はてなキーワード: マルチとは
今にして思うと、「アレってカルトだったのかも…」となったから当時の思い出を書くことにする。
当時の俺は、就職に失敗して、なんとか契約社員としてゴミみたいな工場に潜り込んだ男だった。
とにかく最悪の人生を過ごしていたと言っていい。
まあ偏差値は50後半くらいで、イキってそこそこの大学に行ったけど、コミュ力なくて落ちぶれたパターンのやつな。
大体エスポワール号に乗る前のカイジをイメージしてくれればいい。髪型とかマジであんな感じだった。
そんで、ある日、工場の同僚が「たまには遊びに行きませんか?」と言ってきたので、友達もいなかった俺は嬉しくなって夜勤明けの日に街に繰り出した。
で、一緒に飯食ってる時に、夢の話になった。「やりたいことないんですか」的なアレだ。
俺は嘘をついた。「実は輸入業とかやってみたいと思っている」と。
実際は輸入とかには全く興味はなかったが、フェアトレードがどうたらこうたら、それっぽいことを言うと同僚は何だか、色んな言葉を駆使して俺の事を褒めてくれたのを覚えている。
「今度、そういうの応援してくれる集まりがあって、友達に誘われてるんだけど、独りじゃ心細いから一緒に行きません?」と誘われた。
実のところ全く俺は他人を応援する気はなかったが、褒められてうれしくなっていたので、二つ返事で「行く」と答えて、連絡先を交換した。
その週の終わりには、俺は近所の市営の集会所に呼び出されていた。同僚と、その友人を名乗る色黒、細見の眼鏡がいた。
大体10人くらい?の人が集まっていて、まず、名前と住所、仕事を書くことになっていた。
俺は嘘をついた。安アパートに住んでいるのが恥ずかしかったので、実在する地名に、適当なマンション名を書いたのだ。
ということで、会はスタートした。優しそうなおじさんとおばさんが主催する会で、「普段は地域でクリスマスパーティとかお楽しみ会をやってるんだよ」的なことを言って、チラシを見せてくれた。
「実のところ、履歴書に書くこと目当ての大学生の人も多いと思うけどさ」とおじさんが言うと、笑いが起きたので、学生もいたのだと思う。
話は大体、みんながどういう人間になりたいか、的なことだった。最初はみんな、シャイな感じだったのだが、おじさん達は優しく合いの手を入れてくれた。
俺も気持ちよく輸入業を目指す青年という大嘘を突き通すことができた。言いながら(輸入ってなんだよ)とか考えながら、なんかよくわからんがマレーシアから絹を仕入れるんです!的なことを言っていた覚えがある。
そもそもマレーシアって絹取れるんだろうかとか、まあ、わかりゃしねえよって気持ちだった。
同僚は不安げで、「なんか怪しい宗教みたいじゃないですか?」的なことをそれとなくツッコんだら、周りの人間も笑った。
「まあ、お寺とかは正直付き合いあるよ」とおばさんが微笑んだ。
まあ、俺も幼少のころ、近所のキリスト教会の集まりに呼ばれて、大福などを作って食った覚えがあるので、そんなもんだろうと思ったが、
同僚は「うーん」とか言いながら、こちらをチラチラと見てきた。俺は「まあ、宗教って根ざしてるからね。地域に」と言って知見を示すと、同僚は笑顔になった。
夢をキラキラした目で語っていたガリ褐色眼鏡は、、同僚に対して、「俺さんもこう言ってるし、怪しいところじゃないでしょ」とかなんとか笑っていた。
そんな感じで、一回目の集会ではやはり大福が出てきて、茶を飲んで終わった。同僚は、不安げに「来週も着いてきてもらっていい?」と聞いて来たので、
頼られていると感じた俺はやはり二つ返事で「いいよ」と答えた。
2回目の集会では、親子関係というか、家族とは何か、的な話をしたと思う。それで、親の仕事について話す機会もあった。
俺は嘘をついた。
「親が丸紅に勤めてて、三人兄弟の末っ子の俺は落ちこぼれたんですけど、やっぱり海外と取引したくて」と。
親父はゴミみたいな中小企業で働くサラリーマンである。丸紅ってそもそも輸出とか輸入とかしてんのか?まあバレやしねえよという気持ちで俺は親の職業を偽ったのだ。
ちなみに兄弟も余裕でいない。純粋に一人っ子だ。兄弟がいた方がなんかカッコいいかな、と思って嘘をついたのである。
で、3回目の集会にも俺は参加する、と言っておいて、当日になってなんかめんどくさくなったので約束を破った。
そしたら、職場で同僚は「ガリ眼鏡とおじさんが会いたがっている」的なことを言ってきたので、しょうがねえなあ、という気持ちで4回目の集会に参加することにして、
それからもちょくちょく、集会に参加した。お菓子が段々グレードアップしていたし、おじさんとおばさんは俺達をよく褒めてくれていたから、まあ悪い気分ではなかったからだ。
結論から言うと、6回だか7回目の集会で、俺達は仏の彫像と変な健康食品セットを買う事になった。
値段は合わせて5万くらいだったと思う。なんというか、どういう売り文句で買う事になったのか、全く覚えていなくて恐ろしい。
ガリ眼鏡はともかく、宗教に否定的だった同僚も、何やら買っていたので、俺も流されて買ったのだと思う。支払いは現金とローン、どちらでもよかった。
俺は嘘をついた。
