はてなキーワード: 大陸とは
険悪な関係を広げる中国ではあるけれど、かつては「中華」にふさわしく、東アジアのみならず、東南アジア、西アジア方面へ制度や文化を発信していた。
特に、「漢」は、同時代にある「ローマ帝国」と同じように、東ユーラシア大陸のシステムの基礎を作ったと言っても過言ではないだろう。
「ローマ帝国」が地中海地域やヨーロッパの基礎を作ったように。
伝統の「漢の文化」は、いかなる異民族に侵入されようとも、異民族の文化を「漢化」した。
優れた制度を持ち、華やかな文化を持ち、数千年に渡り威光を放っていた大陸の国家は確かに存在していた。
共産主義の下、さまざまな伝統が破壊され、今では巨大なマーケットか、トラブルメーカーとしてしか認識されていない。
(それでもなお凄みを見せるのは、共産主義でさえ、中国化(あるいは「漢化」)していることだ)
かつての存在感を取り戻すための示威行為なのか、たんなる資源獲得なのかはわからないが、まるで遅れてやってきた帝国主義の国のようだ。
―列強、帝国主義の時代こそ、中国(清国)は東ユーラシアの盟主として立ち上がらなければならなかったのにも関わらず。
たぶん、日本にとって中国、というか海の向こう側にある大陸の先進国はあこがれであったと思う。
孔子の儒教や北側経由で回ってきた「道教」の影響を受けた仏教は、日本人の生き方に影響を与え、
茶、歌などはその後、独自の文化的発展を築く礎となった。
だからこそ、大陸の後継国の中国に対して、日本人だけでなく、多くの東ユーラシアの国々の人は複雑な感情を抱いているのではないか。
確かに、昔は輸送手段が乏しく、中国のあるところにいた人を実際に見る事ができなかったからこそ、書物で伝えられる聖人や君主が素晴らしく彩られていたのかもしれない。
アヘン戦争では、あの清国が敗れたと日本で大騒ぎになり、国家としての改革が急務となった。
当時の日本の中に、清国と連携し、ヨーロッパと対峙しようとした人々がいると聞いた事があるが、
それはなされず、脱亜論に代表されるように、日本は東ユーラシアから抜け出していく。
この時、それまであった不文律の東ユーラシアのルールが変わった。
かつての超大国は列強に食い尽くされ、その輝きを失った。
アヘン戦争や列強の支配、そして日本の軍事侵攻は中国の大きな傷になった。
近年の経済発展と共に「中華」を認識し始めたこの国は、東ユーラシアの覇権を再度、力によって取り戻そうとしている。
「力」による支配はすでに時代遅れのものになっているが、大きな傷を癒すように、暴力的な行動が後を絶たない。
また、過去最大の領土を誇る事が、共産党の大きな統治理由になっているようであるが、その中で、各民族の独立の機運が高まっている。
今まで中国に投資をしてきた最大の貿易国である日本は、足場を大陸から南に移し始めており、経済成長も徐々に陰りが見えてきた。
強烈な貧富の差の拡大は、歴代の大陸の王制の崩壊要因にもなっている。
この国がやるべき事は、張り子の虎の様な振る舞いではなく、栄光ある後継国として腰を据えて国家を「再興」させていくことではないのだろうか。
駄文長文失礼
SF、ライトノベルの世代間闘争が華やかだけれど、そんな中ひっそりと続きを出してほしいライトノベルを思いつく範囲で。継ぎ足してください。
火浦功って非実在作家だったの? 高柳君のペンネームだったのか。
最近全13巻の構想が発表されたのでめでたく卒業か。まだ予断を許さない。
合掌
合掌
作者が新シリーズ始めちゃった。
秋山には猛省を促したい。ただでも遅筆なのに後片付けもできないとは。先生は悲しいです。
あれで終わっててもいいけど。
もう出ないだろう。合掌。
これは本当、今すぐ出してくれ。頼む。
あれで終わってるのか。
日常ミステリの秀作。メディアワークス文庫なら化けてただろう。
あれはあれで終わっているけど。
イラストレーターにはとりわけ頑張ってほしかったのだが……。ファミ通文庫も切るのがはやすぎる。
なぜ一冊しかない。そんなに木本が憎いのか。
同じくファミ通文庫。のちハヤカワ。それでも無理か。
