はてなキーワード: 社会的影響とは
つまりそいつには、子供は生まれないから 一人殺したって家事得るということですか?
社会的影響力は9 ということですか?
かっぷるをわかれさせてどうして、ごめんなさいと言えたのかがわからない
なんで あやまろうとおもったのかわからない
復縁させようとして つぎも つぎも こわしていくおんかわからない
テレビ局はいいね オアk値落ちはいいね みらいなんて 特区の昔に変わっている
あわないって なかったんだろうね
あったほうが まだひがいはすくなかったんだろうね
なにかをする なにもしない 自粛をしてこのザマ 殺される ころなで 死ぬ人はすくえたけど
自粛で死ぬ人 コロナは自然災害だけど コロナ自粛での 脂肪は 殺人罪には どうしてならないんですか?
コロナによる死者が 100万人なら
コロナの死者を1万人に抑えたら コロナ自粛の死者を99万人に抑えた
それはすごいけど99万人は 殺人では どうしてないの? まぁでも98万人 どうでもいい
まえもそう 冗談で済むと思った人に殺される 自分が死ねば生むと思った人に 殺される 自粛すればいいと思った人に殺される
せめて あわないぐらいしかないとおもうけど それもない
だってもらえるとおもった
もらえるとおもったと いわれたから あげるしかない 殺されるよりはいい
さいばんでもあげました という ころされるよりはいい
ひととひとがふれあうことが どれだけむずかしいか わからなかった
そらそうだろうな
しななきゃだめですか?
まだあいてが なんとかなるとおもってるからヒロポン くばってもらわないとだめかもしれない
治療という名の 洗脳も 人格が死ねば 僕は死ぬ いなくなる 僕にとっては 立派な殺人罪
いくらもらったの?
https://twitter.com/segawashin
瀬川深氏のtweetが非公開になっているんだけど、何かあったのだろうか?
twitterをやっていないので、「非公開」が、自ら非公開にしたのか、twitter社から非公開にされたのかは、自分には分からないのだけど。
少し調べてみると、
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/segawashin/status/1274090795436404736
このページ、tweetはもとより、ブックマークコメントも非表示になっているんだね。瀬川氏って、昔はtwitterについたブックマークを非公開にしていなかったような?
そのtweetの内容を見ると、
瀬川深 Segawa Shin on Twitter: "ニセ科学を厳しく批判する人たち(例・菊池誠大阪大学教授)が特になにもしないであろうことはなんとなく予想できる。ふだんは社会的影響力皆無な私人のタワゴトまでいちいち批判して回る人たちだけど。 / “自民党広報 on Twitter:… https://t.co/JK5BcZYaim"
すごい勢いで自民党広報とダーウィニズムの話が流れてきて、なにごとかと思っていたのだけど、ようやく問題のマンガを見ました。
まあねえ、社会ダーウィニズムの歴史を知ってれば、社会問題をダーウィニズムの比喩で語るのは危険だとわかるはずなんですけどね。進化は自然現象だからね— Macometal(7/6難波屋8/8ビッグアップル) (@kikumaco) June 20, 2020
社会ダーウィニズムは「科学の誤用」の代表例だからな。
まあ、ダーウィンの進化論も育種からヒントを得ているので、「人間も育種できる」と考えたくなるのもわかるっちゃあわかるのですけど、この考えかたは非人道的でしてね— Macometal(7/6難波屋8/8ビッグアップル) (@kikumaco) June 20, 2020
と、普通に批判的に言及しているので、もちろん瀬川氏がドヤ顔で言ったことは誤りなんだけど、
今さら、たかがこの程度でtweet非公開&ブックマークコメント非表示にするほど恥を知っている人とは思えないから、(追記:ちょくちょく非表示にする人でした。完全に認識違いをしていました。お詫び申し上げます)他に何か大変なことがあったのだろうか。
