はてなキーワード: 自己中心的とは
気になってた人が結婚するらしい。
それを聞いたとき、表面上はかろうじて「おめでたいことですね!!」と社交辞令を述べることができたが、内心穏やかでなかったことはいうまでもない。
相手はどんな人なのか、私には何のチャンスもなかったのにそのチャンスを得たその人は一体どれほどの人なのか、どうやってそのチャンスを得たのか、なぜ私ではそのチャンスを得られなかったのか、こんなにもいい女をものにできた見知らぬ人がうらやましくて憎々しくてしかたない、私にはいい女をものにすることができるほどの魅力も価値も能力もまるでなかったのか、あと何がどれだけ足りなかったのか…そんな感情しか出てこなかった。
本当に自分のことしか考えない、自己中心的で傲慢な人間である、大人の皮をかぶった赤ん坊にも等しい幼稚な発想だ。
しかしこういうときに心の底から100%本心で相手を祝福できる人って現実にいるの?
こんなときにまで聞き分けのいい、できた大人でいなくてはならないの?
「なんで私じゃないんだよチクショー!!」ってのが偽らざる本心なんじゃないの。
社会人2年目。
GW中は程々に遊んで、なとなく今日はゆっくりしようかなぁ~という気分の中、
普段はなかなか行けないコメダ珈琲で、普段は買うだけでなかなか読めない本を消化することに。
10時ごろにお店についていい気分だったけれども、お昼時にもなるとお店が混んできた。
店員さんの良く通る声で、番号札をとって案内待ちのお客さんがいることに気づいた。
気を利かせたつもりになって、そそくさとお店を出る準備をしてお会計に向かう。
案内待ちのお客さんへ目が行き、気が付く。
座って順番を待っているのはことごとくおじいさん,おばあさんだった。
よくよく店内を見回すとみんな中年からおじいちゃんおばあちゃんと呼ぶのが適当な方々。
心の中で悪態をつく。
「こいつらはいつでも来れるじゃん、どうしてたまにしか来れない俺が気を利かせて出ていかなきゃならんのだ」
「これが愛想のいいご夫婦や、素敵なお姉さんだったら...」なんて考えるとまた気が付く。
見返りを求めて行動していたこと。見返りがなく腹を立ててしまったこと。自分自身が思っていたよりも攻撃的だったこと。
本当は向かいのおばさんみたいにずっと居座て夕方まで本を読んでいたかった。
他人の見よう見まねで勝手に精一杯になって、それが自分の思い通りの結果にならなくて...。
自分のやりたいこともできない上に、こんな惨めな思いをするなんて。
はじめこそ腹が立ってどこかに老人の悪口を拡散して、このもやもやを発散しようかと考えていた。
だけれど悪口を考えている間に、自分のことでしか自分を語れない自分があほらしくなってしまった。
「自分はこれだけした、だからお前らもこれくらいするのは当然」
今回の件もまた別の機会にコメダ行けばいいだけだしね。なんら大したことはないんだよね。
ただこうした気づきをもたらしてくれたのはGWと休暇のおかげ。
以前からこうした自己中心的な気質はあったのだけれど、一時期はずいぶんマシになっていた。
ただ今回は4月から一気に仕事が増えてパンクしかけていたし、相当余裕がなかったんだと思う。
何よりきつかったのは もの凄く良いことがあってもすぐに悪いが起こるので、結局毎日ストレスと不安にさらされていたこと。
次点で会社都合で見知らぬ田舎に飛ばされて一人ぼっちなこととか。
余裕をください。
もともと引っ込み思案で、なにかと人の顔色を伺うような人間だった。
そして自分の場合は、自覚もしているけれど、特定の環境下で著しくパフォーマンスが下がる。
自分とは関係のない人のコミュニティに行ったり、大きく環境をかえたりすると、社会不安性のような、しどろもどろな感じになってしまって、今でもだけど、ずっとコンプレックスだった。
その結果、狭い世界の中で生きてきて、それまでは自分はそこそこなんじゃないかって思っていたけれど、ほんと全然だった。
なんかそれを最近思い知らされることが多くて、悲しくなって、ひととおり落ち込んでた。
でも人生は否が応でも続いてしまう、なんて体の良いことは言えてしまうくらいのメンタリティはあって、
そういうことも含めてすこしづつ受けいられるようになってきた気がしている。というのが今。
これまでの人生を振り返って、特定の環境下でパフォーマンスが著しく下がる理由を、自分なりに考えてみたのだけれど、「自分に対してどう思っているか」が、わからない状態でコミュニケーションをするのが、とても苦手であることらしい。
もっというと、人から悪く思われているんじゃないか、ということを常に考えながら会話している、なのですごく疲れるし、
逆に信頼をしている奥さんとか、親しい友人には、そんなことはまったくないんだけれど。
じゃあなんで自分に対してどう思われているのか、が気になって仕方がないのか、といえば、
本当の自分は根っこが醜いやつで、自己中心的という自己認識があって、自分を出してしられたくないから、
そして嫌われることによって、コミュニティにいれなくなるんじゃないかという恐怖心と
誰かに否定された自分を認めたくないという歪なプライドから、変なコミュニケーションが癖になってしまっている。
本当はいろんな人と、繋がりたいけれど、嫌われるのが怖くてどうしようもないのが自分。
だから変に意識をしてしまって、結果的にパフォーマンスが落ちるのではないか、という結果に落ち着いた。
なんだかいつの間にか、知らずしらずのうちにとっていた回避行動が、癖になって抜けなくなってしまったような、そんな感じがしています。
いやでも、違う、自分は本当は引っ込み思案じゃなくて、本当の自分は、もっとおちゃらけていて、おもしろいことを言うのが好きで、
でもだれかに否定されてきたり、ちゃんとできなくて、見放されてきて、その結果、人から悪く思われないことを目的にして生きているような気がしている。
携帯電話の普及で、電話はいつでもかけられていつでもつながるもの、と勘違いする人が増えたように思う。
従来の固定電話だと、通話中である、目当ての人が外出など不在である、など「必ずしもつながるとは限らない」ものであった。
通話中である、別の何かに取り込み中で出られない、なんてことはごく普通にあり得る。
にもかかわらず「なぜ電話に出ないのか」「なぜかけ直してこないのか」などと憤る人が少なくない。
私の周りがたまたまそうなだけか?