まだここに入れるには早すぎるかもしれないが。
風呂敷をひろげるだけひろげてそのまんま。よくある事故ではあるが。
なぜ1冊だけ出した。
思いつく範囲で以上。
「星くず英雄伝」を復刊したぽにきゃんBOOKSに期待したい。
韓国のフェリー沈没事故の報道を見て思うのは、遺族の感情表現がとても激しいこと。
衆目憚らず猛烈に泣き叫び暴れる。先日のマレーシア航空墜落事故での、中国人遺族も同様。
その昔、大韓航空爆破事故の報道映像でも似たように嘆き悲しんでいた遺族を記憶している。
「泣き女」という文化が中国、朝鮮には存在する。葬式の場で大いに泣いて悲しい雰囲気を演出する、歴とした職業らしい。
翻って日本人が、特にマスコミの前などで、そのように感情を爆発させることは少ない。
感情を赤裸々に発露させようとしても、恥が歯止めをかけるのか。
他のアジアの国だと、前観た映像で、台風に被災したフィリピン人遺族は粛々と泣いていた。
欧州について。
フランス人は議論するとすぐ白熱して、天下の往来でも大きな声と身振りで言葉を交わす。
色々例を挙げて何を伝えたいのかというと、感情を抑える、爆発させないことは島国に特有の気質なのではないかということ。
島国と大陸は二元論的に語られるトピックだと常々思っていて、たとえば外山滋比古は言語における差異を「アイランド・フォーム」と「コンチネンタル・フォーム」と区別している。
徐々に何人か職場から人がいなくなるのはちょっと寂しいなあという話。
でもその中の一人が職場で一年ぐらい前から明らかにトレインスポってて、
それにかかわりたくないから、
彼の自社のリーダーも偽装請負元の現場監督も見て見ぬふりだったよな。
明らかに進捗上がってないからわかっただろ。異変に気付いたはずだ。
かれは健康な時は性格もとてもはっきりしていて江戸っ子チャキチャキ。
ほかの彼の会社のゴミどもと比べると仕事もできていいやつだったんだ。
だが彼はいつからか、目の焦点あわなくなり、しゃべりの呂律がまわらなくなった。
仕事中急にいなくなって社内のいろんなところでStoned状態で発見されていた。
かと思うと会社の前の道路の真ん中でふらふらしながら音楽聞いて頭を振ったりしてるのを目撃されたりした。
そんなこともあり彼はさすがに作業ができなくなり、
どうしようもなくなって
自社をやめて檻のついた病院か更生施設でしばらくリハブらしい。
トレインスポッた原因はいわゆるBraking Badな薬か、はたまた処方箋でもらった向精神薬か・・・
いったいどちらだったのか?今となってはわからない。
こんなになるまでほっといていた彼の会社の連中もひどいとおもった。
職場で彼のこんな醜態をさらさせずに、やんわりと休職を促せばよかったんだ。
おそらく助けてくれる人や優しく声をかけてくれる人を待っていただけだったんだ。
そしたら、寛かいしたら、またここに戻ってこれただろうに。
自社側リーダーのあいつも、彼があんな状態になってることにも全く気にかけていないようだった。
本当に冷たかった。
あれは絶対に積極的に介入すべきだったとおもう。
彼が本当にかわいそうだよ。
プライドだけ高いアスペでサイコパス気質なやつはまだ会社にいる。
あいつも全然彼のこと気にかけないでずっと糞みたいなしごとしてたよな
自分の作業を作る作業みたいな糞作業。
彼は華麗に自分の無駄なお仕事をクリエイトする能力がある「お仕事クリエイター」
それが原因で周りにどれだけ迷惑かけてるのやっぱりアスペだからわかんねーんだろうな。
そして、その上サイコパス気質なやつだから損得だけで行動してて、
責任をすべて人に擦り付けるような大陸の人の仕事の仕方なんだよな。
そういうのもうやめようよ。
あれは、やられる方の身になるとむかつくよな。あいつはやっぱり糞だよ。
でもそういう少し異常な人間じゃないと長く仕事できない環境なのかな。
てなことをいう俺、みたいな。
いろんな国の人と仕事をやってるので国民性・地域性を悪意を持ってまとめてみる。
ジャイアン系馬鹿、俺は正義!お前らは俺に逆らうな!お客様は神?いや俺が神だ!
