はてなキーワード: 仕舞とは
失敗すると誰しも落ち込むものだ。それが致命的であればあるほど、不安は大きくなる。未だ訪れない未来を恐れるのは当たり前だ。観測していない事象であれば、「まさか」と「もしも」は付きまとう。それが怖れ、脅威。些細なことであったとしても人の心の片隅にこびり付いて離れることのない負の感情だ。
この感情を無くすことはできない。観測していない事象から不安要素を取り除くことなど誰もできない。ではこの感情を抱えたまま夜を越えて、朝迎えるのか。眠ってしまえばそれでいいと見過ごすのか。
私は嫌だ。この不安に立ち向かいたい。かつて敗れ、押しつぶされたこの不安に勝ちたい。そして何事もなかったのだ、と何でもないように振る舞うのだ。直す箇所はわかっている。何をすればいいのかも明確だ。それが時間内に終わらないことが不安なのだ。
時間内に終わらせることを明日考えればいい。どうすれば解決するのか真剣に考えればよい。まだ時間はあるのだ。不安を抱えて鬱々とするよりは、いずれやってくるときに備え、心を強く持っておけばいい。ミスを恐れるのではなく、反省し、どう対応するか考えればよいのだ。
今回はミスだ。情報の伝達、意思の疎通、ソースコードへの理解。すべてが足りなかった。ならばこれから時間をかけて補っていくべきである。また、明日すぐに補えないのなら、使えるものをすべて使って確認すればいい。何処を直したから何処を確認すればいいのか全て明確にすればいい。そうして確認し問題がないといえばいい。
予想外のことが起きれば直せばいい。いずれにせよ土曜日の夜のように考えることを放棄するのはいけない。思いつかなければ聞けばいい。意気消沈するのはまだ早い。現状を正確に分析し相談すればいい。自分のキャパシティをとっくに超えているのだ。何が何でも終わらせなければいけないのだから使える物は全て使えばいい。通訳、プログラマ、社長全て使って明日終わらせる。
だから今は何も考えなくてよい。明日会社の扉を開けてから考えればいい。今ここで考えていても治す内容は減ったりしない。
壁を超えた先のことを考えろ。楽しいこと面白いこと、自分の休息について。寝てやる、遊んでやる。明日の問題は綺麗さっぱり解決して、俺はゆっくりと休息するのだ。
新しい物語の筋を考えよう。TRPGの準備をしよう。ネトゲを使用。仕事は仕事だ。自分の役割をこなせばいい。その分の給料しかもらっていない。仕事をするのは時間ないだけでいい。今は仕事ではない。仕事ではないのだ。
お前は今自由だ。何も不安に感じることはない。バグがあと1,2個増えた程度どうでもいい。消化するのには時間はかかるが、お前は一人ではないのだ。辛ければ吐き出せばいい。どうにかなる。成果を出すのは2の次、3の次だ。
見栄を貼るな、片意地貼るな。同しようもないことはどうしようもない。どうにかなることだけをどうにかすればいい。どうにかならないものはどうすればいいか聞いて考えればいい。それが結論。どうせ社長の中ではだいたい答えは決まっているのだ。下手な考えをするより、どうするべきかを聞いたらいい。そんな権限も、責任もない。損害が出ようが知ったことではない。アップロードしてバグが出るのが問題であれば別の環境であアップロードしてバグを確認すればいい。今までの仕事の確認はそうだったろ。
何度でも書こう。間違いは悪いことではない。致命的と書いたが、命を失うわけではない。人間生きていればどうにかなる。お前が一番良く知っているだろう。上り坂のあとは下り坂がある。
この適当な掃き溜めもどこかに仕舞いこんでしまえば「ああ、この時こんなに辛かったんだっけ」と苦笑するネタに昇華できる。
明日のことは大したことはない。社長が大げさに言っているだけだ。知っているだろう。業務的に大きな内容というのはプログラム的には大したことはないのだ。
彼はかわいそうに勘違いしているだけだ。もしくは立場上押さえつけているだけだ。おそれを大きくしているのはお前の心だ。考え方でどうにでもなるし、どうでもいいのだ。明日から路頭に迷おうが構わないだろう。私の人生はもう終わっているじゃないか。心のなかにある理想なんて適当なものだ。捨て鉢で何が悪い。捨て鉢にさせたのはお前らだ。お前らを俺は死ぬまで憎む。綺麗に生きようだなんて思わない。受けた恨みは死ぬまで呪い潰してやる。お前らが覚えていなくても俺は絶対に忘れない。俺を歪ませたことを絶対に忘れない。
それだけを糧に仕事をしているのだ。金はあればいいが、復讐のほうがどちらかというと先決だろう。
ミスをした。それがどうした。ミスしたのであれば、今後どう解決すればいいか考えればいいだけだ。全く何も聞かずに一人で転んだわけではないのだ。
怒れ、恨め、妬め。それでいい。この原動力は大事だ。萎縮するよりも、がむしゃらがいい。もちろん、明日の大したことのないバグは誠実に、真剣に治す必要はあるが、それだけだ。
直すだけだ。作るわけではない、難しいことではない。注意深く進めばいいだけだ。何度も確認すればいいだけだ。何処に影響し、何処が変化し、正常に動いていることを確認するだけ。俺が作ったものではないなら聞けばいいだけ。
本当にそれだけだ、本当にそれだけだ。本当にそれだけだ。うん大丈夫。
結局こんな時間だよ。ゆっくり寝よう。そしていつもどおりに行こう。意識をするな。
