はてなキーワード: 伝統とは
あのへんのフェミニズム界隈をリベラル扱いしている人も多いようだが、あれは全然リベラルじゃないだろう
既存の統制の仕組みを保存しようとする「保守」と、それに代わる新たな統制の仕組みを作ろうとする「あのへんの人たち」、
そして、統制の仕組みをなくそうとする「リベラル」(リバタリアンも含めていいかも)の三者がいると捉えるのが良いんじゃないかね
「保守」から見たら、「あのへんの人たち」も「リベラル」も、伝統やら秩序やらを破壊する敵として一緒くたに扱うし
「あのへんの人たち」にとっては、「保守」も「リベラル」も、より善き社会の形成に協力しない不正義な存在だろうし
「リベラル」にとっては、「保守」も「あのへんの人たち」も、個人の自由を抑圧する邪魔者でしかない
だからみんな1対1で論争してるつもりになって、敵に対して間違ったレッテル貼りをしてる部分があるのではないか
この数日、変に癖の強い文体を残す増田を見かけた。個人的にジャップくんと呼んでいる。
2021.3.18
騒がれているので
詳細見てみたら
謎掛けで、アイヌと「あ、犬」
掛けて炎上しているのかよ
ただの言葉遊びに
過剰に反応してる方が
失礼というか
あるように感じるのだが、
そこら辺どうなの?
過剰反応している現状が
逆に失礼だと
主張してるんだよ
犬という言葉が使われていると
叩くのは過剰反応で逆に失礼だ
って話な?
他所者には厳しいだろう
黒人差別と同列に捉えて
言葉狩りをするのは
不適切だろう
思っているぞ
”差別” はあったと言わざるを得ないが)
自分ではなんの根拠も出さずにとりあえず相手に知識を求めつづける
完璧とは思っていないが
不足があるとも思っていない
お前が思う不足を書いてくれよ
ここで、逃げる奴が9割だが
お前はどうかな?
お前では無いか?それに対して俺は
不足は無いと反論した訳だ
なら、詳細の不足している事項を
証拠として挙げるのがお前の
責務では無いか?
それが出来ないならお前は
俺の不足を立証出来ないぞ?
お前は、不足の立証が出来ずに
敗走したのだぞ?それは事実だろ?
俺は考えている
言われているものは
この主張を否定したいのなら
同じく当事者でないお前も、
これは差別では無いだろう
お前の定義だと、
差別になるぞ?
"個人的に思っていること”に対して歴史的な史実を基に反論せよ、というかなりな厨二発言をかましている。おそらくこのあたりがターニングポイント。以降は各方面から差別と村八分の違いやら、アイヌが村八分で差別ではなかった事実を述べよと追求されるも、増田は全てスルーしている。
議論で勝つことを重んじるよりも、ひたすら指摘と問題提起を繰り返すだけで、それだけで差別発言を控える社会は来るのにな
アイヌ以外の反差別運動は論破なんてしてないし、為政者やネトウヨが議論したがるのは無駄な討論会で時間や気力を浪費させるため
恐ろしいのはこれが5日くらい前から続いているということ。長いのでツリーも偉く深くなっていた。だから探すのにメチャクチャ苦労する。自分の中ではこの増田を「ジャップくん」と呼んでいる。
急に何言ってるのかよくわからないのでとりあえず答えとくね。
黒人奴隷とアイヌは違う。でもその違いは迫害の歴史や地域や人口や文化の違いであって、差別と村八分の違いとは言えない。というか差別とは大まかに言って村八分も含まれるよね。差別の中に黒人奴隷への迫害が差別という歴史的事実があり、より小規模な集団の中では村八分という形で発言している。どちらも差別であることにはあまり変わりない。
ふむふむ、どういう経緯でそう考えているのかさっぱりだけど、アイヌは日本で言うところの村八分だと。民族と同士でそれが起こりうるのかは全く理解できないが、そういう考えもなくはないな。
こことつながる理由がわからない。黒人差別があったことと、アイヌの差別はぜんぜん違うぞ。違うものだけどどちらも差別という言葉で表すことはできる。結局何が言いたいの?
これらはあなた自身が発言し、未だに一つも具体的な根拠のない状態で放置している「数々の話の中の3つ」です。この3つ程度なら答えられますよね
差別と~が何を言わんとしてるのか一切不明。ジャップ文化とはなに?村社会がどうこの問題に関係しているの?