印象なし、意外と印象が薄い。いるのかいないのか分からないほど印象がない。
特に問題ないと思うよ。
分け分からん系馬鹿、国民レベルが低く意味が不明。リアル北斗の拳の住民。
関わるとカオス
妖精系馬鹿、俺たち陽気な妖精さ!毎日遊んで楽しく暮らすのさ!るるるるる。
難しい事をさせてはいけない
意思伝達は難しい。
いざと言う時にダラダラ、普段はすごいが、問題起きてもだらだらしてる。
ヤバくなると動かないかもよ
いざと言う時に逃げる、普段は生真面目、でもヤバくなったら適当にごまかす。
ヤバくなると逃げるかもよ
集団系キチガイ、一人一人レベルが高くまともだが集団になるとキチガイになる。
客になったら駄目、寿命が縮まる。
単独系キチガイ、一人一人のレベルが高いが単独でキチガイ、集団になると争乱。
客になったら駄目、即死決定。
日本人はなにかトラブルが起こった時、裁定者を求めるのが普通である。例えば、駅前に停めてある自転車が邪魔だと思ったら、自分で自転車の所有者に文句をつけるのではなく、市役所や駅員にどうにかするよう言いに行く。
これは日本人の個の弱さだ、と喝破する論説を読んだことがある。その時私は、これは日本人なりの文明的な態度なのだ、という感想を持った。揉め事が起きた時に当事者同士で言い争うのではなく、第三者に訴えて両者裁定を待つのが日本人的だと思ったのだ。
そんな日本だからこそ裁判を活用しそうなものだが、日本は訴訟国家ではないというのがアメリカと比べての結論らしい。とすると日本では裁判沙汰になる前に決着が着いてしまう、ということなのだろう。裁判官以外の第三者の裁定で納得してしまうのだという推測ができる。
なるほど、これはたしかに個の弱さだ、と今になって思う。
この日本人的な気質がどのように作られたのか、というと、その答えは天皇陛下の存在以外にはない。あの戦国時代でさえ、各武将は「陛下のため」というお題を錦に掲げていたのだ。日本人には従うべき絶対者がいる、というのは多神教が支配する日本の中に存在する一神教的な点であり、非常に興味深い。
さて、島国日本ではそれでよかったが、翻って大陸ではどうだろう?同じ神を信じる者同士であれば司教などの裁定が通じたが、宗教が違ってしまうとそれも出来ない。つまり、どこまでも個以外に頼るものがなく、個と個の激しいぶつかり合いがあった。それは、彼の地で生まれ育った人々の気質にも大いに反映されているはずだ。というか、そうした個の強さこそ世界のスタンダードだといえる。
日本が外交をする際に、こうした日本人と世界一般の人々の気質の違いを踏まえていないと、大変な火傷をすることになるだろう。
例えば領土問題。この問題を国際裁判所に訴えればいいという言論があるが、これは一概にそうとはいえないのではないか。これは日本人同士の争いではなく、国と国の争いなのだ。人種はもちろん宗教も憲法も違う国と国の争いを裁定するのは何者なのか。その裁定にはどんな意味があるのか。これを、普通の裁判と同じように考えてしまってはならない。
国際裁判所には、裁判は争いあう両国の同意があって初めて成立する、という大前提がある。これはある意味当たり前のことだ。国という個が裁判結果を受け入れる姿勢がなければ意味が無い。司法裁判でもないからなんの強制性もない。だからこそ、どこまでも個がぶつかり合う国際社会の場では裁判という問題解決方法はあまりにも意味を成さないのだ。
つまり、国際社会に日本の主張を受け止めさせたかったら、どこまでも主張を続ける以外にない。第三国の裁定も裁判と同じだ。争う両国にその裁定を受け入れるという最低限の同意がなければならない。誰かに問題の解決を頼むのではなく、自力で問題解決に向けて行動するしかないのだ。
沖縄をそのまま大きくしたような土地だと、台湾史が中国史にほとんど影響与えてなかったことから分かるように、土着政権が大きくならないので、それほど違わない率が高い。
これだとつまらないので日本史というか日中関係史から妄想してみる。
とりあえず遣隋使や遣唐使が多少捗る気がするけど、武家台頭あたりまでは大差ないはず。
大陸で南宋が成立して、日本が武家政権の時期になると、流石に大琉球の重要性に気付くことになる。
妄想的には奥州藤原氏みたいな形の琉球藤原氏(始祖は藤原純友?)か、琉球源氏(始祖はもちろん鎮西八郎こと源為朝)がいて、日宋貿易を仲介して巨万の富を築いていると面白そう。
交易の規模が拡大し、平家政権の力は多少増す。それで頼朝の攻撃を跳ね返せるかは分からないが、足利尊氏よろしく都から追い落とされても九州で再起を図るシナリオがあり得る。
妄想なので、貿易チャンネルを握っている強みを生かし、瀬戸内の水軍を調略で一挙に寝返らせる逆転攻撃があれば、源氏の攻撃を阻止できる、はず。
日本が東西に分裂したままになるか、平家主導で再統合されるのかは謎だが、琉球の存在感は増す。奥州よりも征服難しそうな相手なので、本土の政権がどうなろうとも、半独立を維持したままモンゴルの台頭を迎えることになる。
この後の展開はおそらく、
「あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
「おれは『海嘯』を読んでいたと思ったら いつのまにか『国性爺合戦』を読んでいた」
だと思われる。
武田信玄が「生まれて初めて海を見て、感動興奮する」シーンがあった。
鉄砲材料を入手するため、海路の出入り口を押さえたい(=駿河へ進出したい)というくだりもあった。
つまり、海を見たい、海港を獲得したい、という欲求が、武田家の領土獲得欲求になっていたのでは?とある。
この辺の欲求は、帝政ロシアが海港を欲求して南下したのに通じる。
で思ったのだが、戦国時代江戸時代は勿論、明治以降も、戦前までは
「山梨県人・長野県人では、海を見たことがない庶民が多数派だった」のではなかろうか?
