はてなキーワード: 生存本能とは
ワイは貧乏と童貞と毒親教育こじらせてしょーもない人間であることをしっかり自覚してて、そのへんのこと割り切って生きてるはずなんやが、たまに唐突に「生きたい」モードのスイッチが入る。
生きてるのに「生きたい」ってのは何か変な話だなぁと冷静になると自分でも思うんだが、とにかく「生きたい」のスイッチが入るんだ。自分にこんな生存本能があったのかと思うくらい「生きたい」を強く意識して、やたらとエネルギーが出てくる。仕事もめちゃくちゃ進むし、趣味にもやたらと気合が入る。ダラダラYouTubeやら見たりしなくなる。しかし、生きたいスイッチが入ると、これまたなぜか普段は思わない自殺の具体的方法を考えはじめる。「あそこから飛び降りたら死ねるな」とか、「あの踏切なら周りに人も居ないし精神的に楽に飛び込めるな」とか、「手首切っても水につけないと血が止まっちゃうんやなぁワイがやってもヘタレだから死ねないやろ」とか。
体感としては、生きたいスイッチが先に入って自殺を考え始めるんだけど、これは繋がらないんよな。何かしらで死を考える瞬間があって、自分の中の生存に関するなにかの回路がぶんまわり始める、っていう順番のほうが自然のはず。とにかく、自覚としては唐突に「生きたい」と思いはじめ、生きたいと思いながら、自殺の具体的な方法を考えたりする。意味がわからないし辛い。めちゃくちゃ辛い。何が辛いかはわかる、自分の考え方が全く繋がってないことがわかるのに、そこから抜け出せなくなる。すごくつらい。
今さっきその状態を抜けてまたしょーもない人間モードに戻ったんだが、自分一人すらマトモに面倒見れないの、他人事なら笑えるって思ってたけど、自分ごとでも笑えるな。笑えるならまあなんとかなるやろ。やっぱりしょーもなモードが自分に一番あってる。生きたいモードが非常に面倒くさい。親もこんな感じで不安定だったからあーなったのかな。
頑張って自己分析してみようか。
・未だに「俺は今まで、貧乏でも毒親環境でも異性に相手にされなくても、お天道様に顔向けできないようなことはしてないはずだ。もっといい人生を送っていなければおかしい」と公正世界仮説の歪んだやつに取り憑かれてる。
一行で終わったぞ。どこぞの糞ブクマカが言いそうな、無駄に辛辣な指摘だな。自分を見つめ直すとかマゾヒストかよ。
で、この公正世界仮説の歪んだやつがたまにひょっこり顔だして、「(もっといい人生を)生きたい」って言いはじめて、理想と現実のギャップで自殺を考え始めるのかな。で、生きたいの部分がエネルギーになってアレコレやりながらも、人生ままならんから死にたくなってくる。繋がっちまったな?
善く生きるメリットは善く生きれることだが、そのメリットはワイみたいな煩悩だらけな人間にはゴミみたいなものか。それでもせめて、寿命までは善く生きてえな。ワイの親みたいにだけはなりたくない。
ないよ
生存本能として差別する意識が本能的に備わってる部分があるから
子供同士でちょっと変だと思った個体はハブられていじめたりする
そういう本能的な現象から発生して社会のあちこちに食い込んでるので、ただのバイアスで客観的な事実や理屈はないものもあり、それは明確に差別となり問題になるのでやめたほうがいいって動きがある
合理的な迫害としての差別と合理的ではないバイアスや思い込み偏見での迫害としての差別があり、後者はやめようぜって現代社会ではそれが論理的だと言ってる
野生動物の世界でもアルビノとか逆に真っ黒になるメラニズムとか見つかりやすくなり生存上不利なので、おまえは邪魔だからあっち行けそばに寄るなと迫害したりする
身体能力上は別に差がなかったりするけど見つかりやすくなって不都合があるからと迫害差別する
差別てのは生存本能から派生して発生する現象だったりするので論理的ではない無根拠なものは理屈上は無くしていかないといけないが
生存本能(?)があるからじっさいに死ねる人は稀だけど、「死にたいと思ったことが一度もない」って人の方がむしろ少数派なんじゃないかってくらい、周りの人は結構死にたがってる
俺も一回首吊ろうとして失敗して以降惰性で生きてるけど、ラクに死ねるもんならすぐにでも死にたいしな
実際の自殺数とか自殺率ではなく、死にたいとボンヤリ思ってる人の割合って昔はどうだったんだろうなあ
江戸時代の町人100人にアンケートとったら何人くらい死にたがってんだろ
なんなら縄文時代とかも気になる 狩猟採集の時代だと死にたいとか言ってたらガチで死ぬからそういう奴はいなかったりすんのかな
何もしないで飢えとか渇きとかで死にたいくらい何もしたくないのに、それをやろうとするとめちゃくちゃ苦しいっていうんだから嫌になる
俺はもう楽しいことがしたいとかそういう大それた望みは持ってないんだ 疲れたから何もしたくない それだけだ
