はてなキーワード: 伝統とは
人に繁殖させようとするんだ?
精子老化ジジイも卵子老化ババアも黙ってベトナム人に介護されとけよ
子供作れ、子供育てろ、伝統を維持しろ、家制度を守れ、異性と結婚して同姓にしろ、どれだけ要求するつもりだよ
テメェが増えなかった結果が今なの
テメェらの時代は終わってんだよ
日本を食い潰しやがって
労働弱者保護:非正規の場合の最低賃金2割増し・退職金月給3か月分保証、労基の大幅増員+権限強化など
結婚弱者保護:子なしでも婚姻手当毎月3万円(子供手当は別枠維持)、市有建物の式場使用無料(歴史的な建物だとより良い)、離職保母さん達の学童運営補助など
恋愛弱者保護:なし。自由主義的発想から言わせれば、国が価値観に口出しするのは、気色悪い。
表現の自由等:同じく基本的に介入しない。憲法の伝統的学説を支持し、私人間の不法行為に基づく損害賠償責任の問題で処理。
経済政策:大企業それ自体への盲目的な攻撃はしない。大企業やその関係会社の従業員も弱者。自動的なベア年1パーセントを強制→強制インフレ。
環境政策:無理のない範囲で、できるところから。とにかく科学的合理性を重視して。原発ゼロは最終目標としてはいいかもしれんけど、巻き添えで弱者が死なないように軟着陸で。
社会福祉:基本現状維持。ただし、老人も医療費3割負担してね。
財政政策:低金利維持+インフレが長期的に借金を解決してくれる。あと、コロナが落ち着いたら、米欧と足並み揃えて債務減免交渉をやってみてもいいんでない?
頑張った人だけが幸せになる社会の方が、みんなが頑張るからいいじゃん。
から始まってのネオリベでしょ。幸せになりたきゃ頑張ればいいってこと。
問題は、いくら個人が努力によって這いあがっても全体として不幸な人の割合は変わらないことだけど、最早「みんなが幸せになるべきだ」なんてはじまりを持ってないネオリベネイティブ世代にとってはそんなの何の問題でもないんだよね。「頑張ればいいじゃないですか?」ってだけの話。
負け組のおっさんだけが「みんなが幸せになるべきじゃないんですか?」と、問いかけてくるけどさ。
共産主義をアカと呼んでボコボコにして、根本である「みんなが幸せな社会」なぞ1ミリも考えずに、手段であった生産性を目的にして社会を進めてきたのは等のおっさんなわけで。
強者が弱者がと言い訳するが、一有権者としての責任を果たさず思考停止してきたのも、自己責任論と自己憐憫を都合よく使い分けて気持ち良くなってきたのもテメェらなわけ。老いては、子に従えーーつまり、テメェらが育てたネオリベネイティブ世代に従うしかないよね。
しょうもない人生のしょうもない老後を生かして貰えるだけ有り難く思うべきだよね。
結婚しなった、養わなかった、子作りしなかった、子育てしなかった、そのくせ国に介護してもらえると思ってるカス共に際限なく乞食されるこっちの身にもなってみろよ。
伝統だかにこだわって、お前ら若者も夫婦同性で結婚して日本の伝統を継げだとか、日本人の日本を守るために純日本人に俺のオムツの世話をさせろだとかワガママぶっこいて正気かよ。老害が
[※1]について
あくまでこれは事実を再確認するという目的であって、今更呉座氏を非難するつもりではない。しかし例えば與那覇氏は本件について実証的に書くべきだとしており私もやむなく自身の事実認識はこういったものだと説明するところである。
フェミ垢の人、誰も聞いてないのに「私はブスじゃありませんから!ブスだからって抗議してるわけじゃないですから!人から可愛いとか言われることも多いけどそれも嫌なんです!」とわざわざ言ってくるよね。ブスで悪いか。ブス差別すんなよ(-_-)
これに対して呉座氏はこのように反応した。
さえぼう氏の悪口はやめて
ところで、元ツイート主はフェミニストが“ブス”を排除していると批判する趣旨であり容姿批判ではないと主張している。しかし、この説明はあまり意味をなさない。呉座氏は元ツイート主とは別人格でありこの元ツイートをどう捉えたかが重要だからだ。では、実際に入れ替えて読んでみよう。
さえぼう氏、誰も聞いてないのに「私はブスじゃありませんから!ブスだからって抗議してるわけじゃないですから!人から可愛いとか言われることも多いけどそれも嫌なんです!」とわざわざ言ってくるよね。ブスで悪いか。ブス差別すんなよ(-_-)
正直これだと容姿批判をしてるようにも見えなくもない。というのも、「フェミニストはブスばかり。そのひがみでフェミニズムに逃げている」という揶揄は伝統的なものなので、その文脈にのっとれば「ブスの癖にブスだと否定して結果ルッキズムに嵌っている様子」を揶揄しているのだと認識されかねないのである。例えば北村氏の2014年の発言を見てみよう。
