はてなキーワード: ラストとは
・終始、学芸会のようなしょぼい演出に共感性羞恥心が刺激される
・1972年ミュンヘン五輪で殺害されたイスラエル人選手への追悼が五輪史上初めて行われる
・参加国入場時に流れるゲームBGMの数々に沸き立つちょろいオタクたち
・あいうえお順による参加国入場で台湾は本来チャイニーズ・タイペイの「ち」の並びとすべき所を台湾の「た」の並びにぶっこみギリギリのラインを攻める
→想定外のタイミングで入場してきた台湾選手団にびっくりした中国メディアが別番組に切り替え、それが終わったら中国選手団の入場シーンが終わっていて中国人大発狂
・予定時間を大幅に超えたバッハの挨拶で、女の話は長い発言で辞任した森の伏線回収
・天皇陛下が開会宣言で「祝う」とすべき所を「記念」に変えてオリンピック憲章違反、暗に五輪開催への怒りを表明
・長過ぎるバッハの話に疲れ果てた菅と小池が天皇陛下の開会宣言での起立に遅れる
→参加国入場後にこれを流すセンス×
・ドローンショーは割と良かった
→書けと言う人がいたから追加
→おっさんホイホイ
→長嶋氏の五輪をリスペクトする姿勢に感銘を受けた(腕の状態についてカミングアウト)
→安直だが悪くはなかった
以上
京本が死んでひたすら悲しい、その悲しみを消化しきれていない、ラスト以降藤野は悲しみから立ち直れるかわからない、強い喪失感が描かれている、という風に読める。というか私はそうとしか読めなかった(ただ後述するように、創作賛歌とも読めるのでタイトルは言い過ぎなんだが)。よくできたマンガだとは思うけど、これを読んで心を折られたりやる気をだしたりするのは違和感が強い。人生を共にした友は理不尽に失われたけど主人公は立ち直って自分の好きなマンガ描いていくんだ!とだけ読むのはポジティブシンキング過ぎるんだよな。
そもそも作者は私の読みも可能なように描いているとは思うが、強いてその根拠を挙げるなら、
1.京本の部屋で泣いて以降藤野の表情は描かれていない(ので、ラストでもどんな顔で机に向かっているかわからない。漫画を描けているかすら不明)。
2.ラストのコマで藤野のうなだれ方が他の同じ構図のコマと比べて大きい。悲しみに沈んでいるように見える
3.ラストのコマは同じ構図の最も近いページのコマに比べて大して景色が変化していない(なので、事件後の藤野の未来が描かかれていない)
といったところ。
作者は創作賛歌とも読めるようにこのマンガを描いている(例えば、2.はより深くマンガに集中しているともとれるし、3.は明確にどれくらい時間がたったかは描写されていないので、立ち直ってしばらくたった後、ともとれる。1.は立ち直ってマンガ描きの日常に戻ったことを意味している、ととることは可能)というのはわかるんだが。まあ、解釈の幅を残すように描いているとは言えるだろう。悲しみを乗り越えて生きていくんだ!よりも悲しみとともに生きていくしかないんだ、人生は決定的に変わってしまったんだ、の方が私は好みなんだよ。
件の漫画を読んだ。もう各所で言われてると思うが、あのラスト、やっぱり僕も例の事件を思い出した。
というのも、僕にも昔から仲の良い、絵を描く友人がいた。2人ともよく絵を描いては学校で見せあった。でも僕は下手糞なので、いつも、君はすごいなと、彼を褒め称えていた。僕はその後、下手は下手なりにもなんだかんだで美大に進んだ。彼は当然、美大に進んだ。だがそれぞれ違う大学に進んだのと、画材を買うために始めたバイトが忙しくなったのとで、その頃から彼とはもうそんなに連絡を取っていなかった。
それから、数年後、ある時間が起きた。クリエイターとして、同じクリエイターが凄惨な目に遭うのは辛い。人の笑顔を生み出す人たちが、どうしてこんな目に遭わないといけないのか。僕はそんなことを考えて、少し暗くなった。
連日、取り沙汰される実名報道の騒動を見ていてもむしゃくしゃする。どうしてそこまで躍起に実名を報道したがるのか。メディアはクソだ。そっとしておいてやればいいのに。
やがて、実名が出始めた。
そこで僕は友人の訃報を初めて知る。
昔はあんなに仲が良かったのに。疎遠になって、久々に名前を聞いたのが、こんな形。
あんなに憎んでいたはずの実名報道問題だが、報道されなければ僕は友人の死すら知ることはなかった。複雑な気持ちを抱えた。
僕は彼の家を知っている。彼が引っ越していなければ今もあの家だ。一言お悔やみ申し上げたかったが、だけども、今頃報道陣に囲まねている家にどうやって顔を出せばいい?