ここに、
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/ful/keikaku/pdf/h29_koudou.pdf
パンデミックを起こすのは新型インフルエンザ、特に、H5N1とほぼ狙い撃ちして対策を立てていたからだ。
ワクチンやら抗インフルエンザ薬といった、インフルエンザに絞った行動計画の細目はあるが、基本的な蔓延防止の施策については、どんな感染症についてもパンデミック時はこの行動計画が基本になっている。
今般のコロナウイルス感染症(COVID-19)での現状を顧みて、この行動計画がどの程度役に立ったのか、検証したい。
なお、
本政府行動計画の対象とする感染症(以下「新型インフルエンザ等」という。)は、以下のとおりである。
ただし、今般のコロナウイルス感染症(COVID-19)は「新感染症」には指定されないらしい。
SARSも一度は新感染症に指定されたにも関わらず、COVID-19が指定されないのはなぜなのかよくわからない。
「指定感染症」というカテゴリーに入れられたので、感染症法によって様々な制約と処置をうけることになったが、新感染症ではなく既知の感染症ということを強調している。
ただ、「指定感染症」のままでは、検査で感染が確定してしまうと、入院が確定してしまう。
原則的に感染症指定医療機関における感染症病床に入院しなければならないとされているからだ。
個人的には、指定感染症ではなく新感染症としたほうがよいと思うのだが(省令でよい)
この行動計画、「Ⅰ初めに 2.取組の経緯」にある通り、策定は2005年である。
パンデミックは現実に2009年に引き起こされたが、H5N1ではなかった。
幸いにも、病原性は従来の季節性インフルエンザ程度で済んだが、国外発生期はこうする、水際対策は、国内発生期は、と細かく設定していたものの、全く役に立たなかった。
通常、新薬は有効性や安全性を審査しなければならないのだが、全てを超法規的にすっ飛ばしワクチンを作らせたが、出来たころには流行は終わっていた。
個人的には、仮にH5N1インフルエンザであっても、対策は役に立たなかったのではないかと思う。
例えば、行動計画ではワクチンに期待している節があったが、未知の感染症に対する予防薬を作ることは不可能であるし(プレパンデミックワクチンとして当たりをつけて作るとされていた)、パンデミックが起きてから終息するまでの間に予防薬を作ることも不可能だと思う。
全ての新型インフルエンザ等患者の PCR 検査等による確定診断は、患者数が極めて少ない段階で実施するものであり、患者数が増加した段階では、PCR 検査等の確定検査は重症者等に限定して行う。
少なくとも、パンデミックがH5N1インフルエンザだった場合は国内発生早期においては全ての確定診断はPCRで行うつもりだったらしい。
これ、発生したのがCOVID-19じゃなくインフルエンザだったとしても、検査のキャパが足りてたとは思えない。
それから、鳥からヒトへのH7N9インフルエンザが大量発生した後も、SARS、MERSが発生した後も、パンデミック対策はH5N1インフルエンザを想定しつづけたというのはどうなのか?
昨今、マスクに感染予防の効果はないとされているが、この行動計画では推奨されている。
個人における対策については、国内における発生の初期の段階から、新型インフルエンザ等の患者に対する入院措置や、患者の同居者等の濃厚接触者に対する感染を防止するための協力(健康観察、外出自粛の要請等)等の感染症法に基づく措置を行うとともに、マスク着用・咳エチケット・手洗い・うがい、人混みを避けること等の基本的な感染対策を実践するよう促す。
一方で、
患者はマスクを着用することで他者への感染を減らすことができる。他者からの感染を防ぐ目的では、手洗い等との組み合わせにより一定の予防効果があったとする報告もあるが、インフルエンザの予防効果に関する賛否が分かれており、科学的根拠は未だ確立されていない。
つまり、国の推奨は、科学的根拠はないがマスクを着用すべきと言っている。
と言っている。
出来てるのかこれ?
