はてなキーワード: 捕虜とは
横だけど、俺はアニメキャラに癒してもらう路線で良いと思うぞ。
捕虜を勇気付けた架空の少女の話もあるし、等身大抱き枕は最強の癒しとだけ…
大戦中にドイツ軍の捕虜収容所に居たフランス兵たちのあるグループが、長引く捕虜生活の苛立ちから来る仲間内の喧嘩や悲嘆を紛らわすために、皆で脳内共同ガールフレンド(?)を作った話を思い出した。
・・・そのグループが収容されてた雑居房のバラック、その隅に置かれた一つの席は、13歳の可愛らしい少女がいつも座っている指定席だった。(という、皆のイメージ)
彼らグループの中で、喧嘩や口論など紳士らしからぬ振る舞いに及んだ者は誰であろうと、その席にいる少女に頭を下げ、皆に聞こえる声で非礼を詫びなければならない。
着替えの時は、見苦しい姿を彼女に見せぬように、その席の前に目隠しの布を吊り、食事の時は、皆の分を分け合って彼女の為に一膳をこしらえ、予め決められた彼女の「誕生日」やクリスマスには、各自がささやかな手作りのプレゼントを用意し、歌でお祝いをする。
・・・最初は慰みのゲームのようなものだったのが、皆があまり熱心になると、監視のドイツ軍までもが、彼らが本当に少女を一人かくまっているものと勘違いして、彼らの雑居房を天井裏まで家捜しするという珍事まで起こった。
だが、厳しい捕虜生活の中で、他の捕虜たちが衰弱して病死したり発狂や自殺したりする中、そのグループは全員が正気を保って生き延び、戦後に揃って故国の土を踏んだという。
◎客室設置の書籍について https://www.apa.co.jp/newsrelease/8325
南京大虐殺がなかったと言っているのか?
三十万人がおかしいって言ってるのか?
少なくとも、普通の日本人は南京事件(南京虐殺)があったことを知っている。
ただそのことが南京事件がなかったことにはならない。
事件の犠牲者数については30万人説からゼロまで諸説あり、その背景として、「虐殺」の定義、地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料検証の相違がある。
- 30万人以上 - 1947年の国民政府による南京軍事法廷判決書。中国共産党政府の見解はこれに依拠している。なお、この説には南京城外の犠牲者数は入っていない。30万人説は資料的根拠が乏しく、日本側の学者からは支持されていない。
- 20万人 - 極東国際軍事裁判判決。松井司令官に対する判決文では 10 万人以上。
- 11万9000人以上 - 南京郊外を含む説としては、中国兵犠牲8万、民間人犠牲3万9千(南京城内:1万2千人、農村部:2万7千人)、計11万9千人以上という笠原十九司がいる。
- 4万人 - 秦郁彦は、中国兵犠牲3万、一般人犠牲者1万人(南京城市のみ)で、4万人を上限とした。ほか久野輝夫は37,820人とする。中国文献では、中国軍約11-12万人のうち約4-6万人が南京で戦死と捕虜(行方不明を含む)とされる。
- 1〜2万 - 板倉由明は、中国兵の犠牲8千人と一般人の犠牲者5千人(南京城市と周辺農村部の一部(江寧県のみ))を合計し、1万-2万人とする。当時の戦闘詳報などの公式記録には約1万前後の敗残兵(捕虜)の殺害記録もある。
- ゼロ - 「大虐殺」否定説・戦時国際法上合法説では、30万人の市民の「大虐殺(大屠殺)」はなかったと主張。
いわゆるネトウヨは「全ての肯定派は30万人説を支持している」と批判する、
というズレがある。
http://anond.hatelabo.jp/20170116162327
興味深い話が読めたのでお礼に幼少の頃によく聞いていたじいちゃんの話をしてみようと思います。
確か今年97歳。
話の時系列や史実なんかと照らし合わせてはいないので口伝だと思ってください。
ビルマという単語がよく出て来たのでおそらミャンマーあたりだろう。
