はてなキーワード: 綺麗事とは
https://toyokeizai.net/articles/-/414929?display=b
まず、私は自分が大別すれば「左翼」かつ「リベラル」の立場にあることを自覚している。左翼の定義やリベラルの定義の困難さ、特に現在の日本で「リベラル」が「左翼」の言い換えのように使われて混乱が生じていることは十分承知しているが、そのあたりに触れるといくら前置きをしても足りなくなるので、要するにここを見るような人間たちがイメージする「左翼」であり「リベラル」であると考えてもらえばいい。ただし、左翼かつリベラル、というように私はこの両者は区別している。区別した上でどちらでもあるということだ。参考までに、最近やってみた下記サイトのポリティカルコンパスでは、
https://www.idrlabs.com/jp/political-coordinates/test.php
という結果だった。これを見てもわかるように「左派」と「自由主義」(リベラル)は別軸である。混同している人は気をつけてほしい。
そういう一人の人間として、件のイシグロ氏の発言への感想や疑問を書いてみる。
まず、社会制度の大枠を議論したり決定したりする際に、感情より科学的なデータやエビデンスが重視されるべきだというイシグロ氏の意見には私も異論がない。陰謀論やフェイクニュース、似非科学や歴史改竄に代表されるような事実軽視は、それが誰によるものであれ批判したいと思う。私は左派だが、左派の中にこの種の問題がないとも言わない。
たとえば近年では、日本共産党などがHPVワクチン副反応被害者の立場に寄り添うあまり、反ワクチン的な言説を許してしまっている(自分で言わないとしても、運動内部のそういう言説をはっきり否定しない)ことを歯がゆく思っている。誤解している人もいるようだが、日本共産党は本来はワクチンに否定的ではない。HPVワクチンについても、むしろ導入を行政に要求したりしてきた。しかし副反応被害を訴える声が上がり、裁判になってその原告を支援する立場となると、原告側の科学的根拠が弱い言説に対しても必要以上に寛容になっているように見える。それが被害を訴える原告の「感情」を優先したためなのか、あるいは裁判や運動を進める上での利害を計算したためなのかはわからない。そのあたりは人によっても違うだろう。しかし現在出ている科学的検証の結果が原告側に有利ではない以上、主張はデータを軽視しつつ苦痛の強調など感情に訴えるものになりやすい。イシグロ氏が言う「科学的エビデンスより感情が優先される」問題として私が連想したのはこのような例だ。
この件で一応私の意見を言っておくと、副反応を訴える人にはなるべく広く補償を適用しつつ、HPVワクチン自体は普及を進めるべきだと思っている。副反応裁判の原告団体については、補償の範囲を広げる運動としては支持するが、同時にHPVワクチンの勧奨再開に反対したり、さらには反ワクチン的な主張をする人物が混じっているのが支持できない。また便宜的に日本共産党の名前を出したが、私は共産党員ではなく関係も薄い。共産党に限らずHPVワクチン訴訟原告を支援する左派系政党や団体に共通する問題として挙げた。
しかし多くの部分で、私はイシグロ氏の発言に同意できず疑問を感じる。そもそも現状認識が私とは大きく違うように思うからだ。たとえば次のような部分だ。
"小説であれ、大衆向けのエンタメであれ、もっとオープンになってリベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければいけないと思います。リベラル側の人たちはこれまでも本や芸術などを通じて主張を行ってきましたが、そうでない人たちが同じようにすることは、多くの人にとって不快なものかもしれません。
しかし、私たちにはリベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術も必要です。つまり多様性ということです。これは、さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味の多様性ではなく、例えばトランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語るといった多様性です。
リベラル側の人が理解しないといけないのは、ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許ではなく、誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけないということです。"
ここは私には非常に疑問が湧くところだ。何よりわからないのは、いったいいつどこの世界で「ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許」になったのかということだ。
イシグロ氏が住むイギリスのどこかにはそういう特殊な場所もあるのだろうか。まあおそらく、イシグロ氏が属するコミュニティの大半が教養ある「リベラル」で、そこでは「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」はほとんど目につかず、その声が抑圧され死に瀕しているかのように錯覚してしまったのだろう。しかしイシグロ氏自身が言っているように、アメリカでは半数近くの人が一時的にであれトランプを支持し、イギリスではブレグジット派が不正ではない投票で多数を占めてしまったのだ。「リベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声」は十分に力を持ち、各国の舵取りに影響を与えている。
語ることがリベラルの専売特許に見える世界とは、イシグロ氏を取り巻く知的で文学芸術を愛する少数のインテリの世界のことでしかないだろう。イシグロ氏もそれを自覚はしているようで、だからこそ「縦の旅行」というようなことを言う。しかしその狭いインテリ業界での経験を一般化し、世界全体がそうなっているかのように語ることこそがまさにインテリの傲慢であり、相変わらずその狭さに無自覚な発言だとは気づいているのだろうか。
