっとそれはどうなの?という人もいる。
俺は「あなたってチョウチンアンコウみたいな人ね。孤独で寂しく深海に沈んでるような」
って言われた。これは流石にカウンセラーとしていっちゃダメだろうって思ったよ。
だから、カウンセラーだからといって上に持ち上げることはなく、
変だと思ったら気にせずカウンセラーを変えたらいいと思うよ。
子供のことでいろいろと気になったので3歳児検診の時にいろいろと心理士に相談したら、そのまま継続観察みたいになって定期的に面談したことがある。
1年くらいやってみて、心理士の思い込みを押し付けられるだけで全然役に立たなかったなとふとこの増田を読んで思い出した。
役に立たないというより、いちいち的外れなブコメを突っ込んでくるのがむしろストレスだった。
障碍者支援センターで話を聞いたり、災害ボランティアの話を聞いたりとかほかにもいろいろと聞いて、自分なりに試した方法がうまくいったのを思い出す。
最近、クライアント中心カウンセリングなどを知って、臨床心理士が残念な奴だったのかと理解した。
自分の体験で解決策をむやみに提案するような奴って人の話を聞かないし、自分の想像もつかないような状況について聞かれたら黙るしかないんだよな。
カウンセラーもコーチも聞き上手で、自分のことはまず話さないし、意見を求められない限りブコメしないものらしいが、増田も俺も変な奴につかまったなと思った。
以前、知人が「いのちの電話」の相談員をやっていて、内部事情を多少聞く機会があった。「いのちの電話」の相談員が無償どころか持ち出しのボランティアで、それが可能な主婦とか年金生活者とかが多数を占めるというのはその通り。それゆえに相談員側に世間知らず的な傾向があり、来談者との感覚のずれが生じやすいというのもそうだろうと思う。その知人も私から見てそういうところはあり、真面目で善意の人ではあるのだが、そのずれによって無自覚に相手を刺激していた可能性はある。
しかし補足しておくと、「いのちの電話」の研修は臨床心理学のプロが基本的なカウンセリング技術をかなりみっちり教えていていて、真面目にそれを守っている限りさほど無茶な対応をする相談員にはならないように思えた。「一方的に説教」というようなのは当然やってはいけないこととして教えられている。知人は慣れないうちはとにかく相槌だけ打って聴き続けろと教えられたそうだ。「○○なんです」と言われれば、「○○なんですね」と返すようなのが基本。自分の意見を押しつけるような応答は禁じられている。とはいえ、相談員も慣れてくると自我が出てきたり、後に書くような来談者側の問題もあって、相手に圧力を感じさせるような応答をする場合もあるだろう。
医師やカウンセラーでもそうだが、こういう人間がやることにはどうしても当たり外れや相性の問題がある。「いのちの電話」のボランティアが無償であるべきかにはいろいろ意見があるだろうが、有償にすることで相談員の質及び来談者の満足度が飛躍的に上がるかは個人的には疑問である。有償で高度な資格を持つはずの医師や臨床心理士にも「ひどい対応をされた」という不満の声はよく聞くからだ。
で、ここからが本題なのだが、「いのちの電話」と聞いて相談員は自殺相談の深刻な電話ばかり受けていると思うのはどうも違うらしいよ、ということ。「いのちの電話」の回線がいつもつながらないというのも、自殺相談で埋まっているわけでは全くないらしい。
では何が多いかというと、知人が言っていたのは、女性の声と聞くと「テレフォンセックス」を始めたがる常連。最初は一応「死にたいんです」などと言ったりするらしいが、間もなく「ところでどんな下着を着ていらっしゃいますか」「パンツは何色でしょうか」などと言いだす。この手の電話は非常に多いそうで、相談員側にもマニュアル的なものがあってなるべく早く切り上げるよう誘導するのだが、相談員の側からガチャ切りするわけにもいかないのでしばらくは付き合わざるを得ないようだ。
女性とみると性的な話を始める常連来談者というのは「いのちの電話」に限らずよくいるらしい。別の電話相談を受けていた別の知人も「あー、いるいる」と言っていた。企業のコールセンターで働いていたりしても経験するのだろう。ちなみにそういう常連は男性の声と判断すると一瞬で切ることが多いが、そもそも電話相談員やコールセンター係に女性が多いので、何度かかけ直せばすぐ女性が出てしまう。
知人が頻繁に相談員をしていた頃はダイヤルQ2というものが流行っていたのだが、その頃の常連の一人はダイヤルQ2でいつも生活費を使い果たしてしまうので、家族から「いのちの電話ならタダだからそっちにかけろ」(!)と言い含められていたそうだ。「いのちの電話」は確かに無料で、通常の電話料金すらいらない。
こういう事例は生活困窮者を「いのちの電話」が間接的に救っていると言えなくもないのだが、外部の人がイメージする「自殺防止のボランティア」とは少し違うのではないだろうか。相談員には守秘義務があるので具体的な相談内容はほとんど聞いたことがないが、典型的ないかにも自殺相談というようなものは頻度としてはかなり低いとのことだった。しかし、一見ただの愚痴であったり、さらにはセクハラであったりするような内容の電話でも、「いのちの電話」に吐き出すことでバランスを保っている人が一定数いるのであれば、それは「いのちの電話」の目的に適っているようにも思う。
