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2021-03-24

anond:20210324172212

信者神輿を担がせて、わっしょいわっしょい日本を一周しよう。

 

これがジャパン伝統じゃい

あのへんのフェミニズム界隈をリベラル扱いしている人も多いようだが、あれは全然リベラルじゃないだろう

既存の統制の仕組みを保存しようとする「保守」と、それに代わる新たな統制の仕組みを作ろうとする「あのへんの人たち」、

そして、統制の仕組みをなくそうとする「リベラル」(リバタリアンも含めていいかも)の三者がいると捉えるのが良いんじゃないか

保守から見たら、「あのへんの人たち」も「リベラル」も、伝統やら秩序やらを破壊する敵として一緒くたに扱うし

「あのへんの人たち」にとっては、「保守」も「リベラル」も、より善き社会形成に協力しない不正義な存在だろうし

リベラル」にとっては、「保守」も「あのへんの人たち」も、個人自由を抑圧する邪魔者しかない

からみんな1対1で論争してるつもりになって、敵に対して間違ったレッテル貼りをしてる部分があるのではないか

「あのへんの人たち」、進歩的一元主義者とでも呼べるものに含まれそうだけど、

フェミニズムに関する部分については一元主義的だとしても、それ以外はそうでもないかもしれないから、乱暴な括りかもしれない

2021-03-23

最近見かけるようになった増田あらため「ジャップ」くん

この数日、変に癖の強い文体を残す増田を見かけた。個人的ジャップくんと呼んでいる。

主題

2021.3.18

騒がれているので

詳細見てみたら

謎掛けで、アイヌと「あ、犬」

掛けて炎上しているのかよ

個人的には別に問題無いと思う

ただの言葉遊び

過剰に反応してる方が

失礼というか

根底本土人

アイヌへの差別意識

あるように感じるのだが、

そこら辺どうなの?


俺がアイヌ関係無いし番組にも

関係ない第三者から

同じアイヌ番組関係ない

第三者がこの問題に対して

過剰反応している現状が

逆に失礼だと

主張してるんだよ

それ以外のアイヌ無関係人間

犬という言葉が使われていると

叩くのは過剰反応で逆に失礼だ

って話な?


暴論が繰り広げられる

差別があったか分からん

別にアイヌじゃなくても

ジャップランドは閉鎖的だから

他所者には厳しいだろう

黒人差別と同列に捉えて

言葉狩りをするのは

不適切だろう

俺はアイヌ差別は疑わしいと

思っているぞ

(ジャップ社会がそのもの

差別的な構造と言われたら

差別” はあったと言わざるを得ないが)


知識の丸投げ

自分ではなんの根拠も出さずにとりあえず相手知識を求めつづける

差別問題知識とは何だ?

完璧とは思っていないが

不足があるとも思っていない

お前が思う不足を書いてくれよ

精査してやるから (笑)

ここで、逃げる奴が9割だが

お前はどうかな?

差別知識の不足を指摘したのは

お前では無いか?それに対して俺は

不足は無いと反論した訳だ

なら、詳細の不足している事項を

証拠として挙げるのがお前の

責務では無いか

それが出来ないならお前は

俺の不足を立証出来ないぞ?

お前は、不足の立証が出来ずに

敗走したのだぞ?それは事実だろ?

反論があるなら聞くが (笑)



ついに差別村八分独自解釈で語り始める

個人的には、歴史上で、

アイヌへの差別は無かったと

俺は考えている

差別と今の時代

言われているもの

伝統的なジャップ文化

所謂村社会というやつだ

この主張を否定したいのなら

同じく当事者でないお前も、

同じように歴史的な史実を基に

反論する必要がある

イエローモンキー

ジャップ如きで喚くなよ (笑)

村八分は、協調性が無い構成員

同調圧力集団から排除することな

これは差別では無いだろう

お前の定義だと、

試験足切り面接

差別になるぞ?

"個人的に思っていること”に対して歴史的な史実を基に反論せよ、というかなりな厨二発言かましている。おそらくこのあたりがターニングポイント。以降は各方面から差別村八分の違いやら、アイヌ村八分差別ではなかった事実を述べよと追求されるも、増田は全てスルーしている。

議論

議論で勝つことを重んじるよりも、ひたすら指摘と問題提起を繰り返すだけで、それだけで差別発言を控える社会は来るのにな

面倒な奴に延々と粘着されたくないか

アイヌ以外の反差別運動論破なんてしてないし、為政者ネトウヨ議論したがるのは無駄討論会時間や気力を浪費させるため

恐ろしいのはこれが5日くらい前から続いているということ。長いのでツリーも偉く深くなっていた。だから探すのにメチャクチャ苦労する。自分の中ではこの増田を「ジャップくん」と呼んでいる。

anond:20210323022024

急に何言ってるのかよくわからないのでとりあえず答えとくね。

黒人奴隷アイヌは違う。でもその違いは迫害歴史地域人口文化の違いであって、差別村八分の違いとは言えない。というか差別とは大まかに言って村八分も含まれるよね。差別の中に黒人奴隷への迫害差別という歴史的事実があり、より小規模な集団の中では村八分という形で発言している。どちらも差別であることにはあまり変わりない。

アイヌ差別ジャップ伝統村八分


ふむふむ、どういう経緯でそう考えているのかさっぱりだけど、アイヌ日本で言うところの村八分だと。民族と同士でそれが起こりうるのかは全く理解できないが、そういう考えもなくはないな。

黒人差別っていうのは、奴隷船で他国から運んできた

他人種労働者を肌の色で迫害することだ


こことつながる理由がわからない。黒人差別があったことと、アイヌ差別はぜんぜん違うぞ。違うものだけどどちらも差別という言葉で表すことはできる。結局何が言いたいの?

anond:20210323021803

アイヌ差別

ジャップ伝統村八分だというのが

俺の主張な?

