はてなキーワード: 社会的影響とは
https://anond.hatelabo.jp/20181104065044
8年前にも山口一男から「まったく科学ではないよ」と喝破されている。
フェミが劣化したのではなく、元々こんなものだったのに学問っぽい体裁だったから騙されてただけ。
山口 日本の社会学教育、研究では、社会学とヒューマニティと分離していないんでしょうね。ヒューマニティ自体は重要ですが、それと社会科学としての分析は意識的に分けなければいけません。たとえば僕の本『ダイバーシティ』にもヒューマニティと呼べる内容が入っていますね。それから、たとえば大学の学部の教養教育では人に考える力を与え、人を育てることを考えますから、ヒューマニティを含め雑多な要素が全て入ってくるわけです。それはいいんですよ。ですが、大学院は研究の専門家を育てるための訓練をする場所のはずです。日本の研究者は、しばしばその境界を意識せずヒューマニティと科学をまったく区別しないんです。その結果、研究においてさえ、たとえばドメスティックバイオレンスの研究をしている研究者が、計量的分析などほとんどせずに、被害者から聞いた話だけに基づくフェミニスト的解釈で男はこんなものだといった論評をしたりするわけです。まったく科学ではないよ。そういった論評は、自分はこう考えるという意見として発言しても構わない。アメリカであっても思想や政策を中心とした雑誌でそういった意見を発表して社会的影響を与えている研究者は多いですし、総じて尊敬を集めています。けれど、科学者としての分析とは区別しなければならないですね。論文を書くときは思想部分は禁欲的に落とし、検証しえた分析結果だけを書かなければならない。
私はT式コーチングというものが本物かどうかを入念に調べながら実践し、それに関わるコーチング理論にも徹底的に手を出し、当然一月万冊にも辿り着いた。
彼らが主催するセミナーのようなものにも時々顔を出していたので、ビ・ハイアの従業員も知っていた。
私自身はコーチとしての資格などは持ってはいないが、T式コーチングの理論はそれ自体は決して悪いものではない。
私は100%盲信している訳でもないが、本来の使い方をすれば素晴らしい効果を発揮するものであると感じている。
しかし、S社長(以下S)の解説するコーチング理論を精査したところ、T式のものとは少し違い、独自の解釈、理論で展開されている。
だがそれ自体がコーチングの理論からすれば大きな勘違いという程でもなく、本人すらも気づいていないかもしれないが、根源がT式とは違うコーチングをやってるなーといった感じだ。
実際、いまいち腑に落ちなかった部分をSの解説で理解できた事もあり、彼にネット経由で直接感謝を述べたのだが、私の予想とは違うリアクションが返ってきた。
これを機に、その内容とは裏腹に、私は彼に対し人格的な違和感を抱く事になった。
私の見解では、Sはめちゃくちゃ外ヅラは良いのたが、その本性は超自己中心的人間。
自分を天才だと思い込んでいる人物であり、普段からの発言は嘘と本当の事を混ぜ込んであるので、非常に巧妙にまるで全てが本当の事だと思わせる話術もある。
更に、上手いことをやれば何をやっても許されると思っている。
知識人やコーチ連中も含め、恐らく周りのほぼ全ての人間が彼を信用し、凄く良い人だと思っていた事だろう。
よって知識人と言えども、今回の事態を受け入れられず、混乱したまま擁護に回ってしまったのではないか。
その点、コーチのU氏のスタンスはとても冷静で、元々今回の騒動の主要な人間関係を知っていた私は、彼の主張によりほぼ全容を理解できた。
この度の大下氏の主張は、恐らく社内でのSは彼の言う通りの人物像なのだろう。
コーチングの知識があるにも関わらず、事実それとはかけ離れた非人道的なSの振る舞いは、決して許されるものではない。
相互監視などはストックホルム症候群を応用した手法にすら思えるし、他にも読書で学んだ洗脳の手法も従業員に多用していたのだろう。
また、報道はされていないが、Sと大下氏は大学時代からの20年来の友人でもあるはずなのにこのような仕打ちとは、Sの非道さが際立つ。
そして、ただでさえ怪し気な雰囲気が付き纏うコーチング業界にとっては、これは大変な痛手であり、大きな誤解も生まれる。
