はてなキーワード: 臨界とは
批判の論点が、ずっと対策強化の方ばっかりなのが気になるんだよな〜
感染者数が増えたらなにか理由を(こじ)つけて、人流抑制だの、子供にもワクチンだの言ってた割に、
減ってきた今となっては「ウーン、日本の対策はなんだかんだ成功したな!ホッ」みたいな雑な感想ばっかり見るわけよ。
いやまだ終わりじゃねぇから。
過剰すぎる対策だって多々あったと思うし、それらのいくつかはまだ今も動いてる。
例えばコロナ用の空床補償や補助金な。受け入れ可能数を超える申請とか、貰うだけ貰って受け入れしないとかいう話はみんな大好きアベノマスク同様どんどんつつかないとダメだろ。
早く議論して要らないものは切り捨てていく方向にしないといけない。そもそも重症化を防ぐワクチンが普及した時点でなんでそうならないんだ?
子供にマスクだの自宅学習だの強いてきた影響だってあるはず。生の人間の顔や声に触れる機会が減った期間が、ある種の臨界期みたいなものに悪影響を及ぼしてたらどうしようとか、免疫力の低下とか、俺は結構怖いと思ってるのに案外そういう話は一時のコロナ対策議論ほどの勢いを見ない。
「新規感染者数が何週間ぶりに何人を下回る」みたいなニュースに「日本はみんなマスクしてるもんな(謎のホルホル)」とか「減少にブレーキがかかってる?(未だに感染者推移しか頭にない)」みたいに言うコメを見ると、
あーこういう対策対策言ってた奴らの話は、ある種のポジショントークであって、取るに足らない奴らの話だったんだなぁと、思い知らされる。
【序文】
2020年末の例の炎上騒動あたりから過疎がはじまって、最近とくに面白くなくなってきた。
2022年のnote創作大賞が終わったあたりから、さらに過疎がひどい。
「ああつまらない、面白くない」と愚痴っても生産性がないので、私はここに考察したい。
note公式では「ユーザー数がうん百万人を突破!」みたいなことを宣伝してますが、ユーザー数がいくら増えたところで、
実際にログインする人、記事を書く人、ページを読んでくれてる人、が大事。(それぞれ専門単語があるんでしょうけど専門家に任せます)
それを考えたら、1日1人あたりのページ巡回数が明らかに減ってる。(公式では発表してないと思いますが)
代表的な方の記事を見ても、以前(2020年とか)と比較して、「スキ」の数が減少している。
つまり、活動ユーザー数が減っている。つまり、過疎が進行している証左。
むかし(とくに断りがない場合は2019年~2020年)はユーザー同士がキャッキャウフフしてて楽しかった。
ほんとうに「街」のようでした。
それが現在は企業アカウントが目立つようになって、おそらくnote社も企業アカウントに注力していて、
結果として一般ユーザーを見ていない=一般ユーザーはなんだか面白くない=なんだかわからないけど記事を書かない=ログインしない=過疎になっている、も一因。
以前より整備されてきれいなはずなのに、人がいない企業の看板だらけのゴーストタウン。(になりかけている)
コンテストを定期的にやっている。
企業が協賛して「仕事で感動したこと」とかの記事を一般ユーザーが書いて投稿して、優秀者にはプレゼントとか当たるやつ。
ふと思ったんだけど。
これって結局はステマじゃない?
noteユーザーのうん百万人がその企業名を目にして、読んで、何千人かは記事を書く。
そして、この広告=コンテストがnote社の収入源になってるはず。いくらでコンテストを開催できるのかは知りませんが。
ユーザーもうすうす感づいてるのか知りませんが、古株の常連さんはもうコンテストに投稿すらしてない。
コンテスト=ステマを思いついたのはnoteの大きな発明だったと思います。
そして過去最大のコンテストが2022年2月に開催されました。
結果は4月に発表。詳細はnoteを見てください。
noteユーザーの大半を占める素人勢はかすりも(かすった方もいらっしゃいますが)しなかった。
当然私もかすりもしなかった。
そこで現実を知ります。コンテストでキャッキャウフフやってたけど、いざ、プロも交えて真剣勝負したら、素人なんてかすりもしない。
「このままでいいの?」
・いい人→最初からそんなたいそれた気持ちで書いてない→そんな人は残って書き続ける→でもそんな人の書く記事は面白くない→面白くない記事だらけ
・よくない人→プロとの力量の差で呆然とする→noteでキャッキャウフフやってる場合じゃない→真剣にプロを目指す(公募にチャレンジ!)→noteから消える
これですよ、現状は。面白くない理由は。note創作大賞はパンドラの箱を開けた。
第一次世界大戦が2020年の炎上騒動なら、第二次世界大戦はnote創作大賞。
ねえ、そんな街、面白い?
