「ポストモダン」を含む日記 RSS

はてなキーワード: ポストモダンとは

2020-08-26

anond:20200826113520

自然哲学とは自然科学に敗れた亡霊が湧いて出たか。おおかたポストモダンの怪しげな輩の呪いであろう。

我ら言語学幕府貴様らのような旧弊はもはや不要! 者ども、切り捨てい!

2020-07-26

ヘイトブコメへの擁護がひどすぎる

何回でもいうけど卑屈な奴のそばには誰も居たくねえんだよ。他人を見下さず、笑顔を絶やさず、背筋伸ばして、元気に声張って生きろ。難しく考えるのはやめろ。筋トレとか女慣れとかじゃない。人間として真っ当になれ

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20200724163613へのトップブコメになったのがこれである

内容のひどさには改めて触れないが、このブコメに対する擁護コメントhttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/b.hatena.ne.jp/entry/4689047200149897538/comment/Mirocにて散見されたので反論する。


こういう現実的な指摘に対しては一斉攻撃で癇癪を起こすのに、一方で指摘されているような「卑屈な」人間同士ですら寄り添おうとしないという現実男性孤独死の多さに繋がっているのだろうな…

「真っ当な人間になれ」というのが「現実的な指摘」ですか?単なる中傷以上の何なのでしょうか?また、それに対する批判を「癇癪」と形容するのは、例えば女性差別を指摘した際に「フェミがファビョってるwww」と馬鹿にすることと全く同じですよね。

これに否定的ブコメつける人たち、言葉尻つついて揚げ足取ってるだけに思える。自分に自信が持てるようになることと交際相手を求めることは両輪の部分もあるとはいえ原則、前者のほうを先に満たすべきだと思う。

まりあなたは「自分に自信を持ってから交際相手を求めるべき」、つまり「自信のない人間交際相手を求めるべきではない」と言っているのですよね。それはおかしくないですか?悪いのは交際相手を利用して自尊心を満たすことで、自信がない人間にも交際相手を求める自由はあると思います

こんな小学生道徳並の話ですら否定する人間がいるのがポストモダン

他人を見下さず、笑顔を絶やさず、背筋伸ばして、元気に声張って生き」る人だけを「真っ当な人間」とする価値観小学校の授業で教えるべきでしょうか?確かにそれぞれの要素は他者から好意的に受け止められやすいとは思いますが、そうでない人間否定されるべきではないでしょう。

女性はこの辺「プリキュア」期から言われるけど、男性放置なのは気になっている。この辺の精神成熟がないと他人なんて愛せないから。子育て担当が女しかいないのはこういうのも問題なのよ。成長時期が違うから

女性は小さいころからこのような価値観押し付けられているのですか。そうであれば変えるべきは女性への押し付けであって、「男性にも擦り込むべき」ではないですよね。また、これを「精神成熟」と表現するあなたは、元増田を見下しているのではないでしょうか?

とりあえずスターの多くついたコメント掲載したが、全体として「人間として真っ当になれ」の一文を都合よく読み飛ばしているように感じられた。

前半でどれだけ正しいことを言っていようと(前半もそれほど正しいとは思えなかったが)、この一文が入っているだけですべて台無しになるのにどうして無視できるのか本当に不思議である

2020-06-25

anond:20200625145255

イタリアでもホモでありたい」のホモに抗議があるということで

「もホモ」がいけないとし、一文字の変更で可能な改変を探ったところ

の二つとなりました。

についてはポストモダンとかよくわからんということでなし、

意図がわからぬということで数えませんでした。

2文字改変としては

「は?は」に可能性を見出しまして

の三つが可能かと思われます

2020-05-12

anond:20200511081541

一般はもちろん、オタク界隈でも大ブームになったとは言い難いはずだよな?

エロゲ一定の評価を受けたのはゼロ年代ネット空間における、評論においてではないか

ここら辺のルーツはまず、西洋人を真似て芸術評論してみようとした

浅田彰らの批評空間が、ベースにあるはずでそこの影響を受けて、大塚英志東浩紀オタク文化評論をしてる。

一方で別の文脈オタキング同人誌における作品評論もあって、

彼らはフロイト精神分析民俗学を用いて(解説書・新書レベルだが)、評論を行っているので近親交配のように

批評空間の流れに合流していると思われる。

指摘しておきたいのは、上述の流れは偏差値65以上の人たちと50~65の人たちが合流しているのであって

50未満のオタクたちは、かなりのボリューム存在しているであろうに取り残されている。

(こういった背景が、なおざりにされているので、質アニメvs美少女動物園という対立軸

最近オタクルーツを探らない論に通じてしまっているのがあると思う)