「いのちの電話」の相談員はさぞメンタルをやられるだろうと言う時、今にも死にそうな人からの自殺相談を想像している人が多いだろう。しかし実際の現場はそのイメージとはかなり違って、メンタルをやられるとすれば常連のしつこいセクハラやひたすら堂々巡りする愚痴に付き合い続ける消耗が大きいかもしれない、というのが知人から断片的に事情を聞いての感想だった。
https://anond.hatelabo.jp/20200410224728
前職の年収が340万円、障害者雇用になるにあたり、呈示額を320万円として、
だいたい残業時間が月20時間だと聞いていたから残業代でカバーできるかと思っていたら、
実際は配慮されまくりの業務量で残業がほぼなく、また、一般雇用のように役職がついて年収が上がる見込みも少ないっぽいので、障害厚生年金を申請した。
社労士なしの申し込みでうつなどの二次障害なしのADHDは、申請が受理されにくいというのが定説だが、
増田は無事支給につながったので、ここに増田なりに気をつけたポイントを記しておく。
障害厚生年金の申請時には診断書が必要となるが、そこで、障害認定日ごろの状況を医師に詳しく書いてもらう必要がある。
丁寧な医師であれば、診断書の記入にあたり別途ヒアリングをしてくれるかもしれないが、そこまで時間を取ってくれる人は稀かと思うので、
普段の診察で困りごとを言語化して伝え、カルテにそれを記載しておいてもらうことが重要だと思われる。
A3の用紙に手書きする形で提出したが、ADHDの場合は急になるものではなく、生まれつきの脳機能の問題であるため、幼少期からの履歴が必要である。
めちゃくちゃ面倒くさかったが、受給につながるために手を抜いてはいけないとおもい、
・幼少期
・小学校
・中学校
・高校
・大学
・就職後
の7つのパートにわけて、ADHDによって起きた様々なエピソードを列挙した。
パートを分けるにあたって用紙が足りなかったため、申立書(続紙)を使用した。
もし親との関係が良好な人は、自身の幼少期に何か定型発達児と比べて変わったところがなかったか尋ねたり、当時の成績表などを見せてもらうとよいかもしれない。
・大学下宿時にダンボールのゴミを出せずベランダに退去するまで放置していたこと
・仕事によるストレスによりポスティングされたチラシを捨てられずためていたこと
などがある。
また、上記の申立書に加えてA4の別紙をWordで作成・印刷し添付した。
ここには、日常生活で困っていることを列挙した。
・初めて行くお店や場所で勝手がわからず、会計の順番を抜かしてしまうことがあること
・買ったばかりの数万円する靴を電車の座席の下に忘れてきてしまったこと
・口頭で言われたことを覚えていることが難しいため、事務職に必須とされる電話対応が苦手なこと
診断される際にWAISなどの心理検査を受ける人も多いと思うが、増田の場合は簡単なチェックシートに加え、日常の困りごとを訴えた結果診断に至ったため、心理検査を受けたことがなかった。
ただ、障害厚生年金の診断書を書くに当たって医師より心理検査が必要とのことだったので、違う医療機関にてWAIS-Ⅳを受けることになった。
検査は数時間で有給休暇を取って臨む必要があったが、いざ出てきた検査結果や臨床心理士のコメントを読むと、
より自分の発達特性が俯瞰的に見られるようになったため、これは障害厚生年金の申請の有無関係なしに受けてよかったなと感じた。
上記のような準備を行い、申請から2ヶ月後に無事支給決定の連絡が来た。
社労士に頼むお金は勿体無いけれど、ADHDだけでは通らないときいているし……と不安な方も、増田のような例があると知って勇気を出してみてほしい。
現代日本のフェミニズムは、傷ついた人間が慰め合うセラピーの看板のような機能を持っていると言える。
弱者が慰め合える駆け込み寺、いわばフェミニス堂があること自体は良いことだ。
エンパワメントやシスターフッドという自己肯定を重視した精神的な言葉が最近人気なのもその一環かもしれないし、そこまで前向きな気持ちになれないからとにかく苦しみや怒りを吐き出させてくれという層だって駆け込み寺には居場所がある。
だが、「セラピーとしてのフェミニズム」と「学問や言論としてのフェミニズム」が分離されていないために、言論としてのフェミニズムの信頼度が著しく弱まっている。
セラピー面も学問言論面もひと固まりだから、フェミニストはメンヘラだとか、他人の幸せを許せないだとか、ミサンドリストでセックスヘイターのジェンダークレーマーだとかの批判に繋がってしまっているのだろう。
私自身も精神疾患持ちなので、精神が弱っていることを批判する気はないのだが、セラピー的な語り合いと、学問的討論がごっちゃになっている状況は大いに問題視している。
(追記:↑ここで私の精神疾患に言及したのは、私も議論の場で当事者性を武器として使おうという態度でよくなかった。反省する。)
本稿で主張するのは、「冷静な研究者としての立場」と「傷つき怒れる当事者としての立場」は、兼任すると問題が生まれるのでどちらか片方だけの立場に立つべきだ、ということだ。
たとえ学位や免許を持っていても、冷静になれない話題については傷が治っていない当事者だから、理論と議論を使いこなせる研究者ではなくあくまで苦しむ当事者個人として発言した方が良い。
