はてなキーワード: 珍味とは
芽が出ない種子を渡されて「これを発芽させたら結婚させたる」と騙されたことに鬼がショックを受けてトラウマになったとかいう設定だよな。
でも鬼がその程度のものを投げられて必死に逃げるのかって思うわけよ。
騙しやがってぶっ殺すぞってなるだろ普通?
でもそうじゃないってことはもっと深い精神ダメージを受けるものだったと思うんだよね。
たぶんね、精子と経血レバーの入った壺を渡されて「ここに人間の卵が入ってる。血は繋がってるからお前がちゃんとプリンセスメーカー出来れば同じような娘に育つ」って騙されたんじゃねえかな。
精子と織物の混合物が腐っていく中で大事に大事に十月十日を待ちわびたあとに真実を告げられた鬼のショックたるや。
単に孤独な非モテ男がシコったあとの汚濁と、非モテ女の排泄物、そんなものを大事に育てようとした自分の悲しみと、理解したあとの悪臭たるや。
弁当にこっそりザーメンコンドームを混ぜられて、「なんか変な物食った」と言った途端に「珍味だよwww美味かったか???」と煽られた光景を。
もう無理だよね。
それが現代では形を変えて煎り豆になってるけど、それが意味するのってようはゴミ箱からティッシュにくるんだザーメン取り出して鬼に投げつけるような光景なんだよね。
あのさ、
いつも常々思うんだけど
ハンバーグってなんでお肉をわざわざミンチにしてまた固めて焼こうと思ったのかしら?って。
そう言う料理とか色々あるじゃない。
きっと歯の弱いお婆ちゃんのために孫がお肉を美味しく食べられますように!って理由で作られたわけではないと思うんだけど、
そう言った経緯ストーリーってあるのかも知れないわね。
味わいが凝縮されてる美味さが爆発するハンバーグの研究に余念が無かった結果のハンバーグだったのかしら?
合い挽き肉のハンバーグならまた話が違ってくると思うのね。
牛と豚一緒に食べたら美味しいんじゃね?って研究に余念が無かった結果の合い挽き肉なら理由は分かるわ。
合成したら美味しくなるかも知れない理論は
ドリンクバーで色々な飲み物を混ぜて研究に余念が無いちびっ子たちと理屈では一緒よ。
結局得体の知れないよく分からない飲み物になってしまいがちだけど、
さすがに
牛と豚のお肉をミルフィーユ状にして重ねて焼いたような料理がないのと一緒で、
さすがにそれは無いだろう!って気付いたのかしらね。
でも、
もちろんその時にはまだハンバーグって料理がない頃の話しなので、
ここでは便宜上ハンバーグ的なものをハンバーグと言っちゃうけど、
そのままのそれぞれのお肉をミルフィーユ状にして重ねて焼いても美味しくないので、
じゃ!閃いてミンチにして合成すれば美味さ爆発するんじゃね?ってノリだったのかもしれない、
究極の肉合成技術だったのかも知れない当時としては
かなり画期的で
もう美味しいものと美味しいものを合わせたら無敵で優勝出来ると思っている安直な研究結果は調べるまでもなかったと思うけど、
ミンチにしたら良い塩梅で偏り無く混ぜられるんじゃない?って人類は気付いちゃったのかもね。
結局は麺類全般の美味しさは仕上げ玉子が美味しいじゃん!って理由になってしまいがちな、
鶏玉子論争で
陸の親子丼が鶏と玉子で私は二羽ぐらいのお肉を使うぐらいが美味しいと思うちょうど今目の前の庭に二羽鶏がいるんだけど、
じゃ
海の親子丼は
それもそれで優勝候補としては手堅いわよね。
陸か海か悩むわよね。
うどん屋やおそば屋さんがやってる親子丼を頼もうとして注文オーダー発注したら
これはこれで意表を突かれるというか、
そうきたかー!って親子丼は親子丼ですけどそれがなにかって言われそうだわ。
なら陸か海か!ってメニュー表に書いておくべきだと思う、
たくさんのメニューが壁一面に張って飾ってある飲食定食屋さんって
奥の方のメニューって頼んでもいいのだろうか?って思ってしまうほど、
それは定食屋さんからのお客さんへのラブレターでもあるのよね。
逆にいっぱいありすぎるのも悩むし、
陸か海かどっちにするんだい?お客さん!って大将に一度たりとも聞かれたことなかったし、
いいかい学生さん海の親子丼をいつでも食べられるようになるぐらいが丁度いいのさ!
どちらにしろ、
う!海!?ってなるじゃない。
ちなみに
陸の親子丼が出てくるに間違いないと思うけど、
そこはトンチを効かせて
鮭とイクラの親子丼が出てきたら海鮮欲満たせまくれるじゃない。
海は広いな大きいなーって。
そうなると
ってそれもうイクラ丼って言ってるじゃん!ってイクラ丼じゃなくて、
でも本当に
うどん屋さんやおそば屋さんで食べられる海の親子丼に憧れるわね。
ほら!
貝殻に耳を当ててみたら
潮騒の波の音が聞こえてくるわよ!