村八分っていうのは

肌の色や人種無関係

それは分かるか?

黒人差別っていうのは、

奴隷船で他国から運んできた

他人種労働者を肌の色で

迫害することだ

これは同じか?

2021-03-22

anond:20210322221321

  1. 村八分ジャップ伝統」という考えはどこから来たのですか?日本の伝統とあるならばそれは歴史になぞらえた文化だと推測されます。つまり歴史的な根拠存在するのですが、それを示していただけませんか?
  2. アイヌへの発言村八分であって、差別とは違うとのことですが、村八分差別の決定的な差異はどこにあるのでしょうか?具体的にお願いいたしま
  3. アイヌへの発言村八分であるならば許される、あるいは問題視されることがないという根拠はどこにありますか?


これらはあなた自身発言し、未だに一つも具体的な根拠のない状態放置している「数々の話の中の3つ」です。この3つ程度なら答えられますよね

anond:20210319143719

個人的には、歴史上で、アイヌへの差別は無かったと俺は考えている

差別と今の時代で言われているもの伝統的なジャップ文化

所謂村社会というやつだ

こんな短い文章ですら支離滅裂すぎない?

差別と~が何を言わんとしてるのか一切不明ジャップ文化とはなに?村社会がどうこの問題関係しているの?

この主張を否定したいのなら同じく当事者でないお前も、同じように歴史的な史実を基に反論する必要がある


そもそもあなたの主張はあなた個人的な考えであって史実には一つも基づかない。「同じように」とはいっても史実でもないあなた思想にどうやって反論するのか?あなたがすべきことは「あなたの主張を裏付け根拠」の提示であり、それを出さずにあなた個人意見に対して反駁せよとは馬鹿もほどほどに。

仮にあなたが「神は存在する」と主張した場合、それをあなた客観的証拠を元に示さなければならない。その証拠に対して別な視点証拠提示することは出来るが、あなたは「神がいないことを証明せよ」というだけなので反論する意義がない。そしてそれをあなたは「逃げた」という。逃げているのはあなた自身だ。証拠自分では何一つ提示できていないのだから

アイヌ末裔であるお前が、差別というなら、アイヌ無関係の俺は、お前の主張を否定できない

という話だぞ?


これは何が言いたいのですか。主張とは何を意味しているのですか?

差別差別、と言ったり、アイヌ差別はなかったと覆したり

正直あまりナンセンスというか支離滅裂のものです

2021-03-21

anond:20210321135946

公務員とか大企業とかの「古き良き伝統を重んじる(笑)組織」はそうだぞ。

運が良ければ出来るんならお前の運を見せてみんかいを地で行くアホが多いよ日本の爺は

2021-03-20

バスクチーズケーキ郷土料理じゃない

×まちがい:「スペインバスク地方伝統的に食べられているチーズケーキ

○せいかい「スペインバスク地方にあるひとつバルの人気メニューであるチーズケーキ再現

 

バスク州の旗を添えてバスクチーズケーキつってアレ出したりしてるの見ると若干モヤッとする

ひとつの店の名物メニュー伝統ある郷土料理みたいに扱うな!

4月開始「やくならマグカップも」の放送を今からでもやめてほしい(地元出身意見)

「やくならマグカップも」という女子高生たちが陶芸部で活動する日常系アニメ4月から開始する。

アニメ化が決まった時、原作知らなかったけど俺の出身地多治見舞台になるのか〜とワクワクしたしアドレナリンも上がった。

とりあえず、原作Webサイトに公開されているみたいだがら10話まで読んだ。

だが、2,3月ごろになって「後半は実写が15分」「市長痛車を作って日常的に運転している」ってニュースを見て...????ってなった。

そして、dアニメの先行上映会で1話を通してみたが、もうあらゆるものが込み上げて放送しないで欲しいって思った。

自分の率直な意見なのでこの作品が好きだ!って人や期待している人は見ないでください。批判する人もいるだろうけど承知の上で衝動になって書いています

なぜそんな風に思ったのか、以下の通り

多治見ゴリ押し

アニメ化が決まった時はたいして気にならなかったけど、2,3月になってニュースアニメ公式サイトをみたら

「<やくならマグカップも>“聖地多治見が「やくも」一色に 話題の“痛公用車” トラックも」

アニメ「やくならマグカップも」オリジナルデザイン公用車登場 多治見市」

「<やくならマグカップも>多治見市でコラボ続々 ロケ地マップ キャラが案内」

陶芸の町、多治見舞台に繰り広げられるほんわか青春ろくろアニメ

もうね、多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見

とそればかり連呼して「ここが聖地多治見だ!」「多治見に必ずこいよ!」的なアニオタから金儲けと目立ちたがりの典型的Youtuberな感じで見るたびに痛々しくなった。