根本的な理解が違っているように思われるし、その人自身も何らかの理由で出なかったり、出られなかったりすることもあるだろう。
そのとき「なぜ出ないのか」などと憤られたらどんな気持ちになるか、想像力が及ばなかったのだろうか。
もっともこれは何が正しいとか間違っているとかの話じゃない。
https://anond.hatelabo.jp/20210408233422
を書いた増田だが、
考えに考えた末、誘ってくれた知人には丁重に断ったところ、かなり気を悪くしてしまったようだった。
「結局自分さえよければいいんだね笑」
「そういう臆病な男と付き合いたいと思う女がいると思う?」
「だから結婚できないんだよ。これぐらいのことで弱気になってるようじゃ、多分一生無理じゃね?」
「そういう増田みたいな人がいっぱいいるから日本は景気回復できないんだよ。みんなに迷惑かけてるのは飲み歩いてる方じゃなくて、そうやって閉じこもってる方だってわかんないかな?」
などなど、散々な言われようだった。
それに対して、
「かかったらどんだけ面倒なことになるかわかってないからそんなこと言ってられるんだよ」
「39度の熱が1日続いただけでも死にそうだったのに一週間続くとかおれは無理だから」
「ほんとにやばくなかったら世の中こんなに混乱するわけないし誰もマスクなんかするわけないって」
などと言ってみたが効果なしだった。
地元の新コロ感染者数も先週と比べれば倍増していることもあって、増田の認識では今の状態でバーベキューはちょっとありえないんじゃないかという感覚だが、これは増田のほうがおかしいのだろうか?
(追記)
体調が悪いからと言って断れば角が立たない、というアドバイスをいくつか頂いたが、実はもうその方法は使い尽くしていた。何度も誘われてその度に今体調が悪いからというのは無理があった。
その知人からは、今回のバーベキューに限らず、飲み会や勉強会など時々声がかかっていて、増田は毎回同じ理由で断っていたが、いつも理由をストレートに伝えることに躊躇していた。
入学、新歓、異動などのシーズンなので、増田と同じ現象がほぼ同じ時期にあちこちで起きていて、これを見た人が、これ私のことじゃね?ってカチンとくる、ということがあるかもしれない。
その知人には何ら悪意はなく、歴史上、もしいわゆるコロナ渦がなければ、普通の陽キャとして人生を全うしていたと思う、というか今もそうなのだが。
(追記2)
断った本当の理由は結局のところそれだけなので、だからこそ、自分さえ助かれば他はどうでもいいのか?と自己中心的な態度に受け取られたんだと思う。
寡婦控除>性別は関係ないよ。今年からひとり親控除に変わったよ。
厚生年金第三号被保険者>性別は関係ないよ。専業主夫も対象だよ。
女性労働基準規則>撤廃して女性に第1条〜第4条の就労を開放しろって言ってるのか、男性にも第1条〜第4条の就労を制限させろと言ってるのかわからない。
逮捕率・数>数は犯罪数に応じてるんだから差別じゃないだろ。検挙猶予率は女性も上がってるよ。男性の逮捕を手控えるべきなのか?
死亡率・数>これ弱者男性じゃなくて男性って生物の問題だろ。オスはちょっと多く生まれてちょっと早く死ぬんだよ。男性のヘルスケア水準を底上げするべきなのか?
命の保護のための予算額、案件数>母子保健に関わること以外で具体的な事例を挙げてくれよ。
マッチングアプリや結婚相談所での学歴/年収要件>企業側の判断による自由かつ必要な設定項目だろ。逆にそれ書かない結婚相談所って想像できるか?
