はてなキーワード: 河原町通とは
後ろの四人向かい合わせ席に居るガイジン旅行客でよくしゃべるポジションの奴が、車内での出発前の「ご案内いたします、」のアナウンス聴いて「…イタシマス、」て言葉尻とらえてた
昔ワイの親父がラジオ選局中に聞こえてきた韓国の放送に「…スミダ、スミダ」てツッコミ入れとったようなこと、外国でもやるんやなぁ
二十年くらい前に河原町通りにハーゲンダッツの店があったころ、見るからに海外の大学生くらいの男子集団でやっぱりよくしゃべるポジのやつが店あるの見てその頃テレビでよく流れてた「Häagen-Dazs?Häagen-Dazs!」の口調を真似て「Häagen-Dazs?」て言ったのを通りの反対側から聴いて海外でもあのCMなんやー、ておもった想い出
→ 嵯峨野線(山陰線)は、京都駅から梅小路京都西の間(梅小路公園横付近から京都駅まで)に単線区間があることにより、嵯峨野線の需要が大きいにも関わらず増発が困難である。また、車両の増結は他の駅の改修も要することから非現実的である。
→ 京都駅東側(京都芸大崇仁キャンパスの南側付近)で地下化した場合、河原町通のアンダーパスと交差する可能性があり、かつ東福寺駅の北側で地下化した場合は鴨川と交差することから東福寺駅の地下化も必要となるため、費用が高額になりすぎる。また、北陸新幹線新大阪延伸を考慮し地下を使うことは避けた方が現実的である。
→ 現行の奈良線の系統はすべて嵯峨野線へ直通(現行通り6本/時)。その上て、需要に応じて嵯峨野線(京都折り返し・最大8両)を適宜追加することで本数調整を実施。
→ ちゃんとした計算はしていないが、阪和線をモデルケースとして計算すると現行より輸送量が増加するのでは?(詳細な計算は未了)
→ 奈良線側は、現状京都芸大崇仁キャンパスの南側付近に多少の空き地があることからそれを活用する。嵯峨野線側は、京都鉄博のSL線を拝借した上で工事を実施する。よって、支障なし。(京都鉄博SLユーザーはごめんなさい)
不採用だった。全力は尽くしたが、致し方ないと思った。約一週間後、mixi日記でキャプテン君が住友商事の内定を取ったことがわかった。第一志望だったので、そこに行くらしい。その日記には、いろいろと別世界のことが書いてあった。
・去年の秋、大学に五大商社の人が来て、体育会の部活に挨拶に来た。その時に一緒に食事をして、「ぜひ弊社に!!」とスカウトを受けた(五社中の三社)。
・ほかに受けた化学メーカー(東レ)の最終面接では、「御社は第二志望です。住友商事が第一志望です。そこに落ちたら弊社にお世話になります」とはっきり宣言したうえで内定を獲得。
・三菱商事も、三井物産も、伊藤忠商事も、選考を途中で辞退。自分とは合っていないと感じたため。
この時ほど、人間力というものの差を実感したことはない。アイツはすごかった。俺とはレベルが違う。俺はサッカーしか頑張ってこなかったけど、あいつはサッカーだけじゃなくって、受験勉強だって、人間関係の構築だって頑張れる人だった。
いやアイツは、どんなことにも本気で取り組むことができる。それでいて人間が好きだ。そういうエリートなのだ。当時も今も、俺はキャプテン君が羨ましい。俺もそんな人間になりたかった。なれなかった。
もし、今どこかでキャプテン君が俺の増田日記を観ていたとしたら、匿名でいいからコメントがほしい。誰だとわからないように隠してくれて構わない。
今では俺は、こんなに落ちぶれてしまった。正社員じゃないし、年間収入だって今のキャプテン君の五分の一に満たないだろう。クビになる可能性だってある。毎年、戦々恐々だ。
今でもサッカーが好きだ。自室の中にはサッカーゴールが置いてあるし、試しに蹴ってみることもある。部屋の壁にぶつけないよう、慎重に、慎重に蹴っている。たまに飛び出してしまうこともあるけど。
キャプテン君はどうだろうか。今でもサッカーをやっているのだろうか。とにかく今は、二十年前の思い出が懐かしくて、愛おしい。涙が止まらない。
第一志望の企業を不採用になった後は、坂道を転がるみたいだった。入りたい会社を受けども受けども、内定は得られない。二次面接までは行くのだが、そこではなんというか、明らかにやる気みたいなのが足りてなかった。
春を過ぎた頃だったか。同じ京都にあるITベンチャーを受けに行った。詳しい時期はもう覚えてない。はっきり言ってしまうが、㈱はてなだった。実は大学生の頃からはてなユーザーだったりする。
俺と同じ大学出身の人が面接をしてくれて、縁を感じた。エントリーシートも筆記試験も一次面接も、特に問題なく進んだけど、二次面接で一気に苦しくなった。
志望動機とか、会社を将来どうしたいとか、自分が将来どうなりたいとか、そういうことを喋れなかった。しどろもどろだった。どう考えてもこれは落ちた――そう思った。
相手の面接官は、「自分が入りたい会社というのはね、自分が将来どんなキャリアを描きたいのか、どんな人間になりたいのか、そういうところから逆算して決めていくんですよ」「今のままだと、増田くん、僕らの仲間になれないよ。ほかの会社だって難しいんじゃないかな」「もっと、ゆっくり立ち止まって考え直そう。増田君がどの会社に行くとか関係ない。真剣に考えて」と、人生のアドバイスまでしてくれた。
後日、大学のパソコンにログインすると、二次面接の結果通知がきていた。『合格』だった。次の選考に進めるらしい。これが最後通牒だと思った。「次でなんとかしろ」。そういうメッセージだった。
結局、俺はダメだった。はてなは辞退したし、ほかの選考が続いていた会社も悉く落ちて、ようやく内定を得られたのは夏の終わりだった。烏丸御池の辺りにある小さい広告会社だった。※今は別の場所に引っ越している。
この頃には、千亜子ともあまり会わなくなっていた。就活期間中は、お互いに忙しいから会えなくて当然なんだけど、まさか俺のせいでここまで会えなくなるとは。