「このくらいの値段なら余裕ですね」と。ちなみに当時の俺は貯金ゼロ。だが、まあ別に払えなくてもいいだろ、という気持ちで12回払いのローンを組んだ。
普通に頭金の何千円かはその場で払ったのだが、その後のローンは余裕で無視した。
その次の次くらいの集会で、「あの、ローンってどうなっとる?」と聞かれたが、「すみません、すぐ払います」と言いながら誤魔化していたと思う。
10回めだかそこらの集会で、俺達はビジネスとして健康食品や仏教グッズを売る流れに参加させられることになった。
まあ、読んでる人はわかると思うから言っちゃうが、端的に言ってマルチだった。
「これって絶対もうかるじゃん」的なことを同僚は言っていたのを覚えている。俺も当時は「これって絶対もうかるじゃん」と思っていたので、頑張るぞ、という気持ちになった。
その時、マニュアルを渡された。要約すると、『プロ3人~4人で囲めば、絶対にモノは売れます』的なことが書いてあって、台詞だとかも全部用意されていた。
「サクラを忍ばせて、疑問を投げかけさせます、そしてその人間を説得、納得させると周りも流されます」的なことも書いてあって、これはぜってー売れるな!と俺も安心したものだ。
次の集会で、俺は嘘をついた。
「もう3個契約取っちゃいました」と。正直、契約書の提出とかその辺がガバいのを俺は見抜いていたので、余裕で嘘をつけるなと思ったので嘘をついたのだ。
おじさんはものすごく褒めてくれて、集会が終わった後、こっそり俺にお茶を手渡しながら、言った。
「実は、この集会やるのも高齢化でさ、子供会とかもあんまり回らなくなってきたんだよね」と。かいつまんで言うと、俺になんとかという教団に入って欲しい、的な誘いだった。
俺は嘘をついた。
「ええ、勿論入りますよ」と。なんか当時はすでに俺に嘘をつかせまくるおじさん達に対してイライラする気持ちもあったので、「入るわけねーだろバーカ」と思いながらも、その場しのぎで嘘をついたのである。
おじさんは嬉しそうで、「最近、新興宗教とかみんな不安だと思うから、ご両親に挨拶させてくれ」と言ってきたので、
俺は嘘をついた。
普通に知らない適当な番号を書いて渡した。そもそも実家の家電とか、両親の番号とか、携帯には入っていたが暗記はしてなかったのだが、それを言うのが恥ずかしかったからだ。
その次の集会。
俺はおじさんとおばさん、それにガリ眼鏡と同僚に激ギレされた。
「なんで嘘ばっかつくの!?」と。
なんのことだ、と俺は心の底からビックリした。おばさんはヒステリックにキレていた。
「電話番号も、住所も、全部嘘やん!!!」と。俺は本当に何のことだかわからなくて、興奮しながら置いてあった煎餅を齧った。
「あとさ、ローンも滞納してるし、もしかして前に健康食品売れたってのも嘘だと不安になっちゃうじゃん」と、おじさんは優しいながらもキレてきた。
まあ健康食品が売れたというのは嘘なので不安もクソもないのだが、俺は気が付くと涙を流していた。
「嘘をついたつもりはないんです。言い方が悪かったならごめんなさい」と。
煎餅をひたすら齧りながら、俺はひたすら泣いていた。同僚とガリ眼鏡は、やはりキレてきた。
「いや、伝え方悪いとかじゃなくてさ、お金の話だからさ、そういうの、全部自分に跳ね返って来るぞ」だとか、「自分が輸入業始めた時に嘘つかれたらどう思う?」だとかだ。
ロジハラをかましてきやがった2人に対して、俺はやはり泣くしかなかった。
おじさんは、「まあ、本当、お金だけね。お金の話だから、払うところだけ払ってもらって。そしたら、全部忘れるからさ」と言って、話は決着した。
普通にその後、集会に行くことはなかったし、職場の同僚は会うたびに「金払った?」と聞いて来てうざかったので、1年間俺はそいつとまともに会話をせず、工場を辞めてしまった。
金はないので払わなかった。仕方ないね。
当時こそ、「俺が悪い」という気持ちだったのだが、今回の統一教会の話とかを見ていて、「ああ、俺って騙されかけてたんだな」とようやく感情の整理をすることができた。
冷静に考えると、同僚はその団体と元からグルだったのだと思う。
ガリ眼鏡も、同僚も初めから俺をハメるつもりだったのだ。「団体に疑問を投げかけるサクラ」そのものだったのだ。
俺は、運よくカルト、ないしはマルチだろうか。深みにハマる前に、先方がボロを出してきたので入らずに済んだ。
でも、アレはいかん。本当に騙される。人格や教養に関係なく、人と人が正しくコミュニケーションをしよう、と考える限り、絶対にハマる。
俺の経験がもし教訓になるとしたら、カルトにハマらない方法とは、
金を持たないこと、他人の話を聞かないこと、他人の話に真剣に答えないこと。相手に気を遣ったり、本当のことを言わない事だ。
みんなも気を付けて欲しい。
名著「UNIXという考え方 - UNIX哲学」は本当に名著なのか? 〜 著者のガンカーズは何者なのかとことん調べてみた - Qiita
この記事はよく調べてあるなぁと思う反面,事実関係の間違いも多く当時の空気感など欠けていると思う部分がいくつかある。事実関係に関しては追い切れないので参考文献を挙げるにとどめておくが,空気感のほうはいくつか書いておく。なお当該記事の「当時と今では状況が全然違うんだから,安易に『UNIX 哲学』とかいうな」という主旨には大賛成である。