お前は一人ではない。お前は大した人間ではない。けれど、お前はここまで歩いてきているじゃないか。辛いことから逃げた。だがここまで歩いてきた。何とかしてきた。その自負は誇るべきものだ。自分を誇ってやれ。誇れ。
edのコマンドはすべて1文字。行を挿入するときは"a"や"i"、行を削除するときは"d"。編集内容を保存するときは"w"、edを終了するときは"q"。edの人々は長いコマンド名にわずらわされずに暮らしていたんだ。
書き間違えた言葉を直したいこともあるよね。たとえば"history"を"fiction"に置き換えたいとき、edの人々は一つずつ"history"を探して書き換えるのではなく、s/history/fiction/gのように、置き換える言葉を線で区切って並べていたんだ。簡潔さを好むedの人々らしいしぐさだね。
edにはコマンドモードと編集モードがあったんだ。テキストを直接入力するときに使うのが編集モード。テキスト入力を終えるときは、"."1文字だけの行を入力するんだ。そうすることでコンピュータに編集モードの終了を伝えられるし、ユーザもピリオドを打つことでモードの切替を意識できる。edではそんな人と機械への気配りはあたりまえだったんだ。
edの人々が主に使っていたのはディスプレイではなく、ロール紙に1行ずつ印字するテレタイプ。
今の私たちには一見すると不便に思えるつくりも、edの人々にとっては紙と時間を節約する工夫の詰まったものだったんだね。
http://anond.hatelabo.jp/20150215211439
まずは地元の話になるんだが聞いてくれ。
「よいよい、わっしょい」の掛け声とともに、背中合わせで激しくもみ合る、 勇壮な祭として、この地方に知られている。
祭のあと、男達は集会所に集まり、普段着に着替え、飲み合う。
六尺は、激しい祭でドロドロボロボロになるから、使い捨てで、ゴミとして出される。俺はいつもそれが狙いだ。
こっそりさらって家に持ち帰る。 そして、深夜、俺一人の祭が始まる。
俺はもう一度汚れた六尺のみ身に付け、部屋中にかっさらってきた六尺をばら撒き、
汚れた六尺は、雄の臭いがムンムン強烈で、俺の性感を刺激する。
前袋の中のマラは、もうすでに痛いほど勃起している。 六尺の中に顔を埋める。臭ぇ。
汗臭、アンモニア臭や、股ぐら独特の酸っぱい臭を、胸一杯に吸い込む。溜まんねえ。
臭ぇぜ、ワッショイ! 雄野郎ワッショイ!と叫びながら、前袋ごとマラを扱く。
その六尺には、我慢汁の染みまでくっきりとあり、ツーンと臭って臭って堪らない。
その六尺を締めてた奴は、祭で一番威勢が良かった、五分刈りで髭の、40代の、
ガチムチ野郎だろうと、勝手に想像して、鼻と口に一番臭い部分を押し当て、
思いきり嗅ぎながら、ガチムチ野郎臭ぇぜ!俺が行かせてやるぜ!と絶叫し、 マラをいっそう激しく扱く。
ガチムチ野郎の六尺を口に銜えながら、ウオッ!ウオッ!と唸りながらマラを扱きまくる。 そろそろ限界だ。
俺は前袋からマラを引き出し、ガチムチ野郎の六尺の中に、思いっきり種付けする。
どうだ!気持良いか!俺も良いぜ!と叫びながら発射し続ける。
本当にガチムチ野郎を犯してる気分で、ムチャクチャ気持ち良い。
バランス感覚は優れて居るのですが、如何んせん理想の低さや責任感の乏しさが、将来への大きな羽搏きを阻止して居る可能性が強いのです。云うなれば、ヤル気が大きく欠けて居る状態なのです。頭でっかちのスタイルで、机上の計算や判断力には素晴らしいものが有っても、いざ実行の段になると、急にその気が無くなったり、途中で腰砕けに成ったりして仕舞う訳です。そう云う大きな欠点の反面は、人を無闇に非難したり、物事を強制したりするような、悪い面を持たないと云う利点も有ります。何れにしろ、立身出世的な考え方の殆ど無いタイプで有る事だけは間違い無く、なるべく波風の立たない平穏な人生を送る事をモットーにして居るタイプのようです。
飛んでも無い馬鹿な事は滅多にしないタイプですが、状況が許せば浮気もOK!離婚もOK!と云うような考え方の強いタイプでしょう。云うなれば、何物にも縛られない自由な人生観や価値観を持つタイプなのです。貴方の恋人や配偶者は、貴方から何の圧迫や束縛を感じない変りに、何時どのように貴方が変身して行くかも知れないと云う不安や不信を抱く可能性も、かなり強い筈です。貴方がそこの所を、どのように潜り抜けてゆくかによって、貴方の結婚生活の成否が決るでしょう。
職業適性
責任感や使命感がもう少し高くなれば、貴方に向かない職業と云うものが、殆ど無くなるでしょう。現在のライフ・スタイルのままでは、治安関係の公務員や法律家、事業家、政治家、評論家、教育家などには不向きです。芸能、芸術、文芸などの自由業に向いた性格ではないかと思います。
対人関係
貴方の最大の欠点は、他人にも甘いが自分にも甘く、目的志向が大概途中で腰砕けになって仕舞う事です。その為、周囲の人々に約束した事の多くは、中途放棄されて仕舞うような事が繰り返されて、あれは信用出来ない人だ。と云う評価が定着して仕舞う恐れが多分に有ります。
特殊な学部なこともあり、就職に関しても不安は無く、全てを使うことにした。
とりあえず、時間がないとできないこと…つまり旅行に行き始めた。
つたない英語ではあったが、一応意思疎通はできた。数字が伝わるのが大きい、と個人的には思った。
海外を回る中、イタリアに行った。メシはうまく旅行は楽しかった。
