はてなキーワード: 江戸幕府とは
アメリカは日本へ2発の原子力爆弾を投下して、日本は無条件降伏した。
無条件降伏だったので、日本はアメリカの植民地、奴隷にされた。
江戸幕府は鎖国政策を行っていたが、欧米はその間にも技術を発達させ、軍事力も増大させていた。
江戸幕府は当初「公武合体」によって、新しい日本の体制作りを目指した。
公武合体(こうぶがったい)は、幕末(1850年代から1860年代)の日本において、朝廷(公)の伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした政策論、政治運動をいう。
しかし、公武合体は失敗に終わり、薩長のテロリストたちがクーデターを起こした。
イギリスに支援された薩長同盟 VS フランスに支援された江戸幕府
英仏の代理戦争が日本国内で展開されて、イギリスのフリーメーソンが勝利した。
明治維新以降、日本は日露戦争に勝利する等、外国と戦争して勝つことができた。
調子に乗ってアメリカにも戦争をしかけたら(真珠湾奇襲攻撃)、逆にボコボコにやられてしまった。(原爆投下で第二次世界大戦敗北)
天皇が「勝つ見込みはありますか?」と尋ねたら、軍部は「短期決戦で勝ってみせます」と応えた。それならOKと戦争を開始した。
軍部は「アメリカから買っていた石油がなくなったので、これ以上戦争を継続できない」と判断した。(そりゃ戦争やってる相手に石油を売る馬鹿はおらんわなw)
松谷誠のように、早期講和を検討した者もいたが、軍部に握りつぶされた。
日本が2年程度で戦争を止めていれば、満州を失うだけで済み、日本の本土まで取られることはなかった。
結果的に、天皇と軍部は判断を誤り、早期の損切りができなかった。
松谷 誠(まつたに せい、1903年(明治36年)1月13日 - 1998年(平成10年)10月7日[1])は、大日本帝国陸軍の軍人、陸上自衛官。
天皇の悲劇は、周りにイエスマンしかおらず、適切な判断材料となる反対意見を言う者がいなかったこと。
(天皇一人が悪いのではなく、取り巻きの連中が使えなかった。)
もしも、松谷誠らが天皇に直接提案する機会があれば、完全敗北を避けることもできただろう。
歴史を振り返ると、ワンマンのリーダーが判断ミスすることによって、国が滅ぶ例が多々ある。
日本の近代史を振り返ると、日本の岐路は、「公武合体」にあった。
もしも日本が、天皇と将軍のツートップ体制だったら、どちらか一方が判断ミスをしても、リカバリーできる可能性があった。
しかし、ワンマン体制だと、一人のリーダーが判断ミスすることによって、ドミノ式に全体がミスに巻き込まれる。
公武合体が成功していたら、日本は今とは違う歴史を歩んでいただろう。
負け惜しみで、明治維新を賞賛する向きもあるが、敗戦の結果を見れば、明治維新の天皇制は失敗だったことに気付く。
残念だ。
まあ、テキトーに読み流してもらえるにはどうしたらいいかな?と考えた場合、「オッサンの雑談」ほどテキトーに聞き流されるものもあるまい、ということで、オッサンの雑談を書くことにした。
もう5年前くらいに田舎のお葬式に出た際、飲み食いの席で、遠い親戚の叔父さん達の雑談を聞いていた。
自分としては特に話すことも無かったし、叔父さん達は話を聞いてもらいたかったようにも見えたので、テキトーに眠そうにしながら彼らの聞いていたのだが、心の中では戦慄していた。
当たり前だが、「叔父さん達」と言っても、それは「血縁上の」という意味であり、他人から見ると、年齢的に「お爺さん」「お婆さん」である訳だが。
別によく増田で書かれているような「人間関係のドロドロ」とかそういう話では無い。
平和そうに話される会話の内容が、どう考えても、「時代が間違っている」訳です。
「お前ら、タイムスリップしてきたのか?」と。
なぜこの話を思い出したかというと、下の記事がはてブにあったからだけどね。
