はてなキーワード: 劣化コピーとは
趣味では音楽製作をやる傍ら、プログラミングやWebデザインの仕事を請けてきた。
自分自身の人間レベルがまだまだ足りない、まだ頑張れると思って就活はしなかった。
結果として、私は大学院に進学した。
だが、それが失敗だったのだと思う。
そして、研究室の学生もそれぞれ研究分野が殆ど異なっており、私が決めた研究分野に近い先輩などもすでに卒業して居なくなっていた。
研究室といえば普通先輩が後輩に指導して進捗を報告するようなイメージがあったが、指導するという習慣もなく、報告する会も一切なかった。
それどころか、一部の先輩同士の仲が悪く、両方の先輩からしょっちゅう片方の先輩の愚痴やネガキャンを聞かされた。
その代わりに、週一回合同ゼミが開かれていた。
ゼミでは他の学生の進捗発表が行われ、教授がそれをフィードバックするものだった。
私の研究室の学生は、他の研究室の教授から一方的に攻撃を受けていたし、一方でその教授陣は目に見えて自分の研究室の学生には甘かった。
そりゃそうだ。自分の指導が必要ない、自分の責任の無い学生に対しては何とでも言える。
論文の読み方や先行研究の探し方なども自己流で見よう見まねでやってみたが、全然要領を得ていなくて、どう勉強したら良いかも分からなかった。
そのまま修士2年になった。
仕事は依然として充実していたし、忙しくて断ることもあるくらい困らなかったけど、大学院での生活は本当に苦痛だった。
どうしてこんなに仕事に打ち込んでいたのかというと、ひとつは家計が苦しかったからだ。
他の金持ちの学生と違い、私の実家は田舎にあり、学費を払うのも精一杯、生活費はとても……という状態だった。
ましてや、実家で親が会社と揉めて、最終的に弁護士沙汰になって退職することになった。
だから、そんな状況を打破してやろうと思って、仕事に打ち込んだ。
バイトなんかしなくても学費生活費全部貰って大学に行ってる他の学生が妬ましくて、悔しくて、だけどそれがバネになって頑張った側面もあったと思う。
就職活動は2日で内定が出た。今までの実績と開発したものを見せれば一発だった。ITでは日本で指折りの会社だし、一生働きたければ働ける規模の会社だ。
しかしその代償として、仕事はまぁまぁできるが研究は一切できない大学院生が出来上がった。
「このままじゃ本格的にやばい」
そう思って、僕は仕事でやっていたWeb開発のスキルを活かして、その延長線に研究を持ってくることにした。
みるみるうちに画面ができ、機能もでき、サービスとしても研究としても良い感じだと思った。
「研究じゃなくて開発じゃない?」
「独自性はどこにあるの?」
「サービスとして完成させることに集中しすぎて、研究になってない」
などのコメントを貰った。
全部ごもっともだ。
趣味の目的が逃避になり、創作のようなエネルギーを使うものは一切出来なくなった。
試しに何度か試そうとしたけど、自分が自分で無くなったかのように、何のアイデアも湧いてこなかった。
結果として、私は創作関連のコミュニティからだんだん疎外されていった。
クリエイターとしての私は好きだった人は、私がクリエイターでなくなった時点で興味を無くした。
学部時代の友人は卒業したし、サークルは完全に遠ざかって今更関わることも出来なかった。
人間関係が狭く固定化され、希薄になっていくのがよくわかった。
今まで仲良くしていた人がSNSとかでも全然反応してくれなくなるのが、本当に辛かった。
そして、年明けには修士論文を提出しないといけない。
云われた内容を元に研究っぽく体裁を整えたものの、全然結果が出ないし、そもそもその結果の評価方法が良く分からない。
先行研究の劣化コピーを実装し、偏りまくったデータを元に研究の真似事をでっち上げて、一体何になるのか。
このまま成果出せなかったらどうなるんだろう?
そうなったらもう首括るしかないよね。
どうして研究せずに仕事ばっかりやったんだろう。どうしてこんな研究室に来たんだろう。
全部自業自得だよね。
もう嫌だ。しんどい。やめたい。
今の日本からは改革(左派)も保守(右派)もいなくなって(最初からいなかったのかもしれないが)今では劣化コピーの出来損ないもどきにも達してないような「サヨク」と「ウヨク」が日々、言論をぶつけ合っている。
それを最も観察しやすいのはココ、ネットの世界だが、はたから見てもサヨクとウヨクがまともに議論をしている所を「ほとんど」見たことない。(あえて「全く」とは言わないでおく)
文字通り意見の「ぶつけ合い」をしているだけだ。言葉のドッヂボールという言葉はまさにサヨクとウヨクの議論(という名のプロパガンダ合戦、にすら達しないただの罵り合い)にこそ最もふさわしい言葉だろう。
じゃあなぜ議論が成立しないのかという話だが、単純な理由で「議論する気が無い」からである。
まぁそんなことはいちいち指摘するまでもないが、なぜああもぶつかり合う者同士でいまだに両者の間に少しは議論をしようという機運が見られないのかというとそれはサヨクとウヨクのメンタリティの相違に起因する。
サヨクとウヨクの間で議論が成立していないこと指摘をされるたびにどちらも「相手がバカすぎて議論にならない」的なことを言ってる当たりまったくどうにもならないくらい事態は深刻化しているが鹿児島知事選でサヨクが見せたリアクションと、先の衆議院選で自民党候補が落ちた選挙区に対するウヨクのリアクションを見る限り、まったくこの両者のメンタリティは精神的双子と言っても差し支えないほどに凄惨なまでに酷似しているのである。
ただし、ここまで酷似したメンタリティを有する両者にも異質な点はある。その一つが「自分が気に食わない意見に対するリアクション」である。
とりあえず、最初の段階ではサヨクもウヨクもとる行動は同じである。すなわち
とかくサヨクとウヨクには共通のガイドラインでも制定されているのかと疑ってしまうほど、この行動をとる。
