はてなキーワード: 悦に入るとは
艦これをやったことない自分が、艦これに対する俗物感を感じたお話 - 水面の落ち葉が揺れ動くように
こういうのに対して必ず「艦これは対人要素ないから(ドヤ」みたいな擁護が沸くわね
艦これにある対人要素は、ゲーム内にとどまらない、艦これ関連の話題すべてにおける自分の立ち位置の優位性維持争いなのよ
他のソシャゲと同じような、もっと言えば遊戯全般に通じる自尊心・他者への優越・劣等感、嫉妬っていうありふれたものなのよ
例えば、
ゲーム内での直接的な優劣がつけにくいのであればそれ以外の場所で優劣つけようとしてるだけ
醜いプライドの争い
ゲーム内の勝負ではっきり優劣つけるよりよっぽど醜いのよ
カネをかけなくてもどうにかなるゲームである=カネをかけてもどうにもならなかった人間もいるということで、運ゲー要素もあいまってその醜さは他のソシャゲよりかなりひどいのよ
愛する子だけ愛でてればいい?新しい子がでたら欲しくなるのが普通の人間のサガなのよ
これくしょんと銘打っているのにこれくしょんできずにあまつさえ他プレイヤーがこれ見よがしに自慢してると嫉妬の渦で毛根死滅して禿げちゃうのよ
(´・ω・`)わかって?
http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-2281.html
**以下引用**
ダニング-クルーガー効果 上から目線の人や自信家はむしろ愚かであることが多い「アメリカ人は30カ国中数学25位、科学21位、自信は1位」
個人的な経験と感覚で正確性も何もないものですが、ブログのコメント欄(現在は閉鎖)では上から目線の人や、自分は何でも知っているぞというスタンスの人の方が、幼稚な主張であることが多かったです。
また、有名人でも「自分はすごいぞ」という言動をなさる上杉隆さんなど虚言癖のある方が、論理性のまるでない主張をして一人悦に入るところが見られます。
そういった私のイメージが思い込みじゃなくてある程度一般的な傾向なのかも……と思ったのが、次の話です。
アメリカ人は先進30カ国で数学25位、科学21位、ただし自信は1位
(略)Education.comと言うサイトのコラムでは、アメリカにおける教育の現状を冷静に分析しており、要約すると以下の5点を問題に挙げています。(中略)
2. 国際比較をすると明らかに学力が低い
国際ランキングでは数学が25位、科学が21位。2002年に落ちこぼれの子を出さない誓約を立てながら、8年後の実情はミシシッピで14%、ニューヨークで30%、そしてカリフォルニアで24%のみが数学を習得している。また、全国では24~34%の子供だけがその学年レベルの読みを習得している。驚くことに、数学のレベルの低さとは別に、他国と比べてアメリカの生徒が数学に1番自信を持っているとの結果が出ている。(中略)
・アメリカの子供はいわゆるダニング・クルーガー効果"Dunning-Krugereffect"によって、自信が1位になっているのかも。
・ダニング・クルーガー効果:無能な人ほど自分の能力を過大視するという心理学。認識の偏り。知能の低い人間ほど自分をかなり知能を高く見積もる、あるいはその逆の認識をするケースが往々にしてある。
http://labaq.com/archives/51674348.html
このダニング・クルーガー効果に関する話は後々やりますが、上記で省略した部分も気になるでしょうから載っけておきます。
1. 現在のアメリカでは教育に対する予算カットが頻繁に行われているが、問題はお金だけではない
インフレ率に合わせて、生徒一人当たりに費やされる金額が30年間に4300ドルから9000ドルへと倍増したものの、成績が全く上がっていない。他の低予算の国よりスコアが悪い。(中略)
3. 教師の質が著しく落ちているが、解雇出来ない
他の専門職では失敗をすると失職したり資格を剥奪されるのに比べて、ほとんどの教員はふさわしい資質を持っていなくても職を失わない。イリノイ州では57人に1人の医者、97人に1人の弁護士が資格を失っているのに対し、教師は2500人に1人のみ。巨大化した組合が、教職を2年務めると終身雇用という契約を結ばせるためである。
4. チャータースクール(民間運営の新しいタイプの学校)が質の悪い公立の学校の代わりとなっている
普通の学校でうまくやっていけない子たちのバックアップとなっているが、良い結果を出しているチャータースクールは5校に1校しかないのが現状。
5. 子供を学力別に分けることは不公平であり、多くの生徒の成功を奪う
学力別に生徒を分けることはアメリカでは一般的に行われているが、中レベルから低レベルの位置にいる子供に不利な可能性がある。この学力別システムは1950年に始まり、20%のみが大学に進み、30%が専門職(会計士、経営者、その他の大学の資格を必要としない職)、そして50%が肉体労働者になる。
「3. 教師の質が著しく落ちているが、解雇出来ない」ですが、アメリカの先生は日本の比じゃないほどレベルが低い、より正確に言うとレベルの差が激しいようです。
私はそれはきちんとした教員制度がないせいであると聞きましたが、「終身雇用」ってのもびっくりですね。
学力別に生徒を分けた後が問題であり、この場合下位を切り捨てにしているからということでしょうが、その層に適した教育を重点的にやるということは理論上は可能です。
学力別に生徒を分けないということは高校を全部学区別にするなどして、レベル別にしないということになりそうですが、そうしたとしても結局大学は学力別に生徒を分けます。
世界大学ランキング2012-2013 東大はアジア1位で27位(3つ上昇)で1位だったマサチューセッツ工科大学(MIT)への入学を学区制にしましょうとは、さすがに誰も主張しないでしょう。
あと、こういう風に現在学力別に分ける状況にありながらも、なお「1番自信を持っている」というのも不思議な気がします。
普通はこうやると自信を持つ生徒が減りそうなものですが……。
こちらを広げると話が逸れていきますが、先の「アメリカ人は先進30カ国で数学25位、科学21位、ただし自信だけは1位」の波紋です。
・ダニング・クルーガー効果もこの現象の原因ではあると認めるが、どっちかと言うとこれは、アメリカの教育が自尊心を増大させていることが一因のように思う。