その他、具体的な形をもたないふわっとした男性性の要求>具体的な形をもたないふわっとした女性性の要求だってたくさんあるだろが。
いろいろな意味で自己中心的すぎる、視野が狭すぎる。>「といった種々の面で、社会制度と慣習において「男性全般」が差別されているので、言ってしまえば弱者男性というより男性が弱者」
プリキュアの権利者である東映も、ガンダムの権利者であるサンライズも正式に「二次創作の禁止」を打ち出してるけど「同人書いても訴えられてないからセーフですよ!セーフ!こるぇは黙認されてますね間違いない」と「権利者が何と言ってるかなんか関係ない」とばかりにエロ同人をアホほど量産するという姿勢を貫いてきたのが昨今の同人界隈だったわけです。
それをウマ娘だけはドヤ顔で「権利者が書くなって言ってるから書かないだけ」なんて言ってるのはあまりに厚顔無恥というか、ダブスタが過ぎる。
ウマ娘の同人を奴らがなんで書かないことにしたのかというと、ウマ娘のコンテンツの生殺与奪ソードを運営しているサイゲじゃなくて各馬主が持っている(ということになっている)ため、彼らを怒らせてしまうとウマ娘という宿主を殺してしまう可能性があり、そうなるとイナゴ同人界隈は「ウマ娘の殺害犯」としてかつてない窮地に追いやられることが予想されるから。
つまり、コンテンツホルダーの権利を守ろうなんていう高尚な意識があるわけではなく、単に自己防衛の一環に過ぎない。要するに「同人を書いたら俺が困るかもしれないから書かない」ということだ。
だから奴らは東映の作品もサンライズの作品も同人を書いていいということにしている。「同人書いたところで、どうせお前らコンテンツを止められねーだろ」という舐めた気持ちがあり、なんならアホなゲーム実況者と信者みたいに「俺たちが魅力を広めてやってる」なんていう驕りがある。
それも結局は「同人を書いても俺は困らないはず」という自己中心的な損得勘定が根本にある。
単にリスクとリターンを考えて「書かない」という選択を採っただけなのに「私たちは権利者さんに配慮して活動してますからね」みたいな聖人ぶってる奴は素直に気持ち悪い。たまたま訴えられていないだけで散々他の権利者の権利を侵害しまくっておいて、その言い草はなんだコノヤロー。
素直に「殴られる可能性がある奴は殴らねぇんだよ。こちとらバカじゃねぇんだ」と言えないいだけなんだけど、そうするとアホなキチガイフェミの「強者に屈しただけ」という理論を証明してしまうような気がして難しいんだろうか?
別にアホなキチガイフェミには「お前らは権利者じゃないからお前らのいうことを聞く必要はないよ。でもそれとこっちにヤバい奴はのいうことを聞く権利があるのは別問題だよ。二つの問題を切り分けられないのは女の悪いところだよね」とでも言っておけばいい。
前々回の投稿(11)で言及した『映画秘宝』内部で起きていた「業務の『私物化』」について、引き続き今回も述べようと思います。
ムック形式が好評だったこともあり、90年代の終わりに雑誌化・大型化を見事に果たした『映画秘宝』は、傍目には順風満帆に見えました。しかし、初期の同誌を読んでいた方々ならばご存知のとおり、若者の購読者を想定した誌面作りとはお世辞にも言えませんでした。初期の『映画秘宝』がそのターゲットにしていた購読者とは「子供時代の70年代に映画館やテレビで観た映画についての記憶を、編集者・ライター陣と共有する大人」だった訳ですが、当時そんな条件を満たしていた人たちは、私も含めて既に「立派なオジサン・オバサン、若しくはその仲間入りも間近な人たち」でした。そのままでは購読者の高齢化によって、ジリ貧に追い込まれるであろうことは明らかでした。
したがって、雑誌『映画秘宝』が将来的にもビジネスを継続して生き延びるためには、長期的な戦略として「より広範で多様な読者層を開拓すること。それも、特に『若者層』と『女性層』を購読者として積極的に取り込むこと」を選択するべきでした。しかし、こんな事を今さら書いても、後の祭りです。
ご承知のとおり、それとは正反対の戦略を『映画秘宝』は選択しました。いや、何らかの戦略を選択したと言うよりも、むしろ「長期的な戦略など、当時の『映画秘宝』編集者・ライター陣は露ほども真剣に考えてはいなかった」と言う方が正確かもしれません。
覚えている方もいるかもしれませんが、高橋ヨシキが『映画秘宝』の表紙デザインとして、邦画から引用した「裸の女性が荒縄で緊縛されて馬に跨がる残酷エロ画像」をコラージュして仕上げたことがありました。この表紙について、町山智浩は「この表紙じゃあ女性が手に取り辛い(=買い辛い)」とボヤいていました(※注)。雑誌の「顔」である表紙がこんな状態だったぐらいですから、高橋ヨシキの頭に「女性購読者を獲得すること」など微塵も無かったことは明らかです。