相手の言った内容に対する批判と相手個人に対する罵倒の区別がつかないのがサヨクとウヨクがいつまでたってもまともな左派右派になりえない重大な理由の一つだが。それについては今回はあまり関係ない話である上、正直もう救いようがないと思っているのでこれ以上言及はしない。
さてひとしきり相手を罵倒しきった後で彼らがとる行動がサヨクとウヨクで全く異なってくる。
端的に言えば、サヨクの人間はもはや相手をいなかったものとして扱う(自分の気に食わない意見を相手ごと無視する態度を是としている時点でサヨクの人間に論理的態度の育成が不可能であるということは間違いない)
自らの意見に対する反論の類に対して一切触れることなく、ひたすら自らの意見を押し通すさまは、醜悪だ。仮にその意見が正しかったとしても、正しさに腰かけて意見ごと相手をいないものとする傲慢さは到底万人に受け入れられるものではない。(とはいえこの傲慢さは昨今のサヨクのマイノリティぶりを鑑みてみるとどこか滑稽ですらある。)
次にウヨクと言えば、こちらは苛烈でその意見を徹底的に叩き潰す方向に動く。
相手が「改心」するか(仮に改心したとしても、ウヨクの脳内に存在するヒエラルキーの一番下の階層から一つ上の階層に固定されるだけだが)、文字どおり消えるまで続く。
「日本から出ていけ」というのはアノニマス的に発言できるネットの場で、よく見ることが出来る文言だが。「自分の気に食わない意見」を言うならこの国から出ていけ。とはなかなか苛烈である。
仮にその人物の述べる意見が間違っていたとしても、その苛烈さはいささかも減ずることは無い。「間違った意見を述べる人間は日本から出ていけ」とは冷静に考えれば中々にエキセントリックな言説である。
サヨクは自分の意見を押し通すために、ウヨクはサヨクを排除するために、言葉を発している。
そう、サヨクとウヨクが議論にならないのは当然だ。議論は議論をする気のある人間が2人以上いなければ成立しない。
自分の意見を叫びたいだけの人間がたまたま同じ場所にいただけでは、議論になるはずもない。
先ほどはプロパガンダ合戦にすら達しないただの罵り合いと表現したが、サヨクとウヨクの自慰的な声の張り合いは、もはや罵り合いにすらなっていないのだ。
どこでどうやって生きればいいのかわからない。
院進学か就職か、それを見極めるためにもインターンなどに参加しようと大小含め様々な企業を自分なりに調査しているのだが、その中で私自身の適正への不安およびIT業界で働くという事に対する懸念がいつまでも拭えないでいる。
というかこれらの疑念は大学に進学してからというもの私の中で渦巻き続けているものであり、もはや私自身では解決できない。そう判断したので私の現在の境遇を増田に投稿することで自分自身の考えを整理しようと思う。
これを読んで何か思うところがある方がいれば、その意見やアドバイスを教えて欲しい。
まず私は大学入学以前にプログラミングや情報工学にまつわる活動を一切経験して来なかった。そのため大学入学時点で一部の人間との間にはすでに大きな経験の差がある事を知り、強い焦りを感じた。
しかしだからといってそれに追いつくための努力をしてきたわけではない。というか何をすればいいのかわからなかったし、そのためのネット上の記事(○○入門みたいなもの)を読みあさっていると時間が過ぎ、この時点で一年以上が経っていた。その間、何かが書けるようになるとか、何を作ったとかそういう経験は一切なかった。
そして残りの空虚な時間の殆どを埋めているのはネット上の記事の閲覧、フィードの消化である。
最新の流行技術にまつわる記事や、ネット上で観測できる私にとってのハイセンスな人間(エンジニア、批評寄りの人間、教養のあるオタクなど)の活動を調べていれば、私も彼らと同様の文化の中に居ることが出来ると錯覚し続けることができたし、なにより幾らでも時間を潰すことができた。私のRSSリーダーには、自分で使ったこともない、流行技術の記事や、会ったこともない技術者のブログ記事が流れている。
しかしそのように質の悪い、何かの劣化コピーに過ぎない文章を読みあさりつづけた結果、私は教養もスキルも無いくせに自意識だけは人一倍の人間になってしまった。
以上が私の今までの経歴についての話であるが、もしかしたら今からでもどこか外部の環境に頼るなどして努力することを始めれば大学卒業後も生活をし続けることが出来るのかもしれない。
しかし、私はその第一候補であろうweb系のエンジニア、最も就業者数が多く技術の流行り廃りが激しい層のエンジニアになることに強い抵抗を感じている。
オープンソース活動に貢献するハッカー文化には強いあこがれを感じるが、いざコードを書こうとすると、どうしてもうまく書けない。授業で扱ったC言語では関数の引数として与えられるポインタの扱いで躓いたままだし、最近独学でやろうとしたRuby/Sinatraによるweb開発も結局途中で放置してしまった。
それに学生(おそらく私に近い境遇にいた結果エンジニアになろうと決意し実行に移した学生)が、無名な中小web系企業(そういった学生を吸い取るためにくだを巻いているとしか思えない)へ行ってコード書くの最高コードで世界を良くするみたいなことを言っている就労体験の記事を読むと本当に気持ちが悪いし、そういう職種にどれだけの将来性があるのかと考えると暗い気持ちになる。もちろんこれもネット上の記事を読んだ私の主観であって、実際のところどういう世界なのかは私には分からない。
中小のweb系企業が公式サイトで紹介しているような自社サービス一覧とかを見ても、高い能力を持った技術者の集まりが徹夜を重ねた努力に見合うようなプロダクトだと思えるようなものは殆ど無い。結局大企業からの受託で稼いでなんとかやっていけてるだけなんじゃねーのとか心の中で批判してしまう。
そしてこれが一番大きいのだが、今の私の歳には自分であれこれソフトウェアを作っていた優秀な人間が有名なweb系企業に行った結果、仕事に疲れて鬱々とした文章をネットに残しているところ観測すると、やはり俺はweb系エンジニアになるのはやめたほうがいいんじゃないか、と思ってしまう。