でも何もしないことは許されない 身体が動くんだから働けというのが社会の総意で、俺みたいな金もないやつが何もしないでダラダラ生きていくことはできない
まあそりゃそうだ 理屈もなくフリーライドするやつをのさばらせてられるほど余裕ある社会じゃないんだし、働ける奴は働くっていうのが生命の掟ってものなんだろう すべての弱者が救済されるべきだとは俺も思わん 人間にそんな能力はないし、そんな立派なことをしないといけないほど立派な存在でもなかろう
でもなあ それにしたってだ
俺が生まれる前に生まれたいと願ったから今がある、なんて事実はなく、俺としては「気がついたら生きていた」くらいなわけで、勝手に始められて勝手に引き返せなくなってたのが人生なのに、なぜ大上段に何かすることを求められなくちゃいけないんだ?とは思う
前までは社会は俺を生んだんだから一生養う義務がある!なんて思っていたが、いまはそうは思わない
ただ殺してくれと思う
殺してくれなくてもいい 死のうとしてるときに止めないでくれ、できたら死にやすい環境を作ってくれと思う
もういい 養ってくれなくていいし、楽しませてくれなくていい
自殺を否定するのをやめてくれ 生きてたら何かいいことがある、じゃねえんだよ 風呂に入る気力を振り絞るのに10時間かかる人間が賃労働して生きていけるわけあるかよ
気兼ねなく死ねる場を用意してくれよ
俺はこの世合わなかったんでやめます、すんませんでした、つって円満退生しますよ
なんなら死体処理ぶんの金を取ってくれてもいい 30〜40万円くらいか? そのくらい払えば死体処理してくれるっていうんならしばらく頑張って働いてその金を稼ぐにやぶさかでない 安楽死用の薬とか出してくれるならなおよしだけど、まあそこまでは望むまい 死ぬための機密性高い部屋だけ用意してくれて、練炭は持ち込みみたいな感じでよい
とにかくもう嫌なんだよ
勝手に死そのものを悲劇扱いしてさあ バカじゃねえのか 多様性を重じてくれよ
生きることそのものに向いてない奴だってそりゃいるだろ 苦痛なんだよマジで 全てが
俺を生かす、というか殺さない意味ってなんだよ 倫理ってなんなんだよ 偽善者が自分をいい人間だと思いたいからって「キミにも居場所がある!」つってさあ ねえんだよバカ 何にも考えなくてよくて、何も嫌なことがなくて、老化もしなくて、肥満も病気も何もない、そんな環境が用意できるのかよ できねえなら黙れ 黙って死なせてくれ
生命って最悪だよな
なにが生存本能だよ やってることが恐喝なんだよな 勝手に生まれさせられて、勝手に死が怖くて、勝手になにもかも嫌なんだよ
もう助けてくれ 誰かここから出してくれ
まず、『ダークナイト』は、フロイトの「自我・超自我・イド」の図式に当てはめると解釈しやすい映画です。
そもそもジョーカーってなんなの?というと、病院のシーンでハービーに言っていたように、「混沌の使者」(Agent of chaos)です。
ゴッサムに秩序をもたらそうとするハービーやバットマンに対して、人々の怒りや不安(防衛本能)を煽り、本能的衝動にしたがって行動させることで街の秩序を崩壊させようとするのがジョーカーです。
ここでの秩序とは何かというと、「父権制的な権力」を指します。
これは、明治時代など、近代以前の家父長制でも見られる、父親や「家」といった道徳や社会的信用に基づいて人々を従わせる権力を指します。
近代以前の社会では、家長同士の信頼によって地域コミュニティに必要な産業や社会制度が賄われており、それらの秩序を犯した者がいた場合、例え家族であってもその命を差し出す必要がありました。
父親のもたらす権力・秩序が個人の自由に優越していた時代です。
一方、近代の市民革命以降は、主権者が一般市民(国民)に移ったことで、上記の「父権制的な権力」に個人の自由が優先されるようになります。
コミュニティの構成員の間でも格差があったり、それぞれ価値観は異なります。
するとどうなるかというと、それぞれの権利の拡大やコミュニティの方針を決める上で争いが起きるようになります。
この原動力が、ジョーカーの象徴する「人間の生理的欲求・本能的衝動」です。
『ダークナイト』の公開された2009年はアメリカがイラク戦争の泥沼にどっぷりハマっていた時期で、ジョーカーの爆破などテロ行為と合わせて、この映画をイラク戦争批判と見る人もいました。
私はこの映画がイラク戦争批判だとは思いませんが、「人々の防衛本能によって事態が混沌に陥った」という点では共通していると思います。
イラク戦争の発端は、アメリカを攻撃する大量破壊兵器がイラクにあり、「先制攻撃」の対義名分で侵攻、泥沼に陥りました。
この映画でもそうで、人々が防衛本能によって親しい人物を裏切り、ジョーカーに加担することで一連の計画・悲劇は進みます。
終盤もジョーカーが市内に仕掛けた爆弾から逃げるために船に乗り込んだ一般市民が船内の爆破を免れるために、囚人船の爆破との二択を迫られる展開となります。
