はてなキーワード: ファンタジーとは
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の続き
「心が叫びたがっているんだ」を語るにあたって、最も欠かせない部分。それは学園パートではなく、家庭でのシーンにあると思う。
意外に思ったはずだ。学級会議で突然歌い出した成瀬に対するクラスメイトの人間的にまっとうすぎるリアクション。そしてそもそも成瀬のような生徒がいじめられていないクラスという環境。最初の印象は「やさしい世界」そのものだった。
しかし一方で、私はこのクラスの環境について、全くのファンタジーだとも思わない。私自身、近い環境は経験したことがあるからだ。私は高専という5年間同じクラスで学生が生活をし、工業系ということでオタクばかりが集まった中で学生生活を送ったことがある。それがちょうどあのクラスの環境に似ていた。いわゆるリア充やスポーツマン、根っからのオタクなどその中でもカテゴリは存在していたものの、それぞれに学園ヒエラルキーが適用されるのではなく、お互いに棲み分けを行うような形で折り合いをつける。結果、異分子的な存在に対しても特に働きかけることもない一方でいじめのような状況は発生しない(しなかったと思っていると付け加える)。
おそらく「ここさけ」の舞台の学校も、近いような環境、学力的にステロタイプに表すなら、偏差値が高いほうではある一方で、エリート校と言うほどではない奇跡的な案配といったところなのだろうと想像した。
ともかく、「やさしい世界」的に描かれた学校のシーンは、とても淡泊なものとなった。これはいじめ描写を除外することでその他のドラマに描写を注ぐためだったのだろうと思う。(本当は少し違うと思うのだが、後述する)
そのドラマとは当然青春ラブストーリーもあるが、それよりも重要なのは家庭のシーンだったと考えている。
まずは描写も直接的でわかりやすい成瀬の家庭について説明する。
まず、女手ひとつで子供を養うために母親が就いた仕事が「保険の勧誘員」というところ。ある程度年齢がいった女性が中途で採用される職業で、比較的安定しており生活が成立する収入を得られるものとして、典型的なものだ。彼女らの仕事は半歩合制であることが多く、望む収入によって仕事の量が変わってくる。夫婦共働きなら昼間だけつとめれば良いが、一般的サラリーマン並みを一人で稼ぐとなると残業は当たり前で、劇中のように帰りが遅くなることが多いだろう。
そして、母が在宅していない時、成瀬一人で自宅にいるときの「明かり」の付け方。あれもものすごく写実的だ。リビングのうちシステムキッチンの明かりだけつけて最低限の明かりを確保するだけ。ひどくリアルだと感じた。これは単に成瀬の暗い性格を表す演出というだけではなく、親が出かけており子供一人で留守番をしている光景として、典型的なものだと思う。電気代を節約して家計に貢献だとか、そういうことでは恐らくない。単に子供一人にとって、一軒家が広すぎるからだ。どうしても明かりは最低限となり、家全体で見たとき、点々と明かりがぼんやりとついているような状態になるのだ。何も片親だった人だけでなく、夫婦共働きの子供だった人なら思い当たるところがあるだろう。
車の音やインターホン、他人や親の気配を感じてびくりと身構えるあの感じも、そのものを写し取ったかのような正確さだと思う。
片親の親、あるいは子。共働きの親なら胸が張り裂けるような描写であっただろう。
登場人物のうち、自宅の描写があるのは成瀬と坂上だけだが、坂上が昔ながらの一軒家の形式に対して、成瀬の家が異なっていることはすぐ気づくところだと思う。
彼女の家はいわゆる分譲住宅だ。幼少期の描写ではぽつんと一軒成瀬の家だけが建っていたところから、現在では周囲に家が立ち並んでいるところをみると、成瀬の父親は転勤族であり、新しくできた分譲住宅に飛びつくような形でやってきた新参者だったのだと想像できる。
そこでまもなく彼女の意図しない密告により、両親の関係は決裂してしまうことになる。母親は子供を養うために働きに出るしかなく、自動的にご近所づきあいは破滅的に。地域性というバックボーンがない新参者のために、塞ぎがちになった成瀬に対しても「近所のガチンチョ」だとか、「面倒見の良いおばちゃん」のようなケアは存在しなかった。
建物一つの描写をとっても、このように彼女が今に至るまでで、そうなってしかるべきであったという状況が、写実的に示されているのだ。
この状況は、成瀬本人にとってはもちろん、母親にとっても過酷だ。母は成瀬に対して辛く当たるひどい親として描写されてはいたが、彼女の立場に立ってみれば、同情を禁じえない境遇といえるだろう。
坂上家で成瀬の母が「娘がおしゃべりで電話代がたいへん」なんて見栄を張っている描写もあったが、恐らく彼女は仕事場でも同じ嘘をついている。
典型的な母親のつく仕事である「保険の勧誘員」という職場において、子供の話題というのは避けて通れないものだろうから。