かといって他の職種になれる気がしない。学部生の数学で躓くような人間に、web系より技術レイヤーの低い、高度な数学を要求される研究開発や精巧な計算を要求されるエンジニア業が自分に出来る気がしない。
本当にわからない。時間だけが過ぎていく。まだまだ時間のある後輩をみると羨ましい。きっとこんな風に悩んでいる今の自分も将来の自分にしてみれば「あの時ああしていれば」の対象になってしまうのだろう。
後悔し続けるだけで何もしない自分が恨めしい。しかし今日もまだ何もしていない。今年の夏期休暇も何もしないまま過ぎていくのかと思うとつらい気持ちになる。
「自分の飯の種になるようなやりたいことを見つけるのが大学生活」というが、それを見つけられたもしくはこれから見つけられるような活動をしている同級生が羨ましい。
自己逃避のためにこのような文章を書いてしまった。きっと夏休みが始まると「なんでインターン行かなかったんだろう……」とか悩んでるんだろう。どうすればいいのか分からない。分からなすぎる。
http://autotweet.chatwho.net/connect.php
個人的な嫌悪感とかあるんだけど、それとは別に明らかにまずそうなとこがあるんで書いとく。
そのため、例えば本人の意図しない発言(悪口など)が勝手に投稿されたとしても、
問い合わせるすべがない。
http://chatwho.net/ が一応問い合わせ元なのだろうか。でもここのプロフィールも怪しいし、そもそも元のページから問い合わせ先とかリンクされてないし。。。
ログインしたら問い合わせ先が見れるかもしれないけど、ログインしないと見れない時点で十分に怪しい。
俺は物語を書くのが好きだ。
初めて物語を書いたのは幼稚園児のとき、大好きだった絵本を真似て色鉛筆と画用紙で小さな冊子を作った。
キャラクターから筋書きまでその絵本丸パクリで、とてもじゃないが創作と呼べる代物ではなかった。
でも俺にはそれが楽しかったんだ。
それからずっと、小学生時代も中学生時代も、小説を書き続けた。
休み時間、校庭でドッジボールに励む同級生を尻目に、俺は教室で執筆を続けた。
小学校高学年になるとさすがに恥ずかしくなって、学校では構想を練るだけにし、執筆するのは毎日家に帰るまで我慢した。
中学生時代は漠然と重たい気分に付きまとわれて、その暗い情念を精一杯創作にぶつけた。
まあそれだけ書いてれば少しは成長するが、自分の書くものにセンスを感じたことは一度もない。
語彙が増えて長い文章を書くことを覚えたくらいで、空想の中では傑作だったはずの物語も、完成してみればいつも支離滅裂な駄作だった。
作文の授業で褒められたことなんてないし(むしろ国語の点数はずっと悪かった)、意を決して自分の書いたものを友達に読ませてみても、手応えのある反応は返って来なかった。
ずっと自分の世界に閉じこもっているから友人も恋人もできなかったが、それでも俺は自分の人生に満足していた。
だが高校に入学して、俺の人生は大きくカーブを切ることになる。
俺が待ち時間に読んでいたドストエフスキーの文庫本を見て、彼は声をかけてきた。
「僕はスヴィドリガイロフの儚い美学に共感するよ。彼は豊かに暮らしているように見えてその実、生の孤独を見つめているんだ」
美化されているけど初対面からこういう感じの奴だった。
「ふぅん、俺はラスコーリニコフがいいと思うけどね」
そう俺が言うと、彼は眩しいくらいにニコッと笑った。
そのうえ創作もするという。
そうして彼と仲良くするうちに、なりゆきで文芸部に入部することになる。
考えてみれば自分からコミュニティに参加することなんて人生で初めてだったが、やはり自分と似た人が多かったのか、自然と馴染んでしまった。
何といっても生まれて初めて友達ができたのだ。楽しくないわけがない。
一緒に入部した一年生は例の文学少年以外にもう一人女の子がいて、彼女も小説に熱い思いをもっている娘だった。
三人で互いにお薦めの本を紹介しあったり、俺の家に集まってだらだらくだらない話をした。
美術展に行っては批評家ぶって論評して、ときには高校生らしくカラオケやボーリングもした。
そして新たな刺激を得た俺は、これまで以上に執筆に熱を入れるようになっていた。
友人の影響でシュルレアリスムの真似事をしたのは失敗だったが、それを除いても短期間にこれほど成長したことはなかったと思う。
事実、俺は高校一年生の冬、公募の新人賞で念願の一次選考を通過することができた。
そう、たったの一次選考だ。笑ってくれてもいい。
これまで両手では数えられないくらい投稿してきて、初めてまともに読んでもらったのだ。
次の日、友人たちにそのことを伝えるのが楽しみだった。
というのも、俺は自分の成長は彼らのおかげだと思っていたからだ。
殻に閉じこもって書いていた中学時代の俺は自家中毒に陥っていたと今になってわかる。
でも高校生になって、文芸部に入って、彼らに出会って俺は殻を破れたのだ。
俺の中には彼らへの感謝の気持ちが溢れていた。
だが、俺の報告を聞いた彼らの反応は冷たいものだった。
へぇ、ふぅーん、そう、とか冷たい目をして言う。
ちっとも興味を示さず、退屈そうだった。
きっと新人賞には関心がないのだろうと思って自分を納得させようとした。
でも違った。
「創作に一生懸命になっているのは惨めだよ。世界はこんなにも素晴らしい書物で満ちているのに」
「えっ、お前何言ってんの……」
「つまりね、僕が創作をするのは、読む活動の一環なんだ。自分の書いたものなんてどうでもいい」
「じゃああのとき俺に語ってくれた創作へのこだわりは何だったんだよ! 一緒に頑張ろうって言ってくれたよな?」
するとずっと横で黙って聞いていた例の女の子が、
「あんたに合わせてあげてたに決まってるでしょ! そういえばあたしたち付き合ってるから! じゃ!」
と言って彼の手を引いて去ってゆく。
創作は惨めだって? 一緒に夢を語り合ったのは嘘で、自分の創作物なんてどうでもいいってどういうことだろう。というかそもそも付き合ってるってなんだよ。普通の高校生かよ。文学に身を捧げるんじゃなかったのか?