先日「長野県人は戦前は滅多に海の魚を食べてなかった、海の魚の名前も知らないだろう」と投稿したが、
「そもそも海を見たことないんじゃないか?」とも思った。
もし海を見たとすれば、「徴兵されて、大陸へ送られる過程で見た」という程度じゃないかと思う。
さすがに現代では、義務教育課程での修学旅行なども普及しているので、山梨県人長野県人でも、
で、実は大陸国家である中国などでは、「海を見たことがない」という中国人が、今でも多数派らしい。
海南島に「中国のハワイ」と呼ばれるリゾート地、三亜があるが、ここには「生まれで初めて海を見たい」という
また、沿岸部の上海・天津などでは「海を見たことがある」という市民の方が多数派だが、
「海から昇る太陽」は見たことがあっても、「海へ沈む太陽」は見たことがない。
なので、彼らにとって、日本の「海へ沈む太陽」が見れるスポット(例’大阪湾)などは、抜群の観光スポットらしい。
同様に、アメリカ50州の中でも、内陸州で生まれ育った人には、今でも「海を見たことがない」人間が結構いるらしい。
恐らく、インドでも内陸(デリーなど)の方では、「海を見たことがない」インド人が多数派なのではないか?
そう考えると、実は、人類全体の中でも「海を見たことがない」人の方が、多数派なんじゃないか?という気がしている。
『ちょっと横道にそれる部分なんだけど』と書いてるけど、脇道じゃなく、そこが本題。
人々の頭の中にある考え方は、これとはまるで違う。
「ヨーロッパの一部としてのロシア」という概念は、ロシア人や欧州人の内では常に圧倒的な少数派でしかない。
つまり
『でもこれは既存の、少なくとも最近の腑分けの仕方ではない、と感じた。』
なお、イギリス人(正確に言うとイングランド人。スコティッシュやウェルシュは知らん)は
と思ってて、自分たちをヨーロッパに含めるのはそれが都合がいいときだけだ、とかなんとかそういうインチキな意識を持ってたりする、場合もある。
ちょっと気になったけど、
世界島(せかいとう、World Island)は、アフロ・ユーラシア大陸(ユーラシア大陸とアフリカ大陸)の本体のことであり、周辺の島々(特にグレートブリテン島(イギリス)、日本列島(日本)など)は含まない。
マッキンダーの提唱と南極発見・測量が時期的にどう前後するのかわからないし、意図的に除いているのかもしれないが、世界島 - Wikipediaやハルフォード・マッキンダー - Wikipediaに載っているマッキンダーの地図にはなぜか南極大陸は描かれていない。
(ユーラシア大陸 + アフリカ大陸 - ブリテン島 - 日本列島) / (全大陸 - 南極大陸) *100 だとだいたい62%くらいで、2/3と言っていいんじゃない。
マッキンダー自身が2/3と言ったのかどうかは知らないけど。
「失敗をおそれるようにさせるのは何か」というのは、日本的風景だと言われるし、なるほどおもしろい。
結果で物を言う、という言葉があるけど、もともと結果以外の部分で評価する文化じゃないからだろうか?