「心が叫びたがっているんだ」という映画。うわっつらはありきたりで平和な青春ラブストーリーであるが、このように少し掘り下げるだけで緻密で残酷な描写がちりばめられている。
しかしこれだけではない。行間に隠されてはいるが、物語の読解に重要なもう一方。勝るとも劣らない残酷な描写がある。
それはもちろん坂上の家庭環境だ。
坂上は父方の祖父母の元で生活している。そこは父親の実家であり、本宅でもある。しかし父親は家には寄りつかず、事実上は別宅みたいな扱いになっている。坂上の両親も成瀬の家庭と同じく離婚しており、母親が居ない片親の環境。子供の世話は父の両親、坂上からすれば祖父母に任せっきりだ。
以上が物語上で語られ、描写された内容ほぼすべて。祖父母が居ると言うことで、成瀬の家とは異なり暖かい明かりに包まれており、表面上とても平和に描写されているし、事実、平和なのだろうと思う。
しかしこれらの「行間」には、特に現役の父親にとって、致死量のカミソリが仕込まれているのだ。
それは、直接的には描写されない坂上の父親の影を追っていくことで明らかになっていく。
まず、成瀬が初めて坂上の家を訪れたとき通された父親の部屋。あれで一気に、坂上の父親の像がはっきりする。
普通の一軒家に見える家屋の二階に突如出現する、完全防音の音楽室。典型的な趣味人の部屋だ。防音設備など普通のサラリーマンでは考えられないような出費を伴うものだ。そもそもがあの家自体、広大な土地がある北海道において「坪庭」など、まさに道楽者そのものだと言える。※坪庭というのは家屋の中に四角く切り取った庭をこしらえたもの。本来は土地の限られた京都などのような所でふさわしいものだ。
そこから推測できる父親像はつまり、かなりの収入を得ている人物。さらに推し量ると恐らく音楽関係の業界人。それも相当名の高い人物と考えられる。
坂上は幼少期いやいやピアノを習わされた。しかし次第に夢中になり、ピアノに専念したいから私立校に進学するのはいやだと母親の勧めを突っぱねることになる。彼を擁護する父親、反対する母親。それが坂上の両親の離婚の原因になったという。しかし言葉の上では確かにそうかも知れないが、少なくとも現代の日本において離婚はまだそこまで軽々しいことではない。子供の進路についてもめることはどこの家庭でもあることだし、私はそこまで致命的な問題ではないと思う。
恐らく坂上の母親は、その件がきっかけで堪忍袋の緒が切れたのだ。家庭を顧みず、父親ではなく趣味人としてしか生きない男に。
男の片親。子育てを彼の両親に一任して自分は仕事に専念する。頼れる両親の健在な父親にとって、至極妥当な選択かつ、リアルなものに感じる。恐らく音楽の業界人ならば、仕事は都心のことが多いだろうし、それは当然家庭にほとんど寄りつかなくなるだろう。それに、当人にしてみれば、苦言を言う妻という存在がなくなり、以前よりよりいっそう父親の任を感じることなく趣味の延長のような仕事に没頭できるようになったのだ。坂上の祖父母はとても温厚だ。孫相手だというのもあるだろうが、坂上父のこれまで推察した人物像から考えれば、彼もまたこの二人に甘やかされて育ったのだろう。
今の彼は、もう一度独身貴族を楽しんでいるような感覚でいるかも知れない。「お子さんいるんですかぁ?信じられなぁい」なんて言われたりして。
父親が習わせたピアノで、坂上は母親を失うことになった。少なくとも表面上の因果的には。
しかし恐らく、父はそれについて罪の意識は抱いていない。そもそも、ピアノを教えたことが正しかった、間違っていたの葛藤すら抱いていないと思う。
ピアノを習うことは彼にとって当然だからそうしただけのこと。彼は自分が息子に与えた影響というものを全く意識していないのだろう。そもそも、父親としての自覚が希薄だから。
息子の坂上自身について考えてみよう。公式サイトにおいての彼のキャラクター紹介はこうだ
まるで平凡で人畜無害な子供のような説明になっているが、本編を見れば明白なとおり、事実とは真逆だ。
まずクラスでの立ち位置。無口でエアー的に振る舞う様は説明の通りではあるが、実行委員に選抜されたあと、坂上は学級会議の司会を堂々とつとめている。それを受けてのクラスメイトの態度、そして平時からのDTM研での扱い。これはいわゆる「表立って目立つタイプではないが一目置かれてるタイプ」の生徒のそれだ。成瀬や仁藤を除いても、もう一人や二人くらい、彼を思っている女子がいてしかるべき立ち位置に彼は居る。これは上で説明した彼の家柄によるものと考えることもできるが、彼の振る舞いを観察すれば、なんとなく推測できるところがある。
まず、その人格が常軌を逸している。言うなれば英雄的なところ。
完全に異常者である成瀬に対して、彼は最初から一切、一ミリも物怖じすることなく接した。普通にできることではない。彼の異常性というか、異端、あるいは抜きんでた人格を表していると思う。
「やさしい世界」のクラスメイトも成瀬に対して差別的な態度はとっていなかったものの、進んで接触するようなことはそれまでしなかった。
