はてなキーワード: 視聴時間とは
http://anond.hatelabo.jp/20160930010427
私の父は厳格な人だった
ゲームやテレビは子供の教育に悪いと信じ込んでいて兄である私と弟はただの一度もゲームを買って貰ったことはなかったしテレビも1日の視聴時間が決められていた
お小遣いは定額制ではなく使用用途を伝えその都度貰っていたが、基本的に本や文房具以外のものが認められることはなかった
高校に入学した頃には私以外の全員がケータイを持っていたが、私にそれが与えられることは遂に最後までなかった
しかしそんな厳しい父を尻目に小学校高学年までの私はとにかくよく遊んでいた
2つの習い事に加え塾にも通っていたが、休日はもちろん塾が終わった後の短い時間でさえ無駄にすることはない徹底ぶりだった
それが出来たのは、ひとえに母のおかげだった
母は父に内緒でよく私に少額ではあったがお小遣いくれ、時には習い事を休ませたりしてくれた
ゲームも漫画もうちにはなく、テレビも自由には見れなかったが、私はその分友人の家に入り浸って幼いころの自由な時間を満喫していた
私は一切それを守らずそれまで通り遊び倒した
父はなぜ言いつけを守れないんだと怒り、私は玄関に立たされた
ふてくされて突っ立っている私をもういいよと中に入れてくれるのは母の役目だった
流石の私も少し堪えたが、頻度は減らしたものの眠ったり仕事をしている父の目を盗んでは遊びに行くのを辞めなかった
父はまた言いつけを守れと怒り、私は玄関に立たされた
母は何も言わずに私を見ていた
私は休日に遊べなくなった分、平日夕方めいいっぱいまで遊び家族の食卓に遅れた
父は私の夕飯はないと言い、母も反省しなさいと言った
私は遊ぶのを辞めなかった、決して非行に走ったり学校や塾を休んだりする事はなかったが、遊ぶことは辞めなかった
ある日、母は私に言った、父さんの言うことを聞きなさい、と
それからしばらく経った頃、父は急におかしなことを言うようになった、更に少し経った頃、父は急性アルコール中毒で病院に運ばれた
私は怖くなり、父の言いつけを守るようになった、遊ぶことをやめ家で読書をする時間が増えた
それから少しして父は夜中、急に外に出ていくようになった
私はそれを阻止するため玄関に布団を敷いて寝た
父はよく分からない薬を大量に買ってくるようになった
私は父が寝ている間にそれを没収しては机の引き出しに隠すのが日課になった
父は朝早く起きると財布の中身を確認しては金が足りないと言うようになった
私は誰も盗っていない事を証明するため日に1度写真を撮り、父よりも早く起きるようにした
私が父の言いつけを守った時間が増え、習い事の段が上がり、学校の成績が上がる度、父は昔の父へ戻っていき、我が家は平穏を取り戻していった
私以外の家族3人に笑顔が戻るに連れ、私の中には私だけが犠牲になっているという思いが募っていった
私は自分の憎しみをコントロールすることが出来なかった、心の底から父と母を憎んだし、休日、自由に遊ぶ弟を卑怯だと心の中で罵った
愚かな私は他人の気持ちを考える事が出来なかった、自分の気持ちを正当化するために家族を悪者に仕立て上げた
父と母は十分に私を愛してくれていたのにそれを理解できなかった
私には望むだけの本が与えられたし、望んでも通うことが出来ない人間もいる塾や習い事へ行かせてもらったのに、ただ一面だけを取り上げ、事実を見ることが出来なかった
父の症状が殆ど寛解したある日、私は友人と1泊2日の旅行に行きたいと言った、お金のない私のために友人が当ててくれた懸賞だった
父の症状はみるみるうちに悪化していった
私はそれを無視した、頼むから行かないでくれと泣いて頼む母を無視した、兄ちゃん行かないと父さんに約束してと言う弟を無視した
私は母と弟に言った、父の症状が悪化しても毎日寒い玄関で寝て夜中の2時に一度起きてまた朝5時に起きるのは私なのだから、お前らは毎日ぐっすり眠っているのだから良いだろうと
それは事実とは違った、まずそれらは毎日のことではなかったし、母がそれを出来ないのは父の分まで忙しく働いているからだった、弟にも弟の事情があった
なのに私は全てを無視して、他人の気持ちを考えず、家族を口汚く罵って、ただ自分が楽しみたいという理由のためだけに旅行へ行った
その日父は死んだ
私が高校2年生の春だった
父は書き置きを残した
私への言葉だった、お前にはもう何も期待しない、自分の好きな場所で自分のしたいことだけして暮らせと、そう書いてあった
父は休養しながらも仕事を続けていたので式は母の想いに反して大きなものになった
私は笑顔で父の生前の思い出を語った、嘘の思い出を、思ってもいないことを、父をなくした不幸な長男面して喋った
私には明確に父を殺したという意識がある
ふとした時、誰かと話している時、急に思う、なぜ親を殺した人間がこんな笑顔で、こんなニコニコと話しているんだろうと
同時に思う、自分はそんな可哀想な自分に酔っているのだと、罪の意識など微塵もないのだと、自分が悪いなどとは考えていないのだろうと