本論前に、何がOKで何がNGかおおざっぱに切り分けておこう。
フェミニズムという看板のもとに、傷ついた人々が集い、辛さや怒りを語り合い共感しあい心を癒そうとする様子は、当事者会に近い。
当事者会自体は、様々な依存症や障害、事故被害者などについて行われており、有用なセラピーと言っていい。
だが「セラピーとしてのフェミニズム」の問題は、当事者会で癒される患者と、当事者会を監督したり理論を語る研究者がかなり重なってしまってるということだ。
要するに、当事者として治療を受けるべき傷を抱えたままの人間が、セラピスト役と教師役もやってしまっているという問題が、「セラピーとしてのフェミニズム」にはある。
だが、SNSのそこら中で行われている「セラピーとしてのフェミニズム」当事者会の多さに比べて、監督できる冷静な研究者は全く足りていない。
普通の当事者会やセラピーは、福祉や医療や心理の専門家によって研究と理論化がされ、社会に対して有用性が主張され、会の時にはその場にいて見守ったりもするはずだ。
傷ついた当事者たちの語りは、しばしば自己中心的だったり理屈が通ってなかったり乱暴だったりするが、それは回復に必要な心の解放だ。
それがそのまま社会への要求として世の中に出されたりはしないので、当事者会で語ったことが間違ってるなんて責任を問われることもない。
客観的な専門家が当事者たちの感情吐露を分析して理論化した上で、必要な部分は社会に訴えるようになっている。
だから、普通の健全な当事者会セラピーは、傷ついている当事者が冷静さを求められたりはしないし、当事者がヤバいことを主張していても研究者の評価が下がることもない。研究者が監督しているから当事者同士の会話が先鋭化するエコーチェンバーも防げる。当事者の要求は研究者が整理したうえで一般社会に伝えるので、外部の一般人が当事者の過激すぎる主張を直に聞かされて悪感情を持つこともない。
全てが完全に徹底されているわけではないが、それでも、当事者会セラピーで語り合う患者とそれを監督する研究者の間に線が引かれていることで、ある程度は弊害の抑制ができている。
しかし、「セラピーとしてのフェミニズム」では、患者、監督者、研究者の区切りが曖昧になりやすいので、普通の当事者会セラピーでは減らせる弊害がモロに発生しているのだろう。
たとえばフェミニストが「トーンポリシングはやめろ」と主張したことに対し、「議論や説得において言い方ってのは大事だろ」と反論されているのをよく見るが、あれも、内輪の癒しセラピー的な感覚と対外交渉議論の感覚がごちゃまぜになっているせいだ。
「私はいま苦しすぎて言葉を選んでいられないのでセラピー患者として気持ちをぶちまけてるんだからトーンポリシング(言い方警察)するな」、という話なら真っ当である。
「私は冷静を保ち、言い方や内容にしっかり気を使うから、議論として発言を真面目に聞いてくれ」、というのも真っ当である。
だがそれを同時にやろうとする、「自分はセラピー的に感情をぶちまけるが聴衆は真面目に聞いてくれ」というのは無法な要求だ。
せめて、セラピーを監督する冷静な研究者に向かってぶちまけて、その研究者が理屈の通らないところを補助し冷静な言い方に直して議論の場に持っていくという形にしなければいけない。
なのにフェミニズム議論では、何もかも一緒くたになりがちである。
臨床心理士やカウンセラーや看護師助産師になりたがる人間はしばしば自分が精神不安定を抱えているというのは、統計はともかく実体験としてはよく聞く話である。
博物学系でも、たとえば動物学者はだいたい動物好きで、心情的には動物を保護したがるだろう。
だが、そこは資格団体ががんばってたり教育だったりで、臨床心理士や精神保健福祉士はある程度の信用をしてもいいだろうとなっているし、動物学者も後先考えない動物愛護活動をする人は目立ってないわけだ。
むしろ、愛護派の過激な主張の角を取って一般社会的に可能な動物保護のやり方を訴えたりしていて、それはまさに、感情的になりがちな当事者の語りを、研究者が自分のところで一度止めて丸めて社会に伝える、当事者会に対する医療や福祉関係者の立場と近い。
だから、臨床心理士や動物学者などの学問的信用はまあ保たれている。
ところがフェミニズムや一部社会学は、理論家や研究者が、傷ついた当事者と同一人物だったり肩入れしすぎたりするせいで、冷静な監督者のいないまま野良セラピー的な語りあいを続け、当事者の悲痛な心情吐露ではあるがそのまま社会に要求するには妥当性に欠ける内容が研究者の学問的立場から主張されてしまっている。
フェミニストはメンヘラだとか他人の幸せを許せないだとかミサンドリストでセックスヘイターだとか言われてしまうのはこのせいだ。
それにもかかわらずフェミニズムの大義名分が世界中で力を持ち、フェミニストの要求の内容を精査して妥当性が十分な時だけ応じますという態度は悪だと指弾されるのが、本当に良くない。
ここで断言しておくが、メンヘラも、他人の幸せを許せない人も、ミサンドリストもミソジニストも、セックスヘイターも、楽しく生きてよいし好きに発言してよい。当事者会で同病相憐れむのだって、傷ついた人間には大切だと思う。
過激な思想やトラウマは緩んだ方がいいとは思うが、それもあまりに大きな加害に繋がらないのであれば自由だ。