スキなプロがいて、その人の記事を読みたい人は残るかもしれない。でも、私はとくに課金していないし、読みたい記事が減っている。ほぼない。
種種雑多な記事がどんどん更新されて「なんだかわからないけどこの人達キチ○イだな笑」が量産されたら楽しい。面白い。大好き。
時代とともに(横軸:時間)カオスが減って(縦軸:カオス)あとに残るは企業アカウントの硬いステマ記事と、プロの課金目隠し記事と、モブキャラのどーでもいい日記。
【7】「じゃあどうしたらいいのか?」
(1)以前のように記事の1行目だけ表示させる(タイムラインに題名しか載っていない=題名で読ませる変な記事が多い=1行だけでもお試しで読ませれば内容・力量がすぐにわかるのに)
(2)スキをなくす(または非表示にできる)(スキを気にしてカオスな記事が書けないでしょ?)
(3)くだらないコンテストをやる(企業協賛してなくていいから、note社員が自腹でもいいんじゃない?高校の文化祭みたいで楽しいでしょ)
(4)ダークサイドnoteをつくる(note1がいまのnoteなら、note2をつくって、もっとカオスなやばい人を集める)
個人的に1>2>3>4かな。
今週末にやること。
(1)mixiがなぜ過疎ったのか考察する(二の舞いになるよー)
(2)noteのアクティブ数(滞在時間)がどの時期から減ったのか考察する(データはあるので真剣に考察して打ち手を考えよう。今のようにユーザー数だけ追ってたら焼き畑です。日本の人口は限られてます)
(3)社員はユーザーに向けてもっと発信する(そろそろなんか言ってもいいんじゃない?「知らないあいだに大きくなって」みたいな他人事だと、心あるユーザー離れますよ)
【跋文】
ここまで読んでお分かりのとおり、私はnoteがスキだ。毎日ログインしている。でもつまらない。
このままだとある日突然、ぷつっと、ログインしなくなるでしょう。
そろそろ臨界点だと思ったので、警鐘を鳴らしたくて、この場を選んだ。
こんな記事noteに書いても読まれないし。運営に黙殺されるし。
https://ncode.syosetu.com/n3040bl/
→ タナカは美形ではない中年のおっさんかつ厨二病。タナカにハーレムなんかない、タカナの仲間は性別以前に人間ですらない。もちろんモン娘でもない
https://ncode.syosetu.com/n5503fn/
→ 見た目と言動は賢そうだけど、その実、ただのサイコパス幼稚園児野郎が主人公。下記はお気に入りの一節
砕け散っていく闇の中、おぞましいほどに輝かしい笑みを浮かべるリゼ・ベイバロン。
臨界点へと達した独善的思考はもう止まらない。誰に願われたわけでもないのに、リゼはひたすら未来に向かってこれからも暴走し続けるだろう。
ああ、彼こそまさしく人間性の破滅的極致。都合の悪い現実を一切認めず、考えず、幸せな夢の中に完結した『全盲白痴なる魔王』として、ついに覚醒の産声を上げる。
NATOが仮に派兵をした場合、前線はロシア軍が3方面から迫っている中に送り出すことになる。
ウクライナの西側に補給線を張ることになるが、そこは奇襲としての目標となりやすいことになる。
よってロシアがベラルーシ側に大規模な軍を動かした時点でロシアの勝ちがほぼ決まっていた。
どこまで状況は悪化するか。
ウクライナがロシアに占領されるのも時間の問題で、止める手段はほぼない。
ウクライナがチェルノブイリを再稼働させ臨界状態にしたと仮に発表したら時間は稼げたかもしれない。
ロシア軍が迫っている時間がない中、濃縮に時間がかかるような普通の核弾頭は作る時間はない。
ロシア軍側からするとブラフで臨界と言われたら対処せざるを得なくなる。
侵攻ルートにたまたまあっただけというだけなら、わざわざ早期にチェルノブイリ制圧を発表しない。
ロシア軍といえども、日常的に殺し合いをしている兵ばかり集めているわけではない。
民間人に被害が出ているので忘れそうになるが、包囲して何千何万人も民間人を殺害するというのは、
ウクライナの政治家が捕まる、傀儡政権の誕生といったあたりまではシナリオがあるだろう。
ビルゲイツが原発に投資してるって記事を読んで、今の原発より安全性とかが高い原子炉に
投資をしている事は理解出来て、彼が将来性の無い投資をしているという誤解を自分がしていた事も分かった
しかし同時に彼が投資してる技術が実現するのはかなり先になる事も分かった
確かに臨界状態に原理的に成り得ない原子炉は今よりずっと安全だけど
核融合発電が遠い未来になるように、そのような安全な原子炉も実現するのはずいぶん先になるのではないか…?