うふふ。
通りすがりまくりの自動販売機のあたたかいがつめたたいにかわってきているおのののかの時期の頃、
コールドに変わっていたので、
もうこんな季節なのね!って
その現象に名前を付けるならおのののかって付けたら絶対に意味不明よね。
今朝なんか寒くて目覚めた丁度良い頃合いの時間だったから良かったけど、
寒かったので
お茶っ葉切らしたので、
買ってこなくちゃの
でも今日は寒かったので
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
俺の田舎にロシアのテーマパークがあって、それの思い出がとてもきらきらしいのに何で今こんなことになっちまってるんだろうという懐古話だ。
ググればWikipediaは出てくるが、写真が既に潰れたあとの廃墟画像でしかない。
でもあそこはとてもきれいな、光り輝くような場所だった。少なくとも俺の脳内では。
新潟なんて、特に冬は、毎日たいていどんより暗い。雪降るし雨降るしみぞれも降る。
関東から嫁いできた俺の母親は俺の幼少期のころからうんざりしていたようで未だに愚痴る。晴れの日が本当に少ない、寒くて暗くて気が滅入ると。
でもロシア村ではそれが反転する。
あそこでは雪が降ってる方がいい。明かりをたくさん灯すので、暗い方が映える。暗い中に白いものが舞っているのが照らされて見えるのも美しいが、施設そのものがとてもきらきらしく作られていたので明かりが灯るとそこらじゅう何もかもが輝き出しているように見えた。
教会のあのタマネギみたいなかたちの屋根、ステンドグラス、当時の俺の身長の何倍くらいあったのか、大人でも見上げるような高さの大きなクリスマスツリーに飾られた玉飾り。
反射された光が雪の地面に落ちて、なお光っている、その光景。
ロシアの伝統衣装で着飾った、完全にスラブ系の顔立ちのスタッフたち。
明るく照らされた館内に敷かれていたカーペット。
土産物のマトリョーシカの、俺の小指の一関節分くらいしかない一番小さいやつに至るまでに手描きで施された繊細な模様。
全部、とても、きらきらして綺麗だった。
ハスキー犬かひょっとしてマラミュートだったのか、でかい犬が何頭か飼われていて犬ぞり体験とかやっていた。乗りたかったが乗れなかった。時間がなくてだったか、それとも犬ぞりやるには雪が足らなかったんだったか。
マトリョーシカと、あとサンタクロースのガラス細工を買ったはずだ。ロシアのサンタは青いのだと紹介されてて、青いサンタのガラスの人形を買ったはず。深い濃い青のサンタ。どこ行っちまったかなあれは。
それと、アライグマの尻尾のついた、毛皮の帽子。子どもに買い与えられたものだから流石にマジモンの毛皮ではなかったはずだが、いかにもそれっぽいかたちの、そして実際ちゃんと暖かい帽子。めちゃめちゃ気に入って何年かかぶっていた。本物の毛皮のマフとかも売っていて、とても手触りが良かった。
あとなんか、キャビアとか食べた気がする。三代珍味だつって親が食わしてくれたのだが、そもそも当時えらい偏食だった俺には何がそんなに評価されている旨さなのかよくわからなかった。あんまりしょっぱくもなくて、なんかこう、変な味だったような、「なんじゃこりゃ」ってなった記憶だけがある。ボルシチも食べたんだろうが、ちょっと変わったビーフシチューみたいな感じだったような。あんまり記憶にない。
記憶にあるのは子ども3人連れでヘトヘトで食堂の長椅子(俺の向かい)に腰掛け、子どもに何か食わせながら父を待っている厚着した母親。
あとはとにかく、きらきらしてきれいな建物と土産物屋とスタッフたちの姿ばかりだ。
寒くても暗くても何も気にならなかった。毛皮は暖かく、建物は照らされ、ステンドグラスは色とりどりで輝くようだった。
電気の明かりも当然あったが雰囲気出すためかガチのロウソクも随所にけっこうあって、その小さな火の灯りがものを照らすさまが美しかった。
Wikipediaの写真は閉園後の廃墟だし、検索キーワードのサジェストは心霊がどうのこうのとかだし、今のロシアとくりゃご覧の有り様だが、
俺にとっては寒くて薄暗い中できらきら輝いている、青いサンタとアライグマの尻尾の帽子の国だったんだ。
どうしてこんなことになっちまったんだろう。
先日ニッポン放送が「あの夜を覚えてる」というオンライン演劇を開催した。
ノーミーツというコロナ時代に誰にも会わずに演劇を作るという劇団※が制作したオンラインで楽しむ演劇だ。
※最近はコンセプトを変更して会うことに変わったらしい
これが実によくできてた。
「オンライン演劇ってこんなもんかな」とイメージする体験から大きく飛躍して、
よくぞまぁこれを生放送でやってのけたなというハラハラの連続で、
物語もさることながら、その制作背景も含めて楽しむことができる。
公式の情報だと2日間の公演で1万8000人が体験したと言ってるが、それも納得の内容である。