良いことを実行させるよりも、文化の良いと思わせる点を強調している。アメリカより科学などで抜きん出ている多くのアジアでは、それほど自尊心を強調しようとする概念がない。でもそれなりに満足を得ているか、自尊心が高い国より幸せだったりする。それは幸福の本質が単に自分のことをどう思うかだけではないからだ。
だから失敗を認めたり、訂正をすることは自分自身の見方を脅かす。これが全てを説明してるとは思わないが、好きな解釈のしかただ。
・自分が何をわかってないかをわかってない状態ってやつだな。同じことがスペイン語を学んだときに自分にも起こったよ。習い始めた最初の1学期が終わったとき「もうスペイン語はだいたい何でも言える、次の学期では何をするのかな」。次の学期が終わる頃「やっと過去形が終わった。うわまだ何もわかってねーじゃん」。(略)
・世界にNo.1であることを宣言し続けなくちゃいけないのなら、深刻な不安定さを象徴している。そういう間違った自信が国を滅ぼす。皮肉にもこの手の崩壊をもたらすやつらこそが、愛国者と呼ばれたりしている。
・宣伝工作もだよ。「世界で1番の健康保険」とか「世界1の憲法」とか「我々の民主主義がすばらしすぎるので輸出しよう」とか、「世界1自由な国民だ」とか。
・その「自由」ってのに引っ掛かる。過去15年で5カ国(スコットランド、オーストラリア、カナダ、アメリカ、ドイツ)に住んだよ。で、一番不自由な体験をしたのがアメリカさ。
・単に他の国が、いちいち「我々はナンバーワン!」とか「U-S-A U-S-A!」とか叫ばないだけだ。ちょっと恥ずかしいだろ。オーストラリア人より。
・記事によると同じ試験を受けた他の国の子供たちは、「一番出来るというわけではない」と答えている。(略)
・実際アメリカは世界的には偉大な大学を持って、研究者も世界中から集まっている。それからお金もだ。研究するための莫大な金を持っている。
・確かに世界でもベストといえる施設だが、研究者たちの70%は少数派の民族だ。(アジア人とか東南アジアとか)
・少し誤解を招いている。サンプルのサイズに大きな問題がある(アメリカは他の国と比べて大人数を教育し、さらに国がそれを無料で提供している)。試験の点数は35%もいる黒人やヒスパニックの悪い成績により引き下げられている。アジア系アメリカ人は平均541点で、上海、香港、日本、韓国と似通った点数である。ヒスパニックではないアメリカ人は平均525点でカナダの524点、ニュージーランド521点、オーストラリア515点に匹敵している。それとは対照に平均のヒスパニックは446点、黒人441点である。
・その書き方だとアジア人、黒人、ヒスパニックはアメリカ人じゃないみたいだな。
・カナダもマルチ民族で白人ばかりではない。オーストラリアやニュージーランドもだ。なのでやはり全体として悪いんだよ。
・違いは民族から来るというより文化からだね。他の文化に比べて、学習することを強調するサブカルチャーもある。
・1年レジで働いたが、みんなお釣りがいくらになるかわかってなくて、小銭を嫌い、余計に請求されても感謝していた。
・「近代の基本的な問題の原因は、愚か者が確信しきっていて、賢い者が疑問でいっぱいだからだ」―バートランド・ラッセル
オーストラリア人としてアメリカに6年住んだ経験から、両国の差を次のように考える。
アメリカ人は「NBAにプレイできるように頑張る」とか「NBAでプレイがしたい」というより、「NBAでプレイをするんだ」といった風に育てられる。自身を肯定することが根付いているんだ。利点としては自信を持つことで実現につながるし、ポジティブ思考であり、自分を信じることにつながるが、欠点としては、自身に対する錯覚や思い違いにつながることがある。
オーストラリアでは偽の謙虚さが根付いていて、自慢したり、何が得意だとかは絶対に言わない。がんばるしベストは尽くしても、自分が人より優れているとは思わない。昔はこれが尊敬すべき方法と思っていたが、今は2つの観念の間にはさまっている。アメリカに住むまでは自分が何かを得意だとは思わなかったし、ネガティブなコメントを恐れて言うべきことを遅らせたりした経験もあった。アメリカの「出来る」という態度や大げさな褒め言葉やサポートは気に入ってる。オーストラリアの真面目に働くところや謙虚さも気に入ってる。
最後にバランスの良い意見が載っていましたが、ダニング・クルーガー効果は全体的な傾向であり、絶対的なものではありません。
場合によりけりであり、世の中では自信を持つことが大事という主張がむしろ多いように、これが良い助けとなる場面も存在します。
過ぎたるは及ばざるが如しで、極端に自信がないこともまた問題となるでしょう。
といった点を踏まえつつ、ダニング・クルーガー効果の別のところの説明です。
ダニング・クルーガー効果(Dunning-Kruger effect)
(略)これは、コーネル大学の2人の研究者の実験による理論として1999年に発表されたもので、「知識の少ない人間が、もっと知識の多い人々より自分の方が物事をよく知っていると思い込む」現象のことです。実験に当たって彼らが立てた仮説は以下の4つで、結果的にそれらがほぼ証明されたのです。
1. 無能な人々は、自分のスキルのレベルを過大評価する傾向がある。
2. 無能な人々は、他者が持っているスキルを正しく認識できない。
3. 無能な人々は、自分の無能さがどれほどのものかを認識できない。
4. こうした人々も、本質的にスキルが向上するような訓練を施されれば、それまでのスキル不足に気づき、それを認めることができる。
http://ogasawara.cocolog-nifty.com/ogasawara_blog/2011/06/dunning-kruger-.html
「それまでのスキル不足に気づき、それを認めることができる」とありますが、能力がない人ほど自分の間違いを認めることができないというのは、最初に書いたコメント欄、有名人だけでなく、職場の人を見ていても感じます。
もう一つのブログはかなり詳しいですけど、ダニング・クルーガー効果以外の話です。しかし、内容的には同じ傾向の話があります。
それほど自信のない人のほうが、より成功する?