終盤の二択のシーンは、人々が社会的信頼や道徳(善)に基づいた振る舞いをすることで危機を免れるわけですが、ここでも生存本能を脅かす不安(本能的衝動)と社会的信頼(父権制的権力)の葛藤が起きているわけです。
この二者の葛藤を説明する概念が、フロイトの「自我・超自我・イド」です。
これらの概念は、父親のしつけを通じて内面化された父権制的権力と動物的欲望・本能的衝動の葛藤の間で揺れ動く人間の自我のありようを表すものです。
この三者の関係を表すものとしてよく触れられるのが、ギリシア悲劇の「オイディプス王」やこの寓話を受けた「エディプスコンプレックス」の概念です。
エディプスコンプレックスの概念によると、幼児期の男児は母親との結婚を望むが、父親と結婚しているため、その願望が叶うことはない。この時、男児に母親との結婚をタブーとする父権的な「規範」(秩序)が生まれ、男児は精神的な去勢を経験するとされます。
要は、母親と結婚したい男児の欲望と、それを男児のモラルとして彼の心の中で禁止する父権制的な権力との間で葛藤する男児の自我の揺れ動きを表しているという話です。
実際、この映画では、ハービーは社会的信用を守る地方検事で、ブルースの幼なじみであるレイチェルの恋人役です。
ブルースのレイチェルへの性欲を抑圧し、彼自身が望む秩序を体現する存在で、ブルースの「超自我」の象徴と言えます。
一方で、ブルース自身に目を向けると、幼い頃に両親を奪ったギャングに、自分自身の幼児期のトラウマである「コウモリ」のコスチュームで私刑を加えることで、彼らに自分と同じ畏怖(トラウマ)を植え付けようとしています。
ブルースが「コウモリをシンボルに選んだ理由」と「なぜシンボルが必要か」(逐次制裁では模倣犯が出るため、模倣犯が出ないよう、悪漢を怖がらせる、畏怖の対象となるシンボルが必要と考えた)は、前作の「バットマンビギンズ」でブルースによる上記そのままの説明があります。
つまり、「ブルース自身が彼の超自我(父親の象徴)であるコウモリになろうとしている」という話で、先述のエディプスコンプレックスにある、父親の座につこうとする男児の精神と合致します。
また、ブルース自身の葛藤として、彼は街に秩序をもたらすという公益性とは別に、Mob(ギャング)への個人的な恨みで制裁を加えている側面があり、この個人的な恨みが暴走してしまうのではないか、そもそも自身の行動はただの私刑(リンチ)ではないかという懸念がついて回っています。
ジョーカーが焚きつけようとしているのは、ブルースのこの個人的な怒りです。
ブルースがMobの制止と社会秩序の実現という社会道徳ではなく、個人的な怒りでバットマンの活動を行なった瞬間、彼はただの犯罪者になります。
ジョーカーの目的は、このバットマンの大義名分を取り払い、自分やスケアクロウなどの怪人や、Mobのようなゴロツキと変わらない存在に陥れることです(この企てに成功したのがハービートゥーフェイス)。
取調室でのバットマン・ジョーカーの尋問シーンで“You complete me.”(プロポーズの慣用句です)と言っていることからも分かる通り、ジョーカーはバットマンが半ば自分と同じ本能的衝動で動いていることに気付いています。
(だから、“You and I, are destined to do this, forever.”となる。)
長くなりましたが、パーティーシーンについて。
このシーンでは、老紳士が父権制的道徳を象徴する形でジョーカーに反抗したため、ジョーカーから“You remind me my father, I hate my father!”(お前見てると俺の父親を思い出すんだよ、大っ嫌いな父親をな!)と反感を買います。
ここでレイチェルが止めに入り、ジョーカーが口元の傷の由来を話しているのが、この場面の一番重要なポイント。
ここで何をしているのかというと、レイチェルを象徴的な意味で自分の女にしようとしています。
というのは、上に書いた通り、ジョーカーはバットマンの片割れです。
すると、ジョーカーにもレイチェル的な存在がいてよい、いるはず、という話になります。
それがジョーカーが”D’you know how I got these scars?”で始める「傷の由来の話」に出てくる「ジョーカーの悪妻」です。
レイチェルをこの悪妻に重ねているのは、逸話に入る前に“I had a wife, very beautiful, like you.”と言っていることから分かります。
ではその悪妻がどのような女性かというと、レイチェルのように慈愛に満ちている反面、ギャンブル狂で、口を裂かれた彼女に寄り添おうとしたジョーカーを拒絶した女性です。
ハービーと同じ検事職にあり、貞淑さを象徴するレイチェルとは真逆の存在です。