既に述べたとおり『映画秘宝』は「女子供から映画を取り戻せ!」をスローガンにしていた訳ですから、むしろ「いかに女性が手に取り辛い(=買い辛い)デザインにするか」について考えた上で、高橋ヨシキは意図的かつ積極的に「女性が嫌がりそうなデザイン」に仕上げたのだと考えるのが妥当です。きっと、このような表紙を作っていた時の高橋ヨシキは「オレたち男だけの輪を乱すような奴(=女性)は、お呼びでないから帰った!帰った!」「この表紙デザインを見たら、きっと町山さんも喜ぶだろうなあ!」と云う気持ちを込めていたことでしょう。(※注:ところで、町山智浩も本気でボヤいていたのではないのだろうと私は思いますが、そう思う理由については別のところで述べます。)
近年は真魚八重子などの女性執筆者が『映画秘宝』に登場する機会が増えてはいましたが、それで町山智浩や高橋ヨシキの芸風が改まったようにはとても見えず、むしろ却って「これでもオーケーなんだ!こんな芸風でも女は許容してくれるんだ!」と彼らの勘違いを助長したと云う可能性すら有ると私には思えます。仮にそうだったとしたら、真魚八重子の頑張りが報われていなかったことになって、非常に気の毒な話ですが。
また、これも既に過去の投稿でも述べたことですが、比較的早い段階から『映画秘宝』は、ごく少数の寄稿者(例:山本弘)を除けば「アニメファンを蔑視・敵視・嘲笑する」と云う態度を明確に打ち出していました。この「アニメ叩き」の姿勢は同誌において長く一貫していたと言ってもよく、恫喝DM事件が発覚する直前にも「『鬼滅の刃』は絶対に観ない!」と、訊かれもしないのに自分たちの方からアピールに励んでいました。
もちろん、思想信条の自由に照らして考えれば、編集者やライター個々人が「何か」を嫌うこと自体は許されるべきです。だから、対象が「萌えアニメのファン」だろうと「女性」だろうと何であろうと、高橋ヨシキらが個人的に何かを嫌うことは自由の範疇あると言えるでしょう。極端な話、内心だけに留めて現実の世界で実行に移しさえしないのであれば、性的マイノリティ/人種・民族etc.に対するネガティブな気持ちを持っていても許されるでしょう。
しかし、その上で問いますが、当時の編集者・ライター陣がわざわざ誌面を使ってまで「女嫌い」や「萌えアニメ嫌い」を盛んにアピールしたり、ゲイを繰り返し「ホモ」呼ばわりして嘲笑し続けて、雑誌『映画秘宝』を売ると云うビジネス全体にとって、何か良い成果を招いたでしょうか?結果的には、女性・萌えアニメファン・性的マイノリティはもちろんのこと、それらに該当しない人たちにすらも「何だか『映画秘宝』は排他的な雰囲気があって嫌だなあ。近づくのは止めておこうか」と思われ、遠ざけられただけに終わったように私には見えます。
そうして「未来の購読者」に成っていたかもしれない人たちも見す見す逃してしまって、長期的に見れば大きな損をしたのではないですか?もしも、編集者やライター陣の個人的な好みに拘ったことによって、ビジネスの未来が失われたのだとしたならば、それについての責任を彼らはどう取るつもりなのでしょうか?
当時の『映画秘宝』の萌えアニメ叩きムーブに関しては、こんな出来事もありました。ある時、俳優の加藤雅也に対するインタビューを行った際、わざわざ「最近の若い奴らは、萌えアニメなんかにウツツを抜かしているんですよ!」と御注進に及んだのです。もちろん、そのインタビュー記事の中では、それに対する加藤雅也の「『萌え』ねえ…」というリアクションの言葉を「例の見慣れた太いゴシック文字」で強調することも忘れませんでした。つまり当時の『映画秘宝』は「あの加藤雅也サンも、萌えアニメなんか好きな奴のことは見下して馬鹿にしているんだゾ!読者の皆も後に続け!」と、虎の威を借る狐のスタイルで萌えアニメファンを嘲笑することに勤しんでいたのでした。それにしても、何の脈絡も無く突然「萌えアニメが云々」とか言い出したので、インタビューを受けていた加藤雅也も反応に困ったのではないでしょうか。加藤雅也についての面白い/興味深い話を読みたい読者の立場からすれば「何でインタビュアーがいきなり『オレは萌えアニメが嫌いだ!』と自己主張を始めるんだよ。お前は主役じゃねえだろ。お前の自己満足にスペースを割くぐらいなら、もっと加藤雅也の言葉を載せろよ」と云う感想を抱くしかありませんでした。きっと、このインタビュアーの脳裏には、読者の存在及び読者のニーズなどは思い浮かびもしなかったことでしょう。
上で述べたような行動に熱中していた『映画秘宝』編集者・ライターたちは、ただ単純に「『自分たちの欲求』が充たされて気持ちが良かった」のだろうと思います。もちろん自分の欲求を充たしたいと思うことは人間として当然ですし、仕事を通じて欲求を充たすことが出来れば、こんなに幸せなこともないでしょう。しかし、それをするならば良識と限度が必要不可欠です。わざわざ無駄に敵を増やし、未来の購読者を失ってまで「自分たちの欲求を充たすこと」を優先したことは、仕事(ビジネス)として必要なこと、正しいことですか?