そもそもあなたの主張はあなたの個人的な考えであって史実には一つも基づかない。「同じように」とはいっても史実でもないあなたの思想にどうやって反論するのか?あなたがすべきことは「あなたの主張を裏付ける根拠」の提示であり、それを出さずにあなた個人の意見に対して反駁せよとは馬鹿もほどほどに。
仮にあなたが「神は存在する」と主張した場合、それをあなたは客観的な証拠を元に示さなければならない。その証拠に対して別な視点や証拠を提示することは出来るが、あなたは「神がいないことを証明せよ」というだけなので反論する意義がない。そしてそれをあなたは「逃げた」という。逃げているのはあなた自身だ。証拠を自分では何一つ提示できていないのだから。
アイヌの末裔であるお前が、差別というなら、アイヌと無関係の俺は、お前の主張を否定できない
という話だぞ?
これは何が言いたいのですか。主張とは何を意味しているのですか?
×まちがい:「スペイン・バスク地方で伝統的に食べられているチーズケーキ」
○せいかい「スペイン・バスク地方にあるひとつのバルの人気メニューであるチーズケーキの再現」
「やくならマグカップも」という女子高生たちが陶芸部で活動する日常系アニメが4月から開始する。
アニメ化が決まった時、原作知らなかったけど俺の出身地の多治見が舞台になるのか〜とワクワクしたしアドレナリンも上がった。
とりあえず、原作はWebサイトに公開されているみたいだがら10話まで読んだ。
だが、2,3月ごろになって「後半は実写が15分」「市長が痛車を作って日常的に運転している」ってニュースを見て...????ってなった。
そして、dアニメの先行上映会で1話を通してみたが、もうあらゆるものが込み上げて放送しないで欲しいって思った。
※自分の率直な意見なのでこの作品が好きだ!って人や期待している人は見ないでください。批判する人もいるだろうけど承知の上で衝動になって書いています。
なぜそんな風に思ったのか、以下の通り
アニメ化が決まった時はたいして気にならなかったけど、2,3月になってニュースやアニメの公式サイトをみたら
「<やくならマグカップも>“聖地”多治見が「やくも」一色に 話題の“痛公用車” トラックも」
「アニメ「やくならマグカップも」オリジナルデザイン公用車登場 多治見市」
「<やくならマグカップも>多治見市でコラボ続々 ロケ地マップ キャラが案内」
「陶芸の町、多治見を舞台に繰り広げられるほんわか青春ろくろアニメ」
もうね、多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見
とそればかり連呼して「ここが聖地の多治見だ!」「多治見に必ずこいよ!」的なアニオタから金儲けと目立ちたがりの典型的Youtuberな感じで見るたびに痛々しくなった。
勝手に多治見市を聖地にして押し出しているけど、聖地って最初から全面的に街を押し出すのではなくてアニメの中で見ていて場所と魅力が伝わるから聖地になると思うんだよね。
ゾンビランドサガは舞台が佐賀だと知らないで見たけど、作中に出てきたドライブイン鳥やガタリンピック回が面白く一度は行ってみたいと思った。
ゆるキャンのキャンプ場やログハウスの魅力も伝わったし、実際にアニメで出た場所に行って見た人の動画も調べて見るほどだった。
だが、このアニメは放送開始前から聖地ゴリ押しでコロナ禍だからか一攫千金狙おうという感じがしてアニメを見る前からゲンナリしちゃったんだよね。
アニメ化は地元で暮らしていた?日本アニメーションの社員さんが企画して始まったものらしい。
当然アニメ化のための原作は多治見市とプラネットにあるから打ち合わせとかするんだろうけど、アニメ会社からしたら30分のアニメにしたかったんだろなあって思う。
このアニメは後半15分が声優さんたちの実写パートって本当に限られた声優ファンとかなら嬉しいかもしれないが、一番メリットあるのは多治見市側でしかないんだよなあ。
これも多治見市側の利権と大人の都合としか思えないし、アニメ放送開始前からやらかしているなあっていうのと嫌な裏が見えてしまって...としか思えない。
一番可哀想なのは、見ている視聴者よりも日本アニメーションかもしれないわ
自分たちのやりたいようにやれず、アニメ会社にはお金が入らず、広告屋や多治見市やプラネットにお金を吸われちゃうのかあと考えるとマジで可哀想
大した理由じゃないけど、陶芸って多治見だけじゃないんだよね。
陶芸の美濃焼が題材だけど、多治見じゃなくても土岐、瑞浪、可児とそれが伝統の街は周りにもあるんだよ。
美濃焼だったら生産量1位でTOTOの工業もある土岐市が舞台で相応しいかなあという気はするし、多治見=美濃焼のイメージにはしないでほしいとは思う。
■地元の人はそこまでこのコンテンツに応援している人は少ないのでは?