今の時点では実現する事を期待すべきでは無いんだろう
とここまで考えてみるとそれって一部のAI技術と変わらないのでは無いかとも思った
確かに現時点でも機械学習がビジネスに有効に使われている例もあるけど
一方でAIを活用する例として考えられている物の中には20年以内でも無理そうな物だってあるし
そんな実現まで遠い例にも投資する人達もいるし、そのような投資でも将来性があると称賛されてさえいる
(別にAIへの投資はどれも実現が遠いと言ってはいない。念の為)
高い安定性と小型・高出力を誇るM&Y型ではあるが、燃料となるヘリウム3が高圧環境下でミノフスキー粒子と結合することで臨界反応が発生し、ジェネレーターに直撃被害を受けた場合臨界爆発を引き起こすという問題も孕んでいた。この爆発の威力はスペースコロニーの外壁に容易に穴を開けてしまう規模のため、コロニー内でのモビルスーツ戦が躊躇われる一因となっている。改良型熱核融合炉では構造上この問題が顕著であり、MSの運用に際して大幅な制限が課せられる場合もあった。ただし、炉心部はMSの装甲よりも強固な構造を採用しており、通常手段では破壊される事は無いとされ、MSの爆発は主に推進剤や内装火器の誘爆である事が多いとも言われている。
某所でまたおじさんの文章が炎上中だが、今年は、昭和的な砕けた主張とかお気持ちを表明するおじさんの言動が炎上するという事案が連続して発生しているため、その片隅にいるくだけた文章を書くおじさんとしては、危機感がやばい。
特に、今回のH氏は、自分では全く問題ないと思って今まで通りのブログを書くも、業火にガソリンを注ぎこみながら、ほぼ共通して「気持ち悪い」という評価をいただいている。
最早、理を通り越して、生理的嫌悪感を生じさせるレベルで「ズレて」いるわけで、この致命的な状態は「自分では判らない」から怖いのだ。
そうなっていく浸食の過程や、そうなったと確定される瞬間は、当人にとってはどこまでも無自覚に、そして静かに少しずつ侵されていくものなのだろう。
こんにちの、ある日突然臨界点を迎えたのであろう展開までもが透けて見え、明日は我が身の大きな恐怖はクトゥルフに通じるものがある。
だって、本人は全く悪いと思ってないのだ。それ以上にやばいのは、その事を説明したら世間はわかってくれると本気で思っているのだ。だからあのブログなのだ。
文章以上に所業から来る印象ということは読み取れはするけど、とはいえ自分がいつそちら側にポジションされるのか、氏の所業や行く末以上に、自分の未来のほうが怖いよもう。
が、学ばざるを得ないのであろう。全ての人にとって「おじさん笑うな、行く道だ」なのだ。
「Dr.STONE」といえば科学監修の名目で毎回名前がクレジットされている「くられ」氏ですが、この「くられ」氏も90年代は鬼畜系カルチャーでならした人物です。
しかしこの「くられ」氏はいじめや差別ネタなんてレベルじゃございませんでした。
実際にこの人が作った本で本物の爆弾テロリストを生んでるんですよ。
「くられ」氏が編集長を務めた「危ない28号」という雑誌に爆弾の製造方法を詳細に書き記され、それをテキストに実際に爆弾を作って街中で爆発させた事件がありました。
以下、ここ参考
https://ameblo.jp/7ninblog/entry-11047336229.html
JCO臨界事故に怒りを感じた男が,JCOを爆破しようとして,爆発物を作成,JCO近くの住宅街にそれを放置した事件.