向かう途中は狭い船内で古参兵が新兵を並ばせて殴ったりといった行為が日常だったようだ。
そのせいで左耳が聞こえなくなり今でも聞こえない。
船は度々狙われたようで隣の船が魚雷でやられるのを何度も見たのだという。
ぬかるみを行軍して靴を脱ぐことをも出来ずに足がただれたこと、ヒルが体中に張り付き血だらけになることもよくあったそうだ。
親指くらいの大きさになったヒルを無理やり取ろうとすると頭だけ残って余計大変なんだとか。
通信用の有線をジャングル内に設置してあるものを度々トラが切るようで3人一組の班を作り夜中に見回りをしていたそうだ。
他の班の人がトラに襲われ全員が帰ってこないこともあったとか。
機銃を撃つこともあったそうで、「○発掃射」とかのような指示がありボタンを放すタイミングが難しいがコツを掴めば簡単だったと言っていた。
前線に補給物資と共に機銃を運ぶこともあったそうで、台座に乗せて4人で運ぶ際に担ぐ肩を変える掛け声が「肩変えー右」「肩変えー左」
途中で現地住民が待ち伏せして襲ってきて隣の人が亡くなったそうだ。
通信兵のようなこともしていたときに航空機からの攻撃を受け目の前の通信機が壊されたとか。
パイロットが地上からも見えるくらいの高さで身を乗り出して何かを見ていたそうだ。
またある時に調理兵の偉い人が同じ村出身で気に入られ牛の解体とかもしていたそうだ。
川の上流で解体していると内臓は流して捨てるせいか拾いにくる現地住民と仲良くなったと言っていた。
現地の言葉の数え方で「てが あんぱ りな」と言うのを教えてもらったと。
日本語で言う「ひい ふう みい」らしい。
食べ物が無くなってくると錦蛇も食材として捌いていたとのこと。肉厚で美味しいらしい。
それでも足りなくて猪用の頭から入ったら抜け出せない落とし穴を掘っていたらしいのだが、
空腹に耐えきれず食べ物を探しにジャングル内に入った人が落とし穴にはまり亡くなることが何回もあったらしい。
おそらく戦後だと思うが、捕虜として捕まったときに見張りの兵に自分たちは連発出来る銃で日本兵は単発の銃だから負けたんだというようなことを
仕草を交えて言われたらしい。
また、何かの土木作業をしたり運んだりといったことを戦後3年間行ってやっと帰ってこれたということだった。
運ぶ作業の際に丸太橋で谷を渡ることがあったそうだが、肩に60キロくらいの荷物を担いでいたので落ちた人もいたそうだ。
こういった話を淡々と自分の感情をのせることなく語るじいちゃんです。
戻ってからの苦労話は色々聞いたけど戦争に関する恨み辛みは聞いたことはないです。
もちろん戦争を賛美するようなことも言いません。
最近の政治については話たりはしないのでどう思ってるかはわかりません。
だいたいは昔話と猫と相撲のことばっかりです。
→それ以降朝日新聞が大々的に取り上げる
(その後どちらも事実無根であったことを認める)
1995年 女性のためのアジア平和国民基金として6億円寄付 当時の金泳三韓国大統領は「従軍慰安婦問題に対して
2015年 裁判にて『帝国の慰安婦』が事実上の発禁処分にされる
→慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に
2016年 元慰安婦を支援するための財団に10億円拠出 『帝国の慰安婦』の著者朴裕河が裁判にて、
2016年にアメリカで発見された朝鮮人捕虜の米軍調書では当時の朝鮮人捕虜により従軍慰安婦が否定されるなど、未だに従軍慰安婦が存在していた客観的証拠や女性を性奴隷にしてという客観的証拠は見つかっていない。
日本政府はサンフランシスコ平和条約や日韓基本条約によってこの問題は解決積みであり、軍による強制連行と性奴隷はなかったと主張するが、女性の名誉と尊厳を傷つけた事に対し責任を痛感し、お詫びと反省の気持ちを表明している。
しかし、一方で韓国側は、慰安婦問題を女性の権利の問題だとし、謝罪と賠償と元慰安婦に対する謝罪の手紙を要求している。