勝手多治見市を聖地にして押し出しているけど、聖地って最初から全面的に街を押し出すのではなくてアニメの中で見ていて場所と魅力が伝わるから聖地になると思うんだよね。

ゾンビランドサガは舞台佐賀だと知らないで見たけど、作中に出てきたドライブイン鳥やガタリンピック回が面白く一度は行ってみたいと思った。

ゆるキャンキャンプ場やログハウスの魅力も伝わったし、実際にアニメで出た場所に行って見た人の動画も調べて見るほどだった。

だが、このアニメ放送開始前から聖地ゴリ押しコロナ禍だからか一攫千金狙おうという感じがしてアニメを見る前からゲンナリしちゃったんだよね。

日本アニメーション可哀想

アニメ化は地元暮らしていた?日本アニメーション社員さんが企画して始まったものらしい。

当然アニメ化のための原作多治見市とプラネットにあるから打ち合わせとかするんだろうけど、アニメ会社からしたら30分のアニメにしたかったんだろなあって思う。

このアニメは後半15分が声優さんたちの実写パートって本当に限られた声優ファンとかなら嬉しいかもしれないが、一番メリットあるのは多治見市側でしかないんだよなあ。

これも多治見市側の利権大人の都合としか思えないし、アニメ放送開始前からやらかしているなあっていうのと嫌な裏が見えてしまって...としか思えない。

一番可哀想なのは、見ている視聴者よりも日本アニメーションかもしれないわ

自分たちのやりたいようにやれず、アニメ会社にはお金が入らず、広告屋多治見市やプラネットお金を吸われちゃうのかあと考えるとマジで可哀想

陶芸多治見舞台だけど、多治見だけと思わないでほしい

大した理由じゃないけど、陶芸って多治見だけじゃないんだよね。

陶芸美濃焼が題材だけど、多治見じゃなくても土岐、瑞浪可児とそれが伝統の街は周りにもあるんだよ。

しかも、愛知県瀬戸市には瀬戸焼というの焼き物存在するし

美濃焼だったら生産量1位でTOTO工業もある土岐市舞台で相応しいかなあという気はするし、多治見美濃焼イメージにはしないでほしいとは思う。

地元の人はそこまでこのコンテンツ応援している人は少ないのでは?

2010年からこのコンテンツが始まって、2012年原作となる漫画が始まったようだ。

俺が多治見市を2018年に去ってから3年程度経つけど、この原作マジで知らない。

何十年も多治見で暮らす父親はよく地元スポーツ大会で優勝した時や街中で気になったものを見つけたら、家族LINEに報告することが多い。

俺のことはオタクとして見られているかアニメコンピュータ話題を尋ねられることが多いけど、「やくならマグカップも」について振られたことが本当にない。

父親だけじゃなく母親も兄も親戚のおじさんも地元同級生も知らないみたいだった。

そこまで地元向けに展開していて地元の人が知らないまたは興味が薄いって状態なのに、「地元の期待を寄せて...」みたいなニュースになるのが嫌で嫌で仕方ない

市長痛車運転しているってニュースの通り、なんか地元が可笑しな方向に進んでいるなあという感じがしてなんか盛り上げさせられているっていう...

アニメ1話をみて、あっこれは... うーん...

dアニメの先行上映会で見たが、情報通り前半はアニメで後半は実写だった。

前半のアニメパートギリギリ許容範囲程度で普通という印象だった。

陶芸ろくろ回すシーンはそれなりに手触り感の効果音作画は良いとは思うが、全体的にそこまでキャラの動きを描写せず背景だけを写してごまかす感じの印象があった。

原作と展開は厳守しているが、オリジナル演出や展開とかはなかなかよかったかなって思った。

でも予算足りてないのかな...と感じる部分はどうしてもあった。

で、問題なのはやっぱりというか実写パート

声優4人組が多治見観光したり陶芸するっていう内容。

突然実写パートが始まるからアニメの事前情報ない人なら「!?!?」って感じになるだろうし

実写パート成瀬家のモデルはこれ!みたいなこと言っていたけど、アニメだったらほんの一瞬だから「おおっ」「へぇー」みたいにはならなかった。

多治見観光じゃなく、声優4人の家族の話がなんやかんや始まって、この話いる?って思ってしまった。

このままアニメだけを続けたほうがよかったのでは!?という感想


笠◯々っていうアニメレビュー動画あげている人いるけど、

このアニメもぶったぎって酷評するとなると、個人的に嫌になってくる。

色々と汚い部分(手が陶芸で汚くなる方ではない)が見えて、それを補えるほどのアニメの内容が良いって訳でもない。

このアニメ税金をかけるくらいなら、市民コロナ禍に対する給付金補償金などそういうところを注力して欲しい...(今のゴリ押しGOTO五輪を進める政治家と似ている...)