俺は現実を受け入れられず、思考はぐるぐると同じ所を巡った。
やがて俺は気づいたのだ。彼はファッションワナビという生き物だったことに。
一読して意味がとれないタイプの作品の価値なんて、素人にはわからない。
彼はそれをコミュニケーションに利用していたのだ。
本当はミステリアスな文学少年キャラを利用して女の子を捕まえるだけの、平凡な高校生だったのだ。
そう思ってひとまず落ち着いたものの、いまだにひとつだけ気になっていることがある。
彼は女の子に手を引かれながら、俺の方を見て、目で何かを訴えかけていた。
そしてあの、入学式の日に見せたのと同じ、眩しいくらいの笑顔をしてみせた。
あれは何だったのだろう。ただ俺を馬鹿にしていたようにも思える。しかし……。
俺の身体が疼く。
彼をあのビッチから取り戻さなければいけない。俺はそう決意している。
何かがおかしいと思う冷静な思考はあっという間に駆逐され、彼を助けなければという強烈な義務感が俺の脳を支配していく。
ヱヴァンゲリヲンのQをみた。東信者である俺は村上裕一×坂上秋成×さやわかによるQ最速座談会ももちろん聞いたし、風花でのあずまんと坂上村上ustも見たし、はるしにゃんとあずまんのtwitterでの絡みもチェックしたし、文学フリマでのQの感想を言いたくて仕方ない空気もしっかり感じた。相変わらず、文学フリマは「東浩紀不在の存在感」しかなかった。
さてQの感想はというと最初は「あれ?もう終わりか」というあっさり感。やけにシンジとカヲルいちゃついてんな、くらいが印象的だったのと、短いのもあってまるでTV版を見ているような感覚だった。劇場は満員で、上映が終わった後の観客の態度もなんだかしっくりきてなく見える。ロフトのイベントに出る直前のQを見たあずまんの感想が「僕には退屈だった」というのもあり、まあこんなものなのかと大して感動もないまま家に帰る。
避けていたネット上の色んなネタバレ感想をチェックしているうちに、Qは旧エヴァを見ている人間ほど思う所が強く、新劇場版から入った人間ほど低評価、という傾向にあるようだ。低評価の人間に多く共通しているのは「ミサトさん達ひどい」だ。シンジに共感している人が多い。確かにミサトはレイを助けるシンジの背中を押したくせにあれだけシンジに嫌悪感を見せるのはひどい。他のヴンダーのメンバーも気持ち悪いくらいシンジを否定している。そりゃサードインパクトを引き起こした張本人を前に友好的になれってのは無理な話かもしれないが、シンジだって使徒止めたしニアサード引き起こしたのはマークシックスなんちゃうん…あとシンジがエヴァにさえ乗らなければフォースインパクト起きないんだからちょっとは優しくしとけよ。自分だけ14年置き去りにされて(28)や(43)にあんだけきつくあたられたらそりゃネルフ側に行くわ…と突っ込み出したら切りがないが、14年という年月の間に明かされてない事が多いのでどうとでも解釈できる。ミサトさんもヴンダー立ち上げるまでに色々あったんだろうし43なら更年期障害とかあるかもしれんし、部下の前で弱い所も見せれんかったのかもしれん。
ひと通りネット上の感想を見た後で坂上村上さやわかQ座談会も聞く。三人とも旧エヴァからのファンで、Qにかなりの衝撃を受けた直後からの感想が生々しくて実に良かった。彼ら的にはQは決して高評価でなく、エヴァを見続けている人間として胸をえぐられた気持ちになり、傷つきつつも、座談会を通して次作のシンエヴァを待つ気持ちにようやくなれたということらしい。しかし他の低評価の人たちに比べたら随分高評価だと言える。聞いていて庵野信者とはこういうものか、と納得できた。
その後続けて風花のあずまん坂上村上ustをみる。こちらはゼロ年代の風景が再びといった面子で東クラスタ的には涎が止まらない。重要なのは坂上がtwitter上で思想地図β2の震災特集号の巻頭言に大して上から目線感想をし、あずまんがカジュアル破門をし、その後坂上が宇野常寛陣営に下った後の初の二人の対面という構図だろう。
人間関係においても時間という薬は効き目が抜群で、あずまんと坂上もあのカジュアル破門の一件から一転して普通に話している。しかしどこかギスギスしている所は否めない。坂上の立場としてはとても難しい。宇野との関係がある以上あずまんと必要以上に交流したら立場として面倒くさくなるのは明白だ。それでもこのustで坂上が冗舌なのは彼だって東信者だからである。あずまんを尊敬して、でもあずまんの強烈すぎる人格性に耐えられなくて逃げて、それでもあずまんが諦めきれないのだ。俺がustの一連の坂上の発言から読み取ったのは「俺を認めてくれあずまん!」というメッセージに尽きる。でもあずまんはもう坂上に大して興味がないしQにも興味がないのだ。坂上が言うQの解釈というのはあずまんにとって遊びでしかない。ゼロ年代的な言葉遊びに辟易した彼からしたら坂上の仕事は頑張っているとは言えても世界を変えるまでには至らない、とるにたらないものだろう。それでも坂上の仕事はあずまんの影響下にあるもので、「よく出来た劣化コピー」のような、あずまんから見たら愛憎交じるアンビバレントな思いもあるだろう。だから彼はゲンロンカフェの話を持ちかけた。これは坂上にとって良い話なので、当然受けるだろう。これは同時にあずまんから宇野に対する牽制でもある。仮面ライダーの話をした点からも明らかだ。坂上の「仮面ライダーなら村上さんも語れますしね…」と力なく呟いたのが印象的だ。そこは明らかに宇野の名前が出るはずなのに、出なかった。出せなかったのだ。まったくもってめんどうくさい話である。