江戸幕府が終わってからまだたったの150年という事実…「進化の速度すごい」「江戸幕府は約260年続いた訳で…」「混乱する」 - Togetter
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1182953
まあ、そうなんですよ。
叔父さん達が若者であった時代は、「トラクター」や「コンバイン」なども無い訳です。
そして、「朝から晩まで働いて、鍬や鋤で畑を開墾した」みたいな話をされる。
島崎藤村の「千曲川(ちくまがわ)のスケッチ」みたいな話をリアルタイムで聞いていると、目眩感を感じる訳です。
学校の小使は面白い男で、私に種々な話をしてくれる。この男は小使のかたわら、自分の家では小作を作っている。それは主に年老いた父と、弟とがやっている。純小作人の家族だ。学校の日課が終って、小使が教室々々の掃除をする頃には、頰の紅い彼の妻が子供を背負ってやって来て、夫の手伝いをすることもある。学校の教師仲間の家でも、いくらか畠のあるところへは、この男が行って野菜の手入をして遣る。校長の家では毎年可成(かなり)な農家ほどに野菜を作った。燕麦(からすむぎ)なども作った。休みの時間に成ると、私はこの小使をつかまえては、耕作の話を聞いてみる。
(中略)
粗末ではあるが眺望の好い、その窓の一つに倚りながら、私は小使から六月の豆蒔(まめまき)の労苦を聞いた。地を鋤(す)くもの、豆を蒔くもの、肥料を施すもの、土をかけるもの、こう四人でやるが、土は焼けて火のように成っている、素足で豆蒔は出来かねる、草鞋(わらじ)を穿(は)いて漸(ようや)くそれをやるという。小使は又、麦作の話をしてくれた。麦一ツカ――九十坪に、粉糠(こぬか)一斗の肥料を要するとか。それには大麦の殻と、刈草とを腐らして、粉糠を混ぜて、麦畠に撒(ま)くという。麦は矢張小作の年貢の中に入って、夏の豆、蕎麦(そば)なぞが百姓の利得に成るとのことであった。
「戦前の農村」と考えると、まあ、似たような時代なんでしょう、工業化も農村までは行き渡らなかったと思いますし、ほとんど江戸時代のようなものですよ。
その一方で、「一歩間違えたら、自分も手作業で畑を開墾していたかも知れないな」と思い、「はわわ」と内心戦慄していた訳です。
さらに、論を展開させると、「実は明治時代に戻りつつあるのかも知れないな」とも思います。
「レールに乗っていれば、無事上がれる」みたいな時代は終わっている訳じゃないですか。
というか、「マスコミの敷いたレールに乗ると、食い物にされ、大抵は地獄に墜ちる」ということでしょうけど。
マスコミが「~に投資しろ」「~の時代が来た」という時点で、搾取のシステムは完了しており、それに乗った人はむしり取られるだけ、的な感じでしょうか。
「だからマスコミが悪い」と言いたい訳でもない(言いたい部分もある)が、構造的に、「すでに先端から一歩遅れた話」をマスコミは報じる訳です。
「自分のリアルタイムのメシの種の秘密」を教える人なんていない訳ですから。
全然関係無い話ですが、「iTunes Storeでの音楽ダウンロード販売を終了」という話がありました。
で、ビジネスの中心をSpotifyやApple Musicなどのストリーミングへと移行する、と。
(さらに関係無い話をすると、「ビットコイン資金洗浄の最新手口はiTunesでの楽曲販売」みたいな話もありましたね)
何が言いたいのかというと、「App Store」でiPhone用の買い取りのゲームなんかも毎度セールをしている訳ですが、240円くらいで世界の才能のあるアーチストの作った美しいゲームが買えたりしますが、一方で、まだ「iTunes Store」では、シングル曲を250円くらいで販売している、もう、値付けが何が的確なのかよく分からない印象があります。
(その一方で、未だにAKB系のシングルCDが1500円くらいで売られている。まあ、「握手券」や「アイテム的価値」というのはあるかも知れないが。またさらに言えば、アイドル系以外の音楽のアーチストが「CDを買ってください」と頭を下げている)