そのハードルを素知らぬ顔で乗り越える。というより、彼自身の異常性のためその特別さに気づいていないだろうところ。彼が一般人とはかけ離れている描写だと思った。
そして音楽の才能。
彼は「作曲はできない」と謙遜してはいるものの、ミュージカルの曲目において、それぞれのシーンを象徴する完璧と言える選曲を行った。そして即興でクラシックのマッシュアップさえしてみせたのである。それも、もう一つの結末の案を成瀬から聞いてたった数秒の逡巡の後にだ。才能があると言うほか無い。
つまりそこに集約される。クラスから一目おかれ、常人離れした振る舞いをし、音楽の才能がある、彼はいわゆる「天才」である。
ここで先ほど挙げたシーンに立ち戻ることができる。
「あこがれのお城」での彼の涙の理由について。
彼はもちろん、彼が説明するとおりの理由で涙した。「坂上拓実」と連呼する彼女の言葉に聞き入りながら。
奇しくもミュージカルの最終幕の歌詞をなぞらえるように、音の上では名前を呼んでいるだけのそれが、「愛しています」と聞こえてくるその芸術性に感じ入って涙したのだ。
言葉はその意味を越えて話し手の気持ちを投影するものなのだと。
あの切迫した状況においてである。天才の感受性と言うにふさわしい。
さて、彼の父親は誰だったか。
音楽業界において有力な人物である。彼もまた、音楽の天才と言えるのだろう。こんな自覚が希薄な男でも、坂上にとって彼は間違いなく「父親」であった。
彼の影響下の元、彼と同じ家庭環境に育まれ、坂上は父親の人格をしっかりと継承しているのである。いくら自覚がなくても、子供は親の影響を受けて育ち、それらを継承してしまう。
ところで、ここまで一切触れることはなかったが、仁藤の人格についても考えよう。
チア部のリーダーで責任感が強い。ラストのミュージカルで急遽代役を務める事になったときの態度からも読み取れるように、背負い込み、気負いすぎる性質を持っている。
私には彼女がある人物に重なって見える。
それは成瀬の母親だ。彼女は頼れる両親がいなかったのかもしれないが、どちらにしろよそに頼ることなく、女手一つで子供を育てる選択をした。再婚もせず、もちろん育児を放棄することもなかった。
彼女もまた、責任感が強く、背負い込み、気負いすぎる性質を持っているといえるだろう。
一方坂上はといえば、父親としての役目を全うできない道楽者の生き写しである。
ここまで考えると想像せずには居られなくなる。
彼らが結ばれ、子供をもうけるようなことになったとき、待ち受けている結末について。
そうならないと信じたい。
交流会を通しての経験から何かを得、成瀬や田崎のように坂上もまたその業からぬけだすことができるのだと。
以下は蛇足になる。
ここまで残酷で緻密な描写ができる監督、脚本家というのは何者なのだろう?と考える。もしかしたら、彼、あるいは彼らもまた、過酷な家庭環境で育ったのではないだろうか。そうでもなければ、ここまで緻密な描写など不可能なのではと思えてならない。
そして劇中の「やさしい世界」としてのクラス。部活でもクラスでも一目置かれる坂上の立場。
彼は過酷な家庭環境をもつ一方で、その救いを学校生活に見いだしていたのではないだろうか。
さらに推し量るなら、彼の担任教師の高校教師らしからぬ立ち振る舞い。そして文化祭の主役という立場を、スケープゴートとしてしか捉えない大人びた生徒達。彼の原体験は、大学生活にあったのではないか(あるいは高専?)と想像してしまった。
そして家庭シーンの原体験は成瀬と坂上の家庭の合いの子。きっと彼は「坂上と仁藤」の間に生まれたのではないだろうか。
そして彼は「父」になることを恐れているのだ。
ここまで書いたが、実は以上の内容、ほとんど筆者である私が気づいたことではない。
私はこの映画を、友人たちと連れだって見に行ったのだけれど、そのうちの一人の境遇がまさに、「片親という家庭環境で育ち」「現在父親」というものだった。
彼はその境遇故に、この映画の行間に仕込まれた凶器すべての気配を感じ取り、とても傷ついていた。一方で私ともう一人の友人といえば青春ラブストーリーとしてみていたので平和なものだったが。
彼は「もう二度と見たくない」とは言っていたが、その理由を聞いていくうちに、「心が叫びたがっているんだ」という映画の全体像を捉えることができた。私はこのことにとても感動したので、彼にぜひブログポストするように勧めたが、とてもできないということだったので、許可を得てこの文章を書いている。彼の現在の家庭は幸いにして、父親である彼と母親、両方かけることない家庭を築けている。(今のところ)
しかし彼の反応を観察するに、とても子を持つ親に勧められる作品とは言いがたいのかも知れない。
下衆の勘ぐりが正しいとすれば、この作品はつまり「サマーウォーズ」対抗軸、家庭という環境、父、母という存在を否定し、子供は学校などの社会でその人間性を開花させていくものだと説いたものなのだから。
事実、子供である成瀬に対して救済はあったが、彼女の母にそれはなかった。ミュージカルのシーンは母への救済と取ることもできなくはないが、今の私には罪と向き合い自分の無力さに泣き崩れる母親に見える。