私は謎解き好きが高じて、オンラインエンタメに手を出し、そこからオンラインエンタメにハマるようになった。
最近のオンラインイベントは、恐らく皆が思うより演出や物語、技術が進化している。劇的に。
コロナ禍当初の「とりあえず、劇場でやってる演劇を1カメで配信してます」みたいな
雑なオンラインイベントからはとんでもなく進歩してると言っていい。
ただ、どうもオンラインエンタメという形式はメジャーになりきれてない。
「どうせオンラインのイベントなんて程度が低いでしょ」という空気感を強く感じるのだ。
実にもったいない。
そこで、今すぐ体験できる、面白いオンラインエンタメをいくつか紹介する。
https://no.meets.ltd/ann55th_anoyoru/index.html
オールナイトニッポンが55周年を迎えるにあたり開催されたイベントで
ラジオ局自体、ニッポン放送がそのまま舞台になって配信されている。
内容は、とある秘密を抱えたラジオパーソナリティーが主役の物語になっており、
私は全然ラジオリスナーではないのでそのあたりは拾えなかった。
たぶんラジオ好きの人だとより楽しめるんだろう)
信じられないぐらいカメラがスイッチし、カメラが動き回り演者が入り乱れる構成になっており
極論、テレビドラマであれば当たり前のシーンでも、生配信という状況を前提にすると
各シーン、各シーンが「すごいすごい!」の連続になる。
公演自体は終わってしまってるんだが、4/3までアーカイブで観れる。
アーカイブで観ても生配信のハラハラ感は十分に伝わると思うので
「これを生配信してたんだ」という目で観て欲しい。
https://realdgame.jp/steinsgateonline/
コロナ前から無茶な企画やとんでもない技術を使ってるノウハウが生きたのか
オンラインだからこそ楽しいと思えるイベントを量産している団体だ。
名作シュタインズ・ゲートを題材にし、
謎解き、オンライン、ループものという設定を非常に生かしている公演である。
2人専用の脱出ゲームという少し変わった形の公演ではあるが、
友人と一緒になってシュタインズ・ゲートの世界に浸りきれる。
若干不具合報告が多いとか、気になるところはあるにはあるが、
https://realdgame.jp/noroi_kagami/
自宅で体験できる謎解きお化け屋敷、という、かなりユニークな公演である。
謎解きイベントではあるが、それよりもホラー演出にかなりウェイトを置いており
正直めっちゃ怖い。これがオンラインで楽しめるとはすごい世界になったものだ。
とある恐ろしい家の中を、実際の演者がカメラを持ってリアルタイムでナビゲートしてくれる。
その演者にZOOMを通じてリモートで体験者が指示を出す、という流れ。
「あっちに行ってくれ」「コレを映してくれ」とこと細かく演者に指示だせるので
体験としてもかなり充実感がある。
今調べたら、これも終わる直前みたいなので、ぜひ終わる前に体験して欲しい。
ホラー系繋がりでもう一つ。
これは謎解きイベントではないが、視聴者みんなでウミガメのスープをしながら
ぶっちゃけ怖さという点では今ひとつだが、体験としてはなかなか新しい。
ウミガメのスープがオンラインと相性がよく、そのウミガメ問題自体がうまくストーリーとかみ合っている。
インターネット老人会としても楽しめた。
https://online-ticket.yoshimoto.co.jp/
よしもとが運営している芸人のライブをオンラインで観れるサービス。
新しいオンラインイベントの形という訳ではないのだが、例外的にオススメしたい。
しかし、わざわざ劇場まで行くのも面倒」と思ってる人は多いんではないだろうか。
劇場へ見に行かなくても気軽につまみ食いで観れるのはある種、革命だと思う。
サービスとしてストレスが少なく、金額も実際のリアル公演より安い場合が多い。
(劇場によってはカメラマンが下手な時があるが、ご愛嬌レベル)
調べてみると会期が終了してるのが多い。
割とアンテナ貼ってるつもりだったが、
調べてみて「こんなイベントあったのか」と逃してるイベントが多いコトがわかった。
大豆・塩・水のみを原材料にした赤味噌こそがほんものの味噌だ。
日本において味噌の起源は中国からの伝来であり、わざわざ「赤」味噌などと「赤」の文字をいれずとも味噌とは赤味噌のことだった。
しかしながら、時代が過ぎるとともに豆の使用量をケチって米や麦でかさ増しした味噌が登場することになった。
それが白味噌だ。
白味噌の登場により、従来の味噌は赤味噌もしくは豆味噌と不名誉な再命名(レトロニム)を受けることになった。
勘違いしないでほしいが、「美味い(うまい)」ではなく「旨い(うまい)」だ。
すなわち旨味の成分であるアミノ酸の多さによる比較で、赤味噌の方が秀でているということだ。
米や麦はたんぱく質含有量で大豆に劣るから、味噌を醸造する際のアミノ酸生成量も必然的に少なくなってしまう。
