はてなキーワード: 彷徨とは
何がどこにあるかわかんねーし
探してすげー歩いて疲れる
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イオンが嫌いなわけではありあせん
地図見てわかんなくてエスカレーター登ったり降りたりしてフロア二周してGoogleMapで「スポーツ用品店 イオン」で検索してわかんなくて1Fに降りてインフォメーションセンター探して彷徨い歩いてインフォメーションセンターの場所聞いて行ったけどインフォメーションセンターでスポーツ用品店はないけど3Fにあるかもと言われてスポーツ洋服売り場行って聞いて無くてダイソーかおもちゃ売り場ならあるかもと行われてダメ元でダイソー行ってダイソーの中も迷宮で仕方ないから聞いておもちゃ売り場に案内されてこれじゃないんだよなーって思ったけど相方に「もうそれでいいじゃん」ってLINEで言われて、あと汗ふきタオルもだと思って探して探してようやく見つけて
そのあと1Fで水とお茶買おうとしてジュースとお茶の売り場探して右往左往してお茶見つけたけどお茶しかなくて水どこだと思ったら水売り場別れててそこからセルフレジ行ってセルフレジのタッチパネルが反応しなくて、ピッて言ってくれなくて何でかと思ったら商品を台に乗せてなかったからでした
この間40分
震災の映像を描画する上でアレルギー表記の様に記載されるべきなのだろうか
私は全く被災しなかったし、ボランティアとかで救助に行った訳でもないので悲惨な状況はほとんど目撃していないし
何となくテレビで見た衝撃的な映像が頭に残っているだけで、今は3月11日になっても特に黙とうをすることもなく普通に生活しているけれど
今回の映画を見た際にはPTSDになった人に対して、多少の配慮はあってもいいんじゃないかと思った
既に震災から10年以上経過してるし、すずめと同じくらいの高校生だと当時のことを覚えていない人もいると思けどそれでも映画を見て
ふとした瞬間に思い返すかもしれないし、中には周りで人が亡くなったことを時を覚えている人にはつらい過去を思い出させてしまうんじゃないかな
すずめが震災の被災者でそれを乗り越えるっていう設定は結構なネタバレになるし、事前に地震や地震アラート表現がありますと制作側が告知していながら
震災そのものの表現があると言うことには触れなかった点から、制作側はあえて今回の映画内で震災の表現があることを告知しないことを選択したんだと思うんだけど
すずめの日記の3月11日が黒塗りされてるシーンを見て震災をテーマ(?)にしたんじゃなくて、実際に描いたんだと分かると映画の冒頭で子供のすずめが彷徨っているシーンと
後半でお母さんを探す子供のすずめを見て受ける感覚が違ったし、日常生活の何気ない「行ってきます。」の一言があそこまで心を揺さぶられるとは思わなかった
被災していない自分でもそこそこ、来るものあったから実際に被災した人の中には結構、堪える人もいるんじゃないかと思う
被災者ではない第三者が勝手に被災の代弁をするのは余計なお世話だと思うけど、それでも震災表現があることを伝えた上で見るかどうかの判断を選択させてもいいんじゃないだろうか
隠し味に卵や牛乳を入れている事を本当に隠して食べさせないように、同じくらい配慮があってもいいんじゃないかな
ただ、そうなると震災表現を描く度に注意喚起が必要になるから、どこまで(いつまで)必要なのかが分からなくなってくる
とりあえず一度の視聴じゃ全てを見れていないので後日、改めて見直しに行く予定
ちなみに見ていて一番辛かったシーンはサービスエリアで鈴芽と環さんが言い争いをしている場面だった
この2点に集約されると思う。
私はいま、このときから、新しい自分に変わりたいと熱望しています。
「お前の文章には熱意が感じられない」
これが、私の文章を評するお決まりのフレーズです。決して私に熱意が無いわけではありません。私の内心は、いつも燃え盛るほどの情熱に溢れています。当然、これを文章として表出すべく、限りない努力を重ねてきました。
ただただ、これが他人には伝わらないのです。
文章の技法を求めて、これまで古今東西の文献を読み漁りました。一縷の望みを託してインターネットの大海を彷徨ったのも、一日や二日の話ではありません。しかし見つかったのは「思いをこめて書けばよい」などという単なるトートロジーであり、私が求める情報はついぞ得られませんでした。
ほんの些細なヒントをいただけるだけでも大変にありがたいです。どうか、この私に、熱意が感じられる文章の書き方を伝授いただけないでしょうか。
いつか無かったことにされる。