いや、僕も野次馬とそう変わらない。ただ、他人の死に興奮しているだけなんじゃないか?追悼して、自己満足を得ようとしているんじゃないか?疎遠になっていたのに。何を、今更。
そんな卑屈なことを考えて僕は一層暗い気持ちになった。
あの漫画のように、僕に彼を美大に進ませた影響力があったとは思わない。それこそ自惚れだ。彼の方がずっとうまかったから、もともと彼は美大に行っただろうし、良いところに就職しただろう。でも、肩を並べたから、もしかして、なんて考えたこともあったから、今回、ルックバックを読んで、僕が、例の事件を思い出さないはずはなかった。
そして、これが追悼なのか、それこそ、エンタメとして消費しているのか、僕には分からない。
自らの内に感情を抱いていれば良いのに、この文を誰かに向けて書いている今の僕は、やはりエンタメとして消費しているような気もする。
でもあの時、僕は確かに追悼したかった。それは追悼する自分への自己満足じゃないかと指摘されることを何故かあの時は恐れたが、今思えばそんな卑屈なことを考えるのは悲しみで少しどうかしていたのだと思う。今も僕が友人の死に感じる寂しさは嘘ではないし、この寂しさを1人で抱えるには苦しくて、誰かに聞いて欲しい気持ちも嘘ではない。
とはいえ、結局、僕が毎日することといえば、あの漫画と同じように、自分の仕事、創作とまた向き合う他はない。
ただ、その感情があまりにリアルすぎたので、僕は先生もご友人を亡くされたのではないかと思ったほどだった。
陳腐な表現になるが、その複雑な機微をこうして漫画に描ける先生は純粋にすごいと思う。
ご遺族のご迷惑となるといけないので、ほんの少しフィクションを混ぜたが、事件とその感情は現実のものであると最後に書き加えたい。
まだ花を供えに行けてなくてごめんな。
全てはタイトルに集約されている。振り返るとそこには二人の思い出があり、しかし振り返ったところで藤野は京本を救い出し、かつ知り合うことなどできず、京本は藤野のマンガをやめるというあやふやな決意を振り返らせてくれている。振り返ることがすべての起点になっており、かつ振り返れば君がいるという演出上の意味も含んでいる。実際に藤野はことあるごとに京本を振り返っており、フラッシュバックの折にも背中に京本のことを感じている。ところが藤野の背中をより感じていたのは京本の方であり、彼女は美大受験後も藤野の漫画を買い続けてサイン入りのはんてんを部屋に飾っていた。
ルックバックは振り返るという意味の他に、背中を追いかけるという意味も含まれている。京本は藤野に背中へのサインを書かせ、藤野を追いかけたいあまりに、せめて画力では随一になりたいと美大受験を決意する。この思いはすれ違って藤本に伝わり、藤本は一度は美大受験をやめるように進言する。この背後には藤野の京本よりも自立していない内面が潜んでいるが、それは前項の通り藤野のメンタリティにつながってくる。つまり藤野は常に過去思考型で未来を見ずに下を見て過去を見るタイプだったが、京本は上に憧れて未来を見るタイプだったということだ。
京本が常に未来を向いていた理由は、京本のメンタルが常に引きこもっていて外の世界を知らなかったからであり、拡大思考しか存在し得なかったためだ。一方で藤野は冒頭の豊富な人間関係から一度はマンガすら諦め、空手(手に何ももってない、という比喩)に逃げて失う方向へと舵を切っている。この一見した外面とは裏腹な藤野の内向性は、ラスト付近まで京本との「もしもの未来」を連想させる。マンガのコマをよく見ると、京本が全く何事も連想できない人間であることに対し、藤野はすべてを戯画化できる想像力を持つ人間であることがわかる(この発想は作家は不幸なときでも不謹慎なときでも作品のネタにしてしまえるのではと考える、といった問題だけでなく、藤野自体がいかに京本に憧れられたか、という内面的裏付けを付与している)。
美大を境にして二対の関係は消失し、孤独な部屋の風景のみが描かれる。そこには十分に背中を映した背景が使用されており、京本の姿はやはりない。しかしこの情景は実は(おそらく)藤野が思い出している孤独な執筆作業風景であり、実は自分は自分自身と常に戦って今に至ったのではないか、という思いがあった。実際にクラスメイトから無視され始めた彼女はほぼ一人で漫画家への道を成立させた。もちろん、この際述べた背景は他のアシでも描ける、という台詞は強がりに過ぎない。こうしたいきさつから彼女の部屋には微妙な変化が見られる。最初はクラスメイトに囲まれているのに孤独な藤野の姿、後に京本と一緒に執筆する姿、後にまた一人に戻る姿だ。最大の変化は初心の頃に書いた4コマだろう。京本の部屋に投げ込まれた4コマを藤野は死後回収して自室に飾る。このことは京本がライバル関係であったと同時に仲間であり、しかし同時に合否を決める編集でもあったという現れに見える。ともあれ彼女は孤独な小学生から友情を知る中学生へと移り変わり、社会人で死を知って再び孤独でないことを知る。この描写を読者目線に変換すると、常に藤野の背中を見る、という意味でルックバックという意味を成立させている。
