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はてなキーワード: 伝統とは

2016-03-04

学歴ロンダリングの見分け方

元増田は、大学院に来たら学部時代には見かけなかった人が多かったこと、

しかも、それが理科大出身者が多かったので驚愕したのだろう、よくわかる。

ちなみに同じ光景東工大でも見られる。

本題。

学歴ロンダリングの良し悪しや評価は置いといて、

少なくとも「出身大学は知られたくない。」と言う心理を表してるのが、SNSプロフィール

フェイスブックしろツイッターしろプロフィール大学院修了から始まってるケースは学歴ロンダリング確率が高い。

そもそもSNSプロフィールに出すような自己顕示欲ある人が、大学院から書き始めるなんて不自然まりない。

日本古来の伝統書類履歴書なんて、高校から書くことが大半なのだ

SNSに限らず、書籍にある著者プロフィールでも同じだ。

新卒入社した会社からの経歴だけならまだしも、出身大学院だけだと香ばしさが増す。

最近多く見かけるのは社歴ロンダリングで、マッキンゼーがその代表だ。

Up or out会社で、1年持たずに出て行くことすら珍しくないこの会社に1度入ってしまえば、たとえ1年持たずにやめてもマッキンゼー名前で本を書いたり、講演したりして生計が立てられる。

当然、プロフィールにも、他の経歴は曖昧でも「マッキンゼー アンド カンパニーを経て」としっかり書き足されている。

例えば、マッキンゼー入社1年目シリーズを出してる下の著者は、

1年も在籍していないので入社1年目以降のノウハウはなく、入社1年目シリーズしか刊行されていない。

http://www.amazon.co.jp/dp/B00M939Y0S/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1

ちなみになんちゃってマッキンゼー出身かどうかを見分けるのは、マッキンゼーでの経歴が詳細に書かれているかどうかは言うまでもない。

概して、マッキンゼー流が全面に出てくる際は注意が必要だ。(当然、例外もある。)

このエントリーでも学歴と使ったが、日本学歴社会ではなくて学校社会が本当の姿。

本当に学歴社会だったら博士もっと活躍してる。

から学歴ロンダリングという表現は正確ではないが、代わりになる良い表現もないのが実態ではないかと思う。

http://anond.hatelabo.jp/20130224175755

2016-03-03

http://anond.hatelabo.jp/20160303191600

宗教警察なので、この一文のみで、ギルティ判断しています伝統とかは守備範囲外です。

例えばキリスト教の元年も架空の人物であると言われながらも取り決められている。

イエス歴史的実在に関する議論についてはWikipediaでも見てください。神武天皇は神が直接歴史に関わってくる神話時代存在で、イエスの話は歴史の流れに神的存在が関わってこない古代の話です。イエス逸話でも散発的な奇跡は見られますが、散発的な奇跡に関しては中世まで見られる話なので、実在性とはまた別です。

http://anond.hatelabo.jp/20160302233128

そもそも日本という国自体世界的に見ても浅い歴史の国だしね

そんな国で伝統とか歴史とかアホらしいわ

http://anond.hatelabo.jp/20160302233128

正直、日本の糞みたいな伝統なんて核爆弾落とされた時に島ごと吹き飛んでしまえばよかったのにと、その後の世界に対する日本の悪辣な態度を見ると思う。

地方を途絶えさせたくないのは誰なのか?

少子高齢化の影響で地方を維持することが難しい」という話が出てくる度に、難癖をつけて地方の維持に税金を使わせようとする輩が居るが、それには以下の2種類の人間がいると思う。

  1. 地元住民
  2. 地元」に投資した人間

都市人間が納めた税金地方に回したくないと思う人間が本当に対応するべきは2.である地元住民とは手強さが違う。

地元住民は、できてもせいぜいその選挙区政治家に1票を投じる程度のことしかできない。政治家自分選挙区予算を引きこもうとするだろうが、そもそもパイの大きさが縮小傾向である以上、予算獲得合戦をしたところで引き込める予算の額は減少する一方である。加えて、地方の維持が難しいと言っているのは要するに人口が減少しているということなのだから一票の格差是正するたびに地方議員の数は減少していく。どうあがいても、人口が減っている地域地元住民にかける税金は減少する以外に無いのである。これを避けるためには、住民自身母体を増やす…とまではいかなくても、最低限現状維持はしなければならない。それができるならば「限界集落」などというワードは生まれないはずであり、この名前がついた集落はもはや地元住民だけで問題を解決できない、ある種の限界突破しているのである

おうおうにして、こういう地方住民は諦めモードに入っており、「途絶えさせたくない」とは考えていない。代々続く文化があろうと無かろうと、最後住民がこの世を去れば、必然的地域が静かに役目を終える。住民はみな高齢で、もうすぐ死ぬだろう。今すぐとは言わなくても、いつの日かインフラ整備のために投じる税金を断ち切られても、住民は仕方がないと考えている。ちょろいもんである

一方で、地元投資する人間曲者である。旗振り役は地元出身である場合もあれば、本社東京に置く観光業である場合もある。彼らはだいたい

と言うが、その真意は一部の例外を除けばだいたい

であり、ぶっちゃけ地元人間はいなくてもいい。強いて言うなら「町中を人が歩いていないと廃墟みたいになっちゃって廃墟マニア以外から敬遠されるからとりあえず出歩いてて」要因でしかない。ここでは、彼らの目的が「観光資源として利用して主導権を握るか中間マージン搾取したい」前提で話を進める。