その前に、「硝子ドールだけは人類史に残すべき」と伝えるために俺はここにやってきた。
俺は音楽のことはあまりわからないのでメタルだとかディストーションだとかの話は誰かがやってくれると信じてひたすら歌詞の解説をする。
硝子ドールは、鏡に映した自分に問いかけるようにして紡がれる詩である。
その本質は「変革を望む気持ちと拒む気持ち、変革への確信と普遍への確信の矛盾、自己憐憫と自己批判、そんな自分を客観的に見ているつもりで、自分の思い込みに縛られる様子。モラトリアムの中で戸惑いながら、終わらない日常を願いながら、昨日までと違う明日も同時に願う少女の姿」である。
アイカツは対象年齢を幼児向けとしながらも、音楽やテーマは若干背伸びさせてジュブナイルに仕上げているが、その中で最も痛烈に「青臭さゆえの痛々しさ」を描き出しながらも、それを「永遠の時間を生きる設定の吸血鬼美少女」に重ねることで「耽美的」とも言える絶妙な痛快感に仕立て上げているのがこの硝子ドールである。
幼少期の知りうる世界の狭さをもってしか生み出すことの出来ない1人セカイ系とも言える感覚の原体験がここに詰まっている。
紛れもない名歌である。
鏡越しに見ている人とは誰か。自分で鏡の前に立ってみると分かる。自分である。ではなぜ眼差しが乱反射するのだろうか?それは自分が自分に対して焦点を合わせることを躊躇っているからである。人は元来、自分の姿に気恥ずかしさを感じるものだ。自分を鏡に写したとき、自分を直視するのは難しい。まして、自分に自信がなければ。
ビロードと聞いて最初に浮かぶのは「手触りのイメージ」。これによって聞くものは空に手を触れる感覚を持つ。手を触れられるほどに低い空は陰鬱なイメージを。それと同時に、もっと強く手を伸ばせば突き破れるほどの低さを感じさせる。心の中に浮かぶ自分だけの夜の世界。ガラスの天井は突き破ろうとすればいつでも破れる。その空の低さが「なぜここにいつまでも留まるのか?」を問いかける。もちろん、自分の心に広がるセカイの狭さも。
今日こそは変化が起きる。モラトリアムに揺れ動いた日々、いつもどこかでそう思っていた。それは夜になるほどに強くなり、「今、もしも布団に潜らなければ、今日こそはセカイは変わるのに」と強く思い込みながらも、社会に迎合することを選んで眠りについた日が誰にでもあるだろう。
誰かが連れ出してくれると信じている。自分が踏み出すのを助けてくれる誰かを待っている。自分だけでは不可能だと。ここは自分だけの世界。それならば本当に待っているのは、自分を助けることが出来る強さを持った自分自身。今ココにいる自分では駄目だと感じ。それでも、どこかに強い自分がいてきっと自分を助けられると信じたい。
鍵が壊れているからそっと押すだけで開くのか。壊れた鍵が噛み込んでもう開くことは出来ないのか。重ね合わった2つの可能性。果たして実際に試したのか。それとも、ただ心のなかで思うだけで扉に触れてもいないのか。
昨日と同じ明日が永遠と繰り返されているような感覚。無限大の過去を遡ってもずっとそうだったような気がする。無限大の未来を見ても、ずっと変わることはない気さえする。長いのではなく、永い。命が尽きるまで終わることがないのなら、我が身が吸血鬼ならばそれは永遠を意味している。
誰かに尋ねても貴方はもう自由だと返ってくる。それでも自分はここから動けない。自分を縛っているものが確かにある。他人にはそれがわからない。もしもこれが自分の心にしか無いのなら、自分はずっと夢の中にいるのと変わらない。夢の外にたどり着くことその日が来るまで、自分で生み出した鎖からは逃げられない。
硝子=鏡。硝子の瞳=硝子に映った自分の瞳。自分自身が自分に対していい加減に終わりにすることを望んでいる。夢から醒めることを待っている。終わりのないこの夢に退屈している。それでも辞めることが出来ない。鏡を覗けば自分でさえも呆れ果ているのは明白なのに。
そうしてもまたモラトリアムは繰り返される。
現実は容赦なくやってくる。心は夢に閉じ込められたままでも、体は現実を生きなければならない。自分の夢にだけ引きこもれる夜が終われば、夢と現実が重なりあった時間が始まる。
ゆっくりと時間をかけて現実へとチャンネルをあわせていく。夢の世界が閉じていく。今日もまた夢の中の自分は鳥籠から出れないままに、現実の自分を布団からゆっくりと起き上がらせていく。醒めない夢は、心の奥でまだ続いている。それでも現実に向けて歩みだしていかなければいけない。