『帝国の慰安婦』を書いた朴裕河によれば、もし韓国側が慰安婦の強制連行がなかったと認めれば、それは「日本の罪を軽くすることにつながると考えている」ため、従軍慰安婦が事実ではなかったとしても、もはやそれを受け入れられる考えは韓国側には存在しない。
また、韓国は法治国家ではなく、世論によって判決が左右されることがある。日本軍による性暴力被害女性たちは、韓国だけではなく中国やフィリピンなどでも裁判を起こした。それらの裁判は二国間条約により解決積みという理由ですべてが却下された。しかし、韓国では却下されなかった。また、朴裕河も名誉毀損で判決をくだされるなど、韓国は法治国家として機能しておらず、慰安婦問題についてもまともな議論がなされていない。
韓国の反日感情は宗教のように根強いものであり、日本側がどんなに譲歩しようと、韓国と共に手を取り合う日が来るのは当分先のことだろう。
覇剣の皇姫アルティーナの四巻から十巻を読んだ。巻が進むに連れてしり上がりに面白くなってくれた印象。だけど、典型的なラノベっぽい作風がもったいないなって思った。
なんていうか、全編通してやりたいことは分かるし、物語のプロットとしては面白いと感じられるんだけど、肉厚がないというか悪い意味でラノベっぽいのが残念だった。
文章にしても台詞にしても、もっと重厚に切実に書ける力量はあるはずなのに、あえてそれを隠している。わざとラノベらしく軽くしているのが感じられて物足りなさを覚えた。
典型的なハーレム要素も、提示される問題をいとも簡単に解いてちやほやされる主人公にも正直辟易してしまう。
敵方が強くなり、主人公のチートっぷりにそれなりの説得感が出てきてくれたように感じられた六巻くらいからは、随分と読みやすくなったけれど。
ファミ通文庫の特色なのかしらんと思ってしまう。やっぱりもうちょっと重厚な物語がいいよ。
ドイツ軍のソ連侵攻は「特別行動隊」(Einsatzgruppen :アインザッツ・グルッペン)によるすさまじい組織的殺戮作戦をともなっていた。侵攻から数週間を経ずしてナチスは他のヨーロッパ地域に住むユダヤ人の絶滅作戦の準備に着手した。1941年7月31日、ゲーリング( Herman Göhring 空軍相、元帥)はラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Heydrich SS上級部隊隊長、SS大佐)に次のような命令を伝えている。
「次を命ずる‐貴官は、ヨーロッパのドイツ支配圏におけるユダヤ人問題の『最終的解決』に関する組織、実務、そして財務上の必要なあらゆる準備にかかり、… さらに、ユダヤ人問題の『最終的解決』遂行にかかわる準備組織、実務、そして財務上執るべき手段の計画の全容を、本官に対し速やかに提出せよ」
この任務遂行の準備を調整するためハイドリヒは1942年1月20日、ヴァンゼー(ベルリン郊外)に会議を召集した。会議にはドイツ帝国閣僚の面々、ヨーロッパ占領地域各国のドイツ総督、そして、ゲシュタポ本部ドイツ移民局ユダヤ人局長・アドルフ・アイヒマンを含むSSの上級将校たちが出席した。
「ヴァンゼー会議」の決定はやがて、政治および軍事面において、全世界に重大な展開を引き起こすことになる。
1941年12月11日、日本軍による真珠湾攻撃を受けてドイツはアメリカ合衆国に対し宣戦を布告した。戦争はすでに人類を連合国側と枢軸国側に隔て、全世界を巻き込む総力戦の様相を帯び始めていた。この新しい局面は、ドイツを戦争遂行上の衝害から解き放った。ドイツにはもはや政治的配慮や「ユダヤ人の大量殺戮がもう始まっているのではないか」という世界の世論に気がねをする必要が全くなくなったのだ。
ヴァンゼー会議の進行は詳細にわたって記録され、議事録はニュルンベルク国際軍事法廷に証拠として提出されている。それによれば、ハイドリヒはまずヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決について自分がゲーリングから全権を委譲されていることを告げて会議を始めた。会議の中でハイドリヒは次のように述べている。