「格差」「格差」と言いますが、「格差」を利用して儲けるのが商売というものだと思います。
現に、上のような矛盾するシステムが共存する訳で、その隙間を狙えば、多少は良い思いが出来るんじゃないでしょうか。
必要なのは、多分、「認識を適切に変化させること」であって、「相手の認識を時代遅れにすること」だと思います。
体制を打倒したいのならば、「体制の認識を時代遅れにすれば良い」訳ですが(体制の認識が時代遅れになれば、江戸幕府のように倒れるんじゃないでしょうか?)、例えば、リベラル系の重鎮の人達は、「自分達が時代遅れになっていることすら気がついていない」気もします。
今の状況を「ピンチ」と見るか、「チャンス」と見るかでかなり人生の見方は変わると思います。
そして、「認識を適切に変化させること」については、多分、日本人が一番アドバンテージがあるんじゃないでしょうか。
現に、アメリカは国がまとまらないほど、容認出来ないほど認識格差は広がっていると思いますし、例えば、最近、地球平面説信者が勢力拡大しているらしいです。
その上で、以下のようなパロディがある。もはや訳の分からない状況にある。
参照:地球の萌え擬人化が海外でブームに! 地球平面説信者の勢力拡大が原因かwwwww
http://yurukuyaru.com/archives/74181806.html
参照:北京から「底辺住民」を追い出す中国の不条理 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/12/post-9150.php
まあ、こんな分析はどうでも良いんですが、結構安全地帯はないと思いますので、早めに変化の苦しみを味わっておいた方が良いんじゃないでしょうか。
現在が異常ってのはそうやで。
(角度でいうと10〜20度くらいの上昇)な線グラフが
ここ100年少々で90度くらいのほぼ直角になってる。
いわゆる江戸幕府が倒れた時に
鎌倉時代の僧侶・一向俊聖(暦仁2年(1239年)? - 弘安10年(1287年)?、以下「一向」と表記)を祖とする宗派。
一向は筑後国草野家の出身で、はじめは浄土宗鎮西派(西山派という異説もある)の僧侶であった。後に各地を遊行回国し、踊り念仏、天道念佛を修し、道場を設けた。近江国番場蓮華寺にて立ち往生して最期を迎えたという。
以後、同寺を本山として東北、関東、尾張、近江に一向の法流と伝える寺院が分布し、教団を形成するようになった。鎌倉時代末期に書かれた『野守鏡』にはこの教団を一向宗と呼んで、後世の浄土真宗とは全く無関係の宗派として存在している事が記録されている。
一向と一遍房智真は同時期の人物であり、ともに遊行や踊り念仏を行儀とする念仏勧進聖であることから、一向の「一向宗」は一遍の「時衆」と混同されるようになっていく。『天狗草子』に記された「一向宗」は、一遍の衆を指したものである(一向俊聖の項を参考)。たしかに一向も一遍と同様に浄土宗の影響を受けて自己の教義を確立させたものであるが、全く別箇に教団を開いたものである。また、一遍と違い一向の教えは踊り念仏を行うとはいえ、念仏そのものに特別な宗教的意義を見出す事は少なかったとされている。ところが時代が降るにつれ、一向の教えが同じ踊り念仏の一遍の教えと混同され、更に親鸞の興した浄土真宗とも混ざり合うという現象が見られるようになる。特に一向の教義が早い段階で流入していた北陸地方ではその傾向が顕著であった。