誰かが扉を開けている。終わらないはずの夜が外の世界の向こうへと誰かがそっと抜け出ていく。扉を開けているのは自分自身。扉を締めてまた暗闇の世界に戻っているのもまた自分。自分の中でとっくに夢を抜け出ている自分がいる。夜の世界に居続けることを選んでいる自分はそれを見送っている。本当は今ここで鎖に繋がれている自分も抜け出せるのだろうか。
こうして私が夢の中に閉じこもり続けることを選び続けることを世界もまた望んでいる。同時に夢の外に出て生きることもまた望まれている。重なり合って矛盾にまみれている。だけどその矛盾の重なり合いに身を委ねるなら、どちらでもないままで居続けることが許されている。それに苦しみながらも、それに助けられながら、それを恨みながら、それを望んでいる。
終わることのない矛盾を終わらせることを投げ出してただこのまま全てを終わりにしたい。変わることを願いたいと思う自分に満足したまま、変わらないで居続けられるままで。永遠にただ今のままであれば、選択する必要もなく、選択しようとしたことだけを残し、何者でもありえるままにいられる。
それでも、いつか変わる日が来るのだろう。変わろうと思わずとも変わることになる。きっといつかその日が来る。でもそれは今日じゃない。明日かも知れないけど今日ではない。確信だけがそこにある。まだ何も始まらないままに、何かがいつか起きることだけを知っている。鏡の中の私は硝子の瞳でそれを待ちわびている。待ちわびたままでじっと動かない。硝子で作られた動くことのないお人形。硝子ドール。
一応中国も同じタイミングで介入した(4月から対ドルで12.5%ほどの急速な元安。日本円は年初から25%下落)らしいけど、やっぱ弾数少ないのと、FOMC(FRBの金融政策会合)があと2回あって、最終的な利上げ目標が低くて4.75、市場関係者の予想で5%で、現状の3.25からまだ上に1.5%から1.75%上がるって思われてるから、一時凌ぎ感あるよな。
実際、144までいって朝には147円に戻ったんで、そんな遠くないタイミングで150はまた行くと思う。
そうなると個人としての今の最適解は、「多少予想外にドル円が動いても痛まない程度には今のタイミングでドルを買う」ってことになる。
じゃあこれから先、ずっと円安ドル高が続くのか、円高はもう来ないのかとなると、為替トレーダーじゃないけど、「そうでもない」と思っている。
米FF金利は上限が見えてきたので、円安ドル高の根拠の一つの金利差、「円で金借りてドルで預ければお得じゃん」って状況は「ドンドン進む」から「ここらでひとまず止まる」ってことになる。
もう一つの根拠である「そうはいっても米国経済は強いから、米で投資するためにドル必要だよね、日本?どこそれ?」って状態も、来年のIMFの世界経済見通しでは「先進国やばい、世界やばい、アメリカもインフレの悪影響でやばい」という状況の中で、日本はそうでもない。
2022→2023年のGDP成長率予測で、アメリカ1.6→1.0、ユーロ3.1→0.5、イギリス3.6→0.3(おいおい)という中で、日本は1.7→1.6、相対的に「そこまで悪くない」という予測になってる。
アメリカが経済ヤバなってアメさんらが「株やばいな、国債いくか。まぁ〜、あんま良くないけど現金もちにしとく?」ってなっても「日本株は意外と悪くないんちゃう?」となって「日円買っとくか」ってシナリオはありそう。
ワンチャン円高くれば、ドルから円にかえて投資してる海外投資家は為替で水増しされるわけだし。
あとは要素としては移動平均との乖離率ってのがあって、30日とかの長期のアップダウントレンドの移動平均線と現状がどれだけ離れているか、長期的には平均に回帰するとされるそれが、150円だと乖離しすぎている、つまりドルは買われすぎている。
そうなると、どっかで円安ドル高の条件設定が崩れた時に円への巻き戻しにブーストがかかることになる。
そう考えると、今ドルを怖くない程度に買って、来年円高に動き始めたら戻す、戻らなくてもまあ資産防衛できてるし、手持ちドルで安値圏を彷徨うS&P500かVTIを買う、旅行行く時の資金にする、海外通販に使うとかしておくのがいいんじゃないかなと思う。
https://anond.hatelabo.jp/20221021144235
男の場合は発達障害…いや例え健常者の中肉中背でも少しでも「キモさ」があると異性には相手にされない。
一般人の男が砂漠のど真ん中で飲み物に飢えて枯れて死んでいっているのを横目に
自販機の前で好きな飲み物無いからって文句言ってるのが女である。例え発達障害でもそれは変わらない。
また別の発達障害女は
などと言っているが、砂漠のど真ん中で彷徨っている時に多少水が汚染されたとして飲まずに死ぬ選択肢など取れる人間がいるだろうか?