ひょっとしたら「眼の前の『利益』を捨ててまで『信念』(=嫌いな奴らを大っぴらに嘲笑すること)を貫くことが出来るから、オレたち(=『映画秘宝』)はスゴいんだ!」と、『映画秘宝』切り株派は自分達に酔っていたのかも知れません。しかし、それは別にスゴいことではありません。
洋泉社としては、雑誌『映画秘宝』の刊行を「遊び」や「無償ボランティア」として、ではなく「まっとうなビジネス・業務」として行っていた訳です。それには先ず雑誌が売れること、それも短期的にだけではなく長期的に売れることが先決であり、その為には更に、購読者を増やすことが何よりも重要でした。したがって、これらの重要事項こそが『映画秘宝』製作チームに対して洋泉社が何よりも先に求めたことだったはずです。「何よりも先に」です。
それなのに、購読者を増やさず、と言うよりも増やす為の努力を端から放棄して、逆に無駄に敵を増やすことにだけはキッチリ勤しんでいた訳ですから、洋泉社にとって『映画秘宝』の編集者・ライター陣は、さぞかし頭痛の種というか獅子身中の虫というか、実に困った存在だったと推察されます。
こういった「まっとうなビジネスであれば求められて当然の事柄」には応えようとせず、何よりも先ず「自分たちの欲求を充たすこと」を優先して仕事に臨む、これこそが私の言う「業務の『私物化』」なのです。
この文章を読んでいる方は、試しに想像してみて下さい。もしも貴方が何処かの会社などに勤務していて、社員皆一丸で協力して赤字解消や顧客開拓などに努めねばならない時に、赤字を垂れ流したり顧客どころか敵を増やす行動にばかり勤しむ同僚が社内にいたとしたら、しかも、それに勤しむ理由が「自分が気持ち良いから」とか「これをやると○○センパイが喜ぶから」とかだったら「テメエの『趣味』の為に業務を『私物化』するんじゃねえよ!」と言いたくはなりませんか?単に「職業人」としてだけではなく「社会人」としても失格でしょう。
このように『映画秘宝』の行動は、とても「長期的な利益を考えている」とは思えないようなものばかりでした。岩田和明による恫喝DM事件を見れば分かりますが、ごく最近の『映画秘宝』内部でも「長期的な利益を考えず、自分が気持ち良くなることを優先する」と云う風潮が継続していたことは明らかです。更に、岩田和明が退職するからと云う理由だけで、のんさんの連載を打ち切って雑誌の「売り」を無くすように仕向けたことも、これまた雑誌全体のことを考えない「自己中心的な行動」でしょう。
仕事に関して「長期的な利益」について考えると云うことは「自分よりも若い世代に残す未来」について考えること、つまり「責任感の伴う態度」です。これに対して「業務の『私物化』」とは、仕事に臨むに当たって「今」の「自分」のことしか考えないこと、つまり「無責任な態度」です。
『映画秘宝』は、彼らが「精神年齢の幼稚な奴ら」と見なして嘲笑していたアニメオタクや「馬鹿な宣伝に騙されて底抜け大作を観に行く奴ら」と侮蔑していた女性と、彼ら自身とを勝手に比べて「自分たち(=『映画秘宝』の編集者やライター)はアイツらと違って『大人の男』なんだ!」と周りに向けて盛んにアピールし続けてきました。しかし、果たして彼ら自身は本当に「大人」と呼ばれるに値する人間だったでしょうか?
「雑誌の未来」よりも「自分たちの欲求」を優先し続けてきたことを、中心メンバーによる「業務の『私物化』」と呼ばずして何と呼べば良いのでしょうか?「身体は大人、頭脳はコドモの幼稚な遊び」でしょうか?
高橋ヨシキら「切り株派」が居なくなった2号目にあたる『映画秘宝』に、アニメ作品の特集記事が掲載されることが予告されました。この「居なくなった途端に」と言っても良い動きを見るに、おそらく「切り株派」が彼らの一存で他の派閥の編集者やライターに対して「『映画秘宝』でアニメ作品を扱うなよ!」と有形無形の圧力を掛けていたことは、想像に難くありません。そのような圧力が存在したとしたら、一部の人間の一存で企業努力の可能性を封じられていたことになるのですから、これもまた「業務の『私物化』」です。
「今」の「自分(たち)」のことしか考えない「無責任な体質」なのだから、年下の女性に対して恫喝DM攻撃を行ったり、自分たちよりも年下のフリーの女性編集者に対してパワハラを行ったりするのも、何ら不思議ではありません。告発を受けるまで、何一つ疑問に思わなかったのは「本当」でしょう。何しろ彼らの頭に有るのは「自分(たち)のこと」だけなのですから。
奈良さんがパワハラを告発した後に柳下毅一郎が出した、あの謝罪文としての体を成していない文を読んだ時も「ヨシキくんが報われて欲しい」とか、被害者を置き去りにしたことを書いていて「本当にどこまでも『自分(たち)のこと』だけに終始するんだな」と私は思いました。東大を出たぐらいだから間違いなく柳下毅一郎は頭が良いはずなのに、被害者を含めた「他者の存在」に対して満足に想像力を働かせることも出来ず、謝罪文一つまともに書けないとは流石に想像できませんでした。子供か。
『映画秘宝』の中心メンバーとも呼んでもいい人間たちが「業務の『私物化』」をし続けても恥じなかったのは、彼らの根底に有る「ボンクラと云う『甘え』」の精神だと私は思います。
これでおそらく私の育った実家はめちゃくちゃになるのだろうなと予想している。
母は敵がなければ生きていけない人だった。