2010年からこのコンテンツが始まって、2012年に原作となる漫画が始まったようだ。
俺が多治見市を2018年に去ってから3年程度経つけど、この原作をマジで知らない。
何十年も多治見で暮らす父親はよく地元のスポーツ大会で優勝した時や街中で気になったものを見つけたら、家族のLINEに報告することが多い。
俺のことはオタクとして見られているからアニメやコンピュータの話題を尋ねられることが多いけど、「やくならマグカップも」について振られたことが本当にない。
父親だけじゃなく母親も兄も親戚のおじさんも地元の同級生も知らないみたいだった。
そこまで地元向けに展開していて地元の人が知らないまたは興味が薄いって状態なのに、「地元の期待を寄せて...」みたいなニュースになるのが嫌で嫌で仕方ない
市長が痛車を運転しているってニュースの通り、なんか地元が可笑しな方向に進んでいるなあという感じがしてなんか盛り上げさせられているっていう...
dアニメの先行上映会で見たが、情報通り前半はアニメで後半は実写だった。
前半のアニメパートはギリギリ許容範囲程度で普通という印象だった。
陶芸でろくろ回すシーンはそれなりに手触り感の効果音や作画は良いとは思うが、全体的にそこまでキャラの動きを描写せず背景だけを写してごまかす感じの印象があった。
原作と展開は厳守しているが、オリジナルの演出や展開とかはなかなかよかったかなって思った。
でも予算足りてないのかな...と感じる部分はどうしてもあった。
突然実写パートが始まるからアニメの事前情報ない人なら「!?!?」って感じになるだろうし
実写パートで成瀬家のモデルはこれ!みたいなこと言っていたけど、アニメだったらほんの一瞬だから「おおっ」「へぇー」みたいにはならなかった。
多治見観光じゃなく、声優4人の家族の話がなんやかんや始まって、この話いる?って思ってしまった。
このままアニメだけを続けたほうがよかったのでは!?という感想。
このアニメもぶったぎって酷評するとなると、個人的に嫌になってくる。
色々と汚い部分(手が陶芸で汚くなる方ではない)が見えて、それを補えるほどのアニメの内容が良いって訳でもない。
このアニメに税金をかけるくらいなら、市民のコロナ禍に対する給付金や補償金などそういうところを注力して欲しい...(今のゴリ押しGOTOや五輪を進める政治家と似ている...)
なんちゃらシステムがどうたらとか言ってもそのシステム通りにモノが出来上がるなんてまずないからな
かならずどこかで人力で調整しなきゃならない
この前話題になってたアメリカンシステムだって「機械で作った部品の互換性ガー」とか言ってるけど
何でもかんでも突っかかってくるな
にされるぞ? (笑)
俺は考えている
言われているものは
この主張を否定したいのなら
同じく当事者でないお前も、
だが、謎かけの「あ、犬」
については、お前は当事者だ
俺個人的には、唯の下手な謎かけ
としか思わないが
俺は、お前の主張を否定できない
という話だぞ?
