はてなキーワード: 筋違いとは
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20150805/p1
世話と養育とルールとしがらみを押し付ける存在・引き受ける存在としての地域社会が消失した以上、そのぶん、それらを親が引き受けなければならないウエイトは増大した。親自身が自由に子育てできるようになったとも言えるし、親自身が子育てを一括して引き受けなければならなくなったとも言える。さておき、育てられる子どもの側からみれば、世話と養育とルールとしがらみを押し付ける存在・引き受ける存在としての親のウエイトは相対的なものから絶対的なものに変わった。
私もそう思う。
かなり古いけど1996年くらいに出た本で「学校の再生をめざして」という本がある。
学校に過重な負担がかかる前段階として、親の変化を説明してた。
この時からなにか変わっただろうか。
大体上に書かれているとおりで、能力的にもリソース的にも不足している親に「世話と養育とルールとしがらみを押し付ける存在・引き受ける存在」が全て押し付けられる。その結果として、教育の場は閉じた家庭に限定されるため、教育されている内容に偏りが出やすくなったり、そもそも教育が不足する、と。
そういう子を引き受ける学校には、以前より能力ある教師やリソースが必要となるが、実際には人員や予算は削られていく一方で、雑務や報告義務が増加したりと、負担ばかりが増加していく。
にも関わらず、家庭に親にしても学校における教師しても、「他の人間が関与する余地を排除する」構造になっているため、全面的な責任と裏返しの独占的な支配権を保有することになる。
親も教師も、周囲から能力に対して過大な結果を求められ、責任を負わされ、問題を起こすな周りに迷惑をかけるなと言われ、それでいて自分たちにはそのために必要な能力もリソースも手助けも理解者も足りない。 あるのはただ支配権だけ。
こういう条件で子育てしろって言われた時に、「失敗」する確率は高い。何を重視するかにおいて、「周りに迷惑をかけるな」を重視すると、自分がもつ権力や暴力を持って子供を黙らせるしかないって考える人もいる。被害者意識が強くなると、子供を敵視する人だっているかもしれない。
こういう状況で、子供が発達障害児だったり、親と相性が悪かったりした時に、親はどうすればいいのか。どうすればよかったのか。
そう考えると、毒親もまた被害者ではある。
そういうことはこの年になってわかってきた。
とはいえ、自分は親が自分にした仕打ちを許せるかというと許せないのだが。
だが、親だけを恨むのは筋違いであろうということだけはわかる。
タイトルの通り、肩を持つのに疲れた。誰のかというと母親の方である。
父親は物静かな人間だ。なまじ、育ちがそこそこ良く人の気持ちや日常生活の機微に鈍感だ。
一例を上げれば、父親は食事の前後によくお菓子を食べる。それが母親が気に食わない。
確かに、曲がりなりにも作った料理を蔑ろにするのかのようにお菓子を貪る姿は目に余る。時に作る自分からしてもそう思う。
それに加えて、声がまり大きくなくボソボソ喋るのも気に食わない。何をするのか言わないのもそうらしい。
これらのことはそれなりに昔からあったはずなのだが、母親の更年期障害も手伝って目に見えて苛立っているのがわるようになった。
自分も成長し、21にもなれば家族内でも賛否の声を上げるようになった。
だから、私は母親の肩を持った。上に上げたのは一例であり、その他を吟味すると母親の肩を持つのが当然だろうと思えたからである。
結果として、母親の肩を持ったのは間違いではなかった。だが、正しくもなかった。
明らかに母親は父親を敵か何かと勘違いしていた。正しいかどうかは関係なく、自分が気に食わないだけで批判するだけだった。
一度、その姿勢を正そうと思い「父親に言ったらどうか」と言ったら、言い終わる前に拒否された。理由は「私の言うことなんて聞かないから」とのことだった。
この理由は一理あるとは思った。理由はもちろん生活していれば、そのような場面を見ないこと無いからである。
しかし、注意するようなこともせず父親を非難するのは筋違いだと思い直した。
それ以来、私もおかしくなった。父親憎し、母親憎しになってしまったように思える。
そもそも家庭という協力関係で成り立つもので、どちらかの肩を持つのがおかしかった。
今思うのは、早くこの家から出たいという想いだ。自分は公務員志望で民間のように、上手く行っていれば内定をもらえるような時期にない。
早く家を出たい。
母親が作る美味い飯を食べようとする時に、喧嘩を売るような行為をする父親の元から離れたい。