「総統の意向により、ドイツ移民は目下ユダヤ人をことごとく東方に追放し、その跡地に対して行われることになった…
ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決の中では、各国に散在する約1100万人のユダヤ人が考慮されなければならない。次のとおり…」
ここでハイドリヒはヨーロッパ33の国と地域のユダヤ人口をリストに揚げている。リストにはドイツの占領国や同盟国とは別にイギリス、ソ連のヨーロッパ地域、また中立国のポルトガル、スペイン、スウェーデン、スイス、アイルランド、トルコといった、ドイツが占領する予定だった国も含まれていた。
ユダヤ人大量虐殺の実際の準備はハイドリヒによる組織の準備と同時に進められた。1941年夏、ハインリヒ・ヒムラーはアウシュヴィッツ強制収容所所長ルドルフ・ヘスを呼んだ。ヘスは戦後の証言で「ヒトラーがユダヤ人問題の最終的解決の実行を決断したことを、このときヒムラーから知らされた」と明らかにし、さらに次のように述べている−「事実、東部で行われているようなやり方(ソ連地域でのユダヤ人殺害—特別行動隊による狩り込みと射殺)では与えられた任務に対応できなかった。絶滅という任務のためには、特にアウシュヴィッツ収容所を対応させる必要があった」。
この会談の直後、アイヒマンはアウシュヴィッツを視察している。二人は、ソ連で行われている射殺は大量の人間を短時間のうちに皆殺しにするには不向きであり、大量殺戮はガスを使う他はないとの結論に達した。
ガスを使った殺害はナチ・ドイツにとって初めての経験ではなかった。すでに「安楽死計画」において、ガスが使用されている。この計画は1939年9月から1941年8月末まで実施され、7万から9万人にのぼる精神病者と重度の障害者がガス殺された。わずかにユダヤ人も含まれていたが、このとき犠牲になったのはほとんどがドイツ人だった。ナチスはこの「安楽死計画」を、「役立たずの穀つぶし」—ナチは彼らをそう決めつけた—を国家から駆逐し、アーリア人種の優性を高めるための手段だと考えていた。ヒトラーはこの計画にあたり「T-4」という秘密組織を発足させている。「T-4」は総統直属の正式な組織として医師を擁する医療関係の諸機関(大学・研究所・病院等)を支配した。不治の病に苦しみ死を待つばかりとなった病人たちの命運が、かれら医師たちの手に委ねられた。
かくして犠牲者たちはそれぞれの医療機関に用意された気密構造の部屋へ案内され、ガスによって窒息したのだ。死体は特殊な焼却炉で燃やされた。このガスを使った安楽死はすぐに外部に露見し、ただちにこの殺害行為をやめさせるための抗議行動が‐特に犠牲者の遺族と教会側から‐起こった。ヒトラーは譲歩し、1941年8月末、これら医療をかたる殺人を当面中止するよう命じた。
しかしこの安楽死計画の中で蓄えられた経験は、「最終的解決」の準備をしていたSS当局に役立つことになったのである。
絶滅作戦としての最初のガス実験は1941年9月アウシュヴィッツで行われた。ソ連軍の戦争捕虜たちが実験台に選ばれた。彼らは密封された地下室に閉じ込められ、チクロンBによってガス殺された。非常な短時間で捕虜たちは窒息死した。以後続けられた一連の実験で、ナチスはガスという新しい殺害方法を開発するめどを立てるに至った。同じ頃「特別行動隊」も、ハイドリヒ指揮下のSS技術局の援助を受けて同様の方法を開発している。ここでは「ガス室」の代わりに「ガス・トラック」が用いられた。この車の外見は救急車か冷蔵車に偽せてあったが貨物室は気密構造となっており、マフラーから貨物室まで 延ばされた特殊なパイプが排気ガス中の一酸化炭素を密閉された貨物室に直接流し込むようになっていた。犠牲者たちが貨物室に入れられるとドアが閉まり、鍵が下ろされ、そしてエンジンがかけられた。
