はてなキーワード: 生存本能とは
人殺しは悪いことだと思う。
ただ、牛の犠牲の元で牛肉が食べられることには目を瞑っている。生きるためには仕方ないことだからだ。
ただ、牛肉を食べなくても生きるために必要なタンパク質やその他栄養素は摂ることができる。卵とか牛乳とかでもね。
ただ、卵とか牛乳は狭い場所に閉じ込められて苦しみながら生きている動物たちが機械のように生み出しているものだ。
放牧されてなるべくストレスなく育ち、最後に一瞬で屠殺される牛や豚と、一生を狭い場所でストレスまみれで過ごす乳牛や鶏ではどちらが幸せなのだろうか。
そう考えると放牧された牛や豚を食べていくほうがマシなような気がする。放牧では限界はあるから食べられる量は限られるかもしれないが。
ただ牛や豚も植物を食べて育つ。
動物は可哀想だが、植物は意識がないから問題ないとは思わない。植物はストレスを与えると成長に悪影響があるそうだ。我々の認識できないような意識を持っている可能性もある。生存本能もあるだろうし食べられるときには同じく苦しみもあるだろう。
人間が牛や豚を全く食べなかったことでその個体数が増えてしまった場合は苦しみ、犠牲になる植物が増えるだろう。草の一つ一つの個体がすべて意識を持っていたとしたら犠牲が増えるとも言える。
人間が家畜として牛や豚を育てなくなったとして、野生の牛や豚が今の頭数以上に増えるとも考えがたいが。
牛は牛で成長するために1匹相当な量の草を食べるだろう。
そうなると、人間として地球の動植物における苦しみの総量を増やさないためには早く死ぬことが正解であるような気がする。植物しか食べないで生きていくほうがもしかしたら犠牲も少ないかもしれない。子供を作るなんてもってのほかだ。
ただ、そういう考えの人が健康的な食事をし、長生きして反出生主義を広めることができればどうなるだろうか。
頑張って布教活動をして、100人の考え方を変えて子供を作らない選択をさせた場合、子供を作らず早く死ぬよりも苦しみの総量を減らすことができたことになる。
さらにその人たちが布教していくことで早く死ぬより圧倒的に苦しみを減らすことができる。これが自殺をしないほうがいい理由だ。自殺をするより、人の考えを変える方にシフトしたほうが最終的な結果はよくなるはずだ。
布教が順調に進み、人類がほとんどいなくなった場合野生動物は間違いなく増えるだろう。増えた野生動物たちは今より植物を大量に食べる。
ただ、相当な量の植物を食べさせ、その牛をたくさん殺したくさん肉を食べる食物連鎖の頂点である人間が減ったことで苦しみは減るに違いない。
環境破壊の観点でも動物や植物の命が失われることが減るに違いない。
ただ、ここでは重要な観点が抜けていると気づいた。地球には定期的に氷河期が訪れるし、巨大隕石だって落ちてくるかもしれない。地球の寿命だってある。そうなると苦しみの総量どころか一瞬ですべてが失われてしまうことになる。
もし人間がこのまま技術を発達させて氷河期を起こさせない技術や惑星外移住を実現させることができれば失われる命を救うことができる。
ただ、ここでも重要な観点が抜けていたのだ。そこで失われるはずだった命を救ってしまったことで苦しみの連鎖はずっと続いていくことになり、苦しみの総量は結局大きくなってしまう。
そこから導き出されるのは、いっそのこと地球自体を人間が破壊してしまったほうがいいのかもしれないということだ。
そうなると、生物がいる惑星を破壊して回るのが正義であり、技術を発達させてなるべく早く宇宙自体をシャットダウンさせる方法を探っていくべきということになる。
となると、我々の観測内でもっとも高度な知的生命体である人間はこのまま進化を続けていったほうがよいのだ。
進化が少しでも促進されるのなら肉を食べたって植物を食べたっていい。宇宙の停止を少しでも早められることに比べたら微々たる影響だ。
進化のためには多様性が必要である。だから頭のいい人だけが子供を産めばいいという話にもならない。
ただ、環境破壊は程々にしなければならないだろう。地球を破壊したり宇宙を止めるための技術を発達させるには膨大な時間が必要だからだ。