気になるがな (笑)
いろいろな考察が出ていて、それぞれに説得力もあり、なるほどと得心したりしている。
私はエヴァをTVシリーズから全部見てすげーすげーと楽しんできたが、考察にはあまり興味はなく、いろんな謎にも詳しくないが、庵野さんの同窓生ということで、主に宇部高校とシン・エヴァンゲリオンとの関連を考察したいと思う。(かれこれ40年以上前のことなので、記憶違いや勘違いはご容赦を)
エンディングに出てきた宇部新川駅や宇部興産の工場群を見て、あ、庵野さん、宇部を許したんだな、と唐突に浮かんだ。なぜそう思ったかは分からない。そもそも「許す」って。
宇部は山口県の瀬戸内にある工業都市。美しくもなんともない味気ない街で、明治以降炭鉱で栄えるまでは寂しい漁村だったとか、歴史も文化も無縁のところだ。
宇部新川駅は宇部市の繁華街にある駅で、庵野さんの育った地区に近く、少し海側に行くと宇部興産の工場がある。
庵野さんは地元の進学校、宇部高校の出身だ。あれだけアニメの才能(空間認識力)がある人だから、頭が良くて、中学ではろくに勉強しなくても宇部高に入れたろうと思う。高校生活は1年生から受験中心。2年生までに3年生の教科書を消化して、3年生の1年間は受験勉強のみという方針だった。勉強に価値を見いだせないタイプは授業について行けない。当時の校長のキャッチフレーズは「国立300、野球は甲子園」。ちなみに、ノーベル賞の本庶佑さんは宇部高出身で、伝統的に京大を目指す生徒が多い。民主党の菅元総理やユニクロの柳井さんも宇部高。
そんな文化不毛、受験偏重の宇部高で庵野さんを魅了したのが、宇宙戦艦ヤマトやアルプスの少女ハイジなど、ポップカルチャーとしての黎明期にあったアニメではないか。一番好きなのは特撮かもしれないが、当時はウルトラマンもゴジラも低迷していた。
庵野さんは宇部高にあって勉学はともかく、生徒会長の中村さんを主人公にしたナカムライダーや、文化祭用に短編アニメなどを作って校内有名人だった。
短編アニメは、宇宙戦艦ヤマトが爆発しながら太陽に突っ込んでいく、というような内容で、セル画のために美術部の予算をひとりで全部使ってしまったといううわさだった。アニメの出来は素晴らしく、「高校生がこんなプロのようなアニメを作れるんだ!」と驚嘆したし、校内では数少ないアニメファンたちの間で天才として知れ渡った。
だが、庵野さんの才能がその活躍の場を見出すのは大学に入って以降で、たぶん、庵野さんにとって宇部での暮らしや高校生活は、灰色の鬱屈とした、愛せない時間と空間だったのではないか。
漠然とした印象だが、庵野さんは宇部がきらいなんだと思っていた。それが、シン・エヴァンゲリオンでは、聖地にしてもいいよ、的な振る舞い。なんか、ずっと嫌っていた宇部高時代の自分を、ほかのもろもろのトラウマとともに昇華、あれで良かったんだよと受け入れたように思う。
ちなみに、聖地巡礼なら観光起点として山口宇部空港から入り、レンタカーで宇部新川駅へGO、車で約10分。駅を見学したら190号線から宇部湾岸道路で山陽小野田方面に向かえば、車窓から宇部興産の工場群が見学できる。あとは秋吉台とか角島大橋、萩、山口など、観光地へ赴くのが吉です。
伝統的な描画法の見方では難があるように見える作品でも、一回りしてアウトサイダーアートとして需要が出てくることもあるよね。
ところで、逆にアウトサイダーアーティストで男性は多く見かけるけど、女性の作家はあまり見ない。
なんでだろう。
民族という概念は、まともな英訳すらできない以上は普遍的な概念ではありえない。というか肌の色で差別することができなかった諸国において差別を実施するために再発明されたものである以上はそもそも概念からして誤りを多分に含んでいる。
Ethnic group 程度の意味合いで使う分には良いように思えるが、扱いに非常に丁寧にならなければならないこの言葉を適当に使う奴は敵だ。
そもそも帰属意識という主観性の強いものが客観的定義である糞みたいな概念が自明に存在すると考える方がどうかしている。具体的に言えばある人間は必ず特定の民族にただ一つ属すると考える人間は学問と知性のどちらも決定的に足りない。そんなものを信じる人間は学習能力に欠陥があるか、脳に物理的な欠陥があるか、成長段階の環境が悲惨だったかのどれかとしか言いようがない。それはそれで可哀想だとは思うけれど、それでも害悪となる概念を振り回す権利はない。
民族伝統という言葉は指し示す概念は存在しないので嫌い以前の問題だ。からして民族というものに根差すという幻想を共有している人間は須く無能だ。考え方が完全に逆である。民族があって伝統があるのではない。伝統を守るものがその民族なのだ。肌の色や血筋は関係がない。そんなものは何も規定はしない。そして一人の人間は複数の民族であるのだ。〇〇民族でありながら△△民族であり得るのだ。