前も言ったけど、「フェミはどうせ皆ブスだ」っていうのは誰も反論できないという点で非常に卑劣ないちゃもんなんだよ。だって分別のあるまともな大人なら「そんなことはない。私は美人でフェミだ!」とか言ってこないだろ。
また、北村氏はフェミニズムについて「可愛くな」い「私たちみたいな女の子」のためにあると考えていたと吐露している。
私、子どもの頃から理屈っぽいとか性格がキツイとかばっかり言われていたし、なんかやたら太ってて可愛くなかったので、小さい頃から可愛くて愛嬌があって才能溢れてた女の子たちとは縁遠かったです。20歳くらいまでは、フェミニズムは私たちみたいな女の子のためにあると思っていました(続)
さて、例の元ツイートを引用して「さえぼう氏の悪口はやめてください」と書いた呉座氏だが直接元ツイートにリプもしている。
反フェミは「俺はモテる。モテない男のひがみじゃない」とは言わないので、これは本当に非対称。ルッキズムや旧来のジェンダー観に囚われているのはどちらか。
後半を重視すれば元ツイート主の釈明通りの解釈になり、前半を考慮すると容姿の揶揄を含む文脈の発言だったのではないかという気がしないでもない。
しかし、本当に問題なのは容姿の揶揄ではなかったとしても逃げ場がないことだ。「可愛くて愛嬌があって才能溢れてた女の子たちとは縁遠かった」という自己認識で「分別のあるまともな大人なら『そんなことはない。私は美人でフェミだ!』とか言ってこない」と発言している北村氏を「誰も聞いてないのに『私はブスじゃありませんから!ブスだからって抗議してるわけじゃないですから!人から可愛いとか言われることも多いけどそれも嫌なんです』」とわざわざ言ってくる」人間だという風聞を流したことになるのである。これは大変なことだと思うよ。
「男性にお願いだけど頑張って女の子誘って遊ぼ?」と発言した甲府市の幹部が「不適切発言」として叩かれた。ニュースはすぐリンク切れするだろうから下にコピーを載せておく(魚拓は取得禁止にだった。不適切なら削除する)。
個人の領域に関することを公の立場にある人が言及したというのがマズい、という趣旨は確かにそうだが、下記のようなデータを見て、そもそもこれは決して「個人」に帰着すべき問題ではないという認識もできれば増田諸氏と共有したいと思う。下記にあげるのは、国立社会保障・人口問題研究所(http://www.ipss.go.jp/)掲載の資料から作成した、「生涯未婚率」の推移の表である。
年 | 男性 | 女性 |
1960 | 1.26 | 1.88 |
1970 | 1.70 | 3.34 |
1980 | 2.60 | 4.45 |
1990 | 5.57 | 4.33 |
2000 | 12.57 | 5.82 |
2010 | 20.14 | 10.61 |
今日、ちょうどKKO議論の行く末も地獄、という論考もブクマに上がっていた(https://b.hatena.ne.jp/entry/s/gendai.ismedia.jp/articles/-/81804)けれど、それらの問題は全て上の表に集約されているのではないか。つまり*失われた20年で最も失われたのは男性の結婚機会であったという単純な事実だ。生涯結婚できない男性の数は50年で実に20倍に増えた。これは、2010年の若年男性が、50年前の若年男性に比べて20倍も努力していないことを意味するのだろうか? そんなわけがない。
やれ「草食化」だの「非婚化」だの、いい加減、若者自身に責任があるような議論を止めて、国はまともにこの数字と向き合うべきだ。「(さまざまな事情で未婚に追い込まれている)若年者に手厚い政治」をしてこなかったことが、ヒステリックにも見える今日の社会問題の根源となっている。仮に1990年を参考に、経済的な問題がなければ未婚を選ぶ率は人口の5%程度、と仮定するなら、2010年時点で実に男性人口の15%、女性人口の5%、つまり均して人口の10%が「金がないから非婚(KNH)」民だということになる。はっきり言って立憲民主党の支持者より多い。現在、陰謀論、狂ったミソジニーやミサンドリー、過激な排外主義的主張、根拠のない伝統主義、ネットイナゴ…………などに食い荒らされているこのKNH民を、正しく政治的に救いとる方法が求められているのではないか。
山梨県甲府市で行われた中小企業の合同入社式の中で、甲府市の産業部長が「なるべく異性と遊んでほしい。そうすれば少子化は少しでも解消する」などと発言しました。