ローマも良かった。死ぬまでにコロッセオを実際に見ることができるとは思いもよらなかった。
自分にはそんな気が全くなかったが、LINEのアカウントを交換した。
時差は7時間程度あったのだが、夕方頃からはお互い活動時間になるので連絡を交わした。
将来結婚することにはならないだろう、という確信が心の奥底にはあった。
互いの文化の違いは面白い反面、意思疎通ができないということだ。
会話の最中に笑うなどということは許されないということにも気づいた。彼女にとって笑いは嘲笑なのだ。
ということは実際に会い、恋愛をする費用と彼女さんが生活するお金は全て自分持ちだ。
イタリア人の大卒でさえも仕事は無い。アルバイトなどあるわけがない。
付き合って7ヶ月、彼女さんが日本に留学しに来るということがわかった。
こんな言い方はどうかとも思うが、急激に恋愛に現実感が見えてきた。それと同時に彼女さんに辛く当たってしまった。
いや…違う。連絡の内容の重要性が増すに連れ、意思疎通ができているかを確実に掴む必要があった、と言い換えても良いのかもしれない。
結果、プライドが高い彼女さんの心を傷つけてしまったのだった。
この恋愛には思い出が全くないのだ。遊びに行くこともなく、全てのログはLINEに残ったメッセージと写真だけだ。
攻殻機動隊のような読後感のある恋愛だった。後悔も無ければ得られたものも少ない。
次はせめて後悔できる恋愛をしようと思う。
自分の人生で多分一番最悪だった日とその周辺のことを書いてみる。
とある人に見せるためと、自分のために書いたものだけれど、ここだと改行もできるので全体公開でいいかなと思った。
変な文体だし、省略した部分もあるし、誤解が入っている部分もあるかもしれない。
三回ぐらい最悪だった日のことを文章や漫画にしようとして書いたりしていたのだけれど、どれもうまくかけないので、上手くかくことを諦めてみた。書くことでひとくぎり付けれたらいいなと思う。
私は他の人よりも変な考え方をしている面があるのかもしれないので、あらかじめ断わっておく。
―――
包丁を変えようと思う。
気が付いたら11月だったし。11月は嫌なことがあった月だったように記憶している。
一人暮らしなので自主休講しようと親にバレない私だが、最近どうも大学に行けていなかったのだが、11月だったからかなと今日思った。
包丁は自分が一人暮らしを始める際に母が兄から買い上げて、そのまま私に与えたものだった。
兄の元で新品状態だったので、母が見かねて兄が購入した代金をそのまま与えて、今包丁は私の手元にあるのである。
ちょっといいお値段で、スルスル切れる。
見た目もかっこいい。
でも包丁に関する思い出が纏わりついていて、私はこれを捨てたらちょっと落ち着く気がするので、新しい包丁を買おうと思う。
兄が一人で包丁を買ってきた理由が「護身用」だったのだ。筆箱にカッターナイフを入れておかないと不安だと言っていたことの延長のようだった。
攻撃的なことをブツブツと言っていた。いじめられた経験や肉体的に辛い病(痒みなど)に精神がやられていたのかもしれない。精神病院に入りたいとさえ言っていたが、普段から愚痴っぽかったりしたので、他の問題もあって家族は放置していた。
兄は持病こそもっているものの、ストレスを多大に受ける学校や職場に居たわけでもなかったし、精神病院は金がかかるというのが理由だった。
それで、確か11月にちょっと事件があった。弟が兄に突っかかって、気がたっていた兄は繊細な面もある弟を何時間か罵った。
私は最初晩御飯を食べていたように思う。食べ終わったら移動した気がする。私が移動してから、終盤には母が泣きながら泣いている弟を庇っていたが、私が庇おうとするとどうせこじれるだけだろうと思っていたのか、放っておいたように思う。母親は子供の一人と対話するときに他の子どもがまぜっかえしたりするのが嫌いだったからとか、弟が頭のおかしい状態の兄につっかかるのがアホだと思っていたかもしれない。
ここらへんはいまいち覚えていない。そういや父親はなんでこんなことをするのかと兄に聞いていたように思う。
母の静止も聞かず、弟は家を飛びだした。両親は探しに行った。私は家に居た。
弟は警察に泣きながら駆け込んでいたらしい。警察と救急車が来た。
弟は自分が母を切りつけたと嘘の通報したわけだけど、家に居た私は初めて警察に応対した。警察って怖かった。違う人が同じこと何回も聞いて来た。そして警察は不躾なことをいうものだなと思った。
近所のヤンキーがにやにやしながら写真撮っていたので今でもあいつは死ねばいいのにと思う。殺意が湧いていた。にやにや笑うやじうまにみんながならないことを願う。警察は止めなかった。
近所のおばちゃんが、誰も怪我してないのね、よかったと私を抱きしめてくれたので、近所のおばちゃんは神だと思った。
警察は結局家には入らなかったけど(両親も来て無事に警察や救急車は帰っていった)、警察が家の前に来る前に自分は居間で包丁?果物ナイフ?を持って座って一人でブツクサ言っている兄を確認して「わお」って思ってた。
兄を見て、思春期になると包丁を持ち出しながら殺してやるって言って家の中をうろうろしつつ何もしないのが全国スタンダートかと勘違いしていたこともあった私だったが、さすがに異常事態というのは現実との仕切りも境も無いものなんだなと思った。