君の身に付けているものだけが君を定義する。先祖からの伝統だからと言って何も正当化され得ない。やりたいなら自身の責任において全てをおっかぶり貫くべきだ。伝統だからは言い訳に過ぎない。例えそれがなにであれ、
私は
これを
やるべきだと考える
だから
やる
以外に正当な理由はない。人のせいにしているんじゃねえ。君の行動は君の自由意志にのみ立脚する。そして君が何者であるかも君の自由意思によってのみ規定される。甘えるな。
https://anond.hatelabo.jp/20210312203939
本文がどうしても途中で消えるため、追加部分として分けた。
部落問題は、根が深い。かといって、そこまで複雑なものではない。
各時代の政権が正しく対処していれば、部落解放同盟といった組織が存在することはなかったし、また存在しているべきでもなかった。
被差別部落は、歴史が積み重なったエリア(代表的なものとして京都。あるいは「府中」が付く地域など)に多く存在する。
平安時代以前に、そのエリアに特定の民族(土着系、中国系、朝鮮系、マレー系ほか)が住み着いて生活を営んでいたものの――何らかの原因によって、とある民族一派が生活圏を追われた結果として生まれたのが、伝統的な意味での部落だ。
すなわち、戦争や政変で自民族が敗北する、ある者が重大な罪を犯す、心身に何らかの異常があるなどにより、生活しやすい都市部を追われた者たちは、山地や川べりなどに住まわざるを得なくなり――そこから、普通の人間が忌避する穢れを含む多くの仕事(食肉、葬送、処刑、皮革加工や汚物処理)を行うようになり、やがては専門的、特権的職業に分化していった。
明治以前は、そうまで貧しくはなかったようだ。彼らが町人の生活に必須な物を売ったり、公共サービスを提供していたこと、税金が免除されていたのも大きい。
だが、維新によって明治政府が生まれ、西欧に倣った近代的な理念や法律が社会に浸透すると、四民平等の名の元に、彼らにも課税がされるようになった。加えて、近代産業が伝統的な部落民の仕事を奪うようになっていき、彼らは貧困にあえぐようになった。
当時の政府は何らかの手を打っておけばよかった。しかし、何も手を打たなかったので、部落に住む人々は貧しい時を生き残るために集団の結束を高めた。家族間や親族間での助け合いはもちろんのこと、その地域に住んでいる全員が全員を認識できるほどに。そして、彼らの結束は、やがて一般社会への怨嗟を募らせる方向へと動いていった。
昭和の中期になり、国民の人権意識も向上していき、部落解放運動が盛んになるなかで――部落に生まれた人々の恨みが爆発した。彼らは、一般社会への恨みを持ち続けていた。復讐したいと考える者が多数いた。だから、あそこまで過激な、暴力を伴う運動に発展した。
令和の時代に、その人が部落出身かどうかを気にする人間は少ないだろう。部落に生まれようと、生まれまいと、その人の人生に何らの影響もないからである。現代の都市環境においては、その場所が被差別部落だったかどうか、一見ではわからなくなっている。※道幅や道路改良の跡でわかることもある。山地や川べりにあるタイプの部落も、分かる人間であれば判別がつく。
部落というのは、文化的な意味では、もうほとんど存在しないといっていい。しかし、人はタブーに惹かれる性質を持っている。「穢れ」という概念は、今の時代を生きる人間も持ち合わせている感覚である(人が触ったパンや米粒は食べたくないはずだ。安全性が保障されていたとしても)。だから、インターネットなどでは、若い人達も部落について語り合うことができる。彼らは、昔の人々がどのような「穢れ」を持っていたのか気になるらしい。
被差別部落に生まれた一個人として、現代人の意識から、この「部落」という言葉がいつの日か消えることを祈っている。いずれは完全なる死語となり、教科書の中だけの言葉になることだろう。子どもの時分から解放運動に携わってきた者として、そんな未来を望んでいる。
小森龍邦氏死去、88歳 元衆院議員、部落解放同盟広島県連顧問
解放運動の巨星がまたひとつ墜ちた。私もあと十年生きるか怪しい身である。自分の政治運動に対する考えを少しばかり綴ってみてもいいだろう。
上のニュースの人は、かつて解放同盟の事務方のトップだった方だ。昭和7年に広島県東部の被差別部落に生まれ、中高生の時分から老年に至るまで部落解放運動に携わってこられた。
私が活動していた地域とは遠く離れているが、それでも半年に一度は彼の実家の傍にある、ちんまりとした選挙事務所へ行き、地元産のワインを飲みながら語り合ったものだ。