で、重要なのは芸術評論というのは、実は人文エリートの中でもトップクラス作業領域

実家が太くて、曾祖父の代やそれ以上から文化資本潤沢な、文化貴族のやるもんなんだよ。

西洋で言えば、フロイトやT.S.エリオット、W.H. オーデンみたいな人たちね。

こういう人らは学術用語ぶん回して評論するとかしなくて、すごいハイコンテクスト

「青、いいよね」をさらに嫌らしく発展させたような、言語ゲームをばりばり行う人たちなので

上述の浅田彰等々でもくらいつくのは、すごく難しい領域なんだな。


でも、一応は日本人としてもそれを真似してみたいという欲求はあるわけだ。

ここで登場するのが、大塚英志東浩紀薫陶を受けたポストモダン

この哲学思想において、これまでメジャーとされた文学価値観より

マイナーとされた文学価値観も光るものがあるぞ!って流れが強く打ち出された。

こうして、評論したい欲求マイナーから価値抽出してやるぞって意気込みが合わさって

エロゲーを評論しようって流れが、一時的とは言えど生まれたのだと俺は考えている。

2020-04-30

anond:20200430175615

いや、皮肉のつもりだろうけど、そうなんだよ。同じなんだよ。

ネトウヨが発生するのも楽しいからだし、ワイドショー不倫を叩くのも楽しいからだし、安倍批判が盛り上がるのも楽しいからだし、悪を倒すヒーローショーを子供が見るのも楽しいからなんだよ。

 

お前は、その中でも、特に理想的と考えられる正義だけを「正義」と認定したいと言っている訳だが、ポストモダン以降の相対主義極致では、客観的正義は決めれないんだよ。「正義」は「お前個人正義と思っている内容」や「今の社会法律たまたま正義と決めてる内容」となってしまう。

いじめが起きるのは、コミュニティに悪いとされた誰かを社会から排除するのが楽しいからなんだよ。

 

(なおパチンコスマホは、いじめ以外にも楽しいことがあるという話で、むしろいじめを考えるときにはプラス要素だ。)

2020-03-20

現代哲学

古代哲学現代哲学は違う。

それは古代の人々の直面していた問題と、現代の人々の直面している問題が違うからである

同様に西洋哲学東洋哲学も違う。

もっと極端に言えば、2011年3月11日以前の日本哲学2011年3月12日以後の日本哲学も異なる。

そして新型コロナウィルス騒動以前の哲学と以後の哲学も異なるのである

それだけでなく、労働者哲学経営者哲学も異なる。

哲学には普遍的な真理はなく、時代地域社会階層によって異なる真理があるだけなのだ

現代哲学ポストモダン哲学という言葉は、その事実部分的に表している。

2020-03-15

anond:20200315225052

俺はポストモダン特有文体が好きだから読んでるだけで

ポストモダンが正しい」とは思ってないよ

anond:20200315223919

俺はソーカルドゥルーズラカンも読んだけど

ソーカル電波度が足りなくて面白くないか

ドゥルーズラカンだけ読めば問題ないよ

ポストモダンは「正しい/正しくない」ではなく「面白い/面白くない」の評価軸で評価すべき

2020-03-05

anond:20200305061410

バブル期珍妙オブジェとかポストモダン建築とかけっこう流行ったんだよ

ただ単に「金がなくなって"あえて"変なもの出資してくれる奴がいなくなった」

というミもフタもない状態可能

2020-02-23

anond:20200222045511

オタク特有純愛至上主義処女厨の裏返しだと思ってる

学生時代に、白いワンピースと麦藁帽子黒髪ロング少女ひまわり畑でデート」的な行為が出来なかった

そういうオタク恋愛文化カップル文化貶める行為快感を得るように倒錯した結果じゃないかな?

NTRスキー寝取られ彼女の姿ではなく、その向こう側にある「恋愛至上主義」をレイプする事に興奮しているんだよ

ゼロ年代ポストモダン言論

2019-12-21

anond:20191221012849

人間それぞれがそれぞれの島宇宙帰属し、島宇宙間では交流がないために断絶が起こる……ってのはかつてポストモダン論なんかで結構語られてたよね。

2010年代も終わろうとしてる現在、あの頃の言説はピタリと当てはまってるように思う。

2019-11-15

anond:20191115102850

ポストモダン

極左から転向しつつ、右寄り保守を再評価して

また資本主義マンセーでないつつも、市場商品サービスへは一定の信頼を置く。

できるだけ、美味しいとこどりをしつつ、責任を取らず、あらゆる対象批判する。

有名どころは、浅田彰東浩紀だろう。

このはてな村で言えば、Midasを筆頭とした連中。

2019-11-09

anond:20191109095513

全く逆の話で、統計を持ち出せば疑似相関じゃない?とか議論できるんだけど

北欧とかイギリス出生率いから、先進国では男女平等になれば出生率が上がる!も結局時系列考慮すると

から男女平等じゃない国が、男女平等を達成しても無意味!ってなったし)