千亜子は、その年の初めから一気呵成に就活に励んでいた。それで、俺より四か月も早く内定を決めていた。千亜子がスチュワーデス(CAのこと。当時は呼び方の過渡期だった)に内定したと聞いて、やはり只者じゃないなと感じた。劣等感だった。
この頃の自分というのは、なんかもう、劣等感がすごかった。就職活動でサッカーはできないわ、千亜子には会えないわ、勉強だって最後の単位を取り終えるあたりで躓いていた。
フツーの人生だったけど、それなりに成果を得てきたつもりだった。持ってる側のつもりだった。でも、俺はダメだった。今でいう抑うつみたいな状態になっていた。
秋になると千亜子と会うようになっていたのだが、よそよそしくなっていた。俺が内定した会社を告げると、「あー、よかったね。一緒に東京行けないのは残念」と言っていた。
もうすぐ最後のインカレという時期だった。ある日のアルバイト帰り、千亜子とキャプテン君が働いている河原町通りの飲食店の近くを通ると、千亜子がいた。ほかの大学生数人と一緒だった。私服だったし、おそらく飲み会帰りだろう。
店の近くまで行ったところで、自動ドアが開いた。すると千亜子が中に入って行って、上の階へと小階段を昇ろうとする男子学生(※キャプテン君ではない)の背中を掴んで、ぐいっと引きずり降ろしていた。
ちょっと驚いたけど、別に険悪な雰囲気でもなかった。それで、何やら彼と顔を近づけて話を始めた。この後の段取りとかを話してたんだろうか。俺のすぐ傍にいたほかのアルバイト友達と思しき学生が、こんなやり取りをしていた。
「そういえばキャプテンさん、最近千亜子さんにアタックしてる」
「二人とも一流企業だし。似合ってると思う」
こんな話をしていた。※当時の日記に書いてあった。
惨めな気分だった。俺が千亜子と釣り合ってないのは確かだ。内定した会社のランクが違うから。俺は就職活動に失敗した。インカレだってスタメンに選ばれなかったし、アルバイト先でも俺よりすごいやつは何人もいる。
人生で、ここまで負けまくるのは初めてだった。「畜生」と思ったけど、当時の俺にはどうにもできない。
千亜子にフラれたのは、新年が明けてすぐだった。大学のカフェテリアで、夕方に一緒にコーヒー飲んでる時に、「卒業するし、そろそろ終わりにしない? いい人、いるんでしょ。知ってる」と言われた。
今日、そんな予感はしていた。サッカーの試合勘みたいなもので、雰囲気でなんとなくわかる。今年の初詣は千亜子の予定が合わずにダメだった。おそらくキャプテン君と一緒に行っていたのだろう。
当時、『いい人』はいなかったけど、「そうしよう。お幸せに」って言ったら、「お互い、これからの人生でいい思い出にしていこうね」と千亜子が言った。
当時の日記には、そんなことが書いてあった。記憶や言葉をごまかしてはいないはずだ。当時の俺は、そこまで弱い人間ではない。40を過ぎて今それを読んでいる。やはり涙が止まらない。
これで結びになる。
就職してからの俺は、うまくいかなかった。仕事の才能は平凡のようだった。しかし、大学時代の失敗を引きずっていたせいで使えない人間だった。「あんた、サッカーすごかったんやないん?」みたいなことは何度も言われた。また、同じ会社で「学生サッカー選手権で活躍するところを観た」という同年代の社員もいた。
確かにそうだったかもしれないが、最後に出たインカレだって、負けかけの試合で後半でお情けで出してもらったくらいで、別に凄いわけでもない。アルバイトだって、ずっと居酒屋で頑張っていて、そこで最後に新しい彼女作れるかなって頑張ったけど、五人以上にアタックして全く相手にされなかった。素の自分というのは、モテる方ではなかった。ちょっとサッカーができるくらいで女にモテようなんて傲慢だった。
そんなこんなで、気持ちが沈んだまま新年度の四月を迎えたのだ。でもって、実社会で通用するはずもなく、新卒で入った広告会社は二年で辞めて、後はずっと契約社員とか派遣社員だ。
キャプテン君と千亜子は、俺が広告会社を辞める頃に結婚した。mixiの日記を読んだけど、それはもう凄い結婚式だったらしい。総合商社勤めだけあって、マイミクだったら無条件に結婚式招待OK!! という宣伝をしていた。会場までは知らないが、きっと東京都内のオシャレな会場だったに違いない。
俺は行かなかった。お金がないのもあるが、なんかもう、人生が面倒くさかった。
不惑になった今でも、当時の俺の何が悪かったんだろうと振り返ってる。昨年末も、実家にあった段ボール箱を引っ張り出して、当時の日記を読んだ。大学二回生から付けている日記を、半日かけて読んでいったのだ。この増田日記のベースになってる。
俺の何が悪かったのか? 三点にまとめると、次のようなところか。よくない行動のハットトリックみたいだ。
・就活で失敗した程度で凹んだのはおかしい。どんな会社に入ろうと未来はあった。
・どんな自分でも自分自身なんだって気が付いてなかった。失敗したって、自分という人間の価値が下がるわけじゃない。むしろ、失敗前の自分<失敗後の自分だ。それがわかっていれば卑屈になることもなかった。俺は挑戦したのだ!! そんなメンタルだから、就活もサッカーも恋愛もうまくいかなかった。
・サッカーができるくらいで調子に乗っていたこと。どれだけサッカーができようが、それは実社会で必要とされる力の一部分にすぎない。大事なことはもっとある。
・もっと自分を認めること。生きているだけでもすごいんだと、自分を褒めてやりたかった。人間にはみんな価値があるのだ。
いや、四つあるんかーーーーい!! と、大学時代の俺だったら、陣内智則みたいにツッコミを入れていただろう。今はそんな気力もない。
あの頃に戻れたら、とは思わない。いや、本当は戻ってみたいけど、それは間違いだ。これまで負け犬なりに努力してきた自分を否定したことになる。過去の自分を裏切ってる。だからダメだ。