国、都道府県、市町村は、新型インフルエンザ等対策の実施に当たっては、基本的人権を尊重することとし、検疫のための停留施設の使用、医療関係者への医療等の実施の要請等、不要不急の外出の自粛要請、学校、興行場等の使用等制限等の要請等、臨時の医療施設の開設のための土地等の使用、緊急物資の運送等、特定物資の売渡しの要請等の実施に当たって、国民の権利と自由に制限を加える場合は、その制限は当該新型インフルエンザ等対策を実施するため必要最小限のものとする。具体的には、新型インフルエンザ等対策の実施に当たって、法令の根拠があることを前提として、国民に対して十分説明し、理解を得ることを基本とする。
ラクマのルール<禁止行為リスト>の【商品の出品】に以下を追加
自然災害や事故に際し通常の市場価格に比較し著しく高い価格で出品する行為
自然災害や事故(地震・大雪・感染症の流行など)に際し、生活必需品や当該状況下で必要と思われる物品(水、乾電池、マスク、除雪スコップなどの物品をいいますが、これらに限りません)に関し、通常の市場価格に比較し著しく高い価格を設定して販売するような行為は、ユーザーの窮状に乗じていることになり、悪質性が強いものと考えます。 こうした価格設定に該当すると当社が判断した行為は、ラクマ利用規約第18条第1項(4)その他の禁止行為の「㊻ その他、当社が不適切と判断する行為 」に該当するものといたします。
ヤフオクに至っては2/7の時点で
先のお知らせのとおり、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、マスクや除菌用品の需要が急激に高まったことで、日本全国でマスクや除菌用品が品薄状態となっております。
今回の新型コロナウイルスの感染拡大を始め、緊急事態に際し個人間取引が及ぼす社会的影響を鑑みて、このたび、以下のとおりガイドライン細則およびPayPayフリマ掲載特約に以下の項目を追加し、以降項番を繰り下げいたしました。
B.出品禁止物
44. 災害などの緊急事態において、供給不足により人の身体・生命に影響がある物品を不当な利益を得る目的で入手し、出品していると当社が判断する出品
ってやってるからね
ブクマカがネットの西成と一緒くたにしてるのはイメージで喋ってるもいいとこの酷え話だと思う
控えめに言ってもデマに踊らされる連中と同じで最低だね
今すぐ謝罪してどうぞ
中屋敷均『科学と非科学』読了。まぁ面白かったが前作ほどではない。というより期待が大きすぎたのか。
「科学も非科学も飛び越えて、この世に生きる勇気を与えてくれるのは、人の心にあるそんな「物語の力」ではないだろうか。」
「物語」にも物語にも日々向き合ってるこっちにしてみれば、悪い意味で同感だ。つまり凡庸。これって「科学は万能じゃない」や「人は皆死ぬ」ほど有名ではないかもしれないが、しかしかなり多くの人がかなり多くの場合にすでに悟っている事柄。問題はそこから先なのだ。独力では到底到達しえなかったであろう洞察、それに出会いたくて俺は本を読んでる。本書はこれに応えるものではなかったが、この著者はこれからも追いかけていきたい。
一方で得るものもあった。カオスの縁。フラクタル。直感だが、これを援用すればうまく解けるのではないか。俺が「コジツケの体系」と呼ぶものの構造や生成過程が。中世日本の荒唐無稽ともいえる独特で奇妙な古典解釈大系。
古今集序にせよ何にせよ、書かれた当時にあってはなんてこと無かった筈の片言隻句が、時代が下るに従って転じて転じてねじ曲がりねじ曲がり、膨大な後づけと神秘性を付与された複雑な世界を形成する(思想体系と呼んでよい)。それは社会的には権威の獲得や富の集積と同時進行であるが、しかし単にそれらを得る為の手段というには留まらない(たとえ部外者にはそう見えても、当人たちはそのように割り切ってはいない)。なにか複雑化それ自体を欲するかのような、ある種の情熱がある。その体系がすっかり出来上がり、生成を止め、社会的影響力を失った後の時代からふり返れば、(その情熱には共感できないので)荒唐無稽なまやかしの残骸にしか見えない。だがこれを不揃いの渦みたいなフラクタル図形と見做せばどうか?