この場合矛盾しているのが、彼ら自身は予め整ったインフラの上に事業を展開するのに、インフラを整備する予算は(地元人間も払っている)税金から出ている点である。したがって彼らが初期投資をしてから回収できないまま税収が減ってインフラの整備が途絶えようともなると、彼らはものすごい勢いで反発する(自前でインフラを整えたり、税金を多く納めようとはしない)。その矛先は地方自治体や、下手をすると地元人間に向く。具体的には、彼らは「景色を残したいのに」「地域に代々伝わる伝統を残したいのに」「この地域産業活性化したいのに」などとそれっぽいことを言い、それに協力しないことが悪いことであるかのように唱え、周辺から徐々に責めていく。地方人間が協力しなくても、周辺の人間が「景色を残すためなら」「地域に代々伝わる伝統を残すためなら」「この地域産業活性化するためなら」と同情し、補助金などの税金を獲得してその場を凌いでしまう。そして投資した分が回収できたところで、景色を残すこともなく、地域に代々伝わる伝統を残すこともなく、地域産業活性化することもなく、「市場原理に基づいて」彼らは補助金という名の税金を返納することもなく退散するのである

ところで「地方が途絶える」とはどういう意味なのだろうか。思うに、地方が存続している条件は「景色が残っている」「地域に代々伝わる伝統が残っている」「この地域産業活性化した状態が存続している」などの状態では無かろうか。上に2つのシナリオ(住民がいなくなって途絶える・地元投資した人間が食い荒らして途絶える)を挙げたが、いずれの場合結果的地方は途絶えている。結果は同じなのだから、投じた税金の少ない1.のシナリオの方がマシとすら言える状況である

まとめると

  1. 限界集落に対して投じる税金の額については、よく考えた方がいい。住民地域の存続を望んでおらず、仮に望んでいても有望なプランが無いのであれば、税金を投じてもサンクコストになるだけである地域に住む人間は、税金を投じている側から「早く最後の1人が途絶えますように!」と祈られながら余生を暮らすことになるが、それでもいいのか?
  2. 本当に地域活性化を願うならば、行うべきは継続可能なインフラ事業を営むか、地方納税することである個人的に「ふるさと納税」は歪んだ制度だと思うので、そういう飛び道具ではなく普通に住民になって住民税を納めればいい。それもせずに地域活性化を唱える奴は例外なくカスであり、それでなくても短い地域の余命が更に短くなるだけである。もちろん、いかなる理由でも投資する奴もカスである
  3. 地方が途絶えることは決して悪いことではない。開拓した地方の個数だけ、途絶える地方がある。柔軟にいこう。

2016-03-02

日の丸に忠誠をちかうようなやり方は日本の伝統じゃないし

今日はてブホッテントリーに「伝統文化演歌を守れ」みたいな頭がパヤパヤしている人たちの話があがっているが、

どうして、ああいう人たちは、2600年以上(主催者側発表)の歴史を誇る我が国伝統の、最期のほうに

西洋文明の影響で作られたものに、異常にこだわるのだろうか?

自分歌舞伎歌舞伎が好きなんだけど、当然のことながら、古典歌舞伎落語には、

日の丸あげて君が代うたって天皇陛下万歳を叫ぶような人間は、一人としてでてこない。

当然だ。すべて、明治になって西洋文明の真似をして作り出したものに過ぎないからだ。

デザインとしての日の丸とか、和歌としての君が代とか、言葉としての万歳はたしかにあっただろうが、

あれを、ああいう形に整えたのは、「日本の伝統文化」とはあまり関係がない。

万歳は、たしかイギリス王様にむかって「フレー」と叫ぶやり方の猿まねのはず。

基本的には、国旗とか国歌というのも西洋人が作り出した「近代国家」とやらが国民をまとめるために作り出したもんだろう。

日本人は古来、そんなもの必要としていなかった。

もちろん、現代日本も「近代国家」として運営して、それなりに回っているわけだし、海の向こうから持ってきたもの

巧いこと取り入れていくのもまた日本の伝統から、声高に日の丸君が代反対とか叫ぶつもりもないが、

例えばアメリカ人バカみたいに星条旗に忠誠誓わせたりするのに違和感を感じるのが、日本人の正しい姿だろうと思う。

あれば、200年ちょっと歴史しかない薄っぺら移民国家国民をまとめるためにやっていることで、

別に、無理して真似する類のものではない。

そんなことよりも、1000年前から変わることなく、桜の季節になるとみんな花見を楽しみにまつような

そんな信条の中にこそ、日本人伝統は生きているのだと思う。

2016-02-29

マズロー欲求段階説ってオカルトっぽい仮説に過ぎないんだが

ビジネスとか教育とか色んな分野で言及されるマズローの「欲求段階説」。

人間の欲求は、生理的安全社会的承認自己実現の順で高まっていくってやつね。

で、この説をみんな人間心理真実であるかのように珍重する風潮があるような気がするんだけど

はてなでも承認欲求がー自己実現がーってよく話題になるよね)

別にこの説って科学的に証明されたわけでもなんでもない仮説に過ぎないし、

そもそもマズローってトランスパーソナル心理学というオカルトっぽい心理学分野の創始者でもある。

誤解を承知でいえば、謎の教祖様のお言葉を盲信してる社会状況ってヤバくない?