もちろん世の中にはコーチングと謳ってはいるが、インチキ紛いの連中も実際にいる。
たが、Sのやっていた事は当然それ以下で、彼が勝手に師と仰ぐT氏にとっても大きな迷惑である。
事実、独自の理論を称えていたのでT式とも呼べないのだが、彼の巧妙さの真骨頂はそこではない。
その並外れた営業スキル(外ヅラの良さ)で彼らに近づき、友人としてすっかり信用させていた。
私はそのコーチの方々とも会った事があるが、人間的に信頼もできる方達だと感じた。
私が唯一違和感を覚えたのは、やはりSだけだ。
また、T氏の一番弟子と言われるAコーチが、ビ・ハイアへコーポレートコーチングを行っていたという。
残念ながら防ぐ事はできなかったが、これを機にA氏は流石にSの本性を見抜き、離れたのではないかと推察する。
もしかしたらそれに加え、Sがコーポレートコーチングの契約に反した行動なども露見したのかもしれない。
A氏のコーチングを受けていたにも関わらず従業員が自殺するなど、その通りに実践していればどう考えても起き得ない状況だからである。
今回の件で、A氏以外のSに関わったコーチが公式の認定コーチから排除された問題は、T氏からすれば謹慎のようなものではないかと思う。
勿論除名は謹慎と比べるまでもなく重い処分ではあるが、やはりT氏としては動かない訳にもいかないだろうと、同情の余地もある。
とは言え、私は関わったコーチにも非があったとは思えない。
やはりSがずば抜けて良い人を演じるのが上手いのだと思う。
表向きには良い人、裏の顔は冷酷、もしかしたら本物のサイコパスなのかもしれない。
それを見抜けなかったコーチや知識人はある意味被害者でもあるが、それに反し彼らの社会的影響と責任は大きい。
ただ、その現実を受け入れられず擁護に回っているとしたら、そこには同情の余地はない。
今回の騒動は、本来民事裁判などではなく刑事事件となるべきだと私は感じるのだが、その行く末を見届けたい。
それとともに、他のコーチング理論ならいざ知らず、少なくとも利他的である事を取り入れているはずのT式のコーチングには罪がない事も加えて主張したい。
どっちも部分的には正解じゃないの?
マイノリティやLGBTへの配慮というのは、あくまでリベラルが権力・経済力・社会的影響力を掌握した上での話であって、今のところ必ずしも普遍的ではない
リベラルさんに言わせれば中国やインドや中東なんかは規範なき蛮族なんだろうけど、彼らにも宗教や共同体をもとにした基準というのはあって、西海岸やヨーロッパのそれとは体系からして異なる
そして彼らが力を持った時、リベラルの君臨を前提としたポリコレも必然的に揺らがざるを得ないんじゃないのかなという話
まあ、日本なんかはリベラルがクソザコ(というか、そもそも日本人って他人に優しくないよね)で、さりとて伝統保守の価値観をよそへ広げるようなパワーももはやないので、その辺中途半端になってるけど
――手法としては経済学に影響を受けつつ、世界観としてそれ採用するのではないわけですね。
山口 ないですね。社会学というわれわれの学問は自由なわけですね。悪く言えばいい加減。分析の最終的な評価にあたっては方法論的厳密さが求められるけれど、その背後には多種多様な研究者がいるんですね。エスノグラフィーをやっている人や街へ出てインタビューする事例研究をやっている人なのです。そういった研究はある意味で科学的ではないと僕は思っているけれど、彼らは時々すごくいい洞察をする。すると、彼らの洞察はデータで裏づけできるか、一般化可能か、といった問題へと発展していくので、分業だと思っています。
ただ、そういう観点から見ると、日本の社会学は総じて科学的ではないということになってしまいますね。相変わらず古典的理論家が何をどう言ったという文脈の解釈とエスノグラフィーが中心ですから。例外はたくさんいますが、やはり少数です。4000人ぐらいが所属している日本社会学会では、計量分析に真面目に取り組んでいる研究者は1割程度しかいないと聞きました(笑)。アメリカ社会学会では逆に計量分析が7割程度、エスノグラフィーや純粋理論は非常に少ない。ましてや古典理論の解釈をやっている人はほとんど希少価値を帯びているといっていいです。