思想史における生成発展継承克服、ある思想が成長して影響力をもちやがて失う。こういった変化の過程を理解するのに、進化モデル・遺伝モデル・遷移モデル(極相林とか)等があると思うが、フラクタルモデルもまた有効ではないか。
特に一見して不規則複雑だが無秩序でない点、部分と全体との自己相似という点が、すごく似ているように思う。片言隻句からオウギョウな解釈が生まれ、その解釈から儀礼の形式(例えば物の配置)が生まれ・・・というあたり。人や物をこのように配置してこれこれの形式で行うことで、テキストから膨らませたこれこれの世界と重なることになるのだ、という思考様式。これを自己相似と言わずなんと言う。
これを更に敷衍するなら、「歴史」や「伝統」に基づく正統性が主張/確認されるあらゆる場面にこの自己相似が顔を出す(大嘗祭を想起せよ)。ある習慣がなぜ「伝統」になるのか、あるいはなぜ「伝統」が作られるのかを考える時、適者生存がよく説明に使われる。だがそれではあまり光の当たらない側面もある。生存や利害得失だけを考えるなら、これほど複雑精緻(なのに脆弱)にする必要はない。そこには生存戦略とは別の原理も働いていると考えるべき。それを読み解くヒントがフラクタルにある。
とくにジェンダーはひどい。
フェミニストがそれをやりすぎた。
どんな仮説を立ててもそれを実証することは困難を極める。
「1990年代のオウム真理教とそれにまつわる報道がどんな社会的影響をもたらしたか」
なんて命題、再現性がないのは誰でもわかるだろう。タイムマシンを用意して過去に戻って何度もやり直すことはできないのだから。
だからこそ、研究対象については非常に繊細に扱わねばならない分野のはずなのだが、逆に「実証しなくてもいいんだな」とめちゃくちゃやりだしたのがラディフェミ一派。
だからオタク界隈は「うるせえ。疑似科学のスカタン馬鹿ども。親の金で大学まで行って疑似科学で遊んでんじゃねえ。疑似科学でオタクdisしてる暇があったらいまからでも科学の教科書を一から読みなおせ。疑似科学の手法など高校生でも知っとるわい」と反発してる。
「実証が不可能」だけど、大学教授がえらそうに雑誌に書けば学問の権威だけで真実っぽく世間に流布されるんだよね。それを、フェミニストたちは政治運動の道具として世界的に最大限に活用してきた。でも「実際には何の根拠もない」ってことがバレ始めてきた。再現性がないからって、適当に理論を組み立てて、適当に調査して(調査すらしてないこともある)、適当に論文を書き(論文すら書かない奴もいる)、適当にdisる。これで社会学者が名乗れた。でも最近はこの構図も崩れ始めた。
社会学者もあんまりにも「実証が不可能だし適当にかいてもいいだろ。キモオタ相手だし」と油断しまくって粗製乱造しまくったせいで、「初歩的な間違い」や「捏造」が白日の下にさらされだして、社会学自体がやばいんじゃね? と言われだしたからだ。
社会学自体はきちんとやればよい学問だが、なにぶん、構造上の問題で偽物がはびこりやすい。
当分ボコボコにされるのが良いと思う。根拠を求める批判に耐えられない学問など学問ではないからだ。
わいせつ図画頒布罪という犯罪が刑法175条で定められている。現在の日本には、たとえゾーニングされた場所で大人相手にしか売っていなくとも罪になる物がある。裏ビデオはその代表的な存在だ。
この法律は何を保護しているかと言うと、そのような性的な作品を見て不快になる人の見たくない権利…ではなく、最低限の性道徳である。(増田はこの解釈に激しく異論があるのだがとりあえず現時点ではそうなっている)
必ずしも件のポスターをめぐる問題と同一視することはできないが、『作品の社会的影響力』を問題にしている点は共通している。
そして、チャタレー事件の最高裁判決で『平均ではなく、あくまで最低限』の性道徳を基準とすること、四畳半の襖の下張事件の判決で『その時代の健全な社会通念に照らして』つまり、その最低限は時代に応じて変化し得るという判決が出ている。
これらの判決を覆すような判例は2019年10月現時点では出ておらず、現在も有効である。