イシグロ氏と違い、私は左翼でありリベラルである自分のような立場が日本社会で主流になり、語る権利を独占しているなどと錯覚できたことは一瞬たりともない。たしかに近い考えを持つ人の集まる場所というものはある。しかしそういう場に足を運びながら、その場を一歩踏み出せば「世間」は全く違うのだと常に意識している。「縦の旅行」などするまでもなく、日本社会で「普通に」暮らせば、全くリベラルでない人、左翼を蛇蝎の如く嫌っている人、そもそもそういう言葉も、そういう違いがあることも知らない人などに電柱並みの頻度で出会うのである。
たとえば私は天皇制は廃止すべきだと考えているが、世論調査では天皇制に反対する人はずっと一割を切っている。周囲の人間をランダムに選べば十人中九人以上はこの点で私と考えが違うわけである。まあ日常生活でいきなり天皇制の話をする機会は少ないが、先日の代替わりだの改元だのの騒ぎの時には、自分が少数派であることをあらためて意識させられた。特に天皇の問題については、過去に右翼の襲撃のような直接的暴力による脅迫があり、言論の自由が大きく損なわれたことを知っておくべきだろう。「じゃあこっちはどうなんだ」をあまり振り回したくはないが、ポリティカルコレクトネスなどによる言論の不自由を懸念するのであれば、日本社会にはびこる天皇をめぐる言論の不自由にも一通りの知識と関心は持ってほしいと思う。
「自由民主主義」の社会を享受してきたと語るイシグロ氏は、部屋で文章を書くだけでなく、デモに参加し、街頭で語ったりビラを撒いたりしたことがあるのだろうか。それは自由民主主義を維持するための不可欠な活動の一つなのだが。やってみるとわかるが、街頭では温かく応援してくれる人だけでなく、口汚く罵ってくる人にも出会う。私の知人の中には、突然殴りかかられてけがをした人さえいた。手渡したビラを一目見るなり舌打ちして破り捨てる人もいる。私たちはその断片を拾う。それでも受け取ってくれるだけましとも言え、多くの人は避けるように通り過ぎていく。「自分とは違う世界がある」どころか、周囲の人の大半は自分とは違う考えだが、それでも少数者として声を上げていくことは無意味ではないはずだ、と私は自由民主主義社会で日々自分に言い聞かせている。
日本で左翼をやっていると、自分が投票した候補者が当選することも少ない。民族的、性的、その他さまざまなマイノリティの権利擁護運動に関わっていると、そもそも多数決に任せれば無視されるのが当然、そういう世界でいかに存在を認識させ、主張を届けるかというのがあらゆる活動の第一歩になる。言うまでもない前提だ。
上記のイシグロ氏の発言で何度読んでもわからないのは、「多様性」についてわざわざ「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味の多様性ではなく」と言っていることだ。これは何なのだろう。イシグロ氏はここで、「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人」と「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」をあえて対立させ、前者より後者の多様性が重要であるように言う。前者の多様性と同時に、それに加えて後者の多様性も、というならまだわかる。しかし、少なくとも多数決投票で勝利したことのあるような「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」の声を「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人」の声より優先して聞こうというような提案が現状の「多様性」をどれだけ高めるというのだろうか。
また、「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語る」という記述を読んで私が疑問に感じるのは、これはいったい誰が、どの立場から語るのだろうか、ということだ。翻訳の問題などもあるのかもしれないが、これを読むと、その人々の世界を外の人間が「誠実に」語ることのように読める。たとえばイシグロ氏のような作家がブレグジット支持者の内面世界を誠実に想像して描くというようなことなのだろうか。
しかしそれは、その傍で言われている「誰もが語る権利」と矛盾する。「語る権利」と言う時、マイノリティの運動の中などでは特に、当事者が自ら語ることを重視する。当事者の心中を非当事者が想像して代弁することは推奨されず、場合によっては本人の言葉を奪う行為として非難される。トランプ支持者やブレグジット支持者にしても、たとえばイシグロ氏のようにもともと思想的立場の違う作家がいかにも理解ありげに、「あなたはこんなふうに思っているのでしょう」とばかりにその思いを代弁したら多くは反発するのではないか。だから原則としては、その声に耳を傾けたいなら、非リベラルと言われる人々に語る場を保障し、自ら直接語ってもらうのが正しい。
その上でイシグロ氏は、そうして語る場を提供して耳を傾けた時に飛び出してくる言葉が、「○○○人はゴキブリ、この国から出ていけ」や「同性愛者は天罰を受けて死ね」だったり、静かな口調で確信に満ちて語られる「あなたがたは皆ディープステートに洗脳されているのです、ぜひこの資料を見てください」だったりした時にどういう反応をすべきか、どこまで現実感をもって考えているのだろう。この発言が単なる綺麗事に見え、それゆえ面白くないのはこのあたりの現実に何も触れていないからだ。