しかも「ボウフラの湧いた水溜まりとか食べ滓の浮いた飲みかけの水」と表現しているが、その汚れた水の中には常温のペットボトルが何本も浮かんでいるのが男の世界なのだ。
要するに女というだけで「いつでも渇きを満たせる」立場にもかかわらず選り好みしているのが現実である。例え発達障害でも。
そして選り好みされて避けられた男達は枯れて死んでいく。
歴史的に革命をもたらす者って本人は猛反発にあってボロボロに朽ち果てていくけど死後結果的に本人の目指した時代がやってきたりするじゃないですか。
それまでの価値観だと異常者でしかなかった「家庭的にも社会的にも何も成していない男」が自由恋愛と格差社会の時代には普通に現れることを身をもって証明してくれた人たち。
特に当時オタクの持ち物だったインターネットをガッツリ弱者男性マインドに寄せていったのは良くて、これで下の世代がかなり"教育"された。
おかげで今は「適当に生涯独身で生きます」と宣言しても表面上は「ま、いいんじゃない?」と返すのが正しい世の中になったし本心からそう思う人も多い。
氷河期弱者男性のおかげで今の俺たちがあるといっても過言…いや過言か。でもそこそこ貢献してくれたと思う。
ただ、そうやって彼らが(部分的に)作り上げた時代に…彼ら自身はいまいち適応できていないのが残念なところだ。
まず本人らの価値観が更新されていないからいまだに妻子持ちの年収800万~年齢的には1200万あたりに「普通」のラインを置いているフシがあり妙に要求が高い。
しかもパターナリズムが抜けていない場合が多くて影響を与えたはずの下の世代ともやたらと衝突を起こす。
なんといってもずっと針の筵だったから性根が腐りきってしまっているのが致命的で、もう属性がどうとかではなく普通に付き合いたくない人間になってしまった。
最初の話になぞらえると今は氷河期弱者男性にとって死後の世界、腐りながら彷徨う姿はゾンビのようなものだから、せめて速やかに成仏してほしいものだ。
端末の残債がどのくらいあるのかわからずに問い合わせをするも、どこに問い合わせしたらよいかわからない。
それでフラフラしていたら以下のページを見つけた。
https://www.softbank.jp/support/faq/view/57292
あれ、端末返却すれば残債払わなくていいの!?
もともと4年縛りで2年で機種変すれば2年分払わなくていい(≒半額になる)というやつだったけど、これは次の端末契約ありきだったはず。
ただトータルで考えたらLINEMOの方が安かったので乗り換えたんだけど、実はこんな抜け道があったなんて・・・
というか残債の状況とかもわからないようになってる(MySoftbankにはログインできなくなるし電話で問い合わせても『オキャクサマノバンゴウハゴアンナイ対象外デス』とか言われてマジクソって思ってたところだった。
まだ金払ってんのに客じゃねぇって何事だよ、と思って彷徨っていたらページ見つけたよ。
とりあえずソフバンには謝ってほしい。
あれっまだ10日しか経ってないの? って感じだ。旧愛車()のワゴンRには悪いけど。車体価格39万円の中古のMRワゴン……運転の要領が本当にワゴンRと変わらないので道路を走らせていてあまり違和感がない。もう百万年くらい同じ車に乗っているような気がする。たった10日で順応し過ぎてやばい。
ただ、シフトレバーの種類が違うのにはまだちょっと無意識が慣れていないらしい。ワゴンRはコラムシフトで、MRワゴンはインパネシフト。普通に前進しているぶんには問題ない。最初はインパネシフトってなんか使いづらい気がしたが、慣れたらむしろこっちの方が使いやすい気がしてしまい、今やコラムシフトをどうやって動かしていたのか記憶が定かではない。なのに、駐車する時とかに一旦停止してバックにギアを入れようとする時、ステアリングの横を左手がレバーを探してふよふよと彷徨いがち。あっあっ、レバーどこ行ったんだっけ? と。
車選びの時に、ディーラーさんから「どんな車種が好きとかありますか?」 とまず聞かれた時、「絶対に座席と座席の間にシフトレバーがついていないやつ! 出来ればワゴンRと同じ形のレバーがいいです!」 と言ったくらい、やたらシフトレバーの種類にこだわった私だった。単に十何年も同じ車に乗り続けたので、余計な部分で不慣れな事をしたくなかったのだ。コラムシフトが特に性に合っていたっていうわけではない。さっき、ちょっとググってみたらワゴンRのコラムシフトは使いにくいとの評判だった。どんな癖のあるレバーか詳細な愚痴をQ&Aサイトに書いている人がいたが、その愚痴には思い当たる節がもりもりあった。私ったら、全然拘るほどの事でもないものに拘ってたんだな……。ちなみに、フロアシフトが嫌いな理由はというと、低身長で手足が短いために、フロアシフトを握ろうとすると助手席側に体が傾くのが嫌なのである。(ワゴンRの前は義父のお下がりのカルディナに乗っていたのだが、フロアシフトが私には使いにくく運転しづらかったので、二度と乗りたくなーい。チビの癖に、必要なわけでもないのに縦に長い車に乗るのは分不相応な気もするし)
車の使用感とは関係ない部分だが、エアコンがちゃんと利いて、しかも温度設定が自動なのが超快適で素晴らしい。先週書いた記事で、ワゴンR時代に車が不調なので点検に出したら肝心な所が治らないで消耗品のパーツはちゃっかり交換されてきた、と書いたが、その不調な部分というのがエアコンだった。