しかし、また同時にそんな考えに至る自分に驚く、なぜ一丁前に自死遺族面しているんだと、もしかしたら誰かに受け入れて貰えると思っているのかと
そしてそんな時どうしようもなく自分を殺したくなる、罪があるのなら死ねば良いし、親を殺してなんとも思わないような人間は死ねば良い、どちらにしても自分が死ねば良いとそう思う
自分が死ななかったのは、その無神経さもあるだろうが
ひとえに母と弟のお陰だと思う
私は父が居なくなった後すぐに家を出た、父の最後の言葉からどうしても父の家を自分が居て良い場所だとは思えなかったから
高校に行きながらバイトをして、大学へ入学後もバイトを続け、最初に母から借りた引っ越し代や入学時に借りた入学金は全て返済した
お金の返済は、どうしても振込は嫌だと母が言うので現金で実家まで持っていった
それ以外にも何かと母は私に実家へ来るよう約束を取り付けた、大学入学後買ったケータイには毎日朝昼晩メールが来た
母は私が死なないように心配していたのだと思う
私は外ではそう出来るように、母に対しても明るく振る舞えば良かったのだが、母と弟に対してはどうしても昔のような態度で接することが出来なかった
父がいなくなった後、私が母と話すときの態度を傍から見ていれば、私が次の日死んでしまっても不思議ではないと思うだろうがから、母には悪いことをしていると思う
でもどうしても、母と弟の顔を正面から見ることは出来なかった
時が経つにつれ私は父への想いよりも生きている母と弟への思いが強くなっているように感じる
おそらくどちらかが、私に父を殺した責任を取れと言えば私はその場で命を断つと思う
そして、こんな事を考えながらも実際の所、私は二人の気持ちを確認するのが途方もなく怖い、そう怖いから二人から距離を取ったのかもしれない
今週、そんな私も20幾度目かの誕生日を迎え、母が祝ってくれると言うので、昨日は実家にいた
用意してくれたケーキを食べ母と少し会話した後3人でテレビを見ていると、母がコンビニに行くと言うので、私も帰ろうとした所、引き止められた
弟と二人きりになるのは久しぶりだったし、会話するのはもっと久しぶりだった
弟は誕生日おめでとうと言い、私は驚きながらありがとうと返した
続けて、その…兄ちゃんに俺……と言い出した所で弟は泣き出した
どうやら、ずっとごめんって、と言おうとしているようだった、でもそんな簡単な言葉も聞き取るのが難しいくらいに弟は泣いていた
泣きながら、ごめんごめんと言っていた
ごめん兄ちゃんずっとごめん、と泣きながら言っていた
兄ちゃんが家を出て行く時ホントは止めたかった、でも止められなかった、兄ちゃんが俺の変わりに父さんを助けてくれてた、でもありがとうも言えなかった
ホントはもっと俺が頑張るべきだったのに、兄ちゃんが変わりに頑張ってくれた、ごめん、ずっとごめんって言いたかった、ずっとありがとうって言いたかった
でも言ったら兄ちゃんが死んじゃうような気がして言えなかった、ずっと言いたかった、兄ちゃんごめん、あの時、ホントは言いたかった、兄ちゃんありがとう
弟が目を手で伏せ泣きながら喋っている間、私は弟以上に泣きじゃくっていた、本当に信じられないくらい泣いていた
本当は弟より先に私が言うべきだった、弟にごめんと、また弟の気持ちを無視していた、自分のことだけを考えていた
私はなんとなく何をあげたらいいのか分からないので昔兄弟が好きだったアーティストのアルバムをくれたのだくらいに思っていた
http://anond.hatelabo.jp/20160930010427
このエントリーを読んで初めて「花束を君に」という歌のことを知った
もしかしたら弟はこのプレゼントを話題のきっかけにしようとしてたのかも知れないし、単純に私のためにこれを選んでくれたのかも知れないが
とにかく、知ることが出来てよかった
衝動的に書いたので読み辛いだろうけど
笑われるでしょうが、朝起きてお昼を過ぎるまで、このページを開こうと思う度、激しい震えと動悸に襲われ開く事が出来ませんでした
父の事を誰かに話すのは、どんな形であれ初めてだったので、何と言われるのか本当に心底怖かったからです
意を決してこのページを開き、はてなブックマークのコメントを読んで、また10分程泣いてしまいました
おそらく他の方には何気ないコメントだと思いますが、私にとってはそのやさしい言葉の一つ一つがどうしようもなく嬉しいものでした
結局の所、私はあなたは悪くないと、あなたは生きていても良いんだよと、そう誰かに言ってもらいたかっただけなのかも知れません
もちろん当人にとってはそんなつもりは一切ないのかもしれませし、自分の気持ちを本当にこんな簡単な言葉で表す事ができるかは分からないのですが
今はただ、弟と宇多田ヒカルさんとコメントをくれた方、皆さんから勝手にそんなメッセージを貰ったつもりになってとてもうれしい気持ちでいます
そして優しいコメントをくれた皆さんへも
・電通はデジタル広告を扱う代理店の中では最も先進的な取り組みをやっている