統計を持ち出さないとそのスタートラインにも立てないという、当然の話なんだよなあ・・・

なんとなくノリで決めちゃうのは最悪なんだけど、そうしたい人が一定数いて、その人にはポストモダンみたいな過去遺物が都合がいいから使ってるという

anond:20191109093549

どうしてもフェミがすごい昔のポストモダンとか、ああいポエムっぽい概念ベースにしてる以上

統計ポルノ特に悪影響がない、男性の未婚率、女性幸福度出会い系サイトモテ格差・・・)とか

進化論ベース心理学人間だけでなくヒヒでもアカゲザルでもオス・メスで関心を持つおもちゃが違う、女性の選好、猿のオスメスで行動違うのは当然だろ?)とか

持ち出されると、かなり不利なのが無意識にわかってるんだろうなあ・・・

2019-11-04

anond:20191104142158

Cornellの議論は、ポルノグラフィ危害を認める一方で、ラディカル・フェミニズムの主張するような形での危害を相対化する。「さらに言えば、マッキノンによると、ポルノグラフィ男性レイプへと駆り立てることによって産業の外においても女性への直接的な暴力を引き起こす原因になるという。これから見ていくように、私はポルノグラフィの直接的効果としてレイプ輪郭づける因果モデルの適切性を疑問視する。……私は原因―結果モデル自体に関して疑問を呈したいのである。これほどまでに複雑で多層的に象徴が刻み込まれているセクシュアリティ世界でこのようなモデルを使うことは難しい。しかし、このモデルはドゥウォーキン/マッキノンの条例案の基礎として決定的な意味を持っているのである」 。実際に、McKinnonのポルノグラフィ観は、その表象性を(意図的に)無視したものであり、その点について法による規制という強力かつ一方的手段を用いることには強い疑問がある。「……しかし忘れてはならないのは、ポルノグラフィーは、「グラフィー」という接尾辞が示すように、何よりもまずひとつ表象、ひいては表現作品で……ある。人種差別と同列に語りうるのは性差別であってポルノグラフィーではない(性差別は様々な形をとりうる)。ところがマッキノンらにとっては、結局のところ、ポルノグラフィーと性差別同義語なのである彼女らが、ポルノグラフィーにおいて重要なのはそれが「する」ことであって「いう」ことではない、行為であって思想ではないと、ことさらに強調するのはそのためである。……ある表現物が「いう」ことは、なにも(一義的な)「思想」や「メッセージ」に限られるわけではない。言語というものは、自然言語であれ映像言語であれ、ある奥行きをもった立体であり、そこには多重な意味作用が畳み込まれうる……。マッキノンらの議論は、……ジョン・R・サールが「間接的言語行為」と呼んだような現象をいっさい捨象した議論である」 という批判は、言語行為の間に明確な区別を設けずに、ポルノグラフィ性差別のものであるという一種イデオロギー依存した議論に対する批判のものである

もちろん、McKinnonらの条例案は、ポルノグラフィという言葉制限的に定義することによって、そうした一般的議論ではなく、特に女性に対して酷薄もののみを定義域に含めている。しかし、それですらなお表象問題は不可避であり、言語行為限定なく同一視する立場には、疑念がある。まして、直接的効果が後年の研究によって疑問視されている状況にあって、規制根拠果たしてどこまでの力を持つといえるだろうか。仮に、McKinnonの主張がなされた当時においてそうした言語行為が一致するような時代的状況が存在したということを承認したとしても、その射程は現代日本には必ずしも及ばないだろう。つまり日本におけるポルノグラフィ製作必然的にそうした女性虐待表彰ではなく行為として含み、またそうして製作されたポルノグラフィ表象必然的に(fuckerとしての)男性レイプに至らしめ、(fuckeeとしての)女性従属化を固定化する構造を持っているということが実証的に明らかでない限り、法による規制という手段は困難であろうと考えられる。

また、Cornellの依拠するポストモダンフェミニズムは、立場としてのポストモダン主義を前提としており、そこでは、男性性/女性性といった二項対立的な概念整理はそれ自体批判対象となる。McKinnonらの議論は、女性解放というフェミニズム根底目的に対して、一定文化コードとしての女性性を再定義し書き込むものである、というのがCornellの分析である。そしてこれは、ポストモダニズムコミットするか否かというメタ的な問題を抜きにしても、汲むべきところのある議論であろう。つまりポルノグラフィ規制根拠として、加害者/fuckerとしての男性被害者/fuckeeとしての女性を暗黙裡に前提し、それを基盤として提示される議論は、必ずしも現代において盲目的に首肯されるべきものではないというところである