浄土真宗本願寺八世の蓮如が北陸地方に活動の場を求めた時に、布教の対象としたのはこうした一向や一遍の影響を受けて同じ浄土教の土壌を有した僧侶や信者であり、蓮如はこれを「一向衆」(「一向宗」ではない)と呼んだ。蓮如布教時に、一向宗や時宗が支配層との結びつきを強め、民衆から離れ、一向宗の民衆が蓮如教団になびいた結果、一向宗と呼ばれるにふさわしかったともいわれる[1]。本願寺及び蓮如の北陸における成功の背景にはこうした近似した宗教的価値観を持った「一向衆」の存在が大きいわけであるが、同時に蓮如はこれによって親鸞の教えが歪められてしまう事を恐れた。さらに別の事由から他宗派より「一向宗」と呼称されていたこと(後述)も彼の憂慮を深めた。文明5年(1473年)に蓮如によって書かれた『帖外御文』において「夫一向宗と云、時衆方之名なり、一遍・一向是也。其源とは江州ばんばの道場是則一向宗なり」とし、一向宗が一向の教団でもあることを明記して本願寺の門徒で一向宗の名前を使ったものは破門するとまで書かれているものの、ここでも一遍と一向の宗派が混同されている。
江戸時代に入ると、江戸幕府は本末制度の徹底を図り、系譜を異にするさまざまな念仏勧進聖が、清浄光寺を総本山とする単一宗派「時宗」の管轄下に編成された。この際、一向の流派は独立した宗派とは認められず、「一向宗」の呼称を用いる事も禁じられた。『時宗要略譜』によると、時宗十二派のうち、一向派と天童派が一向の法脈を受け継ぐものとされている。一向派(かつての一向の一向宗)は再三にわたり時宗からの独立を求めたが実らなかった。
明治時代になって、中期に一向派から独立転宗を唱える者が出現し、一向派は浄土宗宗務院に「所轄帰入願」を、時宗教務院に「時宗一向派独立認可願」を提出した。しかし一向派の独立・転宗を認めてしまうと、明治以降衰退著しく、時宗寺院が少ない上に、さらに減少することになるので、時宗当局は、これを認めようとしなかった[2]
大半の寺院が時宗を離れ、一向の母体であった浄土宗に帰属するようになったのは、昭和時代に入った1943年の事であった。
浄土真宗、ことに本願寺教団を指す呼称。教団自身はこの名を自称しなかったので注意が必要である。
「一向」とは「ひたすら」「一筋」という意味であり、「一つに専念すること」を意味している。『仏説無量寿経』に「一向専念無量寿仏」と記されていることから、とくに阿弥陀仏の名号を称えることと解釈され、親鸞を宗祖とする教団(本項では「真宗教団」とする)を他の宗派から指す呼称となった。とくに浄土宗は、親鸞の教団が「浄土真宗」と自称することを嫌い、「一向宗」の称を用いた。
したがって「一向宗」は真宗教団の門徒から見て正しい呼称ではなく、また一向俊聖の「一向宗」と混同される事から望ましい呼び方でもなかった。だが、中世において同じ念仏を唱える浄土教系宗派であった両派が混同され、更に時衆などとも漠然と同一のものとして捉えられるようになっていった。蓮如は前述のように「他宗派の者が(勘違いして)一向宗と呼ぶのは仕方ないが、我々浄土真宗の門徒が一向宗を自称してはいけない」という主旨の発言をして違反者を破門するとまで述べているが、逆に言えばこれは、真宗教団の門徒ですら「一向宗」を自称する者がいた事を意味する。
こうした指導により教団内部では「一向宗」の語は正式に使われることはなくなり、「浄土真宗」または「真宗」と称するようになった。しかし、門徒たちを中心とする一揆が「一向一揆」と呼ばれるなど、真宗教団のことを教団外から「一向宗」と呼ぶ風潮は収まる事はなかった。
江戸幕府は、真宗教団を指す名称として「一向宗」を公式に用い続けた。この経緯としては、徳川家康が三河一向一揆により家中統制で苦しめられたこと、徳川将軍家が(真宗教団が「浄土真宗」を称することを望まない)浄土宗を信仰していることが挙げられる。これに対して、真宗教団側は本願寺の分裂などの影響があり、長らく具体的な対応が取られることがなかった。
右筆(ゆうひつ)は、中世・近世に置かれた武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。
目次 [非表示]
1 概説
3 織豊政権
4 江戸幕府
5 関連項目
6 関連作品
概説[編集]