自分を罵倒する声が他人の絵から聞こえた、という下りは二人の微妙な関係に適切ではあるが、実は藤野の心象風景である「実は自分が殺したようなものだ(家から出さなければよかった)」とリンクしている。よってあの話はデウス・エクス・マキナ的な殺しではなく、実質藤野の心象風景が京本を殺したと解釈したほうがスムーズに読める。ちなみに京本の部屋から最後に出てきた4コマは、藤野が京本を助けるというものであった。つまりここで京本は彼女を救うという妄想が受け入れられており、自分を救ったのはむしろ京本であったという逆説的な心境に至って立ち直るのである。
※並行世界説を否定しているわけではなく、当作はどちらかといえばその読み方が自然にできるようにしている。ただし現実は入れ替わらないことから、そのままちぎったマンガが京本の部屋に入り、救助するマンガが今の藤野の元に降りてくる、という演出ではないかと個人的には感じている(※『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のオマージュだとしても)。最後の漫画は藤野がつるはしを背中に受けているマンガであり、彼女の代わりにつるはしを背負い続け、その重荷を目の前に飾っている。
マンガは極めて戯画的な分野であり、絵画ないし背景美術は(デフォルメも含んでいるが)写実の分野だ。現実性と写実性は漫画の重要なファクターであると同時に、写実が戯画を殺し、戯画が写実を陳腐化させることも往々にしてありえる。そしてこの関係は補完関係でありながらも潰し会う関係であり、二人の関係はまさに一つの漫画だった。そうして我々が彼女たちの背中を見る時に、マンガそのものをその背後に見るのである。
また、以上の事実から藤野が主役であり、京本が「背景」であるという関係性から京本が主役になりたいと切に願い、藤野の背中を追いかけていた経緯も明らかとなる。故に彼女の死後の部屋にはたくさんの藤野の連載作品が放置されている。
※京アニ解釈は他の方が遥かに詳しく、こちらが書く意味はないと判断してのこと。
※誤字指摘ありがとうございました。
※Background、良い解釈だと思いました。
先に言っておくけど、以下の内容はただの愚痴でお気持ち表明ってだけなので、これを読んだ諸兄が今後の言動に何かしら気を使わなきゃいけないってことは一切ないからね。
ウマ娘黎明期に執筆された上記エントリでは、URAに優勝したもののレジェンドレースで勝てないサイレンススズカに対して
みてくれだけだ。
ハリボテエレジーで検索して動画を見てこい。おまえのそのサイレンススズカはそれだ。お前はハリボテエレジーを育てて「Aランクいきましたよ」と言ってると自覚しろ。
脆いんだ。
と言われてしまっている。この後に綴ってある育成論が、サービスイン当初に書かれたものとしては完成度が高かったのも相まって拡散され、それに伴ってハリボテエレジーも絶対的弱者として名が広まっていったと考えている。
当エントリのタイトルとは矛盾するが、弱い殿堂入りウマ娘を差しての「ハリボテエレジー」という表現を用いることにはある程度の合理性があると考えている。
ハリボテエレジーがどういった馬であるかは後で詳細に述べるが、知っている人の大半は「いきなり出遅れて、しかもカーブで転倒してバラバラになる馬の形をしたハリボテ」という印象を持っているだろう。
また、知らない人間からしても、その名前の響きの珍妙さから、何となく雑魚そうなイメージが湧くことが大半である。
つまり、「ハリボテエレジー=弱い」というイメージがユーザーの間で共有されやすい、と言うことだ。
もしもの話だが、弱い殿堂入りウマ娘に対するスラングが実馬を元にしたもの(例えば史実で現役時代に勝利経験のないハルウララや、大逃げからの逆噴射が印象に残りやすいツインターボ等)だったらどうなっていただろうか。
当たり前だがその馬の馬主や実馬のファン、あるいはそれが元のウマ娘のファンからいい顔をされないのは想像に難くない。二次創作の扱いが他と比べてセンシティブな「ウマ娘」というコンテンツなら尚更である。
ところが、ハリボテエレジーは史実に由来しない架空馬であり、その出自でも明確なやられ役、出オチ枠として扱われているため、弱者として扱ってもほぼ誰も気にしないのだ。デリケートなウマ娘と言うコンテンツを語るうえで、これは非常に大きい。
ハリボテエレジーにオタクの大好きな「文脈」を感じてしまったから。これに尽きる。
これを書いてるオタクは、ウマ娘をはじめとした今どきのオタクコンテンツのネームドキャラには大抵備わっている「他者の心を動かすストーリー」を、不幸にもハリボテエレジーに見出してしまったのだ。