by creiajp on 7月 12, 2012 • 12:30 未来の人事を見てみよう
The Worse-Than-Average Effect: When You're Better Than You Think
平均以下効果: もし自分が思っているより自分がマシだった場合
http://www.spring.org.uk/2012/06/the-worse-than-average-effect-when-youre-better-than-you-think.php
そして、
Less-Confident People Are More Successful
それほど自信のない人のほうが、より成功する
http://blogs.hbr.org/cs/2012/07/less_confident_people_are_more_su.html
最初の記事で話題になっているのは、Worse-Than-Average Effect (もしくはBelow-Average Effect) で、ここでは「平均以下効果」と訳しました。(中略)
"もし自分が何かが得意だったとき、同様に他の人にとってもそれが得意だと思いこむ傾向があること。したがって、もし自分が得意な物事において難しいタスクにぶち当たってしまった時に、自分の能力を過小評価してしまう〔なぜなら他の人は得意に違いないから〕"(中略)
この説を唱えているクルーガーという学者は、一般的にはダニング・クルーガー効果で知られています。(中略)
"人々は、チェスやギャグ、ジャグリングやプログラミングといった、ステレオタイプ的に難しいとされる能力について過小評価する傾向がある。"
ということで、自分がある程度学習して出来るようになった能力は、自分でも出来たんだから誰でも追いつけるはずで、自分はそれほど大したことないはずだ、という思い込みですね。実は習熟するまでにはそれなりの時間を投資しているにも関わらず。
http://www.creia.jp/blog/2012/07/12/6
平均以下効果はダニング・クルーガー効果の"逆パターン"だそうです。
本当はよくできているのにも関わらず、そうではないと思う方ですね。
なお、"それほど複雑ではない簡単な内容については、先のダニング・クルーガー効果のほうが当てはまる確率が高い"そうです。
ということは、高度な分野においてはダニング・クルーガー効果はあまり現れず、平均以下効果の方が現れやすいということでしょうか?じゃあ、今日の最初で書いた上杉隆さんは例外になっちゃいますね。
どうにも扱いの難しい「自信」の取り扱いですが、Harvard Business Reviewに載った2番目の記事では、自信のない人のほうが、より成功する、という説を唱えていて、このメディア上ではコメント欄が200近くに達して軽く炎上しています(笑)。(中略)
"自分への自信は低い時に限って助けになる。"
とのこと。ただ、extremely low (極端に低すぎる) のはダメ、とのことで、その案配がどうにも難しいところなのですが。
先のクルーガーの「平均以下効果」が発揮されているような自信のない人のほうが、自信満々の人よりも成功する要因は、以下の3点にあるとのこと。
1.Lower self-confidence makes you pay attention to negative feedback and be self-critical
低い自信はネガティブなフィードバックへの傾聴を促し、自分自身に対して批判的になれる
2.Lower self-confidence can motivate you to work harder and prepare more
低い自信はさらなる勤労・勉強と、さらなる準備に向けたモチベーションを起こさせる
3.Lower self-confidence reduces the chances of coming across as arrogant or being deluded
低い自信は傲慢になったり勘違いしたりといった傾向を減らしてくれる
他人の無知を指摘することは簡単であるが言うまでもなく人間は世界の全てを知る事は出来ない。ギリシアの哲学者ソクラテスは当時、知恵者と評判の人物との対話を通して、自分の知識が完全ではない事に気がついている、言い換えれば無知である事を知っている点において、知恵者と自認する相手より僅かに優れていると考えた。また知らない事を知っていると考えるよりも、知らない事は知らないと考える方が優れている、とも考えた。
なお、論語にも「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」という類似した言及がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%9F%A5
適度に謙虚でかつ貪欲にという姿勢が大切なのかもしれません。
(12/8追記:こういうコピペがあるそうな。
「パソコン詳しいですか?」
工学系「(寄せ集めで自作PC作ったくらいだし…)いえ、そこまでは…」
情報系「(周りの奴のほうが詳しいしな…)まぁ、人並みには…」
文系「(パソコン?毎日YouTube見てるしな…)あぁ、詳しいっすよ」
2012-01-10■僕は自分が思っていたほどは頭がよくなかった しのごの録
"(中略)高校の成績は、いままでずっとAを取りつづけていましたが、去年始めてBをとってしまいました。もしそのBがなければ、卒業生総代に選ばれていたでしょう。
総代にふさわしいのは自分だ、つまりクラスで本当に一番頭がいいのは自分だと思いたいです。でもこの一年で、僕にそれほどの知性はないし、僕より頭のいい人はたくさんいるんだということを思い知らされました。
また僕は、自分の頭のよさについて、少なくとも自分自身に対して嘘をついているところがあります。成績表からAがひとつ盗まれちゃったんだということにして、自分自身を納得させようとしているんです。(中略)昔は、自分はMITに行けるものだといつも思っていました。でも、その可能性はゼロに等しいんだという厳しい現実が明らかになってしまいました。(中略)"
対する返信。
"私は意気揚々とMITの寮に引っ越してきました。(中略)一年生の微積分と物理の単位をすでに取っていました。(中略)
時間が経ち、壁にぶち当たりました。私は高校時代それほどよい生徒ではありませんでした。悪い成績をとれば、適当ないいわけをしたものです。そんなものどうでもいいとか、忙しすぎたとか、やる気がでないとか(中略)自分はちょっとやる気がないだけで、他の誰よりも頭がいいんだと思えました。しかしいまや、そんな考え方は通用しませんでした。(中略)ほんとうに惨めな気持ちでした。