初期の UNIX の歴史について興味がある向きには次の書籍をお薦めする。
Peter H. Salus『A Quarter Century of UNIX』(1994, Addison-Wesley Publishing)
和訳の『UNIXの1/4世紀』(Peter H. Salus, QUIPU LLC 訳, 2000, アスキー) は絶版のうえ訳も微妙なので薦めづらいが,原書は The Unix Heritage Society (tuhs) で PDF が無償公開されているので,英語が苦にならないのなら読んでみるといい。
また同じく tuhs で無償公開されている Don Libes and Sandy Ressler『Life with UNIX』(1989, Prentice Hall)を読めば80年代終りの UNIX の状況(XENIX についてもしっかり言及されている)や利用者目線での雰囲気もある程度判るだろう。
元記事で一番気になるのが「哲学」という語の捉え方。この言葉の強さに引きずられているように読める。でもこれ,当時は設計の基本的な考え方くらいの意味でわりとよく使われていた言葉なんだよね。たとえば米 BYTE 誌のアーカイブを “philosophy” で全文検索するとこんな感じ。
https://archive.org/details/byte-magazine?query=philosophy&sin=TXT&sort=date
ほぼ毎号のように出現していたのが判るだろう。
もっとも猫も杓子も「哲学」を振りかざしていたわけではないし,UNIX の開発者たちが「哲学」の語を好んで使っていたのも間違いないように思う。傍証の一つが AT&T の定期刊行物『The Bell System Technical Journal』の1978年7, 8月号だ。元記事で言及されているマキルロイの Forword の初出がこれで,ネットのアーカイブから PDF が入手できる。
この号は二部構成になっていて第一部が Atlanta Fiber System に関する論文12本(全172ページ),第二部が UNIX に関する(Preface や Foreword を含む)論文22本(全416ページ)となっている。さて前述の PDF は OCR されているので “philosophy” で全文検索してみると8箇所見つかる。これが見事に全部 UNIX の論文なのだ。もちろん論文の性質もページ数も違うからこれだけで確定的なことはいえないが「日常的に使っていたんだろうなぁ」という推測は成り立つだろう。じつはマキルロイの哲学とされている部分は “Style” であり “philosophy” の語は一切使われていないというのもちょっと面白い。UNIX の開発者たちがなぜ「哲学」という語を好んだか正確なところは判らないが,それまでにない新しい考え方に基づいた OS を開発しているという意識があれば,そういう言葉を選ぶのが自然な時代だったことは間違いない。
UNIX が認知され拡がっていく過程で「哲学」も知られるようになっていった。自分が好むものの良さを他人にも識ってもらいたい,あわよくば他人もそれを好むようになって欲しいという布教活動は今も昔を変らないわけで「哲学」はその便利なツールとなったわけだ。元記事ではガンカースの著作を「外部の人間が後から打ち立てた哲学」と表現しているが,そんなたいしたものではない。マキルロイの論文に影響を受けた布教のためのああいう説教は到るところにあった。たとえば前掲の『Life with UNIX』にもしっかり Philosophy の項がある。また日本で最初期の UNIX 解説本のひとつである,村井純・井上尚司・砂原秀樹『プロフェッショナル UNIX』(1986,アスキー)には冒頭次のような一節がある。
オペレーティング・システムは,コンピュータを使うものにとっての環境を形成する基盤であるから,そのうえで生活する者の個性を尊重し,より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェアでなければならない。この主張こそが,UNIX のオペレーティング・システムとしての個性ではないだろうか。
「より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェア」とはテキストを入出力フォーマットとする単機能のコマンド群のことで,これらをパイプでつなげたりシェルスクリプトでまとめたりすることで「そのうえで生活する者の個性を尊重し」た「より良い環境へと作り上げて行く」ということだ。こういった説教はありふれたものであった。たんにそれを「哲学」の語を用いて書籍にまとめたのが,たまたまガンカースだったというだけのことである。
そしてじつは UNIX の場合,布教活動とはべつに「哲学」を広めなければならない切実な理由があった。これを説明するのは非常に面倒くさい。当時と今ではあまりにも環境が違うのだが,その違いが判らないと切実さが伝わらないからだ。マア頑張ってみよう。