初期の武士においては、その全てが文章の正しい様式(書札礼)について知悉しているとは限らず、文盲の者も珍しくは無かった。そこで武士の中には僧侶や家臣の中で、文字を知っている人間に書状や文書を代筆させることが行われた。やがて武士の地位が高まってくると、公私にわたって文書を出す機会が増大するようになった。そこで専門職としての右筆が誕生し、右筆に文書を作成・執筆を行わせ、武家はそれに署名・花押のみを行うのが一般的となった。これは伝統的に書式のあり方が引き継がれてきたために、自筆文書が一般的であった公家とは大きく違うところである。武家が発給した文書の場合、文書作成そのものが右筆によるものでも署名・花押が発給者当人のものであれば、自筆文書と同じ法的効力を持った。これを右筆書(ゆうひつがき)と呼ぶ(もっとも、足利尊氏のように署名・花押まで右筆に任せてしまう特殊な例外もあった)。
なお、事務が煩雑化すると、右筆が正式な手続を経て決定された事項について自らの職権の一環として文書を作成・署名を行い、これに主君発給文書と同一の効力を持たせる例も登場する。こうした例は院宣や綸旨などに早くから見られ、後に武家の奉書や御教書などにも採用された。
現在では天皇・皇后の文章の代筆をする宮内庁の文書専門員(中島司有、佐伯司朗といった書家が務める)は「祐筆」と呼ばれることがある。
源頼朝が鎌倉幕府の原点である鎌倉政権を打ち立てた時に、京都から下級官人が招かれて事務的な業務を行ったが、初期において右筆を務めていたのが大江広元である。後に、広元が公文所・政所において行政に専念するようになると、平盛時(政所知家事)・藤原広綱・藤原邦通らが右筆を務めた。
その後、将軍や執権のみならず、引付などの幕府の各機関にも右筆が置かれ、太田氏や三善氏などの官人の末裔がその任に当たるようになった。基本的に室町幕府もこの制度を引き継いだが、次第に右筆の中から奉行人に任じられて発言力を増大させて、右筆方(奉行衆)と呼ばれる集団を構成するようになった。
なお、室町幕府では、行政実務を担当する計方右筆・公文書作成を担当する外右筆(とのゆうひつ)・作事造営を担当する作事右筆などと言った区別があった。
戦国時代に入ると、戦時に必要な文書を発給するための右筆が戦にも同行するようになった。戦国大名から統一政権を打ち立てた織田・豊臣の両政権では右筆衆(ゆうひつしゅう)の制が定められ、右筆衆が行政文書を作成するだけではなく、奉行・蔵入地代官などを兼務してその政策決定の過程から関与する場合もあった。豊臣政権の五奉行であった石田三成・長束正家・増田長盛は元々豊臣秀吉の右筆衆出身であった。他に右筆衆として著名なものに織田政権の明院良政・武井夕庵・楠長諳・松井友閑・太田牛一、豊臣政権の和久宗是・山中長俊・木下吉隆・安威了佐などがいる。
なお、後述のように豊臣政権の没落後、右筆衆の中には徳川政権によって右筆に登用されたものもおり、右筆衆という言葉は江戸幕府でも採用されている。
戦国大名としての徳川氏にも右筆は存在したと考えられるが、徳川家康の三河時代の右筆は家康の勢力拡大と天下掌握の過程で奉行・代官などの行政職や譜代大名などに採用されたために、江戸幕府成立時に採用されていた右筆は多くは旧室町幕府奉行衆の子弟(曾我尚祐)や関ヶ原の戦いで東軍を支持した豊臣政権の右筆衆(大橋重保)、関東地方平定時に家康に仕えた旧後北条氏の右筆(久保正俊)などであったと考えられている。
徳川将軍家のみならず、諸大名においても同じように家臣の中から右筆(祐筆)を登用するのが一般的であったが、館林藩主から将軍に就任した徳川綱吉は、館林藩から自分の右筆を江戸城に入れて右筆業務を行わせた。このため一般行政文書の作成・管理を行う既存の表右筆と将軍の側近として将軍の文書の作成・管理を行う奥右筆に分離することとなった。当初は双方の右筆は対立関係にあったが、後に表右筆から奥右筆を選定する人事が一般化すると両者の棲み分けが進んだ。奥右筆は将軍以外の他者と私的な関係を結ぶことを禁じられていたが、将軍への文書の取次ぎは側用人と奥右筆のみが出来る職務であった。