母親が作る美味い飯を食べようとする時に、聞こえない小声で「豚」と罵る母親の元から離れたい。
これを読んでいる子を持つ両親へ、心あたりがあるようなら今すぐにでもやめて欲しい。今すぐが無理なら、小さなことから改善して欲しい。
そして、私と同じような立場になりかけている/立っているのなら、傍観するか中立に立つことをお勧めする。
どうか、両親を憎むようになることだけは無いことを願う。
長文失礼した。
中堅企業の社長K氏が人事部長J氏を呼び出し、次のように説教をした。
「我が社の人事部は、優秀と世間からの評判だが、社内からは新入社員の質が悪いという苦情がきている。どうしたのだ?」
人事部長は答えた。
「社長、優秀な人材にも内定は出しております。しかし、業界1位のA社に引き抜かれてしまうのです。」
「すると、業績は同程度ですが、賃金の良いB社に…。」
「では、さらに多く取れ!」
「もちろん、最善は尽くしております。ただ、優秀な学生ほど、業界研究をしておりまして、我が社の業績不振や平均より低い賃金体系を把握しています。」
社長は深い溜息をつき、こう言った。
「確かに、我が社の業績を棚に上げ、新入社員の質を批判するのは筋違いだった、すまないことをした。」
「いえ、社長お気になさらないでください。実は私、業界1位のA社から高待遇の転職の話をいただいております。良い機会なので、このまま引き継ぎのご相談を。」
渋谷区の同性パートナーシップ条例や今回のアメリカ最高裁の判決により同性婚に対する異性愛者の混乱ぶりがあらわになり困惑してるんだよね。
それぞれの疑問について個人的見解を述べてみたいと思う。
「1,なぜ同性愛結婚をしたいのか理解できない。特に結婚式をあげたいというのが理解できない。」について
結婚することが法的に認められていないから物心ついたときから結婚することへの憧れが異常に強い人もいるのではないかと思うんだよね。だから「あんなふうに普通に結婚式を挙げてみたい」という思いが強いと思う。
「独自の形態の祭りを発展させればいいじゃん」という考えは、やはり当たり前に普通に結婚できる異性愛者の考えであって、普通に結婚式を挙げるのが最終目的みたいな感じの同性愛者にはそこまで考えが及んでいないんじゃないかな?
それと、やっぱり社会的に認められたいという思いが強いから式を挙げたいんだと思うよ。
「2,なぜ同性愛者が異性愛者と同様の愛の形を持っていると当然のように語るのかがわからない。」について
「なぜ同性愛だけが異性愛と同様の地位を占めるべきって主張できるの?」については、同性愛者が「SM,グロ,動物。。。」等と同列に扱われることに違和感があるんだよね。
異性愛者のヘンタイの定義は、同性愛者、SM、グロ、動物、ロリ・・・
なのに対して
同性愛者のヘンタイの定義は、異性愛者のSM、グロ、動物、ロリ・・・、同性愛者のSM、グロ、動物、ロリ・・・
みたいに感じているのではないかな?
僕は周りからヘンタイだと思われていると思いながらも、自分では特にヘンタイだと思っていないところがあって・・・
ハッテン場については、まさにそのとおりですよ。(20年くらいご無沙汰なので近況は知らない)
ただ、異性愛が大前提の社会では、同性愛者の出会いは一般社会ではほぼ皆無なので、はけ口としての役割はあったんだよね。
それと、「男の浮気は立小便と同じ」と昔誰かが言ってたけど、そのノリかな?
「同性パートナーシップ条例」で充分と考える人と「結婚」が必要だと考える人がいて、扶養とか年金とか控除とかだったら前者で足りるんだけど、相続とかお墓とかは後者じゃなきゃだめでしょ?
ま、養子にしてしまえばなんとかなるんだろうけど、ほかの親族とのトラブルとかいろいろありそうだしね。
「3,そもそもなんで結婚して結婚と同様の社会的認定や庇護が得られると思っているのかわからない。」について
扶養、年金、控除、相続、お墓なんかはもちろんだけど、安心感が一番じゃないかな?もちろん離婚の危機も背負っているから一概には言えないと思うけど。
でも、増田が言いたいのはそんなことじゃなくて、結婚することで同性愛者がそのメリットを享受することが筋違いじゃないのかってことでしょ?
それは人権の根本的問題で、増田が同性愛者をグロとか動物とかと同列に考えていることに問題があるんじゃないの?
「同性愛結婚を認めることで利益を得る集団」は2ちゃんねるでは在日ということになってるよね。
ミス・ユニバースに選ばれた宮本エリアナさんが過去の発言に関してバッシングを浴びている。
彼女は過去にFacebookに筋肉隆々の黒人男性の写真を添付して、こう書いている。
「いや、いいよ、いいよこれ!!