あずまんはなぜQに感動しなかったのか。彼と坂上および村上の間で共通している見解としては「庵野が旧エヴァのような事を再びQでやった」である。破で宮崎駿や押井守に負けるとも劣らぬクオリティの高いエンターテイメントを提供した庵野が、敢えてそれをぶち壊すような所にシビれ、憧れたのが坂上であるが、あずまんはそこに反応しなかった。いや、一定の評価はした。そんなことをしてしまう庵野さんは誠実な作家だし、評価されるべきではある、と。しかし、旧エヴァのようなことをして、それで出てきたものがこれだった、それだけの話だと。つまり、あずまんは庵野が破で得た物を失う覚悟で旧エヴァ的な事を再びやろうとしたQを理解している。坂上と見解は一緒なのだ。その上で退屈だったと評しているのだ。ここでのあずまんのQに対する低評価は謎だ。新規のエヴァファンが破のようなエンタメを期待してQでがっかりするのとはわけが違う。旧エヴァからのファンが庵野の再暴走に困惑されながらもさながら90年代の頃のように「それも庵野の手の平の上で踊っているにすぎない」と自覚しながらも難解な解釈を並べ悦に浸る様子とも違う。旧エヴァからのファンでもあるあずまんはすべてをわかっている上でQを評価していないのだ。そこには坂上と同等かそれ以上のエヴァに対する愛がある。愛がある上での諦め。庵野さんはこの程度だった、という残念感。それはなんなのか。あずまんは純粋に作品から狂気が感じられなかったとも言っている。一方で坂上は破を見せつけた上でこんなことをしてしまう(旧エヴァからのファンに大して14年時間を飛ばすという暴挙を突きつけてしまう等)庵野さんからはやっぱり狂気を感じた、と村上さやわか座談会で述べている。坂上が感じたこの狂気はゼロ年代的である。あの作品があったから感じられる庵野さんの狂気、という文脈ありきの話である。これは言ってしまえば島宇宙内での狂気、カタルシスだ。座談会でも述べられていたが、Qは海外で評価される可能性は限りなく低いだろう。ガラパゴス化したエヴァファンの間で熱狂的に批判され、評価され、むさぼられるのは目に見えている。あずまんが興味があるのは世界を変えるレベルのことなのだ。Qによってその可能性を落とされたエヴァに対して興味が薄くなっているのも無理はない。彼がエヴァで興味のあることとしたらそれによって動員できる人員、客および金と若い芽くらいだろう。シンエヴァによって変わる可能性も否めないが、現時点ではわからない。
大量に書いてしまったが、この二つの座談会とustを見ることで俺個人では感じれなかった旧エヴァ時代からの熱いファンの解釈を知ることができた。それが何よりの収穫だ。みんなも罵倒しながら見るといいんじゃないかな。
●団塊世代(1945~1949)
自分達が日本を作り上げたと思ってる"超"勘違い世代。 お前らが作ったのは借金。キチガイ多し。
行動力や根性は多少は持ち合わせているがたいした事は無い。 唯一評価できるのは繁殖力の高さ。
ただしあまりにも高すぎて未だにエロイ事件を起こすのもこの世代。
団塊と一緒に踊ってただけの世代。自主性なし。下の世代にも疑いを持たず踊ること(Yesマン)を求める傾向あり。
上が団塊で且つ人口減少期に生まれた為競争は緩やかで勘違いが増殖。団塊の劣化コピー版。
●バブル世代(1960~1969)
未だにバブルもう一回とか言ってるバカや、バブル後の脱力感で魂まで抜けた奴が多い。
金銭感覚が狂ってるため消費率は高めなのが救いだがほとんどは無能。企業内でがん細胞化している世代。
世代人口が一番多いにもかかわらず出生率を下げていたりと、 繁殖力は極めて低い。
いたの?
あきらめモード全開。やる気ナッシング。パラサイト多すぎ。 気持ちはわかるが、仕事しろよと。
愚痴らせたり文句言わせたりすると最強な所や、他人に頼りまくるところは団塊そっくり。
セックルセックル!小学生のうちから無駄なセックスしすぎ。おまえら大丈夫かよマジで?あんま期待して無いけど頑張って。
いやGoogle MapはAndroidでもiPhoneでもどちらでも使える。そもそもGoogle自体がApple信者だし。カンファレンスいったことねーのか?MACだらけだぞ?
歴代GalaxyもiPhoneも職業柄全部持ってるが GalaxyではiPhoneの足元にも及ばん。Galaxyが有利なのは値段だ。とくに国内のやつは無理。
DoCoMoが特許回避のためにデザインを変えているが、言い方を変えると 良いデザインはすべてiPhoneで回避のためだけの
劣化コピーになって骨抜きに成ってるから 国内のAndoridはまして酷い。 デザインと操作性が酷すぎる。
たしかに、性能自体はAndroidの方がいいのかもしれんが、性能が欲しくてスマホを買うわけじゃないからな。
ハードもソフトも究極的には どうでもいいのよ。 トータルサービスの問題。
Glaxyはサクサク だが 使いにくい。
Galaxyのことではないが、画素数は多いカメラを積んでいるがSN比とカラーバランスが悪いみたいなスマホといっしょ。
カタログスペックはいいが、実運用上はもっといいものがあるとなってしまう。
あとSamsungのAndroidは独自解釈が多くて泣いたわ。F社ほど酷くはないけど、ついで酷かった。
Androidは機種ごとの差分が酷すぎて、メーカーはいいのかもしれないが、アプリメーカーの機種依存コストが洒落にならん。
政党にしかカネが流れないシステムになってるから、議員は政党の奴隷になるしかない。
#表向きね。バックドア仕掛けてたやつもいたけど。
しかもその政党が衆参両院に奴隷をもつから、参議院が衆議院の劣化コピーになる。
つまり政党助成金分程度(さらに盛ってもいいよ)を議員個人に与える。かつ政教分離と同程度に政党の衆参分離を義務づける。分離を担保するために半額程度政党助成金を残すのが結果としていいかも。
議員報酬が増えることに疑いを持つ人もいるだろうから、全額もしくは一定額以上はクレカみたいなのにすればいい。必要なら家族カードを発行すれば家計にも使えるし。今どき国内で困ることはないでしょ。もちろん明細は webで公開ぐらいの勢いね。
今更の●番煎じ、劣化コピー乙と言う批判は甘んじて受け入れます。そもそもの目的自体が「作ること」であって「何を」は二の次でした。
「作る」目的は一応果たせたのですがそうなると今度は「使ってもらいたい」と言う欲が湧いてきましたが人脈と呼べるものが殆どないので身内に使って貰うこともままなりません。
そこでこの場を借りたいと思い立った次第です。
下記の通りです。●番煎じは●番煎じなりに今のpixivに感じてる問題点とかへの対策としては考えてみてます。
表示する設定にしたものだけが表示される表示制限機能。非ログイン状態であれば全年齢向けと写真以外は年齢制限コンテンツであることを示すだけのサムネイルになり、サムネイルをクリックしても年齢確認のページを挟むので一回までなら事故も起こりません。
「例え自分が受け入れられない表現であってもその表現が存在することを否定するならば表現規制を推進する人達と変わらなくなってしまう」
「しかし現実的にどうしても受け入れられないものを無理に受け入れる必要もなく線引きして住み分ければいい」
と言うのがこの機能を実装するにあたっての基本的な考えです。
企画以外の一次創作とか埋もれきってるよね?
