はてなキーワード: ポスドクとは
北欧でポスドク(fellowship)ポジションを得た経緯と準備をまとめました。こちらの記事(https://www.notion.so/Facebook-London-13743da603ce4632bd9f96672faa0d74)を参考に書かせていただきました。特定回避のため少しぼやかした表現で書いたところがあります、ご了承ください。
私は今年のはじめにオランダ語圏の大学でPhDを取得し、その後も欧州に留まろうと就活をしていました。PhDの就活は、博論執筆やディフェンスと就活期間がかぶるものだと思いますが、そのあたりの事情も書いていこうと思います。私の専攻は数値計算・解析の一分野です。「数値解析」と言っても実際には何も数値計算をしない研究があり、また「数値計算」と言っても何も数学的な裏付けのない研究があります(どちらもそれ自体がネガティブなことだとは思いません)。ただ私は自分の強みとして、この2つ両方をやっていることを打ち出して就活をしました。
2-5月 公募、面接(オンライン)、オンラインセミナー講演など
オランダ2
ドイツ1
です。面接に呼ばれたのが2箇所、そのどちらも面接の数日後にオファーをもらいました。
当たり前ですが、ポスドクをやるために最も大事な要件はPhDを取得していることです。私は昨年10月に今年1月のディフェンスが急遽決まったため、大慌てで博論を書くことになりました。私の大学では外部の教授2人+内部の教授3-4人からなるexamination committeeがあり、 博論提出→(4週間:committeeの教授が博論を読む)→private defense (プレゼン15分+committeeによる質問2時間)→(3週間:博論修正、博論印刷)→public defense(プレゼン50分+質問1時間半) というスケジュールでした。私のディフェンスが急遽決まったのはこのcommitteeの教授たちのスケジュールによるものでした。
9月頃からアカデミア求人サイトを見ていたのですが、実際に応募しだしたのは11月からでした。周りのポスドクの人や教授に使えるリンクなどtipsを聞いておくと良いと思います。私の場合は例えば、mathjob.org, SIAM mailing list, euro-math-soc, NA digestなどをこまめにチェックしていました。
私の分野はあまり大きな分野ではないため、私のプロファイル・専門に合う求人は、多くて月に2-3件くらいしかみつかりませんでしたが、そこに力を入れて応募していました。公募求人のページは締切後に消えてしまうので、(面接の前に見返すなどのために)ローカルに保存しておきました。
私はCVとカバーレターの雛形を用意し、それぞれの公募に合わせて少し変えていきました。どちらも教授や周りの人に読んでもらってコメントをもらいました。ここでスペルミスや文法ミスがあると、後から見返してしんどい気持ちになります。
これは指導教員と副指導教員にお願いしていました。プロセスとしては、自分が応募する→相手方が自分に興味を持つ→相手方が自分のレファレンス先にレコメンデーションレターを書くよう要請する、というもの(が多数派だと思う)で、あらかじめ指導教員たちに「〜〜から連絡あるかもしれないから、見落とさないように」お願いしなければなりません。
面接は二回しか経験していませんがどちらもオファーをもらいました。聞かれたことは、そのポジションにおける自分の強み・弱み、自分の研究成果、教育の経験などでした。どちらも英語での面接でしたが、英語が公用語の国ではないため、ある程度の「社会に溶け込もうというモチベーション」を見せるために終わりの挨拶をその国の言葉でするなど、印象を良くするように努めました。
PhD取得後、すぐにコロナの広がりがやってきました。就活真っ只中の私としてはとても薄暗い気持ちになったのを覚えています。連絡を取っていた他大学の教授から突然メールが返ってこなくなったり、応募していたポジションの選考プロセスが突然止まるなどの事態が起こりました。
ポスドクは自分の研究活動を通したコネで決まることがわりと多いかと思います。もしそれで決まるのであれば、そうするに越したことはありませんが、私の場合は土地の制約やタイミングからそれだけではうまく決まりませんでした。そのため、全くつながりのない教授・大学にある程度の説得力を持って応募することが必要でした。私が応募したものの中にはあとから「ああデキ公募だったんだな」とわかるものもありましたが、これは世界中どこでも起こりうるものだと思って割り切りました。
選考プロセスはほとんどの場合、応募者側からすると不透明ですが、スウェーデンとノルウェーでは透明性を重視しているのか、現在の段階や全応募者の評価シートまで応募者に公開しているものもありました。クオリファイされた24人の応募者全員の名前、年齢や出身大学、業績、プロジェクトとのマッチング評価などが書かれたドキュメントは読み応えがありました。
twitterなどを見ていても思いますが、博士課程は思うように結果が出なかったり、悩みを共有できる人がいなくて孤独だったりと閉塞感が出がちだと思います。私も博士号取得後の数ヶ月、無職期間を経験し気が塞いだこともありました。この閉塞感がくせ者で、そのせいでパフォーマンスが落ちたり更に人と話さなくなるなどの悪循環なども生まれると思います。ただ、自分が思うよりも状況は悪くない、ということをどうやってか自分に客観的に説得できると、この閉塞感も緩和されるんじゃないかと思います。
横だが、努力は報われるし、絶対に守る気持ちとかさらっと言えちゃうってのが、体制はボロボロだが根性でなんとかなるししろっていう日本型ネオリベに見えるんじゃないか?