奥右筆の承認を得ないと、文書が老中などの執政に廻されないこともあった。また奥右筆のために独立した御用部屋が設置され、老中・若年寄などから上げられた政策上の問題を将軍の指示によって調査・報告を行った。このために、大藩の大名、江戸城を陰で仕切る大奥の首脳でも奥右筆との対立を招くことは自己の地位を危うくする危険性を孕んでいた。このため、奥右筆の周辺には金品に絡む問題も生じたと言われている。一方、表右筆は待遇は奥右筆よりも一段下がり、機密には関わらず、判物・朱印状などの一般の行政文書の作成や諸大名の分限帳や旗本・御家人などの名簿を管理した。
朝鮮飴(ちょうせんあめ)は、熊本県の銘菓である。餅米と水飴と砂糖を独自の製法で捏ね合わせ、片栗粉を塗した求肥飴の一種である。
食感は餅に近い。
16世紀、園田屋の開祖、園田武衛門により作られた当初は長生飴と呼ばれていたが、文禄・慶長の役での朝鮮への出兵の際、
当時の城主・加藤清正の軍はこれを携行して篭城中の兵糧として役立てたことから、朝鮮飴と呼ぶ様になった。
江戸時代中期までこれは藩の買い上げで、製法は管理されて市販が許されていなかった。
代々の肥後藩主がこれを江戸幕府や朝廷への献上品、諸大名への贈答品として用いた。
当初は黒砂糖と玄米を使用した淡褐色の黒朝鮮飴しかなかったが、現在は白砂糖と精白米を用いた白朝鮮飴が大半を占めている。
1970年代前半には30軒以上が手がけて売上高の総計が10億円に達したが、1990年代後半には2-3億円に減少し、業者も園田屋など
数軒になっている。
文化大革命は中国共産党主導による中国の倫理論の変革だ。下層階級を党主導部が利用し、寺院や仏像などの古来の文化を破壊する事件が相次いだ。多数の死者をもたらしたとされる。
中国の文化大革命は主に政府にとって目障りなインテリ層を中心に粛清された。技術者・富裕層、一部の農民・・・そしてそのような政治劇が1976年まで繰り広げられた。そしてこれは、実は日本ではいつ起きてもおかしくないのかもしれない。
日本の中にある貧困崇拝は非常に内向きの古臭い発想だが、これが日常生活の中に持ち込まれたのが日本版ラテン思想だろう。これはまさに文化大革命時の毛沢東思想に近い。文革期の中国共産党の富裕層に対するの敵対意識と、現代日本のインテリ・富裕層叩きは、私には非常に類似点が多いと思うのである。
日本のこういった発想は、とある大学生によると富裕層でない階級で青年期を過ごした人間が富裕層になり、彼らの振る舞いに不満を抱いた人の思想が広がったことに由来するという。この思想はそもそも古くない考えである。私の知る限り、2000年当時にはありえない考え方であった。
それ以前の日本(今でもそうかもしれないが)は金持ちを目指すことが美徳とされ、貧しいことはむしろ恥ずかしいことであると言われていた。ちなみに、この考え方は2010年代前半ですら通用した常識である。
私は月に1000円~2000円払ってロト6やロト7を買っており、億単位の賞金が当たることを見越して様々な研究をしていると、富裕層叩きを見るたびにないと思う。昔は無機質な中間層と違う趣のある文化に憧れていたが、後で知ったのだが、今増えている富裕層は最近まで中間層は貧乏人だったもので、もともと富裕層の資質がなく、富裕層叩きのメインターゲットとされている人達だ。
今日本各地に行くと、そういう外国水準の所得単位での分別すら無理になっている。文化面での貧困化が徹底されている。デモ行進を見ると、以前は都市部だから許されたような右派系の排外デモがある。中国で外交危機があって反日デモがにわかに活発化したのと同じだろう。
実際街頭で往年の宗教勧誘のように日当を対価にデモ行進に参加させるケースも増えている。地方都市に多い。現在起きているデモ行進などは思想の左右問わずに日当で集めて頭数をそろえているのが多数であるというのが現実ではないだろうか?