2000.1.6 07:00頃,東海村のJR東海駅から北へ300mほどの住宅街の,踏み切り脇,東海駅東口タクシー乗り場のベンチ前に,赤い液体が入った,清涼飲料水のペットボトルや,金属製と思われる銀色のボンベなどの不審物が,黒いバッグに入れられて放置されているのを,通行人が見つけて茨城県警ひたちなか西署に通報した.
同県警は,爆発物の可能性もあると見て,重装備の機動隊爆発物処理班を派遣.
処理班がバッグをX線で調べたところ,中には塩化ビニール管が2本,鉄パイプが1本入っており,これらはリード線で乾電池などとつながっていた.
また,真鍮管,タイマー,アルミ缶,百円ライターなども見つかった.
鑑定の結果,これが殺傷能力のある爆発物であること,爆発物の一部は,安全装置を解除して,タイマーをセットすれば,すぐに爆発させられる状態だったことが判明した.[1][2]
塩化ビニル管や鉄パイプ、アルミ缶などに、アセトン系の爆薬が詰められ、起爆装置の雷管に鉛筆のキャップを使用。「グロープラグ」と呼ばれる模型の飛行機などのエンジン用点火プラグが装着されていた。[2]
この爆発物は,前年末に発生した,2件の爆弾事件の遺留品などと似ていた.
1件目は1999.12.24,大阪府摂津市のJR東海・新幹線車輌基地「大阪第1車輌所」にて,新幹線から回収したばかりのゴミ袋が爆発.
大阪府警摂津署の調べによれば,爆発物のアルミ缶の中に,有機溶剤をしみ込ませた粉末が詰められていた.
爆発した後の現場には、乾電池4個と充電池、小型のアルミ缶、リード線のついたふたのようなものが落ちていた。[2]
2件目は,その3日後,JR浦和駅のコインロッカーで,その点検中,ロッカー内にあったアルミ製の箱が爆発,管理会社従業員(当時53)が指に1カ月のけがを負った.
埼玉県警浦和署の調べによれば,箱は持ち上げた途端に爆発する仕掛けになっていた.
アルミケースから外にひもが出ており、その先端がロッカーの内壁にテープで固定されていた。
また,発泡スチロール製の球状の不審物は、直径約6センチの半球状のものを2つ重ね合わせて作られていた。
これら2件の事件について,大柴は
「ロッカーの管理がずさんで、警告のために仕掛けた。爆発で死者が出てもいいと思った」[2]
などと供述した.
警察によれば,大柴は同年11月から12月までの間、東京や埼玉などのホテルを泊まり歩きながら、アルミニウム容器に火薬を詰めた上で導火線をつないだ爆発物を製造。
同月20日に,浦和駅西口にあるコインロッカーに仕掛けたという.[2]
「東京駅で新幹線に乗り、小田原駅で下車する際に爆弾を置いた。1時間以内に爆発するようタイマーを仕掛けていた」
と供述した.[3]
大柴が、爆弾づくりのテキストにしたとされる雑誌は,データハウス社(東京都新宿区)発行の雑誌「危ない28号第三巻」(99年3月発行、定価1400円).