むしろ周りの救いはなにもないが、自己責任で根性でなんとかしろ!というのがこの30年だった。
バブルが崩壊して、企業が保身に入り金の周りが致命的に悪くなり設備研究投資もしないから産業も劣化しつつある。
じゃあお偉方は何をしたかというと、特に頭の足りないやつを起業だーポスドクだーイノベーションだ根性だーといって煽り、しばき倒すだけ。
起業やアカデミック周りには大量の死体の山が築かれている。こんな日本のもとでは手堅く確実に金を得られ、自分のみを守れる道を選ぶのが正解だと言える。
そこで夢みたいなことを言うから、中身のない空虚な夢を叫び危ない道を歩むということで日本型ネオリベと言われたような気がする。
ここ数年、博士号を取得中とか、その後のテニュアのポジションが取れなかったとかで
いかに博士課程に進んでアカポスに進むのが最低最悪かというエントリをよく見かける気がする。
確かに、若手研究者の現状は前よりも悪くなっているんじゃないかとは思う。
自分は博士号取得後に任期付きアカポスになり、無事テニュアのアカポスになった。
周囲の教員や研究者は、みな人柄もよく頭もよく、話していて面白い人ばかりだ。
これまでは研究ばかりが重要だと思っていたけど、教育へのやり甲斐も実感した。
アカデミアは、働き方も自由、PIになればこれをやれと仕事を命令されることもない。
大学事務が非効率と感じることもあるけど、お互い仕事でやってるんだから仕方ないなと思ってる。
何よりも、自分の好きな研究を自分の好きなようにできる自由がある
給与はそりゃ自慢できるほどいいわけじゃないが、卑下するほども悪くない。副業もできる。
うちはダブルインカムで配偶者も稼いでるので、家計は余裕がある。
結婚できない、という説もみかけるけど、
知り合いのアカデミアの同世代の中で結婚していないほうが珍しい。
自分が優秀だったからこういう環境にいるといいたいわけじゃない。
素晴らしい職業なのに、最近あまりも夢がないエントリばかりだなと思ったから。
自分のまわりでは、研究者としての能力が足切りレベルだったか、
競争社会には向かない性格だったか、ないしは単に人間として付き合いにくい奴がいなくなったと思う。
業績があっても付き合いにくかったら、当たり前だけど長く付き合う同僚や部下としては願い下げだろう。
でも教育者に向かない嫌味なやつは選ばれない。
目を引くような業績がたとえなくても、
同僚や共同研究者としてやっていきたいと思う楽しい人や、研究テーマに引きがある人は残ってると思う。
もちろん他にやりたいことがあってアカデミアを去った人もいると思う。
そういう人は新しい道を気持ちよく進んでほしいし、
自分ができなかったことをやってくれていると応援したい気持ちがある。
辛く悔しい思いをしたという人がいるのは間違いない。
子供が博士課程に進学したいと言ったら応援できるのか、と書いてあったとある投稿を見るまで、
アカポスは最高だなと思いながら、こういうことを書くなんて思いもしてなかった。
嫌味だと受け取られるかもしれないし。
伝えたいことは、学級の道は楽しい。向いている人には楽園だと思う。
少なくとも自分のまわりは、文理問わず任期なしの職に転換した人の方が多いです。
自分の子供の職業選択についてああだこうだ言うつもりはないが、
もし、子供が将来学者になりたいと言ったら、もちろん応援します。
自分は、「一般的に、暗記数学に賛成している人」とされている、
の中の一人だが、そのはしくれとして、「暗記数学が正しい」という妄言を徹底的に批判する。
その塾では基本的に生徒に自習させ、分からないことがあったら講師(自分)に質問する、というスタイルを取っていた。
基本的に自習だが、毎日チェックテスト(基礎的な数学の問題が数題出題される)のみ、全員に共通したノルマだった。