「ドライブ」は、全員が死亡するまでに30分も要しなかった。所定の場所に着くとドアが開けられ、死体は運び出されて埋められた。この「ガス・トラック」は、大型のものでは150人を、小型のものはその半数を収容した。ソ連のドイツ占領地域では1941年の12月だけで、数千にのぼるユダヤ人が「ガス・トラック」で絶滅させられている。
1941年12月8日。占領下ポーランドのロッヅ管区ヘルムノ村(ポーランド名ウッヂ市ヘウムノ)近郊で最初の絶滅収容所が稼働を始めた。殺害には「ガス・トラック」が用いられた。犠牲者たちは主に列車で運ばれ、収容所の近くで降ろされた。そこは一部を公園に囲まれ崩れかかった古い宮殿の中央広場で、人びとは垣根に囲まれた区域に通されると「労働に就く前にこれから車に乗ってシャワーを浴びに行く」と告げられ、次のように言い渡された。「衣服を脱いてこの車に乗るように」
「ドライブ」が始まった。車が4キロメートルほど走ったころには、排気ガスによって全員が毒殺されていた。「終点」は森の中の柵で囲まれた場所で、そこにはこの仕事のために特別に殺されずにいるユダヤ囚人の一団が待機していた。彼らが死体を車から降ろし、そして埋めた(後には死体は焼却処理されるようになっている)。ヘウムノではこうした「ガス・トラック」が3台稼働し、当局員として150人ほどの警察官とSS隊員を擁して1943年4月に一旦閉鎖されるまで稼働し続けた(その後1944年春から3ヵ月あまり再稼働)。ここではロッヅ管区他から連行されたユダヤ人と少数のロマ・シンティ(ヨーロッパ語名ジプシー)の集団、合わせて30万人近くが殺害されている。
1941年11月。ポーランド総督管区内でユダヤ人絶滅作戦の準備が始動した。ヴァンゼー会議でハイドリヒの挙げたポーランド在住ユダヤ人口は228万4千人である。ハイドリヒは1942年5月にチェコのレジスタンスに暗殺されたがそれ以後この暴挙は彼のファースト・ネームに因み、ドイツ政府より「ラインハルト作戦」のコードネームを与えられた。作戦指揮官には後のルブリン管区SS司令官兼警察長官、オディロ・グロボチュニクが任命された。グロボチュニクは3つの絶滅収容所計画を実行に移した。1942年3月中旬、まずベルゼック(ポーランド名ベウゼッツ)収容所、次いで同年5月ソビボル(同ソビブル)収容所が、そして7月末には第3の収容所、トレブリンカが大量虐殺を開始した。ドイツの東方植民地に設置されたこれら3つの収容所はいずれもガス室を備えていた。ここでは一酸化炭素ガスが使用され、ガスは屋外に設置されたガソリンまたはディーゼルエンジンからパイプで引き込まれた。それぞれの収容所には2、30名のSS隊員と、90から120名のウクライナ人(もとソ連軍捕虜で、ナチス・ドイツに協力を申し出た者)が 当局員として駐在した。SS隊員のほとんどは「安楽死計画」の要員から抜擢された者たちで占められ、後者のウクライナ兵部隊はルブリン近郊のトラヴニキにあったSS錬兵場で編成・訓練を受けたので、付近の住民からは「トラヴニキ・マン」と呼ばれていた。
ヘウムノ、ベウゼッツ、ソビボルそしてトレブリンカの各絶滅収容所は、文字に違わぬ殺人工場だった。連行された人々は、そのままガス室へ直行させられたのだ。何百人かのユダヤ囚人が 処刑を免れていたが、これは当局員と囚人たちの身の回りの世話のためであり、こういったグループはすべて数週間あるいは数ヵ月ほどで殺され、随時交代させられていた。
ルブリン近郊のマイダネク収容所はユダヤ人、非ユダヤ人双方を収監する完全な構造を備えた強制収容所で、この地区にある他の収容所は全てマイダネクの補助収容所として機能していた。おびただしい数のユダヤ人がここで殺され、あるいは移送中に通過し、あるいは囚人として収監された。この中にはポーランド軍属のユダヤ人戦争捕虜も含まれている。マイダネクを生き残った者は数えるほどしかいい。