みんな疑似科学とかオカルト新興宗教、酷いのになると伝統宗教ですら

胡散臭い怪しいものとして糾弾するのに、外国のオッサンの思いつきに過ぎない学説

人間の真理であるかのように無根拠に信じ切っているのか謎過ぎる。

こんなオカルトに基いて、賢い人達マーケティング教育やって(るつもりな)んだから

やっぱり人間ってのはつくづく信心深い動物だなーと呆れるよね。

2016-02-27

正社員無くしませんか?

この国はもう限界に来ている。

既得権益破壊によってしかそれを解決することは出来ない。

そのためにまずは最も身近な既得権益破壊しようじゃないか。

うそれが正社員というシステムの抹消だ。

会社社員関係プロジェクト単位での繋がりとするのだ。

企業が人を育てようとする時はプロジェクト単位で育てる。

どうせ人売りによって別の会社に回されてばかりなんだいっそ毎回その会社必要最低限の教育だけ受けていたほうが手っ取り早いのは間違いないだろう。

正社員が無くなった時組織間を人が繋げる機会は圧倒的に減る。

意味分からん伝統や慣習がなくなりスムーズクリーン世界になるのは間違いない。

労働者が常に裸で会社契約をするのだからその間に中抜きが入る心配だって無い。

最高ではないか

2016-02-25

http://anond.hatelabo.jp/20160225024404

から100年後に

A 恵方巻平成に入ってからコンビニエンスストアによってつくられた伝統

B いや、名前はちがっても同様な習慣は関西地方存在していたので平成以降につくられた伝統だという説は怪しい

という二つの説があったとしてどちらがただしいだろうか?

何をそう「呼ぶか」という定義は難しい

初詣起源についての一考察(http://anond.hatelabo.jp/20160225024404)はなかなか面白かったです。

興味をもって、思い立ち調べたのですが、「賽銭」についてのWikiディア記事がなかなか参考になるっぽいです。

そもそも、神仏に供える銭を「投げる」という行為に大変違和感があったのですが、発端が「散米」といって神に供えるのに米を投げるという行為が源流であったかもという説はなかなか興味深く、なんとなくこれが賽銭を投げ入れるという行為につながっているという説には説得力がありました。アジア各地で神社仏閣等にお金を供える箱はあっても、「上から放り込む」式の箱はないのだとか。一般人賽銭をまつる風習室町にさかのぼり、記録上最初賽銭箱は1540年鶴岡八幡宮におかれたとか、そういった記述を見ると、なるほど増田さんのおっしゃるように、戦国期には、今日の我々の行動につながる神社参詣のひとつの形が生まれているのかもしれません。

ただ、そういった神への感謝の独特な表し方の一端が初詣につながっているとしても、「お正月に着飾って物詣にまいりましょう。これが日本のよき風俗です」とやらかしてうまうまと伝統の衣をかぶせやがったのが明治末期の鉄道屋連中であることはハッキリしておるわけで、嘘を吐くときに何かもっともらしい由縁を持ち出してくるのは、その手の広告屋のやり口ですから、上記のようなことがあるとしても、それでそのまま「初詣日本の伝統」とはならないわけです。婚約指輪とか、あるいは近い例では恵方巻とか。いくら由緒があろうが、それらが商業的な都合によるキャンペーンなどで「作られた伝統であることはゆるぎないわけですね。たとえば、新興宗教既存神様を祀ったところで、その宗教伝統ある宗教ということにはならない。それと同じです。

ただ、もちろん「作られた伝統」の中にも、定着するもの/しないものが歴然とあるのは事実です。それらは、単に「よい風習だと感じられたから残った」ものもあれば、どこかで伝統リンクする部分があって定着するための下地があった場合もあると思います。上のたとえを使うなら、ある新興宗教成功したとしたら、それが「新興宗教であることはゆるぎないとしても、どこかで合理性、あるいは伝統との関連性を持ち得ているという可能性はある。

ですから、「下地があった」ことからすぐに「作られた伝統ではない!」という発想に飛びつくのではなく、「定着した」という事実があったとき、それをもとに理由を調べてみるという態度が大切です。文化というのがどのような関連をもちうるものか、それ自体が定かではないわけですから、由来や起源を事細かに言い立てて変に権威化を図るより、素直に目の前のことを分析することの方に理があると思います