ジョーカーのしようとしたのは、レイチェルを自分の別れた悪妻と重ね、彼女と同じ傷をつけることで、レイチェルをその悪妻と同じ側に落とすことです。
おそらくこの逸話自体は嘘です。この場面以前にもGambolのシーンで傷の逸話がありますが、別の話をしています。病院のシーンでハービーに「俺が計画して動く男に見えるか?」(”Do I look like a guy with a plan?”)と言っていることからも、彼がポジショントークしない人間であることが分かります。
レイチェルを殺したり、ただ傷物にするのではなく、その前にこの逸話を挟むことで、その傷は彼女へのマーキングの意味を持つようになり、シンボル的な意味でレイチェルはジョーカーの女に堕落します。
彼女はやがてジョーカーにさらわれて殺されてしまいますが、面白いのは、その時ジョーカーが指定した彼女の居場所です(実際にいたのはハービーですが、言葉の上で彼女と結びついていたのが重要)。
ジョーカーは彼女の居場所を“She’s at avenue X, in Cicero.”と指定しています。
Ciceroとは、共和制ローマ末期の弁論家・政治家・哲学者で、彼の政治思想で理想とする統治機構は「共和制」でした。
「共和制」は、国家主権が人民に存する統治機構で、国家元首(王)により支配する独裁制とは対立する統治機構です。つまり、父権的制的権力とは対立する概念。人民の動物的本能に公共善による秩序をもたらそうとするもので、超自我とイドの調和が取れた状態と見ることもできます。
つまり、超自我とイドの葛藤に揺れるブルースが、本来身を委ねるべき安息の場所にレイチェルがいた、と比喩的に表現されているのです。
(その場所にハービー(父親)を置いとくあたり、徹底してジョーカーは底意地が悪い)
とまぁ、パーティーシーンは、これらの葛藤の舞台となる場面です。
直前でスリロ判事・警察長官が殺されて、ハービーが殺されればゴッサムの司法庁崩壊でその王手がかかっていたり、それを阻止すべく大急ぎで対応するブルースと迫るジョーカーのサスペンスだったり、ヒースレジャーのセリフ回しだったりで見所がいっぱいある、個人的にも好きなシーンです。
怖い話を読むのが好きだ。
怖い話なら「聞いたら来る」系以外は大体好きだ。
ホラー映画も好きではあるけど、画面の外から突然バーン!!叫び声キャー!!効果音バーーン!!みたいなやつは普通にビビるから苦手。
ディズニーランドのホーンテッドマンションに乗った時に、途中にある墓地の墓石の影から可愛いお化けがポーン!って出てきたのにさえビクゥ!!ってなってしばらく心臓バクバクしてたから自分はそういう驚かしが本当に苦手なんだなと思う。
だから突然こない文章タイプの怖いものの方が好き。途中で画像とか挟まないでくれ机に膝打っちゃうから。
オカ板のメジャー所好き。リンフォンとかリョウメンスクナに禁后とかコトリバコとか、くねくねやら後なんだ、リゾートバイトに八尺様辺りは未だにちょこちょこ読み返すし、コッケさんとかも土着のエグい文化って感じでいい感じにゾワゾワする。
あと山。山の怖い話は大体人じゃない、人の幽霊でもないよく分からないものがぽんと居てって感じで好きだ。畏怖を感じるような話が好きだ。
山神様の話、タイトル忘れたけど毛むくじゃらの分からないものがただただ「さみしい」って言ってくるのとか、そういうなんとなく薄寂しい気持ちになるものがたまにあるのもいいよなと思う。そういうのが大好きだ。
どいつもこいつも起源を忘れてしまったような萎びた言い伝えが「なにか」起きることで生々しく息を吹き返すような話が好きだ。最後まで解かれない謎が残ってもいい。それもなんかいい。
聞いたら来るとか怖いじゃん絶対に嫌だ。
最近のマイブームは禍話。元は人が話してくれてる動画?音声?らしいんだけどやっぱり怖くて元を見ることはできないので有志の人がリライトしてくれたやつをちまちま読んでは部屋中の窓や戸を指差し確認で閉めてから寝ている。
だって怖い話読んだ後って想像力が怖い方向に膨張しちゃって何もかも怖いじゃん。
壁に寄りかかるのも怖い。壁に密着しているはずの背中をつっと何かになぞられたり手を掴まれたりしたら嫌だ。
トイレに行くのも、鏡を見るのも怖い。シャンプーもシャワーも怖い。独り言超増える。けど「これに返事きたら怖いな…」ってなってわりとすぐ静かになる。
ベッドの中でいろいろ考えるのも怖い。もし思考に返事が来ちゃったらもう逃げ場などない。でも考えちゃう。怖い気持ちってそういうところがある。生存本能ってやつなんだろうか。
ともかく怖い話を読むのが好きだ。説明されきらないタイプが好きだ。
たとえば学校でいじめがあって、いじめられた生徒の親が学校に提出したいじめの証拠を学校が処分してしまっただとか