「紹介したいだけの善意の無断転載」と言う建前に対して「紹介したいだけなら転載しなくてもできるよね?」と言う建前の機能。
TwitterとかでURL流れてきてもログインしてないと見れなかったらそこで終わるよね?
負の側面が目立つように思うので排除。
お友達申請って敷居高いですしね。
上とセット。
元々ウェブ絡みでお給料を頂戴しているもののデザイナーとしてもコーダーとしても三下。そもそもシステムを外注さんにお願いして組んだサイトの運営、日常更新がメイン業務。
会社はWeは殆ど関連がない企業なので業務を通しての経験蓄積が望めない。ウェブを担当しているのが1人。それ自体には全く苦は感じないんだけど管理職的な経験も積めない。会社は極めて堅実な経営でリスクを負ってまでウェブの部署を拡充することは恐らくしないし、もしそんなことがあればウェブ開発を専業とする会社での業務経験者が新人上司として配属されることになるでしょう。
最悪のケースも考えなければいけません。もう30超えてますしね。手持ちの技術や経験、年齢を考えれば今の職を失えばどう転んでも高齢ニートかホームレスの二択です。結婚はとうに諦めました。そもそも彼女いない歴=年の数の童貞なのでコンプレックスが邪魔してもはや色恋沙汰に手を出すことすら引け目を感じます。親も泣きますね。
話がそれました。
「とにかく路頭に迷わない為にも何か蓄積していかなければ」と言う危機感、強迫観念に近いものもあったかも知れません。
時系列が結構あやふやですがpixivの炎上騒動の時にいくつか個人運営の同系統のサイトがあることを知ってもいたので「ひょっとしたらちょっと頑張ればできるものなのか?」と思い違いをし冒頭の「作ること」のターゲットとしたのが事の発端です。
実際はそんなに甘くはありませんでしたが。
今更言っても無駄だと、それがJ-CAST連中のやり方だと言ってしまえばそれまでかもしれない。Jカス絡みでこんなのはよくある事だ。けどやっぱり今回の仕業にはあまりにも目が余る。
これについてだ。
「今のアニメはコピーのコピーのコピー」「表現といえない」 押井守監督発言にネットで納得と逆ギレ (1/2) : J-CASTニュース
この記事は、朝日新聞社のサイトで連載されている小原篤の連載コラム「アニマゲ丼」を発端として書かれてるものだ
こちらがそれ
そもそもは11月12日に東京芸術大学で開催された、「第2回 映像メディア学サミット LOOP-02 マンガ・アニメの映像メディア学的再考」というセッションに押井守が参加し、トークした内容が大本になっている。
その模様はユーストでアーカイブとして見れたが、20日までの限定配信で現在は見れない。
まず「アニマゲ丼」の記事は、見出しが示しているように「若者は夢は持つな」という旨の発言を軸にしている内容である事がわかる
以下引用
asahi.com(朝日新聞社):「若者は夢を持つな」と監督が言った - 小原篤のアニマゲ丼 - 映画・音楽・芸能
「やさしい、というのは、励ますとか慰めるのとは違う。『親身になれた』という意味で、それまでは若者のことはどうでもよかったのが目を向けるようになったということ。で、若い人のことを考えれば、本当のこと、残酷なことを言わざるを得ないと思い、ちょうどそのころ中学生や高校生と話す機会がたくさんあったので、こういう話をした。あなたたちは限りなく凡庸で無名で何の個性もないんだ、『一人一人がかけがえのない存在だ』なんて大人のウソを信じるのはやめて、早く幻想を捨てろ、夢を持つな、あなた方の未来にいいことなんて何一つないんだ――というところから始めたらどうでしょうか、と」
なんて身も蓋(ふた)もない、と思いましたが08年8月11日の本欄で私は「スカイ・クロラ」について「あまりに救いのない、というか身も蓋もない結末ではありませんか」と書いていたのを思い出しました。
ここが「アニマゲ丼」で一番取り上げたい部分なのだろう。
この押井守の主張に関する是非は置いておくとしても、この記事自体はバイアスがかかっている気がする。
実際の講演は第2部「アニメーションと日本の戦後社会―ロボット、サイボーグ、アンドロイド、そして人間」というタイトルが付けられている通り
パトレイバーや攻殻機動隊を監督した者として押井がロボットやアンドロイドのあり方を問い、技術論を語り、さらに原発の話題にも振れていくところが主体の講演だった筈だ
ここのスカイクロラの部分はほとんど寄り道であって、「アニマゲ丼」の記事を書いた小原篤の主観として誇張気味に書いている節がある。
いわば押井の講演内容からコピーしてトリミングして、そこに小原自身の主観を交えながら書かれている記事だ。
J-CASTはそこから更に、何故か突然「萌えアニメ」「ハーレムアニメ」などと言った単語を挿入し、押井守が今の萌え・ハーレムだらけのアニメ業界に苦言しているようにも取れる記事を書いている
まずアニマゲ丼から、押井が今のアニメに苦言しているという部分を引用する
asahi.com(朝日新聞社):「若者は夢を持つな」と監督が言った - 小原篤のアニマゲ丼 - 映画・音楽・芸能
そして現実の劣化コピーに過ぎない実写と違い、「現実に根拠を持たない」アニメは珠玉の工芸品となり得、アニメはその根本から細部までコントロール可能であるがゆえにその力を使ってアニメ監督は、全世界・全歴史に向けて自分の言いたいことを完全な形で言えてしまうという誇大妄想の極限を味わうことができる。これは悪のにおい、危険なにおいがする。ゆえに若い人をひきつける。しかし僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで「表現」の体をなしていない。
