2022-11-06

anond:20221106152900

とんでもない左遷だな。やっぱ三河武士はんぱねーわ。

もともとの江戸城太田道灌(どうかん)が長禄元年(1457年)に築いた小さな城だった。その後の北条氏時代江戸は寒村にすぎなかった。現在日比谷あたりまで海水が入り込む湿地帯のため農耕には不向きで、人口も少なく、江戸城は荒廃していた。

転機となったのは天正18年(1590年)、豊臣秀吉北条氏を攻めた小田原征伐である。この戦いで最大級の功績をあげた徳川家康は、北条氏の所領をそっくりそのまま秀吉から与えられる。伊豆相模武蔵上総下総上野下野の7国である。だが、これまでの領地駿河遠江三河甲斐信濃の5国を失う。前の領地は150万石、新たな関東領地は250万石。石高は増えても慣れ親しんだ領地を離れることは、家康にとって大きな痛手だった。報奨のかたちはとっているが、関東移封は家康大坂から遠ざけるための秀吉の計略である

記事への反応 -
  • 家康が江戸に移ったのは天正18年(1590年)のことだった。家康はすぐに大きな城を築こうとはせず、まずインフラ整備に着手した。海水が入り込む低湿地帯であった江戸を耕作に適した地...

    • とんでもない左遷だな。やっぱ三河武士はんぱねーわ。 もともとの江戸城は太田道灌(どうかん)が長禄元年(1457年)に築いた小さな城だった。その後の北条氏の時代も江戸は寒村に...

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