合同入社式に来賓として出席した甲府市産業部の志村一彦部長は、仕事だけでなくプライベートも充実させてほしいという趣旨のあいさつの中で「なるべく遊んでいただきたい。遊ぶのも男性同士、女性同士じゃなくて、楽なんですけどね、気持ちとしてはなるべく異性と遊んでいただければと思います。そうすることで少子化が少しでも解消されると思いますので」と発言しました。さらに「男性のほうにはお願いなんですけど、ジェンダーフリーとか、男女共同参画とか言われていますけど、遊びに行くときには男性のほうから誘っていただければと思いますので」と続けました。
個人の自由である交友関係や出産、それにジェンダーへの理解を欠いた発言ともとれます。
志村部長は式の後、UTYの取材に対し「結婚を意識してほしいという趣旨だったが、不適切だった。
不快に思われた方にはお詫びし、発言については撤回したい」としています。
この発言について山梨英和大学の近藤弘教授は「交友関係や出産などは、個人の領域に関するもので、公の場で言及することは適切とは言えない。
固定的な男女観にとらわれず、多様性に配慮して発言することが重要」と話していて、男女共同参画やジェンダーについて正しく理解してほしいとしています。
[UTYテレビ山梨]https://news.yahoo.co.jp/articles/9138c85984db13fe89923800938e6e4417b61c3f より引用
*……女性の生涯未婚率が6倍以上上昇していることも、決してなおざりにはできない問題ではある。だが、50年前の数字は女性の社会進出がそれほど進んでおらず、今ほど選択の自由がなかった時代のものである(つまり結婚「したくない」のに「させられて」いた女性も多い)ということも踏まえれば、男性とは事情が異なるだろう。思うに、男女ともそこのバランスがとれていたのが「生涯未婚率5%前後」の1990年頃であって、まさにバブル崩壊によってそれがガタガタになって回復できない状況に突入していったのではないだろうか。
ニコ生とかで女性放送主がちょっとわざとエロめのポーズとかを、事故をよそおってやったりすると
リスナーのコメントが大量発生するようなあの流れというか伝統芸というか、
ああいうの双方がわかって盛り上がってる感じが一体感があって好きだなあ。
ドルオタとかの追っかけとかもそういう感じなんだと思う。
東京の話をするなーーーーー」ーーーーっっっっっつ!!!!!!!!!!!!!!!
東京じゃねえぞ
いち地方のちっちゃいちっちゃい町の、さらにカレー屋なんて限定的な話題を、ホットエントリにあげてるんじゃねえですわ
いっつもいっつも、イライラすんだよ
まあ、いいよ
君らがローカルの話をするのは許す
でもよお、それを数の暴力でホッテントリにあげるなや 不快だからよ
ホッテントリに入れて、俺みてえなヤツの目にそれが入ってしまった瞬間に戦争が始まるんだよな
チンポ町とカレーになんの結びつきがあるんだよ ねえだろ
カレーの町だとかなんとか言ってんのかもしれねえが、俺はそんなん知らないですし、絶対に知りたくない イグノアーしてやる
チンポ町について絶対に何も知りたくない
古本の町だ、みてえなクソゴミカス知識を東京糞人間に植え付けられてしまったが、一生かかっても除去してみせる
一エントリなら許せるが、数が多すぎる
オマエらもイヤだろ
新潟県長岡市の話が週1〜週2くらいでホッテントリに入っててみろや
他所でやれみたいなこと言うに決まっている
俺はそういう話をしているんだ
誰もどうでもいいクソ東京のクソ町、それもチンポみたいな名前のゴミに興味ないですよ
やめてくださいホントに
気持ち悪いので……
と、オタクは我々に他者の尊重を押し付け、文化相対主義を我々に押し付け、リベラル、つまり自由を押し付けてくる。
オタクキモイといえば差別だレイシストだと市井の人間にポリティカルコレクトな発言を求めてくる。
萌え萌えエロ絵は、公共良俗に違反し、公益性がない、まさに百害あって一利なしのものである。それを、相対化して認めろというのは暴力ではないか。日本には、古くから、それこそアニメなんかよりもずっと前から、挙動不審でおかしなものに執着するいい歳の独身は気色悪いという文化がある。こういった伝統文化を尊重せずに、自らの文化を尊重せよというのは矛盾している。
さらに、家父長制という日本の伝統的な考え方によって考えても、オタクがいくら萌え萌えエロ絵を大事に思っていたとしても、萌え萌えエロ絵好きは卒業するのが本人のためであると言える。妻子を養い家を維持するという伝統義務の邪魔となる萌え萌え絵を愛好すべきでない。間違えないで欲しいのは、これは”あなたのために言ってあげている”言葉である。けして、攻撃しているなどと思い込んで、フェミニストのように反発するのはやめていただきたい。