イシグロ氏は「誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけない」と言うが、これは理想論、原則としては全くその通りである。しかし現在問題になっているのは、その「誰もが語る権利」を尊重した結果次々と湧き出してくる陰謀論やヘイトスピーチへの対処を現実的にどうするかということなのではないか。先日話題になったツイッター社のトランプアカウント凍結なども、この原則と現実の間で行われた苦渋の選択だった。こういうリベラルの原則と現実とのジレンマは、「寛容は不寛容に対して寛容になるべきか」といった形で長く議論されてきたテーマでもある。それで言えば、トランプ陰謀論支持者に向き合いつつ、あえて寛容の原則に立とうと語る下の記事の方に私は感銘を受けた。
"「トランプの陰謀論」が今なお5000万人を魅了するワケ。『白人ナショナリズム』著者、渡辺靖に訊く"
https://finders.me/articles.php?id=2529
私はリベラルだが、この問題についてはここまではっきりと「寛容」に立つとは言い切れない。ヘイトスピーチ規制にも慎重派でありつつ、現実的にやむを得ないとも思っている。各国の法規制の方針を見ても、それぞれの背景に基づく大きな違いがある。現時点で何が妥当か判断しにくい難しい問題なのだ。「私たちはお互いに耳を傾けなければいけない」と書斎で言い放つだけでいいならそんなに楽なことはない。
また、いくつかのブコメが触れていたが、たとえばトランプ支持者が陰謀論を信じるのはそもそもイシグロ氏が言うような「感情優先」のせいなのかというのも疑わしい。選挙の敗北を認めたくないという感情が陰謀論を信じさせているのだ、というのはあくまでも外からの解釈で、本当に信じている人にとっては陰謀論は「事実」そのものだ。実際、陰謀論を広めている人はしばしば「まずは事実を知ってください」と言う。誤情報にさらされ、修正機会がないまま信じ込んでしまうという現象は特に感情がからまなくも起きる。平凡な思想を感情的に主張する人もいれば、陰謀論を冷静に信じる人もいるのだ。トランプ支持のような現象を「感情優先」として批判するのは、陰謀論やフェイクニュースのような誤情報の浸透をどう制御していくかという問題に対してあまり有効でないように思う。
ちなみに、トランプ支持者やブレグジット支持者に向き合ってその声を聞こうとした研究や取材はすでに数多く行われていて、下の記事のように日本の記者によるものさえある。
"トランプ支持者はなぜ熱狂的に支持しているの? とにかく彼らに会い続けた記者が、これからも語り合う理由"
https://www.nhk.or.jp/d-navi/note/article/20210208.html
イシグロ氏が自宅でなぜリベラルは非リベラルの声を聞かないのかとぼんやり嘆いている間にも、実際にトランプ支持者の家を訪ねて話を聞こうとしているリベラル寄りの人間は山ほどいるのだ。イシグロ氏は「リベラルが」ではなく「自分が」ご近所の非リベラルの声さえ聞いてこなかった、と言うべきだろう。主語を大きくしすぎてはいけない。
続きはこちら↓
この増田の筆者に水色スターと赤スターつけた id:fellfield
氏
https://b.hatena.ne.jp/entry/4699217012515887490/comment/muchonov
熊谷千葉市長に対するヘイトむき出しのツイートに対して嫌いと公言
https://b.hatena.ne.jp/entry/4698836877662988738/comment/fellfield
自民党の候補よりはマシだし、立憲を含めた野党からの推薦もあるから今回は消極的に投票するけども、好き嫌いの話でいえば熊谷は嫌いだな……。うんざりしつつ自民支持の人はいつもこんな気持ちなのかなと想像する。
彼女の親が前科持ちだと発覚した時に自分の親に無理やり別れさせられた。ぶっちゃけ感謝してる。彼女は何も悪くないわけで完全に差別よな。
でも、そのまま結婚なんてことになってたら今頃どうなっていたかと思うと正直ゾッとする。今は別の人と結婚して子供もできてそれなりな人生を送れていて本当に良かった。
俺も子供達に同じことが起きたとしたら、その時にどれだけ恨まれようが、差別主義者と罵られようが全力で別れさせる。
先祖代々が築き上げた上に自分がいる。俺の資格や年収は俺の努力ではない。一族の努力の上に今の自分が成り立っている。俺も子供達に十分な教育資金をかけてやる義務がある。一族に汚れた血を入れてはならない責任がある。左翼から見たら最低な事だと叩かれるのは十分分かっているが、先祖から受け継いだアドバンテージを引き継いでいて、末代までの繁栄に責任を持つ者にとって全ての差別に反対なんて綺麗事でしかない。全てに優先されるのは我が一族の繁栄なんだよ。
お前がやってはいけなかったのは単身で猫を飼うことじゃなくて、スマホの緊急情報に必要な情報を登録していなかったことだ。
あるいは財布や身分証明書に緊急時用のメモを入れておかなかったことだよ。
俺は親と二人暮らしで、親は要支援2。この辺りは当然やっている。
デイサービスは週一度なので最悪6日間は間が開いてしまう。
だからいろいろな手配をしている。
SECOMの見守りサービスを使っているが、ここまではしなくても、たとえば、職場に、もし無断で休んで連絡が取れない場合は、然るべき所に連絡を取って欲しいと依頼するようなことはある程度できるのではないか。
と誤った結論を出して、安易に悲劇のヒーローを気取って自己陶酔している場合ではない。
やるべき事をちゃんとやろう。
冷静に原因を考えて、正しい知識を普及しよう。
それが何よりも供養になる。
なのに、増田がこんな間違った結論を広めてしまうと、助かる命も助からないかもしれない。そう言う事をもう一度かんがえてみよう。
独身男で猫飼ってた。
小さい小さい猫が道端でうずくまってて、そのまま拾って帰って「猫 飼い方」で検索して出てくることは全部やった。
元気になってからもその辺で売ってるご飯じゃなくて、所謂オーガニックフードをあげて、飽きないように適度にウェットフードを混ぜるようにしてた。
部屋全体をアスレチックのようにして極力猫が楽しめるようにした、仕事が終われば後輩の誘いも断って真っ先に家に帰り、猫を愛でながらの一杯を至福としていた。
自分が人並みの家庭を築くのは無理だと思っていたから、せめて猫だけは幸せにできるように最大限の愛情を注いでいた。