2016-02-24

組体操は俺が考えた渓流めかくし列車と変わらない

長野県山村伝統行事なの。

澄み切った渓流を中学3年生が目隠しして渡るのね。

それだけじゃつまらないって駄菓子屋ケン坊が言うもんだから参加者の足をチェーンでつないだ。

誰かが転倒するとみんな倒れる。参加者全員が流されて大惨事になったこともあるのよ。

でも、廻りの大人はみんな渓流めかくし列車経験しているわけで、この村では通過儀礼みたいになってる。だからなくならない。

役場に勤める洋七と駄菓子屋ケン坊が考えた歴史の浅い伝統なんだけどね。何が目的行事なのか、もはや誰も覚えてない。

書いてから思ったけど、カイジの鉄骨渡りにも似てるな。楽しむ人がいるんだよね。こういうエセ伝統は。

2016-02-23

http://anond.hatelabo.jp/20160223110239

どこに問題があるか気づいて欲しい。

釈迦が編み出したものから正しい」「正しいから効果がある」は、現代教育を受けた人間からは許容できないロジックなのな。

釈迦が最も効果がある瞑想を編み出せることの担保がないから

伝統があるから一定の効果がある」という理屈はわかる。

だが、それは「伝統の上に改良を加えていった最新式のものが最も効果がある」と言われてなるほどと思える程度の理屈しかない。

http://anond.hatelabo.jp/20160223105606

でも世の中に出回ってるインチキ瞑想は他宗教ですらなく

インチキさんのオリジナル瞑想でしょ。

から仏教瞑想みたいなすごい効果はないし、

宗教瞑想のようなそこそこの効果すらない。

何にも効果が無いっていうのはオリジナルインチキ瞑想証拠だよ。

仏教瞑想は最大の効果があり

非仏教系宗教瞑想はそこそこの効果があり

宗教系の瞑想には効果がない。

まあ宗教系の人にありがちな偏った思考ではあるけれども、

「正しさ」については主観的信仰としてさておくとしても

宗教から効果が無いんじゃなくて

伝統メソッドも無いから効果がないんだよ。

仏教瞑想宗教から効果があるわけでもない。

というか仏教宗教では無いという立場

信じるものなんか無いから

効果」については、客観的評価されるまで判断を保留せざるを得ないだろうという理性と

科学の手中に収まるまでは客観性効果も無い

という立場から見るならレメディと変わらない存在だと思う。

現在科学心理学がすごくのろのろと仏教に追いついてきてる状況。

2016-02-22

http://anond.hatelabo.jp/20160222162535

経典

釈迦が編み出して弟子に伝えたものから

議論余地は無いの。


まあ別の宗教瞑想はまた別なのかもしれないけどね。

仏教瞑想についてなら正しいやり方があり、

それをやる限りは効果保証する。

ヒンズー教とか別の宗教瞑想ならそっちの人に聞いて。

(一応仏教立場では理論的に間違いなんだけどここであえて否定はしないし

 それぞれの伝統的なメソッドに従えばある程度の効果はある。)


でも世の中に出回ってるインチキ瞑想は他宗教ですらなく

インチキさんのオリジナル瞑想でしょ。

から仏教瞑想みたいなすごい効果はないし、

宗教瞑想のようなそこそこの効果すらない。

何にも効果が無いっていうのはオリジナルインチキ瞑想証拠だよ。

http://kabumatome.doorblog.jp/archives/65854456.html

読んだ。以下長い。

まずミスドじわじわ削られてる理由だが、これは「選択肢ミスドしか存在しなかった」状況だと、商圏がもんのごっつ広大だったのが、コンビニでも(質はどうあれ)置いてあるとなると、遠方の人間は「しょうがない、コンビニでいっか」ということになるからで、実質的に商圏が狭くなっているせいだと思われる。

商圏ってのは物理的な距離もそうだが、心理的距離も影響する。たとえば東京都内に住んでいて「徒歩25分」は論外で商圏外だが、田舎に住んでて車で25分は商圏になりうる。で、物理心理的な面を含めて商圏から外れた人たちからミスドから離れていくということである。行くの大変だから

ミスドの売上が「じわじわと」削られている理由はそんなところかと。

で、実質的コンビニミスドドーナツが競合しているかというと、俺はかなり怪しいものだと思う。というのは、買う理由がぜんぜん違う。ミスドに行くときに「ドーナツ目的じゃない」という人はわりと少ない。わりと、というのはミスド業態として「コーヒー一杯でゆっくりする」というのも店舗によってはけっこうあるからだが、売上全体に対しての比率としてはかなり少ないんじゃないかと思われる(ここ完全に憶測)(データ知ってる人いたら補足してください)。

ということは、ミスドに行く人は相当の高確率で「ドーナツを買うよ!!!」という気で行くということだ。対するに、コンビニで「ドーナツを買うよ!!!」という人はかなり少ない。ほとんどがレジカウンター什器が置いてあることによる衝動買いだ。つまり「買う気がなかった人が買う」ということになる。もしそれが潜在的ミスドの客になりうる人間だったとしたら、とりあえずその人のドーナツ欲みたいなものは収まるので、結果としてミスドの売上を削ったということはいえるかもしれない(現状ではまだその比率無視していいほど低いと思ってる)。

で、さて、コンビニドーナツが売れない理由なのだが、実は味はあまり関係ない。味や、健康へのよしあしについては、そのことに意識的人間が客層として多く含まれ場所に限って影響する。つまり都心オフィスや、比較若い客層が多い場所などだ。あとはあれか、新興住宅街とかで平均世帯所得比較的高い地域しか日本にはそうでない場所のほうが圧倒的に多いし、そうでない人口も相当の比率を占める。そっちのほうが多数派なんじゃねえかな。とりあえず「ロードサイド」っていう言葉でも放り込んでおきますね。

で、そういう層に対してより意味を持つのは「味強い」「甘い」「食いごたえある」のほうである。なんだかんだいって健康にいいものって売れない。たとえば、週に100個単品で売ろうと思ったら、よほどのオフィス立地でない限り難しいはずなのね。でも健康に悪いもの100個売るのは、展開によってはわりと簡単。これは上述のオフィス立地を含めての話。

そういう意味ではセブンのPBでもヤマザキでもなんでもいいんだけど、ああい菓子パンベースドーナツって実はけっこう強い。なにしろ甘くてくどい。そりゃミスドコンビニオールドファッション並べて食いくらべたらミスドのほうがうまいってのはだれにでもわかることなんだけど、そもそもコンビニのメインの層のうち、何割が「ミスドオールドファッション」の味を記憶として保持してるのかって話。なにしろ母数違うからミスドは老若男女だれもが頻繁に利用する場所じゃない。コンビニはだれもが頻繁に利用する場所

まり、母数が違っていて、しかコンビニにおけるその母数の大部分が「味とか大して気にしない」「ミスド日常的に利用しない」層である以上、コンビニドーナツはそれらの客にリーチする可能性はあるってわけ。