講師の初日、全員にチェックテストをやらせていたが、一人(A君とする)だけなぜかやらなかった。
話を聞いてみると、「基礎の練習など無意味。自分はもっと応用問題の解答を暗記する」という強い信念を持っていて、基礎はやらない、とのこと。
「生意気言うな。基礎もできない人間に応用問題なんてできるわけないだろ」と何度も注意したが、
なんでも和田秀樹の本を読んで感動したらしく、忠告は拒否され、毎日せっせと解答の丸暗記をしていた。
結局浪人期間の一年間で一番A君と仲良くなった(自分の説明が分かり易いので気に入ったらしい)が、
彼の解答の丸暗記法では、全く同じ問題だと解けるのだが少しでも違う問題だと全く太刀打ちできなかった。
彼が熱っぽく如何に和田秀樹の理論が素晴らしいかを語るを聞き、
「問題が解けるようになってから言えよ。とはいえ、いたいけな受験生をここまで変な考えにさせるなんて和田秀樹ってやつはトンデモねー極悪人だな。」
としか思えなかった。
結局彼は成績が上がらず、目標としていた難関大学(ぶっちゃけ慶応)よりも相当偏差値の低い大学に行った。
最後に彼は「やっぱり基礎は大事なんですね」と反省していたが、彼の貴重な一年を棒に振った暗記数学はもう極悪だとしか思えなかった。
以上が、私が和田秀樹の提唱する暗記数学が絶対に間違っていると判断するに到った根拠である。
とは言え、暗記数学氏の
との主張は至極最もだし、暗記数学氏の提唱している勉強法は「暗記数学」というタイトルを除けば極めて全うだろう。
また、私もA君からの又聞きによってしか和田秀樹の理論を知らないので、
「A君のやっていた『解答を丸暗記する』法は本当の暗記数学ではない。本当の暗記数学は理解して暗記するものだ」
との反論はあるかもしれない。
詳しくは知らないが、自分の読んだことのある和田秀樹のエピソードは、
和田秀樹が大学時代に灘の高校生(B君とする)の家庭教師をしていた。B君は灘というプライドがあったため、和田秀樹が何度も
「解答を覚えろ」と忠告したのにも関わらず、いきなり難問を自力で解くという勉強法を繰り返し、成績が上がらず、大学受験で撃沈した
というものである。これは暗記数学氏の言う「何かをこじらせて勉強法に無駄な拘りを持っている人たち」に対応するものだろう。
確かに「数学は暗記だ」という言葉は、B君みたいな灘に入ったからと言って勘違いしてしまった一般人(灘にいる本当の天才はそんな勉強法でも大学受験レベルの数学くらい解くだろう)には有効な言葉かもしれない。
A君みたいに解法を暗記するだけ暗記して全く応用の聞かない馬鹿を産み出したのは確実に和田秀樹のせいである。
そして、日本の「数学が出来ない高校生」のうち、A君タイプ(解法の暗記はするけど理解が追い付いていなく、暗記した問題から少し変えると答えられない)が99%で、
B君タイプ(自分は天才だと勘違いした凡人)は1%にも満たないだろう。
そのような状況で、B君タイプを減らすことを目的として、A君タイプを量産することになる
仮にA君の暗記数学の理解が不十分だったとしても、暗記数学という言葉は有害無益である。
暗記数学氏の主張が
という主張なら、それは100%正しい。オイラーやガウスでもない一般人が平方完成も知らずに
二次方程式が解けるはずがない(というかオイラーやガウスも平方完成は暗記しただろう)。
しかし、オイラーやガウスが行ったことを「暗記数学」とは言わない。
暗記数学氏の想定している「アンチ暗記数学派」の主張は「数学の体系をゼロから始めて全て車輪の再発明をしよう」
という荒唐無稽な主張であるため、このような主張のアンチテーゼである「暗記数学」
和田秀樹らによるいわゆる「暗記数学」の要点をまとめると、以下のようになるだろう。