そもそもポルノグラフィは、男性のみによって消費されるものではない。これは、少なくとも現代日本においては議論に際して念頭に置かれてよいことであるように思われる。レディースコミックと言われるジャンルは、1980~90年代ごろから女性向けの(広義での )ポルノグラフィとして書店に並ぶこととなった。また、同人誌として、いわゆる「やおい本」や「BL」というジャンルもこの頃から一定勢力として存在していた。これらは全く女性使用し、消費することを前提に(そしてその多くは女性たちの手によって)制作されたものである。ここでは、ポルノグラフィ概念として当然に前提されていた男性消費者ということさえもが相対化されている。それは、女性性的欲望セクシュアリティがfuckeeとして規定されていたこから解放であるとも評価できるのではないだろうか。そこでは、主体として性的願望を抱く女性が前提されている。ここでは、主体-男性/客体-女性というメタ二項対立接続否定されている。これは、ポルノグラフィ危害論において、根底を掘り崩す事実であるのではないか、と考える。これに対して、メインストリーム男性製作し、男性が消費するポルノグラフィであるという反論はまた、十分に考えられる。しかし、仮にメインストリーム男性向けであって、女性けがサブストリームであるという主張を容れたとしても、なおポルノグラフィ必然的に男女を社会的構造化し、差別を直接的効果として助長し、あるいは引き起こすものであるという根本主張は、強く相対化されたものとしてとらえられなくてはならなくなるということは言ってよいように思われる。

4. 結び

前章において、ポルノグラフィの及ぼす危害について、その直接性が少なくとも現代日本においては相対化されるべきであることを示し、また、McKinnonやDworkinの議論それ自体に潜む女性性のコード化はフェミニズムの本義からしてなお批判可能性を有するものであるというポストモダンフェミニズム見解を紹介した。そのうえで、表現の自由という価値原理ポルノグラフィに対していかに向き合うべきかということを簡単に整理する。

日本において、表現の自由の価値は高く見積もられる 一方で、定義づけ衡量のもとでポルノグラフィを含む一定表現について規制肯定する。そして、ことポルノグラフィにおいてはそれが善良なる性風俗や最低限の社会道徳の維持という目的のもとに正当化されてきた歴史判例上有する。McKinnonらの議論において革新的であったのは、ポルノグラフィ規制道徳的な問題と訣別し、女性に対する危害の面から規制検討されるべきである、ということであった。この指摘は、法と道徳可能な限り切り分けようとする立場をとるならば高い妥当性を持つものであり、その危害現実的に認められる限りにおいて表現の自由に対する制約は当然に許されるものとして考えられる。しかし、この危害に関しても、「(リューベン・)オジアンの著作[ポルノグラフィーを考える(2003):筆者註]は、ポルノグラフィーに対する道徳哲学の立場からアプローチであるという点で注目に値する。彼は、ジョン・ステュアート・ミルの「危害原理harm principle」……の流れを汲む自身の「最小倫理éthique minimale」に基づいて、ポルノ規制正当化する議論……に反駁している。ポルノグラフィーがもたらすとされる「危害」について、オジアンが反ポルノフェミニストとは大きく見解を異にしていることは容易に想像できるだろう。興味ぶかいのは、オジアン同様「善」ではなく「正義」の問題として……ポルノグラフィーをとらえたはずのフェミニスト議論すらじつはある「善」概念を暗黙裡に前提していると彼が指摘している点である」 という指摘がある。つまり特定の善概念に基づいた特殊的な危害が主張されているに過ぎないのではないか、ということである。例えば、守旧派的なキリスト教における「善」の概念同性愛を悪と断じたことを考えれば、一定の善が前提されたうえで主張される危害は、相対化してとらえられるべきであろう。

こうした危害についての理解は、法規制についてネガティヴであるさらにMcKinnonらの主張には逆行することとなるが、むしろその主張における「道徳から危害へ」の転換は現在規制すら過剰なものであるという結論への親和性を有している。もちろんこれは、女性に対してポルノグラフィ制作現場において発生する暴力虐待を許容せよということを決して意味しない。むしろ、そうした事態が発生した場合に、適切に法が救済を与えることは、考えるまでもなく必要なことである。そのためにいかなる手段妥当であるかが問われるべきではないだろうか。

一部のフェミニストが主張するように、ポルノ出演や売春を含めたセックスワーカーである女性が、法規制対象となるのではなく、むしろつの職業」そのものであり、合法であるという社会的及び法的な認知必要となるのではないだろうか、と考える。それが社会的正業である認知されることは、その「職場」におけるハラスメント虐待を看過しないことにつながりうる。問題が発生した場合に、自らの「クリーンハンド」において司法の救済を要求することが可能となる。そして、そうした「解放」は男女(あるいは性的少数者性)を問わずに自らのセクシュアリティに対して真剣に向き合うことを要求する。それによって、直接的は生じないものの、間接的にあるいは無意識的に発生しうる「危害」は社会的に相対化されうるのではないだろうか。

以上のポルノグラフィ規制緩和論が、法が向き合うべき一つの筋道ではないだろうかという主張をもって、本レポートの結びとする。

参考文献

キャサリン・マッキノン,アンドレア・ドウォーキン中里見博,森田成也訳「ポルノグラフィ性差別」(青木書店, 2002)