これは一面が正しくて、一面が間違っている。
まず、いわゆる現在主流のWEB広告の分野においては、電通は遅れている。なにしろ本格参入が遅かった。トップクラスの運用能力を持っていたオプトも切り離してしまったこともあり、サイバーエージェントやそのオプトに対して運用分野ではスピード感もクオリティも負けている。そもそも、電通でデジタル広告回してるのは、大量に出稿してきている子会社や提携会社の人。つまり丸投げってことだ。(聞くところによると、トヨタ問題の発端も出向社員だとか。)
ただ、電通が進んでいるのは、プラットフォーム側、つまりGoogleやFacebook、Twitterなど、WEBのメガプラットフォーマーと組んで様々な取り組みや、専売商品を次々作っていること。あるいは、データ分析の分野ではその分野に強い会社と提携してサービスをどんどんリリースしている(電通のニュースリリースを見るといい)。そういった、「次のWEB広告」あるいは「マーケティングのデジタル化」については、サイバーエージェントやオプトよりかなり先を行っている。
これからの電通はWEB広告でもマス広告同様の勝者となる準備が整ってきた。事実、デジタルコンサルを中心業務とする電通デジタルができたばかり。そこにこの問題。電通のエラい人はさぞかし頭を抱えているだろう。(競合としてはざまあみろだ)
マスの広告はカンタンだった。なにしろ効果が明確に測定できない。なので調査をして効果を報告するとか、あるいはそもそも調査なんてしないことだって多かったそうだ。その一方でデジタルは結果が明確に出てしまう。さらにスピード感も圧倒的に早い。にも関わらず、リーチの問題によって金額は圧倒的にマスよりも安い。もちろんデジタル管理して出しているので、マス広告よりも楽に出せる側面はあるけれど、大量に出稿する場合はとんでもない作業量になってしまう。
今までより圧倒的にシビアに結果が出て、さらに毎日トラッキングして、必要があれば文章や画像を差し替えて、それを多種多様なメディアを選んでPDCAを回しながら調整しなければならない。これだけ大変なのに給料は安い。これは電通が悪いとかそういう問題じゃなくて、インターネット広告の値付けの問題だ。俺は毎日思ってる。誰がこの広告枠の値段決めたんだ?って。マス広告に比べてあまりに枠が安すぎる。この問題に大きく関わっているのは、ネット広告に遅れる弱い総合代理店をしり目に価格で勝利してきた、サイバーエージェント、オプトなどのWEB広告代理店。
彼らの安売りにより、給料は安くなり、しかしタスクは減らないので毎日深夜までビルは明るい。てっぺん超えるんなんて当たり前だ。しかも結果がシビアに出てるので、クライアントからのプレッシャーも厳しく精神的にも苦しい。数年で転職、退職する人も多いので、穴埋めのための人事異動が激しく、プロフェッショナルが育ちにくいのも問題だ。
はっきり言おう。同じような問題がポロポロ出てくるだろう(博報堂や、WEB広告代理店がまともなら)。
内部監査をすれば絶対に見つかることは断言する。ネット広告の現場にいれば、ヒューマンエラーが起きないなんて誰も言えないはずだ。なぜ今まで明るみに出なかったか?それは、ネット広告は掲載確認が難しいから。例えば新聞広告なら、その日の新聞を見れば一発で載ってるか載ってないかわかる。しかしネット広告はわからない。アドネットワーク(皆さんが普段何気なく見ているWEBサイトに載っているバナーなどがそれ)はどこに出てるか分かりにくいし、さらにネット広告は年齢や性別、あるいは趣味嗜好までターゲティングするので、自分がそのターゲットに入ってなければそもそも「出ない」。
そりゃみんなちょっと間違っても隠す。何しろバレにくいんだからね。
元増田が書くようにクライアントがデジタルに明るくない場合も多いことが拍車をかけている。ネット広告の世界はマス広告より圧倒的に複雑なので、リテラシーがなかなか育たないのだ。もちろん、電通の今回の問題は、ただ間違ってただけでなく、間違いを理解した上で不正に請求してるのでただの詐欺。論外。とはいえ、多くのWEB広告代理店の数字に関するプレッシャーを見ていたら、自分の会社がやっていないとは正直言えない。忙しすぎて朦朧としている人、あまりのプレッシャーにクライアントを憎んでいる人、上司におびえている人。様々な人がいて、みんな疲弊してる。そんな同僚がミスを隠して不正請求していないと言えるか・・・俺は言えない。
デジタル広告がこんなに不健全なのは、おそらくマス広告も不健全で、不透明だった名残なのだろう。業界の特性だ。皆さんも覚えている通り、運用型広告ではなく、記事広告(ネイティブ広告)の世界ではサイバーエージェントを筆頭に不正が大々的にまかり通っていたこともあった。はてなでは話題になってないが、つい昨日はFacebookが動画視聴時間について多く見積もって報告していたことが分かった。(Facebookの動画広告を売る際に、Facebookでの動画視聴時間の長さが他のSNSに比べて多いと言って打った俺は詐欺師となったわけだ)