特集「危険物!」と題して、爆発原料の入手方法、市販材料や身近な家庭用品を使った爆薬、火薬の作り方などを図解入りで詳細に解説している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B1%E3%81%AA%E3%81%8428%E5%8F%B7
『危ない28号』(あぶない28ごう)は、データハウスから1998年から1999年まで季刊誌として発刊されたアングラ雑誌である。不定期刊誌『危ない1号』の実質休刊後、インターネット系のアングラ・ライターを中心に編集され、第5号まで発行された。現在(2021年7月)では全5巻ともに絶版となっている。
日本がまだコンピュータやインターネットの黎明期だった1998年、KuRaReを編集長にサブカルチャー、アングラ本として発刊される。ハッキングや兵器、ドラッグなど、実行すれば犯罪者になってしまいそうな情報が満載の雑誌であったため、全国18都道府県で有害図書指定されることとなった[1]。
2000年1月に浦和駅、東海村、大阪で発生した一連の爆弾事件で、犯人が同誌を参考に爆発物を製造したと供述したため[2]、刊行済みだった第5巻を最後に廃刊を余儀なくされた。
こっちはくられ氏の本でガチの爆発物テロが発生し、負傷者も出し、下手をすれば死者もでていたかもしれないんですよ。
そんな人間に集英社の週刊少年ジャンプ編集部は漫画の監修をさせ、毎週のように名前を載せ、特集記事に写真付きで掲載してるんですけど、その事をジャンプ編集部や集英社の人達は理解してるんでしょうか?
こっちは本当の死者が出ている可能性があったんですよ??
くられ氏は「実際に作るとは思わなかった」「真似してもらうために書いたものじゃない」とか言い訳してたみたいですが、「どのご家庭にもあるものでカ~ンタンに爆弾が作れちゃいマス♪」なんて事細かに実用性のある爆弾の製造方法を記しておいてそれは無いんじゃないすかね。
真似してもらいたかったんでしょ?実際に爆弾作ってもらいたかったんでしょ?だから書いたんでしょ?
そんで本当に作ってテロ起こっちゃったから慌てて保身に走ったんでしょ???
つうかさ、くられに限らずこの辺の鬼畜系ライターが心底みっともないのって、鬼畜ブームが去った途端みんな言い訳を始めたところなんだよね
「ある種のジョークでやってました、まさか真に受ける奴が出てくるとは思いもしませんでした」ってさ
根本敬も唐沢俊一も自殺した青山正明も殺害された村崎百郎もみ~んな同じような苦しい言い訳をしていた。
村崎百郎なんて殺された時まわりの連中「まさかこんな恐ろしい事になるとは・・・!」って悲しむフリしてみせてたけどさ、ほとんど自然の摂理のようなもんだろ。キチガイ煽ってキチガイに殺されたってさ
そんで追悼本なんか出したりして、ダッセエの。
話は逸れましたけど、最近の小山田圭吾を発端とする90年代鬼畜ブームを断罪する流れでいうならくられ氏も当事者であり、こっちはいじめ差別どころか死者も出てたかもしれない爆発物テロ事件が実際に起きましたから。
その流れで言えばくられ氏が関与している週刊少年ジャンプ連載漫画「Dr.STONE」は即刻連載中止、絶版回収にするべき
良くてもくられ氏が監修した部分は全面的に削除するべきです。
当時高校生だった私は3.11のその年に福島県の大学(会津大学)に入学しました。あれから10年も経ってしまったので、私のごくプライベートなことについて書きます。
2011年の3月11日に、私は茨城県の博物館の中にいた。高校の卒業式が終わって、車の免許を早々にとったらしい友人と二人、車で博物館にきていた。地震のとき、私は吹き抜けの空間の中心にいて、長い振動の間、博物館全体のガラスは轟々と鳴り響いていて、「ああ、私は、今日が命日なのだなぁ」と人々の動揺の中、思った。
実際にはガラスの耐震性能が高かったので、館内にはけが人はいなかったようだった。
信号機の止まっている、徐々に昏れていく道を、車中でほとんど会話もなく急いで帰った。急いで帰ったけれど、通常の2倍以上もかかって家についた。
私は地震の直後、2ちゃんねるに張り付いていた。「福島の原発がやばいらしい」そんな書き込みを見て、いよいよ日本は終わったんだ、と私は思った。