ただし、その好き勝手な発言暴言はあくまで傷つき冷静さを欠いた人の胡乱な言動として生暖かく聞き流されている方が、周囲にとっても当人にとってもよいはずだ。
弱者の声は社会から無視されるべきではないが、そのままでは妥当性が低いので、客観的な研究者が集積して適度に理論化と穏健化した上で世の中に訴えるべきだろう。
フェミニズムが、弱者に肩入れしようとするあまり病んだ当事者発言をそのまま重用したり、著名な研究者が「冷静さを保つために私の当事者としての感情を一時的に抑えよう」という努力をおろそかにしているのは、誰にとっても不幸である。
辛すぎて悲鳴を上げざるをえない当事者と、冷静で他者と対話可能な研究者の弁別は、完璧でなくとも努力する価値がある。できたぶんだけ弊害が減るはずだ。
一つ、わかりやすい事例を挙げる。
フェミニズムやジェンダー学周辺で、セラピー的機能と学問・言論的機能が混在することの弊害を私がはっきり感じたのは、朝日新聞運営の『かがみよかがみ』である。
『かがみよかがみ』は読者投稿エッセイをメインコンテンツとするWebサイトだ。
「私のコンプレックスを私のアドバンテージにする」とか「私は変わらない、社会を変える」とかをコンセプトにして、女性の自己肯定感の爆上げを目指すメディアであることを謳い続けている。
18~29歳の女性からのエッセイを募集して、編集部がチェックして載せている。著名人や契約コラムニストの連載もある。
そして投稿者を「かがみすと」と呼び運営ボランティアを「ミラリスト」と呼んで連帯感を出し、若い女性同士で肯定しあえるコミュニティを作ることも意図しているようである。(かがみすとは今もしっかり使われているが、ミラリストはTwitterで検索してもほぼ出てこないので今も使われてるかは外部からは謎)
二年くらい前に数回燃えたが、扱っている内容の割にはてはで話題になる回数は少ない気がする。はてなとは読者層が違うのだろう。
上野千鶴子さんに質問「ベッドの上では男が求める女を演じてしまう」 | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/12881008
フェミニストでも、守られたい。フェミニストだから、守りたい | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/13432941
これの上の記事に関わっていたコラムニスト(かがみすと)が、謝罪をしつつかがみよかがみを批判したnoteを全三回書いていたのだが、その第三回と、そこから辿れる記事類を読み、フェミニズムがセラピーと言論を区切らずやっている弊害はあるな、と強く感じた。
上野千鶴子氏座談会のセックスワーカー差別炎上とかがみよかがみコミュニティの雰囲気について(下)|滝薫
https://note.com/hannnahkuku0819/n/n6514127ed85a
私はこれを読んだ時、伊藤編集長があらゆる批判に応じないのもわかる、といっそ清々しささえ覚える形で納得してしまった。「セーファープレイス」を構築しようとして、内部を守っているのではないかと思った。
(略)
『かがみよかがみ』を必要としている利用者はいる。それはわかっている。私も、エッセイを投稿した後の”共感”と”褒め合い”によって自信がついた一人であることは変えようがない事実である。その価値を認めていても、『かがみよかがみ』の未来に不穏さを感じてしまう。
『かがみよかがみ』が目指すのは、あくまで女性の自己肯定感の爆上げである。正しさではなく、自己肯定感である。
それも、明言はしていないが18~29歳の女性だけを狙っているだろう。
若い女性たちがエッセイで悩みを語り合い、書き手同士のSlackか何かでも褒め合い、お互いが何を言っても原則として批判しないし自虐もしない。まさに当事者会でありセラピーのやり方である。
フェミニズムやジェンダーなどの内容が多く扱われているが、それはあくまで自己肯定感爆上げの道具なので、理論的な正しさを保とうとして心が苦しくなってしまうようなら、正しさを追求しなくてよい。
エッセイ投稿の年齢制限も無い方が「正しい」のはわかってるだろうが、年上の説教エッセイや愚痴エッセイが載ってるサイトは鬱陶しくて気持ちよくなれないという若者の本音を慮って、微妙な理屈をつけて年齢制限をかけていると思われる。
投稿者をかがみすとと呼んで内輪感を作るのも、その繋がりで孤独が癒える人がいるからである。そういう内輪感にウエッとなる人もいるだろうが、そのタイプの人は他のどこかで癒されればよいというスタンスだろう。
伊藤あかり編集長のモットーらしい「全ての人を満足させようと思ったら、一人も熱狂させられない」とも合致する態度だ。
傷ついた若い女性のために、正しさではなく自己肯定感爆上げを目的とした当事者会セラピーの場があること自体は、良いと思う。
だがそれが、朝日新聞運営メディアとして広くネットで広告され、上野千鶴子や石川優実を企画に呼び、ヒコロヒーなどの連載があり、エッセイ投稿者もジェンダー学やフェミニズムで多少の理論武装をして識者っぽい人もたまに言及するとなれば、そこはもう言論の場となってしまう。苦しい内面を安心して吐き出せる、責任を負わなくていいし怒られもしないセラピーの場としては相応しくない。