ひとまず兄の精神は見るからにやばかったし、(ほっといたら首つって自殺してるかもと冷静に思った)警察が帰った後、弟は兄と同じ屋根の下にはいられないと近所(徒歩10分程度)の祖母宅に避難したが、近所の祖母もまたことあるごとに「信仰心が足りなかったから」などと口にして人を追い詰めるタイプだったため、クッション役なのか、母親も弟につきそった。父は基本的に穏やかな性格ではあるが家族間の調整役として役に立たず、逆に兄を刺激するかもしれないとして、同じく祖母宅に泊まることになった。
自分は当時、自分なりに家族を調整しようと頑張っていたようだった。
「私は家に残ってた方がいいよね?」みたいなことを母に電話したように思う。
それで、精神がおかしいと認定された人間の隣の部屋で私は寝ようとして、熱が出た。人生の中で今のところ最悪な夜は明確にそれだった。
…今考えたら兄を警察に引き渡していたら私は安全100%だったことに気付いたが、家族が前科者ってのも嫌なのでまぁ結果的によかったのかもしれない。
私は布団の中で涙が出て来るし、携帯で友達にメールしてた。ポカリとかあると良いよ、大変だったね、近くに住んでたら行けたんだけどって話を聞いて、私はとても心強かった。友達のおかげで私はあの時期を生きていたように思う。
○○ちゃんのこと、もっと家族は顧みるべきだよという旨の言葉を言って貰えて嬉しかった。当時私は高校三年生だった。なのに年内に引っ越したいと言う話を聞いて私はぶち切れたりもしていた。
兄がいじめられた記憶のあるこの土地に居たくないからだとか言ったためであるように思うが、兄はヒキニートみたいな状況だったから勝手にどこにでも行けと思っていたし、受験生はもっと支援されたり特別がられたり、お夜食を差し出されるものかと思っていた。高3になったら家族の中でちやほやされるかなと思っていたけれど、運が悪かったのか、それとも他のことで頭いっぱいになれてよかったのか、高3の時の家が一番大変だった。
結論を言えば、最悪な夜はそれでおわりである。文章にすると、大したことがなかったことのように思える。私は憎しみが基本的に持続しない性質だったし。それから何日かはやはり兄はやばかったがそれからマシになっていったし(いまだに早く死にたいとか言っているが)弟は高校に入ったら割かしのびやかな性格になり、友達もできたようだった。引っ越しの話も立ち消えになった。
母親も相当なトラウマになっていただろうなと思うが、私はちみちみとその夜の事を一人で掘り返しては悔しいなと思う。
私は殺されるかなぁと思いながら眠ったあの夜の何かが悔しい。
私はあの時の中家族の中で一番だいじょうぶだったから放置されたんだろうなと思うが、そのことに対してみかえりがないというか、褒められなかったというか、私の気持ちが踏み倒されたみたいで悔しいのだ。
母親から後でありがとうとは言われたが、死ぬかと思いつつも兄が自殺しないかな、包丁はもう持っていないかなと気にしつつ確認して寝たことに対して礼が足りないと思っているのかもしれない。
損をしたと思う。なげうったつもりだったのに、認めてもらえなかった。
もっと言えばその夜に家じゅうの武器になりそうなもの(バット、ドライバー、はさみ、ペンチなど)を自分の寝室の鍵がかかるところにしまっておいたのだが、後日父親が自分のドライバーを使うときに無いと言ったので自分の寝室から持っていてやったら、多分事情を知らなかったであろう父親が、不満げに私に接したことを根に持っているのかもしれない。
余談と言うか、他の日のことも書いておく。
11月の事件よりちょっと前だろうか、何日も物騒なことを言ったり、町の人間を殺してやりたいと言っていた口だけの兄に私は乱暴に罵った。数日前から殺すなら殺してみろという心持ちで、そういう切っ掛けを求めていたので「殴るぞ」と言われて「殺せるものなら殺してみろ」と言った。家族の前で殴られた後首を絞められた記憶はあるけれど、慌てて家族に制止されたにしても、平均体重の私よりも軽い体重で病の兄は力が弱く、到底私は入院と言うことにはならなかった。痕も残らなかった。
それと関係しているのか、時々私を殺せと思うことがある。ただのそういうフェチである可能性も否めないが、なぜあの時死にぞこなったんだろうなと思う。死ぬならあの時だったと思う。
私はずっと認められたかったのだ。この年にもなって恥ずかしい人間なのかもしれないけれど、大学生になって成績表が出ても誰にも褒められないのに虚無を感じるとか、劣等感がなぜか付きまとうので大学を辞めたいと思ったりしている。(こればかりは別の理由の可能性が高いかもしれないけれど)
小学生のころ兄が入院して母親が付き添って寝るので「留守番お願いしていい?」と言われた時に、うんと答えると子供だったけれど、兄に家族を取られたように思っていたのもしれない。兄弟がいなくて一人っ子だったらよかったのに、もしくは別の夫婦の一人っ子だったらなとしばしば思った。優秀で自分に甘いお兄ちゃんが欲しいなぁ、あぁでもそうじゃなかったら要らないと、私の事情を知らずに言った友達に対して殺意が湧いたことがある。
兄も病で辛いのだろうとか、本心は優しい人間だとは知っているけれど、好きだけれど、何年もニートを享受していて憎い。私もその立場にたったら周りは甘やかしてくれるだろうか?病人だから。うらやましい。私は頑張ったのに、その分認めて貰えただろうか?