なお、ここで言うわいせつ図画のわいせつ性の基準は(※1.いたずらに性欲を興奮又は刺激し、2.かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、3.善良な性的道義観念に反するものをいう)というのが大枠としてチャタレー事件で示された。(増田が漢字・かな遣いを現代に合わせ修正した部分あり)
(余談)
そして、現在の『最低限』の基準は性器を修正しているかである。AV、写真集、エロマンガ、エロゲーその他の18禁コンテンツに共通して、男性器と女性器は修正しなければならない。
いっぽうで、乳房、肛門などはモザイクが無くとも18禁コンテンツとしては流通できる。
『どの程度修正しなければならないか』の線引き上でAVの自主規制団体や出版社はしばしば攻防を行っているが、古典芸術(ダビデ像などの古典彫刻、春画など)や医学書(言うまでもない)を除けばこの原則はヘアヌード以降共通している。
さらに余談だが、AVで女性器内を内視鏡で見るシーンなどではある程度中に進むとモザイクが外れているのでどうやら基準は外性器らしい。
2.絵の影響力
実写の写真や文章(理論上は取り締まられる可能性がある)ならともかく、エロマンガはそこに含まれるのか、を巡って2002年に松文館という出版社の幹部とエロマンガ家が逮捕された。
その事件に対して高等裁判所は『(エロ)マンガであっても(上述したような)健全な性道徳を保護するためにはわいせつ図画頒布罪は適用される』とした上で『しかしながら、マンガのわいせつ性(上述の要件)は実写に比べ相当に低いので量刑は減らす』という判決(意訳)が出され、2007年の最高裁判決でも高裁の判決が支持された。
私には夢がある。一つ目は、きらら系アニメの登場人物に障害者枠を設けること。障害者の日本国民に占める割合は約7.4%である*1。この現実をアニメに反映させるならば、きらら系アニメの1作品あたり平均登場人物数を仮に7人程度とすると、2作品に1人は障害者キャラが登場せねばおかしいということになる。当然障害者キャラに対しては合理的配慮義務が生じるから、例えば車椅子のキャラがいる場合はきららジャンプなどもってのほかである。厳しすぎると感じる方もおられるかもしれないが、芳文社が持つ社会的影響力の大きさを考慮すればこの程度の道義的責任は引き受けて然るべきだろう。共生社会の実現に向け、きらら系アニメにもダイバーシティを取り入れることを求めたい。
https://double-techou.hatenablog.com/entry/2018/09/21/070000
https://anond.hatelabo.jp/20190619220147の続き。
「東大生番組マジうぜえ」→「そうだ俺東大の卒業生だから関係者として提訴しよう」
とりあえずばばっと書いてみた。一部ぼかしを入れています。
本番組では、複数人の東京大学学生が出演し、芸能人たちとクイズの勝負を行っている。番組のコンセプトとして、「東大生だからできる/東大生なのにこのようなこともできない」ということを中心に据えていることは明らかである。しかしながら、このようなクイズの回答を知っていることと東京大学の学生であることは一切の関係がない。それにも関わらず、上のようなコンセプトが成り立つのは、世間に存在する「東大生はがり勉/世間知らず」という偏見を利用しているからに他ならない。「東大生」という特定の集団に対して、一方的な偏見や蔑視を押し付けるのは、蓋し社会的マイノリティに対するヘイトスピーチと同じ構図である。私は、東京大学卒業生および関係者として、このような偏見が放送されたことにより名誉を毀損され、精神的に苦痛を受けた。
そもそも、「東大」を冠してこのようなクイズ番組を放送することも問題である。第一に、上でも述べたが東京大学の全ての学生がこのようなクイズに精通しているわけでも、ましてや好んでいるわけでもない。集団から極めて限定された一側面を切り出し、それがあたかも全体の特徴であるかのように扱う。例えば特定の民族や人種に対しこのような扱いが許され得るだろうか。このような番組が不適切でないならば何が不適切な番組であるのか。東京大学の卒業生の一人として、「東大生」に対しこのようなイメージを結び付けられることは名誉の毀損である。