数年くらい前から夏の猛暑日にはクーラーが効きづらいと感じることがしばしばあって、それは徐々に悪化していき、二年前にはついに暖房も利かなくなった。車検や車検後一年点検でエアコンも診て欲しいと言ってもスルーされた。子供の友達の親がやっている自動車工場に持ち込んでみた所、限りなくありえないことだがもしかすると冷却用のガスが抜けてしまっているのではないか? と言われた。で、ガスを入れてみた所タンクの中に入っていかないのでガス漏れでもないし、一体なんなんだ? と謎は深まり工賃だけがかかったのだが、なんてことはなかった。去年車検に出したらエアコンのフィルターが交換されたのだが、そしたらエアコン、めちゃめちゃよく利くようになった。なんなんだ一体。
今度のMRワゴンは納車前にエアコンフィルターも交換済みということで、二年前までの灼熱地獄は経験しなくて済みそう。
それと、これまた車の使用感とは関係ない部分だが、カーラジオがちゃんと生きていて、しかも音がいい。この地域で聴けるラジオ局、全部聴ける。ワゴンRのラジオは何故か全局が砂嵐にかき消されていた。でも、ずっと音のない運転環境に慣れていたせいで、音が無けりゃ自分で歌えば良いじゃないと頑張って眠気覚ましをしていたから、ラジオを点けっぱなしのまま、つい他の歌を歌っちゃう。
肝心な問題。修復歴ありの車は余程深刻な壊れ方を過去にしていると、先日の記事のブコメで散々書かれて、まあそうなんだろうけど……ひょっとして私、貧乏人は安い車を買った自業自得で事故って死ねばいいのにと一部のブクマカから呪われているのだろうか? とちょっと思った。
なんか、MRワゴンを見た時に謎の縁起の良さを感じたのは、やばい怨霊に腕を掴まれてしまっただけだったりしてね。ああ怖い。
それはさておき、数日運転していたら不具合を発見した。何気に車が真っ直ぐ走らないのだ。ふと、運転中に、このシートめっちゃ座り心地が良いのになぜだかちょっと背中が疲れるんだよなあと思って、他に誰も通らない道路で徐行しながら手元を見たら、無意識にステアリングを左に少し切ったまま運転していることに気づいた。じゃあステアリングをまっすぐにしたらどうなるの? と、道路に他に誰も通っていないのをよく確認してから試してみたら、車は道路の左端から右端まで斜めに進んだ。oh……これはこれは。駐車しようとバックする際にも、途中で停止して手元を見るとステアリングは少し左に切られていた。もしかして、修復の影響ってこの事? つかどんな壊し方したらこうなるんだろうな……。外側から見たところはどこにも直したような痕はないように思う。歪みはないし塗装に違和感もない。ただ、トランクを開けてみれば、色の違う塗料で塗り直した痕が見えるのだが。こんど、注文したドラレコが納品される日に、ディーラーさんに聞いてみようかなあ。
夫も納車以来、MRワゴンを何度も運転しているのに、まっすぐ走らないことには全然気が付かなかったそうだ。「車にはそれぞれ癖があるからそのせいじゃね?」なんていうけど、轍のしっかり刻まれた道路を走らせても左端から右端へと進路が反れていくなんて、癖の範疇ではないような……? しかし、夫も私も車がまっすぐ走らないなら走らないなりに、何も考えもせずにステアリングの角度を調整してまっすぐに走らせていたわけで。にんげん、何年も運転をしていると、変な所で小器用になるもんだなあ。しかし、仮に事故を起こさなかったとしても、知らず知らずのうちにステアリングと一緒に腕と肩を少し左に傾けるという、地味に悪い姿勢を続けていると、肩こりや頭痛を起こしそうでちょっとやだなと思った。ていうか、居眠りしたら対向車にぶつかるじゃん……。ほんと気をつけよう。運転中に居眠りをしたことなんて、一度もないけど、気をつけよう。
あと他に微妙なところと言えば、先週、寒かった日に後部座席のドアを開けたら、蝶番が「ンゴゴ……ガガガ、ガゴォ……」と不穏な音を立てた。
私はものを買ったら出来るだけ長く保たせたい性分で、次々と新しいものを買いたくなることってない。MRワゴンも、買ったからには長く乗りたいのは山々なのだが車に関してはそうも言っていられないので、今から次の買い換えを考えてお金を稼いで貯めていかないとなあと思う。故障と買い換えが子供達の進学に被らないといいな。
ところで、廃車になったワゴンRは今頃どうなってるんだろう。廃車されたはずがどっか遠くに売り飛ばされてポンコツのまま走っているのか、それともバラバラにされて金属部分だけプレスされてでっかい磁石にくっついて運ばれ中なのか、あるいは溶鉱炉で煮込まれているのかな。廃車された車のその後……なんかYou Tubeで検索すれば出てきそう(といいつつ、検索してない)。
すっかりお祭り気分に浸っちゃいました。
最近なんか夜食欲が有るのか無いのかよく分からない状況で食べるヨーグルトが美味しくて美味しくてたまらないんだけど、
あのさ小さい容器の4つぐらいセットになっているタイプのものでは無くて、
500ミリグラムとかの大容量的なああいうヨーグルトを最近夜盛んに食べているのよ。
だいたいスイカかヨーグルトかってのが最近のパターン化した私の夜の常食で、
試しに買ってみて食べたら、
それはそれで美味しいこちらの方もなかなかヨーグルト感あってって
もちろんそれはヨーグルトだからヨーグルト感あるってのは当たり前の話しなんだけど、
あれを代々育てていたんだけど、
それ以降作らなくなってしまって無限にヨーグルトが食べられて良いなと思ったんだけど、
もとのなんていうの?菌って言うのか
ブルガリアヨーグルトに欠かせない
ブルガリアヨーグルトがもれなくできる仕組みを私は手放してしまったのよね。
それ以来積極的にヨーグルトを食べる機会を失っていて三千里彷徨ったところで
1周してまたヨーグルトが食べたくなったってことなのかしらね?