親は私に夜中に外出してはいけないなどとは言うけれど、死なれたり傷つけられたら困る程度の認識なのだろうなと思ったりもする。多分きっと愛されているのだろうけれど、兄弟の通院時間に彼らは母親とふたりっきりだったのだと思うと羨ましい。
私も病気や入院をしたりして構われたいと思う。それなりに中学校に行って高校に行って大学に行ったけれど、構われなかった。私も包丁を振り回したりしたらいいのかと思っていた時期もあるし、メンヘラになりたいけど医療費が怖いなと思ったりする。病人から見れば死ねと思われるかもしれないが、私だって行きたくない所は行きたくないし、ずっとクソニートしてる兄が妬ましいし、許容されることがうらやましい。もっと言えば、将来どうなるのだろう。兄を扶養する構図になる前に家を出ろとアドバイスされたこともあるが、私に母親や父親を捨てろと言うのだろうか。ていうかむしろ連れ去ってくれそうな人が居ないとひとりぼっちになってしまう。
11月のあの夜の後日談としては、叔父(母親の兄)が、無事大学に入学できた私を一対一で回転寿司に連れて行ってくれたのだが、叔父は中途半端に母から聞き出したのだろう、母を切りつけたと警察に駆け込んで証言したお前の弟は頭がおかしい、今は大丈夫だろうがだんだん精神病院に入れなくてはいけなくなるだろう、覚悟をしておきなさいということをおじさんの運転する帰りの車で言われた。
本当に頭がおかしかったのは兄だと言おうかと思ったけど、黙っておいたので話がまた広がることは無かった。けれど悔しくてメソメソした。その日の話は家族にはしてないけれど、後日叔父の娘(私にとってのいとこ)から「あのハゲじじいが変なこと言ったんじゃない!?ごめんね!!!わたしもあいつ嫌い!」ってメールが来たので救われた。弟はいまのところずいぶん元気であるし、精神病院の御世話にはならないだろうなと思う。兄の葬式をやることになるだろうかと風呂場で思うことはあるけれど、そうでないといいなと思う。
まぁ最近は、兄はそこまでは精神がひどくない。デトロイト・メタル・シティみたいなことは言わないし、嫌いな人間の体内に入って相手が一番困るときに穴という穴から出たいとか前は言ってたけど、今は言ってないだろう。死にたいとかオレは醜いとか言ってたセリフは、私の前では言わないけど時々まだ言ってるだろうなって思う。
私は死にたいとか自分は死ぬべきだとか自分は醜いって思ってた時期もあるし今も時々そう思うけど、(家族にそう思ってるって伝えるぐらいで、友達にはそう思っていることを99%言わないけれど)ひょっとしたらこれはあのころのことを癒すために思っているのかもしれないと、ちょっと考えた。
あと関係ないけど、ジュースとかがこぼれてもびっくりするぐらい驚かずに「ああこぼれたな」って思って黙って拭くのはあの日あたりが起源かなぁと思っている。それだけ。
包丁の話に戻ろう。オチとしてあらかじめ作っていたんだけれど、中間がのびのびになってしまった。
私が別にこんなに切れ味の良い包丁を持っておいてやる義理も、時々それに関する思い出を思い出してやる義理も無いんだと思ったのだった。
メンヘラごっこじゃないけど、二の腕に包丁を押し当てて、切れはしなかったけど赤い痕が残って、ふとそう思った。この二日間大学を休んで、アホみたいに寝たので頭がすっきりしてたのもあるかもしれない。
包丁は事情を知ってる他人に渡すのも(そんなの数人だが)事情を知らない他人に渡すのも申し訳ないので、捨てたいのはあるんだけど貧乏性だし、燃えないゴミの日まではとりあえず新聞紙にくるんで仕舞っておこう。
母親は家に来るたびに「やっぱりこれ切れ味いいわね」って言ってた。
実家からこの切れ味の良い包丁が無くなったのは、兄がキレた時に攻撃力の低いアイテムしか持っていて欲しくなかったからである。
「ごめんなさい。配慮が足りなくてごめんなさい」との旨のメールが来た。
前から気になっていたんだが、こういう人間ってどれくらいいるんだろうか。
同じようにこじらせた人も多いんじゃないかと気になった。
今年で30、来月には31だ。
独身、彼女いない歴=年齢。モテ期は幼稚園の時に1回あった(ような気がする)。
無職・・・ではない。一人暮らしでも今はなんとかメシは食えてる。
酒は飲むようになったが、他にこれといって金をつぎ込む趣味もなく、地味な生活。
遥か上空から細長い鉄の塊が飛んでくる。
1枚は槍に変え、1枚は宙に浮かせ、1枚は懐に仕舞う。
敵が降りてくる。けむくじゃらの悪魔。俺に向かって炎を吐く。
その間に俺は槍を手に取り、敵に向け
・・・と、青信号だ。俺は交差点の中央をにらみながら歩き出す。
概ねこんな感じ。
電車に乗ればライフルを取り出し、あるいは時々天使(女の子)を呼び出す。
パターンは少しずつ変わっているが、大体何かの影響だ。
時にはゲームのボスをそのまま登場させもする。オリジナリティも糞もない。
冷静に考えるまでもなく、この癖は弊害が大きい。
妄想の中ではヒーローだしヒロインもいるから、身だしなみも全然気を使わない。
独り言も最近増えた。そのうち素でブツブツ呪文唱えださないか心配だ。
今更治せるとは思えないが、このまま続くとも思わない。
同じようにこじらせた人はどれくらいいるんだろうか。
こじらせていた人はどう脱出したんだろうか。
現実と向き合う、という言葉に影響を受けて、少し現実と向き合ってみた。
自分の欲求について書きだしてみたのだけれど、もちろんそれは自分の欲求であることは確かなのだけれども、
なんだか、こう、みればみるほど、考えれば考えるほど、実現可能性があまりにも未知数すぎるので、
先が見えなさすぎてわけがわからなくなっているというのもあるのだけれど、なんだか、
自分の欲求と向き合ってみて、本当に嫌な気分になった。
嫌というのは、叶わなさそうで悲しい、辛いという気分を総称して、とのことなんだろうと思う。