母の幼い頃は、それは妹である私の伯母だったという。二つ年上の伯母は母とは折り合いが悪い。私が見ていても顔を合わせるたびによそよそしさがあったし、ごく最近あった親戚の葬式で同じ場所にいたときはほとんど顔も合わせず会話もしなかった。
叔母は要領が良いため、母は自分が使われているように思えたのだろう。
私が小学校低学年の頃は、母の敵は私だった。
うちは東北の雪深い地方だ。寝ずに外で反省していろと言われ、ダウンジャケット一枚で外に出て立たされた。アパートの他の階の人たちが憐れむような目を向けてきていた。翌朝は足の爪の色がおかしくなった。
誰かになにか言われたのかベランダに出されるようになった。寒さで足踏みをするとうるさいといわれた。
私が小学生高学年の頃は、母の敵は同じアパートの上の階の人だった。
洗濯機の水を溢れさせて我が家にこぼしたその人を、母は何度も責め立てた。傍から見ていてどちらが被害者でどちらが加害者かわからないほどに責め立てていた。我が家はアパートの二階で、母の声は大きい。そのため母が玄関先でその人を責め立てるたびに上の階へ行く人が気まずそうに階段を昇っていくのを見ていた。
とはいえ、その人は二回洗濯機の水を溢れさせた。しかも初回の一ヶ月後だった。
私が中学生になった頃は、母の敵はまた私に移った。
なにか話しかけても無視される。食事は出してもらったし洗濯もしてもらった、ごく一般の家庭である世話はしてもらったが、会話だけは完全に無視された。何を話しかけても無視された。そのくせ授業参観の提出物などを出さずにいれば独り言の体をとりながら文句を言われた。しかし文句にいくらこちらが否定の理由を口にしても無視された。一方的に文句を言い、気が済んだら母は自室のドアを閉めた。
何が原因だったのかは知らないが、母は父を無視し始めた。具体的な内容は、私に行った会話無視、食事を作らない、洗濯をしないなど一切の父に関するあれこれをしなくなった。父は自分でシャツにアイロンを掛け、食事を作り、洗濯をするようになった。
母は父がいる部屋に立ち入らない。父が居間にいるときは自分は不機嫌ですよと伝えるように勢いよく自室のドアを閉め、なかでわざとらしくこちらに聞こえるように邪魔者がいると言う。他人に不快感を持たせたいのだろう。
こんな母との仲を取り持つように父にいわれた。
父は、私が大学生になって二年目ぐらいで単身赴任をしていた。それが3月で定年退職となり、実家に帰ってくる。今までは単身赴任だからこの程度で済んでいたし父がなるべく母を怒らせないようにしていたし長時間いなかったからなんとかなったが、実家に戻ってくれば今度こそ真正面から激突するのは間違いないだろう。
正直に言って、無理だと思う。
母親の性格上誰か敵がいないと生きていけない。この先も新たな敵が現れない限り、父が敵と認定され続けるだろう。
しかし、私が見ていて母は一体誰の稼ぎで暮らしているつもりなのだろうと思う。こういう言い方はいろんな箇所から怒られそうだが母は養われている立場だ。私の記憶にある限り四半世紀専業主婦をしてきた。最近では自分の趣味の活動費を稼ぐためにパートをしているが、少なくとも四半世紀はただの専業主婦だ。
ネットの言説を受けて専業主婦は給料をもらうべきものすごい金額分を働いていると言っているが、母は高卒専業主婦である。
物事に順番がつけられず、私が夕食を完成させるのと母が回していた洗濯機が止まるのが同時だった場合、洗濯を干すのを優先して「人のために働いていたら夕食が冷めていた」と恨みがましく言う人である。だったら洗濯物後に回せよ、そのなかみシーツと枕カバーじゃねえか。朝までに乾かなきゃならないものですらないだろ。しかも飯食うの早いから後回しにしても全然濡れたままだろ。ていうかそのぐらいなら全然良いんだけど、掃除機かけるのが忙しいから飯はあとにした、冷めてるって言われたときは流石にムカついた。掃除機こそあとでもいいだろ。今住んでるの一軒家だし時間まだ19時代だが?
基本的にごめんなさいが言えず、外面はある程度良いらしいが、私の弟とは年に一度程度つかみ合いの喧嘩を起こす母である。弟は部活でサッカーしてる身長180overなんだがお前は自分の体格を理解してるのか?
離婚するなら自分が慰謝料をもらうほうだと豪語する母である。伝説の92ほどじゃないがどう考えても夫婦生活破綻させてるのはお前なのに慰謝料をもらうと言い張っている。
こんな人が反省するのは無理だし、仲を取り持つのは不可能だろうし、性格が今更矯正されることもないだろう。
私は確実に実家のなかがひどい具合になるのが想定できていたので半年前に実家を出ている。こんな私に言わないでほしい。
約一年前から父にはもっと母と話をしろと言ったが母が父を無視している状況のため話し合いはできず、その実家の状況と一年後の状況を想像した私は体調を崩し、体重が約10キロ落ち、このままだと確実に精神と肉体両方を壊すと思い実家を出た。この状況下でも転職先が見つかったのが僥倖だった。
ついでにいうなら涙が止まらなくなる・食事に興味を持てなくなる・趣味が一切楽しめなくなると典型的な鬱の症状が出ている私に、母との橋渡しを頼み、母の住民票を撮ってきてくれと頼むのが父である。私は仕事してるんだが。どうやって区役所に行けっていうんだ? 昼休みに行ける距離じゃないんだが?