でも交通事故にあった、仕事帰りに歩行者優先の横断歩道を渡っていたところを、スマホを見ながら運転していた車に撥ねられた。
頭を強く打ったらしく、目が覚めたのは事故にあってから2週間が経ってからだった。
普段は壁などで爪研ぎなどしたことない良い子だったけれど、ドアには引っ掻き跡が大量に付いていた、きっとお腹が減って死にものぐるいで引っ掻いたんだと思う。
・男性育休→政府が綺麗事を言うが、現場が逼迫する中小企業の7割が反対
・父子家庭→そもそも親権争いでは母親が圧倒的有利、離婚時にシンパパになれる可能性はとても少ない
・男らしさ強要→飲み会の席等での無茶振り的ノリが平然と罷り通っている現状
正直言ってまだまだだと思うよ
いきなりだが、私は体が大きめの女だ。歳はそこそこ取っている、すまんな。
この体格のおかげか、人生において少なくとも肉体的な意味で痴漢行為に遭うこともあまりなく、また帰宅時に不審者に尾けられたりすることもほぼなかった。
こんな自分の性的暴行経験(なお未挿入のレベル)の、加害者は全員知的障害者である。誇張でもなんでもなく、マジだ。
向こうが逃げたりこちらが逃げたりで、事件にしたことはないが、嫌悪感はものすごい。幼稚園から結婚する少し前まで、数年に1度程度だが被害を受けた。
私の子どもがまだ幼稚園に入る前、近くを散歩していた近所の施設の知的障害者が、子どもをガン見していた。
体の大きな彼ら3人ほどを見ていたヒョロい引率者は「はーい、目の毒だから見ないようにねー」と大声で言った。
襲われたら警察に行けと言う人がいるが、されないに越したことはない。被害を受けてからしか警察は動かないし、いくら謝罪や賠償があるとしたって、そもそも痛い思いなどしたくないのだ。だいたい、謝罪されたって傷は一つも治らないし、赦しなど生まれやしない。そんなのは被害にあったことのない人間の綺麗事だ。
だから、今や母である自分は、子どもに「知的障害者には物理的に近づくな」と教えている。差別と言われても関係ない。自助しなければ、泣き寝入りになるのだから。
NICUやGCUというのをご存知だろうか。コウノドリというドラマや漫画を見たことある人や、実際に当事者としてお世話になったことのある人は知っていると思う。
NICUやGCUは、出産時の事情で、出産直後から入院が必要になった新生児を診るための病室だ。特に慎重に様子を診る必要がある子は、NICUに預けられ、ある程度安定している子はGCUに預けられるという理解でよいと思う。
今、病院は面会禁止となっている。病院にもよるが、NICUやGCUも面会禁止になっている病院がある。私の子を預けている病院もそうだ。もう一ヶ月も子と面会していない。
これは、まあ仕方ないか、と思っていたのだけど、もう子供が生まれたという意識もなくなってきて、「これはよくないのではないか」と思ってtwitterを眺めていて
この人のを読んで、「いや、これは重大な新生児の人権侵害ではないか」と思ったので書いておく。(この人のtwitterで書いている話題は、以下の話題とは直接関係ないですが、読むべきだと思いますね)
事情はあるとは言え、ここで行われていることは、「生まれたばかりの子供を何ヶ月も母親から引き離す」という行為だ。
これは、平時の日本であれば、絶対に許されないことだろう。それが、今では当たり前のように行われているのだ。
実際のところ、私も、「まあ仕方ないか」と思っていたので、人のこと言える立場ではないが、それでも、そういう行為が行われているというのは、見過ごされてよいものではないと思う。
新生児と親が触れあうという行為の影響は完全に解明されてはいないと思うが、以下のような影響があると言われている(はず)
育児について知っている人なら、「0歳児の頃からのコミュニケーションが大事です」みたいなことを書いてあるのを見たことあるだろう。
コロナ禍の影響で、そういった機会が失われているわけだ。
そういう機会が失うことについてのリスクは、評価されたことがあるのだろうか?もし何か悪影響があったときに、誰か責任を取ってくれるのだろうか。
そもそも、「赤ちゃんはお母さんのことがわかるんです」みたいな綺麗事を言ってたやつらは、今は「赤ちゃんは知らん人達に囲まれて仲間がいないということがわかるんです」という状態になってることを認識してんのか?
社会の誰も、その責任を取ってくれるわけではないのに、このリスクは社会から個人に強制されている。
親は、まあ説明を受けられるから、納得はできる、だが、本人は、何の説明も受けられず、同意もなく、そういった機会が奪われている。
そもそもとして、「親といつでも会える」というのは、新生児にとって一番基本的な人権のひとつではないのか?それを本人の同意なく奪うというのが当然とされているのは、異常事態だろう。
まあ、今は異常事態なので、仕方ない、と思う人もいるだろうし、そもそも日本の人口から見れば、NICUに入ってる人達の割合なんて大したことないから無視してよいという考えかたもあるだろう。
ただ、納得いかないのは、飲食店は苦しいとはいえ、まだ営業可否の判断は、自由に委ねられているし、検査で陽性になったからといって、強制的に身柄を拘束されるわけではない、それぞれの人達は、辛いとは思うが、最後の選択は本人に委ねられている。
それに対して、NICUやGCUの子供たちは、強制的に権利を奪われているのに等しい。これは不公平ではないだろうか?
NICUや、GCUの人達だって、「面会は推奨しないが自己判断」ぐらいにしないと、バランス取れてないように思う。そもそも、新生児は感染拡大させているわけでもないのに、何故不当に重い権利の制約が発生しているのか。
病院だから仕方ないのだろうか?だが、大人が半年面会できないのと、新生児が半年親と会えないのは、時間の重みが全然違うのではないだろうか?(これは個人の認識によるけど)
もっと「子供を大事に」という考えかたに寄せるなら、「何があってもNICUやGCUの面会だけは最後まで死守する」ぐらいの立場だってあってもよいのではないだろうか?