だから、大豆の使用量をケチった(あるいは全く使用していない)白味噌は赤味噌に比べて旨くないのだ。
赤味噌がすでに存在していたにもかかわらず旨味に劣る白味噌をわざわざ発明したのは、日本の歴史を鑑みるに致し方のないことだと考える。
明治時代以前の日本は常に飢饉と隣り合わせの生活を送ってきた。
凶作・不作は死活問題であり、政争や反乱の主要な原因は食糧難だったことは想像に難くない。
江戸時代(徳川幕府)は三百年近く続く長期政権となったが、それとて飢饉による一揆を武力で押さえ続けてきただけのことだ。
そうした時代においては、食糧生産は生産効率やカロリー効率の観点から米や麦の生産に注力していただろう。
それに比べて大豆は米や麦に比べて高価になるので、味噌づくりにおいて高価な大豆の使用を削減しようと白味噌を発明したことは、日本の歴史の必然であったといえよう。
高価な大豆の使用を削減して米や麦で味噌を醸造しようとしてきたことと醸造した白味噌を料理に適用させて新たな食文化を作り上げてきたことには、不断の努力があったことは想像に堪えない。
そうした先人の努力が現在の食文化を育んできたことを想像すれば、白味噌に携わってきた人に対して感謝の念は耐えない。
白味噌の存在そのものはもちろんとして、白味噌を発明した人も醸造してきた人にも罪はない。
製造コストにおいても赤味噌と白味噌とで大きく差が出る訳でもない。
江戸時代から続く老舗であり、かつては宮内省御用達(※)だったカクキューの八丁味噌でも、スーパーで他の味噌と同程度の価格で売られているのだ。[※ 宮内庁ではなく宮内省である。GHQ占領前は宮内省だった。]
八丁という名が示す通り、岡崎城から西に8丁(約870m)の距離にある愛知県岡崎市八帖町で製造された味噌のことであり、製造業者は「まるや八丁味噌」と「カクキュー」の2社である。
しかし、残念なことに八帖町以外の場所で作られた豆味噌でも八丁の商標を名乗る商品がいくつかあるのだ。
しかも、農林水産省の地理的表示(GI)保護制度によって、八帖町以外で作られた味噌でも八丁味噌を名乗れるように行政が推進しているという政治問題をも内包している。
こうした八丁味噌の不遇についても熱く語りたいが、本題ではないので赤味噌(豆味噌)一般に話を戻す。
今でこそ味噌は数ある調味料の一つだが、明治時代以前の食卓においては味噌汁として飲むだけでなく、小鉢に盛り付けておかずとしてそのまま食べることも多かったという。
おかずとして食べる味噌は、なめ味噌という形で今もその文化を残しており、有名なものに金山寺味噌がある。
しかし、食事全体のバランスや水分補給という面を考えると「一汁三菜」という言葉にある通りに(たとえ「一汁一菜」だとしても)「汁」は欠かせないものであり、それはやはり味噌汁だというのが日本の食文化において汎用的なありかたといえよう。
やっと味噌汁の話にたどり着けたが、タイトルで書いた通り味噌汁に使う味噌は赤味噌であるべきだ。
単に赤味噌の方が旨いというだけが理由ではなく、米飯との相性においても赤味噌の方が秀でている。
米と大豆のそれぞれが互いを生かし合って、口内で一つになるのが日本食の基本にして究極といえよう。
米は最上の主食であり貨幣でもあり神でもあり、さまざまに変化をする文化でもある。
かつて白米ばかりを食べていた江戸の町人は江戸わずらいに罹ったという。
江戸わずらいとはビタミンB1欠乏症のことであり、いわゆる脚気である。
カロリー摂取だけに主眼を置いた食糧需給向上において生まれた社会の歪みが健康を蝕むことになったのだ。
似たような例は海外にもあり、19世紀のアイルランドではジャガイモの不作が飢饉となるほどに食糧をジャガイモに依存していたので、国民病と呼べるほどに脚気が蔓延していたという。
では、ジャガイモを主食とする南アメリカ大陸でも脚気が蔓延していたのかというとそうでもなく、ジャガイモと一緒に豆料理も食べるのが伝統的な食文化なので、脚気になることはなかったという。
摂取カロリーのみを目的として食糧をジャガイモに依存した近世の北欧は、さながら白米の生産や流通を高度化して脚気患者を蔓延させた江戸時代の日本に近しいものがあったのだろう。
ちなみに、野菜や穀物を栽培することのできない地域に住むイヌイットは、発酵食品によりビタミンを摂取している。
イヌイットの伝統的な発酵食品にキビヤックがあることは有名だ。
アザラシの腹に海鳥を詰めて発酵させたキビヤックは悪臭の強い珍味として紹介されることも多いが、地元民にとっては貴重なビタミン摂取源だ。
南米やイヌイットの例から、伝統ある食文化には食糧生産やカロリー摂取の効率性だけではなく栄養にも一目を置いているといえよう。
もちろん、食糧生産の効率性向上によって生まれた白味噌なんかではなく、豆味噌たる赤味噌だ。
それにしても、白味噌や白味噌文化を否定するつもりはないが、白味噌の味噌汁は白米の飯に合わないだろう。