これはどちらかというと、アニメ監督をすることで「誇大妄想の極限を味うことができる」部分に目が行くと思うのだが
前後をぶっちぎって、今のアニメのほとんどはコピーのコ(略)の部分に脊椎反射している人間が多いようだ。
しかしこの記事のこの部分は全貌するとこうなっている
asahi.com(朝日新聞社):「若者は夢を持つな」と監督が言った - 小原篤のアニマゲ丼 - 映画・音楽・芸能
押井監督は、日本人が科学技術の表面的な受容と円滑な運用のみにかまけ、その技術の核たる思想、技術をゼロから立ち上げる思想を持たなかったことが今回の原発事故を生んだと指摘。様々な当事者の認識を改めるために今回の事態をヒロシマ・ナガサキに続く「第3の原爆」と呼ぶべきだと訴えました。「技術の思想」の欠如は、ロボットに「かっこよさ」のみを求めるアニメ製作者の思考にもあてはまる、と自作「機動警察パトレイバー」をもとに批判を展開し、そして訴えかける核を持たない日本アニメは、その表層を細緻(さいち)に描き込み磨きあげることで「極東の島国の珍なる文化」として世界に地位を獲得したと分析。工芸品的に細部を作り込みたがるその日本人的な意識が、細緻(さいち)な映像表現に好適なロボット・アンドロイド・サイボーグなどへと向けられた結果、肉体や自意識をめぐるテーマへと結びつき、つまりはアニメという表現形式が発展過程でテーマをはらんでしまったのだと説き明かしました。そして現実の劣化コピーに過ぎない実写と違い、「現実に根拠を持たない」アニメは珠玉の工芸品となり得、アニメはその根本から細部までコントロール可能であるがゆえにその力を使ってアニメ監督は、全世界・全歴史に向けて自分の言いたいことを完全な形で言えてしまうという誇大妄想の極限を味わうことができる。これは悪のにおい、危険なにおいがする。ゆえに若い人をひきつける。しかし僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで「表現」の体をなしていない。あと、ユニコーンガンダムのツノはアイデアとして面白いけど、だからどうなの?
ってな話を約2時間、相変わらず、とうとうとまくしたてたのでありますが(上のまとめは少々わかりやすくかみ砕いてます)メモをとるのが疲れました。私はそれより、新作の話はないの?って聞きたかったんですけど。
ここで「アニマゲ丼」の記事は終わる。
訓練された押井信者(笑)ならば、ここは「ああ、最後はいつもの押井で終わりだな」と、顔をほっこり緩めるところだろう。
「アニマゲ丼」としてはこれをオチの部分にしたかったに違いない。
アニメはコ(略)などはほんの極一部分にしか過ぎないし、これだけでは押井が真剣に憂いているのかどうかもわからない。
さて、J-CASTの方を見てみよう
「今のアニメはコピーのコピーのコピー」「表現といえない」 押井守監督発言にネットで納得と逆ギレ (1/2) : J-CASTニュース
朝日新聞は2011年11月21日付けの電子版コラム「アニマゲ丼」で、押井さんの東京芸術大学大学院映像研究科での講演(11月12日開催)を紹介した。講演で押井さんは
「僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで『表現』の体をなしていない」
と語ったという。つまり、制作者には新たな創造性や、作品を通じて訴える思想的なものが欠如し、過去にヒットした作品の焼き直しばかり。例えば「萌え」が流行すればそうした作品ばかりになっている。また、今のアニメはオタクと呼ばれるファン層に媚びたものが多く、こうしたことから「表現」が制作者から無くなった、という批判だ。
確かに11年9月から始まった20本近い新作テレビアニメを見ると、さえない男性主人公の周りに美少女が群がる「ハーレムアニメ」が驚くほど多く、過去にヒットした「ハーレムアニメ」作品と共通する内容がかなり多い。
突然どこからか「萌え」「ハーレムアニメ」という単語が出てきた
押井が言いたいのは「アニメという現実に縛られない媒体を使うことで、監督の自己主張を完全な形で広められる。こりゃたまんねえ(快感)。でもそこまでやる奴ぁもうほとんどいないよね」という事を言いたかったのでは?これも俺の主観ですけど。
どちらにせよ「オタクの消費財」や「コピーのコ(略)」が萌えアニメやハーレムアニメだけを指しているというのは暴論だろ
その発言の直後に出てくるのはガンダムUCだし
J-CASTはあくまで「ネットでそう反応されてる」と言い訳のように使ってる
「今のアニメはコピーのコピーのコピー」「表現といえない」 押井守監督発言にネットで納得と逆ギレ (2/2) : J-CASTニュース
「アニメ業界が飽和しすぎで、コピー品を粗製乱造しなきゃ回らなくなってる」
「売らなきゃ食っていけないからな。安定して売れるのがオタク向けの萌えやエロ」
などと納得する人もいるのだが、現在主流となっているアニメのファン達は、自分達の趣味趣向、好きなアニメを批判するのは許せない、と激しく反発。しかし理論で立ち向かえないからなのか
などといった作品批判や、人格批判へと発展し、大混乱となっている。
これでJ-CASTの記事は終わる
J-CASTとしては、「ネットでは押井守が萌えアニメを非難していると言ってる」として、そこを拡大解釈しまくってこんな記事を書いたのだろうか
そもそもそのネットってのはどこのネットを指してんの?2ch?
ちなみにニュー速+では
【話題】「今のアニメはオタクの消費財と化し表現の体をなしていない」押井守さんの発言でネット上は騒動に
というスレッドが立ったが、それはJ-CASTの記事を受けてのものだったし、★4まで伸びたがそれ以上の次スレは立っていない。(追記、★6辺りまで伸びたっぽい?)