ともあれ、ここまで読み解いてみてつくづくこの映画の凄さ、恐ろしさを感じる。
「青春ラブストーリー」としても、「核家族ホラー」としても、核心の部分をすべて行間に潜め、合致する感性を持つ人、あるいは何度も繰り返し視聴した人が、ここまで深く読み解くことができる作りになっていることがだ。
「心が叫びたがっているんだ」は傑作というほかない。
「心が叫びたがっているんだ」を観てきた。てっきり平凡な青春ものの作品だと思っていたら大間違い。一筋縄でいかない緻密な描写に裏付けられたとんでもない傑作だった。
この作品の凄みについて説明するには、素直な鑑賞方法の「青春ラブストーリー」としての軸と、「核家族ホラー」としての軸の二つの面から読み解いていく必要がある。
核心はもちろん「核家族ホラー」にあるのだけれど、まずは「青春ラブストーリー」としての軸から順を追って解説したいと思う。当然ながら以下の文章は物語の核心に触れるものなので、未視聴の方は注意していただきたい。
個人的にはネタバレのために面白くなくなる類いの作品ではないと思っているものの、まっさらな気持ちで作品と向き合うチャンスはとても貴重なものだと思う。
まずこの物語は、地元の神様的存在から呪いを受け、声を失った主人公(成瀬 順)というちょっとしたファンタジーから始まる。
最終的にはこれは本人の妄想に過ぎないということが解き明かされるのだけれど、どちらにせよほぼ全くしゃべることができないという現実には少し考えにくい境遇の人物を軸に物語が回る。
ある日学校の交流会、有り体に言えば文化祭的なイベントの実行委員に担当教官から強引に主人公が抜擢される。
抜擢されたのは合計4人で、実行委員になったのは主人公に加え坂上 拓実、仁藤 菜月、田崎 大樹の3名だ。
いろいろあって主人公たっての希望により、交流会の出し物をミュージカルとし、紆余曲折ありながらも4人力を合わせて交流会を成功に導く。というのが大まかなあらすじになる。
ラブストーリーとしては、成瀬は坂上に思いをよせるものの、中学の頃から相思相愛の仁藤という存在があったため、成瀬の恋は片思いに終わり、最終的には実は成瀬に思いを寄せていたダークホースの田崎が彼女に告白する。というところで終演した。
ここでひとつ初見で思いがちなのは、「田崎の告白がとってつけたもののように感じる」ということ。片方がくっついた一方で余りの二人がくっつくという、平和にラブストーリーを決着させるありきたりな手法に思えるし、実際そうなのだけれど、田崎の告白自体はしっかりと序盤から布石がちりばめられていた。
田崎はかつて平凡なチームの一つに過ぎなかった野球部に「甲子園を狙えるかも知れない」と夢を抱かせるほどのスーパーエースだったが、腕の負傷により選手生命を絶たれた男だ。性格は運動部らしくまっすぐ筋を通すことをよしとするスポ根の思想を持っている。
その田崎と引きこもり一歩手前の成瀬というカップリングは奇妙ではある。しかし物語でのファーストコンタクトの時点から、彼女は彼の心を動かし続けていた。
まず田崎が実行委員参加に消極的な当時、交流会の出し物を決める学級会議で成瀬をひどく侮辱するシーン。
このとき田崎は完全に成瀬を見下しており、くだらない存在と思っていた。しかし、そこで突然成瀬は歌い出し、彼女がミュージカルをやる実力があることを証明してしまったのだ。
このあと、田崎は珍しく部活動の参加をせず帰路につく。
彼女を侮辱したとき、同時に田崎は坂上から侮辱をうけており、それが原因にも思えるが、結末から逆算すればここはそうではなく、成瀬の行動に胸を打たれてのことであったのだと考える。
ひどい侮辱を受けても胸を張り、自分の実力でそれをはねのけてみせる。
前述の通り、スポ根の田崎にとって、これほど評価に値する行動はないのではないだろうか。自分が見下していて、それも真っ向から侮辱した相手にそれを見せつけられたとき、田崎は今の自分自身の姿と初めて直面したのだ。「あんな立派な彼女に対して、今の自分の情けなさはなんだ?」といったところだろう。
この後の下校シーンで田崎が仁藤を誘うというシーンが挿入されるため少し混乱するが、これはおそらく「チア部部長と野球部エースがつきあうという伝統」と、仁藤が女性的に魅力があったからという単純な理由による、破れかぶれの軽口だったと考えている。田崎は最初から仁藤については恋愛感情は抱いていない。演技や描写的にも、私には一番腑に落ちる解釈だ。
次にファミリーレストランで会合中、田崎が野球部の後輩と居合わせて喧嘩になるシーン。
ここまで説明すれば明白だが、このとき田崎は成瀬に助けられてしまう。成瀬は「いなくなれ」と侮辱された田崎を必死で庇う。言葉を発するとひどい腹痛にみまわれるというハンデキャップを負っているにもかかわらずである。(実際成瀬はこのために病院に運び込まれることになった)
ここで田崎の恋心は確定したといっていい。