だけど、それをみて本当に嫌な気分にもなった。
欲求と向き合うべきなんだろうと思うけれど、それはあくまで明日以降のことであって、
今の自分は、少なくとも楽しい気分でいたいのだ。嫌な気分や辛い気分ではいたくない。
そこで、自分なりに考えてみた。
多分、なるべく楽しい気分でいながら、現実と向き合っていければいいのだろうと思う。
それができればこんな苦しい思いもしないんだろうけど。
ここまで書いていてわかったけれど、自分は「現実と向き合う」という言葉と、あまりに
真面目に向き合いすぎていると思う。
別にこの言葉に「24時間現実と向き合い、現実的な解決策を探れ」とは書いていない。
だけど、僕は「現実と向き合え」という言葉を見るたびに、24時間現実と向き合ってしまう。
向き合うべきことが多すぎて、解決策が見つからなさすぎて、結局解決できず仕舞い。
そうして、余計に不安と不満を募らせる。自分の感情を引っ掻き回してばかり。
いい加減、そんな事やめるべきだと思う。
あまりに真面目に受け止めすぎていると思う。
いい加減こんな事やめたいよ。
「カネや支配欲」ってのは、わりと「分かり合える価値観」だと思うのよ。
だから、組織運営として利益相反が無いように調整するってことが可能になる。
ところが「良いことをしたい」なんて、超ぼんやりしたクソみたいな価値観で運営されると
利害関係の調整やら実務上の割り振りなんかが全然できなくなるのね。
ある意味、どんな組織であれ「カネや支配欲」で運営するのが一番マシだったりするよ。
独善的な善意に燃える経営者、よく見かけるでしょ。ああなっちゃ御仕舞い。
その辺わかってないバカはNPOだろうが会社だろうが運営できないもんです。
元増田の論点に乗れば、確かに、解釈(妄想)と実行のあいだには無限の距離があって、エロい妄想をするということ自体を性犯罪の予備軍扱いするなら、共感は得られない。
だけど、今回のテーマは個人の解釈に留まるものではなくて、解釈する共同体(お笑い鑑賞)に矛先が向かっている。
自分もどぶろっくというのは知らないから確信もって話せないけど、要約から察するかぎりは、たんに女性の振る舞いを性的に解釈するだけでなく、その解釈をアイロニカルに提示することで笑いを誘っているのだろう。
これを鑑賞するひとはどういう考えを内面化するか? と言うと、ひとつには、この種の妄想家の愚かしさを相対的に眺めることができるようになるから、男性の妄想をけん制する役割を果たすかもしれない。
しかしアイロニーの効果は、たんにその対象を相対化するだけじゃなくて、保存しもする。つまり、「こういうひとって馬鹿でしょ、でも世の中そういうもんなのよね」っていう。アイロニーはメタ的な目線だから。
それだけじゃなくて、この笑いが描く女性は、対象としてしか登場しない。元増田は性的主体として現れている(からこれを否定すると女性の性的主体性そのものを否定するんじゃないか)と書いてるけど、妄想のなかで男の性的欲望に照らして解釈されている女性が「主体的」だなんて(そしてそれを否定したら主体性そのものが消えてしまうなんて)、まさか元増田も本気で書いているわけじゃないだろう。
ましてこの笑いにはその妄想に嫌悪なり拒絶なりで反応する女性がお仕舞いに現れるわけでもない。自滅する振りをする男芸で閉じていると言っていい。
そういうわけで、自分としては、性差別的な状況を容認するような笑いだと思う。
でも、これが個人の妄想に過ぎないのなら、それはどうしようもない。
だけど、これは公共放送にのってて、その流通には社会のメンバーひとりひとりが少なからず責任を負ってると思う。
さっきも書いたように、解釈(妄想)と行為のあいだには無限のへだたりがある。
けっきょくは、結果論的に「犯罪を犯したやつ」と「犯さなかったやつ」との区別しかできないかもしれないんだけど、それじゃ犯罪を予防することもできない。
メディアの影響はしばしば指摘されている。
今回のケースでは、どぶろっくのお笑いが直接性犯罪を引き起こす、なんてことは言われなくて、そういうものを「ただのお笑い」として流通させようとする社会とメディアのありかた全体が問題にされていると思う。
だからといってもちろん、規制するための法律を……なんてことは、現状では受け容れられない。
でも、そもそも法制度に頼るのって、社会の最終手段とまではいかないまでも、とりうる手段のひとつに過ぎないのでは?
たとえば、隣人がうるさいからという理由で、即警察に通報するのって、近隣住民とのコミュニケーションが不在だからこそ起きることだと思う。苦情を直接言う、ということがなくなっている。
同様に、いま、何か世の中でまずいことが起こってると考えたときに、頼れるものが法律しかない、って事態になってるんじゃないか。
ほんとは道徳とか倫理とか、そういうことが語られてもいいと思うんだよね。
表現行為やポルノ、お笑いの加虐性を問題にしたいからって、即規制だ、とかそういうことにならずに。
話し合いじゃなにも変わらない、個人では社会を変えられない、そういうペシミズムが、すぐに法や規制行為に頼ろうとする振る舞いに繋がってくるんだと思う。
元記事だって元増田だって、これが社会の考え方を変えるとまで信じるのは、ちょっと楽観的すぎるかもしんないけど、でもこういう提案を受けて、規制とまではいかないでも、自分がそれを変えるひとりなんだって意識することは大事なのではないかな。
思っていたより僕は沈み込みもせず、少し増えた暇な時間で本を読んだりゲームをしたりしている
そして最近は、また猫を飼ってみようかと考えている
半年前に死んだあの猫は、僕が飼った最初で今のところ最後の猫だ
このまま、あの猫を生涯唯一の飼い猫として心の聖域に仕舞っておきたい気持ちも、無くはない