業界全体が腐っている。
しかしこうなったからには、業界全体がしっかりと監査していく仕組みを作らなきゃだめだ。
電通さん、デカいんだからさ。旗振りぐらいやってなんとかしてくれよ。
俺は正直、このニュースを見て安心した。やっとこの業界がオカシイことが世に出た。早くなんとかしてくれないと、ほんとにみんなが潰れてしまう。
長くなってすんません。
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追記
続きを書きました。
映画館の数自体にもばらつきがあるし、配給されるかどうかにも格差があります。上映館数が少ないものは大都市圏に集中するので、地方の人にとっては厳しいです。
「地方では見られない」ケースは大して変わらないと思います。むしろテレビ放送の方がBS放送やケーブルテレビ等の手段があるから格差は小さくて済むはず。
「Wake up, Girls 七人のアイドル」のときは、劇場上映と同時期にネットで有料配信もされていたと記憶しています。地域差対策であれば、ネット配信の拡充のほうが有効だろうと思います。
現状ですら全部見ようと思ったら週に1本以上見なければならないのです。
平日に映画館へ行ける人はいいですが、私のように距離的な問題で土日しか行けない身だと、正直なところこれ以上増えたら回らなくなりそうです。
画質に関しては、ここに挙げたものだと劇場用として作られたものが多いように見えますが、「ラストエグザイル銀翼のファム」と「WIXOSS」はテレビシリーズの再構成でした。
劇場上映用に調整されている部分もあるのでしょうけれども、今現在テレビで放送されているアニメの画質は、ほとんどが劇場の大スクリーンでの上映にも堪え得る品質になっていると思われます。
増田だったと思うが、「こんな不便なBD商法くそくらえ」という様な文章を見た。
彼は好きなアニメ作品の2~3話で1個のBDを最後まで買って「なんでこんな不便なBDを買わなきゃいけないんだ」
「確かにアニメ業界がこういうので生きてるってのは分かってるから買うが、もう無理!今後買わない!」みたいな事を言っていた。
じゃあそういったユーザーを減らすにはどうすればいいのか、妄想を膨らませるとタイトルの通りの考えが出てきた。
現状、アニメから映画化といえば近年だとエヴァ、宇宙戦艦ヤマト、進撃の巨人、ガルパンがある。
という訳で考えだしたメリットについてまとめてみる。長いので、その○の所だけしか読まなくても構わない。
だが真面目に読んで考えて欲しい。考えるのを諦めた人は今期オススメアニメでも書いておけ。俺は「亜人」だ。
映画館に行けば作品が見られるのだからネタバレが嫌なら映画館で映画として見ればいい。
「地方で見られないから」「深夜は無理」「録画面倒」という様な理由はもう一切無い。
大きな映画館のスクリーンでポップコーン片手に映画を見るのだ。
現状、ニコニコ動画や月額有料ストリーミングサイトといった大手動画サイトでのアニメ本編はまだしも、
探せば世界中にある海賊版サイトのアニメ本編、大手や海賊版の本編を利用したと考えられる二次作品は
一気に激減すると考えられる。二次作品に対しての是非はさておき、本編垂れ流しが無くなるのは効果が高いだろう。
現状の通報とか第三者機関とかそういう対策にアニメ業界はお金を出せるのか。
しか~し!映画館上映のみにすることで、海賊版を出そうものなら映画館で録画→犯罪でアウト。
海賊版が生まれるのは映画館からBDに移った後になるだろうし、これは「アニメ本編よりBDを先に販売論」とも似ているに違いない。
全ての深夜アニメが移行するのは無理、また全てのアニメ好きが映画館に通うとも限らないが、有名作品の続編などが映画館上映のみとなれば
多くのアニメ好きが映画館に足を運ぶ結果になるに違いない。そうすると映画館の利用者は急増し、ポップコーンの売上も急増するわけだ!
そもそもアニメ好きは映像作品が好きか?正直これは分からない。アニメ化された○○という感じでラノベ小説・漫画・Web小説好きというのも
居るだろうし、扱われている題材がミリタリーだから、日常だから、SFだからというのもあるかもしれない。
しか~し!ここまで書いて考えてみれば映画館には様々なジャンルのアニメ以外の作品もあるじゃないか!
「こんな映画ネットで見つからなかったけど面白そう、今度見よう」で他の映画も見る人が増えるかもしれない!
しか~し!アニメ好きは実写嫌いかもしれない!これは微妙なとこだった!
映画館でアニメを見るとなれば様々な商法があるだろう。現状のパンフレットや関連グッズを映画館で販売するとなれば
アニメ好きはアニメを見なくとも映画館のショップに通い、パンフレットや関連グッズを買う結果に。
前売り券を買えばグッズが付いてくるだとかポケモンがよくやってる奴、あれもパクれば良い感じだろう。
映画を見終わった人向けにBDの限定販売、これもたまりませんなぁ!!