でも、平安時代には、どっちかというと「形や名として示せるもの(大陸的なモノ)よりも、明確な形に残らない微妙な心の在り方とか(日本的なモノ)を評価する」のが文化的だったはずなんだけど、そういう貴族の文化が、「命を惜しむな、名をこそ惜しめ」「働きが石高になる」の武家文化に駆逐されて以来、「形として残る物だけが評価対象である」という風潮に変わり、今に至っているような気がするが、どうなのだろう。最近では、更にそれが加速して、「名(ブランド)」や実体すら無意味なものみなして、ひたすら「結果としての形(カネ)」あるいはコマギレになった「情報」だけをむやみに有り難がることこそクール、というふうになってきているようだけど、もう、何のために生きてるの、それ、楽しいの?ってレベル。お互いを、心などないロボットか人工知能とみなして「インプットに対するアウトプット」だけを評価する、って話だよね。
だから、「失敗をおそれないように」するために、「チャレンジ・トライする姿勢を評価しよう」なんて主張したら、さっそく「『姿勢』? 『心』の在り方なんて、目に見えないものをどうやって評価するんだ!」とか噛みつく人が出てくるんだろうな、と想像。
そりゃ「トライ」したくもなくなるわwww
石景山遊園地を米国の巨大テーマパークの模倣と揶揄するの前にかつて日本にも横浜ドリームランドや奈良ドリームランドという遊園地がありまして、その2つともパークの設計やアトラクションのコンセプトが米国にある本家のそれにそっくりすぎて、舞浜にあるアレを日本に誘致するときにあのドリームランドは何様なんだと本家に断られそうになったエピソードがあったことを思い出してください。
・パークセンターの西洋風のお城→シンデレラ城(パークによって城の種類は異なります)
詳しくは、調べてください。昭和30年代の出来事だし、ドリームランド自体が淘汰されてしまったので、難しいかもしれませんが。
本家も、著作権の切れている小説・古典や昔話や童話といったものをコンセプトとして、二次創作(再創作)しているもポイントかもしれません。著作権が切れそうになるとパート2やリニューアルを作っています。
大陸のやり方を快く思っていませんが、わが国もかつてはそうだったということを頭の片鱗に覚えておいてほしいと思いました。
高度成長していく過程でより先進国の行動を模倣するというのは、どこの国にもあることなのではないか。
アニパロ同人誌を作ってコミケで売りさばく漫画家の卵とか学生のように、二次創作という名の模倣ですよ。無許可便乗商法です。
ある程度大人になったら、無許可の模倣では商売できないことがわかって、グレーゾーンから卒業していく。大陸の国はその課程にあるのではないですかね。
マーケティングの一環として、年中お祭り騒ぎをしていなければならない今の商業形態もどうかと思いますけどね。
・8月の末になったらコンビニに肉まんとおでんが登場(まだ夏なのに、冬に向けたイメージ付け)、敬老の日
・9月にはハロウィン(こちらは10月の末ですね)、秋祭り(このパンチが弱いのかも)
・12月にはお正月。(クリスマスメインのところは12/26から急にお正月ですね)
・1月にはバレンタインとごり押しの恵方巻き(普通にスライスして食べたいですよね)
好むと好まざるにかかわらず、日本の伝統的なお祭りが弱い月に海外のお祭り的なものをその意味や趣旨を考えずに楽しいところ取りをして企画として押し込んでいるのが、消費を無理に喚起しようとしている今のマーケッターの手法なんでしょうね。一過性でものが売れればよくて、そのコンセプトや趣旨なんて微塵も考えていないというのが正直なところなのではないでしょうか。
アメリカの本家は、その最たるもので、毎日世界のお祭りが各国のコンセプトを無視して楽しいところ取りで行われているのが興味深いところです。
このまとめを見て、昨今のウイグル問題に関する文脈に一言物申したくなった。
僕は親中というわけではないけど、とりあえず嫌韓ネタ出しとけばいいや、みたいな思考停止が嫌なのです。
そして話題が話題だし、ちょっと重い話も含んで語りたいから、増田で書く。推鼓する時間も無いので、とりあえず取り留めなく。
僕は日本に住む日本人だけど、過去に中国在住8年。彼女がウイグル人で、向こう6年の付き合い。
まとめ元の井上氏とは、そういう意味でちょっと似てる立場なのかもしれない。
不思議と日本国内には居ないのだけど、大陸には「新疆地方」出身(※1)の知人・友人(※2)が何人も居る。
※ウイグル族には限らないです。新疆には沢山の少数民族が住んでいるし、漢民族ももちろん居る
※皆、いわゆる犯罪組織やヤクザのメンバーではない一般人ですよ
もう少し背景を付け足すと、2009年のウイグル騒乱前にも、観光ベースで新疆をブラブラしていた事がある。
実は天安門事件前にも一ヶ月間、新疆に観光へ行っていた。シシカバブ・ラグメン最高。ビールが気軽に飲めたらもっと最高なんだけどな。
上記の通り、僕は多少ウイグルに縁がある一般人というだけで、歴史学や地政学に特別詳しいわけでも、何でもない。
なので、僕はなかなか文脈の中に出てこない現地(ウイグル地方)出身の一般人、あるいは旅先で現地の人に聞いた事を客観的にそのまんま書く。
詳しいレポや現地メディアの状況は@furumai_yoshikoや@dongyingwenrenのような専門家の方がずっと詳しいし、ためになる。
気軽にヘイトに走っちゃう人はぜひ、彼らが過去に書いた記事も、よく見てほしいのです。
以下、現地の複数少数民族にきいたこと
・別に、何とも思ってないよ
・無能。特に公安。ウイグル騒乱の時、彼らは漢民族もウイグル族も守らなかった
・今度、政府が立ててくれる少数民族専用マンションに引っ越すんだ。
・他の少数民族と変わらないんじゃない?