私などが知己と呼ぶのがおこがましいほど尊敬できる人格の持ち主だった。家族や地域や仲間のためであれば、危険を顧みずに行動する力を持っている。それでいて、思慮深いうえに頭の回転が速く、無謀な策を講じたりはしない。講じるとしたら、背後に確かな計算を持っている。そういう方だった。
それが、こんなに早くにお亡くなりになってしまった。悔しい限りだ。
私の番はいつ来るのだろう。運が良ければ二十年は生きられるかもしれない。運が悪ければ数年後か。その前に、自分の想いを吐き出す機会が欲しい。
さて、表題の意味について。あなた達の政治運動には『迫力』が足りないとは、どういう意味か。
言葉どおりの意味だ。特に、伝統的な分野、例えば労働組合などが挙げられる。昔に比べて弱体化が著しい。
企業ごとの組織率は低下し、労働者の組合加入率も低下し、賃金は下げられ放題、追い出し部屋や希望(半強制)退職の蔓延も放っておかざるを得ない。数十年後には、労働組合というものが事実上消滅していてもおかしくはない。
また、高校や大学など、学校内の自治を求める活動もそうだ。私は元高校教師だが、昔に比べれば、学生たちが自ら声を上げて学校のルールを変革するために動くことは減っている。感覚としてはそうであり、数字においてもそうなっている。悪い意味で、子どもが大人のいいなりになっている。
近年話題になったものだと、#MeToo運動だ。女性がこれまでに男性から受けた、性を主とする嫌がらせを公共の場で告発することをいうようだ。
日本ではそこまで定着しなかったが、本場のアメリカでは著名な人物の一部が職や名誉を失っている。最悪の場合は、裁判により実刑判決を受けることになる。
LGBTの社会運動も、社会の価値観を変革しつつある分野のひとつだ。
大衆消費社会が訪れてそうまで時間も経たない頃から、同性愛者としてのカミングアウトや文学活動、デモ行進や芸能界での活躍、自分たちを侮辱する者に対する訴訟提起(府中青年の家裁判)、ゲイであることを周囲に言いふらした者及びその所属校への糾弾(一橋大学アウティング事件)など、仲間の権利を守るための諸活動を行ってきた。
以前は、映像作品において、同性愛者が精神異常者として描かれるのは当たり前のことだった。子ども向けのアニメなどでもそういった描写があったが、昔に比べればなりを潜めているように思える。批判を恐れて、ゲイやレズビアンの人達を描けなくなっているだけかもしれないが。
これらの成功している政治(社会)運動には、共通する点がある。
相手の痛いところを突いていることだ。
この方針なくして勝利はない。しかし、近年の伝統的な政治運動の類を見る限り、相手の痛いところを見抜くことができる知性、または攻撃する度胸を欠いているように思う。
特に、組合関係の団体がそうである。昔の労働組合は、使用者と刺し違える覚悟があった。
意図的に給与の支払いを遅らされても、当局側が雇った暴力団に夜道で襲われても、工場を社員寮ごとロックアウトされても、それでも不屈の覚悟で戦い抜いてきた。
それが今では、使用者の言いなりとなり、組織から仲間を追い出すための行為に協力している。情けない限りだ。
話が逸れた。
相手の痛いところを突くことの具体例として、昭和40年頃の話をする。私の高校時代の級友の話である。K君とする。
高校二年の時だった。夏の午後の授業中に、ある教師が教室の窓の向こうにある山を指さして言った。「お前らみてみい、あの山にはよっつが住んどる」(※手の指が四本であるという意味)
その教師は、部落に住んでいる人間を馬鹿にしたのだ。当時はまだ、被差別部落で生活する人々と、それ以外との間に貧富の差があった。馬鹿にされやすかった。
どれだけ悲惨な生活だったか、今の生活と対比しながら述べると、家にトイレはなく(集落で共同のトイレだった)、上水道は通っておらず、生活汚水は外に垂れ流しであり、雨樋や排水溝がないので大雨が降ったら屋内は水びたしになっていた。
家族で食卓を囲んだ光景にいい思い出はない。口に出して述べたくないし、思い出したくもない。
さて、その男の言葉に頭にきたK君は、翌日に地域の仲間(私を含む)を連れて職員室に入っていった。K君が連れてきた解放委員会の男が怒鳴ったのを覚えている。「教頭、どういう教育をしとる!」という大声に、周囲に緊張が張り詰めた。校長までやってきた。
その教師に向けて、「そんなことは言ったらいけんど」と説得しようとしたものの、それ以前の問題だった。その教師は、私達の質疑に対して、最後までしらを切り通したのだ。「そんなことはしていない」と言い張った。