UNIX は PDP というミニコンピュータ(ミニコン)上に開発された。このミニコンを使うためには専用の部屋に行く必要がある。その部屋は,もちろん場所によって違うわけだが,マアおおよそ学校の教室くらいの大きさだ。長机が何列か並んでおり,そのうえにはブラウン管ディスプレイとキーボードを備えた機器が等間隔に置かれている。壁際にはプリンタが何台かあるだろう。通っていた学校にコンピュータ室などと呼ばれる部屋があったならそれを思い浮かべればだいたい合ってる。ただし置かれている機器はコンピュータではなくコンピュータに接続するための端末装置(ターミナル)だ。端末装置のキーボードで打った文字がコンピュータに送られコンピュータが表示した文字がそのディスプレイに表示される。現在 Unix 系 OS で CLI を使うときターミナルとか xterm という名のアプリケーションを用いるがこれらは端末装置のエミュレータで,もともとは実体のある装置だったわけだ。
さてコンピュータ室にたいていは隣接するかたちでマシンルームなどと呼ばれる六畳くらいの部屋がある。窓ガラスで仕切られたこの部屋には箪笥や洗濯機くらいの大きさの装置が何台か置かれている。これがコンピュータ本体だ。もっともコンピュータが何台もあるわけではない。この箪笥が CPU でそっちの洗濯機がハードディスク,あの机に置かれているタイプライタが管理用コンソールといった具合に何台かある装置全部で一台のコンピュータになる。どこが〝ミニ〟だと突っ込みたくなるかもしれないが「六畳で収まるなんて,なんてミニ!」という時代のお話だ。
端末装置それぞれから(USB のご先祖様の)RS-232 という規格のアオダイショウみたいなケーブルが伸び,マシンルームに置かれたターミナルマルチプレクサと呼ばれるスーツケースに台数分のアオダイショウが刺さってコンピュータとの通信を行う。コンピュータと多数の端末装置を含めたこれら全体をサイトと呼び,root 権限を持って管理業務を行う人をシステム管理者あるいはスーパーユーザと呼んだ。
結構上手に説明できたと思うのだが雰囲気は伝わっただろうか。ここで重要なのは一台のコンピュータを数十人が一斉に使っていたという事実だ。洗濯機とかアオダイショウとかは,マアどうでもいい。
当時の UNIX の評価を一言で表すと〝自由で不安定な OS〟となる。メーカお仕着せではなく自分好みの「より良い環境」を作りあげる自由。さらに他のメインフレームやミニコン用 OS に比べると一般ユーザ権限でできることが圧倒的に多かった。そしてその代償が不安定さ。今では考えられないが UNIX のその不安定さゆえにプロ用 OS ではないと考える向きは多かったし「でも UNIX ってすぐ落ちるじゃん」というのは UNIX アンチ定番のディスりだった。UNIX の落とし方,みたいな情報がなんとなく廻ってきたものだ。
こういった雰囲気を鮮やかに伝えてくれるのが,高野豊『root から / へのメッセージ』(1991,アスキー)だ。当時アスキーが発行していた雑誌『UNIX MAGAZINE』に連載されていた氏のエッセイの1986年11月号から1988年10月号掲載分までをまとめた書籍である。著者の高野氏は勤務先の松下電器で1980年ごろから UNIX サイトのスーパーユーザを務めており,日本では最古参の一人である。この本の中で高野氏は繰返し UNIX の自由さと不安定さに言及している。すこし長くなるが,その中の一つを引用しよう。
CPU は,システムにとって重要な共有資源であるが,この CPU を実質的に停めてしまうことが UNIX ではいとも簡単にできる。たとえば,cc コマンドを10個くらい同時に走らせてみたらよい。VAX-11/780 といえども,同時に実行できるコンパイルはせいぜい3つか4つである。それ以上実行することも当然可能ではあるが,他に与える影響が無視できなくなる。つまり,てきめんに vi のカーソルが動かなくなる。あるいは,すこし大きめなディレクトリ上での ls コマンドの出力が表示されるまでに煙草を1本吸い終えてしまったり,タイムアウトでログインが撥ねつけられたりといったバカげた現象が起きだすのである。こういった状態になると,UNIX は破壊されたに等しい。真夜中,独りで VAX を占有して使っているのなら何をやろうとかまわない。しかし,20人30人と多数の人間が使っているときに勝手をやられると非常に困るのである。当人の仕事が遅れるのは自業自得だとしても,そのとばっちりで他のエディタまで止まってしまうと,もはやどの仕事も進行しなくなる。