またも彼女は田崎の最も評価する行動を取り、かつそれは自分を庇うための行動であったということ。尊敬に値し、同時に自分を気遣ってくれる存在。もはや恋に落ちるには十分すぎる条件ではないだろうか。
その後田崎は実行委員に積極的に参加するようになった。そこで野球部外の生徒との交流を通して、野球以外の世界、自分のかつて見えていなかった部外の生徒の特技や良いところにふれることで、次第に心を開いていくことになる。
ある日、実行委員の活動から帰路につくとき、成瀬と田崎が二人きりになることがあった。そこで田崎は彼女に今までの無礼を詫び、野球以外の世界を教えてくれた成瀬に礼を言う。ここでついに告白でもするのではないかとハラハラしていたが、それはラストシーンまでお預けとなる。
ところで、「ここさけ」のメインストーリーとして、片思いに終わるものの成瀬の坂上に対する片思いは結果的に彼女と世界を隔てる卵の殻を破り、彼を失う代わりに新しい世界へ足を踏み出すというものがある。
その第一歩が田崎の告白に他ならないのだが、その田崎自身も、野球という卵の殻に閉じこもっていたと考えることができないだろうか。
坂上は終盤直前まで主人公同然の露出率で、意図的に組まれたミスリード的存在であったが、実は恋愛ものとしては同じテーマを抱えた田崎×成瀬こそ主軸のカップリングであったと言えると思う。
その証左として、終盤の「あこがれのお城」での坂上と成瀬のシーン。
成瀬がため込んだ思いを自分の声ですべて坂上にぶつけるあのシーンで、坂上は誠実に聞きに徹する。とても凝った演出で純粋に感動的なシーンではあるのだけれど、私は別の意味でもひどく感動を覚えた。
成瀬の言葉を一つ一つ受け取っていくたび、坂上の存在がだんだんと小さくなっていくように感じたのだ。それまではまるで主人公のように振る舞っていた彼だが、すべてのやりとりを追えた後にはその影はまったく消え失せている。ミスリードの主人公として、成瀬の思い人としての役目を終える瞬間だった。最後に残ったのはただのモブ同然の男子生徒。その後のミュージカルのシーンでは王子という準主役の役目を演じるにもかかわらず、抜きで映し出されているのは成瀬で坂上は声しか聞こえない始末だった。これではDTM研のふとっちょ以下ともいえるだろう。
女性は終わった恋に対して淡泊と言うが、その心理を如実に表しているようにも感じる。ニセの主人公だったのにもかかわらず、ここまで主役のように劇中でふるまってきたのは、恋をしている成瀬のフィルター越しの演出だったのではないかとも解釈できる。
さて、青春ラブストーリーとしての他のカップリングについては、劇中で直接的描写がされているため省く。
次に「核家族ホラー」としての「ここさけ」を解説したいと思うが、その前に一つ念頭に置いておいてほしいシーンがある。それは先述にもあったが、「あこがれのお城」でのシーンだ。
成瀬は坂上に泣きながら言葉をぶつけていた。失恋の結果だし、この感情表現に対してまったく違和感はない。
しかしそれを受けての坂上の涙。これはどうだろうか。
「思ったことを言葉にする成瀬の姿に感動した」というような事を言っていたし、その言葉に偽りはないとは思う。しかし、その説明ではあの涙の十分な説明にはなっていないのではないか?と疑問に思った。ある意味で事実に沿ってはいるだろうものの、本質をかすめてはぐらかされたような気持ちになった。
しかしこの疑問は、成瀬と坂上、二人の家庭環境について読み解いていくことで明らかになる。
以下につづく
エロ漫画で射精の際に、精液を熱いと表現することがよくあるが、精巣は熱に弱いために体外にぶら下がり、さらにシワだらけにして熱を放射しやすいようにできており、高熱が出たときには玉が伸びて冷やそうとする、ここまでして冷やした器官から出たものが熱いわけがないと、いつも疑問に思う。
あと肉便器系の漫画でガバカバといった表現をよく見るが、膣を締め付けるのは、訓練しないと意識して動かすのは難しい筋肉であり、より訓練を積み筋力を鍛え意識して動かせるようになったビッチの方が締め付けはきついのではなかろうか、ストリッパーも鍛え上げてバナナを食いちぎる芸とかあると聞くし。
キツキツと表現されることの多い処女は痛すぎて力が入った勢いで締め付けられるかもしれんが、実際どうなのだろう締め付けるのは気持ちが良い時なので痛いだけの処女はガバガバな気がする。
エロはファンタジーで嘘ついてなんぼなジャンルだから疑問を持つのは野暮かもしれないが、精液熱くないと男が思って冷めたりしないのだろうか、ガバガバなんて、女向けエロでソチンと言い出すようなもので気持ちよさに繋がらない表現ではなかろうか、なぜこの嘘をつくのか不思議だ。
相手を人間としてみる気が無いのって、普通だろ。ネットで対戦した将棋プレイヤーとか、何の人格も興味ないのと一緒。あるいはスポーツでも相手の人格はまったく興味ない。
ってか、恋愛ってのに、技術を持ち込む理由は、人格での勝負なら圧勝(文学とか哲学の話な)なはずの高校生選手権の代表とか、数学オリンピックメダリストがまったく女に相手されない時点でお察し。人格なんて恋愛では見られていない。見ている人格なるものは、作った表面だろ。
