「失敗をおそれるようにさせるのは何か」というのは、日本的風景だと言われるし、なるほどおもしろい。
結果で物を言う、という言葉があるけど、もともと結果以外の部分で評価する文化じゃないからだろうか?
でも、平安時代には、どっちかというと「形や名として示せるもの(大陸的なモノ)よりも、明確な形に残らない微妙な心の在り方とか(日本的なモノ)を評価する」のが文化的だったはずなんだけど、そういう貴族の文化が、「命を惜しむな、名をこそ惜しめ」「働きが石高になる」の武家文化に駆逐されて以来、「形として残る物だけが評価対象である」という風潮に変わり、今に至っているような気がするが、どうなのだろう。最近では、更にそれが加速して、「名(ブランド)」や実体すら無意味なものみなして、ひたすら「結果としての形(カネ)」あるいはコマギレになった「情報」だけをむやみに有り難がることこそクール、というふうになってきているようだけど、もう、何のために生きてるの、それ、楽しいの?ってレベル。お互いを、心などないロボットか人工知能とみなして「インプットに対するアウトプット」だけを評価する、って話だよね。
だから、「失敗をおそれないように」するために、「チャレンジ・トライする姿勢を評価しよう」なんて主張したら、さっそく「『姿勢』? 『心』の在り方なんて、目に見えないものをどうやって評価するんだ!」とか噛みつく人が出てくるんだろうな、と想像。
そりゃ「トライ」したくもなくなるわwww