幸運なことに、私のとなりの部屋にはRという賢いやつが住んでいました。Rは、控えめに言っても、優秀な学生でした。(中略)微分方程式に半学期悩まされたあと、プライドを捨ててようやくRのところへ助けを求めに行きました。確か彼は私の教科書を一晩借りて復習して(彼は小学3年生からの全ての授業内容を憶えているわけではない)、その後、私の分からないところをひとつひとつ丁寧に解説して教えてくれました。その結果、学期末に私はB+をとり難を逃れることができました。ここでひとつ大切なことがあります。それは、彼が教えてくれたことのなかに、頭の回転が速くなければ理解できないことなどひとつもなかったということです。彼のことを知るにつけ分かったことは、彼の知性と実績のほとんどは、まさに勉強と鍛錬によってもたらされているということでした。(中略)
「頭がいい」ことが成績の良し悪しを決めるのだと言って自分自身を欺くのは簡単なことです。とても多くの場合で、これはあり得るなかで最も安易な説明です。なぜなら、これを認めれば努力をする必要もありませんし、自分の失敗をただちに正当化してくれるからです。(中略)(おもしろい事実:SATの成績と最も相関の高い変数はSATのために費やした勉強時間です。)
http://d.hatena.ne.jp/tictac/20120110/p1
ダニング・クルーガー効果と平均以下効果のどちらかが現れるかの境目とも関係するんじゃないかな?とちょっと思ったので、ここで紹介しました)
ほら、mixiってもはや自分たちの生活にほとんど関わってないし、
ネットインフラの1つとは認識しなくなった人がほとんどだよね。
それなのに、特にITっぽい界隈のひとで、今でもmixiの動静を
ああだこうだと取り沙汰したがる連中がぽつぽついるのがよくわかんない。
ホリエモンやグリーみたいに吹け上がって怪気炎上げてたというわけでもないし、
株価はすごかったけど、ことさらに収益性が良かった時期があるわけでもない。
「PCベースのSNSとして他に受け皿がなかったのと、足あと機能がヒットしたんで
たまたま実力以上の拡大をしちゃったけど、リテンションと収益拡大の
二の矢・三の矢がなくてそのまま没落しつつある」という、
やまもといちろうあたりは今でも記事のシメでmixiをネタにするけど、
あれ、なんか死体に蹴り入れてるみたいであんまり愉快なもんじゃないし、
むしろやってる側のセンスが疑われるような…って思ってしまうのだが。
俺が知らないだけで、mixiには今でも何かを語りたくなるような要素が残ってるのかなあ。
この日記の論点は2点。
1点目はなぜ現代日本ではサヨクの人の方が言論や議論を否定したレッテルばりと一方的な言説を行うのかという疑問提起
2点目は文中の疑問にサヨクの人がどう答えるのかという純粋な疑問
中学の頃からの友人で両親が高校の教員をされていて日教組に入っている(本人がどうかは僕は知らない)友人A
一時は親友と言っていい関係だったと思うけど、今は疎遠となっている。といっても2年に一度くらいは会うのだが。。。
なぜ疎遠になったかというと、普段はとてもクレイジーで面白いやつなのだが、なにかことがあると(例えば現在の原発問題や尖閣諸島問題など)、勝手に「サヨク的発言」を熱く語りだし、面倒くさいから。また、それに反論すると即座に「軍国主義的」「国にだまされている」等とレッテルばりをして悦に入る。非常に鬱陶しく、場がさめるので自然と疎遠となった。
ここで1点目の論点。なぜ現代日本ではサヨクの人の方が言論や議論を否定したレッテルばりと一方的な言説を行うのか?
議論があるところには多かれ少なかれレッテルばりがあり、「サヨク」の人からは当然「ウヨク」の人はすぐに「売国奴」といったレッテルばりをするという反論があるだろう。
ただ、これは勿論僕の印象でしかないのだが、現代日本では例えば軍備の必要性を問うた場合に即座に「軍国主義」「帝国主義」などとののしられ、議論を行うことが出来ない印象がある。逆に売国奴などとののしる「ウヨク」の人はごく少数だ。
大抵の議論の場において僕の印象では、
『XとかYとかって条件があるからどうしても沖縄に軍が必要で、、、』
『うーん。そう考えざるを得ないし、なかなか難しいけど、、、』
『うん。戦争は嫌だよね。でも、攻められたら怖いし、守る必要があるからね』
『でもまあ相手が軍を持っていて攻めてくる可能性があるからね、だからこっちとしても対抗できる力は持っていないとね』
『ああ、軍を持ちたいって思想の人なんだね』
『?いや?戦争とか軍とかないほうが良いとは思うんだけど、でもあるのはしょうがないって話をしてるんだよ?』
『だからそういうことを言い訳にしてまた軍国主義に戻したいっていうんだろ』
『?いや?そんなことは言ってないんだけど、、、』
『やっぱり軍が欲しい、戦争をしたいって人にだまされてるんだよ』
というパターンにおちいることがほとんどのような気がする。なぜサヨクの人たちはこうやってすぐに軍国主義やだまされているというキーワードを用いて議論を終了させようとするのだろうか。本来的な思想として、左翼的な思想の方が議論親和性がありそうな気がするのに、なぜこうも情緒的でレッテルばりばかり行うのだろうか、、、
で、友人Aであるが、僕もすこしイライラして一度がんばってもう少し議論してみたことがある。
『とにかく軍を持ってはだめっていうのは納得がいかないよ。何度も言うけど攻められるのは怖いよ。攻められることがないくらいには軍を維持しておきたいよ』
『非武装なら攻められないよ』
(『なんでそんなこといえるんだよ』『非武装なら普通攻めないよ』)x2
『・・・ちょっと話し変えるけど、南京大虐殺についてどう思うの?僕は少なくとも強調されすぎてることが多いと思うんだけど』
『あんな悲惨な事件はないよ。ひどいことだよ。こういったことを繰り返さないために軍を持っちゃいけないんだ』
『南京大虐殺では非武装の人を日本軍がたくさん殺した。そう言ってるって理解していい?』
『もちろん』
『それは非武装でも攻撃される可能性があるっていうことだよね。しつこいけど、僕は南京大虐殺ってやつについてちょっと疑いを持ってるけど、それは別として』
『・・・』
第2の論点はここである。友人Aはここで黙ったのでどう考えているのか分からないのだが、他のサヨクの人はこの疑問にはなんて答えるのだろうか。もちろん、僕は国家として武装していない状態と都市が占領された後に非武装民がいることについて差異が少しあることを理解している。ただ、この条件下ではほぼ差異無く扱えると考えている。非武装の人を虐殺したという例(虚偽の可能性もあるが)を持ち出し、自分たちが非武装なら攻め込まれず非武装であるべきと説くその矛盾になぜ気づかないのか。
なんでみんなやたらと不必要に上から目線だったり攻撃的だったり傲慢だったりするの?
正しければ相手を見下してもいいの?
そもそも本当に正しいの?