このままではK君の立場が危ういわけだが、私にはどうすればいいかわからない。しかし、協力をしたかった。
また翌日、K君は教室の中で証言者を探すために、級友の前で声を上げた。「このままでは俺は嘘つきになってしまう。証言をしてくれ」と皆に伝えた。が、私ともう一人か二人以外に協力者は出なかった。
次の日だった。今度は、級友一人一人と話をする作戦に切り替えた。校庭に級友を呼び出し、どうして協力してくれないのか、と訴えたのだ。それでも駄目だった。みな、「それは勘弁してくれ」と言うばかりだったという。
さらに次の日、K君は50枚ほどのA6程度の大きさの小紙を持ってきた。それを級友の一人一人に渡して、「これに証言を書いてくれ。後で預かる」とお願いして回ったのだ。
翌週、K君は再び、地域の仲間と、同じ地区の解放委員会の役員を連れて校長室に入っていった。私は外で待っていたが、勝利を確信していた。K君は、20枚以上はあろうかという紙の束を持っていたからである。
その年度の末をもって、その教師は異動になった。県内の一番端にあるエリアに転勤していった。彼はまだ赴任して2年目だったことから、今回の作戦が功を奏したとみていいだろう。
この、K君の動きを間近で見たことが、私が政治運動を志したきっかけだった。
今度は、少し規模の大きい話をしよう。
それから三十年以上が経って、平成の初期だったと記憶している。被差別部落の生活・文化的な環境を改善するという一連の政策が国会での議決を受けてから、長い時が経っていた。
K君の事件をきっかけにして、私は解放委員会に正式に加入し、高校で社会科を教えながら政治運動に身を投じていた。40になる頃に教師を辞めて、今度は別の公職に就いた。
ある年の冬だった。私が活動していた県の幹部職員が、「同和関係の補助金はすべて凍結する」と、あろうことか県議会で答弁した。
寝耳に水だった。まさか、そんなことはあるまいと考えたが、確かな事実だった。議会答弁はテレビ中継もされていた。
当時、私が所属していた団体の幹部が全員呼び出され、偉い方々から対策を指示された。それぞれの支部からも、来年度の予算について雨後の筍のように質問が寄せられていた。
発砲ふさがりかと思われたが、ふと、K君のことを思い出した。彼はもう立派な社会人であり、解放委員会からも抜けていた。それでも藁にすがる思いで相談に行こうとしたものの、気が乗らない。
彼に迷惑をかけるのでないかという想いもあったが、何よりも私個人の意地だった。同和教育、人権思想を啓もうする活動を担う一員である以上は、自分達の力で解決せねばならないという気概があった。
とはいえ、K君と話をしたかった。結局、正式な相談ではなく、共に食事をしながら今回の件について話し合うという形式を取った。K君は、「ここで折れたら前例になろうが」という話から始まり、諸々の助言をいただいた。今でも感謝している。
後日、県の横暴に対する対抗策がまとまった。開始時期は、一週間後とした。
数万人規模の組織で、ここまでの速度で動くのは無理がある。組織全体の足並みが揃わなくなる恐れがあったが、予算全凍結は目の前だった。
あの時のK君のように、各市町の教育委員会の庁舎に数人で飛び込んだなら、「どうしてこんな卑劣なことをするのか。子どもらが人権意識をもつための活動ができなくなっていいのか」というメッセージを何時間にも渡って、毎日伝え続ける。
庁舎の外には最大100人程度を待機させていた。みなそれぞれ、横断幕と拡声器を使って、スローガンを堂々たる態度で表し、相手方にこちらが本気であることを知らせた。朝方から始まって、日中は休憩を挟みながら、日が沈む頃まで毎日続けた。
場所は関係なかった。公共機関であれば、どこででも実施した。教育委員会だろうと、市役所の入り口だろうと、学校の門前だろうと、警察署の前だろうと、県会議員の自宅の玄関だろうと、場所は関係なかった。
かつて、私たちは基本的人権の享有を受けられなかった。その歴史を繰り返してはならない。私たちは本気だった。
議会での答弁から半年後、私達の本気は伝わった。予算の凍結が撤回されたのだ。
これまでと同じように、これまでと同じだけの金額を子ども達への教育活動、個別学習会や勉強会に使うことができるようになった。
私たちは、相手の痛いところを突いた。突き上げを受けた教育委員会は、通常の業務を行うにあたって支障が出る。日中は、私たちが絶えず抗議をするので、それに対応せざるを得ないからだ。
それが数日であれば持ちこたえるだろうが、何か月にも及ぶとさすがに根を上げる。
「予算の凍結はやめてくれ。現場がもたない」と各市町とその教育委員会は、県の決定に抗議する流れができる。