・ドゥルシラ・コーネル仲正昌樹監訳「イマジナリー領域」(御茶の水書房, 2006)

大浦康介編「共同研究 ポルノグラフィー」(平凡社, 2011)

キャサリン・マッキノン森田成也ら訳「女の生、男の法」(岩波書店, 2011)

スーザン・J・ヘックマン著 金井淑子ら訳 ジェンダーと知 : ポストモダンフェミニズムの要素(大村書店,1995)

お前らは全員フェミニズム理解していない

献血ポスターの件でまたあちこち燃えているけれど、フェミニズムについて両陣営がよく理解していないまま戦争しているなあ、と考えていたらふと学生時代に書いたレポートを思い出したので供養しようかと思う。

これは「ポルノグラフィ法規制」に対してのフェミニズム観点テーマであって今回の件とは必ずしも直接は関与しないが色々なところが補助線として使えるのではないかと思うのでもし議論の整理に何らか役立てば。

字数が切れていたので分割。

anond:20191104142158

以下本文

----------

1. 問題設定

レポートでは、ポルノグラフィとその法規制について、いくつかの観点から検討する。ポルノグラフィは、フェミニズム運動の中でリプロダクティヴ・ライツやセクシュアル・ハラスメントなどと並んで一定地位を占めてきた。一方で、その規制は、日本国憲法21条や米国憲法修正1条にいう表現の自由と正面から激突するものでもある。本レポートにおいては、日本国憲法の射程に限定しつつ、これらがいかに衝突するものであり、どう分析されるべきかを簡単に整理することを目標とする。

2. ポルノグラフィ定義

最初検討されるべきは、規制対象たりうるポルノグラフィいかなるもの定義されるかということである。もちろん、いかなる性的描写ポルノグラフィであって規制対象たりうる、という立場自体不可能ではない。しかし、表現の自由が強く保障されることを前提としたときに、容易には首肯しがたい立場であるということは言うまでもない。表現の自由への制約は可能な限り小さくなくてはならないというのが前提であるとすれば、規制対象となるべきポルノグラフィもそれ自体また狭く定義される必要があるであろう。

まず、一般的ポルノグラフィ定義について俯瞰する。いわゆる四畳半襖の下張事件において、「わいせつ性の判断に当たっては、文書全体としてみたとき、読者の好色的興味に訴えるものであるかどうか否かなどの諸点を検討することが必要で、これらの事情総合し、その時代健全社会通念に照らして、チャタレー事件で示したわいせつ要件に該当するといえるかどうか判断すべきである」という判断がなされており、わいせつ要件(通常人羞恥心を害すること、性欲の興奮、刺激を来すこと、善良な性的道義観念に反すること)をベースとしたうえで、社会通念に照らして文書等のわいせつ性が判断されるという判例を構築している。

判例立場は、わいせつ性が前面に出ているのか否かという観点を取り入れることによって性的対象を扱った作品であっても、芸術的価値の高さなどに応じてわいせつ物該当性を認めないという形で一定の制約を設定しているといえる。ここには、表現の自由との緊張が見て取れる。つまり本来性的表現であっても、直接他者危害を与えるものでない限り、国家によって自由を制約されるべきではない。しかし、わいせつ該当性があるならば、例外的規制することが許されるとしていわゆる定義づけ衡量を行ってわいせつ図画を規制しているものであるといえる。

一方で、Andrea DworkinやCatherine McKinnonはポルノグラフィいか定義たか。それは、実際に彼女たちが起草した反ポルノグラフィ条例に見て取れると考えられる。ミネアポリス市の反ポルノ条例第三条 は、「ポルノグラフィとは、図画または文書を問わず写実的描写され、性的にあからさまな形で女性従属させるものであり、かつ次の各事項の一つまたはそれ以上を含むものを言う。(1) 女性人間性を奪われた形で、性的な客体、もの、または商品として提示されている、(2) 女性苦痛や辱めを快楽とする政敵対象物として提示されている、(3) 女性レイプされることに性的快感を覚える性的対象物として提示されている、(4) 女性性が縛られ、切りつけられ、損傷を加えられ、殴られ、または身体を傷つけられた性的対象物として提示されている、(5) 女性性的服従姿勢提示されている、(6) 女性が、その身体の部位……に還元されるような形で示されている、(7) 女性が生まれつきの娼婦として提示されている、(8) 女性がモノや動物によって挿入された状態提示されている、(9) 女性が、貶められたり、傷つけられた李、拷問されたりする筋書きにおいて、汚らわしいものないし劣等なものとして、または出血したり、殴られたたり、傷つけられたりして描かれ、かつそれらの状態性的ものとする文脈の中で提示されている」と詳細に定義している。最高裁判例の打ち立てた上記基準と比べるとこれは、はるかに明快である