痴漢された娘に対して母親が「お前が誘ったんじゃないのか。嫌らしい子」と言ったりだとか(普通なら警察に行ったりとかして大事にするよね)
たぶんその人の性格の悪さだけが理由じゃないんだと思う。何か事件が起きて、それを大事にさせないというのは人間の本能に組み込まれているんだと思う
なんか名前がつけれると思う
私も何かトラブルが起きたときはこれを他の人に知らせないようにしなくちゃ、とか誰にも知られたくないなぁみたいな感情が浮かぶときがある。本能だと思う
ペッパーランチ事件でも、被害者は複数いるとか 複数の女性の免許証や保険証などの身分証明書が見つかっているだとか言われているけど
事件の真犯人や偉い人が大事にしたくないから、お金を使ってマスコミや警察の口を閉じさせるのはわかるけど
末端の人間までが完全に口を閉ざすことはないんだよね。
告発する人間がもっともっとでて来てもおかしくないのにこれについて追及したらまずいってみんな思っている
人間がことを大事にしたくないからとあえて事件の被害者の敵に回ったりするのは多分性格の悪さだけじゃなくて、何かしらの人間の性質が関係してるんだと思うんだよ。人間が事件を隠蔽したがるのは名前がつけられる感情だと思うんだ
いま、自殺したいと思っている人にだけ読んでほしい。
安心してほしい、何も難しいことは書かない。
命の大切さとか、「やまない雨はない」だとか、うんざりするような説得をするつもりもない。
その代わり、聞いてみればつまらない結論かもしれないが、それは許してほしい。
学のない私にはわからないが、きっと心理学か何かの分野では、ありふれた考え方なのかもしれない。
だったらなおさら申し訳ない。私もいい歳だから、生きているうちに書いておきたいと、思い立っただけだ。
自殺したいなどと思っていない人は、こんな陰気な文章を読む必要はない。これからも、どうかよいたびを。
私もあなたと同じく、ある理由で生きる意欲を失った。そこは細かく書く必要はないだろう。理由は人それぞれだ。
とにかく、私は身辺整理を済ませ、遺書に貯金のありかを書き、可能な限り苦しみの少ない、かつ確実な自殺方法を比較検討し、実行の日を決めた。
道具も買い揃えて準備万端、さて・・・と道具を手に取った瞬間、ひとつ疑問が浮かんだ。
仮に自殺が成功したとしよう。しかし、私は死んだのだから、成功したと認識することはできない。
他人から見れば、私は何%かの確率で自殺を成功させるだろうが、それは私とは関係ない世界の出来事だ。
絶対に成功しない自殺など、怪我をするだけでなんの価値もない。私は自殺をやめた。
もし、あなたがこの考え方に心の中で反論できなければ、自殺をしてはいけない。
この先を読む必要もない。つまらない話を聞いてくれてありがとう。さっさとタブを閉じてバナナ食って、散歩にでも出かけてほしい。
あるいは、あなたはこう思うかもしれない。
「それでも死後の世界に行ける可能性に賭けたいんだ。お前のように薄っぺらい言葉遊びを自慢する子供じゃないんだ」と。
ところが、これが自分でもうまく説明できる自信がないのだが、私は死後の世界を信じている。
別に信心深いわけではなく、まあ大切な人がこの世を去ったなら、時の河から上がり、好きに過ごして、また好きな時に生まれてきてほしい・・・程度のユルいものだ。
でも強く信じている。でなきゃ4年の間、毎月ひとりで墓参りして、小一時間墓の前で座り込んだりなどしない。
誤解を恐れずに言えば、私は「脳では」死ねば解放されると完全に信じていると同時に、動物としての本能が、「それは嘘だ」と完全に否定しているのだ。
さて大切なのは、あなたは今、死ねば解放されると思っているだろうが、いざ自殺するとき、私と同じように本能が襲い掛かってくるかもしれない、ということだ。
私と同様、まだ引き返せる段階であればいいが、例えば飛び降りた瞬間に気づいたら目も当てられない。
だから今のうち、できるだけ「動物として」考えてみてほしい。あなたは本当に、自分の死を認識できると思っているだろうか?死後の世界というものを、心の底の底から100%存在すると信じ切っているだろうか?
どうか誤解しないでほしい、「動物には生存本能がある。あなたも本心では死にたくないと思っているのでは?」とか、そんなことはどうでもいいのだ。(死にたいに決まっている。私もそうだ)
あなたを中心とした、あなたの世界で、あなたは、死ぬことが「できる」のか、という、とても単純なことだけ考えてほしい。
もし、それでも天国への扉に望みを賭けるというのなら、この文章はここで終わりだ。
すまないが、何か厳しいコメントをいただいても、うまく返せるほどの知識もない。
でも、私はあなたの細胞が自殺の直前に、そのペテンに気づくことを信じている。
そりゃそうだろう、いい歳して長々と言葉遊びをドヤ顔で語ったんだから、当たらないと恥ずかしいではないか。