山口 日本の社会学教育、研究では、社会学とヒューマニティと分離していないんでしょうね。ヒューマニティ自体は重要ですが、それと社会科学としての分析は意識的に分けなければいけません。たとえば僕の本『ダイバーシティ』にもヒューマニティと呼べる内容が入っていますね。それから、たとえば大学の学部の教養教育では人に考える力を与え、人を育てることを考えますから、ヒューマニティを含め雑多な要素が全て入ってくるわけです。それはいいんですよ。ですが、大学院は研究の専門家を育てるための訓練をする場所のはずです。日本の研究者は、しばしばその境界を意識せずヒューマニティと科学をまったく区別しないんです。その結果、研究においてさえ、たとえばドメスティックバイオレンスの研究をしている研究者が、計量的分析などほとんどせずに、被害者から聞いた話だけに基づくフェミニスト的解釈で男はこんなものだといった論評をしたりするわけです。まったく科学ではないよ。そういった論評は、自分はこう考えるという意見として発言しても構わない。アメリカであっても思想や政策を中心とした雑誌でそういった意見を発表して社会的影響を与えている研究者は多いですし、総じて尊敬を集めています。けれど、科学者としての分析とは区別しなければならないですね。論文を書くときは思想部分は禁欲的に落とし、検証しえた分析結果だけを書かなければならない。
社会「科学」としての社会学に対する意識が希薄な背景には、日本では多くの社会学科が文学部にあることも影響しているのかもしれませんね。計量なんかやったって人の本音のところはわからないよ、みたいなことを言う人もかなりいました(笑)。僕は実証しなければ、一般的なことは何も言えないよって言うんですが。
【コピペ】
社会人2年目25歳。増田でディスられがちな某大手SIerに新卒プロパーとして入社しました。以来毎日Excel方眼紙やCOBOLやバイナリエディタを弄っています。ネタじゃないですよ。
大手SIerに行ってもプログラミング力が身に付かないことは、就職前から十分知っていました。しかし私はそれでも良いと思っていました。何故なら私は頭が良くないからです。プログラミングを仕事にしてしまうと、常に勉強し、最新の技術にキャッチアップしなければいけません。そして腕を磨いて転職を繰り返さなければ年収は中々上がらないと聞きます。自分には到底そんな生き方ができる気がしませんでした。自分は無能なので、大手のぬるま湯に浸かってのんびり高収入を得ることが出来るならそれが一番いいと思っていたのです。さっさと人生アガって、早く楽をしたい。大手SIerはそんな自分にとって、ぴったりの職場だと考えていました。
しかし、大きな誤算がありました。大手SIerでの仕事が、想像を絶するつまらなさだったのです。まず大規模基幹システムというプロダクト自体に興味が持てません(学生の頃は、社会的影響力の大きいプロダクトに携われば興味なんていくらでも湧くだろうと安易に考えていました)。また、大規模で複雑なシステムというのは、考えているだけでも結構疲れます。というか未だに理解できてない部分も多く挫折気味です。そういうものに今後一生向き合っていく仕事なのだと思うと軽く絶望してしまいます。どうせ勉強するならDelphiの言語仕様とかの方がまだ楽しそうな気がします。
人間関係も上手くいきません。思った以上に周りのSEは体育会系が多いです。一応メーカー企業でもあるので、入社前はもっと地味な理系っぽい人達とのんびりアニメの話が出来ると想像してたんですが全く違いました。職場のおじさん達は、キャバクラでいかに派手な飲み方をしたかなどの話を毎日しています。全く価値観が合わず、コミュ障の自分は勤務中もほぼ話しません。
それでいて出社時間に厳しいなどかっちりした社風も息苦しいです。残業も結構あります。
そんなわけで、将来的な転職先としてWeb系のメガベンチャーに憧れています。面白いサービスを作っていて、コアタイムが緩くて、フリーアドレスで仲良い人の近くで働けると最高です。