ところでこの二つの定義には、その明確性を超えて、根底的な部分でのポルノ観の相違が明々白々と見て取れる。これは、ポルノ規制日本において考える際にも重大な差異であると考える。

最高裁におけるわいせつ概念定義は、三要件を用いたその定義から明らかに社会的性道徳、善良な性風俗といったもの保護対象としている。つまり、過度に扇情的ポルノ作品市場に氾濫することで、社会を成り立たせている道徳基盤が破壊されることを防ごうという目的である。いわゆるチャタレイ事件控訴審における判決理由中の「かゝる文書猥褻文書として排除せられるのは、これによつて人の性慾を刺戟し、興奮せしめ、理性による性衝動制御否定又は動揺せしめて、社会的共同生活を混乱に陥れ、延いては人類の滅亡を招来するに至る危険があるからである」という文章は、まさにこの懸念わいせつ文書規制するべき理由であるということが念頭に置かれているものであると考えられる。

ミネアポリス市かいくつかの都市で起草された条例は、こうした目的のもとにポルノグラフィ規制しているのではない。それは、McKinnonらの論文や、また、条文そのものから明白である。ここで、ポルノグラフィはまさしく「女性差別」そのものとして認識されている。

ポルノグラフィは、女性を隷属させ、性的対象化objectificationするものである、とラディカルフミニストたちは考える。つまり、「ドウォーキンはいう。『女性従属においては、不平等のものがセクシュアルなものにされる』。マッキノンも次のように述べている。『ポルノグラフィーは女性の不平等をセクシュアルなものにする。それは女性の不平等セクシーものに仕立て上げる。それは、言葉の最も広い意味で、支配服従をセクシュアルなものにする』」 。

ここで、ポルノグラフィに対する定義が、二方向のアプローチを有しうることが示されている。つまりポルノが消費されたときに、社会倫理的道徳的にどのような影響を受けるかという観点と、道徳観点を一切取ることなく、ポルノの中で女性がどのように扱われているか、またポルノを消費する男性女性に対してそれを再演することでどのような危害が生じるか、という観点である

Millの提示した危害原理を素直に適用する限り、後者観点の方が規制根拠としては明らかに優れている。前者において、明白な危害存在していない。先に引用した人類滅亡論などは、まさしく論理の飛躍であろう。一方で、後者アプローチをとるならば、それが証明される限り、実際の危害が生じていると言える。これは、いか表現の自由価値絶対視し保護するとしても、しかしそれを規制する十分に強力な根拠たりえる。次章では、ここで主張される危害について検討する。

3. ポルノグラフィ危害

ポルノグラフィが「危害」を有するものであるならば、それは表現の自由を主張してもなお規制に当たることは言うまでもない。表現の自由に対して強く保護を与えることを主張したアメリカのOliver Wendell Holmes Jr.判事であっても、満員の劇場で「火事だ!」という嘘を叫ぶことをいかなる表現の自由保護しないと明言している 。また、実際にポルノグラフィ一般的危害を生ぜしめないとしても、上記の条文を見るに、発生しうる危害から逆算的にポルノグラフィ定義されており、これは限定列挙であると考えるべきであろう。

もっとも、注意しなくてはならないのは、ここで挙げられたものは、危害を「創作」したものまで範疇に含まれることである。つまり女性傷害を受けるという「現実」の存否にかかわらず、そうした創作は、ポルノグラフィとして定義される。そうした映像が、現実における傷害と必ずしも一致しないことは、あらゆる劇作の前提である 。そして、実際に生じた傷害については、こうした条例法律にかかわらず民事上、刑事上の責任を負わしめることが可能である

危害がどの広さで認識されるべきかということについては、確定的な見解はいまだ存在しないものと考える。元来はMillのいう危害原理、すなわち身体的な危害を指していたものであるが、現代的にはこれを精神的(に深刻)な不快の限度にまで拡大した不快原理offense principleと言われるものまで提唱されている 。もっとも、身体的な危害については明確で客観的基準の定立が可能である一方で、主観的不快およびその深刻性については、客観的判断が困難であり、現行の法システムに馴染むのかという点で深い疑義がある。