死後の世界は信じていないが、天国であの猫と会える日を想像して生きるのも、それはそれで美しい
が、僕はまだ死ぬ予定も気配もなくて、あと二十年か三十年はこの世にいなければならなそうだ
だから、もう一度猫を飼ってみようと思う
でも、僕はエゴでない愛というものを、心の底で求めてはいても実在を信じてはいない
エゴであるからこそ、僕は自分のこの気持ちが嘘でないと信じられる
夏が終わったら新しい猫を探し始めるつもりだ
部屋中二次元グッズや漫画だらけ、アニメ特撮は全て録画して視聴、2chふたば常駐、コミケにも行っていました。
会社の先輩に連れられて行った飲み会で、素敵な人と出会ったのです。
彼は車好きの、とても活発な人でした。
おおよそオタクとはかけ離れた人種であると言うことは、会った瞬間に感じとれました。
元々、仲の良い人にしかアニメが好きだと言うことを言っていなかったので、
例によって彼にもそういう話をすることもなく、日々が流れ、わたし達は恋人になりました。
幸せでした。
でも、不幸せなこともたくさんありました。
部屋に飾っていたアニメグッズを全てベッドの下に仕舞い、800本近くあったアニメの録画は全て消去し、一生懸命集めた漫画やDVDは全てブックオフに売り払い、PCの中身は全て隠しファイルにし、アイフォンに入れていた二次元画像は消去し、エロゲは祖父に…。
今考えただけでも涙が出ます。
わたしは昔から、オタクであると言う事をとても背徳的だと感じていました。
今でこそオタクに市民権がありますが、昔はそうではなかったのです。
「今あるんならいいじゃん」と思う方もいらっしゃるでしょうが、もうこれは染みついてしまった性分で、人に大っぴらに言えることではない、と言う考えが頭から離れません。
そういう気持ちも、わたしがアニメを我慢できるようになっていく助けになっていました。
背徳的だと思う趣味がなくなって、その分の時間を料理や他の趣味に使うようになりましたし、アニメはとても気になるけれど、なんとかやっていけそうだと。
ですが本当は、あの日初めて彼に会ったときからずっと思っていた邪念が、もう頭から離れないのです。
彼は絶対にツンデレドS受けなのです。
彼のそういうシーンが見たくて見たくて会うとそのことばかり考えているのです。
わたしは自分の嗜好を、彼に話すべきなのかどうか…。
ちなみにわたしは彼がケモナーであろうが、百合リョナラーであろうが、車のシリンダーでオナニーしてようが、一向に構いません。
トピシュさんの記事と電池が切れる人の記事を読んで、男性が使う「イクメン」という言葉は、
という感じかー、という納得をした。
そりゃ世の多くの働くカーチャンたちとは相容れにくいだろうなぁ
働くカーチャンにとって、育児をする夫とは「わたしとあなた」でどうやって分担して解決する?という
きわめて具体的な話をしたいのであって、
日々の解決策を欲する具体性と、「男性も育児に参加していくべき」という理念が戦うから、かみ合わない
「イクメン」を、頭の固い人に対して「これからの時代、男も育児に参加したいんです」と主張するのなら、分かるんだけどね
それを妻に主張しても、妻にしてみたら「いいからそこの服早く畳んで仕舞って」と思うだけだろう
仕事で、ある家庭向けサービスの新規事業立ち上げをやってるんだけど
チームメンバーで、男性はやっぱり運営ディテールでの想像力が劣ってるみたいだ
それは能力の差じゃなく、「家庭を運営する」という文脈で生きてこなかったから、考えが行き届かないんだろうと思う
「うん?そのサービスだと、使う人いないと思いますよ」という事業計画を平気な顔で役員会議にかけてた
春から私ともう2人、合わせて3人の女性スタッフが、その新規事業部に異動になったんだけど
これまで会議で問題点を指摘しているのは全部女性スタッフで、そのうちのいくつかは致命的な問題を含んでいたため
それまで2年かけて(男性だけの事業部で)積み上げてた事業計画自体が、女性3人を新たにスタッフに加えたとたんに3か月で、一旦ストップになった。
いいことなのか悪いことなのか…まぁあのまま事業化しちゃってたら明らかにアカン!って感じだったからしょうがないけど
逆に、イクメン談義の元の、プチ炎上記事を読むと、妻もコントロール・コミュニケーションが上手くなさそうで
これも、やはり今まで多くの女性が「マネージャー」という文脈で生きてきてなかったことが理由だと思う
相手を「コントロールしつつ、気持ちよく働かせる」というのは、私もいまだに得意じゃない
こういうことを考えると、やっぱり、より息のしやすい活力のある世の中になるためにも
性別による分業制は、ゆっくりと、なくなっていく方がいいんだろうなぁと思う
まぁでも、こういうのは生まれた家で沁みついた生活感に呪縛されやすいから、急激に変化するのは、あんまりよくない気がする
反動反発も大きくなるし
「イクメン!」「イクメン!!」って大声で、それも言ったところで意味もない妻に向けて主張するより
ここにオッサンの小便があります。
http://anond.hatelabo.jp/20140524190818
尿でいっぱいになったペットボトルを捨てていく穴場として全国に知られている。
トラックをかっ飛ばす男達は、限界まで膀胱に溜めて濃縮された濃い尿を、
ペットボトルは、濃い黄色の尿でいっぱいになるから、ゴミとして道路脇に捨てられる。
俺はいつもそれが狙いだ。
捨てられてるペットボトルの、できるだけ濃い色の奴を100本ほど、こっそりさらって家に持ち帰る。
そして、深夜、俺一人の祭が始まる。
部屋中に尿を撒き散らし、ウォーッと叫びながら、尿の海の中を転げ回る。
マラは、もうすでに痛いほど勃起している。
尿を口いっぱいに啜り上げる。臭ぇ。
しょっぺぇ。アンモニア臭や、股ぐら独特の酸っぱい臭を、胸一杯に吸い込む。溜まんねえ。