ですが今の自分はプログラミングがほぼできません。簡単な文法くらいなら分かります。ヘボ大学の授業でCの文法の単位は取りましたし、会社の新人研修でJavaの講義も受けました。progateやN予備校の内容くらいなら理解できます。SQLも簡単なselect文なら書けます。〇〇入門みたいな勉強会にも週末たまに参加しています。しかし、文法が分かるといっても、ポリモフィズムを理解してるかと言われると怪しいレベルです。アルゴリズムもちゃんと勉強したことがありません。
例えばRailsでなんか作ってみようと思っても、railsコマンドとrakeコマンドの違いや、db:createとdb:migrateの違いが分からなくて何時間もググったりして、あんまり進捗がありません。適性がないのかも知れませんね。平日に残業したあと帰宅して勉強をしていますが、自分でちまちまやるだけでは圧倒的に量が足りず、効率も悪いと感じます。若い今のうちにさっさと未経験可のWeb系に転職→転職を繰り返し、最終的に自社サービスを扱うメガベンチャーへのキャリアアップを目指した方がいい気がしています。
こんな感じでWeb系メガベンチャーに憧れていますが、こんなにだらしない自分に、果たして本当にWeb業界が向いているのか考えると不安で仕方ありません。自社サービス開発のWeb系企業は教育も弊社ほど丁寧でなく、即戦力や個人の努力によるキャッチアップが求められ、個の力が重視されるというイメージがあります。それが本当に私にできるのか、自信がありません。私のような人間は、このままぬるま湯に浸かり続けるのが正解なのでしょうか。長い文章をここまで読んで下さった皆さん、ありがとうございました。どうか所感をお聞かせ願います。
「自分は何年もウナギ食べるの我慢してたのに、みんなウナギ食べるのをやめてくれなかった」とか嘆いている奴、意味不明。
ツイッターの片隅で、口先で「私は食べません」アピールしたところで、どんな社会的影響力があると思ったのか。
心ある市民の草の根運動で、乱獲が止められると本気で思っていたのか。
テレビの報道はいつ見ても一貫していた。ウナギが少なくなっているのは中国のせい、黒潮のせい、異常気象のせい、たまたま遅れているだけ。いずれは完全養殖でなんとかなる。消費を控えるなんてとんでもない。さあ、土用の丑の日にはウナギを食べよう!
『だってスーパーに行けば売ってるし、店でも食べられるし、絶滅なんて嘘でしょ大袈裟に騒いでいるだけで。
絶滅しそうなものが売られているなんて、常識的に考えてありえない。だからウナギは食べてもいい。
誰かが買わなきゃ廃棄されるだけ、勿体ない。買わないなんてありえない。食べ物は大事にしないと。
店の人も商売だしね。誰も悪いことしてないのに、どうして非難されなきゃいけないの。』
そういう空気を変えるために、ツイッターでちょろっと「私はウナギ食べません」アピールしたからって何になるんだよ。
国が動かなきゃどうしようもねーんだって、それこそ何年も言われつづけてきただろ。
でも、国を相手に要求するってことは避けてきたんだろ。世論に訴えるような積極的な言論活動すらしてこなかっただろ。
資源保護は大事だけど、自然保護団体みたいなことはやりたくない、活動家や思想家には見られたくなかったんだろ。
権利団体や権力とぶつからずにこの問題が解決できたわけねーだろ。
“「批判はあるけれど、一方でOKとされている」なんて事例は、この現代社会に存在しない” いや、それが大半でしょ。その上で、多様性として受け入れるものもあれば、セクハラのように排除すべきものもあるって話かと
こういうブコメがサラッと出るの、さらに少しでも星がつくの、怖気が走るよな。
自分が楽しむものは「多様性」として受け入れて、自分が嫌なものは「セクハラ」と切って捨てるわけだろ?
男向け二次ポルノを排除したら、BLも排除されたってショック受けてた女子も居たが、当たり前だろって話なのに、こうして「BLはたよーせー」って思ってる輩が多いんだよ。
(ブコメの人がそうだと言いたいわけじゃない、けどBL排除にショック受けた女子は似たような感覚だったはずだ)
もちろん、「本当に酷くなったら排除」という人もいるだろう。
「社会的影響力」ってな言葉で、それを助長するからと、本来だったら「たよーせー」レベルの酷くないものまで、排除されるだろ?