だからこそ、ハリボテエレジーが負けることしか出来ないという認識に異を唱えるのであり、脚質すら異なるサイレンススズカの育成結果で引き合いに出されることを嫌うのである。
これを読んでいる諸兄は「ハリボテエレジーにそんな御大層なテーマがあるわけねえだろダボハゼ」とお思いのことだろうが、冷静に考察すると「ある」のである。
という訳で、以下ではハリボテエレジーについて詳細に語りながら、どこに物語性を感じているかを挙げていこうと思う。
ハリボテエレジーは、「スキージャンプ・ペア」を世に送り出した映像作家の間島理一郎氏とJRAのコラボによって生み出された「CINEMA KEIBA/JAPAN WORLD CUP」シリーズに登場する馬(?)である。
外見は、最初は段ボールで作られたハリボテだが、シリーズ2作目以降はボディにドラム缶を採用したものにアップデートされている。
曲者揃いのJWCの中でも一際異彩を放つ彼だが、彼が走り出せばどうなるかについては、当該作品に造詣のある諸兄であればその脳裏に焼き付いているだろう。
スタートで出遅れたかと思えば、コーナーに差し掛かった瞬間に盛大に転んで破壊される。これこそが彼の様式美なのだ。
当然こんな有様なので勝つことはほぼない。一応全馬に勝ちパターンが用意されているため、彼の勝ちパターンも存在するのだが、
というように、他の馬が起こしたアクシデントに便乗する形でしか勝つことが出来ない。
ちなみにバーニングビーフが草を食まずに駆け抜けたりピンクフェロモンが輪になって踊らなかったりするとハリボテエレジーの勝ちではなくなってしまう。
と言うより、バーニングビーフやピンクフェロモンが本来勝つはずのパターンを投げ捨てないと勝てない。ひどい有様だ。
しかし、これらの勝ちパターンを見ると分かるように、転んで分解し、出遅れが致命的なものになっていたとしても、彼(ら)は勝利を諦めずにゴールまで走り続けるのだ。これを踏まえて、3作目の勝ちパターンを見て欲しい。
3作目においても大半のパターンでは彼は(メカハリボテを巻き込みつつ)転倒してしまい、その後のレースに関与することはない。しかし、彼(とメカハリボテ)の勝ちパターンでは
これまでずっと転び続けてきたハリボテエレジーの姿を見ていると、曲がっただけで喜びもひとしおだろう。
2作目以降はハリボテエレジーがコーナーに差し掛かっただけで「曲がれえええええ!」と激励の言葉が聞こえたり、3作目で曲がった瞬間には歓喜のどよめきが上がるためなおさらだ。しかし我らがハリボテエレジーの快進撃はこれで終わらない。
無事コーナーを曲がり切り、ラスト400mに差し掛かったハリボテエレジー。彼の勝ちパターンでは、なんととんでもない末脚を発揮して他の馬を全てぶっちぎって勝ってしまうのだ。
「何故出場できるのか分からない」「今日も勝てそうにありません」なんて言われ続けた馬が、いや馬ですらない何かが、世界の強豪を相手に一歩も引けを取らないレースを展開するのだ。こんなに心躍る展開もないだろう。
また、この作品で実況を務める茂木淳一氏がハリボテエレジーの勝利の際に放った言葉が以下だ。
ハリボテエレジー、やっと目的地にたどり着きました!!
悲願の1着を獲ったことにこの言葉を当てはめるセンス、そして茂木氏の情感あふれる実況。初見時の私は思わず「天才すぎんだろ……」と天を仰いだものである。
長くなってしまったのでまとめると、ハリボテエレジーという馬は
「周りから見向きもされずとも、勝ち目のないレースに挑み続け、最後には自分だけの力で栄光を掴み取る」というサクセスストーリーを持つ馬なのだ。
しかも、ハリボテエレジーの中の人は人間であるため、キン肉マンにおけるジェロニモのように、「逆立ちしたって勝てないはずの上位存在に対して真っ向から立ち向かった」という文脈も生まれてくる。
これが、ハリボテエレジーは固有の文脈を持つ馬であり、ただの絶対的弱者ではないと私が思う根拠であり、同時に弱いだけの殿堂入りウマ娘を「ハリボテエレジー」と表現することを忌避する理由である。
これだけ力説したはいいが、、結局のところ伝わりやすくてすでに広まっている通称を改めろと言うのは土台無理な話であるし、私も無理にそうしろとは言わない。
ただ、自分の好きなキャラクターの名前が、本馬の活躍を顧みずに絶対的弱者の通称として広まってしまったというだけなのだ。哀しいオタクがここに一人いるだけなのだ。
いじめっ子はフランケンシュタイン博士で、いじめられっ子はフランケンシュタイン博士が生み出した怪物のようなもの
フランケンシュタインの怪物のラストってどんなのでしたっけ?
描きたいこと描き切ったからって最後まで手を抜くなよ!もし、あれが手抜きじゃないならそれはそれでやべぇぞ!