今の俺は、あの時よりも成長してる。だったら、もっと成長できる!! もっと頑張ったら、幸せになる未来があるのかもしれない。結婚はできそうにないけどな。
ここまで読んでくれた人、ありがとう。何人読んでるかはわかんないけど。
気持ちの整理をつけることができた。また来週からは、しみじみと社会人生活をやっていきたい。
どうすれば幸せになれるんだろうかと考えて、ひとまず、今年の春から地元の草サッカークラブに入ってみた。自分自身が練習してるのもあるけど、子ども達に教えることもある。
ひとまずは、こんなところでいいのだろうか。まあ、ゆっくりやってみよう。幸せでありたい。増田やブックマーカーのみんなも幸せにな。
ちょっと聞いてくれ。
数年前のことだ。うちは日中~夜まで飲食店をやってるんだが、とあるお客さんがいた。今でも記憶にこびり付いている。話させてほしい。気持ちの整理をつけるためにも。お客さんの立場である増田民のあなたも感じることがあるかもしれない。
当時、とある田舎の一級河川沿いのエリアで食事メインのお店をやっていた。おでんに、蕎麦に、刺身に、唐揚げとかポテトサラダとか、野菜のお浸しとか、居酒屋に近い。コの字型のカウンターと、座敷がふたつだけある。
いつもは俺と、アルバイト(男2、女2)のうち最低1人が一緒に働いている。平日は暇なんだが、週末になると忙しい。北にある政令指定都市の方から、会社や学校帰りの人が流れてくる。
それで、店内が八割方埋まって、スーツ姿のリーマンとか、会社名入りの作業服を着てる人とか、数人連れの大学生とか専門学生でわいわいとした雰囲気になる。
うちの料金は安い。はっきりいって安い。鳥貴族に毛が生えた程度だ。元実家の土地でやってるからな。
そんな中で、ひときわ目立つお客さんがいた。最初に会ったのは平日の夜だった。その時間帯は、アルバイトの女子大生に接客を任せて追加分のおでんを仕込んでいた。
格子枠の扉をガラガラと開けて、その人が入ってきた。外身は白っぽい作業服だったかな。時期は初秋で、作業服の下にはシャツとネクタイが覗いていた。銀色のネクタイピンも。
「ん!?」と思って顔を見ると、アァと納得がいった。あなたも人生で何度か見たことがあるのではないか。圧倒的なオーラの持ち主を。その人の目を見ただけでわかった。
ぎらぎらとしているようで、どこかあどけない感じもして、しかし落ち着いている。只者じゃない。修羅の目だ。多くの物事と戦ってきたに違いない。人生の重みは表情に出る。
見た目は30過ぎかなと思ったが、こういうのに年齢は関係ない。繰り返すが、苦難の日々は顔に刻まれる。
アルバイトの女子大生(Nさん)が彼のところに向かっていた。見たことのない笑顔で「いらっしゃいませ」と言っている。屈託のない様子で「初めてですか?」とも。
当時、コロナは流行っていない。その人(S氏)は「どこに座ったらいいですか」と言ってたっけ。Nさんに「お好きな席にどうぞ」と言われて、俺がおでんの仕込みをしているカウンターの前に座った。ほかの客はほぼいなかったと記憶している。
唐突に会話が始まった。
「涼しくなってきましたね」からスタートして、好きなお酒から、好きなアテに、この周辺でおススメの居酒屋に、S氏の仕事の話など。盛り上がった記憶がある。暇な日だったのでNさんも会話に入っていた。ルンルン(死語)な気分でS氏と話をしていた。
やがて、S氏は自分とNさんにそれぞれ1杯おごって、約一時間ほどいて帰って行った。その時はいい人だなぁと思っていたけど、Nさんがいつまでも嬉しがっている様子を眺めていて、ちょっと思うところがあった。
その日の営業が終わって現金を数えている時も、Nさんは心なしか嬉しそうだった。気のせいかとも思ったけど、やはりそんな気がした。
「なあ、今日はうちに寄っていくか」とNさんに聞いたら、「朝から講義がある。ごめん」とだけ返ってきた。
Nさんとは付き合ってまだ半年で、気持ちが通いきっていないのもあった。何かに負けたような気がして悔しい思いがした。
実際、いいお客さんだった。小一時間もしないうちに帰るのだが、その間に最低でも三~四千円は落としてくれる。自分の酒肴以外にも、店員がいたらみんなにジュースやお酒をおごってくれる。
短い時間ではあったが、いろいろ話をして盛り上がったのを覚えている。店の十周年記念の時はシャンパンを空けてくれたっけな。
金持ってるだけじゃなくて、人柄もよかった。今でも思い出す。懐かしい記憶だ。
ある時だった。S氏が初めて来店して三ヶ月くらいか。夜九時頃の店内で、残業帰りのS氏と俺とNさんで話が盛り上がって、S氏のグラスが空いたところだった。「じゃあもう帰ります」ということで、クレジットカードを受け取った。それで、コの字のカウンター卓の奥でクレカを機械に読み込ませていた。
ふと声がして、お客さんの注文かなと思ってホールを見ると、S氏がNさんと携帯電話の番号を交換しているところだった。
「今度、ご飯行こうな」「はい!」という声が調理スペースの方まで響いてきた。そのタイミングで俺は、決済処理を終わらせてふたりのところに向かった。何事もなかったようにしてS氏は、Nさんからコートを着せてもらって入り口に向かった。
普段はスタッフに見送らせているのだが、俺も一緒に入り口へと向かった。S氏を見送ると、彼は歩いて自宅の方に向かった。姿が消えたのを確認した。
「電話番号、交換したんか」とNさんに聞くと、「うん。何度もしつこくって」という返答があった。ご飯、行くのか」と聞くと、「多分いかない」と返ってきた。
訝しい感じがして、でも問い詰めることもできずに、そのまま調理スペースに入ろうとしたところで、ほかのお客さんから注文の呼び出しがあった。
ここまで言ったらわかるだろ。ある程度は。
核心的なところを言うと、それから二ヶ月後だった。S氏とNさんが、お店からおよそ10km離れた政令市にある百貨店の休憩所で一緒にメシを食っているのを見た。ちょうど食べ終わるところだった。