・普段はいいけど、何か問題が起こった時に締め付けが厳しくなるのが面倒
列車に乗るのも一苦労
・チベット族ほどじゃないと思うけど、差別を感じる事はよくある
3. ラビア・カーディルって知ってる?
・知らないよ。誰?
・大きな事件があった時に名前を聞くけど、何をしてる人かは知らない
4. 2009年以降どう?
・漢民族とウイグル族の居住地区は、明確に分かれるようになった
※大きな街では、東西・南北で町並みが全然変わっていた。東側は中国風、西側はイスラム風みたいに
・めっきり、お互いの民族間で交流しなくなった。市場で他民族を見る事がなくなった
・(相手民族)が怖い。間違っても人通りの多い所には行きたくない。
・カザフ、モンゴル、キルギス族の多い北の方は、逆に景気良いよ
-.政府(※地方政府)がロシアから建築家招いて、超豪華な公衆トイレ作ってくれたんだぜ!日本のトイレみたいだろ!
眠たくなってきたのでこの辺でいったん〆るけど、なんとなく現地人の雰囲気が伝わるような物をピックアップしてみた。
総体的に、彼らと話していて感じた事は「民族としての連帯が非常に緩い」「人生楽しそうだな」という事。
今、よく日本で言われている「少数民族としての劣等感」「独立意識」「民族弾圧」のような要素を感じる事は無かった。
政府への不満はよく聞いたけど、それは中国に住む人であれば皆同じ事を言う類のものだった。
よく漢民族の言う「少数民族は優遇されている!」というのも、本当なのだなと思った。
日本で言う所の在日特権みたいな物も存在するんだけど、新築マンションの家賃8割政府負担は恐れ入った。
とはいえ、増え続ける失業者対策の一環なんだろうとは思いつつ。
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ちなみにウイグル騒乱の時は、彼女を通じてウルムチの様子をLIVEで聞いていた。広場でウイグル族に殴り殺された漢民族の女の子の話、
仇を取ろうと仲間を集めて家を出て行ったその子の父親と、それを必死で止めた、ウイグル族の隣人。殺到する群衆を恐れて、
橋の下で夜通し隠れていたウイグル族の親子。その親子が深夜、公安に保護されてようやく帰宅できた話。
異人系の顔立ちだから、漢民族・ウイグル族どちらからもターゲットにされてしまうカザフ族の話や、漢民族との勘違いを恐れて、
家の外に出られないモンゴル族の話。結果、ターゲットにされて腕を刺されてしまった男性の話。
この時、僕らは彼らに何も出来なかった。地理的な距離がありすぎたし、日本と違ってそもそも、支援する手段が無かったからだ。
※情勢が落ち着いた頃、新疆は冬が厳しいという話を聞いてユニクロのヒートテックグッズを送ってあげた。
腕を刺された男性は、後日傷を見せてもらった。痛々しかった。でも命があって良かったと思った。こんなので刺されたら、普通死んじゃうわ。
http://www.koohji.com/upload/2009/4/200904111726561635.jpg
全て彼女の身近な人だったから、サンプルとしては凄く少ないのだけど、民族間対立とは、紛争とは何か、
中国という国は何かを考えさせられるには十分すぎる体験だった。
これは未だに考え続けていて、答えは見つからない。今後も考え続けるんだろう。
答えが見つかる気はしないし、誰かが答えを教えてくれる気もしない。どうしたもんかなあ。
2年前くらいからオフショア開発を始めた。近年では全部中国開発だ。だから辞めた。一番大切な部分を他人に任せているような気になったからだ。
最初は詳細設計書を渡して、成果物が納品されていた。そのうちに詳細設計の一部が現地対応のほうが早い(工数がかからない)となり、それがどんどん増えていった。こちらに中国語が喋れる人はおらず、大陸側に日本語をしゃべれるコーディネーターがいて仕事を進めている。
これはつまり、こちらから見れば大陸のソフトハウスは替えが効かなくなってしまっている。向こうは日本語が喋れるのだから、日本語圏の仕事ならどこでも問題なくプラグインできるというわけだ。最初のころは社内に中国語が喋れる日本人がいたのだが、日本語が喋れる中国人のほうが安いので入れ替わった。これも経過とともにそうなった。
日程の詳細管理も大陸側で行っている。品質も一時受け入れは大陸側で行っている。こちらで納期のチェックとおおざっぱな進捗管理、最終納品チェックとおこなって、発注元に納品となる。もううちでなにがしらかの技術が身に付く瞬間は存在しない。修正、更新、機能追加も大陸で対応しているのだから、プログラミング機能なんてぜんぜん知らなくてもソフトハウスをやっていける。勢い、社内の人は減っていった。正しくは減らしていった。究極、営業だけでいいんじゃないかと、俺は思う。
そうやっていろいろ手放していって、最終的にどんな会社になるのか見てみたかったが、俺が退職する番となった。特に悔やむことはない。
・これは番号を入力するとその番号に応じてさまざまな場所にいける装置で指定の番号を入力後扉を開けるとその扉の向こうにはその番号に対応した場所がある
・目の前に扉がある、横には電卓のようなものがある、ためしに数字を入れてみる、扉が開いて隣の部屋に通じている、戻って色々探索してみてもう一度入ろうとして適当に数字を入れる、でも開いた扉の向こうがさっき電卓に入れた数字の時と今入れた数字の時と隣の部屋が違う!