みんな既に似たような書いてることだと思うけど備忘録的に書いておく。
その後の展開は悪いとか酷いとかじゃなくて、この物語はあそこで終わったからもう満足したでしょ?って感じで、そりゃねーだろって。
この物語は竜が救われたという確信を持てて初めて終わるんだよ。
正直あの展開で竜が救われたとは思えない。
ただ親が謝る場面があるだけでもまだマシだったと思うが、何でそれすら手を抜くんだよ。
それともあれで本当に救われたと思ってるのか?ならdisってた児童相談所よりもよっぽど認識酷いぞ。
ガキに(親と)戦うみたいなニュアンスの言葉を言わせるのも酷い。
どんな映画でも「面白かったー」で済ます俺のお気楽な彼女(でもそんなお気楽なところが好き)ですら「あれで良かったの?」って言ってたぞ。
これ、かなりヤベェことだからな。
俺もどちらかと言うと細かい粗は見て見ぬ振りするお気楽映画鑑賞者だから、音楽も良かったし終盤までは楽しめてたのにラストで本当台無しになった。
自分が相手にすべきものの範囲を定めることが、一番大事な心構えなんじゃないのかと、ようやく思うようになった
ニュース・社会問題の話題が豊富すぎて、いっちょ噛みしてられるような情報量じゃねえんだわ
情報化社会の一番大事な心構えは、「自分を定義してしまうこと」だ
以前はそれを恐れていた
世界を制限しては感受性が乏しくなる、新たな事態に対応できなくなる
だから開かれていないといけない、そう思っていたが
相対的な世界で相対的な立ち振る舞いを信条としてしまうと、大義と大義のデッドロックに窮する訳だ
関わりたいことにしっかりと関わることしかできない
その結果何かを見失うとして、それ自体を受け入れる
キャラデザは続投だから制作手塚プロでもひどい絵面にはならないだろうと油断してたら監督変更の影響か脚本部分がつまらなくなっていた
1期の村野佑太監督のおかげで原作以上に面白く感じていただけで2期が現実なのかもしれないが
女の子はかわいかったけどやはりあだしまの癖が残っているように見えた
ディアヴロはかなり顔変わったが1期の方が好みだった
少しでも興味があればネタバレ見ないうちに視聴したほうがいい
序盤を見ておっさんが若者に物申す系の説教臭いアニメはちょっと、と思うかもしれないがそこは全く本筋ではなく、ジャンルとしてはかなりしっかりミステリーである
全ての要素が伏線で裏で繋がっており、終盤に向けて丁寧に回収されていく
一部の声優に芸人が起用されているがキャラは全員動物なので棒だとはあまり感じなかった
キャラが人間だったら声優的にはもちろんストーリー的にもビジュアル的にも見れたものじゃない作品だったかもしれない
背景や車の作画に3DCGが用いられているのだが、走行中の車のタイヤがアップになったときのホイールの省略表現が良かった
ゴジラはシン・ゴジラすらまともに見たことがなくほとんど知識がなかったがそれなりに楽しめた
SFということで小難しい話が続いたが最後まで見ると意外と単純な話だった
カドっぽいという感想をちらほら見たが、人に勧めるなら圧倒的にカド
ゴジラのラストは全くカドではなくSFとしてはゴジラのほうが面白いのでそこは安心してほしい
未視聴だったので視聴
基本的に百合アニメだと聞いていたがおねショタもBLっぽさもあって要素が多い
それにしても急に2人養うことになっても大丈夫なほど収入あるって小林さんすごい
原作未読
2期やらない前提での改変があったそうで、終盤は確かに急な感じはしたが約ネバほどの違和感はなかった
ケイト様とエミリコのフィギュアが出るそうだがこの作品ならドールの方が欲しい人多いのではないかと思う
約15年前のゲームを今になってアニメ化するということは相当面白いのだろうと思っていたが期待していたほどではなかった
声優がこの作品以外で声優をしていないシキ役も含め基本的に全員原作から続投されているのは地味にすごい
1期はとにかく勢いで押す作品だったが2期はその勢いが足りなかった
待ちに待ったゆうぎり回もゾンサガらしさという点では微妙
面白くなかったというほどではないが1期が完璧だったせいでかなり見劣りする
グリッドマンと比較すると要素を詰め込みすぎで回収しきれてない印象
よくある男子高校生スポーツものアニメかと思いきやコミカライズ連載誌が少女マンガ誌のデザート
好きっていいなよ。やとなりの怪物くんが連載されていた雑誌である
現在デザートではレビュダン!という男子高校生がミュージカルをする漫画を連載しているそうで孤立はしていなさそうなので少し安心した
キャラデザも普通に女向けコンテンツっぽい雰囲気だったので気付かなかったがとなりの怪物くんの作者が原案を担当していた
そしてこういうコンテンツなら必ずBL人気を意識しそうなものだが、BL要素は恐ろしいほどない
惡の華や少年ハリウッドなど手描きのイメージが強いゼクシズだがバクテンの新体操演技シーンは3DCG