中国人は過去に同じことを難解も経験していることだからそれを熟知しているんだろう。だから日本人の私はこんなことは発言をしたくないのだが、2017年、日本でも「文化大革命」が起こるのだろうと、ガックリしてしまうのである。トランプ政権になってからアメリカが日本と同じ道を辿り始めたように、70年以上平和を守り続けた日本が、中国と同じ道を辿ろうとしてる。
日本にノンポリ層が健在であることが救いだ。毀誉褒貶ある。こういった精神すべてを賛同することはない。あの地域には外国ではPC問題になるような文化が多すぎだ。しかし私は、世界で当たり前の対応のできる者が健在であることにほっとする。「政治的中庸がいなければ日本は存在しない」と言われるほどの現状がどこまで持つのだろうか?
オタクの姿勢もかっこいい。この集団は、昭和末期時代からも宮崎事件の余波で権力とたたかった。反骨姿勢は今も生きている。彼らについては私も言いたいことはあるが、それでもこういうことは本当にスゴイよ。
一方、非ノンポリ階級の対応はよくないよね。でもこれは「腑に落ちて」しまった。彼らは多数派になりつつある。日本を見てほしい。強い先祖返りを髣髴とさせる。一人ひとりの威圧感も凄まじいが、実際にデモにいくと左翼や右翼の兵隊みたいな感じが不気味でしかない。
この日常を経て、キビキビと「塩生活」に明け暮れる彼らがファシズムの片棒を担ぐわけだ。ノンポリは非国民と。逆に強烈なイデオロギーを持つ層は、左翼や右翼を見ると「ホッ」とするわけだ。日常を感じるから。
プロ市民のイデオロギストっぷりは私も批判し続けているが、ついにマジでノンポリを嫉視するようになってしまったんだなあと、本当にガックリきてしまう。ある意味、戦争前夜臭くて不快だったが。
私は民主主義そのものの社会的価値は否定しない。事実70年以上も守り続けてきているし。それ以上に豊かな生活にあこがれている。1995年に両親の転職(貧乏職から転身!)で関西から関東に越してきたとき、新しい生活に胸を膨らませた。1990年代から2010年代までオタクとしての経験もある。家族代々鉄道好きでもあった。
しかしそのような「豊かな」暮らしを経験した私だからこそ、その風情とか肯定的な表現を守ること、また新しく築くことはあっても、根本にある負の因習は打破しようと、そう訴えたいのである。守る価値のない因習を拒否し、破壊する発想が必要だ。残念ながらそれと矛盾するのが、「所謂畳精神化するアメリカ」であり「日本の文化大革命の兆し」ではないか。本当に私に未来はあるのだろうか。
日本人に問いかけたい。貧乏人だらけの国と同レベルの発想に恥ずかしく思わないのかと。君たちの憧れる今では黄昏の国の日本は江戸幕府をぶっ壊して新しく国を作り、経済的・科学的・文化的豊かさを受け入れたのではないかと。そして、そもそも何故貧乏を恥じ、お互いに豊かになることを目指したか考えてみよと。
近いうちに21世紀版の文化大革命が日本でも起きる。願わくばそれが起きないように努め、万が一起きても自分自身が巻き込まれないようにしたい。
増田は「利己的」と書いていたが「功利的」と言うべきだろう。その上で「功利的である」ことには同意だが、その理由は異なる。その理由を少し述べる。