んー、たまらん!!!!!!
今もそうだけど、今まで散々周りから色々言われてきて、日サロ行ってる子とか、ブラックに憧れてる子とか理解できなかったけど、今は自分にすごく自信もててる!!
本当にブラックの血が入った人じゃないと出せない色。
髪の毛もそう。
全てをありがとう。」
この発言が黒人至上主義(Black supremacy)だとして、批判を浴びているようだ。
だけど、彼女はただ自分の人種の持つすばらしい特性を褒め称えているだけだと思う。
日本人がいくら日焼けしようと、いくら黒人のファッションを真似しようと
黒人の血が入った人の肌やスタイルや筋肉の美しさには及ばないこと、
そして、そのような血の入った美しい体に生まれたことをただ本当に感謝しているだけだと思う。
私も日本人に生まれて、美しい髪と、黒い眼と、色白の肌を備えているけれど、
他の人種がいくら真似しようと日本人の血が入った人しか備えることのできない美点だと思う。
日本人の血が入ってることを誇りに思うように、彼女はブラックの血が入ったことの美しさを讃え、ブラックでよかったと言ってるだけだから
http://anond.hatelabo.jp/20150515014847
どちらに転んでも、多分、僕ら大阪市民は
1年後に実感する何かを得ることはないのだろうと思います。
ずっと悩んでいましたが
それでも僕は都構想に賛成することにしました。
大阪市は大きくなり過ぎた。
都構想は大阪市の力をぶん取り
大阪府にその力を吸い上げる。
大阪市民としては納得いかない。
僕らの税金どこいくのって話。
でも、子育てのため北摂(大阪市以外)へ引っ越したい僕としては
大阪府が強くなることの方が魅力を感じる。
広域を発展させることに繋がるんじゃないのかな。
大阪市をなくすっていうのは
「わからんけど(わからんから)否決」が過半数を超えると思います。
「都構想?おもろそうやないかい!」ってノリのいい人は
大阪ではそんなに多くないんじゃないかな。
なので、都構想反対派の方に
住民投票(否決)後のお願い。
阪急電車なんですが、おしい。
すべて新大阪に近いのに、
新大阪には繋がっていないのが、おしい。
阪急乗り入れは、
大昔にあった計画なのですが
なんとか復活して形にしてもらいたいなぁと。
https://note.mu/hal_800/n/n8ae61b030390
マクドナルドで死にかけた話
食物アレルギーはなくとも、ハウスダストやネコのアレルギーがある。
症状を読むと、これは休日に検査に行こうかなとかのレベルじゃない。アナフィラキシーショックと言えるレベル。
食品を提供した店舗にクレーム言ってるけど、筋違いだな。アレルギー物質の有無を確認せずに食ってると、本人でさえ食物アレルギーの自覚がない。これでアレルギーの有無が分かったら店員は超能力者か霊能者である。
http://www.mcdonalds.co.jp/quality/allergy_Nutrition/allergy2.php?id=1
店には落ち度も責任もない。この資料が店舗にないってのはちょっと問題かもしれんが。アレルギーがあることも知らずに食って発症してからクレームは酷い。
気に入らないから終わって良かったとかはまだわからなくもないけど、
ホットエントリってパーソナライズしてないと認識してるんだけど、
そういうホットエントリを見てるのは(はてブユーザの)一般的な興味を追いたいからじゃないの?
その内の一つに自分にとって興味がないものが入ってたとして、だから何なの?
こんなのが人気あるんだー、くらいにスルーすればいいんじゃないの?
はてな側に対してパーソナライズしろとかエントリの抽出がいけてないと文句を言うなら理解できなくもないけど、
エントリの作成者やエントリ自体にケチをつけるのは筋違いじゃないかなぁ。
はてな村奇譚の話題ついでに本編についても少し気になるところがあったんだけど、
テキストサイトってはてなのサービスとは関係ないと思うんだけど。
とはいえ、内輪ネタみたいなのを含めて全体としては楽しく読ませてもらってたので、ちょっとした疑問だけど。
オチも良かった。
なんか隊長が最近荒ぶってるらしい雰囲気を感じ取って、隊長の記事やホリエモンコムの見解表明やCINRAの人のアツい記事及びそれらのブコメを読んだんだけど、
CINRAの人のアツい記事の人気ブコメがいくつか、「ん…?」となって、その手がかりからネイティブアドの真相に辿り着けそうなのでちょっとやってみる、
最近ダンガンロンパにハマっているので、手がかりから真相に近づくのに憧れているの
http://b.hatena.ne.jp/entry/taichisugiura.com/685
この何十年の間で挙げることのできる優れたクリエイティブというのが全て「これは広告です」と堂々と見せていることから、考えるべきことがあるんじゃないかね?