同じ現象でも上と下では受ける印象が全然違う
現代人ってそういう描き方できないよね
まず全体像があって
昔の人はまず自分の体験が合って気持ちがあって、と言う考え方する
現代人の考え方は既に全てをマスターした人の視点で語ろうとするから
何も見えない、何も知らない、自分の視点で、「自分の肌」で経験する不思議やなぞを、一つ一つ解明すると言う体験が出来ない
昔の何か起こるか分からないけれど未知の大陸を求めて~と言う冒険心と物理的な障害があって
と言うのの違いと思いだと思う
同じ不思議な事が起こる話でも
現代人の話では、まずどうしてこういう事が起こるのかの説明がなされている
昔の話では、何故こういう現象が起こるのかは主人公の視点では分からない
魔術が使える~で例えると、現代人はこの世界では魔術が使えて~~~と説明が入ってからその説明に沿った魔術が使えて
昔は何の予備知識も無い状態でその現実では起こるはずの無い不思議な現象を目撃、小さな不思議がいかにすごい事であるかのように演出する
作り方によってはそうでないんですよ
もしも
選択肢2「船」
選択肢3「陸伝い」
そのどれかを選択しなさい
という作り方をした場合
「朝鮮半島までフェリーで行って、大陸に上がってからは北上してロシアまで。」
と言う選択肢は無い
そこに「飛行機」、「船」、「陸路」と言うものを作っただけの場合だったらどうか
そこにあるものは、世界と言う「空間」と、空間の中で使う事ができる「手段」だけ
そこでのプレイヤーの行動は自分で下した選択であって選択肢を選んだ訳ではない
プレイヤーの選んだ選択によってどう分岐するかが決まったのであって、あらかじめ作られた選択肢の中から選んだ事で分岐した訳じゃない
そこで選択肢≠分岐
もしも究極的に考えればプレイヤーが日本からアメリカにいきたい時
そこに移動する事の出来る飛行機と言う物と船と言うものがあります
最初はただそれだけ
飛行機でも船でも
歩いてでも、泳いででもいける
この例で、作者が作ったのは、「日本の場所」と「アメリカの場所」と「飛行機」と「船」だけ
後はどう行動するかプレイヤーの判断
選択肢としてシナリオを作るとプレイヤーが選択肢1「飛行機」だったら「飛行機を使ってアメリカまで到着する」までのシナリオを作らなきゃいけない
選択肢が複数あるのならその選択分全部を作らなきゃいけない
分岐とは、プレイヤーの行動したフラグによって変化するものです
「日本の場所」と「アメリカの場所」と「飛行機」と「船」だけが作られた世界でプレイヤーが飛行機のチケットを買ったか、船のチケットを買ったか
それらに対して、プレイヤーから見えない部分で何かが変化します
それが分岐
選択肢としてシナリオの分岐を作った場合プレイヤーの行動をどこで何をするのか全て完璧に監視して管理する必要があります
シナリオから外れたら困るからシナリオどおりにプレイヤーを動かすためです
でも分岐するかどうかだけ、だったら、「どの行動をとたっか」「何をしたか」「何をしなかったか」しか監視する必要は無いので
労力もかからない
そしてプレイヤーも束縛されていないので自分の判断こそが意味のあるものになります
作ってる人が監視するのは、プレイヤーの見えない「何々をやったか(やってなかったか)」「何々を通ったか(通らなかったか)」「何々をもっていたか(持っていないか)」
プレイヤーの通ってきた結果だけ
プレイヤーのこれからする事なす事全てを制御しようとするから作業が膨大になるうえ、限られた選択肢しか出来なかったりする
なのでルール上で許される監視されてる条件さえ整えれば想定外の行動だって許されるのです
ゲームが分岐で表現されるのは、分岐する事そのものに面白みがあるからです
例えばポーカー
プレイヤーは自由に出来る
作る側は場所とルールを与えるだけでプレイヤーは何をするのも自由
それを選択肢には限りがあると考えてる人は、こう考える
スリーカードを作る為のカードの残し方と、フラッシュを作る為のカードの残し方以外に選択肢が無い