我々は今、オタクとなのるリベラルの一派による激しい攻撃を受けている。日本の伝統を守るためにもこうした悪とは戦わねばなるまい。
grdgs そうやって自分が高みから見下したつもりで冷笑的に言論の萎縮を図るのって気持ちいいみたいですね。一部の人にとって。普段言論の自由が何より優先って言っている人はよくそういう態度とりますよね。
言うほど高みか?どちらかというと、人間の認知能力なんて良くて生活圏の把握くらいしかできないんだから、自分も含めた99%の人間はその場の感情に振り回されながら殴り合うしかないという前提は共有されるべき、的なことを言いたかったんだけどね。
実際、元増田はかなり高度なことを要求していて、まず『一枚岩ではないアンチフェミに対し解像度を上げて理解』しつつ『アンチフェミの根幹にあるフェミニストへの不満を掬い上げ』『フェミニズムへの反感を無くす(=アンチフェミを無くす)』ことが必要だと説いている。非常に建設的な提案だと思うが、同時に非常に非現実的な理想論でもある。なぜかというと、まず一度敵であると認識した相手、ここでいうアンチフェミ(もしくはフェミニスト)を、感情を度外視して冷静に理解することはスーパーマンでないと成しえない特殊技能だからだ。ほとんどの人間は自分と相反する意見を見ると強い嫌悪感を催して攻撃か逃避に走るしかなくなる。
あからさまな攻撃に見えなくても多くはこれに当てはまる。例えば、はてなで定期的に行われる「ブクマカは属性当てはめゲームをしているだけで差別そのものには興味がない」みたいな指摘はわかりやすい。より正確に言うなら、ゲームを楽しんでいるというよりは「自分の感情に任せた攻撃」という体裁の悪い行為を既存の反差別の枠組みを使って自他から覆い隠した結果生じた矛盾、ということになるのかも。要は社会的正しさや合理性、経済性、伝統…etcといった既存の第三者的な理論や研究・権威を掲げているからといって、イコール冷静な議論を試みていることにはならないのだ。
ともあれ、活発に活動する動機を持ったほとんどの人間が、普段の生活や過去の経験から強い問題意識をもって活動を始めている以上、こうした攻撃性からは逃れられないと言っていいと思う。
でも、それを否定したいわけではない。ほかのブコメにもあるように、「それでも何か意味がある」と信じて殴り合いの仲裁に入るのも泥沼でもがき続けるのも、自分は決してやめるべきではないと思うし、そうした人間のおかげでこれまでも社会が変わってきたんだろうという実感がある。
ただ、だからこそ元増田が求める冷静さはあまりにナイーブで、ともすればちょっとした出来事で大衆に失望して理想を全て投げ捨てかねない不安定さを感じてしまって、つい口をはさみたくなってしまう。結局のところ考え方の好みの問題なんだが、これも『冷笑的に言論の萎縮を図る』ことになっちゃうんかね。
結局そうなんじゃないかと思い始めた
べつに毎日手首切ってます!って感じでもないし、病み垢なんかを作って死にたい死にたい言ってますって人もそうはいないだろう
でも、なんか、毎日しんどいし、これが死ぬまで続くのか……っていう絶望感みたいなものをうっすら感じつつ、できるだけ意識しないようにしている、そういう人がかなり多いように思う(根拠、ナシ!w)
いくら愚痴っても Life goes on...なので言わないだけで、助けてくれ!と思ってる人はかなりいるんじゃないか
で、それの支えとしては、結局結婚して子供作って……っていう伝統的なアレが一番効くんだろうなと最近思う
そら一人で趣味やって充実してます!って人もいるだろうし、子供作ったけどぜんっぜんなんの感情も湧かなくて破滅!って人もいるだろう
しかし、やっぱりこう、全体としては、子ども作ってその成長に注力して辛さから目を逸らすっていうのがベストプラクティスなんじゃないかな
運否天賦で、というか、あんま何も考えんとエイヤっと子供を作って、育てるぞーと思ってるうちに老境、そんでまあええわと思いながら死ぬ そういう感じでやってきたんだろう、人類
残すもん何もないし、そもそも何かを残すことにこだわりを感じないし、大切な人は別にいない となると、モチベーションを自分で生み出さないといけない
月に行くんだ!とか、良い絵を描くぞ!とか、武道館を満員にする!みたいな夢をもったりできると良いのかもしれないが、夢ってたぶん持つことにすら才能が必要で、パンピーにそれはできないんだよな