さてここまで好きに妄想を膨らせてみたが、デメリットについて考えてみた。
現状のアニメ制作ってただで大変そうなのに今以上映画館でやってしまったら制作陣死ぬのでは?無理だろ。
そもそもアニメ映画を出している大手のスタジオジブリ、庵野、新海、細田。凄いジブリ、パチスロ効果のエヴァ。
CMなど短編制作の新海、よろしくお願いします!の細田。ここは映画とアニメに関する技術を持っているが
主に深夜アニメを出すスタジオが映画っていきなり言われてどうだろうか。無理に違いない。いや無理だ。解像度とか作りこみとか
どう考えても無理。素人から見ても無理だって分かる。いくらなんでもむちゃくちゃすぎる。業界人を舐めている。
そんな事をしなくてもアニメ好きは不便なBDを買ってBD売上競争に自ら首を突っ込んでくれているじゃないか。
そっちにした方が手早く稼いでスタジオの名前を世に売らせて金を得て次の足がかりに出来る。それが安泰の道だ。挑戦なんて要らない。
スタジオの名前さえ売れれば海外から発注が来るだろう。海外でアニメ文化が広がれば先輩である日本のアニメスタジオに更に仕事が舞い込み万々歳。
まず現状、大手動画サイトでリピート再生したり、録画したアニメを何度も見直す、動画につけられたコメントを読む、本編実況といった
アニメ付随機能(コンテンツ)がある訳だが、これが主になってる人からの反感は少なくないはず。というか制作サイドの中にも
お金というよりはSNSや動画サイトの反応を楽しんでる人だって必ず居るだろうし、海賊版のを見に行ってまでコメントを読みながら
糧にして頑張ってるという人まで必ず居るはず。そういった事を考えた時にアニメ好きは映画館まで付いてくるかと言われたら違う気がする。
この障壁をクリアするためには映画館そのものの形を変える必要があるだろう。例えば「友達と会話しながら見てもいい上映時間回」、
「手元の画面からコメントを投稿してスクリーンに投影出来るシアター」といったもの。
更には「制作陣と見ながら楽しむシアター」といったものだ。左上に制作陣の顔がありながらアニメを見られる。
意外と面白そうである(試写会が近いか)。とはいえデメリットを完全払拭する事は出来ないだろう。
映画というのは本来2時間、最長でも3時間で終わるものであるが、
アニメの最短といっても3分アニメ*12話で36分のものもあれば30分*24話で12時間のものもあるだろう。
おいそこ銀英伝を思い浮かべたな!それはさておいて、映画館上映としたとき、上映時間はどうなるのか。
何部作とかに分けるのか。途中から見に来る結果になった人はどうするのか。例えば1話~4話を上映期間の最初から最後まで流すとした時、
その時の映画館は枠が取られる事をどう感じるのか?そういった場合の客の量の推移予測は?こうなった場合の疑問が尽きない。
デメリットその1が強すぎるのでデメリットは3つになってしまったがこんな感じだ。
自分で考えても「面白そうだな~」と感じるのだが、実現までの壁が高すぎてこの世で実行するのは無理に近いだろう。
何か革命的な流れが起きればどうにかなるかもしれないが、現状はBD商法に文句を言いながらアニメーターを食いつなぐ
彼の様な存在が必要とされる事となる。残念だ。この妄想では彼を救う事は出来なかった。
ちなみにこの文章を書く際に参考文献を探した所9年前の同様の記事が出てきた訳だが、
その人は今どういう思いを持っているのか、興味がある。以上。
90年代後半からオタク論が学術的、サブカル論的に語られ始め、2000年過ぎあたりを境に徐々に下火になっていった。ネットの個人サイトにおいてもオタク史やオタク論をまとめたものはいくつも見つかるが、その多くも2005年前後で語ることをやめている(その意味では『オタク論の死について』(エフヤマダ, 2014)はオタク論の現状に対する貴重な指摘である)。
本稿は真のオタクとは何であるかとか、データベース消費や心理学がどうこうといった話には一切言及しない。本稿の目的は誰がオタクと呼ばれ、誰がオタクを自称したのか、その変遷を整理することである。
第一回コミケは1975年12月に開催されたが、この時点で彼らはアニメファンやマニアと自称しており、オタクではなかった。もっとも二人称としての「おたく」はそれ以前のSF大会から広く使われており、そうした状況から一部で彼らを「おたく」と揶揄していたという指摘は存在する(岡田斗司夫, "オタク学入門", 1996)。とはいえ、彼らを「おたく」と明文化したのは1983年、中森明夫によるものという点で見解は一致していると言っていいだろう。
「運動が全くだめで、休み時間なんかも教室の中に閉じ込もって、日陰でウジウジと将棋なんかに打ち興じてたりする奴ら」「栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチメガネのつるを額に喰い込ませて笑う白ブタ」「女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足」「クラスの片隅でさぁ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない、そんな奴ら」(中森明夫, "『おたく』の研究(1)", 漫画ブリッコ(1983))
中森はこのように「おたく」を形容する。この時「おたく」に知識量や購買力などは一切要求されておらず、現代で言えば非モテのコミュ障ブサイクへの侮蔑の言葉であった。この連載は批判意見の殺到により早々に打ち切られるが、一方、オタク達は自虐を込めて「おたく」を自認するようになっていく。
ほぼオタク界隈の内部でのみ使われてきた「おたく」は、1989年、宮崎勤の連続幼女殺人事件で一気に世間に知られることとなる。宮崎は6000本のSF、ホラー、アニメを録画したビデオテープを所有しており、この点からマスコミは「宮崎のような非コミュでインドアなブサイク」の代名詞として「おたく」を用い、バッシングを展開した。