「これは広告です」と堂々と見せている、っていうのは、多分テレビCMとか新聞の一面(or見開き)記事やポスター、看板のこと言ってると思うんだけど、それに対応するのはウェブではアドセンスやバナー、フラッシュ広告(ニュースサイトとかでよくある、最初に記事開くときに出るスキップするやつ)だと思う。
で、CINRAの人やネイティブアドの人たちがやってる(orやりたい)のは、テレビでいう情報番組、雑誌で言う記事広告だと思うので、ちょっとこのブコメのツッコミは食い違ってるのではないか。
ガイアが夜に明けろと囁くやつとか、パッションコンチネント、マ◯コの知りたい世界は面白いって言ってる人多そう。WBSや王様のブラジャーとかも。レイントークの「家電芸能人」好き。
テレビ以下です宣言?CM枠でクリエイティブな映像なんていくらでも見るだろ。文章だって雑誌の広告エッセイとか、明らかに広告だけどジンとくるものもあるし。
一個目のブコメと一緒で、CINRAやネイティブアドの人はクリエイティブなバナーやフラッシュ広告を作りたいってわけではないので食い違う。
広告なのが一目瞭然なJR東海の「そうだ、京都行こう」を引き合いに出して、広告でないように見せかけるネイティブアドへの【広告】表示を批判するのは筋違いというか詭弁。
それはそうかも。テレビや雑誌の暗黙的ペイドパブリシティコンテンツを引き合いに出して、「マ◯コの知りたい世界は【広告】って出してないのになんで俺たちは出さなきゃいけないの?」なら筋が通ると思うけど、それはきっとなんか圧力とか力関係でできなかったんじゃないだろうか。
マスメディアには「新聞広告倫理綱領」というのがあるし、広告記事はきちんと明示してある。只の素人?http://www.pressnet.or.jp/outline/advertisement/
本当に広告記事は全部明示してあるのだろうか?自分はファッション誌や楽器・音楽情報誌について一部の記事や特集には懐疑的。
CINRAの人がアツくなってるのって、「なんで俺達だけ【広告】とかダサい表記しないといけないの?TVや雑誌のインタビューとかは【ここからの特集は広告です】って入ってないじゃん?」ってことなんだと思う。
が、自分はメディアの人間ではない素人なので、TVや雑誌はそういうステルスなのは本当に一切してないのかもしれない。
だとすれば「マ◯コの知ってる世界」やその他列挙した番組に対してはとんだ風評被害をしてしまっていることになる。
今世の中にある、金銭のやりとりが発生するコンテンツ全てに【広告】表記を強制したら、けっこう鬱陶しくなりそう。
マジックマジカで赤いのが青いのにポッキー渡すシーンで【広告】とかいうテロップ出てきたら興醒め。
ツイッターやフェイスブックやはてブが、TVや雑誌やニュースサイトがやっていたコンテンツ広告をやりたいって思った時に、
それらSNSは自分がフォローしてるユーザーのコンテンツしか見れないから、他のコンテンツが混ざってたらもう【PR】なんて書いてなくたって、広告なのがバレバレなので、潔く【PR】って書いてはじめたやつを「ネイティブアド」って呼ぶことにした。
古いやつだと、LDRの広告フィードは今思えばネイティブアドだった。
ニュースサイトやTVや雑誌ではペイパブがネイティブアドで、これは【PR】って書かなくても、発信者が限られているのでバレバレではない。
と、なんかペイパブでぐぐったら5年前や7年前の勉強になりそうなやつ出てきた。
http://nabokov.blog.jp/archives/1105285.html
http://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0810/06/news075.html
例えばアニメ業界人が薄給ですって言うけど、一方で角川や集英社の社員は一般格で700万を優に超える。
つまりアニメーターはこいつらにピンハネされてるだけで、本来はもっと貰ってもいいはず。
それが元請けとか下請けとか関係なくアニメーターは自分が描いた絵がアニメ放送されてるけど、
以前銀魂の高松監督がアニメ一本作るのに1億は掛かるって言ってたよね。
それが何でアニメーションを作った人に対して振り分けられる額が雀の涙程度なんだろうね。
この構図は派遣会社と一緒じゃないか。
にも拘らずこの構図については殆ど議論されない、というか避けてるじゃないか。
本来避けて通れないはずの議論をせず、好きな事してるんだから薄給で良いじゃないかというのは