なのに、そこが曖昧に混ざった立場で『かがみよかがみ』の文章は発表され続けている。
そして、これは、インターネットにおける様々なフェミニズム活動についても近いことが言える。
最後にもう一度まとめる。
傷ついた当事者同士が慰め合うセラピーの看板としてのフェミニズムと、冷静さと客観性を保つ学問や研究としてのフェミニズムは、分割しておく必要がある。
現在の日本では、セラピーの場としてのフェミニズムと、学問としてのフェミニズムが、ごちゃごちゃ混ざっている。
心が乱れてフェミニズムセラピーを求める患者と、冷静であるべきフェミニズム研究者が、ある程度重なってしまっている。
この状況を解消しないと、世の中の幸せにはつながらないだろう。
ハルオサンのエントリーを見て自分も同時期にWAIS4を受けてたのでレポ。
もちろん了承。
今までの人生うまくいかないことがいろいろあったが一番問題なのは就業だ。
正社員経験はなく、バイト、契約社員、自営業、派遣社員と転々としてきた。
小田急サラダ油事件のニュースを見ていて「容疑者は仕事を転々とし」のところで、自分も当てはまってるなって思った。
大阪の心療内科ガソリン放火事件は、孤独に苛まれたら自分もこうなるかもって人ごとじゃなかった。
親を頼ってなんとか生きてきたが、もうすぐ限界がくる。
本題に戻る。
僕の場合はWAIS4とロールシャッハテストの2回に分けて行われた。
正直に言うとどれも楽しかった。
クイズ番組に参加しているような感覚で「やってやるぜ!」って挑めた。
それなりに手応えもあったし、これで「発達障害」って言われたら逆に困るなーって思いながら一回目が終了。
その日はめちゃくちゃ疲れたので泥のように寝た。
二回目はロールシャッハテストで、まずこの検査ってまだ現役なんだって驚いた。
十枚の絵を見て何に見えるか答えて、二周目になぜそう見えたかを答える。
wikipediaを見て知ったんだけど、心理テストにありがちな
実際、自分の答えがどういう理屈で結果につながったのかさっぱりわからない。
やっぱりというかなんというか発達障害というほどではなかったが
四つの指標のうち「処理速度」という項目だけが明らかに低かった。
今でも「処理速度」というものがあんまり理解できていないのだが
僕は燃費も悪いし容量も少ないのにアクセルはベタ踏みしかできないって感じだろうか。
全体としては「処理速度」の数値が他の数値と20~30程度の差があるだけ。
総合数値では平均的。
それでこんなにうまくいかないの?って驚きはあるが
納得感の方が強いし、簡単にいえば腑に落ちた。
今後、苦手を避けて得意を生かせるかどうかかなり不安はあるが
苦手なことがはっきりしただけで少しマシに取り組める気がする。
「生きづらい」ってワードが流行っているが自分でそう思ったことは一度もない。
ただ「うまくやれなかった」っていう喪失感があるだけ。
ちなみに保険が効いたので5000円くらいで受けられた。
読んで、元増田氏はすごい人だと思った。
努力を続け、結果が出ていて、思索をして纏まった文章化ができて、
自分ができることと不得意なことを見つめられていて、何を希望しているのかも見えている(ように見える)。
褒められるために勉強をした、それは全く不自然だと思わないし、誰だって褒められれば嬉しくてモチベーションになるでしょう。
子供が、「親や周囲の関心を引くためだけに勉強しちゃ駄目だ。もっと自分の為に自分がしたい勉強をしなくては」なんて
考えられるとは想像し難い。
与えられた環境下で最大限の成果を出せているように思える。
やらずに後悔するよりやって後悔のほうがいい
なんて知った風な口きいたりはできないけれど、
でも自分が関心を持っていることとか得意なこと楽しいことが、仕事に生かせたらと思うよね。
残念ながらたいていの人にとっては難しいことだろうけれど
コミュニケーション能力だとかは、本やワークショップ等々学ぶ教材がいっぱいあるんだし
臨床心理士や看護師等の対人職向けの講座があるくらいなんだもん。
リアルが充実していれば自然に身につくものだなんて考えないで、これから得ていけば問題ない筈。多分。
沢山の"できる"ことを持っているんだから自信をもってほしい。
そういえば思ったんだけど、この一生懸命書いた文章、きっと未来で大きな意味をもちそう。
数か月後、数年後に読み返したとき、
「あー、あの頃の自分はこういう考えをもっていたな。この点は変わったしこの点は今も変わらないな」
なんて、俯瞰できそう。
現代日本のフェミニズムは、傷ついた人間が慰め合うセラピーの看板のような機能を持っていると言える。
エンパワメントとかシスターフッドという言葉が好まれるのもその一環と考えらえるし、そんな前向きな所まで至らない、まず苦しみや怒りを吐き出させてくれという層もいるだろう。
弱者にとって慰め合う場があるのは良いことなのだが、セラピーとしてのフェミニズムと、学問や言論としてのフェミニズムが分離されていないために、言論としての信頼度は弱まってしまう。
それが、フェミニストはメンヘラだとか他人の幸せを許せないだとかミサンドリストでセックスヘイターだとかの批判に繋がってしまっているのだろう。
私自身も精神疾患持ちなので、精神が弱っていること自体を批判する気はないのだが、セラピー的な語り合いと、学問的討論がごっちゃになっている状況は大いに問題視している。