米を発酵させて作った白味噌で白米を食べるなんて、まるでライスとライスを組み合わせたライス定食ではないか。
そのような脚気的精神の産物である白味噌ではなく、やはり味噌汁には赤味噌を用いるべきだと断言できる。
米は甘く、大豆は旨い。
イエローストーンが噴火するのは60万年周期で、今は前の噴火から64万年ほど経っているらしい。つまりいつ噴火してもおかしくない。噴火したらアメリカはほぼ壊滅、世界的にも気温が10度は下がって、人類滅亡もありうるとのことだった。
もし、噴火したら…。まず食料の取り合いが起きそうだ。出遅れた私は非常時にはとても食べたくないような、辛いラーメンとか謎の珍味とかしか買えない。買ってあるお米もいつもたくさん買ってないからすぐなくなる。それでもなんとか手に入れたチョコレートか何かを大事に取っておくんだろう。
会社にはしばらく通い続けるんだろう。会社から非常事態のため事態収束まで営業を停止する、とかなんとかいうおふれが出るまでは通ってしまう気がする。それまではチラホラ来なくなる人がいるくらいでそれまで通りの日常を続けようとしてしまうんだろう。本当はそんなことしてる場合じゃないのに、大して重要でもないデスクワークとかしちゃう。最後に社長が「みんなで頑張って乗り越えましょう!」とか挨拶をする。
電気やガスは止まってしまって、寒いのに暖房もつけられない。寒いけど布団に入るしかない。配偶者と猫たちで寄り添うように布団にくるまって1日を過ごす。なるべくエネルギーを消費しないように動かない日が増える。食べ物はほとんど私たちには回ってこない。
水道も止まっていてトイレは流せないので、最初のうちは外に用を足しに行く。でももうそんな体力も無くなって、家のなかにするようになってしまうのかもしれない。悪臭が余計に気を滅入らせそうだ。
そういえば、家賃は払えるんだろうか。もしかしたら家にすら居れないのかもしれない。でも引っ越し業者なんて機能していないだろうし、夜逃げみたいになるのだろうか。
それで、だんだんこれはやばいぞとなってきて、ついに食べ物を全く食べられない日が来たりする。飼っている猫たちに分けてあげられるご飯もなくて、人も猫もだんだん痩せ細っていく。ある朝目が覚めるとガリガリになった猫が死んでしまっている。こうなる前は体もふくふくしていて元気に走り回っていたのに。うちに来た日のことを思い出して一層悲しくなるんだろう。ごめんねと謝りながら、極限状態だと何をするかわからないから下手したら猫の肉を食べてしまったりするのかもしれない。
配偶者とも、気持ちに余裕がなくなってケンカしたりしてしまうんだろう。でももうほんとに何もできなくなったら2人で寄り添って震えながら、ポツポツと昔の楽しかった時の思い出を話し合いたい。付き合い始めるまでのドキドキ、初めて行った旅行、二人で暮らし始めた時のこと、籍を入れた時のこと、転職した時のこと、猫を飼い始めた時のこと、好きだった飲食店のこと、いろんなところに出かけたこと。
どちらが先に死ぬのだろう。わがままを言えば先に死にたい。寂しい気持ちを味わいたくない。耐え難い空腹と寒さを感じながら配偶者の死体に寄り添って、何もする気が起きないまま自分も緩やかに死んでいく。それで、アメリカにいて即死した方がよかったかな、と思うのだろう。
そしてきっといま想像しているよりずっとつらいんだろうなと思うと本当に胸が苦しくなる。どうか私が生きてる間は噴火しませんように。
この増田を読んで、変わったのか装ってるだけなのか分からないけど、思ったことがあるので書いてみた。
https://anond.hatelabo.jp/20220112133845
元々友達といえるのは年に2~3回会う小中学校時代の同級生が3人だけ(うち1人が幼稚園から一緒の幼馴染)。
高校や大学の友人もいるけど年1ぐらいでしか会ってなくて、さらに自分以外のメンツは定期的に会っている様子を感じるから自分はあくまで珍味キャラなんだろうなあという感じ。
疎外感がないといったらウソになるが、まあ小中の友達もいるしいいかと思っていた。
就職して2年ぐらいたった時に、ふと自分が同期から孤立していることに気付いた。
もろにハブられてるわけじゃないが、同期や歳の近い同僚同士はプライベートな時間を共有しているそぶり(飲みとか旅行とか)があるのに、自分は大きい規模のイベント以外で一切声がかからなかった。特に同性だけの極小規模な飲みに一回も誘われたことがなくて少し気にしていた。
上司からも「円滑なコミュニケーションをしてほしい」とふとした時に言われたことがあり、自分っておかしいのかなと思った。
(一応言い訳させてもらうと、マジでやべーやつって訳ではなく普通にユーモアをまじえた会話ぐらいわしていたし、日常的な御礼や謝罪はしていたので嫌われてるってわけではなかった…と思いたい)
さらに、同じ時期に幼馴染と姉に「親しき中にも礼儀ありだ」と本格的にキレられたのが大きかった。