だからあの事件は当時のサルの土着情念殺害が目的だったんだけどなぜかその部分は議論の俎上に上らないわけで。
多くは彼は東大の名誉を傷つけたとだけ批難するばかりで本質の方は論じられない。しかし東大は東大で前年に副理事長が痴漢で捕まっていたわけでね。
そういうわけだから,彼の行動に対する評価は全く当たっていないと思うよ。彼の狙いは東大に対する名誉毀損ではないし。つうかそもそも2007年に東大の副理事が痴漢している時点で法人の方には名誉なんか一切ないし。
結局は「トーダイ」というサインに蓄積されてたショミンの嫉妬や怨念を強烈に刺激してショミンを殺したかっただけなんだと思うよ。だから彼を怨むのは筋違いで,08年にショミンが調子くれてたことに不満をもってた奴は彼に感謝しなければならない。
今回は漫画関連。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
なんということだ……まさか本当に君のような人間が存在していたとは。今でも半ば信じられない。
都市伝説だと思っていたからまともに調べていないのだが、小説ばかり読んでいた人は、絵と字が一枚の紙に散りばめられていることに混乱するようだ。
だが、よほど愚鈍な人間でない限り、ある程度読んでいけば自ずと解にたどり着くだろう。従来の読解方法からそこまで逸脱していないことはすぐに分かる。「習うより慣れろ」だ。
まあ、無理して読むようなものでもないのだから、読めなくても気にしなくていい。どうしてもというのなら、四コマ漫画あたりから読み始めればよかろう。
まさか、上の質問者と同じ奴ではないだろうな。なんにしろ、「よく分かりません」とはな。
単純に君のオツムが足りていないからだと切り捨ててもよいが、もし君の読んだのが俗にいう「萌え四コマ」ならば、考慮する余地は出てくるかもしれないな。
四コマ漫画は起承転結を重んじているとされているが、萌え四コマは趣が異なる。山なしオチなし意味なし。一見すれば君が得られる体験は、この萌え四コマと読む前と後で何ら変わらない。それほどの虚無感と不可解さに包まれるかもしれない。
だが、それは君が萌え四コマを起承転結で読み取ろうとするからだ。あれは、トータルの空気感を味わうもので、「起承転結」だとか「面白い面白くない」だとかで語るのは筋違いなんだ。もし、そのことを心で理解できたのならば、もう君の中に精神的障壁はなくなっているはずだ。
まあ、そのように好意的解釈をもってしても、不可解な四コマ漫画が出てくるのがこの界隈の恐ろしいところだが。
これに関しては私も不明瞭な点が多くてな。
少年ジャンプ+で連載している、「ジャンプの正しい作り方!」の21話で、作者は副編集長にこのテーマについて質問しているのだが、副編集長は「そんなテーマ無いです」って言っているんだ。
つまり、そもそも共通テーマがジャンプ編集部内で共有されていないのだから、当てはまっていなくてもおかしくは無いということになる。
だが、軽く検索してみたら、それらテーマが当たり前のように共有されていることも伺えて、真実が分からない。
なんにしろ、君が「こうあるべき」だとして「面白い面白くないか」を取りこぼしているのならば、それはとても勿体無いことだ。今回の3つの質問の総括としては、「固定観念にとらわれるな」を私のアンサーとして締めくくろう。
これはひどく狭い世界の話だ。
要するに、
創作関係のコミュニティで内輪揉めを引き起こして、
結局なにひとつ現状は変わらなかった、というだけの愚痴だ。
数年前からそのコミュニティに参加し始めた。
「コミュニティの一生」というコピペがあるが、
あれでいえば俺はちょうど面白い人とつまらない人が入れ替わる、
その一番最初に来たつまらない人、という位置だろう。
当時はにぎわっていた。
最初にその場を耕し、育てあげた人々はみな何らかのノウハウがあった。
意外にも、本来いるべきその道の専門家は少なかった。
むしろ優れた部外者たちの試行錯誤やぶつかり合いが場を育てた。
たとえるなら、
トランペットを小学生の頃から続けてきたベテランが、
その経験を活かしてセンスある創作料理を次々と生み出すようなものだ。
それほどに無関係な分野の人たちが、
「その道の専門家」を圧倒する勢いで傑作を生みだしていった。
自分は以前“その道”に近い場所にいた。
だからはじめ、彼ら先駆者よりも自分の方が優れたものを生み出せると、
そんな驕った考えでその場に近づいていった。