だったら、表面の作りこみをやりたいですって話だし、相手の人格との勝負じゃなくて、表面での勝負になるから、相手の人格なんて興味ないの当たり前ジャン。スポーツと一緒。
ここでリアリティがないと言われてるのは舞台装置じゃなくて人間の心理の描き方についてなので
なんか素でこの手のこという女性が多くて驚いてるんだけど
「守ってくれる」てなんやねん。
「守ってくれる」の人から感じるのは片務的と言うか、男女対等の関係じゃないよね。
かといって女性が上位でもなくむしろ逆で、なんか幼児的っていうかさ。
「守って」というからには「攻めてくる敵」もその人の脳内には居る訳で、
普段は大人しくて目立たなくても、彼女が辛い思い・怖い思いしたときに立ち上がれれば、そんなに幻滅されないと思う
これは実用的な話じゃなくて
小児的なファンタジーの話だよね。
もっと言えばさあ、幻滅するチャンスのほうをこそ窺ってる感じがするよ。
「パパがママが私の期待通りに完璧にしてくれなかった!」ってスネるチャンスをまってる子供っていうか。
とにかく大人の女性じゃないでしょこういうこと言ってる人。
ラブホをお城と勘違いしてラブホ通いが趣味になってしまった女の子、成瀬順は、父親が浮気相手とラブホから出てきたところを母親に言ってしまったために(彼女に悪気はない)、両親は離婚、父親からは「お前のせいだ」と詰られた。そして突然現れた「玉子の妖精」とやらに喋ることを封印され、言葉を発するとお腹が痛くなるという呪いをかけられる。ここまでが導入部分。
それで(たぶん)10年後、成り行きで地域イベントの実行委員をやらされることになった彼女は、成り行きでミュージカルの主役をやることになる(歌を歌っても大丈夫なのは途中で気づいた)。いろいろあったけどミュージカルは無事成功、自分に呪いをかけた玉子の妖精は消え、女の子は同じ実行委員の男の子から告白を受けるところで話は終了。
開始5分の予想だと順は無事喋れるようになって坂上くんとくっつくことを予想していたけど、順は喋れるようにはなっていないし、坂上くんは元カノとヨリを戻して、順は野球部の人から告白を受けるだけに終わってて予想が外れた。
ここでいう「玉子の妖精」は心理学的に言うところのイマジナリーフレンド、「呪い」は失声症のことであろう。所謂イマジナリーフレンドからストレスを受けて、そこから失声症を発症、悪化させる事例を私は知らないが、どう考えても心療内科等で治療を受けなければならない案件だ。ちなみに彼女がそういった治療を受けている描写は一切ない。
ゴールデンタイム然り、一週間フレンズ。然り、病気をファンタジーで誤魔化すことの是非はともかく、娘のラブホ通いを把握できず、病院にも連れて行かず、娘を詰って世間体を気にするだけの母親などはほぼ典型的な毒親であるし、周囲が絶望的に病気に無理解なので、この先彼女の病状は悪化こそすれ良くなることはないだろう。
そういう意味では、継続的な治療を受けたメンヘラちゃんとかカミーユとかに比べても非常にバッドエンドな作品であるし、毒親に人生の大半を台無しにされた少女の物語として映画を見ると面白いかもしれない。
そういえば君が学生かどうか分からないけど、私が学生の時はそういう形で交際をスタートしてみた。ハードルが低そうな女性からスタート。
ブスで、でもお嬢様で、ワガママで、寂しがり屋で拘束時間は長い、sexも男性がリードしないとまずいみたいな女性だったけど、本当にいろいろ勉強になった。彼女と付き合ったからこそ今の嫁さんの価値が即わかった。結婚して9年になるけど嫁さんには感謝してるし愛してる。
ぶっちゃけていうと、ある程度の女性は「女慣れしてる男性」じゃないと交際スタートできない。なんか矛盾してるような気もするが。生物的には一夫多妻構成をナチュラルに求めているような印象がある。
『誰か1人』『この人が最後の人』みたいな考えは捨てて、まず経験値を貯めるという方針がよいと思う。
自分がされて嫌なこと、って人それぞれだと思うんだけど、誰かと交際してるうちに「僕はこれが耐えられないんだな」ってのが分かる、というのもある(ちなみに私は拘束時間が長い、という点が耐えられなかった。が、ずっと一緒にいたい、拘束時間が長い男性というのもいるので、人それぞれではある)
残念だけど、組み合わせの問題はあると思うよ。
追記
id:angmar それが少女漫画的純情純潔イデオロギーに支配された理想主義的よい子ほど現実との落差を埋めるのに失敗するという
うーん、私自身は少女マンガも読む。BANANA FISH、彼氏彼女の事情から始まって月刊誌購入したりとか。好きだったのはヤングyou。 papa told me, ハチミツとクローバー, ベルエポックとかね。 学生の時に読んでた。でさ、そういう女性向けを読んでて思ったのは女性の理想って現実とかけ離れてる、って事。おもしろいのだが。いやまぁ男性の理想もかけ離れてるが...