臭ぇぜ、ワッショイ! 雄野郎ワッショイ!と叫びながら、マラを扱く。
その尿には、糖尿独特の甘みもはっきりとあり、ツーンと臭って臭って堪らない。
その尿を出した奴は、トラック野郎の中でも一番威勢が良い、五分刈りで髭の、40代の、
ガチムチ野郎だろうと、勝手に想像して、口いっぱいに吸い上げる、
思いきり味わいながら、ガチムチ野郎臭ぇぜ!俺が行かせてやるぜ!と絶叫し、
マラをいっそう激しく扱く。
他の尿を、頭や身体に浴びせ、ガチムチ野郎の尿を口に溜めながら、ウオッ!ウオッ!と唸りながらマラを扱きまくる。
そろそろ限界だ。
俺はガチムチ野郎のペットボトルの中に、思いっきり種付けする。
どうだ!気持良いか!俺も良いぜ!と叫びながら発射し続ける。
本当にガチムチ野郎を犯してる気分で、ムチャクチャ気持ち良い。
ペットボトルに入ったガチムチ野郎の尿は、俺の雄汁と混ざって白濁する。
http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPKBN0DO05O20140508
『トモダチコレクション』の同性婚問題で「マイノリティ(=同性愛者)は黙ってろ」とか言っちゃうのがガラパゴスすぎて笑える件
まぁ、この手のネタにはどっちの側面からも喰いつく人がいるが、マイノリティ=同性愛者って訳すのは明らかに誤り。元々社会的少数者を指す言葉なので。
単にセクシャリティなのか精神的な同性愛かによっても違うと思うが、同性愛に関しては否定も肯定もしない。ただ生物学的には遺伝的子孫を残さない行為であるが故に、同性愛者が増加するということは種としての淘汰が始まっていると思う。
片付けを『子供でもできるレベル』から実践して、片付け上手な人間になる。 - 僭越ながら
0歳のステップ、綺麗な部屋を見る
※本筋それるけれど、私の周りでは出世と片付けは関係ないようだ。
上記をかろうじて保っているがレベルは低い。
これから成長していったら
そんなことがどんどん出来るようになって行くはずだというのに。
環境づくりができていないせいで、混乱してしまうのではないか。
片付けられないまま親になったみんなはどんな感じなの。
ネトウヨに始まり軍国主義、極右、排外主義、差別主義、歴史修正主義、ファシスト、ヘイトスピーチ、反知性主義。
いろんな言葉を持ってきては散々ネトウヨなる仮想敵に文句言ってるが、要約すると『お前ら頭悪すぎてマジでどうしようもねーな、何でこの程度のこともわからんの?』と苛立たれてるご様子。現にそう言う言葉をそのまま見かけることが日常茶飯事だ。
そしてそういう言葉を裏返して見ればつまりは自分達の事は平和主義で反差別で反ファシズムで人権を尊重していて頭が良くて正しい歴史を認識出来ていると自負していると言うことになる。
そして彼等自身の看板として実際にそういうプラカードも目にする。
一人の人間としてよくもそれだけ恥ずかしい自負を出来るもんだと素で思う。
特に歴史なんて簡単にひっくり返るものだ。歴史を疑わない歴史学者はいない。疑わないのはただ歴史を利用したいだけの政治家か宗教家だ。
また少なくとも前述の文句からすればとても彼等がネトウヨなる人達の人権を尊重出来てるとはとても思えない。
現にヘイトスピーチやらやってる人間に人権などないという意見も見たことがある。
ぶっちゃけそう言う自分の正義、その完璧さを疑わない人間性において彼らは石原慎太郎を始めとする自分を疑わない老害と大差ないと感じている。
要はただの選民思想で、自分と波長の合う人間を頭が良いと選んでるに過ぎない。
本当に頭が良いのならもっと上手く他人の説得に務めて欲しい。
少なくとも頭が悪いと苛立って当たり散らしているのでは敵を作るだけで何の得にもならない。
そんな手段、平和主義どころの話ではない。
とりあえずレッテル張り、と言うか言葉のイメージに頼るのは止めませんか?
ずっと思ってきたけれど、言葉に頼る人達はそのイメージばかり先行させて物事を語り過ぎていて、実態が伴っていないので信用も信頼も失い、仕舞いには言葉自体の質も落ち、その看板としていた言葉の威力が衰えると別の言葉を看板に挿げ替えて行くだけという節操のなさが見て取れて、ただただ愚かしく見えるので。
例えば中国が近年の日本を軍国主義の復活と煽ったり、それに乗っかって日本を批判してるのとか。
現在進行形で言論統制の上に領土侵犯してる国が70年近く不戦を貫いていてる国にそんなこと言ったところで説得力は国際的にも皆無。
また例えばネトウヨなるものに貼られてきたレッテルの変遷とか。
ブームかと思うくらい、次々と新しいレッテルが一定の時期に集中して貼られては変わって行く。
最近は歴史修正主義者が若干下火で、ファシスト、ヘイトスピーチ辺りが流行りだと思うが、どこをどう指してファシストなのか、そもそも反ファシストを掲げる人々が一人でも政治犯やらで捕まったり弾圧にあったということがあったのか。逆にファシズムや歴史修正主義と言うネガティブなイメージを与えて一部の主義主張を消し去ろうとする動向はよく見るが。
またヘイトスピーチと言うのも中国人、韓国人だからと罵声、罵倒を浴びせているならわかるが、とてもその限りとは言えない。
逆に平和団体やら人権団体と言う看板は胡散臭すぎて近寄り難かったり、そのグレードダウンした市民団体と言う言葉も今や普通に文字通り受け取って警戒心を緩める人は少ない。
もちろん中には本当にそういう志のある団体もあるのだろうけど。
まあともかく、現政権を批判するにしろ一部主義主張を批判するにしろ虎の威を借る狐とならず、もっと実態に基づいて批判したり説得力を重視して欲しいと思う。
実態を伴わないのに言葉だけで語るのは嘘も百回言えば何とやらで、事実、主義主張に反する人達をネトウヨと罵倒するだけで何の進展も説得もなく今日まで来た。