「オタク、かっこ悪い?」
そういう問い自体出なかった
「オタクは格好の悪い生き物だ」
侮蔑され諦観し
故に侮蔑され故に諦観し
数珠つなぎの輪がぐるぐると回っていた気がする
(中略)
おい あれ
プッ
ぎゃはははは
オイロリコン部ーッ
ぎゃははははははは
世間は宮崎のような人物をオタクと呼んだ。宮崎のような気持ちの悪い見た目をしているならそれは宮崎であり、あるいはアニメが好きならロリコンであり性犯罪者である。全て一括りに扱われた。
当時の高校生オタクにこうした罵声に反論する公の場など当然無く、家族からも白い目で見られ、彼らはひたすら耐えるしか無かった。その意味で、当時彼らにとってオタクであるという自称は「同じ迫害に耐える同志」という意味だったと言ってもいいだろう。
岡田は現代でいうところの作画厨と考察厨を兼ね備え、またアニメに留まらない広範な知識、教養と分析力を有する者を「おたく」と呼んだ。世間からの白眼視に耐えてなお「おたく」であった連中であり、加えて当時は今よりはるかに娯楽の少ない時代であり、情報収集と理論武装に傾倒した者が少なくなかったことに不思議はない。
80年代後半からパソコン通信が、そして95年以降でインターネットが徐々に一般家庭へと普及を始める。同人誌即売会と異なり時間的空間的制限無しに、そして同人誌制作に比べてはるかに手軽かつ安価に意見交換できる場は、不特定多数のオタク間の相互交流を可能にし、各自の知識差が広範に意識され始める。
そして『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明, 1995)が大ヒットを記録する。これにより宮崎勤を知らない世代である中高校生を中心にオタク人口は大きく増加し、終盤の難解な展開の考察や解釈を求めてネットが活用された。ネット黎明期、オタクの集う場所はごく限られたこともあり、高度な知識と分析力を備えたオタクの存在はより多くのオタクの目に触れることとなり、各オタクの「濃さ」が相互に自覚されていった。翻って「自分はあれほどの知識を有しないからオタクではない」といった謙遜も生まれ、こうしてネットとオタク人口の拡大によってオタクと呼ばれる者とオタクを自称する者のズレは拡大していくことになる。
エヴァ以降、『カードキャプターさくら』(浅香守生, 1999)のようなロリコンアニメから『serial experiments lain』(中村隆太郎, 1998)のようなカルトアニメ、あるいは『カウボーイビバップ』(渡辺信一郎, 1998)など幅広いジャンルで今なお名作とされるアニメが相次いでTV放送され、無垢な若者のオタク化を助長し続けた。
他方、オタクをPCに向かわせた要素として95年以降のエロゲにおけるカンブリア爆発的な状況の影響は否定できないだろう。『雫』(Leaf, 1994)に始まるビジュアルノベルの勃興と「泣きゲー」の流行など、現代エロゲのベースはこの時代まででほぼすべて確立したと言っていい。
コミュニケーションツールとして、コンテンツ再生機としてPCはオタクの必需品と化していった。これと同期して、それまで家電製品の街であった秋葉原は90年頃からPCパーツの街へと変化し、来店するオタク率の高さからトレーディングカードやフィギュア専門店が相次いで秋葉原に出店、秋葉原はアキバと化していく(森川嘉一郎, "趣都の誕生 萌える都市アキハバラ", 2008)。
そして2005年、TVドラマ『電車男』が視聴率20%を超えるヒットを記録する。オタクには「アキバ系」という新たな名前が与えられ、アキバは一般観光客がオタクと呼ばれる気持ちの悪い珍獣を生で見ることの出来る動物園として扱われた。
珍獣としての要素については、モーニング娘。に端を発するアイドルオタクによって発展したオタ芸にも言及してしかるべきだろう。視覚的にわかりやすい「気持ち悪さ」を有したそれらの振る舞いは、オタ芸という名前を含め、何をオタクと呼ぶかにおいて一定の影響力を有したと考えられる。
2006年に登場したニコニコ動画は、2007年発売のVOCALOIDの登場などを通じて非アングラユーザ、中高校生といった若年層のユーザを多く取り込み、違法合法問わず大量のアニメやゲームといったオタク系コンテンツを抱え込んでいく。
アニメは放送時間が限られ、視聴時間をあわせて見るか、わざわざ録画予約しなければならない。ゲームも安くない金額を支払ってプレイする必要があり、多くの場合プレイ時間は数十時間以上を必要とする。これに対し、動画サイトに投稿された動画に必要な手間はクリックするのみである。オタク系コンテンツの視聴にかかるコストはかつてと比べ著しく低下した。
またアフィブログの影響も否定できまい。2chのログをまとめて整形し、見やすく要約する形で作られたゲーム系、アニメ系アフィブログは人気を博し、その読者は当のアニメを実際に見たことがなくともその内容を大雑把に把握し、売上情報やスキャンダルを把握する。その情報はあくまでアフィブログに書かれている内容に留まるが、彼らが一定のオタク的知識を有していることはまぎれもない事実である。
こうした層はアニメやマンガを多少知ってはいるが、深く傾倒しているわけではない。オタク系コンテンツの情報収集に必要なコストが高かった時代、身だしなみ等、オタク趣味以外にコストをかける余裕は無くて当然と言えたが、しかしコストが下がるにつれてオタク趣味以外へ投資をすることは普通になり、まともな容姿で一般的話題も把握した「オタク的な知識を有する何か」が徐々に増え始めることになる。