最近何かと話題になっているはあちゅう氏(この人の名前を目にするのも疲れてきたから以後はイニシャル表記とする)について、セクハラ公開告発が自著の宣伝も兼ねてるのでは?なんて話もちらほら目にするようになってきた。
まぁ百歩譲ってそれが宣伝だったとしても、どうでも良い。
(どうでも良い、というのは、ここで論じたいのはこのことではないためで、ふざけるな、と言いたくなる問題ではある)
ただ、「自分という生き方を武器にしよう」って主張はとことん気に入らない。
H氏の言うセクハラ案件をここまで大々的に公開告発することができたのは、本人のネームバリューや社会的影響力が非常に高いためであり、さらにそうした価値は本人の容姿に依存している部分が多分にあるだろう。
人間生まれた時から不平等なので、自分が容姿に恵まれなかったのは仕方が無いが、はっきり言わせてもらう。
「自分という生き方を武器にする」ことができるのは、自分が社会的に価値がある人間であると認められていることを知っている人間だけであり、特に女性については容姿に恵まれた人間がそのほとんどである。
女性は容姿が醜い時点で、その他の能力が高かったとしても、それを武器にすることができる場面はほぼ無いに等しい。
H氏は、それを分かった上での自著の主張をしているのだろうか?
いや、分かっているからこそ、そのように主張しているのだろうか。
「「容姿も良くてネームバリューも社会的影響力も発信力も持っている自分」という生き方を武器にする」としか聞こえないのは、そういう生き方ができないからなのだろうか。
冬眠する増田アース人が宇宙に進出し、増田アースに残った人々が
絶滅した後、極度に汚染された環境が生き残った生物に突然変異を強制した。
それは成長にしたがい性別が変化することだ。
動物時代の彼らは身体が大きくたくさんの卵を産める個体が雌をつとめていた。
年収の多い個体ほど雌に性転換しやすかった。最初はみな雄で生まれてくるのである。
実際、一度の産卵数が多いので、経済的に豊かな個体でなければ親は務まらない。
雌と結婚した雄も、配偶者からの経済的社会的影響を受けるため、雌に変化しやすい。
イキイキマンボウ人社会における「普通の家庭」は雌同士が大量の雄の子供を育てるものと考えられていた。
雌は雄にとっていつかなる性別だし、雄は雌にとってかつてなった性別であるから。
一生を雄で過ごすイキイキマンボウ人は抑圧され見捨てられた存在だった。
彼らはいわば「視覚化された童貞」であり、円満な雌×雌家庭を見ては
血涙を流し「おああーーーっ」とエラを震わせるのだった。
当事者の主張に耳を傾け、証拠に基づいて、中立・公平で公正な判断をすることが必要だと考えています。最高裁として判断すべき事件数の多さと事件の多様さに直面して、最高裁判事の使命の重大さを改めて痛感しています。
詰まるところ、中立・公平で公正な裁判を迅速に行うことが求められているのだと思います。結論に至る過程をできるだけ分かりやすく示すことも大切だと考えております。また、裁判所としては、情報発信をさらに進めていくことが望まれるように思います。
就任直後に関与したGPS捜査に関する大法廷判決が、刑事手続き法に関する近年の最も重要な判決の一つであるだけに強く印象に残っています。
注:令状のない全地球測位システム(GPS)捜査は違法とした大法廷判決(17年3月)
任命権者が判断すべき事項ですので、回答は差し控えさせていただきたいと思います。
憲法改正の是非などは国民が判断し、決めるべきことで、憲法を尊重し擁護する義務を負う立場にある者としては、回答を差し控えさせていただきたいと思います。
前項と同様の理由により、回答は差し控えさせていただきたいと思います。
私の考えは、当審に係属した具体的な事件について判断する中で示すべきものと考えております。
注:16年参院選の「1票の格差」を合憲とする多数意見(17年9月)
今後当審にも関係する事件が係属する可能性がありますので、回答は差し控えさせていただきたいと思います。
全体的に見れば、課題はあるものの、うまくいっているのではないかと考えておりますが、制度の運用上、裁判員の負担軽減に配慮することが必要だと思います。
判断の誤りを避けるため、様々な観点から証拠評価をしっかりと行い、手続きを適正に運用することが重要だと思います。
死刑の存廃などについては国民的な議論が大切だと思います。一般論としての回答は差し控えさせていただきます。
法改正に向けた法制審の審議には私も参加いたしました。改正法は現状を改善する方向に向けた重要な一歩だと考えております。今後、関係者がそれを適切に運用していくことが大切です。
私は最高裁判事就任前には法曹養成教育の一端に携わっており、様々な課題があることを痛感しておりました。関係者の地道な努力が実を結ぶことを願うばかりです。
裁判を行うという点では変わりがないと思いますが、両当事者の主張・立証をしっかりと踏まえた適切な判断を可能な限り迅速に行うことが大切だと思います。
課題は多いとは思いますが、利用者の利便性向上の観点から、手続きの電子化の導入に向けた検討が行われてよいと思います。