(余談)最近はやりの「自死」という表現を使っていない理由も、おわかりいただけたかと思う。自分で「死」ねればこんなに苦しんでないよ。
ヘンに自我なんてものがあってばかみてーにいろいろ考えるから悪いんだ
サルが己とはなんぞやと考え込んでハテには世を儚んで自殺したりするかってことだ
ヒトなんて多少賢いだけでサルどころか虫と同じ 生まれつき生きるようにプログラムされてるからそういうふうに動かざるを得ないってところは何を言っても変わんねえんだ
なぜ生きたいと思うんだろう?じゃねえんだ 生存ってものの性質を考えると、生きたいと思わなかったらサッサと絶滅するんだ
意味はわかんねー、ていうか意味なんてないけど、生きようとする性質をもったものだけが生き残って生殖をし続けてきたからヒトがある
なんとなく存在してる生命に生存本能が偶然あるんじゃない 生存本能があるからいま存在してる そういう理屈だから生きたいと思う理由なんてものを考えるのは愚の骨頂 そんなん虚像しかみつからん
全部意味なんてねえんだよ 俺たちは所詮サルの延長でしかない 賢くもないし選ばれてないし使命なんてないしなんの代表でもない
なのにみんなさあ 俺もだけどさ 無駄に考えちゃって悲しくなったりするわけだ
どうして差別はなくならないんだろう?じゃねえんだよな 魚が共食いしてんのみて「どうして共食いはなくならないんだろう?」なんて思うかって話だ 集団戦法で生きてきたサルなんだから異質なものがあったら排斥したくなるのがあたりまえ むしろ「どうしてこんなに差別が少ないんだろう?」つってもいいくらいだろ 俺たちはすでにめちゃくちゃ頑張ってるよ
神:いない
運命:ない
死後:ない
ないないないの3点セットだあ
俺たちは泡沫ですよ ザコのカスだ
自殺は悲劇じゃねえよお 人生の幸せを決めるのは何か?つったら本人が幸せかどうかだよ
「本当の幸せ」なんてもんはないの 本人が嬉しいと思ってたらいいんだよな
ああー
見たい所だけを見てる感がしてならない。
あと都合よく見ているようなところも。
子供を守ることには賛成だけど、この話に限らず、こういう感じで議論の場をなくすような方向には反対。
例えば、"幼少時に性的虐待を受けた可能性がそれなりにある人たちに向かって"の部分は勝手な誘導。
これが通るなら、多くの議論の機会が失われる。
"犯罪を好む特殊な性癖を持っている人たち"=悪のような感じなのも疑問。
ただの多数決では?
多数決で、多数の平穏のために"犯罪"を定義し、"犯罪者"は国に代理で、死刑を含めて処罰しもらってる。
自身と周囲の安全を考えれば、それに反対なわけではないけど、"犯罪"を悪のように設定するのは疑問。
人間の生存本能の集合が出した答えが"犯罪"であって、そこに善悪の理由をつけるのは難しい気がする。
(個人的には善悪の説明なんて無理じゃないかと思ってる。思い込みや都合のいい解釈意外ない気がする)
仮に"犯罪"を悪とするなら、処罰の代行も悪ではと自分は思う。
繰り返しになるけど、子供を守る事には賛成だが、"犯罪"に善悪を持ち出して議論を停止させることには反対。
相手の話を聞かず、抑え付ければ、より恐ろしい事が起きる
植松の意見には正直同意する部分がある、って意見は事実上封殺され、「気持ちはわからなくもないが植松という『特殊なやべー奴』がやらかしたやべー事件」という論調がギリギリとなっている。だってそういわないと『特殊なやべー奴』の一味だとレッテル張りされるからな。
障碍者にも人権がある、これはとても当たり前のことだ、反論の余地はない。ニートにもKKOにも医療従事者にも風俗従事者にも芸人にも人権はある。ごく当たり前だ。「権利の範囲」についてはもめるところではあるが、ここではそこは論点にしない。ここでやるには不毛すぎる。
俺がまずいなと思ってるのは、植松の意見に蓋をして「障碍者に価値がないなんておかしい!」とキレイゴトをまといすべて植松に背負ってもらおうとしているこの状況だ。テロリストは世界を変えなかったという名言があるが、学びは必要だ。
俺が問題だと思う根源の思考は、「人間に価値がある」って考えだ。人間がいると、何が良いのだろうか?人間は自然を破壊するから無価値だとか、そういう話ではない。それでいうならこの地球だって、あったからと言って何がうれしいのだろうか?