2021-03-19

製造業システムでイキリすぎ

なんちゃらシステムがどうたらとか言ってもそのシステム通りにモノが出来上がるなんてまずないからな

かならずどこかで人力で調整しなきゃならない

この前話題になってたアメリカンシステムだって機械で作った部品互換性ガー」とか言ってるけど

機械から出たそのまんまじゃ他の部品と合わないから人力でヤスリ掛けして調整してたんだわ

イキらなきゃならん伝統でもあるのか製造業

anond:20210319093700

何でもかんでも突っかかってくるな

協調性がないと村八分

にされるぞ? (笑)

個人的には、歴史上で、

アイヌへの差別は無かったと

俺は考えている

差別と今の時代

言われているもの

伝統的なジャップ文化

所謂村社会というやつだ

この主張を否定したいのなら

同じく当事者でないお前も、

同じように歴史的な史実を基に

反論する必要がある

だが、謎かけの「あ、犬」

については、お前は当事者

個人的には、唯の下手な謎かけ

しか思わないが

アイヌ末裔であるお前が、

差別というなら、アイヌ無関係

俺は、お前の主張を否定できない

という話だぞ?

まー、お前の意見多数派なのかは

気になるがな (笑)

東区西区北区南区京都市にないのは?という人間性センター問題がどう考えてもおかし

という人間性センター問題、答えが間違っているんじゃないか。答えは東区のようだが、京都には西区もない。西京区はあるらしいが、京都の人たちはこれを西区とでも読んでいるのか?

https://www.city.kyoto.lg.jp/sogo/page/0000015607.html

京都の方々は行政上公式呼び名よりも自分たち伝統的な呼び方全国的な回答に位置づけはるんですか?

2021-03-17

anond:20210317181242

伝統的な道具がいくつか使用禁止になったりはしている

anond:20210315235816

次の時代に優秀とされるものは今の時代には役に立たない無能であり、今優秀な人間は次の時代にはただの無能になる。

から優秀な人間以外を排除すると時代が変わった時に無能だらけの社会になる。

日本とかモロにそれじゃん。

ITとかEVとか胡散臭がって伝統的な製造業にしがみついた結果競争力を完全に失った。

役に立たないものを残せない社会ではイノベーションが起きない。

2021-03-16

anond:20210316123501

それは私が「伝統保守おっさん仕草」への理解が足りませんでした、ごめんね。

宇部高等学校的シン・エヴァンゲリオン考察

いろいろな考察が出ていて、それぞれに説得力もあり、なるほどと得心したりしている。

私はエヴァTVシリーズから全部見てすげーすげーと楽しんできたが、考察にはあまり興味はなく、いろんな謎にも詳しくないが、庵野さんの同窓生ということで、主に宇部高校とシン・エヴァンゲリオンとの関連を考察したいと思う。(かれこれ40年以上前ことなので、記憶違いや勘違いはご容赦を)

エンディングに出てきた宇部新川駅や宇部興産の工場群を見て、あ、庵野さん、宇部を許したんだな、と唐突に浮かんだ。なぜそう思ったかは分からない。そもそも「許す」って。

宇部山口県瀬戸内にある工業都市。美しくもなんともない味気ない街で、明治以降炭鉱で栄えるまでは寂しい漁村だったとか、歴史文化も無縁のところだ。

宇部新川駅は宇部市の繁華街にある駅で、庵野さんの育った地区に近く、少し海側に行くと宇部興産の工場がある。

庵野さんは地元進学校宇部高校出身だ。あれだけアニメの才能(空間認識力)がある人だから、頭が良くて、中学ではろくに勉強しなくても宇部高に入れたろうと思う。高校生活は1年生から受験中心。2年生までに3年生の教科書を消化して、3年生の1年間は受験勉強のみという方針だった。勉強価値を見いだせないタイプは授業について行けない。当時の校長キャッチフレーズは「国立300、野球甲子園」。ちなみに、ノーベル賞本庶佑さんは宇部出身で、伝統的に京大を目指す生徒が多い。民主党の菅元総理ユニクロ柳井さんも宇部高。

そんな文化不毛受験偏重宇部高で庵野さんを魅了したのが、宇宙戦艦ヤマトアルプスの少女ハイジなど、ポップカルチャーとしての黎明期にあったアニメではないか。一番好きなのは特撮かもしれないが、当時はウルトラマンゴジラも低迷していた。

庵野さんは宇部高にあって勉学はともかく、生徒会長中村さんを主人公にしたナカムライダーや、文化祭用に短編アニメなどを作って校内有名人だった。

短編アニメは、宇宙戦艦ヤマトが爆発しながら太陽に突っ込んでいく、というような内容で、セル画のために美術部の予算をひとりで全部使ってしまったといううわさだった。アニメの出来は素晴らしく、「高校生がこんなプロのようなアニメを作れるんだ!」と驚嘆したし、校内では数少ないアニメファンたちの間で天才として知れ渡った。

だが、庵野さんの才能がその活躍の場を見出すのは大学に入って以降で、たぶん、庵野さんにとって宇部での暮らし高校生活は、灰色鬱屈とした、愛せない時間空間だったのではないか

漠然とした印象だが、庵野さんは宇部がきらいなんだと思っていた。それが、シン・エヴァンゲリオンでは、聖地にしてもいいよ、的な振る舞い。なんか、ずっと嫌っていた宇部時代自分を、ほかのもろもろのトラウマとともに昇華、あれで良かったんだよと受け入れたように思う。