相手をけちょんけちょんにすることで悦に入るネットユーザーの民度は、あなたたちがよくバカにしている特定日本人とかと一緒だよ?
自分は違う、みたいな変な特権意識もとい自意識があるんじゃないの?
ただの鬱憤晴らしはやめようよ。
別に馴れ合おうってわけじゃないけど、ネチケットって言葉があった頃を思い出してよ。
ネット弁慶が多すぎてすごく白けてるよ?
何も面白くないよ?
一人で毒づくぶんには構わないけど、他人に無用なうんこを投げつけるようなバカな真似はやめてね?
うんこを弄りたいなら一人で部屋の隅っこで突っついといてね?
そして部屋から一生出て来ないでね?
わかった?
昔のはてなといえばブックマークでアクセス数を伸ばしまくることで、岩崎夏海みたいな禿を社会に送り出すカタパルトみたいな機能を有していた。
もしくはちょっとアンテナ高いやつがあまりブクマされてない記事にシニカルなコメントを書き込む厨二的スノビズムこそがはてなのいいところだったのにさいきんのはてなは何?
主婦層やギャル層で話題になってる話題なんてひとつも把握できてない。
アルファクリッパー(笑)の周りで鼻を利かせて炎上して叩けそうなネタに集まって俺の中のルールではこれAUTO!と叫んで悦に入るだけ。
挙句の果てにはてな界隈で話題になってないから、と古参ブロガーが一生懸命記事をまとめて紹介する始末。
さらにはこのていたらくをデザインリニューアルのせいにするのだから堕ちたものだ
ネタじゃなくてリアルに思い付く限りのギリッギりで明日リカバリ可能なレベルの酔っぱらい反則行為を挙げてみました。自分はまだ甘いでしょうか?百はねえわ。
アニメが原作絵と違って気持ち悪いと評判の惡の華。1話を見て興味を持ち、ネットであらすじを探って、原作本を全巻購入し、幾度と無く読み返してもまだ飽き足らない。子どもじみた中学生らしい登場人物が、思春期特有の心理状況を抱えながら、自己を萌芽させ、徐々に顔つきも大人びてくる。当初はギャグテイストの悩みや災難も、次第に力を帯び、心をえぐり、魂をすりつぶすほどの痛みになる。登場人物は傷つきながらも正気を失わず、自分の心が発するの声にしっかりと耳を傾け、美しくも悲しい物語を紡いでいく。マンガやアニメの主要な購買層が求めている作品ではない。思春期で思い悩む少年少女とってのバイブル、恋愛や社会との関わりの中でひどく傷を負い、いまも人知れぬ痛みを抱える人々にとっては、癒しの物語となるだろう。
高校生編はまだ途上なので評価は避けたい。蛇足にならないよう願いたい。常盤さんと付き合うことになったが、仲村さんが登場するならば春日には破滅しかない。常盤さんという人物が、高校生となりある程度社会性を身につけた仲村さんとしての役割を担うならば、仲村さんは永遠に登場してこないだろう。
中学生編は、3巻の峠を境に前半と後半に分かれる。前半は主人公が、あこがれの娘の体操着という、無意識の海に落とし込んだ財宝とも言うべきものを盗むことから始まる。思春期は幼い子供だった時代と別れ、自我が覚醒する時期。親や学校、友人らと同一の存在であり、他とは異なる自分というものがなかった幼い自分に別れを告げる時期。未知の財宝を奪うという行為は、通常の意識よりも深いレベル、無意識から発せられる。さらに、住み慣れた世界から自己を引きはがす未知のモンスターが登場。深淵からの使者、仲村佐和に秘密を握られ、否応なしに「自己の覚醒」へと突き動かされる。すべての出来事は現実と同じく、良い結果と悪い結果の両方をもたらす。そして自己の表現とは属する社会の道徳とは相反するものになる。すべての結末は死、解体、別離。カミソリの刃先のような危険で細い一本道を命がけで渡る春日の姿は、一種の英雄譚のようだ。
自己の表現すなわち仲村の呼ぶ「変態」が本作のテーマか。分かりもしないボードレールをこれみよがしに見せつけて俺は他の奴らとは違うんだと悦に入る気持ち悪いネクラうじうじ男、春日。彼が未知からの召喚に応じ、キリストの受難のような試練を受ける。思わずあこがれの佐伯の体操着を盗み、思わず嫌われ者仲村をかばい、思わず佐伯をデートに誘って思わず告白する。仲村に本当の自分を黒板に書けと言われ、一度は断るものの、仲村が溜め込んできた周りの世界への鬱憤を知り、さよならを告げる仲村を思わず引き止める。自身のカミングアウトだけでなく、芸術作品のように自分の存在の全て教室にぶちまけて仲村の言う「クソムシの海」を創り上げる。完全なる自己の覚醒は住み慣れた世界との別れ。仲村とともに「向こう側」を目指すも、愛すべき社会を体現した佐伯が立ちはだかる。唾棄すべきもの、社会から忌み嫌われるものだったはずの「ありのままの自分」が佐伯から受け入れられ涙を流す。だが、一人で「向こう側」に向かおうとする仲村を思わず引き止める。引き止めたことに驚いたのは春日自身。言葉が出てこない。行くか戻るか2人から選択を迫られ引き裂かれる春日。普通に佐伯と「付き合う」ことができず、仲村の求める「変態」にもなれない、自分が空っぽであまりにも無力な存在であることを思い知らされる。
後半も「変態」行為が自己表現だが、その行為には一切の欲望や情念は込められていない。愛の表現そのものだ。愛は自己の表現であり、社会の価値観とは反するもの。峠の心理状態のまま時間が止まり、仲村にも佐伯にも歩み寄れない春日。3者は峠の出来事で自分の存在をズタズタに引き裂かれている。社会性の権化だった佐伯は親友木下に付き添われることで辛うじて社会生活を送り続ける。春日と仲村は以前にもまして社会とは関係を持てない。木下は佐伯と春日の関係修復を試みる。互いに相手から好きだと言われたいとの思いはあるものの、これ以上傷つきたくないというのが本音だ。もう引き裂かれる痛みに耐えられない。双方とも無表情を装い、相手を拒絶する言葉を放つ。佐伯と別れ、残るは干からびて死んでいくだけの日々。夢のなかで、それまで気づいていなかった仲村へのいとおしさに気づく。仲村への気持ち以外の他の全ては意味のない空虚な存在。自分の「向こう側」は仲村の中にある。仲村を笑わせるためならば、社会も自分自身さえも捨ててしまおう。愛の巣そのものの秘密基地を作り、佐伯を除くクラスの女子全員のパンツを盗む。変態行為は仲村への愛のメッセージであるとともに、佐伯には決別のメッセージ。佐伯への決別の決意を知った仲村はようやく春日の思いを受け入れ、世界で2人にしか分からない特別な関係、すなわち「契約」を結ぶ。