これは従来、数学の入試問題を解くのに必要なのが曖昧模糊とした「ひらめき」や「才能」だと思われていたことへのアンチテーゼである。「暗記」という語はその対比であり、特別な才能がなくとも、基礎事項を確実に習得することで、入試を通過できる程度の数学力は身に付くことを主張している。
そもそも、大学入試は大学で研究をする上で重要な知識や考え方の理解度を問うているわけであって、徒な難問を出して受験生を試しているわけではない。したがって、そのような重要事項(つまり、教科書の基礎事項や、数学を活用する上で頻繁に出てくるような考え方)を身に付けるのが正攻法である。
そのための教材としては、エレガントな別解や難問に拘ったものよりも、基礎事項や入試頻出の問題を網羅したスタンダードなものが良いとされる。
これはいわゆる解法暗記である。なぜ、具体的な実例を学ぶのかと言えば。数学に限らず、具体的な経験と関連付けられていない知識は理解できないためである。
実際、教科書を読んだばかりの人の多くは、自身の知識と入試問題との間にギャップを感じる。たとえば、ベクトルの内積の定義や線形性等の性質を知っただけでは、それを幾何学の問題に応用するのは難しいだろう。教科書を読んだばかりの段階というのは、将棋で喩えれば駒の動かし方を覚えただけのようなもので、実戦で勝つのは難しい。実戦で勝つには、定跡や手筋のような、ルールだけからは直ちに明らかではない、駒の活用法を身に着ける必要がある。
将棋の定跡を初心者が独自に発見するのが難しいのと同様に、数学の自明でない実例を見出すことも難しい。そのほとんどは歴代の数学者が生涯をかけて究明してきたものなのだから、当然である。しかし、現代の高校生には既に教科書や入試問題がある。特に入試問題は、数学の専門家が選りすぐった、良質な実例の宝庫である。受験生はこれを通じて数学概念の活用のされ方や、論理の展開等を深く理解するべきである。
そしてこれは、大学以降で数学や工学を学ぶ際も同様である。特に、大学以降の数学では、抽象的な概念が中心になるため、ほとんどの大学教員は、具体的な実例を通じて理解しているかを非常に重んじる。たとえば、セミナーや大学院入試等では、以下のような質問が頻繁になされる。
教科書の記述や、解いた問題は完全に理解すべきである。つまり、
といったことを徹底的に自問するべきである。自分の理解が絶対に正しいと確信し、それに関して何を聞かれても答えられる状態にならなければいけない。「微分で極値が求まる理屈は分からない(或いは、分からないという自覚さえない)が、極値問題だからとりあえず微分してみる」というような勉強は良くない。
そして、理解できたと思ったら、教科書の一節や問題の解答を何も見ずに再現してみる。これはもちろん、一字一句を暗記するということではなく、上に書いたような知識が有機的な繋がりを持って理解できているのかを確認することである。ある事実が、どのような性質を前提としていて、どのように示されるのかという数学のストーリーを理解していれば、何も見ずともスラスラ書けるはずだ。
また、問題を解く際は、いきなり答えを見るのではなく、一通り自分で解答を試みてから解答を見ることが好ましい。実際に手を動かすことにより、分かっている部分とそうでない部分が明確になるからである。
以上のことは、何も受験数学に限った話ではない。他の科目でも、社会に出て自分で調べたり考えたりしたことを他人に発表するときでも同様である。
要するに、数学の専門知識と社会的常識のある人は暗記数学に賛成しているようだ。
逆に、反対している人。
反対しているのは、金儲けが目的で目立つことを言っているか、何かをこじらせて勉強法に無駄な拘りを持っている人たちのようだ。
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思うに、アンチ暗記数学派というのは、精神の根底に以下のような考えを持っているのではないのだろうか?