そして打ちのめされた。
最初の半年か一年くらいは、彼らの生み出した言語の習得に追われる日々だった。
夢のように充実していた。
彼らは小手先の作法などでなく、本質を素手で掴まえようとしていた。
最盛期は「いかによりよいものが作れるか」と夜な夜な語り合い、
酒を片手に垂れ流すようなバカ話も交えつつ、
時には場を凍らせるような尖った言い争いを起こしつつも、
全体としては実りある技術論をしていた。僕にはそう映っていた。
みんな、過去の話だ。
やがてある時から、人の気配が減り始める。
そのコミュニティがどこまでも膨張していったが、
筋違いの非難や関係者への人格攻撃も増えていった。
先駆者たちの多くは、そこらで別の居心地良い場所を探し始めた。
自分も彼らの後を追ったり、まだ元の場所に居着いていたり、
あるいは全く別の場所に触れてみたりしつつも、
心まではコミュニティから離れられずにいた。
衰退以前から、コミュニティ関係者の間ではSNSが普及していた。
SNSは確かにコミュニティ活性化の起爆剤ではあったが、
同時に終焉へと向かう引導でもあった。
当初の目的を外れた雑談や日常生活での愚痴などが空間を占め、
居心地の良い場所となっていった。
そこは創作行為をしなくてもぬくぬくと過ごせる場所に変わっていった。
世代交代はゆるやかに進んでいった。
かつての先駆者たちが作り上げた傑作に魅了された、新しい作り手もやってきた。
だがすでにそこは見えないルールでがんじがらめとなっていた。
尖った作品、極端な作品は叩かれ、無難なものだけが場を占めるようになった。
それどころか、作品の評価と作者の評価が混同されはじめ、
「SNSで良い顔をしている作者は叩かれない」という
あまりにも本末転倒した状況が生まれつつあった。
コミュニティから生まれた作品を保管するサイトの運営もまた、世代交代した。
以前の運営はコミュニティ参加者とは一定の距離を保っていた。
必要最低限のことしか話さず、任務を遂行していた。
運営が引退すると、別の参加者が次期運営に名乗り出た。
それから運営が交代し、ついにSNS参加者の手に運営が移った。
その運営は作品への非難を許さず、すべてに全肯定で返した。
作者の人格をキャラ化してSNS上での人形遊びにかまけては、
作者と作品の安易な結び付けを積極的に促した。
作品非難に対しては、その質を問わず断固たる態度で臨み、
場合によってはアクセス禁止を断行した。
ユートピアによく似せたディストピアがゆるやかに形作られた。
以前はどうだっただろう。
かつてはつまらないものはつまらないと叩かれ、
時には手ひどい長文バッシングやアンチのストーキングさえも起きていた。
だが、それは間違いなく健全な場所だった。
飛び抜けて優れたものが絶賛を超えた絶賛を受け、
見るに堪えないものはこっぴどく叩かれる。
だが、そうした歯に衣着せぬやり取りこそが、
本当の意味で作品に触れることでもあったのだ。
現在、そのコミュニティには酷評も絶賛もない。
悪いものには反応がなく、
よいものにも「お疲れ」「よかった」程度の寒い拍手が並ぶ。
中身を見てなどいないのだ。
現在でも本当に飛び抜けて優れた作品が生まれるが、
参加者にそれを賛じるだけの語彙がない。
この語彙というのは単なる辞書的な意味ではなく、
作品を底の底まで見抜く目と、それを素直に口にする心意気だ。
今は作品ではなく、生身の人間としての作者との馴れ合いが優先される。
彼らは何を作り上げるかではなく、儀礼で作った愛着にしがみついているのだ。
私はコミュニティにとって老害だ。
本当はすでに別の場に片足どころか重心まで移しておきながら、
さらに当時のコミュニティで腕を奮っていた作者たちをそこに呼び寄せながら、
こうして元居た場所を憂う資格など、本当はないはずだ。
けれども、もし、と考えてしまう。
もしこの場で、
かつてのように良いものを良いと、悪いものを悪いと言えたら。
言える人物がいたら。
まっとうな評価があれば、少しは何かが変わるだろうか。
風を起こせるだろうか。・・・そんな夢物語を考えてしまう。
ディスコミニケーションが極右思想をそそのかしてしまう。
そこで、修羅の仮面を被ってみた。
最盛期よりも過剰に、気に入った作品を絶賛し、
逆に気にくわない作品を立ち直らせぬほど叩き潰した。
実作評価とコミュニティ評価の乖離した作品は許さなかった。
借りてきた怨念を込めて、身体に空く穴もいとわず、
保管庫とその運営に向けて呪いをぶちまけた。