私が高校生の頃、世界の原発事故のドキュメンタリーが大好きだった。チェルノブイリ、スリーマイル島、東海村。「原子力」という尋常ではないエネルギーが生身の社会に取り込まれて、人間の内側におとずれるということに私はなんとも言えないグロテスクさを感じて、親や友達に気持ち悪がられながらも読んでいたのだった。
当時、特にJCOの臨界事故のNHKのドキュメンタリーは何度も読み返したものだった。事故が起きた時、「出奔した原子力」に対しての(政治的・肉体的・精神的)人間の無力さ、弱さのコントラストがあまりにもどぎつく、生々しく顕れていたからだった。
私は地震が起きて、一、二日後にはリビングのこたつを占拠して、こたつのど真ん中にデスクトップPCを置いて、情報官気取りで気象シミュレーションをみたりしていた。そして、家族にも協力してもらい家中のシャッターを閉めた。それくらい、当時私は怖かったのだと思う。
私は震災の年、福島県の大学に入学した。私の地元の同級生にも福島県の大学に入学する予定だった子がいたが、辞退したらしかった。大学の入学式は遅れて執り行われた。ガイガーカウンターを買った方がいいかな、とか、「あそこには近づかない方がいい」とまことしやかな噂を聞いては少し怖いな、という思いが常に頭にあった。
しかし、入学してみると、その話はなんとなくしてはいけない話に思えてきたのだった。それはその土地に長く住んでいて動くことができない人たちには、惨い話であるからである。私もいつの間にか、放射線の話はしてはいけない気がして、話題にするのをやめた。すると、怖いという感情もいつの間にか薄れていった。
しかし、時々、放射能汚染される夢を見ていた。これはつい福島県を離れる少し前まで見ていたのだった。
私の当時住んでいたアパートには窓の近くにベッドがあって、その窓の外には何年も取り込み忘れたバスマットが干してあった。私の覚えている夢では、実はそのバスマットは大気中のチリや雨に放射性物質がたっぷり含まれていて、そのバスマットの線量が高くて、実は私の身体が蝕まれていて……という夢であった。何年もそのバスマットを干しっぱなしにしてしまったのは、もしかしたら、そういうことに対する無意識的な恐れから触りたくなかったのかもしれない。
私は、大学で特にパッとした研究もできないでいるのに何年も何年も大学にいた。でもそれが良かったのかもしれない、と今では思う。福島県という土地に「土着」して、私なりの感覚で放射能の感じ、特にその怖い感じの中に居たということが。
私はもともと怖い思想の持ち主だと思う。正しいと思ったら、それに突き進んでしまう。人の感情も、中学生くらいから読まないように生きてきてしまったため、無視する癖がついてしまっている。だから、原子力という「科学技術がコントロールから外れた状態」の中に当事者として生きた、というのは私が、私の歴史にとって重要なことなのである。もちろん、日本にいたら誰だって当事者なのだが、私は福島県に住まわず当事者と思えるほど賢くない。
3.11から10年が経って、私は福島県から遠い場所に住んでいる。今は遠くから考えることしかできない。
最近、原子力、ひいては(科学)技術についての論考を読んでいる。1950年台、まだラジオな世の中で、近未来的なもの、技術とか科学が大きな期待を背負っていて、すごくキラキラしていたであろう時代、人々は核の技術に対して、今でこそ信じがたいが「核兵器の利用は良くないが、核の平和的利用こそ人類の幸福につながる」と本気で思っていたようなのだ。多分、今でいうところの、テレビのCMでIT系の企業がたくさん広告を打っていて、ITの企業に勤めていることが一種のステータス(少女漫画に出てくる男性がIT企業勤め!)になっていて、AIすごい!VRすごい!仮想通貨すごい!IoTすごい!みたいなイケイケドンドンな感じだったのだろうと思う。そんな時代、「核兵器はまだ可愛いもので、核の平和利用こそ恐ろしい」と指摘した人、ハイデガーがいた。今でなら、「AI, VR, 仮想通貨,IoTで大量殺戮するのはまだ良いことで、それらの平和利用こそ恐ろしい」と言うのと同じことなのである。今でなら炎上やむなし発言なのである!しかし、このアナロジーを単なる面白おかしいアナロジーとしてだけで捉えていいか。彼は世の中の潮流とは全く違う発想を省察によってしたからこそ、核の平和利用の危険性をかなり早く認識できた。