だからもともと、その二つを強制的に選ばされる
そのプレイヤーによってはもしかしたら全てのカードを取り替えたいかもしれないし
思いもよらない手を考えるかもしれない
しか頭に思い浮かんでいない作者は、スリーカードで勝つか、フラッシュで勝つかしか選択肢を与えない
もともと何を残し何を捨てるのかはプレイヤーの自由だったはずです
ルールによってのみプレイヤーは束縛を受け、ルール上ならどんな行動も許される
但し、それらには全て結果が伴う
最後に残った役でのみ「分岐」する
同じ数字のカードが3枚あったか、同じ絵柄のカードが5枚あったか
そこで結果が出て
そしてその選択と結果を繰り返す事で最終的にどうなったか
製作者が意志をもってプレイヤーの結末を決めていてプレイヤーがそのレールに乗るだけだったらつまらない
製作者がするのは判定だけ
または裁定
プレイヤーのやった事に対して
あなたは条件を満たしたのでこうだ
あなたは条件を満たさなかったのでこうだ
その結果、分岐が発生する
だからプレイヤーは自分にとって都合のいい結果または分岐に進む為に試行錯誤を繰り返す
それがゲーム
火事で火が迫って来る
兎に角、出口を目指すか
鍵を先に探して来るか
自由
但し出口に付いた時、鍵がかかっていれば出られない
火が広がっているなら戻れない
もしも出口に来た時、鍵を持っていればそのまま出られる
もしも鍵を持っていなければ出られない、その時はもう火の手が迫って戻れない
それが自分の選択によって生じた結末の分岐
もしも必ず鍵を探してから出口を出る
鍵を取るまで出口に向かう事が出来ない
と言うシナリオが固定されていればプレイヤーは何の判断もする必要が無いのだからプレイヤーとしている必要性がそもそも無い
自由な場所とルールが与えられていても、裁定を下す存在(人=作者)がなければつまらない
人は自分がした事が正しいのか、間違ってるのか、その答えを求めたがる
その答えを与える存在がなければ何をやっても暖簾に腕押しでやってる人は意味を感じない
自己満足がいいところ
良い、悪い
良いの後にはどうなるのか、悪いの後にはどうなるのかそれが分岐
良いいの後ももう一度、良い選択が出来るかもしれないし、そうはならないかもしれない
悪いの後まだ続きがあるかもしれないしそのまま終了する事だってある
そういうツリーをたどって一番の良い結末を目指すのがゲームの本質
または、悪い結末はどうなるのかを怖いもの見たさで見るのも楽しみの一つ
ゲームが分岐で表現されるのは、そうすることしかできんかったからだよ。
それが大事だからと、ターニングポイントで「ああしてなかったら」という
別の可能性を考えて、選択肢をつくることができるな。
「もし大学受験でもっと勉強して、1ランク上の大学に入学できてたら?」
という選択肢を考えることができる。
の2つの分岐が考えられるな。
だがな、こんなの所詮は設定した人間の意志に狭められてんだよ。
他にも、「日本からアメリカへ旅行に行くとき」の選択肢を考えてみりゃわかる。
選択肢2「船」
選択肢3「なるべく陸伝い」
一応は、陸海空の3つを用意したが、
この選択肢の設定では、致命的なまでに
「朝鮮半島までフェリーで行って、大陸に上がってからは北上してロシアまで。
カナダに着いたけど、アメリカ行く気分じゃなくなったから飛行機でそのままイギリスへ。
資金が底をついて慌てて日本へ帰国」
みたいなわちゃわちゃなルートは辿れない。致命的なまでに。
こうした複雑な選択肢は、ところどころに更なる分岐を設定しない限り無理。
さらに複雑にするには、そこから更なる分岐をもっと設定せにゃならん。
そして「更なる分岐を設定する」という人為的な行為には、限界がある。
DQ・FF・テイルズ、どのRPGも「世界を救う」というゲームの目的上、
ことによれば最終目標を反故にして「幸せにならない」というのもアリ。
「選択肢を設定する製作者の意志を裏切ることは絶対にできない」ってことだ。
そんなことのんべんたらり述べつつ、