でも演技シーン以外のちょっとした新体操カットは手描きで丁寧に動いており、日常動作も力が入っていて非常にゼクシズらしさを感じた
ゼクシズは久しぶりに見た気がしたので最近の仕事を調べたら2020年はシャドウバースにつきっきりだった模様
主人公が男装女子ということで女性向けかと思ったが恋愛要素は全然なかった
アニメキャラデザは原作絵からほどよく癖が落とされておりとても見やすくなっていた
和楽器アニメということで真っ先にこの音を連想したが、どちらも少女漫画家による青年誌連載作品らしい
正直言ってつまらなかった
とにかく画面が楽しい
融資のシーンはどちらかというと余計派
作品の軸のズレを感じた
見なくてもよかった
ヴァニタスの手記1話を見たが今後もこのレベルでアクションシーンがあるようなら視聴継続したい
制作はボンズだが監督がシャフトで仕事していた人なので妙に画面がシャフトっぽくてボンズらしいアクションとの組み合わせが面白かった
今GYAOで無料で観れるらしいけど知らんくて普通にレンタルしたわ
ゾンビが出てくるコンテンツはバイオぐらいしかまともに触れたことなかったんだけど、あんな閉鎖空間で身体能力がバグったゾンビに追われたら爆速で死んでしまうやろ
噛まれてから感染して動き出すまでのスピード速すぎるし、どう見ても感染前より足速くなってるじゃんかよ
扉開けられないなら大丈夫か〜とか思ってたけど平気で窓割って流れ出てくるし
でもラストのトンネル前の死体は焼いたら動かなくなってたっぽいのでまだ何とかなりそうで良かった
韓国映画はアクションが凄いしグロいし痛そうだし、何なら生きてる人間が一番怖いから歯食いしばりすぎてブチ壊れるかと思ったわ
海に潜る~なら息を止めなきゃ潜れない~
ソイヤ!ソイヤ!ソイヤ!ソイヤ!
あまりに海に久しぶりに入ると海水ってこんなに塩辛かったっけ?って思わない?
思わず私が塩味になっちゃうわ!ってあとは青じそドレッシングをかけて召し上がれ!ってやかましーわーいってぐらい
もし、
海がタレ味だったら、
塩かタレかって
タレの海で泳ぐか塩の海で泳ぐか迷ってる人がいたら私は塩!って答えた方が食通な方がするって話し何回もしてるんだけど
そんな日々私は塩かタレかを考えているんだけど、
ふと立ち寄った夜のスーパーマーケットで
はて?だれだっけ?よーく思い出したら、
もうこの緊急事態宣言よろしく2年ぐらい足が遠のいていた焼き鳥屋さんの店員さんで
思い出すまでに飛び込み前転を3回ぐらいして
すぐには思い出せなくて、
私は塩かタレか考えることをすっかり忘れて、
わ!久しぶり!今お店どうなってるの?って尋ねたら、
21時ぐらいまではやってますよーって、
あの曲マラカスを持たせて踊らせて
うーまんぼ!って言うところを越して
2~3分止めずにちゃっちゃちゃちゃっちゃって踊る方がじわじわ面白くなるから、
そう言う機会があったら、
ウーマンボ!のところで終わるんじゃなくて、
そのまま2~3分は踊り続けて欲しいの。
それも私は強く言い続けていかなければならないことだと思って、
言い続けるわ。
いやさー
でもなんだかんだ言ってさ
21時までの実質20時前ラストオーダーストップって言うのは、
そんでもって、
頑張って19時から入店しても1時間では焼き鳥が焼ける前までに終わってしまいそうで、
うーん、
気合い入れないといけないのよね。
普段疲れてふらっと立ち寄れるタイムの時間帯で不意に飲むルービーが
ジョッキがまるまる凍っていて、
おお!なかなか気合い入ってるジョッキだな!って思えるわけじゃない。
2杯目以降はそのジョッキをすぐに洗ってその勢いで2杯目をついじゃうから、
まあ忙しかったら、
そんなモノよねって
2杯目なのにまたキンキンに凍ったジョッキでくるときのラッキーさと来たら
凄い自信で一杯目のキンキンルービーは飲み干す自信はあるぐらい
焼き鳥屋さんだけじゃなくて、
他にも最近顔を出せてないお店がたくさんあって、
行きたいところがたくさんあって
さすがに
お昼休みに2軒まわってランチするってどんだけ食いしん坊さんなのよ?って思われたら恥ずかしいし、
うどん屋さんにも行きたいし、
インドカレー屋さんも行きたいし、
餃子屋さんにも行きたいし、
ラーメン屋さんにも行きたいし、
パスタ屋さんにも行きたいし、
タイ料理屋さんにも行きたいし、
行きたいところはまだまだたくさんあるから、
行きたいのも山々なんだけど、
なかなかお昼タイミングを逃してランチタイムに外に出られない、
そういったタイミング外しもあって
タイムセールランチタイム限定何杯飲んでもジョッキ200円ってのをいつも逃しちゃうのよね。
もうどんだけ世間はルービーを求めているかってことでもあるわよね。
なにもかも
早くなりすぎた世の中のスピードをもとにもどすには?