・「まあ」「いや」「要は」「だから」を文頭に使わない
話し始める時にこれらを文頭につけないようにする。
えらそうに聞こえるらしい。
・強すぎる言葉を使わない
「〇〇は不要じゃないですか?」「〇〇する必要ありますか?」みたいに言わない。
「〇〇なしでもいけそうです」「〇〇なしでやってみてもいいですか?」みたいにいう。
・シンプルすぎる返答はだめ1
「わかりません」「できません」だけ答えて終わりだとダメ。
「よく分からなかったのですが、〇〇についての話で合ってますか?」みたいな少しでもコミュニケーションが進む返しをする。
「わからない」とか自分の感想だけだと会話のキャッチボールになってない、壁当てだ。(って実際言われた)
・シンプルすぎる返答はだめ2
「はい」とかだけで終わらせない。
「はい、やっておきます」とか「はい、わかりました」とかをつける。
・謎にため息をつかない
「もしかして原因は自分!?」…と、周りの人が困惑するからだめ。
どうしてもため息したい時は口をとがらせて「ハァ…」じゃなくて「フ〜〜〜〜」って感じでやる。
以下は幼馴染と姉に怒られて変えたこと。
・いきなり用件に入らない
「冬休みっていつから?」とかいきなり用件だけLINEしちゃだめ。
「お疲れ様。ちょっと聞きたいんだけど、冬休みっていつからか知ってる?もし知ってたら教えてくれると助かる〜」みたいに送る。
要件だけ送ると「おめえには用事があるからLINEしただけだ!」って感じで尊重されてない感じがする。(らしい)
・相手まかせにしない
決める労力をいつも相手にまるなげしない。
提案や自分の都合とセットで送る。「明日は16時に用事が終わるので、17時に〇〇でどう?」とか。
相手が先に提案してくれた場合も「了解」とかじゃなくて「ありがとう!では明日!」みたいにする。
・テキトーな相槌はだめ
例えば居酒屋探してる時に「ここでどう?」とか言われて「うん」「はい」「いんじゃない」みたいな返答だめ。
「いいねいいね!」「いこういこう!」みたいな積極性?のある言葉とセットで使えと言われた。
提案や決定も労力だから、手札を出してくれた相手の気持ちを尊重した方がいいらしい。もちろんお礼も。
最初に前述のことを指摘された時は、正直「は?」と思った。
他人のこと悪く捉えすぎ、気使いすぎ、めんどくせえーなにを気にしてるんだくだらねえ…と思った。
が、幼馴染と姉に「周りのみんなはどうやってコミュニケーションとっているかちゃんとみてるか?理由もないのに、自分だけが個性的な(尖った)コミュニケーションになっていないか?特にこだわりがないのなら、まずはその尖ったところをどうにかしろ」と言われた。
自分の中で「周りを見てみろ」と言われたのが結構衝撃で、それがすごく自分を変えてくれたと思う。
実際に少し意識してみると、周りの人は自分よりもかなり丸い言葉?というのかな、遠回しな言い方をしていた。
例えば仕事でも「ちょっと今質問いいですか?前と同じような質問になってたらあれですがちょっと聞きたいんですけど〜」とか言ってからやっと本題に入ったりとか。
同僚に長文のチャットを送る際は文頭に「お手隙の時に確認お願いします!」みたいにつけたりとか。(急いで読まなくていいんだなとぱっと見で分かるから、確かに気にする人にとっては親切だなと思った)
もしかしたら周りの人は、自分の想像以上に相手を思いやっているのかもなと思った。
それで自分も周りの真似をしていたら、だんだんと打ち解けられるようになって(話しかけられることが増えた)以前より親しくなることができた。
しかしそんなこんなしているうちにコロナでリモートに入ってしまい、今は全然飲みにいったりしてないんだけどね。
ただ気付きがあったおかげでリモート下でのコミュニケーションも円滑にできるようになったし、実際上司からも、幼なじみや姉からも変わったねと褒められた。
同僚ともちょっとした個別チャットや電話での無駄話などできている。
あと気付いたのは、やはり周りから好かれている人はとにかくムードが明るい。
「今日のみに行こうか」と言われて、自分だったら「はい」とか「いいねー」しか返せないところを、好かれる人は「打ち上がりたいと思ってたんですよー!!」とか「めっちゃ話したいことあるんですよー!!』とか相手の好意を倍返しするような気持ちいい相槌?をしている。
パラパラチャーハンだと思って作って美味しい美味しいって自分で作って美味しく食べていた文字通り自作自演のチャーハンだったんだけど、
もしかしてだけど、
私はチャーハン炒め作りは極めたからもうお店で食べる必要は無いわ!って意気揚々にヨーヨー片手にもう片手にはビー玉のお京のごとくビー玉を指と指の間に4つ挟みつつヨーヨーの技で東京タワーや犬の散歩という技を連続で繰り出す勢いで自作自演のチャーハンを楽しんでいたの。
でもふとお店チャーハンを食して感じて食べてみる私のシックスセンスつまり第六感とでも言えるのかしら?