どうすればいいかは、難しい問題なので、すぐ決まらないかもしれない(もちろん私は面会できるようにしてほしいが)
それでも、何の説明も同意も社会的合意もなく、人権侵害が行われているという事実は是正されるべきと思う。
具体的には、
という流れを作っていってほしいものだ。
今回のコロナ禍では難しいかもしれないが、次回似たようなことがあったときに、同じような人権侵害がひっそりと行われることのない世の中になってほしい。
元増田です。はてなでは定期的に出る話題であり、この仕事をしていれば生徒に必ず聞かれることでもありますね。すでに質問増田氏への反応でかなりの部分が議論されていると思います。国語の先生ごとに考えが多少異なるとは思いますが、現場にいる者として、同じことを生徒に聞かれたと思って、自分なりに誠実にお答えしたいと思います。
以下、常体で失礼。
・まず、この疑問への論点はたくさん含まれていると思う。自分なりに整理してみると
①日本という国家が義務教育で(貴重な時間を割いて、他の教育されない分野を差し置いて)古典を扱う理由(教育の制度論)
②上記の上で、古典が選択科目ではない(または高校の教育現場で「選択させられている」)理由
⑤古典を学ぶことは何かの役に立つのか?(個人レベルでのメリットはあるのか?)
……などなど。
・しかし、増田氏の質問「古典は、なぜ義務教育の科目なの?」に対して、学習指導要領等を引き合いに出しながら上記のぜんぶに答えても増田氏は納得しないように思う。なぜかと言うと、それ以前の「義務教育(および後期中等教育)とはそもそも何か?」「義務教育に求められているものは本来どのようなものか?」という重要な命題を増田氏は考えていない(もしくは適切な答えを持っていない)と思えるからだ。
・質問増田氏に足りていない視点は「教育とは多様性を前提にしている」ということだ。学校にはあらゆる子供が来る。子供たちは、あらゆる適性・資質・長所・性質・個性・能力を持って、学校へやってくる。その多様な子供たちに国から一律のシステムとして授けられるのが義務教育である。
子供たちの多様性、というのは学校に勤務していると本当に感じるところであるが、それでなくても、皆さん小中学校にいたクラスメイト、同じ学校にいた児童生徒の「多様性」というものに思いをはせていただければある程度イメージできると思う。
この多様な子供たちに、一律に与える教育が「義務教育(普通教育)」というものだ。これは「全国民に共通の、一般的・基礎的な、職業的・専門的でない教育」を指す。この時点で、小中学校とは原理的に「個人個人の資質や能力に合わせた教育を行う」場ではないということが(その是非はともかく)わかると思う。程度の差はあれ、後期中等教育(高校教育)も同じようなものである。
・そして、ここで注意すべきポイントは「教育に経済的効率という尺度はなじまない」ということである。
これについて(はてなでは評判悪いが)内田樹がわかりやすく説明しているので一部引用してみる。
教育のアウトカムを単位時間を区切って計ること(つまり「効率」を論じること)には何の意味もない。教育を受けたその直後にきわだった成果を示す人もいるし、同じ教育を受けたのだが、その成果が現れたのが卒後50年してからという人もいる。死の床において来し方を振り返ってはじめて「私の人生がこのように豊かなものであったのは、小学校のときに受けた教育のおかげだ」ということに不意に気づくということだってある。
(中略)
これほどに学びの機会が多様であるのは、「自分が何を学んだか」についての決定権が最終的には個人に属しているからである。同じ教師に同じ教科を同じ教室で学んでも、それによって震えるような感動を覚える生徒もいるし、何も感じない生徒もいる。そのときは何も感じなかったが、何年も経ってから電撃的にそのときの教師の言葉の意味がわかるということがある。人間はそのつどの成長レベルに従って、自分の経験の全体を「私をこのようなものにならしめた要素の必然的な連続」として再編集する。必ずそうする。過去の出来事の意味は現在の自分の状態に基づいて、そのつど改訂されるのである。
(中略)
自分が何を学んだかを決定するのは私自身である。そして、「誰も同じその人から私と同じことを学ばなかった」という事実こそが私たちひとりひとりの代替不能性、唯一無二性、この世界に私が生まれなければならなかった当の理由を形成している。
・そもそも、これだけ多様な生徒に対して同一の教育を与えるのならば、それは最大公約数的なものにならざるを得ない。けれど一方で、そういった最大公約数的なものをどれだけ集めても、一部の児童生徒にとって「役に立たないもの」は、多様性に対して共通の教育を提供する限り必然的に発生してしまう。そして、「~の勉強は役に立った」「~の勉強は役に立たなかった」という『後付けの、結果論的な』評価もまた、その生徒児童によって異なってくる。例えば元増田にとって数学は役だっても、国語教員の私の役にはあまり立っていない。逆も然りで、古典を学んで僕は役立っているが、元増田の役には立たなかったのかもしれない(けれど、今後の人生で役に立つ機会が訪れる可能性もゼロではないよね?)。「役に立った/立たなかった」という言葉は、それぞれの人生の差、多様性が生み出した、結果論的な、後付けの評価でしかない。
・まとめると、その教育が役に立ったかどうかは、後付けでしか評価できないが、多様な生徒全員に「役立つ」教育はごく一部の基本的なものに限られる。よって、多様性を前提にした普通教育は「役に立つかどうか」を基準とすべきではない、という前提が、義務教育を考える際には必要である。
・では上記を踏まえ、改めて、義務教育とは何か考えてみたい。おそらくたくさんの学者や先生が議論されていることだと思うけれど、自分なりの表現をさせていただければ「児童生徒たち(と国全体)への、将来のための、大規模な投資」であると思う。(もちろん、これは上記の前提を踏まえた、ある種の比喩表現であることに注意していただきたい)
・前述の通り、ある生徒にとって何が「役に立つ」かは分からないし、卒業後であってもそれぞれの人生の様相が変わればその評価も変わりうる。どの教科がいつどのような形でリターンとなるのか(または全くならないのか)わからない、ということだ。
言い換えれば、義務教育の内容選定にはあらかじめ「(ある生徒には)役に立たないかもしれないが、それでもやるべきなので、やる」という前提が入っているし、その前提があるために「全員の直接の役には立たなくても、間接的には多くの生徒の役に立つようになるといいな」という思想が入ってくる。また、「それを扱わないということは、全員に機会損失のリスクを与える」という側面もある。
だから、リターンがどれだけあるかわからないにせよ、限られたリソースの中で、できるだけ多くのリターンが生徒に(ひいては国全体に)返ってくるような投資を考える、という設計思想になってゆく。
・このような条件を満たす科目としては様々に考えられるが、特に、古典が思考の根本たる母国語に密接に関わっているという点は大きいと思う。そして質問増田氏含め多くの増田が議論で指摘してくれていたように、古典は以下のような理由で上記の条件を多く満たしている。
・「自国の古の言葉だから、国民として学ぶべき」「愛国心の育成」(国家というアイデンティティの形成)
・「文化の発展」のため(「春はあげぽよ」で笑いを一つ作るのも文化の発展の一つの形)
・人文学研究の基礎体力として(研究者は国家に必要で、大学等で研究を進める際に古典をゼロからだと困る。)(たとえ研究しなくとも、国民の知的レベルを上げられる。ちょっとググりたいときに学校で学んだ知識があると有用なことも多いし、知らないことは検索もできない)
・学習すべき内容が時代によって大きく変わらない(日進月歩で学習内容の変遷が激しい分野は義務教育には不適)
・現代日本語に繋がる、語学学習として。(現代語をより豊かに用いるため)
・「故きを温ねて新しきを知る」、長年読み継がれてきたものを読む(教育において、精神論の何がいけないんだろう?)