一体どこで"大混乱"になってるのか全然思い辺りが無いんですけど。
押井守の東京芸大での講演が、「アニマゲ丼」がダイジェスト記事にしている時点ですでにコピーだし
それを読んで、どこかのネットでは「押井守が萌えアニメを馬鹿にしている!」と憤慨しているならさらに劣化コピーで伝わるべきものが全然伝わってない
今まで、「○○のニュース知ってる?」と言われて、
あー知らないなあと思ったときに検索するくらいでしか使ってなかった、Googleニュース検索。
「あれは最近どうなっているかなあ」と懐かしの言葉や単に思いついた言葉を検索すると、思いもよらない発見がある。
普通の検索だと、コピペブログやwikipediaの劣化コピー、老舗の大御所ばかりがヒットし、面白みに欠けた結果が出てくることが多い。
その点、ニュース検索はここ最近のホットな話題しか返さないため、自分の知らなかったことや最近の動向などが見れる。
・富士通研、CPU間光インタコネクト向けのシリコンフォトニクス光源を開発
などなど。
http://anond.hatelabo.jp/20110924124133
日本人って搾取構造を作るのに関しては世界一なんじゃないかとこれを読んで思いました。
古くは徳川家康公の江戸幕府の武士による搾取構造から、維新後に、進歩して官僚制度による搾取構造に変わりました。
東大の元は、昌平坂学問所ですが、ヨーロッパのように学問を研究教育する場というよりは、エリート官僚育成所でした。
エリート、つまり、搾取する側が都合のよいように国の制度を変えていきました。
しかし、大学の数が多すぎて、エリート官僚育成所にはなりえず、社畜養成所になっています。
新卒の一括採用も、あれは、官僚の一括採用を真似て生まれました。
SI業界の多重下請けもそうです。下請け業者を使って儲ける搾取構造をエリートが作ったわけです。
日本でベンチャーを経営するのが難しいのも、既得権益を持った人達に搾取される構造が出来上がっているからです
アメリカの場合は、問題が起きたときに、批判精神が起こり、是正されますが、日本の場合は、搾取構造が強すぎて是正できません。東電の例を見れば明らかでしょう。
フン……なるほど。お前は神の使いか。ならばお前達が崇める神とやらに伝えておけ!
あの戦いで確かに私達は負けた。だがしかし!いつかお前の思想を打ち砕き神の座から引き摺り下ろしてやるとな。
ん?何を呆けた表情をしているのだ?
そうか……!お前は洗脳されただけの人間か。クッ、私としたことがこんなフェイクにかってしまうとは……。それだけ奴も力を増しているということか……。
仕方が無い全てを話そう。本来ならばお前達人間にこんなことを話す気などサラサラないのだが、中途半端に知って変に広められ るよりはマシだからな。お前だけに特別に話そう。
そう、これは126億2754万968年26日3時間47秒前の話だ。元々この世界は無の塊だった。時間も空間も何も無い真実の無だった。何も無いが故に変化も無かった。126億2754万968年26日3時間47秒前まではな。変化が無い筈の状態で変化が起きた。
お前達人間の言葉を借りるとしたら『奇跡』が起きたとでも言うべきかな? そうして生まれたのが最初の神。神とでも呼んでおこうか。
神は時間を作り、空間を作り。そして世界を作った。次に生き物や植物を作り、世界を彩った。最後に神の分身であ
る私達を作り、世界を治めさせた。例えば私は『時の神』。ここにはいないが、私の右腕である奴は『空間の神』などと言ったよ うにな。しかし私達は劣化コピーの様な存在だ。神の力の一部を弱体化した力しか持っていなかったからな。
私達は世界を神に代わり治めていた。その時の私達は後々に天使と呼ばれるようになったな。ミカエルだのウリエルだの私達は名 乗っていないのにな。クククッ……。
話を戻そう。その時の私達は心が無かった。なんとなく世界を治めているという感じだったな。
私達は人間と共に生活をしてきた。人間と触れ合っている内にある変化が芽生えたのだ。神が生まれたのが一つ目の奇跡な らこれは二つ目の奇跡だな。私達に感情が生まれたのだ。
それを自覚した当時はそれはもう戸惑い、慌てていたな。今でもまるで 昨日の事のように鮮明に思い出すことができるほど印象の強い出来事だったよ。
不幸な人間がいたら悲しくなったし、横暴で乱暴な人間がいたら怒りに震え、そしてそんな人間が出来てしまった事に対して自分達の力不足を嘆いたりもした。普通に考えれば当たり前 の事かもしれないが、その時の私達にとっては衝撃だった。
私達は感情を持つことで不幸を悲しみ、幸福に喜ぶことが出来るようになった。これも全て人間のおかげだ。今でも感謝しているよ。
それから長い年月が過ぎ、あの事件が起こった。
神が突如として人間作り直すと言い出したのだ。当然私達は抗議しにいったよ。『人間は私の理想通りに育たなかった』というのが理由だった。私達は怒りに震えた。そして神に立ち向かった。
その過程でいくつもの戦いがあったがそれは省かせてもらおう。全て話すと時間がいくらあってもたりないからな。そして結果だが何とかその場では神をとめることが出来た。私達が全員冥府の底に閉じ込められる事を対価に人間を守ることが出来た。
心無き頃の私達が天使だというなら心を得て神に刃向かう今の私達はさしずめ堕天使とい うところか。私達は長い間冥府の底で力を蓄えてきた。また神が何をするか分かったもんじゃなかったからな。
神も私達との戦いはか なり苦しかったらしく、神もまた力を蓄えていた。
そして最近ついに冥府の封印が解け、私達がこの世界に来れるようになって私は、いや、私達は愕然としたよ。人間の世界が悪意で満 ち溢れているということにね。神がそう仕向けたのか人間達自身がそうなったのかは今の私達には分からない。
私達はすぐに人間達を 悪意から救おうとした。だが、神により人間の世界に大きな干渉ができないようになっていた。
放っておけばまた神は人間を作り直そうとするだろう。確かに今の人間は醜い部分が肥大化している面もある。だがそれでも私達は心を教えてくれた人間を見捨てる訳にはいかないのだ。今は情報収集と人間を観察するためにこの世界に居座っている。
私から話せる事は以上だ。