一方、決別のメッセージを受け取った佐伯は、自分の抑えこんできた欲望、自分そのものの萌芽を迎える。社会性の象徴である木下を伴いながら、春日と仲村が創りだす2人だけの世界を探求する。それは木下にとってはただ変態、犯罪者の異様な空間。だが、佐伯にとって、自分には絶対にたどり着けなかった世界。嫉妬と羨望と欲望の対象、世界の求める姿を演じることなく自分の好きなことを自分の思いで自ら創造する世界。彼女の求めたすべてがあった。悪行を社会に知らしめることは、春日と仲村の2人だけの絆をさらに深いものにしてしまうだけ。木下と決別し、麦わら帽子と共に自らの演じてきた仮面を脱ぎ捨てる。春日が仲村のために創り上げた世界を燃やし尽くし、春日をセックスで取り込むことで仲村から奪い、自分のものにするという欲望をさらけだすも、春日に拒絶され、仲村との対決にも敗北する。
仲村は勝利したものの深い傷を負う。後半の仲村は未知のモンスターではない。攻撃的な性質は持ち続けているものの、春日を受け入れるまでは、いばらに閉ざされた眠りの森の美女。春日を受け入れてからは愛の対象者として存在する。変態行為を求めることはない。ただ自分を喜ばせるためだけに、他のすべてを捨てて一生懸命になってくれる男の子、春日の存在を嬉しく思う一人の女の子だ。2人の間に割り込んできた佐伯の存在により、自分と春日の関係は誰からも祝福されないもの、自分の存在は周りを不幸にするだけのものだと思い知らされる。行き着く先は死か破滅しかない。だけど私は死にたくない。
春日の隠し事が徐々に露見し外出禁止となる。春日を閉じ込める家は地母神の胎内そのもの。放火の懺悔を決意した佐伯は春日の元を訪れ、2人で罪を告白し元の世界で生きる道を提示する。佐伯に心を引かれそうになるが、仲村を信じ想い続け、佐伯を拒絶する春日。行き着く先は破滅のみだと分かりつつも。佐伯の自白とともに、佐伯の分身とも言える木下の手で、すべての出来事が世界に露見される。誰一人幸せにできなかった。何一つできなかった春日。閉じ込められた檻を力づくで破壊し、閉塞した社会の胎内から春日を引きずり出したのは仲村だった。社会から拒絶されるならば、社会そのものを拒絶し、春日を殺し、自ら死ぬ覚悟をしていた。仲村にとって、自分の知らない自分を引き出してくれたのはいつでも春日の自己表現の爆発だった。春日がかぶっている皮を一枚一枚はがす度に、仲村は自分自身を発見していた。運命の夏祭りは明日。すべてが終わるのは明日。もう時間がない。向こう側を、自分自身を見つけなければ。全裸にし、皮膚をめくっても出てこない。バットで脳みそを叩き割れば出てくるのか。殺す気だった。だが、できなかった。私は春日くんを失いたくない。刺のある言葉を周囲に発して、無関心無表情を装って、硬い殻で閉じ込めて、ずっと守ってきた本当の自分、見たくなかった裸の自分自身。弱々しくて、壊れそうで、大嫌いな自分。世界がクソムシじゃない。私がクソムシ。私がいるから、こんなにも世界は生きづらくて苦しい。決して消えることのない自分。ありのままの姿をさらけ出した仲村を春日は魂の咆哮とともに抱きしめる。2人は心中することで、周りの世界のすべてを拒絶し、魂の永遠なる結合を図る。夏祭り、2人は世界に向けてありのままの自己、この世に生きた自分という存在そのものを叫ぶ。仲村は春日を愛していた。そして愛する春日が、両親や佐伯、社会から愛されるべき存在であることも知っていた。世界から拒絶され、孤独の深淵で苦しむのは私一人でいい。あなたは生きて。春日を突き飛ばし、一人で死へと突き進む。だが、その仲村自身も世界から愛されるべき存在。死から拒絶され、2人、いや佐伯を含む3人は、桐生市という地母神の胎内から外の世界へ排出される。そこで中学生編は終わり。
主人公の春日くんの心理描写はあるものの、仲村や佐伯についてはどのような心理状態でいるのかあまり描写がない。だが、2人とも自分にしか分からない悩みを抱え、自分の信念に基づいて行動している。物語の都合や作者の都合で動かされる人物ではなく、自らの意志で動く生きた人間だ。春日に自分の心の奥底に秘めた何かを求めてしまった2人の少女が作者の意図の範疇を超えて動きまわる。自らの意思で動く登場人物が自然と創り上げてしまった物語が惡の華の中学生編ではないか。仲村が、佐伯がどんな気持ちを抱えてその場にいたのか、想像を膨らませながら読むと深い、深すぎる物語。まるで恋人の心を探るような、自分を拒絶した異性の心を探るような、そんな作業にも感じられる。
面白いおもしろすぎる物語。エンターテイメントではない。現実の人々は、自分自身との関わり、愛すべき存在との関わり、社会との関わりの中で、必ず傷つき、苦しむ。この物語は生きる糧となる物語。魂に必要な食べ物。癒えることのない痛みを和らげる物語。閉じ込めて見ないようにしていた心の古傷を思い出させ、生きる歓びに涙を流させる物語。世界は悪意と欲望で満たされている。常に腐敗し悪臭を放ち続けている。自分自身も、かつては不滅の存在に思えていた社会そのものも、実は有限で不完全な存在に過ぎない。すべての欲望、情念、怒り、迷妄を捨て去った後、哀れみの心が生まれる。法隆寺、玉虫厨子の捨身飼虎の図で描かれるように、愛する人のため、社会のため、神に捧げる供物のように我が身を捧げることで、初めて完全無欠、永遠の存在を感じることができる。世界の中心はここにある。永遠は今この瞬間にある。神は常にあなたとともにある。
僕もいくつかWEBサービスを作ってきたので分かるのですが
収益をアフィリエイト広告であげようとしているWEBサービスは相当なアクセスがないと全く儲からないです。
少なくとも継続して1日あたり数千アクセスないと厳しいかなと思います。内容にもよるかもしれませんが。
僕が運営しているエロいWEBサービスの1つだとけっこうアクセスはあるのですが月間の利益はせいぜい3、4千円。
制作に費やした時間、学習コストを考えるとコンビニでアルバイトでもした方が何十倍も稼げるレベル。
http://anond.hatelabo.jp/20130124122021
この日記の人も書いているけど特にはてな経由のアクセスからは売り上げは全く上がらないと思います。
だから、これからWEBサービスを作ろうと思っている人に言いたい。
利益を得ることを目的にWEBサービスを作るというのは間違っていないと思うけれど
アフィリエイト広告を収益モデルとした場合、悲しい結末が待っている可能性が高いです。
それでもWEBサービスが作りたいんだ!