・古典籍という膨大な一次情報に各個人がアクセスできる(源氏物語などに顕著だが、現代語訳がすべてのニュアンスを残せているわけではない。また、現代語訳のないマイナーな古典籍が例えば古い災害の記録になっていることもある)
・「論理的な推測」を学べる(「~の気持ちを答えよ」問題はよく槍玉にあがるが、大抵は本文に論理的な推測の範囲で心情が書いてあるので、読解問題である。そもそも言語を扱うという行為じたい「論理的な推測」を行う行為なので、よほどひどいものでない限り、最近のものは全文をきちんと読めば適切な出題だと思う)
・あとは、自分にとって古典がどのように「役に立つ」のか(あるいは現時点で役に立っていないのか)、各個人が評価をそれぞれにすればいい。そして今度は、より大きな視点に立ったうえで、改めて教育の中の古典の位置づけやあり方、内容を考え直すということを考えてしかるべき、そんな時代であると思う。もちろん、法律や情報処理の勉強も大事なのは言うまでもない(ただし、プログラミングは教育導入される方向でどんどん進んでいるし、現行の公民分野にも法律はそれなりに入っているはず)。他にも様々なことが教育には要求されていると思うし、その中での取捨選択・優先順位の付け方は、きっと社会全体でなされるべきなんだろう。けれど、それは「役に立つ」という価値観に縛られるべきではないということは強調しておきたい。
あえてここでポジショントークをするならば、古典を学校で扱うべき理由は、先ほどの条件を満たしていることに加えて、「千年単位で変わらない本質的な事柄」とは何かを生徒に示唆してくれ、時間的なスケール感の大きさに思いを馳せる時間を持てるという点だと思っている。(そう思って前の共通テスト古典の分析を書いていました。授業でもよく言うんだけど、千年前に妻を亡くした人間が、現代人とおんなじようなこと考えてるって、結構安心しないですか?)
・これが生徒に対してなら、上記の話はやや難しく話が長すぎる。自分が担任をした生徒(物事の意味について考えようとする人物だった)には、例えばこう話したことがある。
「今あなたが意味を感じていない世界史を、例えば学ばなかったとしましょう。(あなたにとって何が意味を持つのかは今の時点では分からないので、それもあなたの自由ではあります。)そしてそのまま大人になります。その時、あなたは世界史の知識を元とした発想やアイデアを失うだけでなく、その発想を失ったことそのものにさえ気づけないことになります。つまり、自分の可能性が狭まっていることにさえ気づけないでしょう。あなたなら、その怖さってわかるんじゃないですか」
(いちおう、この話をしたこの生徒は、世界史の勉強について、成績は別にしてもこの生徒なりに考えてくれたようではある。後から他の先生にこの言葉の意味について話していたらしい。)
これが古典なら、別な増田が言っていたように「矛盾の語源を知らない」ことの機会損失について話すことになるだろうか(矛盾の故事は中一の教科書に載っている)
・おそらく質問増田氏にとって(多くの生徒と同じように)古典は役に立ちもしなければ面白くもない科目だったのだろうと思います。自分はなるべく古典の面白さやエッセンシャルな部分を伝えるべく授業で努力をしていますが、もちろんそうでない先生もいます。また、今回は触れなかったけれど「入試対策」という四文字が実際の古典学習に与える影響は計り知れず、本質から外れた苦行的な暗記学習・パターン学習が強くなってしまっている現実には自分もジレンマを感じないわけではないです。古典という科目が抱えた問題点や古典嫌いを生むこの構造的な病理は、なかなかに根深いものがあるのもまた事実。最初に挙げた①~④の論点あたりにはかなり課題もあるでしょう。
(少し話題はそれますが、前回の共通テストのエントリを書いてから他教科の同僚と話していて至った結論は「共通テストはより学問のエッセンシャルな部分に近づけられている」というものでした。大学入試が変われば高校の進学校の勉強も変わるので、これは良い兆しです。共通テストには今回のような学問のエッセンスを込めた入試問題を作り続けていただきたいと思います。)
・ただ、今回の質問増田氏のような生徒に対して自分が感じるのは、もっと広い視野で物事を見て欲しいという気持ちです。綺麗事かもしれないけれど、自分にとって意味がないものに見えても他人にとって意味があるものもあります。もしかしたら自分にとって後々意味が出てくるかもしれません。けれど、そのように意味をとらえなおすことができなければ、いつまでも古典は仮想敵のままでしょう。国語教員である自分がどれだけ古典の魅力をここで語っても、それはやはりポジショントークに過ぎません。意味というのはやはり自分で見つけるものだし、見つからないことだって往々にあるでしょうから、それを受け入れることや合理化することだって大事な「勉強」です。
(今回の話題に関連して、最近読んだ本だと、SF作家森博嗣が出した「勉強の価値」(幻冬舎新書)が、ツッコミどころも多いながら興味深かったのでオススメ。)
それに、自分にとって意味が無いと思っていたものがこんなに深く豊かな世界を内包していたんだと気づければ、それは素敵なことです。少なくとも、それを認めることが多様性をはぐくむ態度であると思います。
・P.S.