冷静な研究者と、傷ついている当事者は、兼任しようとすると問題が生まれやすいのでどちらか片方だけの立場に立つべきなのだ。
〇 冷静なフェミニズム研究者が、「困った女性のための駆け込み寺やセラピーの場や、肯定しあえる関係は必要だよね」という学問的理論を組み立てるのはOK
〇 セラピーに集まる傷ついた人たちが、フェミニズムの用語で理論武装することも、武装しつつ過激な主張をするのもOK。(セラピー的な場の発言は、過激なことや邪悪なことも原則許されるべきである。その反面、そのまま社会への要求として世の中に伝えるべきではない)
× 自分に傷が深く残っていて冷静な振る舞いができない人間が、研究者としての発言力を得て、セラピーで患者としてするべきな過激主張を研究者の立場でしたり、他のセラピー患者の内面吐露をちゃんと検討せず世の中にぶつけたり、学者同士でも肯定しあう関係じゃないと耐えられなかったり、そういうのはNG
フェミニズムという看板のもとに、傷ついた人々が集い、辛さや怒りを語り合い共感しあい心を癒そうとする様子は、当事者会に近い。
当事者会自体は、様々な依存症や障害、事故被害者などについて行われており、有用なセラピーと言っていい。
だが「セラピーとしてのフェミニズム」の問題は、当事者会で癒される患者と、当事者会を監督したり理論を語る研究者がかなり重なってしまってるということだ。
要するに、患者がセラピストもやってしまっているという問題が、「セラピーとしてのフェミニズム」にはある。
全てのフェミニストが病んでいると言っているわけではない。
だが、SNSのそこら中で行われている「セラピーとしてのフェミニズム」当事者会の多さに比べて、監督できる冷静な研究者は全く足りていない。
普通の当事者会やセラピーは、福祉や医療や臨床心理士といった専門家によって研究と理論化がされ、社会に対して有用性が主張され、会の時にはその場にいて見守ったりもするはずだ。
傷ついた当事者たちの語りは、しばしば自己中心的だったり理屈が通ってなかったり乱暴だったりするが、それは回復に必要な心の解放だ。
それがそのまま社会への要求として世の中に出されたりはしないので、当事者会で語ったことが間違ってるなんて責任を問われることもない。
客観的な専門家が当事者たちの感情吐露を分析して理論化した上で、必要な部分は社会に訴えるようになっている。
だから、傷ついている当事者が冷静さを求められたりはしないし、当事者がヤバいことを主張していても研究者や研究分野の評価が下がることもない。研究者が監督しているから当事者同士の会話が過激化するエコーチェンバーも防げる。外部の一般人が当事者の無茶な話を直に聞かされて、振り回されて悪感情を持つこともない。
これらの全てが完全に徹底されてはいないが、それでも、当事者会セラピーで語り合う患者とそれを監督する研究者の間に線が引かれていることで、様々な弊害の抑制はできている。
しかし、「セラピーとしてのフェミニズム」では、患者、監督者、研究者、全てが一体になりやすいので、普通の当事者会セラピーでは減らせる弊害がモロに発生しているのだろう。
たとえばフェミニストが「トーンポリシングはやめろ」と主張し、議論や説得において言い方ってのは大事だろと反論されるのをよく見るが、あれも、セラピー的な場と議論の場がごちゃまぜになっているせいだ。
私はいま苦しすぎて言葉を選んでいられないのでセラピー患者として気持ちをぶちまけてるんだからトーンポリシングするな、というなら真っ当である。
言い方や内容にしっかり気を使うから議論として発言を真面目に聞いてくれ、というのも真っ当である。
だがそれを同時にやらせてくれ、自分はセラピー的にぶちまけるが聴衆は真面目に聞いてくれというのは無法な要求だ。
せめて、セラピーを監督する冷静な研究者に向かってぶちまけて、その研究者が理屈の通らないところを補助し冷静な言い方に直して議論の場に持っていくという形にしなければいけない。
なのにフェミニズム議論では、何もかも一緒くたになりがちである。
臨床心理士やカウンセラーになりたがる若者はしばしば自分が精神不安定を抱えているというのは、統計はないが実体験としてはよく聞く話である。
博物学系でも、たとえば動物学者はだいたい動物好きで、心情的には動物を保護したがるだろう。
だが、そこは資格団体ががんばってたり教育だったりで、臨床心理士や精神保健福祉士はある程度の信用をしてもいいだろうとなっているし、動物学者も後先考えない動物愛護活動をする人は目立ってないわけだ。
むしろ、愛後派の過激な主張の角を取って一般社会的に妥当で持続性のある動物保護のやり方を訴えたりしていて、それはまさに、感情的になりがちな当事者の語りを、研究者が自分のところで一度止めて丸めて社会に伝える、当事者会に対する医療や福祉関係者の立場と近い。
だから、臨床心理士や動物学者などの学問的信用はまあ保たれている。
ところがフェミニズムや一部社会学は、理論家や研究者が、傷ついた患者や当事者と近かったり同一人物だったりして、監督者のいないまま野良セラピー的な語り合いをし続け、当事者の悲痛な心情吐露ではあるが社会的妥当性の薄い発言みたいなものが研究者の学問的立場から主張されてしまっている。