強制収容所および絶滅収容所のうち最大の規模を持つアウシュヴィッツ収容所は、第三帝国領ポーランド南部、シレジア地方に建設された。1940年、早くもアウシュヴィッツ村(ポーランド名オシフィエンチム町)に近い旧ポーランド陸軍兵舎の敷地に強制収容所が設置されている。これは元々ポーランド軍将校と政治犯を収容するためのものだったが、I.G.ファルベン社などドイツ軍需工業に囚人労働力を提供するため、収容所近辺に多数の労働収容所が補助収容所として置かれるようになった。1941年にはビルケナウ村(ポーランド名ブジェジンカ)に最大の規模を持つ絶滅収容所、アウシュヴィッツⅡ(ビルケナウ)収容所の建設が開始された。ビルケナウはアウシュヴィッツ基幹収容所(アウシュヴィッツⅠ)から西へ約3キロメートルの地点にあり、1942年5月に稼働を始めている。チクロンBを使用するビルケナウの4つのガス室は一度に1万2千人を殺害する能力を備えており、死体はガス室に隣接し連動する焼却炉(ナチはクレマトリウム=火葬場と呼んだ)で 焼却された。焼却炉は24時間あたり8000人分の死体処理が可能だったが、1日で殺害される人数はこれを上回っており、残りの死体はガス室近くの森の中で野積みで焼かれた。アウシュヴィッツでのガス殺は1944年末まで続けられた。2つの収容所は約2500名のSS隊員を擁して1945年1月まで稼働し、その間に130万から150万のユダヤ人を含む、180万から200万人が殺害された。
アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所は絶滅収容所と同時に強制収容所としても機能していた。殺されるために収容所に到着した人々は「選別」を受けるよう命じられることがあった。若く屈強な男たちは絶滅の集団からはずされ強制労働に就かされるか、他の収容所へ移送された。他に子ども、双生児、脊髄に障害を持つ遺伝病患者などが選別の対象となった。彼らはドイツ人医師たちの医学実験用に選ばれていたのだ。医学博士ヨーゼフ・メンゲレは、医師団の中でもとりわけ悪名高い。
生き残った囚人たちも「選別」を免れたわけではなかった。1日に何度も行われる点呼で衰弱したり病気にかかった者、または労働に適さない者が見つけ出され、彼らはガス室に送られた。
厳格をきわめる制度の下に束の間の余命時間が貸与され、囚人たちはそれを生きていた。飢餓にさらす、むち打ちなど懲罰の苦痛を与える−この種の非道な所業はすべて囚人たちの心身を消耗させ死に至らせることが目的であり、SS隊員でもなければ思いつかないようなものばかりだった。 恐怖は、囚人たちの日常だった。囚人用バラックからは毎日、何十体もの死体が運び出されていた。 アウシュヴィッツ・ビルケナウ−ここで心身を全うし得た者は、ごくわずかにすぎない。
なんかアイドルがナチっぽい軍服を着てた問題がありましたが、それを見て20年近く前にやっていたメタスラXのことを思い出したので書かせてください。
そのシンボルが赤のバックに白枠の黒いバツ印という、あきらかにナチスをイメージさせるデザインです。
多少問題になってもおかしくない気もしますが、悪役ということもあって海外も含め特に問題視されているのは見たことがありません。
そんなメタスラシリーズですが、みなさん御存知の通りメタスラXでは後半からマーズピープルという宇宙人が共通の敵として出てきます。
(ステージ4でいきなりUFOが出てきて直線的な狙い撃ちで攻撃してきますが、普通のSTGのような切り返しテクが必要になるなど、メタスラ的に「異質さ」を感じさせました)
特にラスボス戦ではモーデン軍と共闘することになり、なんというか最初に見たときはゲームセンターでちょっと感動してしまった記憶があります。
おそらく1ゲーム中だけでもマルコたちは100人単位でモーデン軍を虐殺しているはずです。
