2017-06-19

指導者なき表現はこんなもんなのか

しがない漫画描き。

 

自分も一人の表現者として「読者受けが全て」という覚悟はある。

から自分から見てどんなくだらない作品世間の評判を得ようとも、甘んじてその結果は認めるつもりだ。

 

はいえ、あちらこちから流れてくる話題ネット漫画のたぐいを見ていると、どうしても「なんでここまで読み難いものが…」と困惑せざるを得ないときがある。

 

・絵が添え物程度の扱いで、膨大な文字数ネームですべてを説明しているもの

・2コマで十分表現出来る話を無理矢理4コマに引き延ばし、余計な状況描写リアクション主題がぼやけているもの

今日見かけたあるものは「(子供能動的に本を)読む」「(子供に本を)読み聞かせる」というふたつの話をまったく説明なくひとつの「読む」という言葉表現していて、洒落演出のつもりなのかも知れないが、作品の根幹のテーマ理解させたいのか、とんち問答でもさせたいのか、怪しいくらいの難解さとなっていた。

 

どれもこれも、プロ指導者に持ち込めば、いの一番に直せと指摘されるような部分だ。

あるいは、対面で知人などに見せて感想を得たとしても、何人かは読みにくいという指摘を必ずするだろう。

ある意味漫画の「てにをは」だ。

 

しかインターネットの、特にSNSなどで「バズる漫画はどれも大抵こういう、ある種ざつな部分がある。

のみならず、本人が特に問題とは認識していないのだろう。何作も同じような事を繰り返し続ける。

 

理由は多分、SNS作品が「共有」されていく過程にある。

SNS作品を「共有」するのは、その作品で満足した読者であるから、「読みにくい」ところはどうかこうかすでにクリアしてしまっている。

読みにくさにスルーした人は感想なんか書かないし、友人知人がわざわざ「共有」してきた作品ネガティブ感想を敢えてつけるものも居はしまい。

これがブログ自作ホームページにでも上がっているものなら、いくらでもコメントフォーム突っ込みが入るだろう。

2chに関連スレでも立とうものなら、罵詈雑言に混じって必ず読み辛さの指摘は出る。

そしてやはり、昔ながらのやり方で、手渡しで誰かに感想を求めたとしても、SNSほど忖度は働かないだろう。

 

SNS以前の時代他人漫画を読んでもらって感想を貰うという事が、一定数の「わからない」という感想を貰うことと等しかった時代

誰もが「わかる」表現必死模索したし、表現指導をするとはすなわちこれを指摘する事だった。

今やそういう場は、表現者登竜門としてオーソドックスものではなくなってしまった。

 

「きちんとネガティブな指摘を貰う」ということは意外と難しいことなのだ。

他人からネガティブな指摘を貰う事なく、自主的に読みやす表現模索するのは、もっと難しいことなのだろう。

SNS時代には、それでも届く読者には届いてしまうから、それで良いという考えもあっても良いのかも知れない。

「届かない読者に届けてこそ表現では」という思いも自分にはある。

SNS時代表現は、時代を超えて後世に届くのだろうか?

表現とは何か、表現者は何を目指すべきなのか、根底価値観が揺らいでいるのを感じる。

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