ハイデガーは「技術」について『放下』の中で、(科学)技術に対して「その価値を認めつつ、それに対して否、と言う」 ―ーこの本のタイトルにもなっている、「放下」という態度が大事なのではないか、と言っているらしい。(まだ『放下』は直接読めていないので、「らしい」でごめんなさい。)
そして、彼は思考について、「計算する思考」と「省察する思考」とに分けて考えており、彼は「科学は考えない("Wissenschaft denkt nicht")」、科学は計算する思考であって省察ではない=「考えていない」、というしかたで核の平和利用について否、と言ってみせた。
「科学は考えない」
これは、理系の立場で仕事している者にとっては「耳が痛い」ことなのではないか。しかし、耳が痛いからこそ考える価値があるのではないか。
彼の言っていることを私は理解できる気がするのだ。科学は進歩的に進んでいく。その「ひたむきに進んでいく」ということが「科学は考えない」と彼が言う理由なのではないかと私は思う。何か、ある方向に、引っ張られるように「進んでいく」。立ち止まる者は厄介者として排除される(Publish or Perish)。ハイデガーは技術を批判するだけではない。もちろん価値を認めつつ否定するという態度を彼は実践している。私も技術がなくなったら困る。方向音痴の私はGPSが無くなったら、地図が無くなってしまったら、とても狭い世界を生きることになってしまう。だから難しい、ある意味、矛盾の中を生きなければならない。
私は、実は博士過程を休学した。プライベートも荒れてしまったし、閉塞感でいやだったし、どうしても、論文が書けなかったのだ。
私は小さい頃から哲学が好きだったらしい。「最近、哲学系の本を読んでいるよ」と昔の友人たちにいうと、みんな「よく哲学的な話してたもんね」と言ってくる。
でも、私が文系に進学しなかった理由が、「確かなものが何もないと怖い」という恐れからであったし、国語がとても成績が悪いし、理系ってなんかかっこいいとか思ってたのもあって、ずっと理系の研究室で研究していて、哲学とか諸々の教養がほとんどないのだ。
「哲学を最近やってる」と言うと大半の人に苦い顔をされる感じがする。「中二病が抜け切っていないな、こいつ」と言いたげなそんな感じ(笑)。おそらくそれは哲学に「生産を止める」作用があるからなのではないだろうか。無意味で、ある意味破壊的な作用が。
以前、こんなことがあった。課外活動で何人かで集まってスマホアプリを作ろう、となったときに、誰かが「xxさん(有識者らしい)から教えてもらった方法で、xxという仕方でブレーンストーミングすると良いらしい」と言った。私は「なんでその方法でなければならないの?」と、ある意味チームの士気を下げるようなことを言ってしまったのだ。こういう「そもそも論」(哲学)というのは「生産を止めてしまう」。イヤな感じに水を差す。だから疎まれる。
しかし「生産を止める」という行為が実は重要なのではないか。世の中的に、「生産的=いいこと」という認識がある。生産を止め続けないことがそれほどいいことなのだろうか。これこそが、ハイデガーが批判するところの「考えない」態度ではないか。「より幸せに、より便利に」を目指すために科学や技術を信じて、生産、生産、生産、とひたむきに努力してきた末の原発事故ではないか。
昔の時代、原子力は「兵器として利用されることはとてもよくないことであるが、平和的に利用するならむしろ幸福に導く」と信じられていた。
今の時代も同様に、情報技術や生命科学が「非倫理的に利用されるのはとてもよくないことであるが、平和的に利用するならむしろ幸福に導く」と信じられている。「再生可能エネルギーでなら、持続可能な社会が実現できる」とも信じられている。
もし、「なぜ地震大国に原発つくったらヤバイという今ではあたりまえの認識を持てず、当時誰も水を差す人がいなかったのだろう?」と考える人がいるならば、なぜ、現代においてもその人が水を差す人にならないのかが不思議なのである。だから、私はあえてこうして水を差す、ということをしてみたい。
ということで、私の全然論文を書けていない「生産しなかった」大学時代も、この哲学的態度の実践とみなしてこの文章を締めくくることにする。