(普通に撃ち殺すと100点ですが、近接だと500点です。全クリ時に200万点ちょいですが、ステージクリア時や捕虜、アイテムの得点が大きいので、兵士だけの得点は50万点分くらいだと思う)
(マーズピープルは近接で1撃ですが、死ぬ直前までハンドガンで撃ってから近接をとどめを刺すことでハイスコアが狙えます)
(なお、ショットガンなどの爆発物は大ダメージですが1発100点なので、ハイスコアを狙うときは極力使わないようにしましょう)
モーデン軍視点で考えてみるとはマルコたちは完全にカタキだったわけですが、それでも共闘してくれるのはすごい懐の広さ。
さらに、ラスボス戦最後にマルコたちのためにモーデン軍から支給されるメタスラ。
今までの戦闘を通して、最高のメタスラ乗りがマルコたちであることをわかっているということなんでしょう。
最後に名も知らぬ兵士が戦闘機でUFOにつっこんで自爆するというインディペンデンスデイのオマージュで終わります。
モーデン軍が悪のシンボルだったとしても、兵士ひとりひとりが悪だったわけではなく、むしろ祖国の正義のために戦っていたわけで、なんというか人と人はいつか理解し合えるんだなぁ、と。
今思えば少年マンガ的なご都合展開なんですけど、当時はそれでも心打たれたものなんです。
で、今回の問題に戻るんですが、服自体はいいんじゃないの?って思うわけです。
むしろナチっぽい服を着て仲良くしている絵、っていうのが一番の平和なんじゃないですかね。
今回は裏サンデー
これで兄貴は退場かと思いきや、なるほど、人口AIとは考えたな。
まあ、とはいえ作中でも描かれているように、その人口AIに人格がある以上、彼は犠牲になったといえるわけで。
けれども、そこでちゃんと救われる展開を用意してきたのは「やるな」と思った。
少し前の話であったやるせない展開も含めて、これで収める意味合いがあると考えると、うまいと思う。
シロガネの過去編。
祖父は成果主義で、それを努力の賜物と結びつけるストイックなタイプだったと。
だがある日、シロガネの叔父とその娘、つまり従姉妹にあたるナマリとの出会いが大きな転換期となるのか。
そして、実は努力による成果を得られる人間というのが、実はとても恵まれた、希有な存在だと知ってしまうわけだ。
後編次第だが、ここからどう繋がってシロガネが今の思想や、あのような行動をするに至ったかってのが語られることになるのかな。
うへぇ、マジュル国は喧嘩を売られた側なのに、先に手を出した扱いにされたのか。
けれども、それで返り討ちにあったものだから、元ゲリアル人たちは捕虜や難民を奴隷にしてスケープゴートにしたと。
発端はそもそもマジュル国ではなく、マジュルを攻めた方で、しかも奴隷を売り出したのも他国だったとは。
むしろマジュル国王は奴隷制を作って保護法を設けることで、奴隷への嗜虐に歯止めをかけようとした。
まあ、普通にダジャレそのもので笑うわけがないのは分かりきっていたから、それを起点にどうするかってのが気になる点だったが。
ルイズとは結局やんないのも焦らしとしてはかなりクルもんがある
ふーんって感じ
あんましらん
ぶっちゃけマンネリというか、キャラとかへの愛がなくて設定だけ借りてめちゃくちゃにした感じで全然おもしろくなかった
連合赤軍の話
申し訳程度のエロで、調べた内容を垂れ流しにしてるだけって感じで、氷菓キャラが出てくる割合もかなり少なかったし、面白くなかった
ケッチャムを初めて知った
いいものを教えてもらった
まあ元ネタからしておもしろい・面白くないっていう次元のものではないんだろうけど
これはさすがに知ってた
柳楽優弥がなんか賞とったやつ
見てないけど
マミさんが結構出てきたりさやかとまどかが全裸ラジオ体操するやつだったかな
隣の家の~の次に出たやつだったと思う
隣の家の~よりかは面白かったけど、他の蛸壺作品に比べるとイマイチだなと思った
表紙から。
いまいちだった
セックス安堵ばいおれんすって感じで雑でテーマ性はかなり薄かった