ディスクについても同様なことがいえる。UNIX では,ファイルシステムを使いはたすまで大きなファイルを自由に作ることができる。したがって,自分のプロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュアが使うと悲惨なことになる。ディスクを使いはたすと,コンソール・タイプライターにエラー・メッセージが出力されるが,夜中にそれが発生して,コンソール・タイプライターが一晩中エラー・メッセージを打ち続け,朝マシンルームに行ってみると紙を一箱打ち尽くしてしまい,ピーピーと悲しげな声を上げて人を呼んでいた光景を私は何度も見てきた。こうなると,それをしでかした本人のプロセスは当然のこととしても,同じディスクで走っている他のプロセスも先に進めなくなってしまう。すこしでも負荷を夜間にまわそうとする善意は逆転してしまい,わずかでも仕事を先に進めようとする意図も完璧に打ち砕かれてしまうのである。
そして,こうした不安定さが「哲学」を必要としたのだ。自分が利用しているサイトに「cc コマンドを10個くらい同時に走らせ」たり「自分のプロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュア」がいるとその累は自分にも及んでしまう。だからサイトの利用者全員に UNIX の設計の基本的な考え方を理解してもらうことが,自分のために必要だった。UNIX の伝道がより苛烈だった理由のひとつがここにあるのだ。
ミニコン上で誕生した UNIX は 4.3BSD(1986)で最高潮を迎える。注意したいのはミニコン時代の UNIX は Research UNIX と CSRG BSD みたいな区別をせずにまとめて UNIX として扱われていたことだ。実際『プロフェッショナル UNIX』も『root から〜』も UNIX と記述されてはいるが実際には BSD を扱っている。べつに当時の人が無知だったわけではない。なにしろ BSD を利用するためにはまず AT&T から UNIX のライセンスを購入し,そのうえでカリフォルニア大学バークレー校(UCB)から BSD を入手しなければならなかったからその関係は当然広く知られていた。ベル研で発明された UNIX を外部の人たちも含めみんなで改良し,それら全体が UNIX であるという考え方が自然だっただけである。『Life with UNIX』のような英語の文献によく登場する “Berkeley UNIX” という言い回しが当時の気分をよく表している。UNIX vs BSD みたいな捉え方は法廷闘争を経た90年代以降の感覚だ。
もっともそういう70年代風味の牧歌的風景はミニコン世界限定の話であった。BSD そのものはミニコン用のものしかなかったが,そのコードを受け継いだ BSD 系 Unix や AT&T が推し進める System V などがワークステーション市場を舞台に80年代中盤から激しく覇権を争うようになる。いわゆる Unix 戦争で,PC 用 Unix であるマイクロソフトの XENIX も当然参戦した。ミニコン世界が牧歌的だったのは,ぶっちゃけていえば先のない技術だったからだ。ただ Unix 戦争はあくまでも標準という聖杯を争う戦いであり,AT&T と BSD 系 Unix の Sun Microsystems が共同で System V Release 4.0 (SVR4) を作りあげたように後の法廷闘争とは趣が違う。
こうしたミニコン UNIX からワークステーション Unix への転変は Unix そのものや文化にも変化をもたらした。まず激しい競争は Unix の高機能化を加速した。商品として判りやすい惹句が「あれもできます,これもできます」なのは誰もが知っている。もちろん安定性を増すために quota のような利用者の自由を制限する機能も含まれていた。またワークステーション Unix は現在の Unix 系 OS と同様同時に一人が使うものであり前述の布教の必要性は大幅に減じた。達人たちのみの楽園から万人に開かれた道具に変ったのだ。こういった変化を体感したければ『root から〜』と水越賢治『スーパーユーザの日々』(1993,オーム社)を読み比べてみるといい。『スーパーユーザの日々』はワークステーション Unix のシステム管理の入門書だ。この本ではたんに知識を羅列するかわりに架空のソフトウェアハウス(開発会社)を舞台に新卒社員が先輩社員からシステム管理を学ぶという体裁をとっており,そのおかげで架空の話とはいえ90年代前半の雰囲気が堪能できる。出版年でいえば『root から〜』と二年しか違わない『スーパーユーザの日々』の落差は “dog year” と称された当時の激烈な変化まで体感できるだろう。
当時はよくいわれたのに今やほとんど聞かれなくなったものがある。マキルロイの論文の結論部分に書かれたそれは,1973年に出版されたイギリスの経済学者エルンスト・シューマッハーの著作の題名で,中学生の英語力があれば十分に理解できる平明な一文だ。
Small is beautiful.
マキルロイは『人月の神話』を引いて一定の留保をつけてはいるものの,これが UNIX 哲学の背骨であることに違いはない。機能をありったけ詰め込もうとして失敗した “kitchen-in-a-sink” な MULTI•cs のアンチテーゼである UNI•x にとって,これ以上のスローガンがあるだろうか?