一緒に過ごしたい家族もいない、熱意を注げるものもない、叶えたい夢もない って状態で週40時間労働を40年以上やるのは、まあ相当しんどいわよね
どうなるんだ?この社会
俺は滅ぶだろうなと思うんだけど、じゃあ具体的にどんなふうに滅ぶのか、というかそもそもどうなったら滅んだことになるのか、というとわからない
個人的に人類の未来を全部見てみたいな、とは思うんだけど、実現不可能だし、夢ってほど夢じゃないな 呪術廻戦を完結まで見たいっていうのと大して変わらん熱量
俺ってどうしたらいい
なんのために生きたらいいんだ
生まれた意味とかはどうでもいいので、仕事をしてまで生き続ける意味がほしいんですよね
今日のテーマはとても良かった。白饅頭氏は阪神大震災のサバイバーで自分の周りが一変した、そこから大きな影響を受けているって話ね。
今のリベラルの人達、リベラル理解度8、保守理解度2みたいなステータスで保守(リベラル理解度15ー20、保守理解度15-20で保守を支持)みたいな人達を徒党組んで燃やしてる(そして返り討ちに合う)から正直成長ねえ猿だなぁって思ってるんだけど、それも幸せな事だ。
白饅頭氏はなんというか成熟してるけどそれも阪神大震災(だけではないし勿論当人の普段の努力の成果ではあるけど)みたいな理不尽に合っての事。成熟するにはある種試練が必要かはわからんけど助けになるのは事実で、試練には人の死が付き物だ。時たま訪れる理不尽な試練乗り越えられず狂う人もたくさんいる。人に成るのに死人が要るなら、人に成ってない人が多い方が世界はよっぽど良いだろう。
勿論そのような試練は色々な形を変えて今も存在してる。天然の試練と養殖の試練があって、天然の試練は大体人命を伴うんだろう。進撃の巨人の新兵を殴るシーンがわかりやすいかな。面構えから違ってしまっていたし、ただ殴られる程度でその試練はクリアだった。だけどその差は仲間が死に始めるまでずっとあっただろう。今でも受験だの就職だの上下関係だので用意されてはいるけど、結局地獄を見たり人の命を背負う羽目になったりしないとダメなんだ。だからやっぱり、天然物のまともな大人なんていない方が良い。作るのに犠牲を伴うものだから。俺も多分天然物ではないし。
ここでいう試練と同じものかはわからないけど殺しもかなり効くらしい。爺さんが庭から芋虫たくさん取って来て目の前で踏みつぶし始めて、お前もやってみろって。一匹アゲハの幼虫だけ虫かごに入れて2,3匹潰してギブアップした。今は考えがなんとなくわかるし、全部潰すべきだったしアゲハも潰すべきだった。というか害虫(ひいては害獣、人)を分け隔てなく全員殺せるかって試練だっただろうから、ちょっとしか殺せなかった上に一匹一番大事な奴を残した俺は失格だったんだろう。あの時から爺さんはあまり俺に目をくれなくなった。
多分殺すなら人に近いほど良い。虫や魚だと遠い。哺乳類が良い。結局人殺しが一番伝統的かもしれないけど現代だとちょっと俺も許せないかな。それでどんな優秀な奴が生まれても俺は一応リベラルだから。でも自分の視界の外の人たちを見殺しするくらいなら自分で殺したやつの方がマシって考えもあるから結局のところはわからない。
今は家畜殺さんと肉喰えないから家畜殺しはセーフだしやった方が良いんだろうけど、それも許せない気合入った皆さんも居て人口肉作るのに気合入れてる。あれはあれで筋通ってていいと思う。
・初詣(元旦に好きな神社に行く「初詣」が定着したのは明治中期の鉄道会社のキャンペーンによる。)
・除夜の鐘(1927年にNHK「ゆく年くる年」の前身のラジオ番組が「除夜の鐘」を放送したことがきっかけで日本全国に広まった。)
・おせち(正月料理を重箱に詰めるようになったのは明治以降で、それが全国に広まったのは戦後のデパート業界のキャンペーンによる。)
・二礼二拍手一礼(一般の参拝客が行うべき「正式な作法」とされて広まったのは戦後、あるいは平成以降であるとも言う。)
・いただきます(食前の挨拶としては、軍国主義教育を通して1930年代ごろから普及していったと思われる。)
・正座(明治以前にも存在はしたが一般的でなく、正座=正式な座り方とは見なされていなかった。「正座」として広まったのは明治以降である。)
・六曜(明治以前にも存在はしたが一般的でなく、本格的に普及するのは明治に入って太陰暦から太陽暦に切り替わって以降である。)
・信楽焼の狸(明治期の陶芸家・藤原銕造が製作したもので、全国に広まったのは1951年に昭和天皇が信楽焼の狸の和歌を詠んだことから。)
他にある?