という訳で早めに『女の子むけファンタジー』の文脈に慣れておく必要があるな、と思った。本当に女性の考える理想の男性像って現実の男性とは違う。という事が良く分かった。で、当時の彼女に対して漫画の中のような誠実な男性として振る舞うと、よい反応が帰ってくる(若干、中毒性が高いように思う)
というか今でもフィールヤングとか読めば中年女性の求めている理想の男性像が見えるのではないか。女性が女性向けファンタジーを現実に求めるのは害悪でしかないが、男性が女性向けファンタジーの文脈に慣れておくのはある程度、価値があるように思う。まぁ落差はあるんだけどね
http://anond.hatelabo.jp/20150922180836
男性観点だと年収が一定に達してないと、そもそも婚活しないよな。なにかお見合いとか外的なアクションがないと。
まぁ、そうなんだろうね。
男性側の現状のグラフもあって 多くの男性が年収300万円前後であることがわかる。
女性側の希望、『最低限これだけないと結婚相手として見られない』といった内容でのアンケートでは
大体「500万円以上」からの希望が多い。30代未婚男性で満たしているのは7.7%だそうな。
君の考える「40代になって年収が500万円を越えた」って男性は多いだろうね。
ただ残念なのは、女性の希望にどうやら更に『年齢』も含まれているようだ、という事。
君へのトラバにもついてるけど、あれだよね、中年には厳しいらしい。
『金融日記』著者・藤沢数希さん:自慢する金持ち男より年収300万円のナンパ野郎がモテる http://am-our.com/special/155/6939/
ローグライクっぽいランダムダンジョン制+女神転生みたいな主人公視点で操作する感じ(ウィザードリィとかそんな感じなんかね)
主人公は「成長しない」呪いと「定期的に性交しないと死ぬ」呪いがかかっている戦士かなにかで、
なぜか性交すると自分の経験をあいてに分け与えられるようになりましたみたいな感じ。
システム的にはアークザラッド2のヂークベックの経験値分配システムに、ギャルゲー要素を詰め込んだ感じ。
ヒロインとの関係が険悪になると分け与える経験値にマイナス補正、逆に良好になるとプラス補正。
ただし、ヒロインの間で人間関係があるので全員ハーレムは無理みたいな。
主人公は装備強化で育てる感じ。(鍛冶屋をヒロインにして、戦闘に出ない代わりにレベルアップで室のいい武器がゲットできる的な)
好感度が上げやすく人間関係も悪くないので育てやすいがステータスが微妙な幼なじみとか、やたら毒舌でキャライベントを攻略しないと他ヒロイン全部と関係が最悪な悪役系ヒロインとか出して
乳首が甘いもんだという勘違いに似て、女性器もファンタジー系なエンカウントを期待しちゃうのが原因だと思った
女性器は洗ってない男性器と大差ないか、それよりすっぱいような饐えたにおいがして、女性器をなめるのはかなりハードル高かった
最初ははじめての女性器ってことで近くで見たいってのもあって自分からなめにいったけど、少しやったらういいやってなった
あれはえげつねえもんだった
またあんな機会くるのかなあ
週刊少年ジャンプで連載中のカガミガミが打ち切りの危機に瀕しているように見える。NARUTOという巨大作品が連載終了という連載枠的にこれまでにないほどの好条件で始まった岩代先生にとって3回目の、俗にいうバイバイジャンプに王手をかけている連載作品「カガミガミ」である。しかし30話(作中で言うFILE30 岩代先生は巻末コメントでこの表記を編集が間違えていることを指摘する)現在、直近の打ち切りレースで「レディジャスティス」「デビリーマン」が連載を終了し、確実に先に打ち切られると容易に推測できた打ち切りへの余裕枠が尽てしまった。次もしくは次の次の打ち切りレースで生き残るには新連載の「ものの歩」「左門くんはサモナー」が10話で突き抜けてくれない限り厳しい。もちろん作品上でも黒幕の終月(ツイラギ)というキャラが登場し、打ち切り臭プンプンである。
前作「PSYREN」(2008年1号~2010年52号)の熱烈なファンで数々の友人に布教し、5年間新連載を待った身としてはどうにかして打ち切りを逃れ人気作品に上り詰めてほしい。「PSYREN」では弟子に先を越されたアニメ化をこのカガミガミで成し遂げてほしい。そういう思いからこれを書いている。
手元のWJ42号の巻末目次を見る。なんという充実の連載群であろうか。
1.ものの歩(新連載)
2.暗殺教室
3.ハイキュー!!
8.斉木楠雄のサイ難
10.背筋をピン!と
13.BLEACH
16.カガミガミ
現在のWJは作品の年齢の若い中堅ドコロが、「PSYREN」連載当時では考えられないほどに充実しており、非常に面白い雑誌となっている。
5.僕のヒーローアカデミアは、悲しいことにこの作品こそが本エントリーの煽りで使った「NARUTO」に代わるを体現している作品であり、次世代のジャンプ王道系漫画を支える金星である。
6.火ノ丸相撲は相撲という速攻打ち切りを喰らうと思われるジャンルを見事なストーリーテリングとまるで実際にキャラクターと土俵の中で対面しているかと錯覚するほどの迫力を見せる巧みな大ゴマ使いを武器に見事人気作品に仕上げている。私が今一番楽しみにしている作品である。単行本が売れていないという噂を聞くが打ち切られる事はまずない。
7.ブラッククローバーはカガミガミの開始以降に始まった作品であり、連載当初は私が最も登場を感謝したマンガであった。1話の完成度こそ高かったが、2話からさっそくキャラ顔の書き分けが未だに苦手なのが見て取れこれでまたストックができたと安心した。しかしブラッククローバーは以降1話と同様の完成度、つまり子供が喜ぶジャンプの王道を突き進む魅力を維持し続けており加えて顔の書き分け以外の画力も人気作品として恥ずかしくないレベルを維持している。「Magico」「メタリカメタルカ」「HUNGRY JOKER」等のファンタジー系世界観を有する新連載はここ最近まず間違いなく打ち切られていたが、ここにきてその悲しみの連鎖に終止符を打つ作品が出てきてしまった。