ひるがえって現在の Unix 系 OS をみれば,ブクブクと肥え太ったシステムコール,全容を俯瞰するだけでも一苦労するライブラリインターフェイス,一生使うことのないオプションスイッチまみれのコマンド群。UNIX が仮想敵とした OS そのものだ。そのことについてとくになにも思わない。ハードウェアは長足の進歩を遂げ,コンピュータの応用範囲は途方もなく拡がった。UNIX が変らなければたんに打ち棄てられ,歴史書を飾る一項目になっただけだ。ただ現在「UNIX 哲学」を語るならそうした背景は理解していなければならないし,どれだけ繊細な注意を払ったところで〝つまみ食い〟になってしまうことは自覚すべきだ。
子安武人さんがイケメンキャラやらなくなって寂しい。あんなにしっくりくるイケボなのに。
石田彰や緑川光は未だにミステリアスとかイケメンで採用されてるのに...
マルチに対応できる素晴らしい声優さんなのだけど、子安と言えばイケボ代表の親鳥と思って後ろをよちよちついて歩いて育って来た身としてはなんだかやるせねぇ...
うちは実践倫理宏正会じゃなくて倫理研究所(現在は家庭倫理の会)なんだけど、教義もう一個ない?(追記:私自身は三世で一番ハマってたのは祖母、家族全員興味ねえけどゆるく付き合ってやるかぁ…みたいな感じ)
「子育てで悩んだら全部自分のせい。もし昔自分がグレてたら同じ年頃になった子供も荒れる。病気として現れる場合もある」。
引き寄せの法則の反転バージョンみたいなやつ。万人幸福の栞にも書いてあった気がする、全部忘れたけど…。
新世(倫理研究所の機関紙というか雑誌。PHP研究所のパクリみたいな本。実家には毎月紙袋に山ほどあった。これ全部一括で購入してタダで配ってたのかな?あんま集金とかしてたイメージないんだけど…。考えたくもない。日めくりカレンダーもあった)読んでたら絶対この話出てくる。手をついて泣きながら謝罪したら全部治りました!みたいなオチが定番。
「血のつながっていない養子でもこの法則は発動する」とか「遠方でも発動する」とか謎の研究報告も覚えがある。(心理学の「研究所」って建前なので。てか純粋倫理と実践倫理って違うの?)
たま〜にガス抜きみたく「父親」サイドの話もあったけど、まぁ大体は母親のせいだよねこの国では。
私も卵巣嚢腫を「倫理では母親に逆らうから、子宮に異常が出来るのです」って言われたよ。丸山先生(笑)が聞いたらどう思うんだろうねー、この発言。もう興味ねえけど。
容疑者の母親、どんな気持ちだったろう。朝の集い(宏正会では朝起き会って呼ぶの?)では他の会員が朗らかな顔で実践報告するのに、自分の息子だけどんどん小児癌が悪化していく訳でしょ。何を報告すればいいのよ。生き地獄だと思うよ…。
倫理の人達は優しいから、会員間ではそんな厳しいことは言わないと思う。でも家族間ではそうはいかない。父親の自殺も、あなたもきちんと倫理の勉強をしてよ!私には原因が思い当たらない!あなたのせいでしょ!何をしたら癌になんかなるの!ってわめく妻に疲れたのかもしれない。(ちなみに「家族に倫理の勉強を強要する」のもやってはいけないとされるパターンのひとつ)
倫理は確かにお金はあまりかからないかもしれない。私は子供だったから選挙活動についても詳しくは知らない。でもみんな早起きでハイになってるし(もちろん帰宅後寝直してます)、キラキラで疲れるのよ。そんなときに、お金さえ払えば助けてくれるって統一教会が近づいてきたら?