せめてまだ実家にいる弟に言ってほしいが、弟は弟で親のどちらとも口をきかない。父の入った後の風呂には入りたがらず、父と一緒に洗濯物を洗わないでほしいという思春期女子中学生のような可愛い可愛い弟である。私とは年が離れているため目に入れても痛くないし、弟が実家にいたくないというなら私も手取り18万だが弟をこっちに呼び寄せてもいいと思っているぐらいに可愛い可愛い弟である。
とはいえ、この家のなかで母と一番気性が似ているのも弟だ。母とつかみ合いの喧嘩を起こすぐらいにぶつかったら面倒になる。仲を取り持つどころではなくなるだろう。
弟は母と気性が似ていながらもそれを抑え込む術を理解しているので基本的に親とは口を利かないのだ。賢い。家の中でどうすればつかみ合い殴り合い怒鳴り合いの無駄なやりあいをしないか理解している。忍耐力もある。可愛い。
正直もう実家に関わりたくないんだが、でも親が熟年離婚して実家がなくなるのも嫌なんだよな。これは完全に自己中心的な考えだけど帰る場所ってあってほしいというか、うまく説明できないんだけど実家は存在しててほしいし、もし離婚された場合建物がどうなるのかとかそこらへんの面倒くさいのに絶対私が呼ばれる。面倒なので上辺だけでもいいからなんとか暮らして欲しさがある。
父はどうせだったら定年退職後の再雇用で単身赴任をするつもりだったらしいが金銭的に無理だろうと諭したのが私なので一応責任はあるといえばある。精神の安定か、金銭的な安定か、そのどちらかを天秤にかけさせて金銭の安定をとらせたわけだ、私が。
つーか金はあるんだよなあ、年収1000万ってなんだよ。私が一人暮らしになるときに保証人である父親の年収欠かされたんだけど1000万ってなに? 私はその1/3以下なんだけど? それ知ってたら貯蓄もあるんだから単身赴任でもなんでもしてろって言ったかもしれないけど、それにしたって問題先送りしてるだけなんだよな。
母親の性格が悪い悪いと言っていたが、父も良いわけではない。上記に書いたとおりの私が小学生の頃や中学生の頃に無視されたり何だりあった頃は、父は私を家にいれてくれるわけでもなかったし、母に喋るように働きかけてくれるわけでもなかった。事なかれ主義なのだ。
だから私が見捨てても問題ないと言えば何も問題ないんだけど、どうしたらいいんだろうな。
かいてみたら少しは頭が整理できるかと思ったが、やっぱ無理だわ。
幼い頃に母から受けたのは教育のためとはいえ虐待だと思っているし、その時に助けてくれなかった父親も恨んでないといえば嘘になる、でも実家は残ってほしい、なんで残ってほしいのか言われてもうまく説明できないからダメなのでここもうちょっと自分でしっかりと掘り起こしたほうがいいんだろうけど、とにかく嫌なんだ。おそらくも間違いなくも自己中心的な理由だから自分で見つめ直したくなくて逃げてるだけなんだろう。
だとしても仲をとりもちたくないし、でも離婚はしてほしくねーわ。
親のことは親で決めろっていいたいんだけど母親があの調子で父親の話全然訊かないままならそれもどうにもならねーし、もうどうしたらいいんだよ。
一回は無理だって断ったんだけど、きっとこのあとまた言われるんだろうな。平然と私に頼んでくる父親の性格上そうなると思う。いやだな。
俺も大概オタクだが、オタクの「わたしこんなに可哀そうなんです~」みたいな長文きらい
自分の現状を悲観するのは結構なんだが、それでなんか解決するんか?って常々思う。シンデレラか何か?
自分の境遇と重ね合わせて「主人公は自分だった。涙が出た」とかもゾワゾワする。なーにが涙が出たじゃ
要するに都合の良い部分だけ自分と重ね合わせて、私これだけ可哀そうなんですって言いたいだけだろ
周りにどれだけ可哀そうかアピールするための道具として使ってるようにしか見えなくて無理
結局は自分かわいそうですよ~皆さん見てくださいね~みたいな意図を文章の根底に感じてムカムカする
ブクマの上位に挙がっていた「かわいい人にかわいいと言うのは、僕としては結構ありえない 」って記事だが、
これに同意できない。(記事のURL:https://note.com/yasuharakenta/n/ne19f1e86e899)
痴漢とか、通り魔とか、「おかしてー(犯したいの意)」とか言うのが駄目ってのは同意、当たり前だが。
元記事はかなりまとまりがなくて、主張が曖昧なので批判しにくいが、
・付き合いたいのなら容姿のことに言及するのは方法として上手くない
とか多分そんな感じのことを主張していると思う。
(注:元記事はモテ戦略をメインで扱っているが、容姿への言及自体の悪性も割と強く主張している。)
で、考えるまでもなく、これらの主張の正当性は状況や人に依存する。
見ず知らずの人に急に「かわいい」とか言われても怖いだけなのは当然。
でも、インカレサークルの新歓で気になる異性にアプローチすることは自然なことだ。
普通手っ取り早く好みの異性を見つけるための場所だろう(知らんけど)。
また人の恋人観なんてのはかなり多様で、精神的に分かりあうのを大切にする人もいれば、
とにかく好みの容姿を持つセックスの相手を見つけたい人もいる。
後者の場合だったら、欲望むき出しのアプローチがむしろ上手くいって、
丁重に接するのは面倒がられるだけかもしれない。
例えば元記事の場面でもこういう風に盛り上がる場合もある訳だ。
先輩「かわいいねー」
後輩「えー、そんなことないですよ」
先輩「いや、かわいいって!」
後輩「そうですかー笑?ありがとうございます!」
後輩「はめないでください笑」
飲み会の場でこういう軽薄なやり取りは、アイスブレイキングの機能もあるし、
なにより彼らはこれを楽しんでいる。楽しんでいる人にとっては、
勝手に慮った態度で冷や水を浴びせてくるやつの方がよっぽどキモい。
ここには「本当は君はこんなコミュニケーションを求めてないはずだ」っていう
決めつけがあるし、実のところそれは自分の願望を投影してるだけ。うっせぇわって話。
あと元記事には「かわいい」と言うのは「やりたい」と言うのと同じなんて書いてあるが、
これは目を疑うレベルの妄言。美しいものに感動したことはないのだろうか?