でも現実的にはしてない。売れてない。らしい。

じゃあなにが問題なのかって話なんだけど、ひとつにはやっぱブコメにも指摘があったように「ミスドというブランド」が強すぎるんだと思う。味の直接的な記憶はなくても「ドーナツっていったらミスドでしょ。次にミスド行く機会があったら食えばいい」ということになる。つまりミスド=美味しい」っていう信仰だよね。買うか買わないかっていうのは、ものすごく細い尾根道を歩いてる人をどっちに突き落とすか、みたいなところがあって、わずかな揺れで買うほうへ、あるいは買わないほうへ転がっていく。そこでミスド抑止力になってるんだとしたら、このブランド力はすさまじいということになる。

次に単純にオペレーション問題。早い話「買いづらい」。レジにおける客の動きとか雰囲気ってここ10年くらいでえらい変化した。昔は2台それぞれに並んでいるどころか、どうかすると1台のレジで4人並んでいてももう1台を開放しないところなんかザラだった。ところが現在ではけっこうな確率で櫛型に並ぶし、客のほうも列を維持することに自覚的。そして自覚的であるぶんだけ「ルールを守らない人間」を非難する空気は強くなってる。レジで揚げ物を買いづらいなんてのもこのへんが理由になってるフシが強い。

ましてドーナツである。それ単体で何種類もある。どのタイミングで種類をチェックすりゃいいのか。上にメニュー看板があるわけでもない。単純にいうと、衝動買いメインである商材なのに、その衝動買いを起爆させるための導火線がまったく設置されてない。導火線は基本的に揚げ物なんかにつながっている。客の店内における動線ってのがある程度は定まってる(そういうふうに売場は作られている)以上、導火線も何本も設置するわけにはいかないんである。そして衝動買いが発生しない以上、その先にある目的買いも発生しない。そういう理屈になる。

まり、客に買わせるためのシステム作りが拙い。俺はそう考える。種類がある商品は「選ぶ」という行為と「買う」という行為距離が近くないとだめ。コンビニにおけるドーナツは、その二者のあいだに距離ありすぎる。

じゃあどうすりゃ売れるのかということになるんだが……。

いくつか考えられるが、どれも現実的ではない。

 ・ミスドと同じくショーケースに大量陳列し、対面で販売

 ・カウンター什器の中心をドーナツにすればよい

 ・価格アホみたいに下げる

 ・店内調理を取り入れる

 ・客がセルフで取れるようにする

 ・そもそもミスドとは異なる新しいドーナツ体系を築き上げる

とまあ、ざっとこんなところだ。ほかにもまだあるが、ネタ領域に近づくので書かない(まあ現実的にはその「ネタしか思えない」の領域から新しいやりかたが出てきたりもするんだが)。

そんで、俺の考えるコンビニドーナツの今後である基本的業界の動向を決めるのは某7の数字がつくチェーンなので、あそこの動向だけ見ていればよい。

とっとと諦める可能性はゼロではない。あの程度の投資など撤退したところで別にどうってことないだろう。あのチェーンなら。扉のない平置きタイプ冷凍庫なんてドーナツ什器とは比較にならないくらい高い。そういうもんを、増えた電気代もろとも吸収するチェーンである(もちろんそのぶん売上は上がってるだろうが)。ドーナツ什器くらい「だめだった♪いっけなーい♡」くらいの勢いで捨てる。

諦めなかった場合だが、店内調理とか価格破壊なんかは比較的可能性が低い。あのチェーンは伝統として店内調理に関心が薄い。某青いチェーンとかヤマザキデイリー特に後者の一部店舗)が店内調理に関して、進化袋小路みたいな実験を繰り返し、その一部をレギュラー店にも還元しようとして失敗してるのを横目に、某11の数字がつくチェーンはほとんどそういうことしない。

可能性としていちばん高いなと思うのは「新しいドーナツ体系」を作ってくるということだ。それがどんなもんかは俺にもわからん。が、あのチェーンの歴史ってのは基本的に「消費者の潜在欲求に触手を伸ばしその触手から”君が欲しいのはこれだね……これなんだね……”といやらしい粘液を送り込んで消費者触手なしでは生きていけなくする」という手法で成立している。あのチェーンがすごいのは、その触手の性能である。太くて、長くて、しかも粘液の量多い。絶倫である。ほかのチェーンはや業態もあわててまねをするのだが、しょせんまねごと触手であるため、かえってオリジナル養分にされて終わる。「やっぱセッッッッブンイレブーーーーーンヌだよね!」という消費者の暗黙の賞賛を売上というかたちで得てしまうのだ。

もしドーナツについて例のチェーンが本腰を入れてくるなら、その「だれも考えてなかったが、いわれてみればこれだった」という手法を何年かけてでも見出してくるに違いない。

そう。何年かけてもだ。あのチェーンほんといやな。ミスドがんばって。

2016-02-21

劇場版ラブライブ!批判考察

http://anond.hatelabo.jp/20160221211019

しかにμ'sのメンバー二次元キャラクターであり、実在する人物ではない。しかし、雑誌連載時代ファン彼女らがまるで生きている人間であるかのように交流応援してきたのではなかっただろうか。もちろん本当に生きているわけではないと知りつつも、それでも彼女らの人生を共有できると信じる真摯姿勢、それこそがTV版第1期の物語を生み出した原動力であったと思う。劇場版脚本では、そのような真摯さはすっかり失われてしまった。μ'sのメンバーはこれまでどのような人生を歩んできて、どういう動機でμ'sに参加し、何を考えて今まで活動してきたのか、そして今後はどうするつもりなのか。それらのことを踏まえれば、μ'sはどのような結末を迎えるのがふさわしかったのか。そういったことを真剣に考えた上で脚本を練り込んでほしかった。