耳に入る同志たちが影でささやいた恨み辛みを糧に、
自分が真っ先に身をなげうって、
「健全な精神」の持ち主が後に続く道を切り開こうとした。
もちろん、そんなことで現状は何一つ変わらなかった。
今でも参加者はいちゃいちゃと馴れ合い続け、
自分の酷評に対しては見当違いな人格非難で憂さ晴らししてやり過ごし、
彼ら参加者は己の手で愛すべき土地を汚して踏みにじっていることに気づかず、
ぬくぬくと余生を過ごしている。
恥知らずにも、その手は未だに僕や出て行った人々にまで向いている。
突き返して叩き落としても、彼らに言葉は通じなかった。
反吐が出る思いだ。
だが、祖国に泥を擦り付けたという点では、自分もまた同罪かそれ以上なのだ。
先駆者たちは正しかった。
何もせず、すっと離れる方が殉教などより遙かに賢い選択だった。
中でも先陣を切った人は、コミュニティの樹立どころか、
人が集まる気配すらも避け続けているように見える。
根無し草というより、難民のような様相だが、
己の創造性や価値観を守るには賢明な選択なのだろう。
作品の質云々も、手前の好みにすぎないと言われても反論しきれない。
現運営が理想主義者の皮をかぶった独裁者であるのと同様に、
自分もまた、ある種の独裁的思考の持ち主にすぎない。
「ユートピアを語るものは、そのユートピアでの独裁者である」
そんな言葉を何度となく噛みしめる。
ちょうど一連の出来事は、例のISILの事件と同時期に起こっていた。
比べるのもばからしいほど規模の違う話だが、
テロリストになるとはこういうことなのか、と共感してしまう自分がいる。
僕はもう諦めてしまった。
例のコミュニティから距離をとりつつも、へらへらと生きていくのだろう。
死んでいく老兵の遺言として、この文章をのこす。
さあ、四月から新生活だ。
がんばるぞ
思うところあったので、CG業界にいる現場のデザイナーの一人として。
リンク先の記事を見た時に「パソコンでちょいちょいってやるんやろ? 」という言葉には、
正直「えっ?」とは反応してしまう。でも、その言葉にキレるのは筋違いと感じるし、
その制約や表現をひっくり返すことはとても難しいです。
なのでクリエイター側が主張したところで押さえ込まれてしまう現状であると同時に、
そういった状況を自ら打破しようと思えない、諦めてしまっている面もクリエイター側にあるのではと感じています。
しかし、逆に独自の路線や個性で需要を生み出せた人というのは強いはずです。
言ってしまえば、世の中の需要によって人の立場は変わるのではないでしょうか。
その人の表現ありきで物事が進むので、予算やスケジュールも調整しやすく、
クライアントも頼んだ側になるのでその人の言葉に納得できるのではないかと。
そういった状況になればクリエイター側がもっと啓蒙しやすくなるのではないかと思います。
唐突に「制作費数億円!」と聞くと飛躍しすぎて、そんなにお金かからないだろうと私自身も思ってしまいますが。
もっと独自に需要を生み出せる、個性を浸透させていけるクリエイターが増えていく事。
そして色々なCGの作り方があって、同じCGでもお金のかかるCGはこういう所にかかっているという事を知ってもらう。
それが、一般の人に啓蒙するための業界の課題なのではと思っております。
http://anond.hatelabo.jp/20150222201638
昨日TwitterのTLを賑わせた上記の日記とその反応には、多くの艦これファンならびに東方ファンが深く心を痛めたことだろう。
怒濤のように押し寄せるTLを眺めていた私もその一人だ。
艦これと東方、本来ならば衝突するはずもないジャンルであり、共存の道を歩むこともできたはずだ。
それが何故このようにファン同士が互にいがみ合う事態になってしまったのだろうか。
一ファンとして、僭越ながら思うことを述べたい。
艦これと東方の対立は今やインターネット上ではありふれたものとなってしまったが、例えば東方とアイマス、ボカロとラブライブといったような争いは寡聞にして知らない。
その理由はいくつか考えられるが、まずそもそもとしてこの二者の対立はどこから始まったのだろうか。
現状からはとても信じられないかもしれないが、艦これが登場してすぐのごく初期の段階では艦これと東方は共存を実現していたのである。
それは仲良く手を取り合ってというわけではなく、相互不干渉に近いようなごく緩い共存関係ではあったが、それでも互いの存在を認め合って争うことなくそれぞれの平和を享受していた。