卵ぶつけるのを伝統にしたい
自分のスタンスを明示していなかったけど、各論としては選択的夫婦別姓に反対はしてない。細かい制度設計で気になる点はあるけど。
元増田の文意は、「リベラルってこれでいいの?」という疑問にあって、個別の制度自体の是非についてはあまり議論のモチベはない。
『文化や伝統』を守りたいというのは個人の自由だし、そこはマイノリティであろうがマジョリティだろうが尊重するつもりだよ。ただそれは、あくまで他者の自由を阻害しない範囲でやってもらいたい。
『文化や伝統を守る自由』ってのは本当に『別々の姓を名乗る自由』の侵害無しには成り立たないのか? 選択的夫婦別姓制度が(極端な例だが、"人を殺す自由"を認めた場合の様に)社会に著しい害をもたらすというなら否定するのもわかるし、考えるべきだと思う。だが少なくとも『損なう可能性』や具体的でない『デメリット』のみでは納得感が薄い様に思える。
『理解を示して妥協点を探るべき』という考え方には個人的には共感するし、リベラルが先鋭化しているというのは多分そうなんだろうけどな。
ただ、『選択的夫婦別姓』という考えを『バッサリシャットアウト』しているのは『文化や伝統』を重んじる層ではないのか? この辺卵が先か鶏が先かの水掛け論になりそうではあるが…。
というか保守派は『文化や伝統』に基づけば他者の自由を侵害することもやむ無しと考えているのか? だとすればそれは先に挙がった『リベラルの基本理念』と根本的な部分で相容れない様に俺には思える。『他者の自由を阻害しない範囲』を越えた『自由』だからだ。
別姓制度を単体でみたときに、メリデメを合理的に考えればそうなる、という点で同意。
ただ、「文化伝統の維持」という主張に対する反論としては、議論のずれというか噛み合わなさを感じる。
そもそも保守思想というのは、人の考えうる「合理性」などたかが知れている、というスタンスであり、それゆえに伝統(現状維持)を志向するんだと思ってる。
確かに各論でみれば選択的夫婦別姓に反対する理由はないんだけど、そういった部分最適を積み重ねた結果、本当にみんなが幸せな未来(自由の侵害が最小化された世界)が来るのか、あるいはなんらかの予測しえなかった機序が働いて、もっと深刻な差別が発生するかもしれない、という懐疑論なのね。
そうすると、懐疑だけじゃなくて根拠をデータで示せよ、お気持ちじゃねーかよ、ってリベラルは主張するわけだけど、保守からすれば、そもそも人間がデータ化して認知し予測できる世界なんてまだまだ不十分だ、というのが基本スタンスなわけ。
実際に現代の科学でも株価も天気も予想できないじゃん。なら歴史に学んだ方が「合理的」だ、と。
なんで、「自由の侵害」を各論レベルでしか考えない反論、というのは、保守的な問題意識とは噛み合わんなーと思うわけです。「文化や伝統」というのは総論だから。
まあ保守側も「伝統を損なう」みたいなふわっとしたこと言うから、なかなかまともな議論にならんのですけどね。これは現状維持バイアスこそが保守みたいなとこあるんでしゃーない。
でもそこで、「保守を”ただの不合理なお気持ちバカ”とみなすような言説」がリベラル(?)に目立つんで、それはちょっと相手を見くびりすぎだし、多様性と相互理解を標榜するリベラルとしてどうなん?ということが言いたかったのでした。
君の言い分をまとめれば、「リベラルは『他者の自由を阻害しない範囲で思想信条の自由は尊重されるべし』という理念を守ってないんじゃね?だって保守派の主張を全面的に不合理なものとしてバッサリ斬り捨ててるし。理念に基づいて妥協点を探るべきだろ」となる。(合ってるよね?)
実際には保守派の理念は『他者の自由を阻害しない範囲』を越えて自由に振る舞うことをよしとするものだった。当然リベラルにとってそれは自らの理念に外れるから、受け入れられない。理念に外れるものを尊重する必要はない。となり、過激な叩きが横行するんだろう。俺の想像だが。
だとすれば(叩きの是非はともかく)リベラルは自らの理念にどこまでも忠実である。とすら言えそう。
という結論にひとまず到ったんだけど、どう思う?