と言うことをどうやったらいいのかって、
とりあえずコンテンツは全部タブレットで雑に手っ取り早く消費されてしまうこの世の中の速くなりすぎたスピードに
なにかEテレの、
ハートにグッとくるいい番組でも見て影響されたようなことを最後に言って締めたいと思うわ。
うふふ。
手間暇かけて作る方が美味しいのか?
味の違いは無いと思うけど、
考えちゃうわ。
昨晩から漬け込んでおいた、
海外のモノだけど、
ベリーの品揃えは目新しくて、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
そもそも基本的な能力が無いのです。書類は必ず手順や記述を間違うし提出する時間も場所も期限も人も禄に合っていない。毎月のルーティンもやっとできるようになったがそれでも直ぐに忘れてしまう箇所が多い。同じミスを繰り返さないことが難しい。いったい何回目なんでしょう。
一人で仕事を乗り切ったことが殆ど無いから成功体験も皆無。誰からも一目置かれることはなく、信頼もされない。自分でも出来ないことを自覚してます。出来ないことがわかっているから身が入りません。他人に聞くこともためらってます。聞いてよいのかもわかっていないから。これから何年経っても同じだろうと落ち込む毎日。今現在も言い出せない案件があるし
転職を数回繰り返しているのは、ほぼ自分の能力が劣っているためでした。要求されたことが満足に出来ずに人間関係が悪化した上での退職。無駄に試験はそこそこできたから落差が激しいのでしょう。
広汎性発達障害と診断された過去を持ちますが本当にそうなのかは今でも疑わしい。それ以前の問題のようにも思えるし、慢性的な睡眠不足なのかもしれないし。全ての原因が自分にある以外にわかっていることがなく、仕事に支障があるとわかると退職を繰り返してます。今回でラストと思っていたけどもう無理なのかも。
YOASOBI「Into the night」はご存知でしょうか?
「夜に駆ける」の英訳バージョンとして発表されたこの楽曲、まずはとりあえず日本語バージョンから聴いてみてください。そのあと英語バージョンへ。
https://www.uta-net.com/song/284748/
https://www.uta-net.com/song/304176/
そう、この楽曲、「日本語の発音に英語を当てはめながら英訳としても意味を成している」んですね。
この英訳の音の当てはめ方。聴いた瞬間にもう膝を打ってしまったわけですが、英語の成績はそこまで良くなかった私では英訳の上手さを十分に理解しきれない、よりこの英訳について掘り下げたい!と思い、英語が堪能な友人と少しTwitterのDMで話し合ってみました。
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自分…日本在住。英語は多少の理解、会話が可能。(簡単な道案内ができる程度)
文法はなどはあまり理解しておらず、ノリと勢いで会話を乗り切る人間。
英会話で困った時は「幼稚園の子供に話すようにしゃべって!」と言って苦笑いされるタイプ。
友人…英国在住。英語話者のパートナーを持つ。学生時代から成績優秀。語学に堪能であり、大学では談話分析などに触れる。
最近ではTwitterでゆるく繋がっているくらいの距離感であり、一対一で会話のやりとりをするのは数年ぶりでした。
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急な連絡ごめんなさい!
ちょっと気になったことを聞いてみたくて英語に堪能なあなたにご連絡した次第です。
暇なときにふわっとなんか返してくれると嬉しいな!
日本で最近有名なアーティストさんが、もともと日本語の曲を全部英訳して英語バージョンを出したのね。
聞くとわかるかと思うけど「日本語の発音を英語バージョンでも織り交ぜて似た響き」にしてるんだよね。
日: 沈むように溶けていくように
英: Seize a move, you're on me, falling, and we were dissolving.
みたいな。
自分は聞いたとき、うわっ、日本語への音の一致が巧みすぎるな!と感動したんだけどふと疑問に思って。
これって英訳としてちゃんと意味を成した歌詞になってるのかな?
簡単な英文なら読めるけど詳しい文法とかになるとてんでダメだから詳しい方の分析を聞いてみたい!っていう、ほんとただ趣味の質問でした。
____________________
友人
むしろ大歓迎!
YOASOBIのこの曲はギリ知ってますよー。
耳に残りやすい語尾は完全に一致されるように作られてると思う。
(例えば「沈むように」「騒がしい」とか)
あまり日常的には聞かないような文章の作り方をしてる部分があるかな。
例えば、サビのSaw what got seen hid beneath, and louder nights keep beatingは、
「騒がしい日々に笑えない君に」を指してるけど
日本語では騒がしい日々という一つの句になってる部分が、louder nights keep beatingが英詞一つの文に落とし込んでたり。
Saw what got seen hid beneathは本来の英文法だったら、(I) saw what (I) got seen (is) hid(den) beneath.