アイドルは単に華やかに笑顔で歌って踊っているから魅力的なのだとか、メンバー同士仲睦まじく百合関係性を構築しているから魅力的なのだかいうのは、それぞれ一つのアイドルであるし、それ自体が悪いわけではない。しかし、アニメ制作陣、つまりアイドルを生み出す側の人間までそのようなアイドル観に染まってしまってはならなかった。アイドルにはそれぞれの人生があり、物語性があるからこそ魅力的なのだ。そのことをわかってほしかったと思う。

 ここで述べられている通り、アニメ以前のラブライブというプロジェクトの魅力はμ'sのキャラクター実在するアイドルのように描写し、またファン自らがアイドルと自らを実在するアイドルとそのファンのように認識応援するスタイルであったことである

 ただ、ブログにおいては、その姿勢過程TV版第1期を生み出した原動力になったとまとめられているが、その点については異議を唱えたい。

 この部分においてはμ'sのメンバーそれぞれの人生物語性と、その重要性について述べられており、また、雑誌連載時代、つまり初期やアニメ化以前の内容やファンについて言及しているのだから、それを持ち出す際には当時のキャラクター設定やコンセプトについて思いを馳せておくべきである。そして、そうすると上述のようにそれまでのキャラクタープロジェクトの歩みを表面的にしか理解配慮せずに改変・軽視したのがTVアニメ第1期であるし、その経緯については第1期直後の脚本家インタビューで語られている。

 つまりブログ著者が言うようにメンバーを生きている人間であるようにとらえ応援するのであればTV第1期の時点でアニメ価値体系を崩壊させているのである特に矢澤にこ東條希西木野真姫は誤差やアレンジという範囲を超えた別人である。また、それぞれのキャラ作品内人気は低くなかったのでアイドルや一人のキャラクターとして見た場合改変の必要性はなかった。特に矢澤にこ総選挙1位を獲得しており最上クラスの人気を誇っていたのだから、あらゆる面において一人の人間としてキャラクターとして配慮されていたとは言えない。西木野真姫に関してもμ'sの名付け親として知られる最古参の一人御児勇馬氏Twitterキャラクター改変を嘆いていたほどであり、本当に生きている人間の一人、初期から続くキャラクターの魅力や物語性を重視して応援するならばアニメ版は第1期から問題が大いにあることを主張しておかなければならない。

 また、現在ファンの多くが主張する百合さえあればいいという価値観についても矛盾があることがその点から導き出せる部分がある。現在ラブライブ百合好き界隈において人気ナンバーワンのカップリングといえば恐らく「にこまき」なのだろうと思われるが、そもそも今のにこまきが人気を得た大元の原因は何かといえばアニメ以前よりにこまきが人気だったことが影響している。その延長線上で新規参入ファンもにこまきを嗜もうという流れから人気が高まった過程自分は感知していた。

 しかし、アニメ以前に人気を得たにこまきのカップリング性質というのは現在のものとは180度違うものである。先述したように矢澤にこ西木野真姫アニメ以前と以後では大きくキャラクター立場が変わっており別人である名前と見た目の記号条件が同じだけの別人同士のカップリング伝統カップリングのように捉えられて人気を得ている現状は苦笑いするしかなく、ブログ著者が主張するように現在ラブライバーの大半は物語性軽視甚だしいだけでなくただの百合好きとして見てもただ状況に流されるだけで本当に百合キャラクター関係性や魅力を捉えて楽しんでいるかすら怪しいファンが多すぎるのではないかと考えられる。いわゆるラブライバーである自分が好き状態であるし、細かくいえば○○(任意キャラ/楽曲/カップリングなど)を尊いと言う自分が好きという状態でその中身への興味や理解が足りなすぎるのである

 …というように突っ込んでいくと、TVアニメ版のキャラクター物語性の価値が第1期も含めて崩壊してしまうので、第1期を高く評価しているブログ著者としては都合が悪かった理由があるかもしれない。

 また、それらに付け加えて言及するべきなのがアニメ第2期放送中に物議を醸した海外ドラマglee盗作疑惑問題の件である劇場版や第2期を中心としたアニメラブライブの行き当たりばったりの内容を批判する際には説を補強するためにも言及する価値必要のある問題だと思うが、件のブログにおいて言及がないことが残念である。主に彼の批判文を読むのが作品批判に慣れていないラブライバーであるため、または彼の所属していたコミュニティにそのようなファンが多いために遠慮した部分もあるかもしれない。

 あれがオマージュなのか盗作なのかという問題以前に、盗作引用などする必要なくコンセプトや設定がちゃんと存在しているプロジェクト作品に、無関係場所から話や設定を引っ張ってきてそれをなぞらせるために設定や物語ねじ曲げる行為自体が、ブログ著者が主張するようなキャラクター実在人間の一人としてとらえるような観点作品物語性を重視する観点で見たら大問題であるし、キャラクター作品を愛するファンであれば問題視し怒って然るべき問題だと感じるが、疑惑が立ち上った途端にラブライバーの多くは黙り込んだり、それを持ち出して批判する者を無差別アンチ認定して閉じこもり無理矢理な擁護に回ったのを見て自分はこのプロジェクトには本当にキャラクター作品の内容を愛しているファンはまともに存在しないことが分かりもうこのプロジェクトは駄目だと確信したのを記憶している。