ちなみに、聖地巡礼なら観光起点として山口宇部空港から入り、レンタカー宇部新川駅へGO、車で約10分。駅を見学したら190号線から宇部湾岸道路山陽小野田方面に向かえば、車窓から宇部興産の工場群が見学できる。あとは秋吉台とか角島大橋、萩、山口など、観光地へ赴くのが吉です。

2021-03-14

anond:20210314213610

伝統的な描画法の見方では難があるように見える作品でも、一回りしてアウトサイダーアートとして需要が出てくることもあるよね。

意外にその需要に合わせて投稿してるのかもしれない。

ところで、逆にアウトサイダーアーティスト男性は多く見かけるけど、女性作家はあまり見ない。

なんでだろう。

民族という概念は、まともな英訳すらできない以上は普遍的概念ではありえない。というか肌の色で差別することができなかった諸国において差別実施するために再発明されたものである以上はそもそも概念からして誤りを多分に含んでいる。

Ethnic group 程度の意味合いで使う分には良いように思えるが、扱いに非常に丁寧にならなければならないこの言葉適当に使う奴は敵だ。

そもそも帰属意識という主観性の強いもの客観的定義である糞みたいな概念自明存在すると考える方がどうかしている。具体的に言えばある人間は必ず特定民族にただ一つ属すると考える人間は学問と知性のどちらも決定的に足りない。そんなものを信じる人間学習能力に欠陥があるか、脳に物理的な欠陥があるか、成長段階の環境悲惨だったかのどれかとしか言いようがない。それはそれで可哀想だとは思うけれど、それでも害悪となる概念を振り回す権利はない。

民族伝統という言葉は指し示す概念存在しないので嫌い以前の問題だ。からし民族というものに根差すという幻想を共有している人間は須く無能だ。考え方が完全に逆である民族があって伝統があるのではない。伝統を守るものがその民族なのだ。肌の色や血筋関係がない。そんなものは何も規定はしない。そして一人の人間複数民族であるのだ。〇〇民族でありながら△△民族であり得るのだ。

君の身に付けているものけが君を定義する。先祖から伝統からと言って何も正当化され得ない。やりたいなら自身責任において全てをおっかぶり貫くべきだ。伝統から言い訳に過ぎない。例えそれがなにであれ、

私は

これを

やるべきだと考える

から

やる

以外に正当な理由はない。人のせいにしているんじゃねえ。君の行動は君の自由意志にの立脚する。そして君が何者であるかも君の自由意思によってのみ規定される。甘えるな

君が君自身増田民族を名乗ることまで私は止めはしない。ただそれは君の自由意思の結果であることを祈る。

2021-03-12

被差別部落とは何か

https://anond.hatelabo.jp/20210312203939

本文がどうしても途中で消えるため、追加部分として分けた。



部落問題は、根が深い。かといって、そこまで複雑なものではない。

時代政権が正しく対処していれば、部落解放同盟といった組織存在することはなかったし、また存在しているべきでもなかった。

被差別部落は、歴史が積み重なったエリア代表的ものとして京都。あるいは「府中」が付く地域など)に多く存在する。

平安時代以前に、そのエリア特定民族(土着系、中国系朝鮮系マレー系ほか)が住み着いて生活を営んでいたものの――何らかの原因によって、とある民族一派が生活圏を追われた結果として生まれたのが、伝統的な意味での部落だ。

すなわち、戦争政変自民族が敗北する、ある者が重大な罪を犯す、心身に何らかの異常があるなどにより、生活やす都市部を追われた者たちは、山地や川べりなどに住まわざるを得なくなり――そこから普通人間忌避する穢れを含む多くの仕事(食肉、葬送、処刑、皮革加工や汚物処理)を行うようになり、やがては専門的、特権的職業分化していった。

明治以前は、そうまで貧しくはなかったようだ。彼らが町人生活必須な物を売ったり、公共サービス提供していたこと、税金免除されていたのも大きい。

だが、維新によって明治政府が生まれ西欧に倣った近代的な理念法律社会に浸透すると、四民平等の名の元に、彼らにも課税がされるようになった。加えて、近代産業伝統的な部落民の仕事を奪うようになっていき、彼らは貧困にあえぐようになった。

当時の政府は何らかの手を打っておけばよかった。しかし、何も手を打たなかったので、部落に住む人々は貧しい時を生き残るために集団の結束を高めた。家族間や親族間での助け合いはもちろんのこと、その地域に住んでいる全員が全員を認識できるほどに。そして、彼らの結束は、やがて一般社会への怨嗟を募らせる方向へと動いていった。

昭和の中期になり、国民人権意識も向上していき、部落解放運動が盛んになるなかで――部落に生まれた人々の恨みが爆発した。彼らは、一般社会への恨みを持ち続けていた。復讐したいと考える者が多数いた。だから、あそこまで過激な、暴力を伴う運動に発展した。

令和の時代に、その人が部落出身かどうかを気にする人間は少ないだろう。部落に生まれようと、生まれまいと、その人の人生に何らの影響もないかである現代都市環境においては、その場所被差別部落だったかどうか、一見ではわからなくなっている。※道幅や道路改良の跡でわかることもある。山地や川べりにあるタイプ部落も、分かる人間であれば判別がつく。