最悪買ってきて代用できるけど、
こないだ麺か何かを茹でて食べようとしたときに、
もはや万事休す!って
茹で上がったときに気付いたのよね。
めんつゆを代用できるめんつゆ的なものの家庭でキッチンにあるかな?って思ったけど、
青しそドレッシングは試したけどなんか違うし、
私たちは調味料の中でも特に醤油を信じすぎているのと同じように
それはやはり麺つゆの代わりには使えなかったのよね。
素の麺をすするという涙ぐましい麺食だったんだけど、
今思ったらよ、
今思ったらパスタのレトルト青の洞窟的なものをかけて食べたらそれはそれで
青の洞窟として名高いなんか美味しいパスタ的に食べられるのかなって
今これ書いているこの今の瞬間に思ったわ。
そっか!
もう万事休すはゴメンよ。
今後そういう事があってもレトルトのパスタのソースで強くなれるので試してみれたらなって思うわ。
だけど、
もう当たらし麺つゆをチャージしてインして冷蔵庫にストックしていて冷えたら10秒チャージでお猪口にいれて麺を喰らう準備は出来ているから
そんな機会は当分先なのかも知れないわね。
納豆のさ
あの美味しいタレは最悪、
さすがのあの美味さ爆発の麺つゆの再現性は麺つゆをもってしても難しいわよね。
あれ白だしあるんだけど、
そう言うのを駆使しまくって
麺つゆに限りなく近い麦茶ではない本当の麺つゆに間違いないようなあの味って出せるのかしら?って思ったわ。
まあ麺つゆ切らさないことがそれが一番って
麺つゆ切らさないように今後気を付けるわ。
うふふ。
鮭好きなのよね。
今はなき内田裕也さんがケータリングのお弁当のリクエストで鮭な!ベイビーって言うぐらい好きだわ。
鮭もピンキリなので
美味しい鮭弁の鮭にあたったらその日1日ハッピーよね!
鮭おにぎりの鮭はほぐし鮭だけどね。
朝少しお寝坊した代償だわ。
夜は早く寝るに限る、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
有川ひろの作品に出てきたヤクザ者を見て心が締め付けられる気分になった。小学生の頃の僕の作文にそのヤクザ者から想起する一節があったのを思い出したからだ。
『レンズ越しの世界はいつも他人事だ。テレビに映る世界と目の前で起きてる出来事なんて変わらない』
僕はいわゆる眼鏡小僧で、生まれつきの遠視から度の強い眼鏡をかけ続けることをずっと強いられていた。あだ名がのび太だったことすらある。馬鹿だとかアホだとか見下されることが嫌いだった僕はそのあだ名がすごく嫌いだった。
思えば、その作文は厨二病の一種だったのだろう。自分が特別であるように言動するなんてありふれた話。王家の血を引いてるとか、邪眼を移植しているとか、そういうレベルの痛々しい妄想でしかない。
でも、他方では思うのだ。心を締め付けられたのはその感覚を今でも肌で感じているからなのだと。
僕は小さい頃から自分が好きではない何かを始めるが苦手だった。レゴブロックを片付けないで叱られる。漢字の宿題をやっていなくて怒られる。水泳の習い事をサボって泣き喚く。とんだクソガキだった。
今も部屋のどこかで何かが腐ったような匂いが漂っていて、部屋の中を小さい無数の羽虫たちが我が物顔で飛んでいる。
きっと部屋の汚さは君たち常人が考える三倍どころじゃない。手元にある便利な箱で別のタブでも開いて「孤独死 老人 部屋」とでも調べるとすごく近い光景が広がっているから興味があれば調べてみてほしい。
ともかく僕の部屋は常識を絶するほど汚い。そして、僕はそんな部屋にへばりつく虫であることを許容してしまっていた。
腐臭に既に鼻は慣れ、物が置かれ過ぎて食事を作るに適さないキッチンではもう半年は食べ物を触っていない。
だから部屋に一番多いのは食べ物に関わるゴミだ。弁当の食べた空き箱や出前の使い捨て容器、パンの袋、カップ麺の器やかやくの袋。あとは酒の空き缶空瓶。目についたものを並べただけでこんな感じ。
よくもまあ、こんなに汚せるものだと自分でも感心してしまうほどだ。
閑話休題。
話は逸れたけれどつまり何が言いたいかというと、そういう汚い自分でありながら、僕は日常生活が送れているように装っている。