ラディカル・フェミニズムの主張する「危害」がそうしたグラデーションの中でどこに位置するものであるかは、詳細な分析必要とする。McKinnonの言明する危害は、ポルノグラフィはそれ自体性差別であり、それによって女性従属化されるということである。そして、そのポルノグラフィ撮影において、また、ポルノグラフィが再演されることによって、女性は「縛られ、殴られ、拷問され、貶められ、時には殺される場合さえある。あるいは、単に犯され、使用されている。視角ポルノに映し出されているあらゆる行為のために、女たちは実際に、縛られ、切りつけられ、焼かれ、猿ぐつわをはめられ、鞭うたれ、鎖でつながれ、肉吊り棒や木からロープで吊り下げられ、あるいは、……放尿させられ、排泄物を食べさせられ、ウナギネズミナイフピストルで貫かれ、喉の奥までペニスで侵され、血や泥や糞便や精液で汚される。……ちなみに、膣にペニスが挿入されるという意味での性交は、そこでは副次的テーマに過ぎない」 。すなわち、ポルノグラフィは、男性女性に対する性欲そのものが充足されるためのものではなく(それは副次的テーマに過ぎない)、もっぱら女性に対して暴行を加え、二級市民化することによって従属せしめることが目的とされ、そのためのプロパガンダとして成立しているものであるとされる。「ポルノグラフィ女性憎悪純粋蒸留物であり、女性経験の中でレイプ女性殴打、近親姦強制売春と結びついている。そのことを考えるなら、ポルノグラフィ擁護して発言する自称フェミニストがいったいいかなる道徳的・政治的原則にもとづいているのか、とうてい理解することができない」 と彼女は断言する。

実際にこれらが物理危害として発生しているのならば、それは全く看過することのできない危害のものであり、規制はされてしかるべきものであるしかし、これらは実際の刑法典、民法典の規定によって補足可能ではないか? という疑問が生じてくる。McKinnonはこれに対して、現実にそうした摘発がなされていないことをもって実質的に法は存在せず、それゆえ国家及び社会ポルノグラフィ公認していると見做される旨主張する。

McKinnonの熱烈なポルノ批判に対し、Drucilla Cornellはポストモダンフェミズムの立場のもと、一定距離を置く。「私たちは、ポルノグラフィ生産に対してとられるべき法的行為措置を、ポルノグラフィの配給に特化してとられるべき行為措置から区別すべきである。私は、この区別が、ポルノワーカーを含めた女性たちが、人格となるプロジェクトを引き受けるのに十分なだけ自己を固体化していく、というフェミニスト目的根本的に寄与すると主張する。この産業女性たちを連帯に値しない不幸な犠牲者として扱うことは、彼女たちの基本的尊重を拒絶することである」 という言葉は、ポルノワーカー女性について、「ポルノグラフィに出演している女性の多くは、子どもとき性的虐待の被害者であった。……自宅から性的虐待を逃れて都会に出てきた子どもたちは、そこでヒモに拾われ、レイプされ、殴られ、麻薬づけにされ、売春ポルノグラフィ従事させられるのであるポルノグラフィに出演している女性の多くは貧しく、たいてい教育を満足に受けていない。ポルノグラフィ存在している社会は、女性経済的に不利な立場に置かれている社会である」 と記述するMcKinnonらを批判対象としている。Cornellはさらに、「私は二つの特殊フェミニスト的な理由からポルノグラフィ規制法律に過度に頼りすぎることに対して懐疑的である第一に、反差別法の基礎としてステレオタイプ女性性を強化すべきではない。言い換えると、キャサリン・マッキノン仕事のように、女性を「ファックされる者 fuckee」か犠牲者に切り詰めたうえで、そのような存在としての女性に対する保護要求するような、文化的コード化された女性性を促進するような法はいらない。そういうわけで私は、マッキノンやアンドレア・ドゥウォーキンのそれのような、ポルノ規制の適切な法的手段としての市民権条例案を拒否する」 と言う。

2019-11-03

anond:20191103164229

最近フェミネトウヨが似ている理由がわかってきた。

科学に対する態度が恣意的適当なところと、制度や習慣に対しても敬意をもっていないし、

神や神秘においても横柄な態度しか取っていない。

天皇恩赦ときに、天皇制を功利主義観点しか評価していないネトウヨがわんさかいた)