人生はうれしいこと、腹立たしいことの連続ですが、法科大学院教授時代の教え子から司法試験合格の報告が届いたことは最近うれしく感じたことの一つです。
趣味はウォーキングと読書(乱読です)。いままでに大変多くの人と出会い、その出会いを大切にするようにして参りました。特定した「尊敬する人物」の名前を挙げるのは難しいように思います。好きな言葉、座右の銘というほどのものはありませんが、研究者のときには、どのように小さなものを執筆する場合であっても、常に「全力投球」を心がけておりました。
多分野の書物を乱読するのが趣味ですので、特定の書名をあげることは難しいように思います。小説でいえば、人の生き方を描いたものに感動したり、歴史的な事件を題材にしたものをとくに面白いと感じたりしています。
誠実と共感を信条とし、意識的に多数の観点から見ることを心がけてきました。更に広い視野から見直しながら、バランスのとれた適正な判断ができるよう努めたいと考えます。個別事件の問題と法解釈の問題、更には社会的影響や将来にわたる問題などが混在している事件に接するとき、頭を悩ませることが多いです。
迅速さを含めた質の高い判断が期待されていると考えます。常に社会の進歩・変革に即していくとともに、安定感のある判断が求められているのではないでしょうか。最高裁においても、分かりやすい判決に留意したいと考えます。
外国人の親と子どもの退去強制処分事件、フィリピン人母の子どもたちの国籍事件、台湾ハンセン病訴訟、様々な会社更生事件など、多数の事件が心に残っております。子どもの人権や自立性の確保が難しい事件、あるいは、多数の人々の利害の調整が難しい事件が一番記憶に残るように思います。
憲法改正については、議論のもと、各国民が決めることであり、その解釈適用に当たっている裁判官が発言すべきではないと考えます。
憲法9条については、国民一人一人が考えていく問題であり、裁判官が一般的意見を述べるべきではないと考えます。
注:16年参院選の「1票の格差」を合憲とする多数意見(17年9月)
具体的事件にかかわる点については、意見を控えさせていただきます。ただ、一般論として言えば、裁判所は、法令に照らして厳密に検討しているものと考えます。
裁判員制度については、全体としては順調に進んでいると思います。ただ、迅速さを含めた適正な刑事司法の理想に向けて、一層の工夫や研究が欠かせないと考えます。
誤判はあってはならないことです。それを防ぐには、各裁判官が、客観的証拠を重視するという裁判の基本を再確認しながら、多面的に考え抜くことが重要と思います。
死刑制度の存廃などは、国民の意見により決められるべき立法の問題と考えます。
刑事司法改革関連法の影響などについては、最高裁判事として意見を言う立場にはありませんが、今後各制度の趣旨に沿った運用が積み重ねられていくものと考えております。
司法、ひいては法曹界は、専ら人によって支えられていますので、志の高い誠実な法曹候補者が増えていくことを願っております。
国をまたぐ争いであっても、スピード・費用・公正さに着目されるのは変わりません。また、裁判官が広い視野を持ち、必要な場合には専門家の助力も得られるよう、工夫を継続することが重要と考えます。
司法手続きにおける国民の負担をできる限り減らしていくことが重要です。電子手続きの活用も、そのメリット、デメリット双方を検討しながら、適する分野につき進展していくのではと期待しております。
うれしかったのは、この数年、何人もの日本人科学者がノーベル賞を受賞したこと。夢をかきたてられました。
好きな言葉は、誠実と共感です。裁判、特に民事裁判は、命令や説得ではなく、心を開いて話し合い、それぞれの立場や考えを共有することが重要と考えております。
趣味は、読書、特にSFと経済関係です。SFでは、J・G・バラード、スタニスワフ・レム、レイ・ブラッドベリなどが好きです。SFは、思考や感性の幅を広げてくれるものと思います。次いで、音楽鑑賞(シャンソン、カンツォーネなど)。元々天文学者志望だったので、星を見て宇宙について思いをはせることも好きです。
はあ…お前にとっての力は「社会的影響力」のみなんだな
https://anond.hatelabo.jp/20170614201508
だから、表現が人に影響を与えるなんてことは前提の上で、規制(抑制と言ってるけどそれは結局規制になる)は否定されてるんだってば。何度も何度も何度も繰り返されてる話だけれど。
そもそも規制すべき表現とそうでないものをどう決めるの? 人を傷つける表現は全部だめにする? でもそもそも誰も傷つけない表現なんて存在しないよ。
例えば子供を亡くした人は子供が死ぬ話で傷つくだろうし、逆に幸せそうな家族を見て傷つくことだってあると思うよ。自殺を考える人は、普通に振る舞う人を見るだけで心を痛めるかもしれない。誰かを傷つけることがだめなら、極論をいえば全てが規制されるよ。
ロリをレイプする表現なんて誰が見てもだめだろうって? 本当にそうか? 有名な小説で少女とセックスするものもあるし(今の基準ではレイプだ)、知的障害の女性を輪姦して殺してしまう話もある。こういう小説も漫画も古今東西いっぱいある。扇情的でなければいい? 昔の話ならいい? 小説ならいいけどエロ漫画はだめ? その違いは?