駅弁大学に所属する僕は三度目の三年生をむかえた。成績極めて不出来。春先からこの夏の終わりまで学校に行けてすらいないというのに、東京に住む遠距離恋愛の彼女には学校にはきちんと通えているとなんでもない顔で言っていた。滑稽な話である。
僕は嘘つきだ。嘘をつくことで生活している。嘘をついてしかまともであるように見せることができない。
何もうまくいっていない。辛い、苦しい、何もかもやめてしまいたい。死にたい。もう構わないでほしい。まともになりたい。
そんなこと言えるわけがない。
言ってしまえば自分がおかしいことが露見するし、きっと一人であることすら許されなくなる。要するに病院送りか、実家への軟禁だ。
盆も過ぎた。また新しい学期が始まる。
親にはまだ「まだ僕が三年生をやっている」のだという真実は伝わっていない。先延ばしにする方法があったから先延ばしにしてしまった。
帰省した時は嘘をついて急場を凌いだ。
こんなに嘘をついても僕には罪悪感がなかった。嘘をつくことに欠片も良心は痛まない。かろうじて嘘が露見して起きるアレコレが怖いという気持ちが生まれるくらいだ。
彼女とのデートで久々に眼鏡を、ただの伊達メガネだったけれど、かけた時に思い出した。僕にはずっと現実感がなかった。眼鏡をかけたレンズ越しの世界とスクリーン越しの世界に区別をつけられなかった。だから、眼鏡をかけることを嫌って、高校2年の冬に僕は眼鏡をかけることをやめた。目が見えなくなることなんてどうでもよかったのだ。ただ、現実感がない自分が嫌だった。現実感がないから、自分のことを自分のことのように思えないからきっと嘘を簡単につけてしまえるのだろうと思ったのだ。そんなことを思い出した。
でも、現実を見た。
僕は変わらず嘘つきで、今も親を騙し金を毟って生きる寄生虫。いわゆる社会のゴミだ。
生きている価値なんて冷静に考えて本当にあるのだろうか? 誰かに好かれるだけの何かを持っているのだろうか? 甚だ疑問で一杯だ。
親から騙し取った金で少し前に有川ひろの『キャロリング』を電子書籍で買った。この本は有川ひろが書いた作品の中で僕の読んだことのない数少ない作品だった。今見たら読み進めた場所は85%のところまで、結末までは読まずに本を閉じたことが明白だ。
残りを流し読みで適当に読み進めていくとヤクザ者は仲間と共に警察に連れて行かれていた。
救いのない話だった。物語の中では自分が一番共感した人物が幸せになるとは限らない。
僕もきっとこのヤクザ者のようにいつかどこにも行けなくなる日が来るのだろうと思った。そして、そんな日が来たときにまた僕は嘘をついて取り返しのつかないことになるのだろうと思う。
つらつらとどうでもいいことばかりを書いてきたけれど、結論なんてものはない。適当なところで適当な気分で読むのをやめてほしい。
感想も書きたくなったら書く、書きたくなかったら別に何も言わなければいい。偉そうに自分が勝手に目を通したくせにクレームをつけるタイプの人がここには沢山いるらしいことは知っている。なんであんなに傲慢に暮らせるのか、なんで傲慢に気付かないのか。正直、彼らってなんであんなに薄っぺらに生きれるんだろうね。
この文章だって氷菓子を齧りながら適当な気持ちで書いた嘘っぱちだ。今だって目線は沢山の小説が雑然と置かれた本棚を見て目を彷徨わせている。
父親が娘をステーションワゴン(サイド木目=70~80年代のアメ車の代表)に乗せて走っていると、「その娘」が目前に現れスリップ事故。
娘を探して霧にけぶる古いリゾート地、サイレントヒルをウロウロするが異形の怪物が現れ、やがてサイレンが響くと世界が真っ暗で錆びと血だらけの世界に反転。懐中電灯の視界だけで探し回る。
やがてこの異常事態の原因がサイレントヒルの土着カルト宗教にある事、娘の失踪に関わっている事を知っていく。
車の前に現れた娘’はカルト司祭の娘で自分の娘を儀式の生贄として使用し神を産もうとしていた。この為娘’は虐待され生死の境を長く彷徨っていた。
娘’は死に、半分が転生したのが娘だった。要するに娘はサイレントヒルの半身に呼ばれて行方知れずになっていた。
娘と娘’が娘++に合一化したのでカルトの秘儀は遂げられて神が生まれたがどう見ても悪魔にしか見えない。