フェミニストはメンヘラだとか他人の幸せを許せないだとかミサンドリストでセックスヘイターだとか言われるのはそのせいだ。
ここで断言しておくが、メンヘラも、他人の幸せを許せない人も、ミサンドリストも、セックスヘイターも、楽しく生きてよいし好きに発言してよい。当事者会で同病相憐れむのだって、傷ついた人間には大切だと思う。
過激な思想やトラウマは緩んだ方がいいとは思うが、それもあまりに大きな加害に繋がらないのであれば自由だ。
ただし、その発言はあくまで傷つき冷静さを欠いた人の発言として生暖かく見られている方が、周囲にとっても当人にとってもよいはずだ。弱者の声は社会から無視されるべきではないが、そのままでは妥当性が低いので、客観的な研究者が集積して適度に理論化と穏健化した上で世の中に訴えるべきだろう。
フェミニズムが、弱者に肩入れしようとするあまり病んだ発言をそのまま重用したり、著名な研究者が自分の当事者性を切り離して冷静さを保つ努力をおろそかにしているのは、誰にとっても不幸である。
一つ、わかりやすい事例を挙げる。
私がフェミニズムやジェンダー学のセラピー的機能と、学問・言論的機能の混在の弊害をわかりやすく感じたのは、朝日新聞運営の『かがみよかがみ』である。
「私のコンプレックスを私のアドバンテージにする」とか「私は変わらない、社会を変える」とかをコンセプトにして、女性の自己肯定感の爆上げを目指すメディアであることを謳い続けているサイトだ。
18~29歳の女性からのエッセイを募集して、編集部がチェックして載せている。著名人や契約コラムニストの連載もある。
そして投稿者を「かがみすと」と呼び運営ボランティアを「ミラリスト」と呼んで連帯感を出し、若い女性同士で肯定しあえるコミュニティを作ることも意図しているようである。(かがみすとは今もしっかり使われているが、ミラリストはTwitterで検索してもほぼ出てこないので今も使われてるかは外部からは謎)
二年くらい前に数回燃えたが、扱っている内容の割に回数は少ない気がする。特にはてなとは読者層が違うのだろう。
上野千鶴子さんに質問「ベッドの上では男が求める女を演じてしまう」 | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/12881008
フェミニストでも、守られたい。フェミニストだから、守りたい | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/13432941
これの上の方に関わっていたコラムニスト(かがみすと)が、謝罪をしつつかがみよかがみを批判したnoteを全三回書いていたのだが、その第三回と、ここから辿れる記事類を読み、フェミニズムがセラピーと言論を区切らずやっている弊害はあるな、と強く感じた。
『かがみよかがみ』が目指すのは、あくまで女性の自己肯定感の爆上げである。正しさではなく、自己肯定感である。
それも、明言はしていないが18~29歳の女性だけを狙っているだろう。
若い女性たちがエッセイで悩みを語り合い、書き手同士のスラックか何かでも褒め合い、お互いが何を言っても原則として批判しないし自虐もしない。まさに当事者会でありセラピーのやり方である。
フェミニズムやジェンダーなどの内容が多く扱われているが、それはあくまで自己肯定感爆上げの道具なので、理論的な正しさを保とうとして心が苦しくなってしまうようなら、正しさを追求しなくてよい。
エッセイ投稿の年齢制限も無い方が「正しい」のはわかってるだろうが、年上の説教エッセイや愚痴エッセイが載ってるサイトは鬱陶しくて気持ちよくなれないという若者の本音を慮って、微妙な理屈をつけて年齢制限をかけていると思われる。
投稿者をかがみすとと呼んで内輪感を作るのも、その繋がりで孤独が癒える人がいるからである。そういう内輪感にウエッとなる人もいるだろうが、そう言う人は他のどこかで癒されればよいというスタンスだろう。
編集長の伊藤あかりさんのツイッターbioには"「全ての人を満足させようと思ったら、一人も熱狂させられない」という感じ。"と書かれているのだから。
この世に、傷ついた若い女性のための当事者会セラピーの場があること自体は、良いと思う。
だがそれが、朝日新聞運営メディアとして広くネットで広告され、上野千鶴子や石川優実を企画に呼び、ヒコロヒーなどの連載があり、エッセイ投稿者もジェンダー学やフェミニズムで多少の理論武装をして識者っぽい人もたまに言及するとなれば、そこはもう言論の場となってしまう。苦しい内面を安心して吐き出せる、責任を負わなくていいし怒られもしないセラピーの場としては相応しくない。
なのに、そこが曖昧に混ざった立場で文章が発表され続けている。
そして、これは、インターネットにおける様々なフェミニズム活動についても近いことが言える。
最後にもう一度まとめる。
傷ついた当事者同士が慰め合うセラピーの看板としてのフェミニズムと、冷静さと客観性を保つ学問や研究としてのフェミニズムは、分割しておく必要がある。
現在の日本では、セラピーの場としてのフェミニズムと、学問としてのフェミニズムが、ごちゃごちゃ混ざっている。
心が乱れてフェミニズムセラピーを求める患者と、冷静であるべきフェミニズム研究者も、ある程度重なってしまっている。