そういや私はミキプルーンの味を知っている。たまにうちにあったんだよね。他にも変な健康食品みたいなのたくさんあった。多分だけど、ノルマを捌ききれなくなった会員から買ってあげてたんじゃないかと思う。倫理自体は「宗教ではない」が口癖だけど、そのぶん掛け持ちも自由なので、シンナーから覚醒剤に移行していくように、カルトの入り口になってる部分があるんじゃないかと思う。オフラインでやるオンラインサロンみたいな。(レトロニム)
いつの間にか家庭倫理の会に名前変わってるのも気持ち悪いし(なんなら朝の集いも今は「おはよう倫理塾」って言うみたい?おはようどころじゃねーだろ。5時だぞ)、知床遊覧船の社長も倫理にハマってたみたいだし(これは倫理法人会?)、この際全部調べてほしいです。→なんか下部組織みたいな感じなんだよね。でも祖母は倫理研究所時代から持ってたネームプレートとか名刺全部新しく家庭〜に変わってましたけど。これって買い直させられたのかなー笑
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/coldcup.hatenablog.com/entry/20140523/p1
大人になって色々調べて、「気持ち悪い」「怪しい」「胡散臭い」みたいな意見を聞けてちょっと嬉しいっていうのが本当のところ。みんなキラキラで頑張ってて、ついていけない自分はクズだってずっと思ってたから。今でもちょっと思ってる。
こういうのってたまに自己啓発本とかで読みかじって、いい所だけ取り入れるのはいいのかもしれないけど、朝5時から叩き込まれる、「ご起立ください!私たち!なんちゃらかんちゃら〜働きます!(内容忘れた)」って唱和させられるのは、「怪しい」センサーを濁らせてしまうので、あんまり良くないんじゃないかなと思う(自分は逆に過敏になってしまって、オンラインサロンとかこんまりとか全部大嫌いだけど。なんなら「実践」という言葉すらうっすら嫌いだけど)。てか明るくなる前から掃除するって普通に不審者でしょって意見を見かけて笑ってしまったw確かに!程々にね。
少なくとも、「倫理を通じて近づいてくる他のカルトやマルチに気をつけろ」くらいの注意喚起はもっと厳しくあっていいんじゃないかと思います。入口って言い出したら大学だってそうなり得るわけだけど、でもきちんと注意喚起はやってきたわけだから。私が知ってるのは昔の話なので、現役の方で今は違うよって方がいたら訂正してほしいです。
「安倍晋三が殺されたのは因果応報」でもセックスだけど、それだと悪いことしたから殺されたみたいに聞こえて語弊があるんだよね。悪い事したから殺されたわけだけど。
「安倍晋三が殺されたのはブーメラン」ってのも皮肉が聞いてるけど、「いやブーメランじゃなくて銃だろ」ってなっちゃうし
でもこれだとid:baikoku_senseiが撒いた種のせいで安倍晋三が殺された感あるな。やどりぎのタネかな?
んで、今回アベちゃんが殺された直接の原因は何?ったら統一教会の広告塔になったことなんよね。で、宗教被害者に恨まれた。
他の奴もやってたじゃん、ってスピード違反で捕まったみたいな擁護もされてるけど。
じゃあ、なんでアベちゃんとか他の奴らもが統一教会とツルんでたかってーと、それでお金とか人が付いてくるからで。
いや、その金って信者騙してぼったくった金じゃん。教えはどうなってんだ教えは!なんて思っちゃうけど、
でもさー、そういうキレイごとじゃ儲からないし、不幸になるヤツは自己責任だろってことで
カルトもマルチもヘンな学校法人もウェルカムして、清濁併せ飲むっつーかこれほぼ濁濁じゃんって感じで
でもそれで選挙も勝って、みんな許容してたわけじゃないっすか
やってることは許せないけど他に選択肢がないから消極的支持みたいなのもだけど
結局は不法行為を許容してんだよね。その方が自分にとって都合がいいからって
そういうのを見ないふりしてるうちに、アベちゃんはそのツケを払わされることになったわけで。
ある意味象徴的なんだよね。そっちの人からしたら「逆恨み」なんだろうけど。
あと、公文書改竄とか、これは維新だけど偽造リコールとか、完全にAUTOな違法行為にも
そうやって制度が破壊されたら自分も含めて皆に影響があるんだけども、それより自分たちの利益の方を優先する感じ。
一方で、困った人を助けたいなら自分の金使ってやれとか、福祉とかルールを軽視するところがあったり、
新自由主義的の悪いトコロが目に付く。
表現の自由界隈でも、山田太郎が表現の自由のために何故か平井への支持呼びかけて
平井は嫌いだけど表現の自由のためならしょうがないか~みたいな事あったじゃん。
こういう、大義名分があるから多少の無茶は許容されるみたいなトコが個人的に信用ならんのよな。
ストリーマーRUSTがしらないやつは適当にyoutubeググってくれ
一つの世界で、戦争ごっこするもよし、ギャンブルするもよし、建築がんばるもよし
各々が好きなことをやって交流ができる
結論を先に書くと、メタバースのメリットは別作業へのシームレス感だと思っている
例えばだけど、連絡を取るという作業のコストも、実際目の前にキャラがいてその人に話しかければOKなので心理的ハードルが低い
かつて手紙や電話からEメールになった時、そしていまLINEやチャットアプリが全盛だがそれらがもたらした心理的ハードルが
余談でストリートファイター6がオープンワールドマップが存在すると話題になったが、あれもメタバースのシームレスが期待できると思うとおもう