主人公がそれをブチ殺すと娘++が赤子を託した。ここは彼岸でこの赤子は此岸で生きられる転生体。これが3の主人公。
開発陣が当時非常に寂れて廃墟だらけだった熱海(今なら鬼怒川温泉が近い)に投宿した際に構想されたという逸話がある。熱海は静岡だからサイレントヒル。また、熱海は急斜面にあり、坂を上った先の箱根は濃霧で有名。
サイレンが鳴ると錆と血と臓器が散らばる世界になるっていうのは映画『ジェイコブスラダー』が元ネタ。
死んだはずの妻から手紙が届き昔二人で訪れたサイレントヒルに赴く。
異常世界の景色は登場人物の精神が投影されている。その為に艶めかしい脚だけの怪物などエロと悪趣味が合一された世界が展開される。途中に何度も底の見えない穴があり、そこに飛び込む。
その筋では人気のレッドピラミッドシングが登場するのもこれ。
強迫観念のメタファが多用され、例えばレイプされ続けていた父を殺した女性にはベッドと合一化した男が襲い掛かり、その周りには常に火が見えている。これは贖罪意識である事は容易に判るが、主人公にも火が見えている。これによりどうも彼女と同じ罪を背負っていると察せられる。
ホテルで主人公と妻の忘れ物とされるビデオテープを渡され、再生すると看護に疲れた自分が妻を殺した事を思い出す。
過去が判ってくると妻の手紙は白紙になってしまい異常世界で妻に再会すると殺害を咎められ、これを打倒し、贖罪意識の元になっている妻を再度殺す羽目になってしまう。
カルトの秘儀を行い妻を再生する為に男は霧の湖をボートを漕いでいく。
JKがイオンに居ると異世界に突入し白髪の三浦瑠璃のようなカルト狂信者に遭う。
家に帰ると父が殺されていた。この男の邪魔で神の降臨が妨げられた、再び神を降臨させ神の国を作りましょう、サイレントヒルで待つと。
JKは自分の輪廻を絶ち、父の仇の狂信者をぶっ殺す為にサイレントヒルに向かった。
落ちていた週刊誌から、JK転生前の娘’が居たのはカルト二世を収容する児童養護院で、教義に基づいた虐待と洗脳が行われていた事を知る。
錆と血とグロと暗闇の異常世界で色々あってカルトの教会に着くとさっきの女に会うが、身ごもっていた神が産まれそうになる。
神が生まれたが、どう見ても神じゃない。これが神なら文鮮明もメシアだ。神をぶっ殺してJKは輪廻の運命を自分の意志で断ち切った。
たかがホラーゲームと侮れないのは、メタファが多用されているところ。
例えば同じところに戻ってきたり、怪物が丸いハンドルを回していたりする。これは主人公の輪廻を表している。
日本のTVしか見ない人には判り難いが、洋画を見る人には結構刺さるものがあると思う。
グラフィックは大変悪趣味なグロで、懐中電灯で廃墟探検をしていて何年もタイルに流れた血を洗わず腐っていて瓶漬け臓器が転がっているような地下の霊安室、解剖室を歩いているのを想像すると良い。錆と汚れと血が乾いた梯子を素手で上るとか。怖いというより精神的に参ってしまう。
ストーリー的には自分の意志で決着をつけるという物語なので怖さはない。
件の事件との関係では、親族の仇に復讐する、殺人で己の運命を断ち切るというのはありきたりな話だから特別な関係はないんじゃないか?
ただ、美術史には図像学(イコノグラフィー)というのがあり、キリスト教美術のこの部分はこのモチーフを表すという暗号解読みたいな絵の見方があるのだが、そういうのに素養があると「あれはこういう意味じゃないか?」というのが気になる作りになっている。
ただ宗教教義の中でそういう勉強はないと思うので、特にインチキカルトである統一教会にもないと思われる。
ただ、2→3と連続でやると、強迫観念のメタファが多い2を引きずったままでメタファ多用の3をやる事になり、強迫観念増幅効果があるかもしれない。
また運命を断ち切る当為の最中にカルト二世児童養護院での洗脳虐待が出てくるって事情はある。
2では底が見えない穴に落ちるという行為が連続していて、これは哲学的投企を表している事明白だ。死を暗示する行為が今の自分からあらまほし自分への前進という訳で、ちょっとファシズムやテロルっぽいところもある。
ただこの程度で事件を決意するなら増田もスコセッシのタクシードライバー見て殺人事件起こしてるはずなので、結構心を動かされた程度の可能性だと思われる。