2018-10-11

山口一男・シカゴ大学教授日本社会学は総じて科学的ではない」

http://www.vcasi.org/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E4%B8%80%E7%94%B7%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC

――手法としては経済学に影響を受けつつ、世界観としてそれ採用するのではないわけですね。

山口 ないですね。社会学というわれわれの学問自由なわけですね。悪く言えばいい加減。分析の最終的な評価にあたっては方法論的厳密さが求められるけれど、その背後には多種多様研究者がいるんですね。エスノグラフィーをやっている人や街へ出てインタビューする事例研究をやっている人なのです。そういった研究ある意味科学的ではないと僕は思っているけれど、彼らは時々すごくいい洞察をする。すると、彼らの洞察データで裏づけできるか、一般可能か、といった問題へと発展していくので、分業だと思っています

ただ、そういう観点から見ると、日本社会学は総じて科学的ではないということになってしまますね。相変わらず古典的理論家が何をどう言ったという文脈解釈エスノグラフィーが中心ですから例外はたくさんいますが、やはり少数です。4000人ぐらいが所属している日本社会学会では、計量分析に真面目に取り組んでいる研究者は1割程度しかいないと聞きました(笑)アメリカ社会学会では逆に計量分析が7割程度エスノグラフィー純粋理論は非常に少ない。ましてや古典理論解釈をやっている人はほとんど希少価値を帯びているといっていいです。

――そういった違いは日米の大学教育の結果なのでしょうか?

山口 日本社会学教育研究では、社会学ヒューマティと分離していないんでしょうね。ヒューマティ自体重要ですが、それと社会科学としての分析意識的に分けなければいけません。たとえば僕の本『ダイバーシティ』にもヒューマティと呼べる内容が入っていますね。それから、たとえば大学学部教養教育では人に考える力を与え、人を育てることを考えますからヒューマティを含め雑多な要素が全て入ってくるわけです。それはいいんですよ。ですが、大学院は研究専門家を育てるための訓練をする場所のはずです。日本研究者は、しばしばその境界意識せずヒューマティ科学をまったく区別しないんです。その結果、研究においてさえ、たとえばドメスティックバイオレンス研究をしている研究者が、計量的分析などほとんどせずに、被害者から聞いた話だけに基づくフェミニスト解釈で男はこんなものだといった論評をしたりするわけです。まったく科学ではないよ。そういった論評は、自分はこう考えるという意見として発言しても構わない。アメリカであっても思想政策を中心とした雑誌でそういった意見を発表して社会的影響を与えている研究者は多いですし、総じて尊敬を集めています。けれど、科学者としての分析とは区別しなければならないですね。論文を書くとき思想部分は禁欲的に落とし、検証しえた分析結果だけを書かなければならない。

社会科学」としての社会学に対する意識希薄な背景には、日本では多くの社会学科が文学部にあることも影響しているのかもしれませんね。計量なんかやったって人の本音のところはわからないよ、みたいなことを言う人もかなりいました(笑)。僕は実証しなければ、一般的なことは何も言えないよって言うんですが。

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