増田の論は、人間の能力というものが一元的に数値化できるという架空の仮定に基づいているが、これが根本的に的外れである。人間の能力というのは非常に複雑なもので、社会全体の生存を考える上ではその多様性を担保することがもっとも戦略的には正しい。たとえば日本社会で非常に高く評価される「空気読む」能力は、世界の中ではほとんど不要な能力であるが、狭い環境下で長期的に社会関係を維持しなくてはならない場合(たとえば長期にわたる宇宙船内での作業員等)では、非常に有効な能力である可能性がある(ただし、現代日本人が比較的不得意な「異文化の受容」に関わる問題をクリアできた上での話であるが)。
知能というのも残念ながらその測り方が日々検討されているような状態で、たとえば現下のセンター試験で測れるような「能力」が今後役に立たないとはよく言われているところであるが、しかしだからといってそこに全く正当性がないということもないし、また、「役に立たない」という人々が、それに代わる明確な測定方法を示しえているわけでもない。
江戸時代、「能力のある武士」をそれなりに取り立てるシステムも全く機能していなかったわけではないし、実際幕末の幕府高官が無能ぞろいだったわけではないが、明治維新を成し遂げ、またその後の新政府をそれなりに運用したのは下級武士…すなわち江戸幕府からは「能力が低い」とみなされていた人たちだった。変動期にどのような「能力」が重要なのか、社会が予測することは難しい。
だから、ある社会が持続可能であろうとするならば、さまざまな能力の可能性を排除すべきではない。いまのシステム下で測定できない「能力」をもつ人間は、この社会のあらゆる地域、年齢、階層の中に眠っている可能性があり、必要なときにそれが脚光を浴びることができるように多様性を担保しておくことは重要なのだ。これが、社会が貧困問題に適切に取り組むべき「功利的な」理由である。
#九州で女性として生きること のタグが闇すぎてにわかには信じがたいと話題に「目が点になった」 - Togetterまとめ
九州の人は、不平不満が多い。
自分の意に沿わない事態が起こると、それはすべて他人のせいだと考える。
自分の思うとおりにさえなっていれば何も悪いことなど起きなかったはずで、何か悪いことが起きたらそれは他人が悪いのである。
また、主に「自分より力を持っていそうなだれか」のせいだと考える。
実際にはそうではないのに、「この人は裏で不正に力を持っている」などの妄想を膨らませ
その対象を悪の権化のように言い散らすこともある(上下関係には弱いので、そういうことのほうが多い)。
神話の時代から国の興りを自分たちの住処からだと称し、江戸幕府に対して300年恨みをため込んで、とうとう明治政府を自分らのものにしてしまった人たちを感じる。
彼らは本当は、この世は自分のものであり、自分が世界の中心だと信じている。それぞれに。
東北の人は、あきらめが早い。
自分の意に沿わない事態が起こると、「ああもうしょーがないね」とすぐにあきらめる。
基本的に、あらゆる物事について、自分の意思など大して影響力のない微々たるものだと思っていて、
東北の人間にとって、冬に降る大雪や、夏に吹く冷風や、東京の人たちのお達しや、だれか他人の意見はすべて、
逆らいようのない何事かである。
あきらめは早いが、さっぱりしている訳ではない。むしろねちっこい。
雪に降り込められた家の中で、欝々と春を待ちながらあきらめたことを執拗く数えている。
数えているだけで、それに対する打開策などは考えない。自分たちは等しく無力だと信じている。
だから時々、打開策を考えて自分から動こうとする人が出た時の、同調圧力からくる足の引っ張りようは尋常ではない。