一部の人は、大学入試では「ひらめき」「発想力」「頭の柔らかさ」「地頭の良さ」などを試すために敢えて典型的ではない問題を出しているとか、「天才」を発掘するために常人には解けないような難問を出題していると思っているのかも知れない。しかし、先にも述べたように、大学入試は、大学に入って研究するための基礎学力を測っており、入試問題は、そこで問われている知識や考え方が重要だから出題されるわけである。したがって、そういう重要な知識や考え方を十分に身に着けていれば受かる。ただそれだけの話である。そして、良識ある教育者は、数学で重要なところが分かっているから、それに基づいて教材や予想問題を作っている。そうでない人はもしかしたら、大学が普通の受験生には解けないように徒に問題を複雑にしていると思い込み、ひねくれた問題を教えているのかも知れない。
また、「数学自体は重要ではなく、数学を通じて思考力を鍛えることが重要」とか「受験勉強は社会に出て嫌な仕事を我慢するための訓練」等と思っている人もいるかも知れない。特に前者は、自称数学好きにもいるようだ。しかし、深く考えるまでもなく、大学受験に数学が課せられるのは、大学で研究するために(少なくとも、教員が望む水準で)絶対に必要だからである。そして何度も言うように、入試で問われるのは、研究のために必要な知識や考え方であり、「頭の柔らかさ」などではない。また、数学をそれほど使わない学部にも、受験に数学が課せられるのは、多くの大学には転部等の制度があり、文学部から経済学部とか、農学部から工学部に転部するような事例は珍しくないからである。
上記2つに共通するのは、「理解」よりも「ひらめき」等のオカルティックなものを重視することである。これは、上に述べた胡散臭い教育業者や、受験生に絡んでる学歴コンプが暗記数学に反対する理由と符合する。金儲けがしたい受験業者にとって、「基礎を確実に理解することが重要」と言うよりも「入試本番に典型問題は出ないから、ひらめきが大事(。そして、ウチの教材を使えば、それが鍛えられる)」などと言った方が、客は集まりやすいだろう。また、SNS等で受験生や教員などに絡んでる奴にしても、数学の本質が理解できず霊感的なものに価値を見出しておかしな勉強理論にかぶれてしまったと考えれば納得がいく。
うん。こんなアニメ流されたら胃に穴が開く。
(https://note.com/ever_blue/n/n16ed7c79b534 をよんだという話)
声優にしろ漫画家にしろとても険しい道で、しかしそこを一度選んだものがドロップアウトするにはまともな人のふりをしなおす才能が必要なのである
「金を払われる側になったことがあるんだからエリートじゃねえか自慢するなクズ」という下から目線の反論というよりルサンチマンをぶつけるもってこいの藁人形扱いだったり
「anond.hatelabo.jp/20200211033150にしつこく粘着していってやったとおり漫画家や声優を絶対にサラリーマンより下にみるな(ただし消し逃げ)」というなぜか中から目線の反論だったりが想定されるところである。
始めたことをやめてまた始めるには人一倍の勇気が必要であり、この人はたまたまその勇気やまともなひとのふりをできる才能が今あるのだから尊重すべきだ。
ただし私がいいたいことはこの2つのどちらとも違う。心配だな、である。
ウエメセといわれそうだがあえていうと、文系のアカデミックポストに女性差別が存在しないなんて思わないほうがいいのである。ポスドク自殺女性の話がネットで盛り上がった通りである。
大学に行くことでお金を払う側、客に一度もどったのである。ここで切ってしまうとまた若いものいじめといわれそうだがまあもう少し聞いてくれ。
平成以降に生まれたネイティブネット世代は金という光ファイバ回線を通じて支払いができる交換価値がどんなものより大好きである。
金があればアイチューンズカードが買え、ポイントに引き換えて好きな曲や漫画が買え、握手券つきCDもおしばいのチケットも(争奪戦にはなるが)買え、親に仕送りをしていい顔をでき、結局、金で好きな人を独占できるからである。平成世代にたとえば現物で支払いをしたらおそらく2秒後にはメルカリである。
そして労力を金に買えることも大好きである。
ところが、労力を金に変える手段は大幅に電気とコンピューターに奪われたのである。