さらに長い期間に渡って続けば、県としても、予算の凍結の続行と、各市町の疲弊とを天秤にかけざるを得なくなる。
相手の痛いところを突けばいいというものではない。こちらも痛い目を見る覚悟が必要だ。というのも、現実的には、まずはこちらが痛い目を見る可能性が高いからだ。
上記の場合、県による予算凍結の撤回を求めて戦うにあたり、相手方に攻勢をかける必要があったわけだが――初期の段階が一番苦労した。まず、動員をかけても会員は集まりにくかった(当事者意識の欠如)。これがただの動員ではなく、緊急事態を打破するための闘いであることをわかってもらうために熱弁を振るう必要があった。この説得のための活動、すなわち県内の支部巡りに最も時間を要した。
人が集まり、相手方に攻勢をかけることができるようになったとして、最大のリスクがある。警察に通報されることだ。特に、要職にある者が動けなくなるのはまずい。敵にとっての追い風になる。
今回は、そうした事態が起こることはなかった。絶対に暴力行為や脅迫行為をしてはならないと、組織内で固く申し合わせをしていたからだ。
私が若い頃の解放運動だと、警察など介入する余地はなかった。デモ活動やオルグの最中に通報があって警察官が駆け付けたとしても、我々を見て尻込みをするのは当たり前で、あちらの方が逃げ出すこともあった。
それほどまでに、当時の私たちは気迫に満ちた政治(社会)運動をしていた。物事に対する「本気」というものが、警察すら怯えさせるほどに昇華されていた。
時が経ち、平成時代になると、部落に住む人々も豊かになったこともあり、ハングリー精神が見えなくなっていた。集団の気迫はすっかりと消えてしまい、周りから見ると――デモ活動の全てが滑稽なものに映るようになっていた。満たされた人間に政治運動はできない。それだけのことだった。
ところで、予算凍結に対する対抗策の実施にあたり、最大の懸念事項があった。
県と市町との連携だ。もし、予算凍結の議会答弁を打つよりも前に、県議会が各市町に根回しを行い、さらに我々を抑えるための手を考えていたとしたら、負けていた可能性が高い。
逆に言えば、同和対策事業に関する予算の凍結という重大事項について、事前に各市町と連絡調整をしないというミスを県が犯したからこそ、我々は勝利することができたと言っていい。
最後になる。
相手の痛いところを突くこと、その直近の事例としてミャンマーのデモを挙げたい。
アウンサン・スー・チーを頭に据える民主派が勝つにはどうすればいいだろうか?
武力では国軍に勝てない。ならば、「国軍は間違っている」というメッセージを、自国内と国際社会に訴えかけるしかない。
経済面ではゼネラル・ストライキを行い、社会面では民主的な思想や制度について啓もう活動を行い、政治面では大規模デモによって世界に窮状をアピールする。
アメリカがすでにミャンマーへの経済制裁を行っているし、世界的な空気として、国軍より民主派を推す声が大きいのは間違いない。
民主派のやり方というのは、それでいい。とことん大きなデモを打って、自分達の正義をアピールする。
が、その代償として、民主派は多くの命を失っている。つい先ほど、未成年のデモ参加者が銃で撃たれて亡くなったというニュースが飛び込んできた。先日のデモでは50人以上が亡くなったという。
民主派グループの中でも、指導者に近ければ近い者ほど、身体に危険が迫る。国軍にしてみれば、今が正念場である。世界各国からの評価が低下することを気にかけず、民主派の指導者層を徹底的に弾圧し、デモ活動を先導する者を少なくし、事態を膠着状態に陥らせ、軍事政権を持続させるとともに――軟禁しているアウンサンの自然死を狙うメリットの方が大きい。
もし日本が、ミャンマーのように危険な状態だったとして、あなたが立ち上がって戦わねばならなくなった時、どういう心構えで、どういう行動を取るべきだろうか? 相手の痛いところを突くために、どこまでのリスクを背負えるだろうか?
その問題に直面していたのが、私が生まれた時代よりもさらに昔、明治以降の被差別部落に暮らす人々だった。あまりに苦しい生活環境であるがゆえ、生存権を得るために戦わねばならなかった。しかし、どうやって戦えばいいのか?
多くの者が基本的人権を得るために戦い、痛い目に遭いながらも戦いを続け、そして今の、(経済的な意味に限っては)被差別部落問題が解決した現在に至る。
あなたの人生にとって、重大な戦いをせねばならない時がくるはずだ。その時に、どういった行動を取ればいいのか、当日記がその際の助けになれば幸いだ。
40代以下の若い人に向けて、このトピックを書いたつもりだ。あちらへ、こちらへとぶれた文章になって申し訳ない。読み返してみると、まとまりのなさに驚いている。ご容赦いただきたい。