その関係を一気に崩壊させたのは、たった一つの匿名記事なのである。
http://anond.hatelabo.jp/20130923222204
「東方ファンは東方から艦これに乗り換えたサークルをリスト化している」
少し立ち止まって考えれば首を傾げるようなデマ記事を、心無いTwitter利用者たちが拡散させてしまった。
更にはそのようなリストを作成してサークルを取り締まる東方警察という組織がでっちあげられ、面白がった艦これファンが火のような勢いでTwitter中にばら撒いてしまったのだ。
もちろん、このようなバカげた行為をたしなめる東方ファンや良識ある一部の艦これファンもいたが、流星の如くTLを駆け巡るRTの前にはなすすべもなかった。
こうしてたった一つの悪意ある記事によって両者の束の間の共存は瞬く間に崩れ去ってしまったのである。
なるほど東方ファンは過去の行いから、時として一般に粗野で無教養で無分別で偏執的であるとさえ言われる。
しかしながらそれを理由に濡れ衣を押し付けるのは良識ある文明人のすることではなく、許される行為ではない。
もちろんこの件に無関係だった現在の艦これファンが、個々に謝罪や反省の念を持たなければならないなどというのは全くの筋違いだ。
だが、過去にどのようなことがあって現在の状態があるかということを正確に知っておかねば、いらぬ憎悪が増え続けるだけなのもまた事実なのである。
艦これと東方の対立で最もよく用いられるフレーズが「東方はオワコン、時代は艦これ」だ。
しかしそもそもこの前提は本当に正しいのだろうか。
東方は現在もいわゆる"オワコン"と言われる状態なのだろうか。
現在東方で最も人気の高い作品は、外伝にあたる「秘封倶楽部」シリーズだ。
主人公のマエリベリ・ハーン(東方の舞台である異世界「幻想郷」を統べる妖怪「八雲紫」の現実世界でのペルソナ)がもう一人の主人公宇佐見連呼を引き連れて現実世界を暴れ回るゲームだ。
綾瀬なずな氏の集計によると、直近の東方専門同人誌即売会でも秘宝倶楽部の占める割合は前同で約23%増加している。
水雷戦隊クロニクルで艦これファンにはお馴染みのコンプエースで掲載されている東方鈴奈庵、コミックREXの東方三月精はともに人気が高く、特に鈴奈庵は物理書籍の出荷数が20万を超えるヒットとなった。
しかし反撃もここまで。
永夜抄以降の本編ゲームは鳴かず飛ばずで息の根が止まってしまっているのは言うまでもないが、コンプエースでの鈴奈庵の掲載順序も常に水雷戦隊クロニクルよりも後ろで、人気の点で常に艦これ公式漫画に後れを取っていることが浮き彫りとなっている。
そもそも艦これの公式書籍はより取り見取りの状態で、漫画だけでもゆうに10作品を越え、更には小説まで発刊されているのである。
特に、艦娘たちが史実を乗り越えようと試行錯誤するいつか静かな海で、様々な作家の艦これ漫画を集めて艦娘たちのいろいろな姿を楽しめるアンソロジー集は評価が高く、書店でも品薄状態が続いている。
艦これ公式書籍の発行数を全て合算するとゆうにミリオンを越え、東方書籍など足元にも及ばない。
尚参考までに例示するが、モバマスは碌な公式書籍がないため論外である。
ラブライブも同様だ。
また先ほど挙げた同人誌即売会も、秘封シリーズがやや堅調なだけであって他は壊滅、瓦解、総崩れという言葉の似あう惨々たる有様だ。
他の東方即売会も艦これ即売会を併催するパターンが増え、特に規模の大きかった名華祭、大⑨州東方祭が艦これの支えなしには開催できない状況なのはまさに没落と呼ぶにふさわしい。
さらに近年はコミティアやふたば学園祭のように東方作品を拒絶する即売会も増えつつある。(艦これは禁止されていない。またふたば学園祭は主催主導で艦これ合同企画を計画中なので興味のある方は覗いてみるといいだろう。)
以上をまとめた上で率直に結論を申せば、やはり東方は"オワコン"だったのだ。
艦これと東方、この相反するジャンルの対立を解消する弁証法的な解決方法は存在するのだろうか。
唯一の解は東方ファンが東方がすでに衰退しきっているのを認めることである。
何もサンドバッグになれと言っているのではない。
東方厨が自らの誤りを認め、事実をありのままに受け入れれば、自然と対立は解消するのだ。
確かにかつて、艦これファンは東方警察という(その当時は)事実無根のデマを躍起になって流布してしまった。
しかしそれは、東方衰退という事実に対して何のアポロギアにもならないのである。
今衰退を認めようがあとで認めようが同じことだ。