むかしはそろばん(珠算)が正確にできれば統計や経理という職が用意された。
昔は英検1級所持者なら海外とファクシミリをやりとりするという職が用意されていた。
たった50年ほど前である。そうやって就職した人はまだ現役で生きているし、なんならあなたの上司になることもある。
しかし今職を探すあなたは就職しても「エクセル」「グーグル検索」「グーグル翻訳」「グーグルマップ」より深く職場に溶け込むことはもうないだろう。
グーグルは無料でなんでもやってくれるのだから、給料を払って人間にやってもらおうという人はいない。
運良くまだ手つかずのそろばん世代が上司になっても、金を払うとなると人間はよく調べるもので、
「こんなのグーグルで調べたらちゃちゃっとできるでしょ」と(自分はできないくせに)平気で言うのである。
だから、あなたたちにはまともな職はない。絶望しろ。といいたいのではない。そうではないのだ。
そうでなくてもインフルエンザで、お風呂のヒートショックで、普通ならひっかからない低い段差でこけて足を折って寝たきりになったのが原因で、
人は毎年何万人も死んでいるのである。私もおそらくそんなつまらない理由で死んでしまう。
その最後のとき、私はおそらく、若いあなたたちだけでも生きていてくれてよかった、と言うのである。
乞食になることを怖がらなくていい。自分は他人の金にすがっているとおもわなくていい。
なんなら生活保護だって障害年金だって、どんなお金だってあげる。
災害災害、自粛自粛と肩身の狭いまま大人になったあなたたちは本当にかわいそうだし、もらえるお金はもらっていいのだ。
その上で、堂々と胸を張って、プライドを持ってやりたいことをしなさい。
10年前、研究者を志し研究に励んでいた。しかし当時たまたま知り合った先輩(玉木浩貴、自称:国立印刷局の研究職候補)が「博士課程にメリットはなく、正規の研究者(アカポス)になれない」などと博士課程を卑下した発言を何度も繰り返しており、だんだんと感化されるようになった。結局それなりの研究実績はあったものの、大学院を去り、就職した。
一方で、研究が楽しいとそのまま大学院で研究を続けた周囲の学生・ポスドクの人達がいた。
当時は自分の選択は最良と思っていた。周りのように、今が楽しいからと厳しい現実を逃避し、なれもしないアカポスに憧れるのは哀れだと思っていた。
<大学院で研究を続けた周囲の学生・ポスドクの今(大学・大学院の所属研究室で自分より±3学年)>
<俺の今>
<先輩の今>
これらはあくまで俺が大学・大学院で所属した研究室のみの状況。他の研究室や学会で知り合った人を入れればもっと多くなる。
先輩の当時の論調では、大学院に残った人はその後落ちぶれてゆくということになるが、現実はそんなことはなかったのだ。
確かに、俺が大学院を去って最初の数年間は周囲はパーマネント職には就けず、惨めなものであった。しかし、5年経った頃(つまり5年前)にはアカポスをゲットする人が急に増えた。大御所だった教授達が大量に定年を迎え、ポストが一気に空いたからだ。
現在、俺と周囲の人ではどっちが良かったかどっちが上かは一目瞭然。その中には10年前俺よりも研究実績がなかった人も少なくない。先輩の言うことを信じて大学院を去ったことを非常に後悔している。
「大切なのは邪念に惑わされないこと。諦めたら負けだ。」
ポスドクで様々な成果をあげて栄転する人もいれば、そううまくはいかず、アカデミックを辞めてしまう人もいる。
何が両者を分けているのか考えてみる。分野にもよるが、ある程度は共通していると思う。どちらかというと理系寄り。
→これは大きい。採択されるということは有望な研究者という証にもなるし、研究費をもらいながら自由に研究できるので、成果もあがる。
→ネットワークが広がるので、共同研究などに発展しやすいし、顔を知ってもらえるだけでやはり違う。機会を活かせるかはその人次第だけれど。
→ホワイトなラボで、自由な研究時間があるのはやはり強い。ブラックだととてもとても大変。
→博士課程と同じような研究を続けていては先細りする。博士課程を始めてから5年くらい経つと、世界の研究の動向も変わる。また、同じ分野で出せる成果もだんだんとインパクトが減ってくる。ポスドクで新たな研究に取り組めないと、今後取り組むのはもっと難しくなる。
以上を全部満たさなくてもいいが、全てを満たしていない人は、やはり厳しい。