うーん。まあ前段はそうなんですが、私は保守派の理念をそこまで悪意的なものと解釈していません。はてなの左派言論において、保守思想に対する悪意的解釈が多くみられるように感じているので、それを指摘したい、というのが私の意図ではありました。
保守の言いたいこと汲み切れてないんじゃない?保守の主張が「一面的に他者の自由を損ねることをよしとする言説」に読めるのは、読解が足りないかバイアスかかってるんちゃう?ってことをリベラルに言いたい。
呉座問題には興味ないが、選択的夫婦別姓は認めるべきと思ってる個人だが。
俺がリベラルかどうかはさておき、確かにそう思ってる。(というか社会運営上の基本理念の様に思う)
選択的夫婦別姓について言えば、現状別姓は認められておらず、『夫婦で別々の名字を名乗る』自由が侵害されている状態だと考えてる。
その上で
『文化や伝統』を守りたいというのは個人の自由だし、そこはマイノリティであろうがマジョリティだろうが尊重するつもりだよ。ただそれは、あくまで他者の自由を阻害しない範囲でやってもらいたい。
『文化や伝統を守る自由』ってのは本当に『別々の姓を名乗る自由』の侵害無しには成り立たないのか? 選択的夫婦別姓制度が(極端な例だが、"人を殺す自由"を認めた場合の様に)社会に著しい害をもたらすというなら否定するのもわかるし、考えるべきだと思う。だが少なくとも『損なう可能性』や具体的でない『デメリット』のみでは納得感が薄い様に思える。
『理解を示して妥協点を探るべき』という考え方には個人的には共感するし、リベラルが先鋭化しているというのは多分そうなんだろうけどな。
ただ、『選択的夫婦別姓』という考えを『バッサリシャットアウト』しているのは『文化や伝統』を重んじる層ではないのか? この辺卵が先か鶏が先かの水掛け論になりそうではあるが…。
というか保守派は『文化や伝統』に基づけば他者の自由を侵害することもやむ無しと考えているのか? だとすればそれは先に挙がった『リベラルの基本理念』と根本的な部分で相容れない様に俺には思える。『他者の自由を阻害しない範囲』を越えた『自由』だからだ。
君の言い分をまとめれば、「リベラルは『他者の自由を阻害しない範囲で思想信条の自由は尊重されるべし』という理念を守ってないんじゃね?だって保守派の主張を全面的に不合理なものとしてバッサリ斬り捨ててるし。理念に基づいて妥協点を探るべきだろ」となる。(合ってるよね?)
実際には保守派の理念は『他者の自由を阻害しない範囲』を越えて自由に振る舞うことをよしとするものだった。当然リベラルにとってそれは自らの理念に外れるから、受け入れられない。理念に外れるものを尊重する必要はない。となり、過激な叩きが横行するんだろう。俺の想像だが。
だとすれば(叩きの是非はともかく)リベラルは自らの理念にどこまでも忠実である。とすら言えそう。
という結論にひとまず到ったんだけど、どう思う?
そうですね
改心しました
和服を着て畳を敷いて筆で字を書いてパソコンを窓から投げ捨てればいいんですよね
家も取り壊して、竪穴式住居を作り直します
Switchが欲しいとかバカなこと言ったら例え子どもであろうとも半殺しにしてやりますよ
・何時に起きて何時になればいいのか
・朝起きて1番目に何をすればいいのか
・朝起きて2番目に何をすればいいのか……n番目に何をすればいいのか
是非ともご教授願いたい
お宅のジジババとリモート会議といきたいところですが、リモート会議は日本の伝統ではないでしょうから、飛脚を送ります
たとえわたしが死のうとも、未来永劫この伝統的な暮らしが守られるようにしたいんです
本当は、今の仕事を続けてやりたいことや、結婚したいと思う恋人もいましたが捨てます。日本の文化のためなら仕方ありません。仕事でPCを使うなど日本の伝統に反した行動を取ればおたくのジジババが悲しみますからね。恋愛結婚は伝統的ではないそうですから、今からお見合いをして結婚相手を探そうと思います。
わたしの夢や自由なんか、重い重い日本の伝統文化の前にはクソですよ。なんて事ありません。子供ができても、小学校なんかにはやらずに寺子屋に送りますよ。泣いても喚いてもそうしてやります。子供の夢や自由も伝統と文化のためには仕方ありませんからね。もちろん孫も、ひ孫も、ひいひい孫にもそうさせますよ。
全てはおたくのジジババの願いですからね。会ったこともないわたしくしめが、日本の伝統や文化を守ってくらしていないことが辛くて辛くてたまらないんですもんね。今まで伝統に反した生き方をしてきて本当にすみませんでした。
選択的夫婦別姓や「呉座先生事件」関連のエントリ・ブックマークコメントをみつつ連想したこと。
呉座先生の個別の失言は、まあ擁護は難しいしするつもりもないが、リベラルを自称する界隈の先鋭化が気になってしょうがない昨今。
最も気になるのは、保守派の主張を全面的に不合理なものとしてバッサリいく態度。
一見不合理かもしれんけど、保守思想というのはそもそも現状維持が基本姿勢で、その背景は「経験と歴史の尊重」「人間理性に対する懐疑」にあると思ってる。
これ自体はリベラルの根底にある理性の信奉と根っこでは矛盾しないはずで、「歴史に耐えた制度にはなんらかの合理性があるはず」と考える態度は、科学的に見ても「合理的」でしょうに。
まあ政治思想の理念的な背景は明るくないのでこれくらいにしとく。
リベラル勢に聞いてみたいのは、
例えば選択的夫婦別姓が成った後に、一族や天皇制といった概念が希薄化し、日本の民族性や文化を愛する人々が少数派になったとき、彼らをどう扱うつもりなのか、ということ。
他者の自由を阻害しない範囲で思想信条の自由は尊重されるべしというのが、リベラルの基本理念だと思うんだけど、マイノリティになってから初めて尊重します、っておかしくね?