そんな熱い気持ちで作ってほしいです。
もし、WEBサービスで沢山のアクセスを集めることができたなら
例1)はてな経由やニュースサイトなどに取り上げられ爆発的なアクセスがあった場合 1、ベンチマークテストなどでは得られない生の負荷が経験できます。 ↓ 2、想定外のアクセスにあわわわわわ状態になります。 ↓ 3、アラートメールがしこたま来ます。 ↓ 4、サイトが表示されなくなります。 ↓ 5、パニックになりながらもsshでサーバーに接続して原因を調べようとします。 ↓ 6、sshでサーバーに接続できない状態に呆然とします。 ↓ 7、気持ちを落ち着かせるためXVIDEOSに行きます。 ↓ 8、賢者になります。 ↓ 9、再度サーバーに接続します。重いながらなんとか接続に成功します。 ↓ 10、TOPで探ります。 ↓ 11、いろいろ調整します。場合によってはサーバーを上位プランに変更します。 ↓ 12、トラブルを乗り越え落ち着きます。 ↓ 13、FC2アダルトに行きます。 ↓ 14、大賢者になります。 ↓ 15、おもむろにメーラーを起動します ↓ 16、件名:** PROBLEM Service Alert ↓ 17、ふぁああぁあぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ )゜д゜(
例2)自分の作ったサービスに対するなんらかのアクションがある(特にはてな経由の場合)
見ず知らずの人からメールやらコメントやらがもらえます。 ・すごくいい ・すげー ・便利 ・無言ブクマ ・俺もこんなの作りたい ・後で試す ・使えない ・しね ・ゴミ
など、悦に入ることができたり、精神的なダメージを受けたりします。
http://razokulover.hateblo.jp/entry/2013/01/23/220418
WEBサービスで得られたわずかなアフィリエイト収入を使ってアドワーズで彼女を募集したら
例4)話題になることで色んな人と仲良くなれたりします。
人脈ができて素晴らしいことになります。
※
どうです?けっこうすごくないですか?
特に例3が!
WEBサービスってすごいんです!
こんな素敵な経験ができるかもしれないんです。
彼女が欲しい!
僕は彼女が欲しいんだ!
ではどうやって彼女を作るか?
・
・・
そんなわけで一生懸命作ってみました。
サイト名:nweet
・どんなサイトか?
お気に入りのエロ動画をブックマークしているとサイドバーに表示しているブックマーク欄が肥大化しすぎてうざい
そんな人におすすめです。
XVIDEOS、FC2アダルト、RedTubeでまた見たいと思った動画再生ページのURLをツイートしておけば
後でnweetにログインするだけでツイートした動画を直近100件のツイートから抽出しブログ化します。
埋め込みプレイヤー表示可能な物はサイト内でプレイヤー表示しています。
ツイートした動画からキーワード検索可能。お気に入り機能あり。スマホ対応。
・使い方
例)XVIDEOSの場合
XVIDEOSの動画再生ページにはツイッターボタンがついてます。
share→ツイッターマークを選んでクリック→再生ページのURLが入力されているツイートボックスが表示されるのでそのままツイート
動画を分類したい場合はハッシュタグをつけてツイート(#巨乳 など)
後はnweetにログインするだけ
一瞬でブログ化完了です。
nweetではツイッターのOAuthを利用したログイン機能を実装しています。
で、作ってから気付いたんです。
てか、女の子がエロサービスってほとんど使わないじゃん!?意味がね~!!!!
う~ん・・・
・
・・
サイト名:atodemiru
機能的にはnweetと同じです。
抽出対象URLはyoutube、ニコニコ動画、FC2動画、Nosub、B9DM、anitube、Dailymotion、veoh、pandora、56.com、clip.vnとなっています。
同じく直近100件のツイートの中から上記の動画再生ページのURLを含むツイートを抽出しブログ化します。
これで、もう彼女ができたも同然です!
アドワーズ男の早川さんに続く伝説、WEBサービス男の幕開けになるはずです!
とここまできて、冷静になったんですが
応募する人って変な人しかいないんじゃないのか?
まあ、おっさんなのにこんなWEBサービス作ってる僕の方が相当あれですがw
そんなわけで、ひっそりとカムフラージュして募集しようかと思います。
ええ、本当はこの年でこんなことしてるのが恥ずかしい。
こんなことして許されるのはせいぜい大学生くらいまでだ。
見つけた~!!!といういう女子(20歳以上)の方は応募してみないか?
さて、長くなりましたが
サイト名:nweet
サイト名:atodemiru
良かったら使ってみてね。
このサイトの技術的なことに興味ある方はこちらをご覧下さい。ツイッターもやってるんでフォローしてね。
http://nante.hatenablog.com/entry/2013/03/14/144250
それでもWEBサービスが作りたいんだ!