人間に価値があると仮定したとき、じゃあその価値とは何を源泉としているのか?という話になる。だって価値があるなら、その価値ってなに?となるだろう。そうしたとき、「人の役に立つ」とか「人に好かれる」とか、そういうことが上がるだろう。自然を守るとかでもいい。でもそうすると、それに該当しないものは価値がないのか?という話になる。「価値があるから価値があるんだ」みたいな進次郎理論や、「いや誰もが何かしら価値のある行動をしている」という根拠薄弱な謎理論しかなくなるのではないか。その謎理論で納得できない場合、植松の思考に至ることがそんなに不自然で特殊なことだろうか?実際に手を動かすまで行くのは確かに少ないだろう。しかしそれは彼が『特殊なやべー奴』だったからか?彼と全く同じ経緯を辿る人間が、同じ行動に至ることはないのだろうか?その解明のために犯罪心理学者がいる。さっさと殺せという意見は感情としてとても分かるんだが、植松は植松だったから『特殊なやべー奴』だったから殺したのか、誰でもそうなり得ることだったのか、それってとても大事なことなんだ。対策の出発点になる。
人間に等しく価値があるとするのであれば、そうでなく、もう「無価値」だと言ってしまった方が良い。「価値」という言葉は、何かと比べることをどうしても誘発するだろ。ビルゲイツと高架橋の下にいる名もなきホームレスを同価値とは言えないだろう。そのうえで、人間には生存本能や欲求がある。それを満たしてくれる人間は「金」によって得をし、それによって本人もそのほかの人よりも「楽しく」「気持ちよく」生きることができる。無価値ではあるけど、人生には差がある。これは問題ないはずだ。ただその差を得るための努力の総数をすべて均一にすることは不可能だし、あまりにもひどい差で生存本能や欲求を過度に制限される場合、こういう者は救う必要がある。これは一種の保険だ。誰もが後天的に障碍を持つ可能性はある。そういう時に自分の生存本能や欲求を過度に制限されないために、そういう仕組みを作っておくことは必要なのである。プラスの差をたくさん作れる者から、マイナスの差をたくさん抱える者に分け与えることで、全体の生存本能や欲求を調整する。人間は誰もが無価値だけど、生存本能や欲求は現実としてあるので、最低限はみんなで守りましょうね、という理屈だ。感情としてかわいそうだからとかを乗せてもいいけど、それは悪い差別につながる思想だと俺は考えているのでお勧めはしない。
別に誰かを尊敬してもいい。たくさん尊敬されてもいい。しかし人間は無価値だ。その人はたまたま今の人間界で「合致」した人、もしくは努力した人で、そういう人たちが「得」をするのは何もおかしなことではない。しかしそれが人間の価値につながるものではない。誤解しないでほしいのは、「敏腕政治家が不倫したから価値があると思ったけど人としての価値はないね」とか「金で人の価値が決まるわけではない」とか「清い心の人は価値がある」とかいう話ではない。そもそも人間だれしもに価値がない。そういう話。
ニヒリズムとかではない。人間に「価値」を付けると、どこかで植松の意見には到達してしまうし、それは実際に同意の声が一定あった現実がある。キレイゴトでなく存在した。存在したものをしないというのは賛同しかねる。
不正に得をする奴を糾弾していいし、ありがとうと思っていいし、アイツ役に立たねーなと思ってもいい(倫理は置いて)。生存本能を脅かす戦争は愚かな行為だというのも全くおかしくない。でも、人間は等しく無価値だ。無価値だけど人間として生存本能があるから助け合って生きていきましょうね、と、そういう話。
無価値だから殺していいよ、ではない。なぜなら人間には生存本能や欲求があるから。あるものをないとするのは間違いだし、自分もだれしもいつ人に「提供」できなくなるかわからないのだから。
こういうことがほとんど気にならなくなった。
対面だとどうしても上記が気になってしまう。気にしないようにしても、気が(目が)行ってしまう。一種の重力のようだった。
リモートワークになって、これらに気を取られなくなった。うちは常にだれかとテレビ電話してコーディングだのなんだのをしているが、とても快適に仕事ができる、集中できる。物理的接触がないのは非常に良い。欲を言えば遅延がさらに改善されると最高。
逆に仕事できないやつがすげー目につくようになってきた。相手が上司だとかかわいいだとかイケメンだとかおっぱい大きいだとか全く関係なくなった。成果もそうだが、それよりも「成長性」がはっきり見えてしまう。ちょうど新規参画者もいたりして、「話が見えない人」がたくさんいる状態であった。でも、1週間くらいしてくると徐々に差が可視化されてくる。元からいる人で、まったくキャッチアップする気がない人間、そういうのがあぶりだされてきて、1か月たった今では残酷なほどハッキリしてしまった。課長、いい人なんだけどなぁ。今は価値を発揮できていない。逆に「こいつかわいいだけでチヤホヤされやがって仕事しろでも好き」って思ってたヤツがこの一か月でかなり話せるようになった。こういう生存本能的なところは女性の方が強いのかもしれない。はい今さらっと男性差別しました。ここに「性別は関係ない」もしくは「この例で性差に落とし込めるほど一般化できない」よね。気づいたかな。
きっと誰かがもう考えてることだと思うけど、人の心もエントロピー増大させようとしてるのでは?