けど、あればそもそもストリートファイターに興味がある人のためのメタバースだろうけど
ストリートファイターに興味がない人向けのマルチ向けメタバースでシームレスにSF6が起動できるような時代になったら
格ゲー興味ないけどすぐできるっていうならやってもいいよみたいな人を取り込めそうではある
ちょうど、ゲームをダウンロードインストールするほどじゃないけどブラウザでできるならやってもいいかなという潜在需要はあると思うんだけど
フラッシュゲーのメリットってそういうところだったよなって思うし、それがメタバースで復活できるんじゃないかって思ってる
割り込まれて一方的にボコられて終わるっていう悲しい思い出とかだと思うんだけど
これもメタバース的に処理して、にげることをエンタメにすればいいと思う
待ちの中をプレイヤーが歩いてて、対戦申し込みされて、拒否するみたいな
それをはい、いいえで処理する味気ないものじゃなく、マップ内を逃げ回るゲームデザインに落とし込めば面白いんじゃないかなって思う
余談のほうがだいぶ長いな
20年以上も生きていれば自分が持つ能力の立ち位置がなんとなく見えてくる。
人の前では精一杯虚勢を張っているが、二流、三流の人材なんだろうなあと内心思っている。優しいのか、周りの人から直接言われることは無いが。
私は鈍感で、物覚えとか要領が悪く、いわゆる「トロい」人間である。何かを学んだりするのは好きだが苦手だ。センスが悪いので、地道に一つのことを頑張り続けて、ようやく要領が良い人が片手間にやるぐらいのレベルに到達するような感覚だ。
気が弱いので(自信がないのだろう)はっきり自分の意見が言えず、気づけば面倒なことを押し込まれていることもしばしば。
テレビやインターネットでは気の利いたことが言える人、スポーツが上手な人、頭の良い人、容姿に優れた人、絵が上手い人、商売上手な人、まだまだ色々あるが、とにかく才能に溢れた人が可視化され、クローズアップされ、社会的地位を構築し、金を稼いでいる様子が目に入ってくる。マルチな才能を持つ人も少なくない。
凄いな、よくやるな、自分には無理だな、といつも思う。勿論、自分のような凡人には見えていない世界での苦しみがあるはずだが、才能を持たない人間、開花させられなかった人間からすると羨ましく思うと同時に、自分が馬鹿らしくなってしまう。
そこで思う。
自分だって、教育熱心で理解のある裕福な家庭の元に生まれていれば、今頃は周囲から一目置かれるような人間になっていたかもしれない。
何か一つでも、飛び抜けた才能を生まれた時から持っていれば、それを使って人生を切り拓けたかもしれない。
人生は配られたカードで勝負するしかない。そんなことは言われなくても分かっている。
トランプの大富豪のように、誰かが革命を起こしてくれてゴミ屑だった自分の手札が急に光り輝くようなことは人生でほぼ起こらない。最初のカードが悪ければ、どんなに頭を捻って考えたとしても、結局は周りがカードを出し合っているのを指を咥えて見ているか、他人のミスや自分のラッキーなどの不確定要素に一縷の望みを繋ぐしかない。
人生というゲームは待ってくれず、間違えたとしても巻き戻してはくれない。何もできずにカードを手元でシャッフルしているだけで、ゲームは勝手に進行していく。
いっそ、このゲームから降りてみようか。そう思うことだってある。競争することだけが人生じゃないはずだ。
そう思うものの、ゲームから降りた後の行き先がわからない。まず、降りる勇気がない。
仕方がないので、自分なりに足りない頭で考え、一応ゲームに参加しているような感じにはなって、微妙な結果で終わる。そんなことを繰り返してきている。
自分は今まで最善を尽くせていただろうか?即答できる。答えはNOだ。後から振り返ってみると、少なくとも、もっと上手くやることができたはずのように思える。最善手を選び続けようと日々生きていたはずなのに、こうなってしまったのはなぜなのか?
自分自身の判断ミスがあったことは明白だが、それでも、今の現状を形作った原因を外部に求めたくなる。だから、最初に自分に配られたカードが悪かった、と言い訳したいし、最初から良いカードが揃っていた他人をみると嫉妬してしまう。
才能と発信力のある若者が、恵まれていない環境で育った、とインターネットで発言して炎上するのをしばしば見かける。特に実は親が世間的に見るとちょっと裕福だった、なんてことがわかった時の叩かれっぷりは恐ろしい。私は炎上には加担しないが、つい叩きたくなってしまう心情はわからなくもない。ついつい、自分よりも恵まれてたじゃん、いいカード持っていたじゃん、なんて言いそうになる。他人と自分の生育環境を比べてもなんの意味もないんだけど。
もはや、恵まれない環境からの鮮やかな成功劇、という単純なストーリーは成立しづらい時代だと思う。
自分自身を振り返ってみても特段良い環境で育ったわけではなく、むしろ周りを見る限り平均より下だったような印象だったが、それでも下には下がいるだろうし、今までの人生が恵まれていなかったなどと本名を晒して公言する勇気はない。
話が脱線してしまった。私は配られた中途半端な手札でゲームに惰性で参加するトロい人間だ。ゲームの勝ち筋は見えない。面白みのないゲームはこの先も続いていく。私は誰かに、「あなたは、最初に配られた手札の割にはよく頑張っているほうだよ」と言ってもらえれば、それだけで救われるのかもしれない。