はてなキーワード: サティヤ・サイ・ババとは
母親一家がクリスチャン、親戚の独身女性全員がシスターという珍しい家で産まれた。
大学生になって英文学の授業を取った時に英語で聖書を読み、初めてキリスト教に興味を持った。
社会に出て働くようになってから人間の残酷さとあたたかさを同時に味わったり、人も自分も良くも悪くも変わってしまうんだなと悲しくなったりした。
聖書を読み、寝る前にその日の出来事や感じたことを神様に語り祈るようになった。この世で唯一変わらない神様の存在を思うと、自分らしく人を大切に生きられるような気がした。
ある時、私はラジオから流れてくる曲に衝撃を覚えた。初めて聴く曲なのに異常に心地よく懐かしく感じた。その時点で彼のファンになった。
すぐに彼の他の曲を調べ全部聴いた。YouTubeでアップしていた動画を何度も見たりインタビュー記事を読んだりした。
彼の音楽だけでなく、彼の愛に溢れた言葉に感動した。手帳に書いてみたりした。
しかし最近になって、それが彼の言葉ではなく、サティヤ・サイ・ババの言葉だったことが分かった。今までずっと聴いてきて感動していた音楽にも宗教の教えががっつり織り込まれていた。
要するに、私はクリスチャンでありながら、別の宗教の考えにずっと浸っていたということになる。そのことに気付き、私はものすごくショックを受け頭がぐちゃぐちゃになった。
それの何が悪いの?別にいいと思うものが何個あってもいいじゃん?と思う人もたくさんいると思うし、その考えを不思議だとは思わない。私もショックを受けた自分にびっくりした。
正直、自分はかなり信仰心低めのクリスチャンだと思っていた。神様を信じているというより、自分のために神様の存在を利用しているというか。神様を話を聞いてくれるイマジナリーおっちゃんみたいに思っている、という風に自分では思ってた。
でも実は私は心の奥底では辛い時に教えに導かれたことをものすごく感謝しているんだと気付いた。だからこそ、知らないうちに別の宗教のリーダーの言葉をありがたがっていたことが、神様への裏切りのようで言葉にできない気持ちになった。
彼の音楽は今でも大好きなので聴き続けたいという気持ちはもちろんあるけど、今回の出来事があってなんとなく怖くなってしまった。
キリスト教以外のものを受け入れたくないわけではない。当然神社も行くし仏教用語いいなと思うこともあるし新興宗教に傾倒してるアーティストの曲を聴いたりしてる。でもそれは「これは◯◯という宗教に基づいたものだ」という知識が最初からあるから。
元々「これはこの宗教の影響を受けた音楽です」と言われていればそうなんだなあと楽しめたのにと思うけど、日本では彼がそれを公言するのが難しいのと私がものを知らなさすぎた。
無宗教の人からしたら、楽しいお料理教室に通ってフライパンとかも買ったけど実はマルチの巣窟だったことを後から知ったみたいな感覚に近いかもしれない。そのマルチが悪質かどうかは置いといて、マルチはマルチだから、最初からマルチって分かってたらまだショック受けなかったのに…みたいな(マルチ批判ではなくあくまで例え)