エントロピーって「乱雑さ」と捉える事が多いけど、言い換えれば「偏りなく平均化されているか」みたいなこととも言える(よね?調べたら情報系だと平均情報量をエントロピーというらしい。関係あるか知らんけど)
人類はどんどん住むところを広げて、今は世界中あらゆるところに住んでいる。
ダイバーシティであらゆるタイプの人達が活躍できる世の中にしようとしている。
情報を広げる手段はどんどん発達して、インターネットで世界中に発信できるようになり情報の偏りができにくくなった。
生物が本能で子孫を残そうとするのは、原初の生き物の元になった分子が自己複製の性質を持っていたからだという説があると聞いたことがある。大元の分子が持っていた性質が本能として残っている。
エントロピーだって、物理法則で「エントロピー増大の法則」があるんだから、生物の本能として残っていたっておかしくない。
生き物自体がエントロピーを減らしている存在ではあるけれど(いろんな分子・原子が機能を持つために無理やりその形を取らされている)、もしかしたら分子原子だけではない概念としてエントロピーが増大できるように最適化されているのかもしれない。
人は集落を作り固まって住む性質があるけどそれは生存本能とのトレードオフの結果そちらが採用されているだけで、もし生きるのに支障がなければあらゆるところに偏在して固まることなく孤独に生きたほうが落ち着くのかも。
現代になり生活が楽になるにつれ、核家族化など小クラスタ化して単独で生きる人が増えているのは自然な変化なんじゃないだろうか。
ネガティブ・バイアス(生存本能で悪い情報ほど強く印象に残る/それを利用して視聴率やプレビューを稼ぐ)ってのがあるので、
ニュースを見てると結果的に処理しきれない不要な悪い情報を集めることになるので
[lifehacker]暗いニュースばかりが続いてもポジティブさを保つ方法
https://www.google.co.jp/amp/s/www.lifehacker.jp/amp/2016/01/160116bad_news_stream.html
ただし、もしも世間で話題になっていることを知りてぇな〜ってなったら
まずやることは、ネットで聞くではなく、大手メディアのニュースサイトを見ることだ
なぜって?大手メディアのニュースサイトは記者名が書かれて文責があるからだ
これをしないと『ネットde真実』を患い、
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人殺しは悪いことだと思う。
ただ、牛の犠牲の元で牛肉が食べられることには目を瞑っている。生きるためには仕方ないことだからだ。
ただ、牛肉を食べなくても生きるために必要なタンパク質やその他栄養素は摂ることができる。卵とか牛乳とかでもね。
ただ、卵とか牛乳は狭い場所に閉じ込められて苦しみながら生きている動物たちが機械のように生み出しているものだ。
放牧されてなるべくストレスなく育ち、最後に一瞬で屠殺される牛や豚と、一生を狭い場所でストレスまみれで過ごす乳牛や鶏ではどちらが幸せなのだろうか。
そう考えると放牧された牛や豚を食べていくほうがマシなような気がする。放牧では限界はあるから食べられる量は限られるかもしれないが。
ただ牛や豚も植物を食べて育つ。
動物は可哀想だが、植物は意識がないから問題ないとは思わない。植物はストレスを与えると成長に悪影響があるそうだ。我々の認識できないような意識を持っている可能性もある。生存本能もあるだろうし食べられるときには同じく苦しみもあるだろう。
人間が牛や豚を全く食べなかったことでその個体数が増えてしまった場合は苦しみ、犠牲になる植物が増えるだろう。草の一つ一つの個体がすべて意識を持っていたとしたら犠牲が増えるとも言える。
人間が家畜として牛や豚を育てなくなったとして、野生の牛や豚が今の頭数以上に増えるとも考えがたいが。
牛は牛で成長するために1匹相当な量の草を食べるだろう。
そうなると、人間として地球の動植物における苦しみの総量を増やさないためには早く死ぬことが正解であるような気がする。植物しか食べないで生きていくほうがもしかしたら犠牲も少ないかもしれない。子供を作るなんてもってのほかだ。
ただ、そういう考えの人が健康的な食事をし、長生きして反出生主義を広めることができればどうなるだろうか。
頑張って布教活動をして、100人の考え方を変えて子供を作らない選択をさせた場合、子供を作らず早く死ぬよりも苦しみの総量を減らすことができたことになる。
さらにその人たちが布教していくことで早く死ぬより圧倒的に苦しみを減らすことができる。これが自殺をしないほうがいい理由だ。自殺をするより、人の考えを変える方にシフトしたほうが最終的な結果はよくなるはずだ。
布教が順調に進み、人類がほとんどいなくなった場合野生動物は間違いなく増えるだろう。増えた野生動物たちは今より植物を大量に食べる。
ただ、相当な量の植物を食べさせ、その牛をたくさん殺したくさん肉を食べる食物連鎖の頂点である人間が減ったことで苦しみは減るに違いない。
環境破壊の観点でも動物や植物の命が失われることが減るに違いない。
ただ、ここでは重要な観点が抜けていると気づいた。地球には定期的に氷河期が訪れるし、巨大隕石だって落ちてくるかもしれない。地球の寿命だってある。そうなると苦しみの総量どころか一瞬ですべてが失われてしまうことになる。
もし人間がこのまま技術を発達させて氷河期を起こさせない技術や惑星外移住を実現させることができれば失われる命を救うことができる。
ただ、ここでも重要な観点が抜けていたのだ。そこで失われるはずだった命を救ってしまったことで苦しみの連鎖はずっと続いていくことになり、苦しみの総量は結局大きくなってしまう。
そこから導き出されるのは、いっそのこと地球自体を人間が破壊してしまったほうがいいのかもしれないということだ。
そうなると、生物がいる惑星を破壊して回るのが正義であり、技術を発達させてなるべく早く宇宙自体をシャットダウンさせる方法を探っていくべきということになる。
となると、我々の観測内でもっとも高度な知的生命体である人間はこのまま進化を続けていったほうがよいのだ。
進化が少しでも促進されるのなら肉を食べたって植物を食べたっていい。宇宙の停止を少しでも早められることに比べたら微々たる影響だ。
進化のためには多様性が必要である。だから頭のいい人だけが子供を産めばいいという話にもならない。
ただ、環境破壊は程々にしなければならないだろう。地球を破壊したり宇宙を止めるための技術を発達させるには膨大な時間が必要だからだ。
持続可能な社会を目指すのであれば失敗は絶対に許されない。犠牲が増えていることを常に考え、確実に宇宙をその寿命より早く止める必要がある。
クビになったらどうしよう。