「非モテ」という単語が使われ始めるのは2006年以降であるとのことだが(松谷創一郎, "〈オタク問題〉の四半世紀", どこか〈問題化〉される若者たち(2008))、中森がかつてオタクと呼んだ人々は、こうして「おたく」という乱暴な括りから非モテ、コミュ障等と細分化し始める。
誰をオタクと呼び、あるいは誰がオタクと自称するかは、各々が自分の周囲にいる自分がオタクだと思った人を参考に決定するのだとすれば、ヤバい容姿のいかにも濃いオタクがかつてはどのサークルや同好会にもいた(黎明期は全員そうだったと言ってもいいだろう)時代と比べ、2010年に近づくにつれてそうした人物は減少し、あるいは絶滅していったと言え、こうして当人の周辺環境によって誰をオタクと呼び、誰がオタクと自称するかの個人差が拡大していったと考えられる(SNSの発達により、小さく仲の良いコミュニティが大量に分散して存在するようになった、という点もあるだろう)。
一方で2007年以降、AKB48が握手券商法を本格化させたことにも言及しておきたい。ファンにとって投資金額は熱意と情熱を表すバロメータとして機能した。彼らは自分がどれだけ投資したのかを示し、それによって同じファンから一目置かれるようになる。かつてネットによってオタクの濃度差が知識差として可視化されたと述べたが、投資金額の多寡としてもそれは可視化されるようになっていった、と言ってもいいだろう。
細田守監督の映画作品は『時をかける少女』(2006)を筆頭に非ジブリアニメながら広く世間に受け入れられ、『魔法少女まどか☆マギカ』(新房昭之, 2011)、あるいは『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』(長井龍雪, 2011)のヒットはアニメを見るというオタク的行為に手を出す敷居を下げ、アニメを見ることは異常ではないという空気を作っていく。
2011年、アエルラ、アイムシングルの2つのオタク向け婚活サービスが開始される。このオタクの定義を見てみると、アエルラは「一つの趣味を愛し、共有したいという気持ちがあれば、それはオタクである」と定義し、アイムシングルでは明確な定義こそないが、「マンガ・アニメ・ゲーム好き」をパーティ参加の必須条件としている。
筆者が数回体験した範囲に限られるが、実際にこうしたパーティに行ってみるとかつて中森が嘲笑したような「おたく」を見ることはない。いささか一方的な会話を展開する男性は多少いるが、慣れない場に緊張したことの影響も少なからずあるだろう。一方、岡田がオタクと呼んだような広範な知識教養を有するオタクを見ることもまたほとんど無かった。面白いことに30代の参加者でも90年代後半のアニメの話題に反応する例は少なく、良好な反応の得られるアニメは概ね2010年以降であった。こうした点から彼らのオタク的趣味の範囲はここ数年に限定されており、もともとオタク的であったのかもしれないが、オタク的趣味を実際に楽しむようになったのは最近であると考えられ、10代の若者に限らず、幅広い年代でオタクと自称、あるいはそうと意識する人口が増えているという認識を抱いた次第である。
他方、携帯ゲームの課金要素の充実や2010年以降のアイドルアニメの興隆などから、グッズその他のオタク的趣味への投資金額の多寡がオタクとしての熱意の度合いを示すバロメータとして意識されるようになっていく。2015年、TVニュースにて「リア充オタク」が特集され、その「リア充オタク」のオタク趣味への投資は年間2万5千円であると報じられた際、その金額の少なさへの揶揄が主にTwitterで取り沙汰された点は、その意味で興味深いものがある。
アイドルオタクとアニメオタクを絡めるなら声優のアイドル化への言及は本来必要不可欠だし、女性オタクへの言及が明らかに足りていない、ゲームオタクについてなど全体的に漏れが多い点は自覚している。申し訳ない。
また整理の都合上、いささか恣意的に流れを作った部分があることも否定できない。例えばネットの普及+エヴァによるオタク人口の増加→知識格差の可視化、という流れは自分でも「本当にそんな単純な話か?」という疑問を抱いているが、ざっくりした傾向というレベルではまぁ嘘ではないだろうと考え記載した次第である。
ただ、ある人が誰かをオタクと呼ぶ時、あるいはある人が自らをオタクと称する時、その内容から当人がどういう時代背景を前提としてきたのか、あるいはどういうコミュニティに所属してきたかを推測できることは、会話の食い違いやすれ違いを修正する手助けになると筆者は考えている。
人食い巨人が地上をのし歩き、残されたわずかな人類は城壁の中で怯えて暮らす――これが大ヒット作品「進撃の巨人」の世界だ。その暗いディストピアを作り出した作者の諫山創さんは、あまり人前に出ないながらも、今やカルト的な人気の世界的ベストセラー作家だ。 シリーズは世界中で総計5200万部以上売れており、英語、中国語、ドイツ語など複数の言葉に翻訳されている。アニメ版の人気は原作並みに高く、最近だは2部構成の実写映画も公開された。
マスコミ取材をあまり受けないことで知られる諫山さんは、BBCの単独インタビューで、「巨人が人間を食べ続け人類が滅亡しそうになる」という物語のインスピレーションや、絵が下手すぎるとあまりに言われるため漫画家の夢を諦めそうになった経験について話した。 最後に講談社「少年マガジン」の編集者・川窪慎太郎さんに出会い、「面白いって評価いただいたんですけど、その時の感想としてはかなり諦めモードというか、自己評価低かったんで、『この人大丈夫かな』くらいの感じだった」という。
(24-勤務時間8-通勤時間0.75-睡眠時間5-テレビ視聴時間1-PC・スマホ使用時間1)/(24-勤務時間8-睡眠時間5)
=8.25/11
=0.75
でもこれって、通勤時間さえ短めなら、勤務と睡眠以外の時間ずっと家で寝っ転がって本とかマンガ読んでても「リア充」だよね
「リア充」ってそういうのだっけ?