意味も「僕は見たもの( i.e. 君)が影に隠してるのを見た」だしね。
それが完全に変とは言えないけどね。
Be動詞を全部ain’tに変えたりとか、
三人称単数のhasになるところをhaveにしてみたりとかさ。
あと、英語はどうしても主語ありきなところと、1拍に一音以上乗せられるから※、
新たな情景が多少追加されてる部分があるかな。
具体的にはAメロのSeize a move, you’re on meは
直訳は「動きを止めて、君は僕にいる ( = コントロール下にいるイメージ)」は
サビのI’m going to youは歌い手の「僕」が「君」に近づいてっちゃってるプラス、
You could run with meとか更に逃げ道の選択肢を与えてる気がするかな。
日本語の発音でcatを言ったら、キャ-ット (kya-tto)で二拍必要になる
→ 同じメロディ・拍数があっても載せられる情報量が変わってくる。
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こういうのを待ってた!!!
めちゃくちゃに勉強になる〜、一拍に一音の説明もわかりやすい…最高…。
意味はほぼ一致してるという点は自分もそう読み取ってたから合っててよかった〜情景の描写とかは割と忠実だよね。
自分が引っかかってたのは
「英訳の方が歌詞の主観者が能動的」だなぁって若干感じていたんだよね。(意味伝わるかな…)
「二人今、夜に駆け出していく」
が、二人と描写されてるからここだけ第三者目線で描かれて「僕」から離れているのに対して英訳では
「you and me are running through the night in the dark, I'll take you」
となって、視点が「僕」から変わらないままである。なおかつただ駆け出すだけでなくI'll take you.つまり「僕が君を連れ出す」と能動的に動いている。
この辺りの視点の違いになんとなく不思議な感覚を覚えたので今回質問に至ったんだよね。
でも「英語は主語ありき」という説明でめちゃくちゃに腑に落ちた!
英語だと音を詰められるから歌詞を追加する必要があるのと主語をハッキリさせる必要があったために、そこで新たな描写が増えていて「僕」の主観がより顕著になっていたと!!
そういう解釈…であってるよね?
いやこれめちゃくちゃ楽しいわ、こんな楽しい会話ができる素敵な方、君しかいないわ〜!!本当に付き合ってくれてありがとう!!
あと主語ありきの話で言うと、よくよく考えると日本語だと少なくとも歌詞の世界の中では君と僕に性別は設定されてない(想定されているかもしれないが明言はされていない)のに対して英語版だとSheと少なくとも「君=女性」と確定しているのもなんとも言語の特徴が表れてるな〜って感じました。
なんかもうちょっと情緒というか、三人称に性別の明確性を持たない言葉があればいいのにね〜ってちょっとだけ思った、蛇足だけど。
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友人
そうだね、多分能動的だなって感じるのは、
英訳版が主語が明確じゃない部分でさえも主語を明示的にしてるのと、
拍の量と文化的に「僕」の描写を若干足してるからだと思うんだ。
というのも追加された「僕」の描写や純粋な日本語の訳を考えたときに、
英語に直した時にやっぱり誰の話?というか
誰が動いてるのかが顕著に足りない気がするんだよね。
君のいう通り、
歌詞に「二人」という表現がいくつも出てきて、僕と君から視点が離れてるけど、
日本語では感覚的と前後の文章で君と僕 (you and me)の話をしてることがすぐに分かるじゃない?
英語だと both of them, both of you, two people, both of us, theyとか選択出てくると思うのよ。
でも現実的にboth of them, both of you, two people, theyは、
この場合の「二人」の代わりにはならないし、
で、ご指摘のyou and me are running ~は言葉を顕著に受け取ると、
すでに夜の中を走ってるわけだから、
”I’ll take you”を入れることで「駆け出し」感? 今始まる感を演出してると思う。
駆け出すきっかけを作ってるのは僕だし、主語ないと今から始まる感が今ひとつになる気がする。
あと、蛇足の君がsheになってるのは、やっぱり主語抜きにできないし、
無理くり主語抜きにして、受動態とか使うと情景がボケるからでは?
最近はLGBTQ+の台頭によって、
theyを三人称単数でも使われることも出てきたのね。
(sheでもheでもないノンバイナリーの方もしくは性別が分からない人等場合はthey)
でも、まだまだメインストリームな使い方じゃないし、
ここでtheyが使われたりしたら、きっとどこか”LGBTQ+”を意識してると思われそうよね。
一瞬大学の談話分析とか思い出しちゃったけどw、すごく楽しかった!
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数年ぶりの対話でここまで付き合ってくれる友人神かよ…。
そんなこんなで久しぶりの会話が割と弾んでしまい、なんだかもっとたくさんの意見を聞いてみたい!と思い今回投稿をしてみた次第です。
YOASOBI「Into the night」を聴いて、皆さんはどんなことを考えましたか?
個人的にもう少し掘り下げてみたいな〜って感じているのは、
・「日本語らしさ」とは何か?(発音をどこまで崩しても「日本語」として認識されるか?)
という点ですね。
似たような試みをしたのは
COLTEMONIKHA「そらとぶひかり」
https://music.apple.com/jp/album/natural-lips/1538259833?i=1538259836
あたりかと思いますが、なんか言語学に詳しい方いらっしゃったらご教示頂けたら幸いです。
長文ご覧頂き誠にありがとうございました。