これを読んでいる生徒の皆さんへ(元生徒さんでもいいです。笑)。
自分にとってイヤだったり不得意だったりしてもいいし、つまらないと感じることもいいです(わからない・つまらないは教育する側の問題なので、どんどん声をあげてください)。けれど、だからといって排除することは、自分の可能性が消えるという別な問題を生みます。自分がイヤだったものをイヤなまんまで自分の中に置いておくのもしんどいことだろうなと思うので、ちょっとだけ面白いものを紹介しておきます。
今からでも、古典に関する自分の評価を変える機会になればいいなと思います。頼めそうなら、複数の生徒で担当の先生にもっと面白いものを扱ってもらえるようにお願いしてみるのもいいかも。先生は案外、そういう授業に飢えています。
https://kawadeshobo-blog.tumblr.com/post/129340109097/町田康訳奇怪な鬼に瘤を除去される宇治拾遺物語より
↑これを読んで
https://www.koten.net/uji/gen/003/
なに善人ヅラしてんだか。
「いい意味でも悪い意味でも女の穴としての需要は高い」が男女間における非対称のほぼすべてだろうに。
女なら言葉もおぼつかない重度知的障害の男性と性交渉を持ちたいなんて思う人間は誰もいないけど逆は普通に成り立つだろ。だから知的障害の女性はしばしば父親のわからない子を孕む(それだって『父親』は名乗り出ないんだから別に愛されているわけじゃないけどな)。
理解のある彼くんが出ても理解のある彼女ちゃんが出ないのは彼くんの彼女には子供産んでくれる穴がついてて彼女ちゃんの彼くんにはついてないってだけの話だ。産む側の人間は無収入でも差し支えない、逆に生まれた子供がある程度成長するまでは無職の方が都合が良いが、生ませる側の人間が無収入では一家丸ごと詰んでしまう。
どんな綺麗事並べたってそういうことだろ。
それこそ増田で指摘してるような例は、一番最初の障害者増田に付いて散々ツッコミの入った「でも乙武は障害者だけどモテてるよ?」ってブコメみたいな、持論に都合の良いごく一部の例外を切り取ってお気持ちで拡大してみせてるだけじゃん。
結論から言うと「キャラ使い捨てといて何今頃しれっとだしとんじゃボケ!」という運営への怨嗟が止まらないという話です。
"当時"熱心にSideMを推していて、「新アイドル発掘オーディション」イベント発表時もライビュで見ていました。
で、ライブの感動もつかの間めちゃくちゃヒいたことを覚えてます。
何故なら深入りしたら絶対自分が辛いだけなのが分かっていたので意図的に避け続けたためです。
その後に総選挙のこと、アニメのこと、エムステの出来etc...
色んな事が積み重なって運営への不信感が限界に達しSideMからは離れました。
ここできっぱり離れられていればよかったんだけど、結局どんなに運営が嫌いでもアイドル全員好きなので草葉の陰から見守るような形で接してきましたが・・・。
上にも書きましたが、元より総選挙だのの類が死ぬほど嫌いです。
キャラクターに優劣をつけるという愚かな行為もそうですが、一番は”ユーザーがいがみ合ってしまう”からです。
イベント後、SideMでは運営が新しい情報発表などと出ると候補生の話が度々上がるようになりました。
そして一部のユーザーはそういう人達のことを「候補生ゾンビ」という蔑称で呼んでいます。
あんだけキャラクターの情報出して、普段は愛だの夢だの謡っときながらスパっと切り捨てて、挙句諦めていないようですなんて綺麗事で片付けて早5年。
そりゃ諦めきれない人がいっぱいいるの当たり前でしょって思いますが、怨嗟の矛先は何故か運営じゃなくてユーザー同士になるんですよね。不思議と。
なんでこんな謎のタイミングで出してきたのか意図は分かりません。
当たり前だけど、オーディション後に始めたから・・・という反応の人も多くて、そりゃそうだよな、5年だもんな、と不思議な気持ちになったり。
仮にデビューする布石だったとしたら今度は「あのオーディションはなんだったの?」とか「レジェをバカにしているのか」やら「ローテが・・・」なんてユーザー同士言い合うことになるでしょう。(既にずっと言っているけど...)