認識論哲学伝統的に、客体という概念はそうそう生身の人間が扱える代物じゃないのに

フェミの性倫理文脈だと性的客体化とかいう謎の概念が当たり前のように登場する。

科学哲学にも意図的距離を取ろうとしているみたいだし、そりゃ歴史修正主義ネトウヨ

フェミ距離感も縮まって当然だよなって感じだ。

結局どちらもポストモダンの申し子で、既存の仕組みや構造に対して

否定性をひたすらぶつけるだけで、いわゆるダメポストモダンダメポモの人たち。

2019-11-02

物語喪失彼岸

中島: ポストモダンというのは基本的に「色即是空」としか言っていない。

仏教はそこから空即是色」としてこの世界を引き受けようとするところがある。

ポストモダン的に言うと、すべてのものには本質根拠意味なんかなくて、単に名前をつけられた存在にすぎない。

から脱構築して宙吊り状態で生きろと。

でも仏教は、であるが故にこの世の中をどういうふうに引き受けるのか、この現世の中で意味ある生を生きていくのか、その精神をもう一度問う。

そこがポストモダンを乗り越える一つの入り口になるんじゃないかと思ったんです。

http://technique.hateblo.jp/entry/20110602

色即是空というとニヒリズム的な響きがあるが、ニヒリズムといえばニーチェである

科学的知性や理性によって神を殺した我々は、もはや神によって与えられた生きる意味価値を信じることはできない。

そうして無意味になった人生に対して、彼はニヒリズムの打倒を叫び、生の肯定要求した。

大乗仏教色即是空から空即是色へという流れはこれに似ているようにも思える。

しかすると次のようなことが言えるかもしれない。

仏教とは、あらゆる物語を剥ぎ取った上で展開された思想である

色即是空的な宗教的真理に基づき、初期仏教上座部仏教は現世から解脱志向し、大乗仏教はあえてこの世界で生きようとする。

仏教物語喪失彼岸にある思想であり、神の死を乗り越えて生み出された価値である

もしこの考えが正しければ、仏教は一躍、現代思想メインストリームに躍り出ることになる。

西洋哲学ばかりでなく東洋哲学にも目を向けておくべきだな。

2019-09-13

BL要素は注意書きしてほしい

同性愛表現には注意書きをしてほしい

なるほど

別にその要望は構わない

でも、ならお前は率先してNL注意って言ってるんだよな?といつも思う

異性愛のほうがよっぽど気持ち悪いと、もし私が言ったら理解してくれるんだろうか?

苦手な人もいますよね、と注意書きをしてくれるか?腐女子百合豚がしているように?お前も?

同性愛に対する侮蔑は"正当"、

異性愛に対する侮蔑は"嫉妬"だなんて言わないだろうな

町中でイチャつくな、嫉妬乙?

うるさいよ、私は本当のことを言えば、三次元人間が異性同士でくっつこうが、同性同士でくっつこうが、特段興味はないが

絵本で、ドラマで、映画で、広告で、町中で、

異性愛は警告なしにいきなり飛び込んでくる

幼少期からそうだ、だから慣れている

私は黙ってそれを見ていられる

それをたまたま同性愛に触れてこなかった人間だけ、注意しろと喚けるなんて、なんて贅沢なんだろう?

誰が恋愛しようが構わないが、その態度にだけ腹が立つ

慣れろよ、お前も すべて許せよ、

もしくはすべて隠せ、恋愛のすべてを隠せ

異性を愛したい人間が、何故同性愛を認めないのだろうというのは疑問で仕方がない

異性を愛したいというのは、つまり異性は自分と同じ人間ではないとでも思っているのだろうか

差別対象と添い遂げようと思う意味がわからない

なんでかつて身分制度があったかって、より下を見なければ耐えられないからだろうけど

同じことだろ、結婚率を維持するために、性的分業をして、同性愛差別をして、独身を見下げて、そんなに努力しないと異性と結婚ってできないか

そんなに異性と過ごすのは苦行か

かわいそう

そうしなきゃ社会が存続しない?ふうん

不幸の上にしか成り立たない社会、滅べばいいのに

人を愛する心は素晴らしい?ふうん

「異性としか添い遂げられない社会」では、「異性同士も愛し合えない」の、わからないのか

自発権利行使イコールではないと言っている

「同性とは恋愛しない」「いい年になったら結婚する」のが「普通」なんて前提で、異性と結婚する道を"選択した"なんて、どうして言える?言えないだろうが

排反の可能性がない限りそれは選択ではない

どっちかにしろ案件、本当に不快

根拠がないからそんなことになる

偏見にしたってどっちかにしろ

差別、いいよしろ

差別だって自覚を持ってしろ

差別がいけないと思うならする

何が差別意識は無いだ

それが一番質が悪いんだよ

男性理性的」だから男性上級の職に就く」へえ

男性には本能がある」から男性痴漢強姦をしてしまう」へえ

どっち?

女性よりも高等なのですべて担います、もしくは本能も抑えられない低俗な生き物なので女性にすべて委ねますのどっちかにしろよせめて

どっちも間違ってると思うよ

思うけどせめてどっちかにしろ

ポストモダン脱構築もわからいか

それじゃ何時代に生きているつもりなんだろう?

ステータスばかり追い求めて

どうしたら本当に人を愛せるのか、

どうしたら自分自分であると言えるのか、

何を幸せと呼ぶか、より高品質幸せはって、

考えないの?なんで?

……どうして愛を求めて、幸せになりたがるのに、愛や幸せが何なのかは考えないで生きていられるのか、不思議だよ、私は

ゴールも知らないで走り続けて、

敵も知らないで刃物を振るって、

自分が傷付かないのか?それ。

私はみんなが何を考えてるか不思議しょうがないが、

「何考えてるんだ」と怒られる人間

総じて、何も考えていないんだよな

はあ 寝よ

2019-09-04

anond:20190904141139

傾向に意味はないとかいい出したら社会科学じゃなくて

本当にお気持ち学になっちゃうぞポストモダンでも持ち出すのか?

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん