はてなキーワード: 血液型性格診断とは
母親に
とかなんとか言ってて
俺が「そんなエセ科学を出してくんじゃねえ!」ってな感じのことを言ったら
とかなんとか言ってて、俺はこいつら馬鹿かとキレた(その場には妹もいたが話には出てこないので割愛)
とはいえ、俺もちゃんとした知識があって否定してるわけじゃない、ちょっと前に血液型性格診断が流行ったときに散々そういうのは否定されてただろ!!ってことを根拠にしてただけだ
(ちなみにそれを言うと性格は関係ないのはわかるけど、体質はまた別じゃんみたいなことを言われた、馬鹿か?)
仕方ないのでその場でネットで調べて
「ほら見ろ20年前にダダモって研究者の人がちらっと言っただけじゃないか、その後の検証じゃ否定されてるし、そもそもこの人も自信があって言ったわけじゃないっぽく論文すら出してないじゃねえか」
って話をしたのだが
「君はもう女の子の話に関わらないほうが良い」
なんなの?
それでじゃあおまえらもう(男女の)職業差別に文句垂れるなよ?みたいなことを言ったら
「それは関係ないじゃん」
なんなの
元増田は差別かどうかに言及しているのであって、差別が実際に行われているかどうか、差別が問題なのかどうか、痴漢が問題なのかどうか、ましてや痴漢が男女比どのくらいで被害者がどれくらいいて……みたいな話はすべて、関連する話ではあるけど別の話でしかない。
身を犠牲にしてトロッコに飛び込んでも暴走したトロッコを止めることはできない。
レバーを引くのは正しいことかどうか? ということだ。
もしかしたら、作業員がトロッコを避けられるかもしれないという人がいるのなら、
ではもし分岐の先はつながっていて、作業員が避けることができたらもう片方の分岐に戻ってきてそちらにいる作業員は轢かれてしまうとしたらどうだろう?
または、あまり政治的な問題を扱うのはふさわしくないかもしれないが、アメリカが原爆を投下したことで二次大戦が早く終わったということがもし事実だとして、それを認めることができるだろうか。一定の人数を犠牲にして多数の人間を救うことは正しいことか?
こういう質問を繰り返していって、自分の考え方をより厳密に確認していく(もしくは矛盾点を指摘する)ことがこの手の思考実験の目的の一つだ。
話を戻そう。
血液型性格診断なんてまさに差別そのものだし、あいうえお順にクラスの子供達をならべるのも差別と言えるかもしれない。名前は一般的に自分で選べない。
LBGTという言葉だって、その他の性的マイノリティを無視した差別的な表現なのかもしれない。
自分で選択していない国籍について日本人らしくとか言われるのも十分に差別たりうる。
あらゆる差別を語義通りに撤廃するのであれば、少なくとも今の社会生活は全く成り立たない。
(それと実際に不利益を被っている人がいることも関係がない。)
なぜならば、差別という概念自体が善悪とは別に存在しうるからだ。
現実的な問題として、様々な差別に苦しんだり具体的な不利益を被る人がいて、それをなくしたいというのは筋が通っている。
しかしその問題があまりに広範で捉え方にも差がありすぎるせいで、いつも恣意的なルールと各個人で異なるバックグラウンドを前提としてしまう。
元増田としては、そのあたりを整理するために問題提起したのだと認識している。
これを共通認識としない限り話を先に進めることができないからだ。
逆に言うと、これについて善悪論や感情論で反論する限り、女性専用車と差別の問題は少なくとも解決を目指すことは難しいだろう。
A型女子とO型男子は相性抜群、B型女子とA型男子は相性最悪…など
ABO式血液型が赤血球の表面にある糖鎖の違いで決まることを知っている者は、「そんなことで性格や相性が決まるわけないだろう馬鹿馬鹿しい」と思うだろう。
実際に現在の科学では赤血球の表面の糖鎖が性格を決定づけることは示されていないし、近年ではブラッドタイプ・ハラスメントなるものも登場したり、血液型性格診断を「信じない」人も増加しているように感じる。
しかしながら、今だに血液型性格診断が蔓延っているのはなぜだろうか?
私がアルバイトしている中でよくある会話から考えたことを記そうと思う。
私は大学生であり、アルバイトをしている。いわゆる水商売で、小さなスナックでおじさん達と会話を楽しんだりお酒を飲ませてもらったりしている。
話題が雑多なことは学部の友達と話している時と変わらないのだが、ひとつ感じるのが、スナックでは血液型に関する話が多いということである。
「信じていない」私にとって、最初は非常に受け容れ難く、学の無い人がする話題だと蔑むほどであった。もちろんお客様にもママにもそんなこと言えないが。苦笑いをしてやり過ごしたことが何度もあった。
ところがある日、新規のお客様に血液型の話をされた。普段だったら笑って適当にやり過ごすところであったが、話題に困っていたので血液型の話に乗った。30分近くはかせげたように思う。そうしてなんとかやり過ごしてお客様はお帰りになられた。
そこで私はこう思ったのだ。
血液型性格診断は話題の無いときに非常に便利である。信じていようが信じていなかろうが場は保たれるのである。
私が他の話題を生み出せる会話力の高いホステスであったならば、血液型の話をせずに済んだであろう。
似非科学というのはいつの時代もなくならないものだ。パッと思いつく例だけでも、血液型性格診断、ゲーム脳、環境ホルモン、水素水、マイナスイオン、等々、枚挙に暇がない。多くはマスコミによって支持され、テレビ番組で特集が組まれ、その科学的根拠があいまいにも拘らず世間に流布されて浸透する。テレビ番組などはあたかもその説を「検証」しているかのような映像を作り、怪しい肩書の専門家のコメントを添える。視聴者の多くはなんとなく「科学的に証明されている説なんだ」と信じ込み、疑問を持つことなく受け入れてしまう。一億総白痴化社会の完成である。最近はネット上で多くの意見を比べて読むことができるので、情報収集能力の高い人たちはそこまで騙されやすくないとは思うが、未だテレビや新聞が主な情報源である人たちにとっては、上述の似非科学が今でも信じていることが多い。特に血液型性格診断などは、宗教のように信じ込んでしまっている人も相当数いるだろう。
私も子供の頃はこれらの似非化学に騙されやすい人間だった。最近はほとんど見ないが、昔はテレビが娯楽の中心だったこともあり、夕食時などはよく見ていたものである。特に、捏造問題で打ち切られた「発掘あるある大事典」などは、親が好きだったこともあって毎週見ていた。その中で血液型性格診断の特集を何度か行っていたことは、今でも何となく覚えている。番組の中で「数名の幼稚園児を血液型別に分類してその行動を観察する」という検証が行われており、ものの見事にその血液型の特徴が行動として現れていた。見ていた私は「やっぱり血液型と性格には関係があるんだなー」とぼんやりと納得していたが、今になって思い返してみれば数名の幼稚園児の行動で結論を出すのは早急すぎるし、番組が「○型かつ××な性格」の幼稚園児を数名集めることなど造作もないことだし、そもそも集められた幼稚園児の血液型が本当に表示通りだと証明する根拠は何も無い。極めつけはあの「あるある」である。そういえば「あるある」はマイナスイオンの特集も何度かやっていた記憶がある。まあ、放送内容の真偽を検証するのは今となっては不可能に近いことだからやめておくにしても、心理学会において血液型性格判断の真偽は何度も検証されており、いずれも関連性を肯定するものがないことから、かの理論が出鱈目であることは疑いようがないだろう。
しかし、科学的価値は小指の爪の垢ほどもない血液型性格診断であるが、この似非化学が私に教えてくれたことが二つある。それは「人間は客観的事実よりも自分が信じたいものを信じる」ということと「何かを信じ込んでいる人間を説得しようという試みは大抵徒労に終わる」ということだ。付け足すなら、当時私はまだ純粋なティーンエイジャーだったので、「大人は平気でうそをつく」ということも学んだと言えよう。
私が初めて血液型性格診断を反証する意見に触れたのは、中学二年生のことだったと記憶している。当時別段読書が好きでもない(むしろ嫌い)だった私が、たまたま休み時間に図書館に立ち寄り、ふと目に留まった一冊の本を手に取ったのがきっかけだった。それは村上宣寛という方の著書『「心理テスト」はウソでした。受けたみんなが馬鹿を見た』(2005、日経ビジネス)という本である。新作であったこの本は本棚の上に表紙が見えるように立てられており、そのセンセーショナルなタイトルに興味を惹かれたのを覚えている。
10年以上前に読んだものであるためにうろ覚えな部分もあるが、本の内容は大きく2つに分かれていた。前半が血液型性格診断への反論、後半はまた別の心理テストへの反論が主であった(後半の内容は忘れた)。本文の中で、今日の血液型性格診断の源流である能見正比古氏の著書をけちょんけちょんに貶し、また血液型性格診断のような「占い」を人に信じ込ませるための心理テクニックである「バーナム効果」についても詳しく説明があったと記憶している。
当然、本の内容は著者の考えであり、本の内容が絶対的事実であるとは(今となっては)思わない。しかしこの本の内容は、血液型性格診断が科学的根拠のある学説だと何となく思い込んでいた私にとっては、とても衝撃的な物であった。血液型性格診断そのものというより、これまで固定観念的に信じ込んでいた常識が、脆くも崩れ去った瞬間で、まさしく目から鱗であった。活字嫌いな私が、数日図書館に通って本を読んだのは、(マンガ喫茶を除けば)後にも先にもこの時だけであろう。「借りて読めよ」と言われるかもしれないが、当時の学校図書館のルールで、新作は借りれなかったのである。
新しい知識を得たら人に言いふらしたくなるのが能のないアホウドリの常である。当時は全盛期こそ過ぎたものの、血液型性格診断は世間一般に根付いており、それを否定する論調は(少なくとも大手メディアでは)ほとんど存在していなかった。要するに「他の誰も知らないことを自分だけが知っている」ような状況だったのだ。腕のケガだと偽って毎日手に包帯を巻いて通学していたリアル中二病の私にとって、これほどドヤれる材料は無い。とは言え、何の脈絡もなく血液型性格診断の話をするのも変である。友人との会話の中で血液型の話が出てくるのを待ち、出てきた瞬間にこれでもかと否定する。それによって「頭が良い奴」と思われて皆からちやほやされる。正に完璧な計画だった。
ところが、実際に反論してみたところ、いずれもあまり芳しくない結果に終わってしまった。どや顔で血液型性格診断を否定しても、「でも何となく合ってる気がするし…」と、決まって歯切れの悪い反応しか返って来ないのである。挙句教師からも「屁理屈ばっかりこねるな」と言われる始末。今となってはどちらが屁理屈なんだと思わざるを得ないが、確かに思い返してみれば、血液型の話でわいわい盛り上がっている時に、キモいデブがどや顔で否定して来たら、場が白けてしまうのは明白だろう。要するに私の敗因は、イケメンではなかったことである。
冗談はさておくにしても、それ以降、私は血液型性格診断の話が出てきた時、余程仲の良い間柄でなければ、ニコニコして受け流すようにした。まさに2017年現在でも血液型性格診断肯定論者の方が言うところの、「否定する奴はモテない」という説を支持する対応であった。情けないとは思うが、当時ただでさえ友達が少なく、これ以上周りから孤立するようなことは避けたかった私を責めることなど出来るだろうか。ちなみに今は目上の人でなければそれとなく否定している。相変わらずチキンであった。まあ、事実は事実として、TPOに合った会話合わせというのは必要だと思っている。
そこで私が学んだことが、先の「人間は客観的事実よりも自分が信じたいものを信じる」「何かを信じ込んでいる人間を説得しようという試みは大抵徒労に終わる」の二つだ。血液型性格診断を信じている人に、上述の心理学会の話や、バーナム効果の話をしても、決まって返ってくる言葉は「でも何となく当たってる気がする」「私の周りでは当たっている」と言ったものだ。査読のある学術誌に投稿された数千人規模の調査結果よりも、自分の身の周りの数名の事例を優先するのである。当然その事例には得てして強い確証バイアスが掛かっているのだが、本人はそれに気付くことができない。「客観的事実よりも自分が信じたいことを信じる」典型例である。
これは、似非化学に限らず社会の中のあらゆる現象に対して言えることである。例えば昨今、「若者の○○離れ」という言葉をよく耳にする。○○の中には、テレビ、新聞、車、バイク、酒、読書など、ありとあらゆるものが入り得る。そして、その原因は大抵若者に帰着させることが多い。「最近の若者は人との関係が希薄だから酒を飲みながらのコミュニケーションをしないのだ」とか、「世間や政治に対して無関心だからテレビや新聞を見ないのだ」とか、とりあえず若者を悪者にするような結論が多いが、決して「社会の変化によってニーズも変容し、製品価値が相対的に下がった、すなわち製品自体が時代の変化に追いつけなくなったのだ」といったような、自らに責任を帰着させることは決して言わない。やはり自分が信じたいことしか信じていないのである。
また、血液型性格診断を信じている人の共通点として、否定しようとすればするほど攻撃的になって反論するというものがある。先の中学生の時の教師がその典型例だろう。理論的な反論が出来なくなると「屁理屈をこねるな」と論点をずらして逃げるのである。「否定する奴はモテない」というのも同様で、血液型性格診断の真偽について反論しているのに、「モテるモテない」の話にすり替え、さらに相手を「お前は場の空気の読めないモテない人間だ」と罵倒しているのである。そうなってしまうと、もはや冷静な会話は成り立たない。こちらがいくら事実を述べても、返って来るのは罵倒だけであり、最終的に相手が逃げてしまうのである。そこに残るのは無駄な時間の浪費と徒労感だけで、何ら生産性のない労力を費やされることになる。
こちらもやはり社会全般で言えることだ。例えば「若者の犯罪はゲームやアニメによる影響だ」などの持論を展開する人に、「若年層の犯罪率は年々下がり続けており、反対にゲームやアニメの市場は伸び続けている。」と反論しても、恐らくその後は謂れなき若者批判と罵倒くらいしか返って来ないだろう。論理的な反論を受け入れられない人間にとっては、実は事実などどうでも良く、会話を勝ち負けを決める手段としてしか考えていない。そして自分が負けるのが嫌だから、最後は子供のような罵倒に終始し、逃げてしまうのである。こういった手合いは、「自分の非を素直に認められない」ことも共通点と言えるだろう。人間であれば誰しも少なからず負けず嫌いな側面は持っているが、この手の人間は特にその傾向が強い(と何の統計的データもなく私の主観でそう思っている)。
似非科学のような嘘を信じ込んでいる人は、宗教の信者に近い。もちろん宗教を否定している訳ではない。宗教というものは、「事実か否かを証明する術がない」にもかかわらず、「否定は許されない」というのが特徴である。これ自体は別に悪いことではなく、「鰯の頭も信心から」と言うように、それを信じることによって本人の精神的支えとなるのであれば、それで良いと個人的には思っている。客観的に証明できなかったとしても、個人の中で信じていれば問題はないのである。ただし行き過ぎると他者に対する不寛容に繋がり、戦争や弾圧に容易に発展してしまうため、注意は必要である。仏陀とキリストと「顔を描いてはいけないあの人」の誰が一番偉いかというような論争は、決して行ってはならないのである(仏陀とキリストが同じアパートの一室で生活しているマンガはあるが)。
「宗教」と「似非科学」の明確な違いは、前者は「事実かどうかわからない(事実であることに重きを置いていない)」のに対し、後者はそれが「明確な嘘」だということである。明確な嘘を流布すれば、社会に対して損害が生まれる。血液型性格診断であれば、近年問題になっている「ブラハラ」なる差別を生じる。ゲーム脳であれば、本来何も悪くないゲーム会社が風評被害を受ける。水素水であれば、医学的根拠のないただの水を健康に良いと信じ込んで高額な値段で買わされる消費者が現れる。そして、損をする人の裏側では、他者を騙して得をする悪人も存在しているのである。大抵は嘘っぱちの本を書いた奴とその取り巻きだ。
だからこそ似非化学は撲滅しなければならないし、似非化学の考案者やそれを流布するメディアは批判されなければならない。日本は表現の自由が保障されているから何を言おうと自由であるが、それはあくまで公序良俗に反しないことが前提であり、嘘によって不正な利益を得るのは詐欺である。表現に対して批判を行う自由もあるのだから、客観的に見て明らかに事実と異なる論説に対しては、毅然とした態度で批判すべきである。
そして、一般消費者である我々は、常にその情報が事実であるか否かを見極める努力が求められる。媒体を問わず、メディアは平気で嘘をつく。他人に言われたままのことを信じる人間は、その情報が誤りであった場合に他人に責任を求めがちである。何が正しいか自分で判断し、自分の責任において選択する力こそが、情報化社会を生き抜くために必要なスキルと言えるのではないだろうか。
馬鹿の書いた文なので読みづらさと論考の浅さはご勘弁。
なんとか読み取って言わんとすることを拾って書き直してくれる人が現れることを祈って・・・。
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すなわち、署名活動のメッセージを受け取る相手が、参政権と関わりのない企業等であること。
署名を受け取るまでもなく消費者の意見がまとまり、企業等に伝わっていることがある。
後者は、法的に意味を持っていない場合に署名活動が持つ効果、「消費者の意見をまとめ伝える」ことが既にされている状況を示す。
特に後者は、SNS時代の現代において起こるようになり、また起こりやすい状況である。
分かり易い例で言えば、SMAPの存続、解散撤回を求める署名運動やけものフレンズ、たつき監督の存続署名運動がある。
どちらの例も、署名がどれだけ集まろうと法的強制力はない。その意味に限れば、署名活動は無意味である。
しかし、実際、SMAPしかり、けもフレしかり、無意味であるのに署名活動がされている。
何故だろうか。
ではその意味とはなんだろうか。
前述の通り、署名活動が無意味であると全員が認識していれば、そもそも署名が集まることはない。
つまり、署名活動の参加者は、単に無意味な活動だとは思っていないのである。
そしてもう1つが、「システムとして無意味だと分かっていてもやる」という儀礼的、感情的な活動参加の可能性である。
後者の儀礼的、感情的参加の可能性は、法的に意味がある場合の、本来の署名活動に倣ったパフォーマンスのようなものだろう。
「無意味だと思っていてもやる」 この儀礼的感情的参加による何かしらの影響が、署名活動の意味となっている可能性がある。
ここで、一旦「何かしらの影響」の検討は棚上げし、
冒頭で無意味と説明した状況かつ、消費者が署名活動に意味があると考えて参加している前提で、
はじめに個人によるネット主導や、ファンクラブのような集団主導で署名活動が動き出す。
すると、署名活動中にはネットニュースになったりテレビに取り上げられたりされ、活動はヨリ認知される。
この様子は、ときにテレビや雑誌などのマスメディアで流されることもある。
なるほど、署名活動によって、『世間に意味があると思われている「署名活動」』の情報が広がっているのだ。
企業の単なる動静でもなく、消費者群の大きな潮流でもなく、「署名活動」の情報が伝播しているのだ。
これにより、「署名活動」がされたぞ、○○万人も署名したんだぞ、企業はどう動くんだ?という見方がされる。
「署名活動」がされたという見方、法的強制力のある場合に倣った見方がされている。
そう、参加するほうも儀礼的なら、世間の見方も同様に儀礼的見方がされるのだ。
すなわちこれは、法的強制力とは直接関係のない、社会による風潮であり、勝手なルールなのである。
””署名に意味がある→署名が集まる→世間やマスコミが注目する→企業が注目され、圧がかかる→有意義”” なのだ
加えて言えば、署名による圧により企業が動けば、署名に意味があるという最初の要素に立ち返り、署名活動は自己循環する。
「署名に意味がある」という定義だけが世間に残り、自己循環の度に、署名と意味の関係は強くなる。
ただ厄介なことは、「署名に意味がある」という定義は、参政権に基づいた署名も、企業への署名も、同じ定義を共有して考えられてしまっていることだ。
これが、法律と社会の風潮との誤差になっており、度々、「署名は無意味だ」と言われる原因ともなっている。
この流れは、血液型性格診断と似ている。
血液型性格診断は、科学的に全く根拠がないとされている。しかし、実際はA型が几帳面であるとかO型はガサツであるとか、よく耳にする言葉である。
幾度となく科学的に否定されようと、その声が絶えることはない。
それはおそらく、実際に血液型と性格が一致していることが多いからなのであろう。
なぜ一致してしまうのだろうか。
科学的理由ではないところに、根拠を求めるとすれば、個人の心理や社会にあるだろう。
全く勝手な推測だが、例えば「A型は几帳面だ」と周囲の人間が思っており、
そのように言っていれば、言われた方は暗示が働き、几帳面として振舞うように個人の性格が方向付けられてしまうのではないだろうか。
全ての人間が周囲からの情報で性格が決定づけられるとは当然考え難いが、それでも多少の影響はあるだろう。
人間の生物的根拠とは無関係に、社会的、心理的作用として、血液型と性格が因果関係を持つこともあるのである。
だからこそ、血液型性格診断そのものの科学的根拠はないという、ただその一点で血液型性格診断を否定するのは浅はかではないか。
そして、本文の主題に立ち返り、換言すれば、
署名活動そのものの強制力だけで無意味と切り捨てるのは浅はかであるということ。
「意味がある」という前提が意味のないことを意味あるものにしてしまうパワーがあるということが言えるだろう。
簡単に言ってしまうのはもったいない。社会の不思議なパワーを、今こそ使いこなすべきではないか。
PS.
つらつらと、署名活動を応援するようなコメントを書いてきたけれど、どちらかと言えば私は活動否定派です。
単にこうしろああしろ等と、感情と風潮に訴えるだけの署名には効果を感じません。
というのも、なんというか現代の合理主義的社会関係に見合ってないからです。
かと言って、不買運動を起こすなんてのは、ホトトギスを殺してしまうようでスマートじゃない。
だから、その間を取って、「ユーザーの意見聞かないと、これこれ買うの辞めますよ」って署名を集めるのはどうでしょう。
もちろんこの世界の種は神が創造なさったのだ的な強固な信念じゃないんだけど、なんとなーく「中間化石って見つかってないんだよね」「サルから人間に進化したっていうならサルがまだいるのって変だよね」「進化論って実は今のまともな科学者たちから支持されてないよね」「進化論の証拠ってないよね」辺りのテンプレ的な間違った否定論をリアルで知人から聞いてしまって、内心いやいやいやいや……!て思った。
繰り返すようだけど彼は別に熱心な否定論者でもなく、また「じゃあ別のどの論理が種の多様性を説明するのか」という答えも特になく、もっというなら進化論の具体的な説明もできないほど怪しい理解だけど、ただ本当に漠然と「ダーウィンの進化論あやしい」という発想をどこからともなくインストールしていただけな様子。あとついでに言えば、彼はどちらかというと科学的思考のほうに好感を持っているというか、例えば「血液型性格診断」とか「神の存在」とか「超能力」とかに関しては、恐らく否定的な傾向を示すと思う。
今日の虚構のこれさ、http://kyoko-np.net/2016071201.html
タイトルの「「疑似科学信じやすい」9割はO型」が絶賛されてるんだけど、そんな実験結果が出たならこれまでことごとく否定されてきた血液型と性格の相関が示されたかもしれないってタイトルじゃん。
絶賛してる人は「血液型性格占いはエセ科学」っていうのを盲目的に信じ込んだまったく科学的じゃない人たちだよね。
それも込みでネタに乗っかってるって感じもしないし。
こいつらが大手を振ってエセ科学批判してるとか思うとげんなりするわ。
追記
ちょっとブコメもらったから追記しとくけど、別に虚構の記事内容について文句があるわけじゃないよ。
俺が気にしてるのはこっちhttp://b.hatena.ne.jp/entry/kyoko-np.net/2016071201.htmlのブクマカたちだよ。
idコールまではしないけど、人気ブコメが「タイトルが自己矛盾」とか「タイトルが秀逸」とか「出オチ」とかそんなんだし
タイトルだけでこういうふうに面白がるってことは、「血液型で区分すること自体」が疑似科学って認識ってことだよね?
いやいや、それは違うでしょって言いたいの。
血液型性格診断が疑似科学なのは「血液型で区分した結果、全然差異が無いのにさも差異が有るかのように言われるから」疑似科学なんだよ。
このタイトルみたいに「血液型で区分した結果、差が出ました」ってなったら疑似科学じゃなくなっちゃうかもしれないわけだよ。タイトルだけ見れば。
(urlで気づくし、記事内容も全く信頼に足るものじゃないのは当然としても)
だからタイトルが矛盾してるってことはないし、出オチってこともないし、むしろ滑ってるでしょと。
中身のオチは研究チームの人が血液型性格診断で考察してるとこだけど、タイトルの内容は単なる実験結果だよ。オチてないよ。
だいたいな、将棋とかいうクソは断れないんだよ。「将棋やろうぜ」と表面上は相手に選択の余地を持たせておきながらもう駒を並べ始めている。将棋とかいうクソゲー信者の最悪のクソ行動がこれ。しかも将棋とかいうクソはなまじ歴史と権威を普遍性を持っているせいか、
は通らない。まさにクソ。「やったことあるだろ?」とか「将棋もできないのか」などともうすでにしたり顔をキメやがる。アルハラはこれだけ認知されてるのに将棋とかいうクソハラスメントには誰も何も言わない。まぁゲームとしての面白さはあるんだろう。だが俺はやりたくねぇんだよクソ。勝てる可能性のないゲームをやりたがるクソがどこにいるんだ?
現代のどの対戦ゲームも一番重要なのはマッチングだろ。何が「頭いい奴は将棋が上手いからな」だクソ野郎。間接的に自慢したいだけじゃねーかクソ。将棋とかいうクソは地頭の良さとか関係ないだろもはや。一般人レベルだと。こっちががんばって独力で火の起こし方から車輪まで必死こいて再発明してる前で
「まだそんな文明レベルで消耗してるのwww?こっちはもう原子力発電所建てちゃったよwww」
とかクソしたりクソ顔でぼこぼこ駒をとってきやがる。うるせぇ俺はこの車輪の発明に命かけてんだよ定石に乗っかってるクソが偉そうに言うんじゃねえよクソ。将棋とかいうクソから漂う生白い饐えたチーズみたいなマッチョイズムが俺の気分をクソにする。
まぁどんなゲームも面白さに気づいたら面白いんだろう。それは否定しない。だがな。どんなゲームでもクソ中級者のクソ初心者狩りはクソだろ。例外なく。将棋とかいうクソはそういったクソが家庭レベルで起こるからクソなんだよ。マッチングをどうにかしろってのは無理な話だから、せめて断る権利くらい与えろよ。将棋とかいうクソは圧倒的な知名度を誇るがゆえに断ると角が立つんだよ。しかもなんか将棋が弱い=頭の残念な奴 みたいな扱いじゃねーか。血液型性格診断よりも俺は将棋とかいうクソを撲滅したい。いやすまん、撲滅は言い過ぎた。せめて「将棋?いややったことないです」が通じるまで衰退してくれ。もしくはマッチョイズムを撲滅してくれ。
羽生選手(選手っていうのか?棋士ってのは)が「人間が機械に勝てなくなったらルールを変えればいい」と言ってたらしい。俺はこの発言に全面的に同意する。何なら毎年ルールを変えてほしいくらいだ。そうすりゃ定石に乗っかっただけでしたりクソ顔をするクソから俺は解放される。
まぁ俺がこんなところでクソを叫んでも将棋とかいうクソの権威は揺らがないだろうけどな。
「定石知ってりゃある程度勝てるようになるんだから勉強すれば」とかのたまうクソがクソのようにクソグソしく湧き出してくるかもしれないが、そもそも俺は将棋とかいうクソに興味がない。
それにな。勉強し始めたら腕試ししたくなるだろ?
自分の強さを見せつけたくなるだろ?
そうなると「将棋やろうぜ…」と初心者を狩るために駒を並べ始める俺のクソビジョンがクソの如く見え始めてくるだろ?
俺はそんなクソスパイラルに加担はしたくない。マッチングもろくにできないこの将棋とかいうクソに取り込まれるのはゴメンだからな。こんなクソマッチングのクソゲーよりも格ゲーの方がマシだ。格ゲーもクソ弱いけどな。
どんなゲームにも愛好者はいるだろう。それは素晴らしいことだと思う。だがクソしたり顔とマッチョイズムと初心者狩りとレッテル張りだけはやめろ。それが生まれ出でた時点でそのゲームはクソとなる。
最初に提示された情報がそれ以降に提示される情報に対する印象に影響を及ぼす現象。
たとえば「東京の平均気温は50度より高いか?」と訊かれたあと「では平均気温は何度だと思うか?」と訊かれると高めの気温を答えてしまう。
たとえば選挙の事前予想で「A党が劣勢」と報道されるとA党への票が増える。
自発的にやっていることに他人から報酬を与えられるとやる気が低下する現象。
「好きなことを仕事にしてはいけない」などと言われる理由かも。
本人から直接言われるよりも第三者から噂として聞く方が信じてしまいやすい現象。
たとえばAさんから「綺麗だよ」と言われるよりも「Aさんがあなたを綺麗だと言っている」と聞かされるほうが嬉しい。
世界中から強豪を集めて大会を盛り上げようとするほど地元の選手が活躍できなくなる現象。
2013年にウィンブルドンでアンディ・マレーが優勝したのはイギリス人選手としては実に77年ぶりの快挙だった。
自分と同じ意見を持った集団の中に身を置くことにより偏った考えが助長されてしまう現象。
たとえば「青木まりこ現象」など。
カクテルパーティーのように大勢の人が会話している中でも、自分に関する言葉や興味のある言葉は聞き取れる現象。
相手の表情や仕草を真似て接していると相手から好意をもたれやすいという現象。
ある物事を意識した途端にそれに関する情報が目に付くようになる現象。
たとえば知ったばかりの言葉が急に世間でよく使われるようになったように感じたりする。
「見てはいけない」と言われると見たくなる現象。映画『カリギュラ』に由来。
以前に名前を聞いたことがあるというだけで有名人だと錯覚してしまう現象。
気分が良い時には良いことを、気分が悪い時には悪いことを覚えやすい、という現象。
過去に本で読んだり人から聞いたりした話を、まるで自分自身が体験したかの様に思い込んでしまう現象。
動物が周囲の人間の顔色を窺ってその期待に応えるように振る舞う現象。
「計算ができる馬」として有名になったハンスという馬が、実は飼い主や観客の動きを見ていただけだったという出来事に由来。
さっと視線を動かしたとき、その直後に見たものがわずかに止まって見える現象。
たとえば時計を見たときに秒針がなかなか動かないように感じる。
たとえば「捨て猫を助けるヤンキー」など。
何かの形をじっと見ていると、そのうちに「こんな形だっけ?」と元の形が分からなくなってしまう現象。
途中で失敗に気付いても、それまでの投資が無駄になるのが嫌で、やめるにやめられなくなる現象。
たとえば「鉄1kgと綿1kgはどっちが重い?」と言われると「鉄」と答えてしまう。
デパートの上層階の施設を充実させることで、そこに行って帰るまでの「ついで買い」を狙う戦略のこと。
ある情報を隠そうとするほど、その行動によって逆に目立ってしまう現象。
女優のバーバラ・ストライサンドが自宅の映った写真を取り下げさせようと訴訟を起こしたことに由来する。
たとえば赤色で『青』という字が書かれていると意味を把握するのに時間がかかるなど。
蛇に咬まれることはめったにないが一度でも咬まれてしまうと蛇を恐れるようになるということに由来。
信頼できない人から聞いた情報を時間経過と共に信じるようになる現象。
「情報」だけを覚えたまま「信頼できない人から聞いた」ということを忘れてしまうため。
達成できたことよりも達成できなかったことのほうを忘れない現象。
自分の名前や誕生日などにまつわる言葉や数字を無意識に好んでしまう現象。
幸運により金を得ると「無くなってもプラマイゼロ」という心理が働いて金遣いが荒くなってしまう現象。
たとえば予想以上のヒットで儲けた金をハイリスクな投資に突っ込んでしまうなど。
切りの良い数よりも中途半端な数の方が信頼性が高く感じられる現象。
たとえば「100%の人が高く評価した」よりも「99.8%の人が高く評価した」のほうが宣伝効果が上がるなど。
誰にでも当てはまるような曖昧な評価を自分によく当てはまっていると感じてしまう現象。
何かを評価するときにその特徴的な部分に印象が引きずられてしまう現象。
たとえば「身体能力の優れた人は性格も優れているだろう」と思い込んでしまうなど。
たとえば選挙の事前予想で「B党が優勢」と報道されるとB党への票が増える。
たとえば「5000円」と「4980円」とでは後者のほうが実際以上に安く感じられる。
酒に酔うと異性が魅力的に見える現象。
ロボットやCGモデルなどの容貌が人に近づくほど気味が悪く感じられる現象。
あらかじめ聞かされた情報がそのあとに聞かされる情報に影響を与える現象。
たとえば車について雑談した後にしりとりをすると車に関する言葉を思い出しやすくなる。
サッカーのオフサイドの判定などに影響を与えていると言われる。
デパートの地下の施設を充実させることで、そこに行って帰るまでの「ついで買い」を狙う戦略のこと。
その人の性格や特徴、職業まで思い出せるのに名前が思い出せない現象。
「誰かが通報するだろう」「周りの人も何もしていないから」「他人の目が気になる」などの心理の複合。
たとえば医師の期待を感じた患者が、実際にはそうではないのに「病気が良くなった」と報告してしまうなど。
悪い変化が起きていても、それがゆっくりとしたものだと、何もせず受け入れてしまう現象。
個々人は穏健であっても集団で協議を行うと極端な結論になってしまう現象。
積極的になりすぎるのがリスキーシフト、消極的になりすぎるのがコーシャスシフト。
何かのリストの内容を思い出すように言われたとき、手がかりを与えられたほうが逆に思い出しづらくなる現象。
共同作業を行うときに全体の人数が増えるほど一人一人が手抜きをしてしまう現象。
たとえば3人vs3人で綱引きをすると全力を出すのに、10人vs10人のときは無意識に力を抜いてしまう。
横だけど、それはちょっと違うと思うぞ?
「プロフィールにAB型って書いてる人が多いね、なんでAB型が多いんだろうね」
↓
誰かのプロフィールをコピペして使いまわしてるからじゃねーの?
血液型性格診断で、AB型はひねくれ者と言われているから、わざとAB型をえらんでるんじゃねーの?
血液型選択のUIで、AB型がデフォルトで選ばれているんじゃねーの?
等、いくらでも疑問の元になる考えはあるはずだよ。
「(それが正しいことの)科学的根拠がまだ見つかっていませんよ」ではなく
「それが間違っていることの科学的根拠が既に見つかっていますよ」レベル。
(弱い相関が~~という科学的に厳密(笑)な意見もあるが、弱い相関ごときで目の前の特定の一人の性格を決めつけるなど非科学の極みなので却下)
なので、血液型性格診断を根拠にして物事を決めるのは、オカルトで決めるよりもっとたちが悪い。だって根拠が間違ってるんだから。
それなのに、血液型性格診断の信奉者は、他のオカルト(例えば星座や干支)よりも信憑性が高いと思っていて、その診断結果を押し付けてくる。