ハンバーガーか、クレープか、たこ焼きか。よく見えなかったが、百貨店内のどこかでテイクアウトしたものだろう。Nさんは綺麗な恰好をしていた。華美ではないけど、暖かそうな秋冬用のワンピース風……あれはなんというのだろうか、女のファッションはわからない。
清潔感のある装いだった。茶色の小さい鞄を肩から下げている。どちらも、俺とのデートで付けているのを観たことはない。いや、鞄の方は多分ある。
それで、ふたりが立ち上がって、時計や宝石を売ってるエリアへと階段を降りて行ったところで、俺はそのまま地下街に向かった。当初の予定どおり、常連さんにサービスする用の特別な食材を買って帰った。
俺がNさんとデートする頻度は、2~3週間に一度だった。あの子は看護の大学に通っていたから忙しかったのもあるし、俺自身がお金を貯めている最中で金欠だったのもある。
セックスはしたりしなかったりだ。割合までは覚えていないが。あの光景を見てから、次にNさんと会ったのは二日後だった。あのワンピースみたいなのは着てなかった。簡素な恰好だ。部屋着というわけではないが。
あの百貨店の近くの河原町通りやアーケードを一緒に歩いて、食事をして、猫カフェに行って、映画を見て、近くにあるホテルに入った。
あの時の俺は必至だったと思う。いや、必死だった。「愛してる」とベッドの中で何度も言った。伝えた。本当は、叫んでいたかもしれない。Nさんもベッドの上でいろんな動きをしたり、いろんなことを言っていた。
でも、Nさんは行為の最中に特別な何かをするでもなく、普通の調子だった。普通のセックスだった。30分で終わった。いや、なんかもうわかっていた。そんな気がしていた。
「別れよう」と言われてはいなかったが、Nさんと会う頻度が落ちていった。次にデートするまでに一ヵ月以上かかることもあった。
S氏がお店に来る頻度も落ちていった。さすがに計測はしてないが。S氏は素直に凄い奴だと思っていた。いい大学を出てるし、いい会社で働いてるし、偉ぶったところもないし、自己中に感じることは稀にあったが、よくいえば決してブレない。
俺は高校を出てない。子どもの頃から勉強が嫌で嫌でしょうがなくて、それで進学から逃げて、17才の頃までは完全なるプー太郎で、親に叱咤激励されて伏見の小料理屋でアルバイトを始めて、滅茶苦茶に厳しい毎日で、それでも料理作るのが楽しくなっていって、中年に差し掛かった頃に両親が死んで、相続した土地と家屋を改装して今の店にした。長かった。
でも、やっぱり真の人格ってものがあるよな。S氏は、スタッフに飲み物をおごってくれなかった日は一度としてない。店員が男だろうが女だろうが、必ず一杯は出してくれた。俺はほかの店に飲みに行っても、可愛げのある女の子の店員にしかお酒は出さない。
S氏は、はっきりいって『上』の人だと思う。Nさんの件さえなければ。これで俺より五つ以上も年下なんだから笑えてくる。
そんなこんなで、半年も経つ頃には諦めがついた。ある日、お店でS氏と話していた。それで、ふいに聞かされてしまった。
「先日、Nさんのお父さんに会ったんですよ」
だってさ。キツイ。当時の俺にはキツかった。Nさんへのデートの打診を3回続けて断られていた。そういうことだったんだな。
俺の中で何かが切れた音がした。少年時代に読んでいた漫画(ジョジョだったと思う)で、「切れた。僕の中の大事なものが……」といった台詞があった。当時は、そんなわけねーだろと苦笑していたが、ジョナサンの気持ちがわかったかもしれなかった。本当に、心や体の『糸』が切れると、抵抗する気すら起きなくなる。ただ、沈んでいくだけ。
Nさんのことは諦めた。
それから二ヵ月くらいか。鬱々とした気持ちで過ごした。どうしようか。悔しい。畜生。どうすることもできない。でも、やっぱり悔しい。畜生だな、本当に。いや、くっそ。悔しいんだよ。でも、感じない。心がマヒしているみたいだ。本当は悔しいって思いたい。
俺の大事な女を取りやがって。くそ、くそ、くそ!! あいつさえ、あいつさえいなければ。畜生!! ○してやりたい。
暗い気分にさせてごめんよ。もうちょっとで終わる。あれは四年と少し前のことだ。初夏の頃だった。大きい台風が迫っていて、すごい雨だったな。うちの店はそれでも営業していた。開店当初から決まっているのだ。どんな雨風が来ても絶対に店を開けてやると。
そういう時にうちに来るのは、決まって大雨対応で疲れ切った近所の人か、ほかの店が閉まっているために流れてきた飲み客だったりする。
土曜日の深夜だった。S氏が疲れ切った様子で店に来た。スタッフはみんな上がらせていて、俺しか店に残っていない。彼は「いや、疲れましたよ。何時間か寝たら、また職場まで出発です~」といったことを告げて、メニューを手に取ろうとしていた。
「増田さん。外の雨、すごいですよ」
「ええ、すごいですね」
「二十年前もこんなんがあったんですよ」
「本当に? 自分、このへんの生まれじゃないんで詳しくなくて」
「大雨の対応って。樋門(※排水ゲートのようなもの)の面倒でもされてはるの?」
「そんなものです。そうだ、せっかくですから一緒に外に出てみませんか。ある意味記念です」
「ほな行ってみましょ」
そんな具合で、店から歩いて一分ほどのところにある鴨川(のさらに南の支流)のほとりまで来た。家屋と家屋の間に雑草だらけの小道が通っていて、そこから川の方を向いた崖地に辿り着いた。
真下を見ると、葦やら雑木やら上流からの堆積土やら、いろんなものが流れ着いている。見た目の悪い場所だった。今は河川の底を拡げる工事が進んで、もっと綺麗になっている。
俺は傘を差していて、S氏は簡易なヤッケを装備している。真っ暗な世界の中で、唯一の明かりが頭上の頼りない水銀ランプひとつだけだった。今は、2人で濁流を真上から見ている。ここから飛び降りたとしたら、数秒もかからないうちにドボンだろう。それほど水嵩が増している。水の色は見えない。
「下流はとんでもないですね」
「ここよりはマシですね。護岸が整備されてるんで」
「こないな時期に大雨の対応はしたくないでしょ」
「はははは。まあそうですね。でもね、しっかりしないといけないんでね。結婚もするんで」
俺は何も言わずに、彼の方に寄った。
「危ないよSさん。下がって」
その時、殴りつけるような雨が降ってきた。風も強い。S氏は、身を屈めるようにして風雨から身を守っていた。すると、ふいに彼が鴨川の方を向いたっけ。しみじみとした寂しい背中だった。
「Sさん」と声をかけると、いまだに彼は増水した河川を見下ろしていた。風がまた吹いてきた。強い風だった。
……数分が経って、俺は雑草だらけの小道の途中にいた。後ろをサッと振り返った。誰もいなかった。雨の音がうるさい。
そのまま、雑草だらけの小道をザクザクと踏み分けて行って、店の方まで戻った。お客さんが来ていないことを確認して、ラジオで大雨情報を聞いて、誰も来ないだろうという個人的な確信が強まっていった。
特にオチがなくて申し訳ない。誰かが悲しい思いをしてるとか、嬉しい思いをしてるとか、そういうことでもない。
お店は今も普通に営業している。あれからすぐにNさんは店をやめてしまったが、そこは腐っても京都府内だ。別のアルバイトに「いい子いない?」と聞いたら、新しい子が面接に来た。幸いにも、Nさんと同じくらい朗らかで明るい雰囲気の子だった。今でもお店で働いていて、辞められたら困る人材に成長している。
ずっと思っていた。苦しかった時期のことを話したいと。あの日を境に肩の荷が下りて、心と体が軽くなって、ゆっくり眠れるようになった。すっきりした気分だった。今ではのびのびと働くことができている。
さかえちょう
栄町 (桐生市) – 群馬県桐生市の旧地名。現在の浜松町 (桐生市)の一部。
栄町 (千葉市) – 千葉県千葉市中央区の地名。またこの地域に存在する風俗街のことを指す。→栄町駅 (千葉県)
栄町 (東京都北区) – 東京都北区の地名。付近には都電荒川線の駅栄町停留場 (東京都)もある。
栄町 (横浜市) – 神奈川県横浜市神奈川区の地名。ポートサイド地区の一部。
さかえまち
栄町 (福島市) – 福島県福島市の地名。市の中心街にあたる。
栄町 (会津若松市) – 福島県会津若松市の地名。会津若松市市街地の一部地域。
この体験を経て、私はある理解を得た。「正しい戦略は、その時々の環境、文脈、空気によって異なる」ということだ。世の中にはいろんなルールや常識、慣習があるけれども、それらをストレートに適用すべき場合もあるし、必要ならばかなぐり捨てないといけないこともある。
アブラハム・マズロー(欲求の五段階ピラミッドの人)の『完全なる経営』にこんなことが書いてある。
‟彼らの心理学によると、最善の思考や最善の問題解決ができるかどうかは、問題を含んだ状況を、期待や予想、憶測などを交えることなく、この上なく客観的な態度――先入観や恐怖、願望、個人的な利害などを交えない、神のような態度――で見ることができるかどうかにかかっている。…(中略)…解決すべき問題とは目の前に存在する問題であって、経験によって頭の中に蓄えられた問題ではない。頭の中に蓄えられた問題は、昨日の問題であって今日の問題ではなく、また、両者は必ずしも一致するものではない‟ p.129-130
‟さらに範囲を広げれば、家庭生活、すなわち妻や夫や友人たちとの関係についても、この方法を当てはめることができる。各状況における最善の管理方法とは、各状況において最もよく機能する管理方法のことだ。どの方法が最善であるかを見きわめるためには、予断や宗教的な期待を排した、完全な客観性が求められる。現実的な知覚は現実的に行動するための必要条件であり、現実的な行動は望ましい結果を生むための必要条件なのだ。‟ p.132
マズローは、物事をありのままに見つめて、現実的に考え、行動することが成功への鍵だと言っている――と私は解釈した。
イケメン先輩は結局、条件付きの免職処分になった。黒服が嬢と付き合った場合の店への罰金50万円と、Tちゃんの彼氏への慰謝料として50万円、計100万円を返済したら辞めるという処分だ。店長は、翌日のミーティングの席において、みんなの前でイケメンに公言した。「約束を破ったら組に売る」と。店に対する裏切り行為は許さないという態度を明白にしたのだった。
これと、上の引用文がどう関係あるのかというと……この後すぐ、私と同学年のアルバイトの子が、S店の備品を盗んでいたのが判明した(立命館大学に通っていたので、以下リッツとする)。定期的に、ヘネシーなどの高級酒(そのうち廃棄される飲みかけ。キッチンに置いてある)や、午後の紅茶や炭酸水やチーズその他をくすねていたらしい。その犯行を見つけたのは、皮肉にもイケメン先輩だった。
そのリッツは、イケメン先輩の時と同じく、閉店後に一番奥の席につかされた。最初の数分は、あの時と一緒だった。坦々とした、もの静かな事情聴取だ。その近くにM主任が座っていたのも同じだ。
違ったのは、私も主任と一緒に丸椅子に腰かけていたことだ。リッツの普段の行動に関する参考意見を述べることになっていた。
別にリッツは、良くも悪くもない、普通の奴だった。口数は少なかったけど、まあ真面目かなという印象だった。サボっている様子はないし、店の女の子に声をかけるなどの御法度もないし、当日遅刻や欠勤もなかった。
でも、人間とはそういうものなのだ。裏で何をしているかわからない。人間は言葉ではなく行動で判断すべきという金言があるが、それでも不十分だ。どんな人間にも裏がある。
10分ちょっとが経過した。私の供述も上の通り述べていた。その間、盗んだ物の確認と弁償代の話をしていたように思う。お店で無くなったとわかっているものが時価8万円相当(私の個人的計算では3万円~4万円相当)とされて、ほかにも盗まれた物があると仮定して、倍額の16万円を1か月以内に弁償すれば警察に被害届は出さないという内容で決着した。
最後に店長は言った。「リッツ君。今日が最後の勤務日だ。もう来なくていい。けど、ほかのお店に情報共有とかしないから、働きたかったら別のキャバで働いてもいいよ。今回は残念だったけど、また成長したあなたの姿を見たい。それで、いつかまたお客さんとしてうちに来てくれたら嬉しい」という言葉でお開きになった。
当時の私は、「おかしいのではないか!?」と思った。当時のS店の黒服に課せられる罰金額は、記憶の限りでは以下のとおりだ。
・当日遅刻 5,000円
・当日欠勤 10,000円
・店の売上に影響するトラブルを起こした場合 時価(これが上記の慰謝料)
リッツは規定どおりの罰金を科されなかった。被害額のみだ。しかし、イケメン先輩は規定どおりの罰金のうえボコボコにされている。
当時の私は腑に落ちなかった。後に推測したことだが、店長には以下のような思考順序があったのではないか。
①リッツを殴って、25万円+16万円を請求したうえで脅す(イケメンと同じ対応)
②リッツが立命館大学の学生課もしくは先輩もしくは親に相談する
④罰金は減殺される可能性が高い。警察に通報されたら逮捕リスクあり。
上記①~④が成り立つならば、リッツに対して甘い対応をするのが正しい。そう読んだのではないか。
店長は、自他の権益に対してストレートな人だった。取れるモノはきっちり取っていく。悪く言えばがめつくて、善く言えば組織のことを考えている。
今回の件だと、警察に被害届を出してもS店には一銭も入らないし、リッツが問題行動を起こしたことをほかの店に情報共有するメリットはないし、彼がほかの店で問題を起こしても当店には関係がないし、リッツが負い目を感じていれば社会人になってからS店でお金を使うかもしれない。
※社会人になった今では、このような考え方は極めて短期的かつ自己本位的なものだと感じる。木屋町で風俗営業を行うすべての店の利益を考えれば、リッツは警察に突き出すべきだったし、他店にも情報を共有すべきだった。こうした当たり前のことができないほどに、風俗業界というのは生存が厳しい世界なのだ。
憶測だが、店長には過去に痛い経験があったのかもしれない。16万円でも十分に得をしているからそれで済ませる。そういうことだ。
一方で、イケメン先輩は、いわゆる「身分がない」タイプの社会人だった。だから、ルールに則った対応を採る(暴力のうえ正規の罰金を課す)のが正しかった。
私は今、地元の広島で地方公務員をしている。この仕事は、公平とか中立とか平等が叫ばれる業界ではあるが、確かに、市民や企業を公平に扱わないことが正しいケースがあるのだ。例えば、地元を盛り上げる活動をする部署が大きいイベントを開催する折には、成功のキーパーソン及びその所属団体に対して相応の便宜を図る。近年の例だと、「全国菓子大博覧会」や「広島てっぱんグランプリ」といったものだ。
上記の「成功のキーパーソン及びその所属団体」について、関係者を良好な立地に出店させたり、相応の額の契約を用意したり、行政内組織で要職に就けたりする(教育委員など)。
一般市民や企業を不公平に扱いたいからやっているのではない。公平に扱うのが長期的には一番正しい戦略なのはわかっている。これは、組織目的を達成するために必要不可欠な過程であると上の人間も下の人間も判断したからそうなっている。
反対に、戸籍課や税務課や医療課などの住民対応を行う部署においては、「融通が利かない」などのクレームをどれだけ食らっても、ひらすらに法律や要領に従って仕事をやり続けるのが正しい戦略ということになる。特定の人をひいきしても自治体にとってのメリットは薄いし、逆に訴訟リスクがあるからだ。
キャバクラでの仕事は正直キツかった。嫌なお客さんには絡まれるし、たまに一気飲みを要求されるし、人が殴られるのを見ることがあるし、ホールに立ちっぱなしで足の裏が痛いし、キッチンはものすごく忙しいうえに鼠とゴキブリだらけだ。
でも、勉強になった。夜の歓楽街での仕事が、今の地方公務員としての自分の糧になっている。あの時、求人情報誌を開いてよかったと今では思える。
この春から時給は1,800円になった。昇給の際、店長からは、「お前以上の時間給をもらっている大学生は木屋町にも祇園にもいない。お前を評価している。就職活動中もシフトに入ってくれ」と言われた。※多分これが目的で時給を上げたのだと思う。これまでと違い、昨年比で増えた仕事もないからだ。
この辺りから、シフトに入ることが少なくなった。これまでは、週に4日、たまに5日という具合だった。でも、公務員試験の勉強もしないといけないので週に3日の勤務になっていた。
時間はあっという間に過ぎていって、夏が終わる頃に内定を得た私は、「自由だあああぁぁ!」とばかり、夜の街で遊びまわるようになった。
私には小さい名誉があった。木屋町や先斗町のいろんなバーに行ったが、S店で黒服をしています、付け回しの仕事を任されていますと言うと、大抵の店員さんや夜の街の常連の顔つきが変わるのだ。「こいつはやばい奴だ」という顔をする人もいれば、軽蔑した視線を向ける人もいれば、逆にすり寄ってくる人もいた。
バーにはよく行ったが、キャバクラにはほとんど行かなかった。S店で働いているとわかったら追い出されるリスクがあったからだ。それに、私はKFJ(京都風俗情報掲示板)のお水板において、当時木屋町で№1とされていたS店で何年も働いている。お客さんに「おごってやるから来いよ」と誘われて他店に行ったことはあるが、なかなか満足がいかなかった。S店の子に接客されたことはないが、それでもわかる。歴然とした『差』があった。
今思えば、承認欲求というやつが足りていなかったのだろう。シロクマさんの本で言うと、「認められたい」というやつだ。当時は、自分をスゴい奴なんだと思いたかった。実際はぜんぜんそうではなかったし、逆に、本当にスゴい奴ほど自分を大きく見せたがらない。
そういう人は飽きているのだ。ちやほやされることに。褒められることに。子どもの頃から、自分のパフォーマンスの高さを周りに認められるのが当たり前だった。だから、調子に乗ったり、偉ぶったりしない。それだけのことだ。
11月になった頃だった。M主任が退職することになった。時期は来年の3月。田舎に帰るらしい。
トラブルを起こしたわけではない。円満退職だ。夜の業界で7年も働けば、体はボロボロになる。普通は3年もてばいい方だが、M主任はそこまで働いて、十分すぎるほどの結果を出していた。私は「今までありがとうございました」と、お店の終わりに2人だけになったところで伝えた。
この時のM主任の言葉は脳裏に刻んであるし、忘れた時のために日記にも取っている。重ねて言うが、この記事でところどころの描写がやたらと詳細なのは、大学生当時の日記をベースにしていることによる。
「おう。〇〇ちゃん、お前もな、元気でな。ええけ?(※方言が入っている。いいか?の意味)〇〇ちゃん、仕事ができる奴になれよ。仕事ができんかったらな、人間は終わりやぞ。どこに行っても生きてかれんようになる。仕事だけはな、ちゃんとやって一流になれよ。お前もこの店で何人も見てきたんやないけ、どうしようもない根性なしの連中を。ええけ? お前は悪い奴じゃない。でもな、どっか気が抜けて、間抜けなところがある。そこが好きなんやけどな。とにかく、仕事ができるって言われるようになれ。俺からお前に言えるんはそれだけや」
呑みに行きましょう、と誘うつもりだった。でも、誘えなかった。私の中で、M主任はそれだけ偉大な存在だった。神だった。神を呑みに誘うことはできないのだ。
その翌日。営業時間中の夜10時くらいだったか。店長ともう1人、灰色のスーツを来た人が紙袋を携えてS店にやってきた。「ちょっと今時間あるか」と、上の階にある事務所に連れて行かれ、その人から名刺を渡された。
このS店の母体である芸能事務所の人だった。取締役ナントカ部長だった。ソファに座らされてからの話の内容は端的で、「私を社員として採用したい」という話だった。
部長の話には説得力があった。説得力の要諦とは、ロジックにあるのではない。本人が持つ、その考えや判断への自信や信仰、そして意見を伝える際の胆力や粘りの強さが、本人の口を通して迫力となり、相手に伝わることで説得力が生まれる。
・公務員はこれから厳しい時代になる。お金の問題ではない。本質的な意味で割に合わなくなる。
・あなたが就職する自治体の初任給は16万円だ。うちは基本給だけで26万円出す。
・S店での働き次第では本社に来てもらう
・日本の芸能界を盛り上げる一員になってほしい。それだけの才がある。
・お客さんも仲間もあなたを支持している
今思えば典型的なリップトークだ。なぜかといえば、上の内容の半分以上は私をほかの人に置き換えても、ちょっと修正するだけで通用するからだ。
でも、当時の私は大学生だった。この時すっかり、S店で働こうか、それとも地元で公務員になろうか迷い始めていた。もし、これが公務員試験を志す前であれば、この会社で働いていたかもしれない。
特に最後にやつ。あれにはやられた。部長はソファの脇に置いていた紙袋から手紙を取り出した。十枚ほどの。小封筒に入った、そのひとつひとつを私の前にゆっくり差し出すと、それが――すべて嬢からの手紙であることがわかった。
「〇〇君。試しにひとつ開けてみて」
ある嬢からの簡潔なメッセージが入っていた。「これからも〇〇さんと働きたい」「〇〇さんに店長になってほしい」「卒業してもいなくならないで」。こんな言葉が認められていた。
「もうわかるね。〇〇君はみんなに慕われている。社会があなたを認めている。こんな大学生、ほかにいないよ」
『雇用契約書』とあった。裏面には雇用条件的なものが書いてある。これを片手に取って私は、ボールペンを握りしめた。
右上に日付を書いて、ずっと下の方にある住所欄に個人情報を書き始めようとする。ボールペンをあてどなく前後に振って、書くのを静止しようとする脳と、書くのをやめたがらない右手が小さいラリーを繰り返していた。
私は思い切って、ボールペンを紙面に押し付けた。そして、インクが紙に付いた途端――心臓から流れ出た血が、冷たい何かとともに押し戻されて、再び心臓へと逆流するのを感じた。私の指先は動くのをやめた。
その場で立ち上がって私は、「残りを読んでから決めます」と告げて、手紙を抱きかかえてS店に帰ろうとしていた。事務所の扉を開けて出る時、舌打ちのような音が響いた。
手紙のほとんどはテンプレートだった。ひな形がきっとあって、嬢はそれらを真似ている。そういう罠だった。手紙はぜんぶで11枚あって、その中でテンプレでないのは3通だった。そのうちひとつを挙げると、ヘタクソな文章で、私のこれまで4年間の行動や仕草がつらつらと書いてあった。
私に対するポジティブな言葉も、ネガティブな言葉もあったけど、この3通の手紙には共通していることがあった。「地元に帰っても頑張って」。そんな内容だったかな……? 初めに読んだ1通はTちゃんからだった。
彼女はハーフで、日本語がそこまで上手くはないのだが、それでも一生懸命な筆跡だった。何度かミスって修正液で消した跡があった。Tちゃんらしくて、不器用だけど愛が籠った手紙だった。
一昨日それを読み返した時、ふいに涙が零れた。
あの部長の姑息な手を見抜いてから一週間後、私は2月末でS店を辞める旨を店長に告げた。残念そうにしていたけど、これは当然の結果なのだ。
私は地元で公務員として働く道を選んだし、芸能事務所だって私が本当に欲しかったわけではなく、おそらくはM主任の代わりとしてだった。もし本気ならば、大学4年生の春までには声をかけている。