と思っています。
文武両道で健康的、それでいて健全な精神を持ち合わせ、誇れる学歴を持っていれば就職活動なんて楽勝なのかもしれない。
僕は勉強はやらず、運動も出来ず、そのためか捻くれた精神が宿り、アホ大学の他の学生を蔑もうと必死なのだ。
こんなヤツがいったいどうして就職なんて出来るのだろうか。
心のどこかで自分は出来ると思い込み、人とは違うと思い込み、キモいドヤ顔と運動神経の無さそうな足取りでキャンパスを歩いてるんだ。
いわゆる真面目系クズ。
怠惰で高慢でありながら、自らに迫る危険に関しては人一倍敏感。愚痴も批判もご達者で、行動は二の次。
頭の中の浮ついた理想をこねくり回し、偉そうにネットに書きつけては悦に入る。今もそうだ。
福利厚生だとか、世間体だとか、将来性だとか就職活動では判断材料が多分にある。
それ以上に「自分はもっと出来るんだ」「自分はこういう仕事はしたくない」といったプライド(欲望)が積もっていく。
「ああ、この会社はよくないな」
なんてふんぞり返ってる。。。
今はまだこうやって自分が振りかえることが出来るだけ人間としてはマシなのかもしれない。といってもクズに変わりはない。
ただ、振り返れないほど馬鹿だったらそれはそれで楽だったかもしれない。
がむしゃらと成り行きに身を任せて突き進む事ができたら楽だったかもしれない。
今、自分は生半可に振り返ってしまったがために、今の自分を受け入れられず甘えに走ってしまっているのだ。
ここでこんなことを書いているのも同じような境遇の仲間が欲しい、もしくは甘えの境地に引きずり込もうと目論んでのことだ。
苦しい。助けて。何もしたくない。誰もわかってない。俺はこんなんじゃない。社会が間違ってる。。。。
でも、気持ちの整理をするためにもはてなに書かせてもらいました。
僕はただのクズどころか、与えられたことも素直にこなせないクズなんです。
僕は人に弄られやすい。 バカにされやすい。 それはきっと、どんな暴言を吐かれても怒りをあらわにせず、マトモな反応を返すからだろう、と自己分析している。 まあ、僕の性格に弄られるような要因があって、大いに見下された結果、なるべくして弄られている、という可能性も否定出来ないし、事実、人によっては実際そうなんだろう。
どんなに弄られても決して怒らず、ツッコミでその場を捌いているのは、自分に対する攻撃に然程怒りを感じないからだ。 バカとかキモイとかデブとかハゲとか言われたところで、そんなのはその人の感想に過ぎないのだから、イチイチ突っかかっても仕方ないじゃない。 怒ったら、無視したら、彼氏彼女の評価が劇的に変わったりするだろうか? 答えは、否だろう。
無礼とか失礼とか常識がないとかは、僕じゃない誰かに同じ事をやった時に、それなりの制裁を受ければ宜しい。 怒りは感じないし相手はしてやるけど、人を貶して悦に入るようなクソ野郎を評価する事は無いし、そんなクソ野郎のクソッタレをわざわざ怒って正してやる、なんて徒労をわざわざ選択する理由は無い。 自分は正義だと誤認したまま、せいぜい肥溜め温泉に浸っていろ、という上から目線。 それが僕の思考回路です。
だから、定期的に現れるんだよ。
何をしてもこの人怒らないんだ!つって無茶するノータリンが。
僕はどちらかと言えば短気で、不愉快と感じたらすぐに顔に出るし、感情を伏せようという努力もしない。 先述したように、悪口や暴言程度では、怒りというジャンルにすら抵触しないってだけのこと。
それを理解せず、殴って平気だから刺してもいいだろう、刺しても平気だから家を燃やしてもいいだろう、と行動がエスカレーションするノータリンの多いこと多いこと。 殴って平気なら刺して平気かもしれないけど、家を燃やしたら放火罪だからね。 僕が死ななくても、家族や、近所の方々にも迷惑がかかるからね。 もっと言えば刺してる時点で、獲物次第では銃刀法違反だからね。
僕を弄ってる人は大抵上から目線で弄ってくるんだけど、僕の上に立つような人間なら、なんでその程度の事も想像出来ないんだろう。 脳みそ空っぽで宙に浮いてるだけじゃねえの。
そんなクソ野郎が勝手にプラプラ浮いてるのは構わないんだけど、僕の周りに被害を及ぼすのだけは我慢ならない。 僕の近くに居たから被害にあった、という原因が僕に起因するような状況が我慢ならない。 僕一人で収まるから何だって我慢出来んだ。
収まらないなら、それなりの対応を取らなくてはならない。 対応した上で「なんだよノリわりーなw」で片付けてしまうような人は、残念ながらハイそれまでよ。 攻撃に攻撃では返さない。 僕の最大防御は、いつだって関係のシャットダウン。 叩きのめして更正させたり、殴り合って鬱憤を晴らしたり、語り尽くして誤解を無くしたりって、大切な人と行うイベントじゃん。 嫌いな人やクソ野郎に徒労はかけない、先述した通り。
とにもかくにも、今は怒りがうずまきナルト。 ブッ殺してやりたいってばよ!
どうでもいいが、悦に入るの読み方は「えつにいる」。
つまり
「全部おまえにやる」と言われて「全部って言ったら全世界すべてのもんだろ!」と反論するガキ
ですか。
馬鹿が辞書に拘って定義した「ぼくのかんがえたかがくぶっしつかびんしょー」に基づく、脳内限定化学物質過敏症の定義の話なら、確かに馬鹿しかかからんかもしらんね。脳内限定なのだから定義した本人しかかかりようが無いんで。
あんたの言う通り、そんなものは存在しないんだと強弁するだけで病やら症状やらがこの世から無くなるとよいのだけれどね、現実と妄想は違う。
レッテル貼れば解決するのはそのレッテルを貼った本人の脳内に限られるわけだよ。だから脳内の妄想が現実に適用できると思わない方がいい。妄想を根拠に馬鹿などと罵倒する姿は非常に滑稽だ。
老婆心から言うと、青信号はどうみても緑だろ青という奴は馬鹿、等と熟語を分解して悦に入る思考はたとえ妄想の中でも、できる限り早めに捨てた方がいい。