部落というのは、文化的意味では、もうほとんど存在しないといっていい。しかし、人はタブーに惹かれる性質を持っている。「穢れ」という概念は、今の時代を生きる人間も持ち合わせている感覚である(人が触ったパンや米粒は食べたくないはずだ。安全性保障されていたとしても)。だからインターネットなどでは、若い人達部落について語り合うことができる。彼らは、昔の人々がどのような「穢れ」を持っていたのか気になるらしい。

被差別部落に生まれた一個人として、現代人の意識から、この「部落」という言葉がいつの日か消えることを祈っている。いずれは完全なる死語となり、教科書の中だけの言葉になることだろう。子どもの時分から解放運動に携わってきた者として、そんな未来を望んでいる。

あなた達の政治運動には迫力が足りない


https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=730608&comment_sub_id=0&category_id=256

小森龍邦氏死去、88歳 元衆院議員部落解放同盟広島県顧問

 解放運動の巨星がまたひとつ墜ちた。私もあと十年生きるか怪しい身である自分政治運動に対する考えを少しばかり綴ってみてもいいだろう。

 上のニュースの人は、かつて解放同盟事務方トップだった方だ。昭和7年に広島県東部被差別部落に生まれ中高生の時分から老年に至るまで部落解放運動に携わってこられた。

 私が活動していた地域とは遠く離れているが、それでも半年に一度は彼の実家の傍にある、ちんまりとした選挙事務所へ行き、地元産のワインを飲みながら語り合ったものだ。

 私などが知己と呼ぶのがおこがましいほど尊敬できる人格の持ち主だった。家族地域や仲間のためであれば、危険を顧みずに行動する力を持っている。それでいて、思慮深いうえに頭の回転が速く、無謀な策を講じたりはしない。講じるとしたら、背後に確かな計算を持っている。そういう方だった。

 それが、こんなに早くにお亡くなりになってしまった。悔しい限りだ。

 私の番はいつ来るのだろう。運が良ければ二十年は生きられるかもしれない。運が悪ければ数年後か。その前に、自分の想いを吐き出す機会が欲しい。



 さて、表題意味について。あなた達の政治運動には『迫力』が足りないとは、どういう意味か。

 言葉どおりの意味だ。特に伝統的な分野、例えば労働組合などが挙げられる。昔に比べて弱体化が著しい。

 企業ごとの組織率は低下し、労働者組合加入率も低下し、賃金は下げられ放題、追い出し部屋希望(半強制退職蔓延も放っておかざるを得ない。数十年後には、労働組合というもの事実上消滅していてもおかしくはない。

 また、高校大学など、学校内の自治を求める活動もそうだ。私は元高校教師だが、昔に比べれば、学生たちが自ら声を上げて学校ルールを変革するために動くことは減っている。感覚としてはそうであり、数字においてもそうなっている。悪い意味で、子ども大人のいいなりになっている。

 反対に、成功しつつある政治運動もある。

 近年話題になったものだと、#MeToo運動だ。女性がこれまでに男性から受けた、性を主とする嫌がらせ公共の場告発することをいうようだ。

 日本ではそこまで定着しなかったが、本場のアメリカでは著名な人物の一部が職や名誉を失っている。最悪の場合は、裁判により実刑判決を受けることになる。

 LGBT社会運動も、社会価値観を変革しつつある分野のひとつだ。

 大衆消費社会が訪れてそうまで時間も経たない頃から同性愛者としてのカミングアウト文学活動デモ行進芸能界での活躍自分たちを侮辱する者に対する訴訟提起(府中青年の家裁判)、ゲイであることを周囲に言いふらした者及びその所属校への糾弾一橋大学アウティング事件)など、仲間の権利を守るための諸活動を行ってきた。

 以前は、映像作品において、同性愛者が精神異常者として描かれるのは当たり前のことだった。子ども向けのアニメなどでもそういった描写があったが、昔に比べればなりを潜めているように思える。批判を恐れて、ゲイレズビアン人達を描けなくなっているだけかもしれないが。

 これらの成功している政治社会運動には、共通する点がある。

 相手の痛いところを突いていることだ。

 この方針なくして勝利はない。しかし、近年の伝統的な政治運動の類を見る限り、相手の痛いところを見抜くことができる知性、または攻撃する度胸を欠いているように思う。

 特に組合関係団体がそうである。昔の労働組合は、使用者と刺し違える覚悟があった。

 意図的給与の支払いを遅らされても、当局側が雇った暴力団に夜道で襲われても、工場社員寮ごとロックアウトされても、それでも不屈の覚悟で戦い抜いてきた。

 それが今では、使用者の言いなりとなり、組織から仲間を追い出すための行為に協力している。情けない限りだ。



 話が逸れた。

 相手の痛いところを突くことの具体例として、昭和40年頃の話をする。私の高校時代の級友の話である。K君とする。

 高校二年の時だった。夏の午後の授業中に、ある教師教室の窓の向こうにある山を指さして言った。「お前らみてみい、あの山にはよっつが住んどる」(※手の指が四本であるという意味

 その教師は、部落に住んでいる人間馬鹿にしたのだ。当時はまだ、被差別部落生活する人々と、それ以外との間に貧富の差があった。馬鹿にされやすかった。

 どれだけ悲惨生活だったか、今の生活と対比しながら述べると、家にトイレはなく(集落で共同のトイレだった)、上水道は通っておらず、生活汚水は外に垂れ流しであり、雨樋や排水溝がないので大雨が降ったら屋内は水びたしになっていた。

 家族食卓を囲んだ光景にいい思い出はない。口に出して述べたくないし、思い出したくもない。

 さて、その男言葉に頭にきたK君は、翌日に地域の仲間(私を含む)を連れて職員室に入っていった。K君が連れてきた解放委員会の男が怒鳴ったのを覚えている。「教頭、どういう教育をしとる!」という大声に、周囲に緊張が張り詰めた。校長までやってきた。

 その教師に向けて、「そんなことは言ったらいけんど」と説得しようとしたものの、それ以前の問題だった。その教師は、私達の質疑に対して、最後までしらを切り通したのだ。「そんなことはしていない」と言い張った。

 このままではK君の立場が危ういわけだが、私にはどうすればいいかからない。しかし、協力をしたかった。

また翌日、K君は教室の中で証言者を探すために、級友の前で声を上げた。「このままでは俺は嘘つきになってしまう。証言をしてくれ」と皆に伝えた。が、私ともう一人か二人以外に協力者は出なかった。

 次の日だった。今度は、級友一人一人と話をする作戦に切り替えた。校庭に級友を呼び出し、どうして協力してくれないのか、と訴えたのだ。それでも駄目だった。みな、「それは勘弁してくれ」と言うばかりだったという。

 さらに次の日、K君は50枚ほどのA6程度の大きさの小紙を持ってきた。それを級友の一人一人に渡して、「これに証言を書いてくれ。後で預かる」とお願いして回ったのだ。

 翌週、K君は再び、地域の仲間と、同じ地区解放委員会役員を連れて校長室に入っていった。私は外で待っていたが、勝利確信していた。K君は、20枚以上はあろうかという紙の束を持っていたかである

 その年度の末をもって、その教師は異動になった。県内の一番端にあるエリアに転勤していった。彼はまだ赴任して2年目だったこから、今回の作戦が功を奏したとみていいだろう。

 この、K君の動きを間近で見たことが、私が政治運動を志したきっかけだった。



 今度は、少し規模の大きい話をしよう。

 それから三十年以上が経って、平成の初期だったと記憶している。被差別部落生活文化的環境改善するという一連の政策国会での議決を受けてから、長い時が経っていた。

 K君の事件きっかけにして、私は解放委員会正式に加入し、高校社会科を教えながら政治運動に身を投じていた。40になる頃に教師を辞めて、今度は別の公職に就いた。

 ある年の冬だった。私が活動していた県の幹部職員が、「同和関係補助金はすべて凍結する」と、あろうことか県議会で答弁した。

 寝耳に水だった。まさか、そんなことはあるまいと考えたが、確かな事実だった。議会答弁はテレビ中継もされていた。

 当時、私が所属していた団体幹部が全員呼び出され、偉い方々から対策を指示された。それぞれの支部からも、来年度の予算について雨後の筍のように質問が寄せられていた。

 発砲ふさがりかと思われたが、ふと、K君のことを思い出した。彼はもう立派な社会人であり、解放委員会からも抜けていた。それでも藁にすがる思いで相談に行こうとしたものの、気が乗らない。

 彼に迷惑をかけるのでないかという想いもあったが、何よりも私個人の意地だった。同和教育人権思想を啓もうする活動を担う一員である以上は、自分達の力で解決せねばならないという気概があった。

 とはいえ、K君と話をしたかった。結局、正式相談ではなく、共に食事をしながら今回の件について話し合うという形式を取った。K君は、「ここで折れたら前例になろうが」という話からまり、諸々の助言をいただいた。今でも感謝している。

 後日、県の横暴に対する対抗策がまとまった。開始時期は、一週間後とした。

 数万人規模の組織で、ここまでの速度で動くのは無理がある。組織全体の足並みが揃わなくなる恐れがあったが、予算全凍結は目の前だった。

 まずは、各自治体の教育委員会オルグ実施した。

 あの時のK君のように、各市町の教育委員会庁舎に数人で飛び込んだなら、「どうしてこんな卑劣なことをするのか。子どもらが人権意識もつための活動ができなくなっていいのか」というメッセージを何時間にも渡って、毎日伝え続ける。

 庁舎の外には最大100人程度を待機させていた。みなそれぞれ、横断幕拡声器を使って、スローガンを堂々たる態度で表し、相手方にこちらが本気であることを知らせた。朝方から始まって、日中は休憩を挟みながら、日が沈む頃まで毎日続けた。

 場所関係なかった。公共機関であれば、どこででも実施した。教育委員会だろうと、市役所入り口だろうと、学校門前だろうと、警察署の前だろうと、県会議員の自宅の玄関だろうと、場所関係なかった。

 かつて、私たち基本的人権の享有を受けられなかった。その歴史を繰り返してはならない。私たちは本気だった。

 議会での答弁から半年後、私達の本気は伝わった。予算の凍結が撤回されたのだ。

 これまでと同じように、これまでと同じだけの金額子ども達への教育活動個別学習会や勉強会に使うことができるようになった。

 私たちは、相手の痛いところを突いた。突き上げを受けた教育委員会は、通常の業務を行うにあたって支障が出る。日中は、私たちが絶えず抗議をするので、それに対応せざるを得ないからだ。

 それが数日であれば持ちこたえるだろうが、何か月にも及ぶとさすがに根を上げる。

 「予算の凍結はやめてくれ。現場がもたない」と各市町とその教育委員会は、県の決定に抗議する流れができる。

 さらに長い期間に渡って続けば、県としても、予算の凍結の続行と、各市町の疲弊とを天秤にかけざるを得なくなる。

 私たち勝負に勝った。

 相手の痛いところを突けばいいというものではない。こちらも痛い目を見る覚悟必要だ。というのも、現実的には、まずはこちらが痛い目を見る可能性が高いからだ。

 上記場合、県による予算凍結の撤回を求めて戦うにあたり、相手方に攻勢をかける必要があったわけだが――初期の段階が一番苦労した。まず、動員をかけても会員は集まりにくかった(当事者意識の欠如)。これがただの動員ではなく、緊急事態を打破するための闘いであることをわかってもらうために熱弁を振るう必要があった。この説得のための活動、すなわち県内支部巡りに最も時間を要した。

 人が集まり相手方に攻勢をかけることができるようになったとして、最大のリスクがある。警察通報されることだ。特に要職にある者が動けなくなるのはまずい。敵にとっての追い風になる。

 今回は、そうした事態が起こることはなかった。絶対暴力行為脅迫行為をしてはならないと、組織内で固く申し合わせをしていたからだ。

 私が若い頃の解放運動だと、警察など介入する余地はなかった。デモ活動オルグ最中通報があって警察官が駆け付けたとしても、我々を見て尻込みをするのは当たり前で、あちらの方が逃げ出すこともあった。

それほどまでに、当時の私たちは気迫に満ちた政治社会運動をしていた。物事に対する「本気」というものが、警察すら怯えさせるほどに昇華されていた。

 時が経ち、平成時代になると、部落に住む人々も豊かになったこともあり、ハングリー精神が見えなくなっていた。集団の気迫はすっかりと消えてしまい、周りから見ると――デモ活動の全てが滑稽なものに映るようになっていた。満たされた人間政治運動はできない。それだけのことだった。

 ところで、予算凍結に対する対抗策の実施にあたり、最大の懸念事項があった。

 県と市町との連携だ。もし、予算凍結の議会答弁を打つよりも前に、県議会が各市町に根回しを行い、さらに我々を抑えるための手を考えていたとしたら、負けていた可能性が高い。

 逆に言えば、同和対策事業に関する予算の凍結という重大事項について、事前に各市町と連絡調整をしないというミスを県が犯したからこそ、我々は勝利することができたと言っていい。



 最後になる。

 相手の痛いところを突くこと、その直近の事例としてミャンマーデモを挙げたい。

 アウンサンスー・チーを頭に据える民主派が勝つにはどうすればいいだろうか?

 武力では国軍に勝てない。ならば、「国軍は間違っている」というメッセージを、自国内と国際社会に訴えかけるしかない。

 経済面ではゼネラル・ストライキを行い、社会面では民主的思想制度について啓もう活動を行い、政治面では大規模デモによって世界に窮状をアピールする。

 アメリカがすでにミャンマーへの経済制裁を行っているし、世界的な空気として、国軍より民主派を推す声が大きいのは間違いない。

 民主派のやり方というのは、それでいい。とことん大きなデモを打って、自分達の正義アピールする。

が、その代償として、民主派は多くの命を失っている。つい先ほど、未成年デモ参加者が銃で撃たれて亡くなったというニュースが飛び込んできた。先日のデモでは50人以上が亡くなったという。

 民主派グループの中でも、指導者に近ければ近い者ほど、身体危険が迫る。国軍にしてみれば、今が正念である世界各国から評価が低下することを気にかけず、民主派指導者層を徹底的に弾圧し、デモ活動を先導する者を少なくし、事態を膠着状態に陥らせ、軍事政権を持続させるとともに――軟禁しているアウンサン自然死を狙うメリットの方が大きい。

 もし日本が、ミャンマーのように危険状態だったとして、あなたが立ち上がって戦わねばならなくなった時、どういう心構えで、どういう行動を取るべきだろうか? 相手の痛いところを突くために、どこまでのリスクを背負えるだろうか?

 その問題に直面していたのが、私が生まれ時代よりもさらに昔、明治以降被差別部落に暮らす人々だった。あまりに苦しい生活環境であるがゆえ、生存権を得るために戦わねばならなかった。しかし、どうやって戦えばいいのか?

 多くの者が基本的人権を得るために戦い、痛い目に遭いながらも戦いを続け、そして今の、(経済的意味に限っては)被差別部落問題解決した現在に至る。

 あなた人生にとって、重大な戦いをせねばならない時がくるはずだ。その時に、どういった行動を取ればいいのか、当日記がその際の助けになれば幸いだ。

 40代以下の若い人に向けて、このトピックを書いたつもりだ。あちらへ、こちらへとぶれた文章になって申し訳ない。読み返してみると、まとまりのなさに驚いている。ご容赦いただきたい。

 あなた幸せのあらんことを。

2021-03-11

おせち料理ってたいした価値ないよね。

伝統なんて言ってるけどダジャレ食材しかないし、正月にはもっと美味しいものを食べたほうがいい。

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