現状において支配的な思想信条が、女性や性的少数者の自由を侵害しているという主張はわかるし、それを解消すべく制度設計を行いましょうというのもわかる。
でも、「現状の戸籍や姓・婚姻制度にも機能と利益があるはずで、性急な改革は伝統と文化を損なう可能性がある」という反論をバッサリシャットアウトするのはダメだ。
現状の被害者と同レベルとまではいかずとも、理解を示して妥協点を探るべきでしょう。
少なくともその伝統を拠り所にしている人々がいて、あなたがたは、かれらを「少数派」にしうる政策を支持しようとしているんだから。
想定問答をあげておくと、
「選択的なんだから問題ないだろう」というのがまず返ってくる反応だろうけど、保守派は「文化や伝統」を問題にしているのであって、選択肢が発生すること自体に対するデメリットを危惧している訳だから、
「姓が別になった程度で文化は損なわれない」という反論もありえる。ここは保守側の仮定なので一定妥当である。「文化」の定義がカバーする範囲が広すぎるので合理的な説明が難しい。
でも、自分の祖父祖母世代とのコミュニケーションから、保守派の心情を勝手に代弁するなら、もう彼らは相当に妥協しているし戦線を後退している。
「日本文化は米国文化に塗りつぶされ、最後の一点で耐えている」という世界観を現代の高齢者世代は持っている。
(親父がネトウヨにいつのまにか傾倒していたなんて話がよくあるが、それもこの流れの一旦だと思うし、呉座先生も高齢者ではないが歴史学者としてこういう流れに影響を受けていそうな気がしている)
彼らの世界観からすれば、今も米国文化によるマイルドな同化政策は続いているし、それは一面では事実でもあるだろう。
かれらの青春時代にはリベラルなんて影も形も無かっただろうし、「家を継ぐことが至高命題」として育てられた彼らが、生きているうちにここまで世界が変わるなんて思いもしなかっただろう。
それは同情すべきこと・尊重すべきことではないのか?
「日本の文化もできるだけ維持し継承します、そのうえでみんなが活躍できる社会にしていこうとしてるんです」と、言い方だけでも寄り添ってあげようよ、という主張は、トーンポリシングとして糾弾されるべきことなのか?
自分自身は、ムラ社会の嫌な面を経験してきているので、家を継ぐべしというような思想は消えていいと思っている。
一方で、ムラ社会の最後の世代になるであろうジジババが寂し気に「私は親にそう教育され家を守ってきたしそれを誇りに思ってきた、子に受け継ぎ家を守りたかったがもうあきらめている」と語るのを聞くにつけ、かれらに「わきまえたマイノリティ」の像を重ねることもある。
(まあかれら自身は保守政党に投票するだろうが、世代が変わればいずれムラ社会は解体されるだろう)
ムラ社会は総論として害が大きいと思っているが、それでも私の原風景は「田舎のばーちゃんちでジジババに載せてもらったトラクターからみた風景」であり、自分はそれを享受しながら、自分の子世代にそれを残せないことの寂しさや後ろめたさも感じている。
なんというか、そういう対抗派閥に対する共感・配慮なしに、一方的に断罪する論調は、先鋭化が行き過ぎているし、リベラルが根底に置く理念と矛盾していると思う次第。