 以後、その予想が当たり、公式はその件を反省することはなく逆に開き直って先導するような形でそのような流れがラブライブプロジェクト全体に蔓延した現状があるわけである

 そのような流れを受けて流石に劇場版以後からありがとうプロジェクトに至るまでの間に、ブログ著者をはじめ、少しはプロジェクトのあり方に疑問を抱く人が増えたようではあるが、先述したように盗作疑惑の件や設定改変や統一化の闇について語る者は依然として少なく残念に感じる。

2016-02-18

http://anond.hatelabo.jp/20160218000645

何が驚いたかってWiiUPS4本体の値段が五千円ちょいしか変わらないってところ

任天堂ゲーム機って二万五千円以内に収めるのが伝統だったはずなのにな

PS3が発売当初六万円してた頃とは隔世の感

2016-02-16

×表現の自由を守る党 ○オタク文化を守る党

山田太郎が「表現の自由を守る党」を作ったそうだけど、これは「オタク文化を守る党」に改名したらいいんじゃないの?

 

サヨクならば表現の自由政権批判マイノリティ問題として捉えるし、私もその方が歴史的政治的に見たとき伝統にのっとっていると思う。

オタク文化みたいな娯楽を楽しむための自由を「表現の自由」と呼ぶのは違和感ハンパない。いや、それも表現の自由に含まれるんだろうけど、そこを最重要課題と見なすのは明らかにおかしい。(その偏向ぶりを自覚してやっているなら分からんでもないが)

 

ブコメツイッターを見ると、オナネタが欲しいだけの奴らがわらわらと賛成していた不愉快だった。倫理観の壊れたネトウヨまでいるのがカオスあいつらがどうやってサヨク共存するんだよw サヨクじゃなくてもお断りだわ。

これでシングルイシューというのは無理すぎる。「表現の自由」とか大層なことを言ってないで、オタク文化エンタメ関係だけに絞ればいいのでは?と感じた。

2016-02-11

http://anond.hatelabo.jp/20160210234054

楽しみでやるんならオリジナル脚本でもいいんじゃない? 演劇って言ったって幅広いわけで、仲間内劇団でやるならインプロブ的なものだってありだろうし。

伝統的なプロセスで、しっかりした脚本にがっつり取り組みたいっていうなら、許可ぐらい取ろうよ。アマチュアなら上演料も1~2万円だし場合によっては上演料いらないって人もいるし。

イギリスアメリカ普通劇場でかけられるような脚本だと、そもそも上演演目として選ばれる前に何段階ものセレクションを経ているし、何年もかけてワークショップ等でリバイズされてようやく日の目を見る。日本だと劇団付きの作家が書く場合が多いからちょっと事情は違うかもしれないけど、完成度の高い脚本てのは単にスキルの高い人が書いたっていうだけでなく、その形になるまでの揉まれ方が違うわけで。その過程尊重するなら、許可くらいどってことないでしょう。

(逆に、「素人の書いた脚本」でも、何十本かトライしてそっから候補を選び、何回かワークショップ(稽古場でのミニ公演的なもの)をやって役者対話しながら練り上げてみたら、かなり完成度上がると思うよ。そこまでやって初めてありもの脚本との比較対象になり得るんであって、次の公演のために何か書かなくちゃ、で一発勝負で書いたものなんてデッサンとかスケッチのようなものでしょ。)

(追記:ああ、もしかしてブレヒト絡みのアレ? ああいいうのは個別に折り合いがつかなきゃ諦めるしかベケットもうるさかったよね。一方で寛容な人もいるし。そこは選んでゆくしかないでしょ。)

2016-02-09

anond:20160209123147

ネット現実を見れば、圧倒的多数が、読点・句点だよ。

このスレを見たって、コンマを使っている人はほんの一部だけで、圧倒的多数は読点・句点だろ。

それが現実

 

なお、「どれがフォーマルか」という点で言うなら、「フォーマルなんてもの存在しない」というのが正解。

実は、昔は、読点も句点も使わなかった。伝統存在しない。

 

しいて言うなら、「かなは平仮名でなくカタカナを使うのが昔のフォーマル」と言える。(今は違う。)

フォーマルなんてものを求めるのが間違い。

現代口語では、読点句点が標準であり、縦書き横書きには関係しない、というのが正しい。

ただし理系論文では、コンマを使う例も多く見られる。しか理系論文なんて世間ニッチから、どうでもいい。

2016-02-06

日本ってヤク中よりアル中が多すぎじゃないか

日本違法薬物を強迫的に敵視するくせに、アルコールに対しては甘すぎるよね。

飲酒運転厳罰化とか学生の一気飲みの禁止とか、最近ちょっとマシになってきたけどさ。


英米に短期留学した経験から言えば、

日本と違って酔っぱらいアルコール中毒)に対する世間の目はスゴい厳しいかった。

社会人になって酔って外で大騒ぎしてたら、普通にダメ人間と思われる。

イギリスだと酔って外で大騒ぎしてるのは、基本的労働者階級の危ない人たち)


もちろん、日本人と違って遺伝的に酒に強い人が多いことも影響してるんだろうけど、

よくテレビに出てくる新橋駅酔っぱらいサラリーマンみたいのは、社会的に受け入れられてない。

そもそも、酒席の「無礼講」みたいな文化がないのも関係してるんだろうけどさ。

日本って酔っ払ってると、社会的に高い立場にある人ですら、失言しても許される慣習があるよね)