そのまんま。
元ネタはタイトルしかしらんけど、少なくともこの同人誌は艦これキャラを使って史実を書いたっていうだけで、
それ以上でもそれ以下でもない
艦これ愛はみじんもない
伊8にでちでち言わせてる時点で冷めた
あちゃー唯死んじゃったか―で一躍有名になったやつ
映画知らんかったけど、麻薬ネタってのとけいおんメンバーのそれぞれがウンチクとかなしでネタとして面白く書かれてた
澪がおっさんにやられてネットアイドルっぽいので承認用量満たすためにニコ生やったりとか
そのまんまっすね
あずにゃんメインだし
なんだか「オバマさんが広島に来て、原爆の悲惨さを知ってもらえたら」だの
「日本って謝罪を求めない美しい国だよね」だのいう会話を最近立て続けに聞いた。
で、彼らは全員オバマと一緒に元捕虜が一名同行することが決定したことを知らなかった。
もちろん、ホワイトハウスが退役軍人に配慮したため、このような決定が成された。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160522-00000057-mai-int
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201605/CK2016052302000121.html
元捕虜はフィリピンで旧日本軍の捕虜となって足尾銅山で強制労働させられた94歳の男性だ。
彼は今回の訪問に当たって
「兵器は人を殺害するので、全ての兵器は嫌なものだ。しかし、戦争を引き起こしたのは米国ではなく、ドイツと日本だ」
「オバマ大統領は、中国や韓国に対し、日本軍の占領の苦しみからもっと早く救えなかったと謝るべきだ」と発言している。
このような思想を持っている元捕虜をわざわざオバマ大統領に同行させる意図は明白だろう。
結局のところ、今回の訪問でアメリカでは原爆正当化の意見が盛り上がっているし、
それに対して日本は何も抗議できず、ましてや我々は謝罪など求めないなどと、なぜか胸を張っている。
むしろ原爆正当化の格好の機会をセットアップしたということになるだろう。
さらにいえば、元捕虜に対して日本が謝罪しなければいけない、日本が降伏するのが遅かったのが悪かった、という議論さえ出てくるだろう。
バターン死の行進とは、第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦において、バターン半島で日本軍に投降したアメリカ軍・フィリピン軍の捕虜が、収容所に移動するときに多数死亡したことを言う。全長は120kmで、その半分は鉄道とトラックで運ばれ、残り42kmを3日間徒歩で移動した。
太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦における日本軍のフィリピン進攻作戦である。
本間雅晴中将の指揮する第14軍主力は12月22日にルソン島に上陸し、1月2日には首都マニラを占領した。
しかし、アメリカ極東陸軍のダグラス・マッカーサー司令官はバターン半島に立てこもる作戦を取り粘り強く抵抗した。
45日間でフィリピン主要部を占領するという日本軍の予定は大幅に狂わされ、コレヒドール島の攻略までに150日もかかるという結果になった。
最近、新書で『トラウマ』(トラウマ (岩波新書) 新書 – 2013/1/23 宮地 尚子 (著))という本を読んだ。
次のようは話が出てくる。
今、国際条約で身体的な罰を与えることは禁じられている。
または、捕虜へ目隠しをしておいて『ここは、地上10階です。あなたは、突き落とされます』とか、”恐怖心を受けつける”タイプもやり方もあるとか。
身体に傷跡という証拠を残さないタイプのやり方が写真付きで書いてあった。
過労死に追い込むブラック企業のやり口も似たようなことをやっている気がする。
恥をかかせたり、クビをちらつかせたり。
ほんと、悪知恵の働く人っているよな。