最後の勤務日は静かだった。普通の職場だと、辞める人には花束贈呈とかがあるんだろうけど、S店にそういった慣習はない。ただ普通に、最後の客が帰って、照明の光度を上げて、ホールとキッチンを片付け始めて、嬢がみんな帰って……。
最後に、このS店に初めて来た時に見た、この分厚い扉を閉める際に、「お疲れ様です」と小さく呟いた。私は、夜が明けてほんのりと水色の空が見える河原町通りへと歩みを進めていった。
(次が最後です)
みんな、細くてバスの通らない木屋町通を自転車で爆走して木屋町駐輪場に向かっていますね……。あそこも道が狭い上にタクシーがバンバンすり抜けていきますから、危険ったらありゃしないのですが。
河原町通と四条通が自転車通行禁止なのは、まさに市バスに京都市交通の全てを賭けた京都市交通行政の歪みの象徴でしょう。いわゆる「まちなか」と呼ばれる、御池~四条間の繁華街へ自転車でアクセスしたいという要望は多々あると思うのですが、現状、木屋町ー御池ー御幸町ー四条間の歩くにはかなり広い区域がほぼ自転車通行禁止となっており、さらに駐輪場は小さなキャパのものがごく少数あるという悲惨な状況です。
地下駐輪場と地下鉄の大規模整備しか手はないと思うのですが、地下開発にトラウマのある京都市は今日も悲惨な京都交通を見て見ぬふりをしています。なーにが歩く街京都じゃ
http://anond.hatelabo.jp/20150711002502
昨日このエントリを書いたが、一つとても重大な不満を忘れていた。
既に何人もの人が書いてくれている通り、「自転車」は京都市内において最強の移動ツールである。
街には南北の非常に緩やかな傾斜がある程度で目立った坂はなく、渋滞に巻き込まれることもない。
外国人観光客が家族でレンタサイクルを使って観光している姿はもはや見慣れた光景である。
http://travel.cnn.com/explorations/play/asias-most-bike-friendly-cities-982373
このような記事も存在する程度には自転車の利便性が高い都市なのだ。
残念ながら日本人観光客には一種の公共交通信奉があるのか、あまり乗っていないように思えるが。
それはともかく、この自転車と言う移動ツールを行政側が疎んじているようにしか思えないのが京都市だ。
四条通や河原町通の繁華街部分では自転車通行が禁止されているし、その周辺の駐輪場は日中ほとんど常に埋まっている。
駐輪場が埋まっているからといってその辺りに停めてはいけない。瞬く間に撤去されて受け取る際には2300円が徴収されるのだ。
ちなみに僕が知る限り、とある撤去自転車受け取り場所には支払証明書の券売機が2台設置されているが1台は全く使われていない。
民間駐輪場も増えてきてはいるものの街中では全く足りていない。
「料金がかかっても停めたい」という人も停められないのが現状である。
しかし京都市は今年7月1日より「自転車撤去強化区域」の範囲を市内ほぼ全域に拡大した。
京都市建設局自転車政策課曰く、「マナーが先、駐輪場整備はそれから」だそうだ。
なかなか笑わせてくれる。
河原町御池で、烏丸今出川で、有料駐輪場に停めようとして停められなかった自転車がどれだけあるか。彼らは知っているのだろうか。
どうにもならない交通事情をなんとか成り立たせているのが自転車の自由度だというのになぜ自転車の使用を萎縮させるような政策を取るのか疑問で仕方がない。
念の為に言うが京都にはとても愛着がある。不便以上に得るものがある場所であることは間違いない。
歴史や文化といった観光的な面ももちろんそうだが、いかにも日本的な組織絶対主義と一線を画す社会こそ何よりも体験に値すると思う(異論は認める)。
日本政府が出展しないような旅行博覧会への独自出展や産官学連携の分厚さなど、京都市の戦略性には感心する部分が多い。
だからこそ、この点で不満は大いに募る。
京都の道路は碁盤目状だから、バス停も通りの名前を組み合わせたものになる。
例えば、「千本今出川」は千本×今出川、「千本北大路」は千本×北大路という風に変換される。
この場合千本通りはどの通りと組み合わせても名前の最初に来るので、攻め気質のキャラクターだということが分かる。
同様に、堀川通りも攻め側にまわる事が多い。
「堀川上立売」「堀川中立売」「堀川下立売」を順番に聞くと堀川はこの三兄弟の誰が本命なのかとハラハラしてしまう。
中でも、河原町通りは気になる存在だ。「四条河原町」「三条河原町」の時は受けなのに、「河原町丸太町」の時は攻めになる。不可思議極まりない。
けれども、かわらまちまるたまちという音韻の可愛らしさから、この二人は双子気取りの百合カプなのかもしれないという考えに至る。
大宮だって気になる。「四条大宮」と「大宮五条」があるということは、攻めヒエラルキーは四条>大宮>五条なのだろうか。
兄には受けて弟には攻めるなんて、大宮はリバ魔性にもほどがある。
ちょっと待て。今何となく調べたら「河原町五条」ってバス停もあるじゃないか。五条は受け確定なのか。
それに「四条堀川」って何だ。基本的に攻めキャラの堀川もさすがの四条には敵わないってことか。
京都には「四条は攻め、五条は受け」という決まりでもあるのだろうか……
という流れでした。
参加した計5名の増田、対応してもらったはてなオフィスのみなさん、ありがとうございました。
じぇいこん社長が結構時間とって話してくれたのが、すごい印象深かったです。ユーザとしてはかなり偏っているのであそこで話した内容が役に立つか疑問です(でも、もう一人の増田の方が偏ってるってば)。へっぽこPerlerなので、なま直也氏に会えたのがうれしかったです。写真掲載許可をもらってきたので、写真入オフレポを公開する予定です。こんなところで。
で、宿題の件。
これ以上はスタッフに直接おたずねください。幹事は、個人的に対応して欲しいとの要望を持っておらず、伝言をしてきただけなので。