てか、日本人って基本アルコール中毒じゃねーかって思うときがある。

毎日毎晩、酒飲まないと気が済まないとか、本人たちは普通だと思ってるかもしれないけど結構やばいよ。

伝統的に言えば、日本人の大部分が酒を常飲するようになったのは近代以降だから遺伝的に酒に弱いに決まってるわ。

飲み続けてると酒に強くなるというのは、半分本当だけど、あれは肝臓機能が低下してるだけだし。


酔っぱらいに優しく、酒販免許の大盤振る舞いでコンビニスーパーいくらでも酒を売れる法制度だし、

未成年も見るテレビ番組にもアルコール飲料CMバンバン流されてる美しい国日本


アルコールだって中毒になると錯乱状態になるし、自殺の原因にもなる。多種多様体調不良を起こす。

精神疾患の原因になるから違法薬物がいけないというなら、酒だってもっと規制されてしかるべきだろ。

それなのに、この国はむしろ酒の規制がどんどん緩くなってるぞ。

そのくせ薬物中毒者には異常に厳しいのが不思議しょうがない。

2016-01-30

学校給食郷土料理を出す意味

日常的に食べられていないし残飯になるしさほど美味いものでもない。地元で育ったという同年代に聞いても、給食で食べたことがあるけどアレはまずかった、家では作らない、その程度の認識しかさない。

家庭で作られなくなった料理を、伝統からと無理やり残す必要はあるのだろうか?給食から絶対ソウルフードは生まれないと思う。

2016-01-27

http://anond.hatelabo.jp/20160127032918

一般的皇太子には「皇太子さま」というように「さま」をつけるが,なぜ天皇陛下には「さま」をつけないのか。

また,雅子さまについては,「皇太子妃」ではなく「雅子さま」と呼ぶのはなぜか。

 

マスコミ使用されている皇族敬称について

資料2 共同通信社 編著『記者ハンドブック』共同通信社, 2010【816.07/10X/R】pp.602-603「皇室用語について」

「(前略)2 皇室に対する敬称として皇室典範では天皇皇后皇太后太皇太后は「陛下」、それ以外の皇族は「殿下」とすると定めているが、記事上、「陛下」は天皇だけに使う。天皇皇后併記する際は「両陛下」とする。「殿下」はできるだけ使用せず、皇后皇太子など皇族は「さま」を使う。(中略)[例]天皇陛下 天皇皇后陛下 皇后さま 秋篠宮さま 雅子さま 皇太子ご夫妻 秋篠宮一家(後略)」』

リファレンス共同データベース http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000184144

 

日本マスコミおかしなところは、他国皇族王室には「さま」呼びしないということです。

イギリス王妃をキャサリン妃と呼び、カンボジア王族にはシハモ殿下、ラナリット殿下と呼び、ブータン王室にはワンチュク国王とジェツン・ペマ王妃と呼びます

しかし、日本皇族には「さま」です。特に皇后陛下にまで「美智子さま」と呼ぶのです。

これを「親しみをもって」と言っていますが、日本皇族だけに「さま」呼びしていることに悪意を感じます。』

http://ameblo.jp/sikihanana156/entry-12093235041.html

 

『謀社に抗議したところ、昔はどの新聞にもきちんと「殿下」をつけて書いてあったのですが、マスコミ各社が「開かれた皇室」ということで例の左翼系の謀新聞社音頭をとって「殿下」という言い方をやめようと言う話になり、それがマスコミ各社の基準になった、と言うことでした。ところで宮内庁が「開かれた皇室」というスローガンを打ち出したのですか、という問いには、謀新聞社リードして打ち出したので宮内庁関係ない、と言うことでした。』

http://turumi-jinjya.blog.so-net.ne.jp/2012-07-08

 

『「雅子様」とは見出しにとっていない事実だ。「雅子さま」なんです。なんで、「様」でなくて「さま」なんだろう?平仮名の方が柔らかいってのがあるでしょうね。それに「様」というと、マスコミ標榜している「開かれた皇室」というのと、イメージが違ってくる。「さま」だと国民ちょっと近づいた感じを与える。』

鳥越俊太郎の「あのくさ こればい!」http://www.1101.com/torigoe/archive/2000-01-01.html

 

『「さま」とする敬称マスコミ勝手基準を設けているだけで、敬称皇室典範で決まっていますマスコミは親しみやすく、わかりやすく、と言っているようですが、反面、伝統を壊し、皇室皇族権威を下げることに繋がっています。おそらくイデオロギー的なものが入っているのでしょう。一種トリックです。ちゃんと子供の頃から本来敬称を教えて、マスコミもちゃんと報道していれば誰でも自然に正しい敬称が使えるはずで、解りにくいとか、窮屈とか、親しみがどうとかそんな話ではないはずです。私自身、偏向マスコミ日教組洗脳されて育った人間であり、スラスラでてこないため、文献で確認しながらこう書いている始末です。』

http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20100221/1266717963

 

共同通信皇太子殿下から皇族方を「殿下」という言葉を退け、「様」呼ばわりするようになってから、各マスコミが右に倣えして、正しい敬称を使わなくなった状態の中、ついに天皇陛下尊称である陛下と言う言葉までNHK製作者は、秘かに削り、省略するような工作をし始めていたのである。』

http://www.ch-sakura.jp/mizushima/1071.html

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