第二に、そもそもこの手のクイズは調べればすぐにわかる問題である。東京大学のどのような部局であっても、「調べればすぐにわかること」に重きを置いた研究・教育はなされていない。これは、東京大学憲章(https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/overview/b04.html)を見ても明らかであろう。しかしながら、このような低俗なクイズ問題を知性の象徴であるかのように扱い、東京大学の名前を使用することは東京大学およびその構成員の名誉を著しく貶めている。私も、東京大学関係者として名誉を毀損された。
私はこの番組に出演したことは一切ないが、本放送は「東大」を番組名に冠する以上、当事者は出演者だけではなく、東京大学関係者全員である。したがって、私も放送人権委員会運営規則第5条(6)に記されるところの「その放送により権利の侵害を受けた個人」にほかならず、これをもって放送人権委員会に当該番組の審理を要求する。
「東大生」といえば「がり勉」「変人」「常識知らず」という世間一般のイメージが存在することは否めない。実際、例えばインターネット検索エンジンgoogleで、大学名とともに上記のようなワードを入れて検索すれば、大量のウェブページがヒットする。文脈によってはポジティブな意味で使われていることもあるかもしれないが、ほとんどの場合ネガティブな意味で使われている。
このようなイメージ自体の真偽や是非はこの場で議論すべきことではないが、問題なのは本番組がこの種の偏見に基づいた作りとなっている点である。番組内では、数人の東京大学学生が出演し、彼らと芸能人たちの掛け合いが放送されている。その中で、上記のイメージに合わせるように、全編にわたって出演する学生の「面白おかしく」「常識から外れた」振る舞いが放送されている。この放送は東京大学およびその構成員に対する偏見を強く助長している。それにより、私は東京大学の関係者の一人として、多大な精神的苦痛を被り、名誉を毀損されるという「著しい不利益」を被った。
また、学生出演者の裁量がどこまであったかも明らかにされなければならない。このようなバラエティ番組において、テレビ局と出演者の力関係は一方的である。出演者はテレビに映されたいと思う一方で、作成側からすればまさに代わりはいくらでもいるからである。その中で、出演者が番組中で世間的には非常識な振る舞いをする、あるいはされられるに至った経緯は何か。そもそも台本・編集がある以上、歪な力関係を背景にした圧力・指示は一切なかったとは言えまい。後輩たちのこのような振る舞いを放送で目にすることは、私に東京大学卒業生として大きな精神的苦痛をもたらした。
私はこの番組に出演したことは一切ないが、本放送は「東大」を番組名に冠する以上、当事者は出演者だけではなく、東京大学関係者全員である。したがって、私も放送人権委員会運営規則第5条(6)に記されるところの「その放送により権利の侵害を受けた個人」にほかならず、これをもって放送人権委員会に当該番組の審理を要求する。
そもそも、特定の少数者に対するネガティブイメージ・偏見を扇動することは、あってはならないことである。本番組は東京大学に関するものであったが、これが特定の民族や宗教に関するものであったらどうだろうか。テレビは社会的影響が大きいなればこそ、この種の偏見やネガティブイメージには慎重でなくてはならない。本放送は、この点において明確に放送倫理を違えている。表現の自由の名のもとに、このような不当なステレオタイプを広める番組を作成し放送したフジテレビおよび関係者の人権感覚の欠如にはただただ驚かされる。今後さらなる人権侵害番組を作成させないためにも、貴委員会により正しい裁定が下されることを強く希望する。