物が増えるか人が減るかすれば、物価が下がるまたは給料が上がるかのいずれかのことが必ず起こると思っていた。
ちょっと無理な舞台設定だが世界に11人しかいなかったとする。
1人の経営者が10人を工場に集めて労働させて自動車を作っている。
10人はその森から採取できる特殊な植物を定期的に摂取しないと死んでしまうのだが、森は10人を即死させる特殊なガスが充満している。
経営をしている1人だけはそのガスに適応しているため、彼ら労働者にとって有益な植物を採取して持って帰って来れる。
同一価値の労働をさせているため定期的に給与として与えている植物の量は皆同じである。
その植物には自分達の死を回避するために使い道が想定されていないため、誰も彼もが同じ消費量で植物を摂取する。
つまり労働者個人個人が所有する植物の量を現実における貯蓄と考えると皆が一定かつ同僚の貯蓄なのである。
さてその植物は珍味好きの経営者にとってはたまらなく美味である。
自分で採取しにいけばいいだけの話でもあるのだが、労働者側から自分が与えてやった植物を返してくれるのならその量に応じて何かくれてやってもいいと思っている。
しかし経営者は労働者が貯蓄してる植物全て合わせてやっと一台分と釣り合うと考えている。
ここで労働者の貯蓄を1人当たり100万円とみなせる。車はその10倍の1000万円である。
では天が先進的な技術をもたらし工場の生産効率が10倍になったとしよう。
経営者にとっての車の価値は10分の1に下がる。労働者たちの貯蓄で1人が1台ずつ車と交換できるようになる。
これは現実社会でいえば物価が下がるということである。直接的な理由である。
しかし間接的なケースも考えていいのであれば、「給与が10倍あがる」ということでも同じようになるはずだろう。
給与が10倍になれば、一人ひとりの貯蓄が10倍になる。これによっても1人1台の自動車の所有が実現するはずだろう。
「物価が上がらなかった場合」の「つじつまあわせ」としてこういうことも考えられるのだが、しかしこれは「つじつまあわせ」に過ぎないのだった。以上のことを書いていくにつれて考えが深まっていくなかで気づいたのだった。
なぜなら給与としての価値を持つ植物の採取効率が上がったわけではないからだ。
車の生産量があがったからといってそれに比例して植物を多く与えてやりたくても無理な話なのだ。
あとは世の中に食料になるものが突如米粒が一つしかなくなったらどうなるかみたいなことも考えた。
皆が一分一秒でも栄養不足による死を逃れるためにその米粒を奪い合うだろう。経済的価値も吊り上がっていくはずだ。
最終的には、オークションであれば世界で2番目に富豪である人が持つお金よりも1円とか1セントとかだけ高い価値になるのではないか。
まあその米粒を持つ人が一秒でも長く生きることよりも一秒でも楽しく生きることに価値を見出していたりして、最大限多くのお金を得たいと考えているならば、第一位の富豪が持つ全財産を搾り取ろうとするだろう。そして得たお金で自分の趣味に適う物品やサービスを受けたりするだろう。
まあ物理学では三体問題からは近似値しかしか解けないということが有名な話であるように、世界が11人だったらというごく小規模の仮想な経済ならともかく、現実の世界における経済は既に複雑系であり仮想の経済における仮定に対する結論はすでにあてはまるものではないのかもしれない。
世界全体で多かれ少なかれゆるやかにでも経済成長をし続けているということは物的に豊かになっているはずで、単純な分配問題として考えれば一人当たりが手に入れられる物の数は増えなきゃいけないはずなのに、それなのになぜ単位期間あたりに取得できる物の数は増えないのだろう、つまり物価が上がるか給与が上がるということが起こらないのだろうという疑問をきっかけに、長々と考えて以上のことを書く始末になってしまった。