また馬鹿らしいだけでなく、容姿に言及する人を性欲に支配された粗野な人であるかのように
TikTokの性的なコメントだっていつも不快なわけではなく、喜ぶ人だって沢山いるだろう。
それを容姿への肯定と理解して喜ぶ人もいれば、内容はどうであれバズることに快感を感じる人もいるし、
twitterに裏アカ女子なんてのが沢山いることからしてもこんなことは明らかだろう。
ただ勿論、容姿への言及に傷つく人もいて、だから問題は傷つく人がいるからやめるべきなのかということ。
世間には快より不快の除去を優先するのが当たり前と考える人が結構いるが、そんなルールはない。
そして容姿への言及によって生じる快不快はどちらもときに重大で、人生を変えてしまうほどの影響をもつこともある。
これは相対的な立場をとって、どっちつかずでごまかそうというのではなくて、私たちは容易にそういう人たちを想像できるし、
場合によっては知ってさえいる。
キモくて性的なコメントであれ、容姿を褒められ、それをきっかけにファッションや美容に興味が出て、
自己変革に成功した人だっているだろう。「良心的」な人間の「良心的」なコメントでのみ人は良く変われるなんてのは
人間のアンビバレントなあり方を無視している。キモいけど嬉しいことだってある。
で、ここまで来ると、この問題はよくある多様性の受容の議論と相似であることに気づく。
つまり、自分にとって不快だけれども、他人にとって快だから存在を受け入れようという話。
だから私は人には容姿への言及をする自由があり、それは悪いことではないことを受け入れるべきだと言いたい(一応言っておくと私は他人の容姿には基本言及しない)。
勿論、同じ論理を使って、容姿への言及が不快な人にとっては「容姿への言及があること」が不快で、「容姿への言及がないこと」が快なのだから、
容姿への言及をしたい人は、「容姿への言及がないこと」を受け入れるべきだと論理的には言えるのだが、
実際にその論理が受容され、浸透することはないだろう。
なぜなら容姿への言及は明白な悪でなく、人のコミュニケーションの自由(≒言論の自由)が保証されることは明白な善だからだ。
ヘイトスピーチでさえ直ちには規制されなかったのだ、言論の自由の価値は理念的にも実際的にもどこまでも重い。
一応注意しておくと、「容姿への言及の自由を受け入れろ」ってことで、「自分に向けられたそれを受け入れろ」って話ではない。
つまり、あなたが容姿に言及されて不快であれば、それに苦言を呈すのは自由だが、
相手が社会的な悪事をなしたわけではなくて、相手があなたにとって不快な発言をしたに過ぎないということ。
そしてそれを喜ぶ人もいることを認めるべきだということ。
自分にそういう発言が向けられるのを予防したかったら、そういう禁止令を確立しようとするのでなくて、
つまり、そういうことを言う人間と同じコミュニティに属さないというのが一番簡単だろう。
あとはそういうのが嫌な人間だということを常々アピールしておくとか。
(注:会社で上司から言い寄られるとか、バイト先の客がしつこく絡んでくるとかは対処しにくいが、
これらは粘着的な気質、ストーカー気質の問題で、容姿への言及がなくなったところで解決しない。)
こう言うと、「何故被害者側が労を取らなくてはならないのか」とか
そういう人は世界が自分のためにできているわけではないことを受け入れなくてはならない。
元記事のような主張を、何故か個々人の精神を尊重するヒューマニズム的な考えと捉える人もいるようだが、
とかなんとか色々書いた挙句、私の根底にある考えがうまく表せていない気がするのでここに文脈を無視して書くが、
私は他人と関わるときにしばしば生じる想像を超えた事態――例えば、人と話すうちに一度も考えたことのない内容が口から流れ出たり、他人の思いがけない側面が表れたりするーー
に遭遇するとき、強く人間の魅力というものを感じる。異質な人間を許容することはときに誰も悪くないのに悲劇をもたらすことはあるけれども、