シックスセンスというか。
ガンダムのアニメで閃いたときになるピキキキリーンって音が鳴ったの。
つまりこのタイプのしっとりとして且つパラパラとして且つ玉子もふんわり炒り玉子具合のニュータイプでしっとりふんわりとした全体的に優しさに包まれた
松任谷由実さんの優しさに包まれてを優しさの半分でできているバファリンで包んでしまいそうなほど
薬局屋さんにいくと、
バファリンを買おうとしたら店員さんにジェネリックバファリンありますよ!ってお安くてお求めやすくて買いやすいという三拍子揃った牛丼界の早い安い美味いをペキカンにもちそなえた牛丼のような製薬界のジェネリックバファリンをオススメしてくれたの。
果たしてそのジェネリックバファリンの半分は優しさなのか?って一度検証して欲しいと思うのだけどどこかのテレビ番組でやってくれないかな?ってなかなかいいテーマだと思わない?
そういった感じで総じて一言で言っても過言ではないほど
お店で食べたチャーハンはしっとりとしてひっそりとたたずむお店にふさわしくふっくらとしたふくよかな、
そう豊かなるチャーハンだったの。
つまりド・ストレートな且つド・ベタな大草原の葡萄の味で例えるのよ。
2ページ目はね、
海の潮風の風を受けて育った葡萄の味で微かに塩味を感じるワインのようなチャーハンって
言われかねないほど、
チャーハンソムリエは「塩味」って書いて「えんみ」って言いがちなほど、
ちょっと塩加減にこだわっているのかもしれないわね。
トルコの塩かけシェフがブルジョアにぼったくった料金で料理を振る舞ったのとはワケが違うわ。
たぶん私の今まで作ってきて最強に美味しいと思って止まない箸が止まらないチャーハンを
これは世界で最古の砂漠「ナミブ砂漠」でそんな環境でもたくましく生きている爬虫類の味がするって言われたら泣いてしまうわ。
私のチャーハンがナミブ砂漠で暮らしているトカゲの味がするって!!!???
な、なんだってー!ってMMRのメンバーが全員口を揃えて言いそうだし
逆にトカゲ味のチャーハンって珍味珍しがられたら大ヒット間違いなし!ってやかましいわーい!
でもそうトカゲ味って言われたら悲しいわね。
そう今まで私が作ってきたナミブ砂漠のトカゲ味のチャーハンが最強に美味しいと思っていたのが、
実は極意・奥義!匠の技のパラパラチャーハン!って思っていたのが
パサパサチャーハンだったって。
チャーハン師匠の弟子の名前が匠って言うぐらいややこしいと思うんだけど
匠の技を見せてやれ!って言うんだけど、
名前の方の匠なのか本当に技が極まった技のことを匠と言ってるのかややこしいどっちかもはや分からない匠のその加減がいいのかもしれないわ。
でさー、
気付いていたのよ私。
私の作るチャーハンって実はなんかしっとりが足りないな!って事を
ふとケーブルテレビの本場中国の24時間ずっと中華鍋を降り続けていてチャーハンを作り続けているでお馴染みのチャイナチャーハンチャンネル24を見ていたら、
見たいたらよ!
仕上げに鍋肌に水だったっけ?お湯だったっけ?それを少量ぶっかけて湯気を発生させて、
チャーハンにしっとりとした潤いを与えていたモイスチャーなシーンを私は見逃さなかったわ!
そこで合点がいったわけなの。
ためしてガッテンならそこでガッテンガッテンって言うガッデムって言うのは蝶野選手の方なんだけど、
だから山瀬まみさんがガッテン卒業したのは残念だったわねって。
あーそう言うことかーって
言われたとおり地球で最古と言われる砂漠ナミブ砂漠のトカゲの味がするってことなのね。
私はチャーハンにモイスチャー成分を足すべく、
鍋肌に仕上げに潤いを足す加湿を怠ったばかりに
その地球で最古と言われる砂漠ナミブ砂漠のトカゲの味がするチャーハンの味だって言われるのよね。
私はそんなナミブ砂漠のトカゲの味がするチャーハンを中華鍋ごと窓から放り捨てて、
もっともっともっと256倍に強まったモイスチャーなチャーハンを目指すことにしたの。
でもさ、
本当にナミブ砂漠の麓の街の中華屋さんに実際にあるナミブ砂漠産のトカゲチャーハンがあったら、
それはそれでナミブ砂漠のトカゲの味がするチャーハンだってことなのよね?
そう言われると、
私はそのナミブ砂漠の麓の街にある中華屋さんの本館を越えた別館!といえるほど
ナミブ砂漠のトカゲの味のするチャーハンで作れていたってことに現地でも味が通用するかも知れないわ!
はい!おまち!ナミブ砂漠のトカゲ味のチャーハンいっちょうあがりだよ!
た、大将!親指チャーハンに入ってる!ってところまでやってこそがセットだからね!