この状況を解消しないと、世の中の幸せにはつながらないだろう。
精神科、心療内科、臨床心理士のカウンセリング、民間カウンセラー、産業保健師と渡り歩いて悟ったことがある。
当方は双極性障害もちの看護師だが、精神科で処方される薬はなんせ「死ねる」薬が多い。
だいぶ処方がマイルドになってきたにせよ。
そして「いっぱい飲んだら死ねるかしら」という輩が後を絶たない。
どんな薬にも致死量はあるだろうが、例えば循環器や泌尿器科で出される薬を飲んで死のうとした、
という話を聞かない。
向精神薬にしろ麻薬にしろ、脳に作用する薬には強い規制がかかっている。
ドラッグストアで購入できる薬も、以前は処方薬であったものがどんどん増えているし、
しかし、向精神薬だけは別である。最も弱い安定剤でさえ市販はされていない。
を内服は多めにもらって自己調整している、という人も実に多い。
つまるところ、精神科、心療内科は「ヤバいブツを販売する場所」なのだ。
仕事を辞める際、多重労働や人間関係の辛さが原因だったとして、
こうした場合、精神科で「抑うつ」「適応障害」などなんでもいいので診断書をもらい、
この場合、会社へは一身上の都合とだけ伝えておき、退職理由を会社と争う必要はない。
形のない労災やパワハラを会社に認めさせるのはほぼ不可能だけれども。
辞めるまでいかなくとも、「明日から2週間ぐらい仕事いけません」のような診断書はわりとさっくり出してもらえる。
精神科や心療内科への通院歴はスティグマにもなりうるが、自分の身を救うこともある。
「ヤバいブツを7割引きで販売してくれるところ」「身を守るお札を書いてくれるところ」と割り切って、
賢く利用するのがよい。
クリニックではなく大きな精神病院には良い臨床心理士がいたりするが、
そういった人の援助を受けられるのは、取り返しのつかないほど心を壊した後だ。
残念だけど。
精神科、心療内科、臨床心理士のカウンセリング、民間カウンセラー、産業保健師と渡り歩いて悟ったことがある。
当方は双極性障害もちの看護師だが、精神科で処方される薬はなんせ「死ねる」薬が多い。
だいぶ処方がマイルドになってきたにせよ。
そして「いっぱい飲んだら死ねるかしら」という輩が後を絶たない。
どんな薬にも致死量はあるだろうが、例えば循環器や泌尿器科で出される薬を飲んで死のうとした、
という話を聞かない。
向精神薬にしろ麻薬にしろ、脳に作用する薬には強い規制がかかっている。
ドラッグストアで購入できる薬も、以前は処方薬であったものがどんどん増えているし、
しかし、向精神薬だけは別である。最も弱い安定剤でさえ市販はされていない。
を内服は多めにもらって自己調整している、という人も実に多い。
つまるところ、精神科、心療内科は「ヤバいブツを販売する場所」なのだ。
仕事を辞める際、多重労働や人間関係の辛さが原因だったとして、
こうした場合、精神科で「抑うつ」「適応障害」などなんでもいいので診断書をもらい、
この場合、会社へは一身上の都合とだけ伝えておき、退職理由を会社と争う必要はない。
形のない労災やパワハラを会社に認めさせるのはほぼ不可能だけれども。
辞めるまでいかなくとも、「明日から2週間ぐらい仕事いけません」のような診断書はわりとさっくり出してもらえる。
精神科や心療内科への通院歴はスティグマにもなりうるが、自分の身を救うこともある。
「ヤバいブツを7割引きで販売してくれるところ」「身を守るお札を書いてくれるところ」と割り切って、
賢く利用するのがよい。
クリニックではなく大きな精神病院には良い臨床心理士がいたりするが、
そういった人の援助を受けられるのは、取り返しのつかないほど心を壊した後だ。
残念だけど。
臨床心理士やってる
巷では野良のカウンセラーというかよく分からない資格取って(取ってない場合もある)あやふやな知識のままカウンセリングをやってる人がたくさんいるらしい
絶対まじめにやってる人もたくさんいるしね
俺がびっくりするのはカウンセラーの実績や知識よりも「その人が苦労してきたか」っていうことを重視する人がめちゃくちゃいるということ
「机の上で勉強してきたおぼっちゃまお嬢ちゃまに苦悩がわかるはずない」「同じように傷付いてきた人がいい」みたいな
どう考えてもきちんと勉強してる方がいいよ
私は精神疾患と発達障害があり、今までの人生で何人かの臨床心理士さんにお世話になってきた。
臨床心理士のここがすごい
○話の聞き方が神さま
優しい
相槌がうまい
急かさない
穏やか
発達障害の特性ゆえになかなか言葉がまとまらない時も、こちらが言いたいことを整理して復唱してくれる
○顔つきが優しい
今まで会った臨床心理士で怖そうな顔の人は見たことない。穏やか〜な顔つき。人の心理を覗く仕事だからか、物静かそうな思慮深い雰囲気の人が多い。
心理検査の時は、面接官のように真面目なお顔をされて厳格に検査を進めるのに、その結果を伝える際はフランクで話しやすい雰囲気になる。使い分け方が上手だなぁと思う。
たとえそれがお仕事とはいえ、私のような障害がある人間をも優しく導いてくださる臨床心理士という支援者がいてとても救われています。
いつも助けてくれてありがとう。
しんどい時はむりせず、患者さんを大切にするようにご自身も大切にされてください。
通院先が変わったり、転勤で会えなかったりで、直接伝えられないので、ここに記しました。