10.背筋をピンと!は高校の競技ダンス部に属する地味な男女の話という火ノ丸相撲と同じく一般にジャンプで長生きはしなさそうなテーマの作品である。しかし18話(STEP18)現在でcカラーであり、普通に人気作品である。ここから打ち切りに急転直下ということは考えにくい。また作者の横田卓馬先生は何を隠そうオ〇ニーマスター黒沢の作者YOKOであり前作のダンゲロスはヤンマガ誌上の人気作で、アニメ化の話が出る事には出たという超実力者である。
14.ベストブルーは唯一の希望である。Pixiv上で一瞬だけ人気を博した(?)「新米婦警キルコさん」の作者の新連載であり9話現在順調に掲載順の降下を続けている。しかし、毎度打ち切りレースでジャンプを去るのは2作品であり、これだけではストックが足りない。9話現在、作品上で終わりは匂わされていないことも不安材料。
これら以外は全てアニメ化実写化が済もしくは決定している雲の上の作品たちであり、如何にカガミガミが苦境に立たされているか分かると思う。
では、肝心のカガミガミだが
正直言って打ち切りも止むなしという作品のように見える。いくら過去作の信者だったとはいえ、カガミガミより上記の作品が先に打ち切られるような事態が起こればジャンプ編集部の中に何か闇を感じずにはいられないだろう。
改めて「この親戚一同が嫌いだなあ」と思った。
「〇〇ちゃん」「〇〇ちゃん」とまあみんなフレンドリーにしてくれる。
しかし彼等と心の通じ合う気分を持ったことが一度もない。
些細なことで笑いあって少し心が通じる、その程度のこと、
そういうのすらあの親戚達に対しては一度もない。
彼等なりに気を使ってくれてるらしい配慮はこちらには全然響かない。
彼等親戚同士のコミュニケーションを見てもぶっきらぼうぶっきらぼう、
あれでどんな風に心が通じ合うのか想像もつかない。
笑いのネタや話題も「誰々が〇〇した」ばかりで抽象的な会話やジョークは皆無。
(たまにしかいかない私にはその”誰々”の解説をしてくれるが、興味ないし知ったこっちゃない。)
「血が繋がっててもここまで絆を感じないこともあるんだなあ」
と毎度感心する。
そしてとっても居心地が悪い。
旅行で泊まる民宿でもあの親戚一同と一緒にいるよりはよほど心が休まる。
評論家の町山智浩は自分の田舎の親戚一同が嫌な奴等だったからという理由で
あの映画のことも「現実はクソなのに美化している」みたいに言って叩いていたが、
私は自分の親戚一同が嫌いだからこそあの映画に夢を見て満足した。
年に1、2回集まるなら十分楽しい親戚一同で
すごい智慧と慈悲のある家長がそれをまとめ上げてるファンタジー。
そこに少し緊張しながらも迎え入れられて一員になるあの話は楽しかった。
いや年頃の成熟し始めた娘に性的なものを感じないというのは逆におかしいだろ常識的に考えて。
成熟するってことはひとりの人間として出来上がってくるってことなんだぜ?
「性的」という形容は、出来上がった人間の肉体に我々が感じるクオリアのうちで特に性交可能性に強く結びついたものをあらわしたものだが、要するにからだが仕上がってくればだいたい誰だって「性的な感じ」というやつを帯びるもんだということだ。
で、性的な感じがするってことは(少なくとも肉体のレベルでは)一個の存在として確立してるってことで、イコール自分の価値観で好き勝手に扱っていい相手ではないと認識するってことにつながるわけだ。
敬意を払うべきところでは敬意を払い、尊重すべきところは尊重し、そして自律的に動く生き物同士がトラブルなくやっていくためにお互い最低限踏まえていなければならない礼儀ってものを示してやらなければならない、そういう相手になったんだと認識する契機になる。
「赤ちゃんだったら何もできないから何でも一緒にやってお世話してやらなきゃいけないかもしれないが、お前はもう大人になり始めているんだから、大人としての振る舞いも学んでいかなきゃならないぞ。そのためにはこういう時はこのようにするのだ」というのを教えてやらにゃならない。
身体の成熟はその端緒にして目安になりうる。
しかし年頃の我が子相手にそれを感じなかったというのは傍目には相当ヤバイぞ。子どもに対する支配欲強すぎでしかも無自覚ってことになる。何より「性的な成熟」というのを短絡的に「(自分と)性交可能になること」としか捉えていないのがキモすぎる。
「性別を超えた親子愛」を信じるのに娘の裸が必要だという時点で、お前の言ってることは必然的に娘との性交の可能性を前提に置いてしまう。性交を前提に置いた上で、性交を否定してみせることで愛を証明するという理屈だからだ。
いくら「エロスな目でなんか見てませんよ!見てないから平気でお風呂も入れるんですよ!」と主張したところで、「自分は娘を裸にして一緒に風呂に入ることができるしそれを止めるつもりがない」という時点で、娘に対する考え方そのものは性的虐待者と紙一重ってわけだ。傍目にはな。
キツネは子どもが成熟すると親がキバをむいて巣穴から叩き出すという。しかし本物の外敵や侵入者相手にするように、子を噛み殺しまでする親ギツネはいない。大人のキツネとして生きていくのを、親が促してやるにすぎない。やり口は荒っぽいとはいえ野生動物でもやってることだ。それをお前はお前のファンタジーのためにしなかったわけで、娘さんがちゃんと育ってるから良かったものの…という感想を外野が抱くのは止めようがないわな。