でも逆に言うと
ナミブ砂漠のトカゲの味がするチャーハンって言って謳って売り出せば、
ナミブ砂漠の麓の街の出身の人にはグッと心に突き刺さるふるさとの味なのかも知れないわね。
それはそれで涙がちょちょぎれるハートウォーミングなホッツな話題だわ。
さすがにナミブ砂漠のトカゲ味が売りのチャーハンのお店を出そうとは思わないわよ。
お後がよろしいようだわ。
うふふ。
玉子御三家が勢ぞろいした贅沢でもあるけれどもう少しわんぱくさには欠けるリッチテイストのサンドイッチよ。
たまにはお店を変えてみるのも妙案ね。
妙餡寺の住職がおっしゃってたわ。
あんまり緑茶より麦茶の方がなんいかよくない成分が少ないとのことで、
本当はホッツ緑茶の方がいいんだけど
買ってこなくちゃ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
物が増えるか人が減るかすれば、物価が下がるまたは給料が上がるかのいずれかのことが必ず起こると思っていた。
ちょっと無理な舞台設定だが世界に11人しかいなかったとする。
1人の経営者が10人を工場に集めて労働させて自動車を作っている。
10人はその森から採取できる特殊な植物を定期的に摂取しないと死んでしまうのだが、森は10人を即死させる特殊なガスが充満している。
経営をしている1人だけはそのガスに適応しているため、彼ら労働者にとって有益な植物を採取して持って帰って来れる。
同一価値の労働をさせているため定期的に給与として与えている植物の量は皆同じである。
その植物には自分達の死を回避するために使い道が想定されていないため、誰も彼もが同じ消費量で植物を摂取する。
つまり労働者個人個人が所有する植物の量を現実における貯蓄と考えると皆が一定かつ同僚の貯蓄なのである。
さてその植物は珍味好きの経営者にとってはたまらなく美味である。
自分で採取しにいけばいいだけの話でもあるのだが、労働者側から自分が与えてやった植物を返してくれるのならその量に応じて何かくれてやってもいいと思っている。
しかし経営者は労働者が貯蓄してる植物全て合わせてやっと一台分と釣り合うと考えている。
ここで労働者の貯蓄を1人当たり100万円とみなせる。車はその10倍の1000万円である。
では天が先進的な技術をもたらし工場の生産効率が10倍になったとしよう。
経営者にとっての車の価値は10分の1に下がる。労働者たちの貯蓄で1人が1台ずつ車と交換できるようになる。
これは現実社会でいえば物価が下がるということである。直接的な理由である。
しかし間接的なケースも考えていいのであれば、「給与が10倍あがる」ということでも同じようになるはずだろう。
給与が10倍になれば、一人ひとりの貯蓄が10倍になる。これによっても1人1台の自動車の所有が実現するはずだろう。
「物価が上がらなかった場合」の「つじつまあわせ」としてこういうことも考えられるのだが、しかしこれは「つじつまあわせ」に過ぎないのだった。以上のことを書いていくにつれて考えが深まっていくなかで気づいたのだった。
なぜなら給与としての価値を持つ植物の採取効率が上がったわけではないからだ。
車の生産量があがったからといってそれに比例して植物を多く与えてやりたくても無理な話なのだ。
あとは世の中に食料になるものが突如米粒が一つしかなくなったらどうなるかみたいなことも考えた。
皆が一分一秒でも栄養不足による死を逃れるためにその米粒を奪い合うだろう。経済的価値も吊り上がっていくはずだ。
最終的には、オークションであれば世界で2番目に富豪である人が持つお金よりも1円とか1セントとかだけ高い価値になるのではないか。
まあその米粒を持つ人が一秒でも長く生きることよりも一秒でも楽しく生きることに価値を見出していたりして、最大限多くのお金を得たいと考えているならば、第一位の富豪が持つ全財産を搾り取ろうとするだろう。そして得たお金で自分の趣味に適う物品やサービスを受けたりするだろう。
まあ物理学では三体問題からは近似値しかしか解けないということが有名な話であるように、世界が11人だったらというごく小規模の仮想な経済ならともかく、現実の世界における経済は既に複雑系であり仮想の経済における仮定に対する結論はすでにあてはまるものではないのかもしれない。
世界全体で多かれ少なかれゆるやかにでも経済成長をし続けているということは物的に豊かになっているはずで、単純な分配問題として考えれば一人当たりが手に入れられる物の数は増えなきゃいけないはずなのに、それなのになぜ単位期間あたりに取得できる物の数は増えないのだろう、つまり物価が上がるか給与が上がるということが起こらないのだろうという疑問をきっかけに、長々と考えて以上のことを書く始末になってしまった。
人間が食べる料理は基本的に「旨味」か「甘味」がメインになっていないといけない。
残りの「酸味」「塩味」「苦味」はあくまでサブとして使うべきでありメインにはなれない。
後者が前者に勝っている食べ物もなくはないが、それらは珍味やゲテモノに近い。
よってここで「二主味」と「三副味」に切り分けるべきである。
そしてもうひとつ。
主味に加えなければいけない味がある。
「無味」だ。
むしろ、米・小麦・芋など多くの主食は、わずかに甘味・旨味が感じられるだけで、ほとんどが「無味」だ。
たとえばレモン汁をコップ一杯飲むのは厳しいが、わずかなレモン汁に水を大量に入れれば飲むことができるようになる。
「水を入れる」という調理過程においては、「旨味」も「甘味」も追加していないわけだから、「無味を追加している」と言うしかない。
というわけで、
「旨味」「甘味」「無味」の三主味と、
「酸味」「塩味」「苦味」の三副味とをあわせて、
「六基本味」とすることにしたい。
以上。