犯人が参考にしたと供述したらだめにする? 他の事件でドラえもんを持ち出した殺人犯がいたけれど、ドラえもんは出版禁止にするべき? 時計仕掛けのオレンジを見てホームレスを殺した人がいたけれど、若者が犯罪に走る小説や映画は作ること自体許されない? 聖書を理由にした殺人も五万とある。過去最も犯罪の原因になってるこの本は真っ先に規制すべき?
今回の漫画は犯罪の具体的な方法が書かれているからだめ? 犯罪が描かれた小説などには現実に応用できる具体的な描写があるけれどそれもだめ? 詐欺の手口も報道できなくなるよ。
性欲発散という欲望がはっきりしたエロ漫画と犯罪方法が結びついてるのがだめ? 例えば経理の参考書などは資産の効率的な運用、つまり金銭を増やすという欲望がはっきりしている。そしてこういうことをしたら脱税になるからやめろ、と注意書きの形で犯罪方法も書かれている。それを元に脱税をした犯罪者がいたら、経理の参考書は規制されて当然だと言うだろうか。脱税した方がおかしい、参考書になんら責任はないと思わないだろうか。
そして、もし仮にロリレイプものになんらかの規制をするとしても、それは望む範囲で実現すると思う? 歴史的に見たら絶対に無理だ。
今回のような二次元ロリを規制したとして、それが当然になった社会では、しばらくしたら次はレイプや痴漢などの性犯罪ものが規制されるよ。悪い表現だから規制したっていう前列があるから、そういう要望は止められなくなる。もしくはそれを利用する人が出てくる。性犯罪がだめなら一般の犯罪描写を表現してもいい理由もない。犯罪がだめなら非道徳的な描写もよろしくない、もっといい表現にすればいい社会になるはず、と規制は際限なく続くよ。報道すらも規制される。
そんなわけないと思うかも知れないけれど、戦時中は実際そうなった。エログロは規制され、大政翼賛の報道しかできなくなった。戦時中と現在は違うというかも知れないけれど、違わない保証はどこにもないよ。
規制のために表現の良し悪しを決めるとして、それは誰が行う? 結局は権力者が決めるんじゃない? 国民の代表が決めれば文句はない? 国家にあれはいい表現、悪い表現、と決められて納得しちゃうの?
権力側にとっては、表現を規制できるのはすごく都合がいいよ。権力への批判を封殺できるから。そして権力側が表現規制するときに真っ先に狙うのが、今回のようなエログロ表現だよ。国民の中でも嫌悪感を持つ人が多いから。そうやって感情的に納得させやすいものから狙い、次第に権力への批判も規制し始める。これは世界の歴史でも現在でもお馴染みのパターンだよ。
大袈裟なと思うかも知れないけれど、自由の問題というのは蟻の一穴を開けないことが大事なんだよ。最低の表現を守るからこそ表現の自由に意味がある。選ばれた表現しか守られないなら、それは本当の自由じゃない。もちろん、表現の自由を盾にすれば批判を免れるということではないけれど。
以上、多くの人が規制に反対するのにはこういう理由があるわけ。簡単に抑制とか言っても、それを実現したら社会的影響がすごくあることを考えてほしい。