結論として、結局こんなイベントを開催してしまった運営を恨み続けるしかないし、一生許せないんだろうなと改めて思ったのでありました まる
いやマジな話。
わかってるよ、平和で住みやすい社会を作るには弱者を救わないといけないし、自分がいつ弱者になるかわからない。これだけの数の人間がいるからみんなが強く生きていけるわけ無いなんてこと、わかってるよ。
でもそれでも納得できない。そんなもん表面上の理屈にしか思えない。綺麗事言いたい人が好き勝手言ってるだけにしか思えない。
なんで俺は真面目に働いてるのに、俺の稼ぎにフリーライドして弱者がパチンコ打ってるの?
生活保護受給者に聞きたい。俺が一生懸命働いて稼いだ金で食う飯はうまいか?働かずに金もらって満足か?
こんなの、俺が馬鹿みたいじゃん。真面目に働いてる人のやる気を削ぐような社会システムで本当にいいかよ。
せめてたくさん納税した分、何らかの恩恵が無いとそらタックスヘイブンに住所移すのやりたがるわ。むしろやらないほうが馬鹿という社会だろ。
変なコメント付きそうだから先に言っておくが、年収がおよそ900万円以下の人は、納税額より税金からの恩恵の額のほうが大きいとされてる。俺は年収900万円以上なので、「お前も弱者だ」などというコメントは見当違いです。
自分はいわゆる電車通勤で一般企業に通勤している。50回以上は漏らしていると言っておこう。
そこでとても強く感じるのは女性からは男性いや人間ですら見られていないという事だ。
質問したり仕事に関する話ならそれは普通に問題ないのだがこれ以上は絶対にないと言っても良いほど無いのだ。
雑談は自分から振れば始めることは出来るのだが、女性から雑談を持ちかけてくることはあまり覚えてないほど数少ない。
男性なら向こうから積極的に話しかけてくる人はいるし、他愛のない話もよくするからこの差は何なんだろう?と思った。
同性同士なら話しやすいとはいうけれど、例えばエレベーターで女性の職員と乗り合わせても無言なのに
他の男性職員が乗り込むとその女性職員が急にハキハキと喋り出すのを見て、俺は最初から存在していないのだなと悟った。
これだけではなくSNSでも失禁のことを伏せて(特に暴露する必要はないからだ)やりとりしていると
ちょっとは好意を持ってくれた女性もいたけれど、それ以上関係が進むとなると失禁の事はどうしても隠せないから
カミングアウトすると最初は狼狽えて、それは知りませんでしたすいませんでした。と謝ってきて、いや言ってないんだからしょうがないだろとは思うけれど
それでなんか色々と言い訳を並べてきて私はあなたに相応しくない人だとかなんとかまくし立ててそのままフェードアウトしていったのは何回もあった。
結局俺は未だに配偶者おろか恋人も作れていない。SNSだと好意を貰う事は出来ても正体を明かすと散るように逃げていくのだ。
もしこれが性別逆ならば男性は手を差し伸べてくれるだろうなとは思う。
フェミニストはよく男女平等だとか綺麗事を言うけれど俺からすれば女性である時点であなたはマジョリティなのだ
あなたは足元にある本当の弱者に気づこうともせずに権利ばかりよこせと喚き散らしている。
女性蔑視は許されないのは俺もそう思うのだがまるでこの世の弱者は私で、不幸ですって面されるとそれ以下の立場である失禁者の立場は?とイラっとするのも本音である。
本物の弱者を相手せずに弱者としての権利を得て大きな声で叫ぶ時点であなたは俺にないものを沢山持っている。
羨ましいよ、本当に。
自分は男性であり階級で言えば2級の重度障害者だが特定除けとして障害名は伏せる。
自分はいわゆる障害者枠で一般企業で就職している。5年以上はいると言っておこう。
そこでとても強く感じるのは女性からは男性いや人間ですら見られていないという事だ。
質問したり仕事に関する話ならそれは普通に問題ないのだがこれ以上は絶対にないと言っても良いほど無いのだ。
雑談は自分から振れば始めることは出来るのだが、女性から雑談を持ちかけてくることはあまり覚えてないほど数少ない。
男性なら向こうから積極的に話しかけてくる人はいるし、他愛のない話もよくするからこの差は何なんだろう?と思った。
同性同士なら話しやすいとはいうけれど、例えばエレベーターで女性の職員と乗り合わせても無言なのに
他の男性職員が乗り込むとその女性職員が急にハキハキと喋り出すのを見て、俺は最初から存在していないのだなと悟った。
これだけではなくSNSでも障害を伏せて(特に暴露する必要はないからだ)やりとりしていると
ちょっとは好意を持ってくれた女性もいたけれど、それ以上関係が進むとなると障害の事はどうしても隠せないから
カミングアウトすると最初は狼狽えて、それは知りませんでしたすいませんでした。と謝ってきて、いや言ってないんだからしょうがないだろとは思うけれど
それでなんか色々と言い訳を並べてきて私はあなたに相応しくない人だとかなんとかまくし立ててそのままフェードアウトしていったのは何回もあった。
結局俺は未だに配偶者おろか恋人も作れていない。SNSだと好意を貰う事は出来ても正体を明かすと散るように逃げていくのだ。
もしこれが性別逆ならば男性は手を差し伸べてくれるだろうなとは思う。
フェミニストはよく男女平等だとか綺麗事を言うけれど俺からすれば女性である時点であなたはマジョリティなのだ
あなたは足元にある本当の弱者に気づこうともせずに権利ばかりよこせと喚き散らしている。
女性蔑視は許されないのは俺もそう思うのだがまるでこの世の弱者は私で、不幸ですって面されるとそれ以下の立場である障害者の立場は?とイラっとするのも本音である。
本物の弱者を相手せずに弱者としての権利を得て大きな声で叫ぶ時点であなたは俺にないものを沢山持っている。
羨ましいよ、本当に。
綺麗事をまだ信じてんのか