要はネットとテレビに時間使ってなければ「リア充」と定義するってこと?
テレビをつける。
クイズ番組で頭の悪い解答をしていたり、バラエティや討論でどれだけアホくさい主張をしてたとしても、
「この箱に映ってる連中は全て、学校時代は(カーストとして)半分より上にいて
人並みに恋愛を楽しんでいたり体育の授業がある日の朝に憂鬱な気分になったりせずに
日々を過ごしていた。
もしも半分より下のカーストだったとしても(爆笑問題の太田とか)
そいつは血反吐吐くほどの努力を積んだ人間なんだよ・・・」てな感じで。
最近まで、俺はテレビを見ても「あーあ、また洗脳してるよ。電通の策略!作られたブーム!」
って憤って「洗脳箱」と勝手に命名して完全に馬鹿にしくさったテレビが。
今では「劣等感増幅箱」です。
自分よりも遙かに年収・コミュニケーション能力・恋愛経験が上の人間が、
どのチャンネルにも絶えず映っている。
ぶっさいくな男のアナウンサーでも年収1千万以上あって夜は美人とセックスしまくっている。
「役不足」という言葉を誤用して使った頭の悪そうな芸人も、いたる番組でみるから
年収ウン百万か数千万かしらんが俺よりは遙かにもらっているし綺麗な彼女とセックスセックスセックス。
そんなちっちゃな言葉の揚げ足取りをする自分に激しく自己嫌悪したのち、害のなさそうなチャンネルにする。
ドラマ。みんな勝ち組だ。役者だ。モテモテだ。年収1千万で美人・イケメンとセックスだ。
ニュース。みんな勝ち組だ。この男性アナはイケメンだ。中学で童貞捨てて大学もリア充生活で今夜も美人とセックスするのか。
バラエティ。こいつらの平均経験人数は18人だ・・コミュ力あるし金もあるだろうな。友達も多そう。学校時代は間違いなく人気者。
野球中継。年収数千万。いや数億か。美人中の美人とセックスしまくってるんだろうな。高校時代から人気者なんだろうな。
どんな番組を見ても劣等感しか抱けないため、一日の平均視聴時間は10分。
映画も同様だ。
十数年前、
小学校時代にドラえもんの長編(何かすら忘れた)を見て以来映画は見てない。
嫌なんだ。スクリーンの中のイケメン・イケ女を見ると自分の人生のあまりのしょぼさで胸が苦しくなるんだ。
彼等は間違いなく充実した人生を歩んで数億の年収をもってて夜は素晴らしいセックスをしているんだ。
なんであれで感動できるんだろう。劣等感を刺激されてゲンナリするよ。
またそれを見て「俺の勝っているのは年齢だけだ。それ以外は全ての面でなにもかも君たちより劣っている。」
なんて考えたり。
そういうわけで、自分より明らかに劣ったキモヲタとかすれ違うと
そいつに聞こえる大きさの声で「きもっ」とつぶやくことがある。
服装だけは普通だからな(死ぬ気で脱ヲタしたわけだが・・・。)。
普段劣等感を感じてやまない人間が下を見つけてこれ見よがしに馬鹿にする、
という死にきれない構図。
なんて思っちゃう。
でも結婚願望はあるし「幸せな家庭を築きたい」なんてふと思うこともある。
とは言え、こういう人生を生きて、こういう非常に歪んだものの考えをしていると、
ただしそれを作ってる人間は決して見たくない。
漫画家はたいがいブサイクだろうが年収数千万で美女とセックスしてるから
深く考えるとドツボにはまる。
本人らの写真できるだけ見ないようにしてる。
どいつもこいつもイケメンだらけだ。
不細工なクリエーターでも年収数千万で美女とセックスしてるから鬱になる。
音楽・漫画・ゲームともに作品を味わう限りは劣等感を感じないのだが
作者がしゃしゃり出るとそういうことを考えて鬱になる。
コード覚えたり機材買ってPCで編集したり。漫画は模写してるだけだが。
仕事の合間に少しずつやってる。いつか公開したい。
それで食っていくつもりなんてない。
世界中で大人気! Youtubeでもランキング1位! という触れ込みだったPSYだが、ランキングをクリック重視から再生時間重視にしたら、ランク外に落ちてしまったという話。
痛いニュース(ノ∀`) : Youtubeが再生回数から視聴時間を重視するようにした途端、PSYが消滅する - ライブドアブログ
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1734805.html
スキージャンプ競技の日本代表は90年代「日の丸飛行隊」ともてはやされ大変強かったが
長野オリンピック後のルール変更により、急に日の目を見なくなった。
どちらも文字通り、game-changingな事態がおこったわけだ。
きっとPSY関係者たちも、毎夜毎夜必死になってF5連打していたと思う。(比喩表現)
そうすれば勝てるから。そうすればランク上位にきて売れるから。
AppStoreやGooglePlay、その他、電子書籍のランキングもそうだ。
結局、他人の作った基盤は、ルール変更のリスクがあるという訳だ。