持続可能な社会を目指すのであれば失敗は絶対に許されない。犠牲が増えていることを常に考え、確実に宇宙をその寿命より早く止める必要がある。
クビになったらどうしよう。
ゾンビに限らないが、世界を覆う驚異に対抗しているはずが、結局は人間同士の内部抗争に焦点があたっていく状況が辛くなっていく。
ゾンビを例に出したのは、その端的な例だから。例えばバイロハザードの映画では、ゾンビは大した脅威ではない。悍ましいだけの舞台装置でありモブだ。どのバイロハザードの話でも、主人公とアンブレラ社の終わらない抗争を描いているに過ぎない。ゾンビはその中で飼われている犬であり、倒すべき外敵ではない。
あるいはブリーチ。最初こそホロウとの敵対があったけど、終盤は死神とクインシーだ。もうホロウがどうのこうのではなくなってしまっていた。主人公のインフレが招いた結果ではあるのだが。
その点、怪獣ものはやサメ映画は素晴らしい。敵の圧倒的な力に対抗するために全力を尽くさないといけない。ただそれだけが素晴らしい。知略と科学で対抗する人間と生存本能むき出しの怪物同士の抗争には、人同士のつまらないイザコザが箸休め程度にしか感じないから良い。未知の脅威に抗うのはいつもその場にいる不幸な人間だけだ。恐怖があるからこそ敵として成立する。そこには俺つえーの主人公も、転生チート能力持ちの人間もいない。
進撃の巨人はどこに着地するのか。
私達が生きてる世界って「今生きている人間の意見」と「当時生きていた頃の人間の意見(遺言とかも含む)」しかない
それは当たり前のことなんだけど、それだと「生きている」っていう立場のバイアスが絶対にかかる
生と死っていうのは1:1のように並び立っているようで、人間の社会においては生の側に比重が大きく偏っている
だからどうしても私達の世界に存在する「言葉」「意見」「考え方」っていうのはどうしても「生きてこそ」「生きるべき」「どう生きるか」という側に偏る
死人は意見を言えないし、「死んだらいい」「死んでもいい」「死ぬべき」なんて考えの人間から先に消えていくんだから偏ることが必然だ
生存本能なんて言うけど、それは実際は「生きようとする意思が残った」のではなく「死のうとする、死んでもいいという意思が淘汰された」だけだ
キリンは首を伸ばそうと思って伸ばしたんじゃなくて、首が伸びたキリンが残っただけなのと同じように
「know」はその壁を部分的に乗り越えたことを表現したのだと思った
「戻ってこられたんならそれって死後の世界じゃなくて単なる臨死体験によるトリップなんじゃないの?」
「戻ってこられるような可逆性があるならそれは死じゃないんじゃないの?」
という当然のツッコミも認めつつ、彼女は死後の世界(感覚)を知ることによってその逃れられぬバイアスを一部脱して
だとすると「know」の後の世界っていうのは「生と死が限りなく等価値に考えることのできる世界」なんじゃないかなって思った
あの世界では宮崎駿の「生きろ」とか富野監督の「頼まれなくたって生きてやる」なんてキャッチコピーは「古臭い価値観の押し付け」って思われるんじゃないかなって
消化されたとか言いつつ文庫がどこ行ったのかわかんないけど
子供の頃から思っていた。人が自ら死を選んだり苦しむのは悲しい事だ。
同じ日時に、単に病死したり事故死するより自殺の方が悲しいと思う。
なぜだろうか。
生存本能にわざわざ逆らっているという事だろうか。
安楽死であれば病状などにより生きるのが非常に苦痛だからそうせざるを得ないのだろう。
しかし・・・もし・・例えば母が不治の病にかかり(今のところそういうのは無いが)安楽死やむなしとなったらどうだろうか。
私は母が医師に処置されて死ぬまでの時間はベッドの中で母にずっと抱き着いている事を望むだろう。
勿論、事故死や病死や犯罪被害での死にはそれはそれでやりきれない思いや怒りなどが色々あるだろう。
犯罪被害者の遺族などは、この怒りは他者には分からないと言うかもしれない(インタビューをしたことは無いが)。
でも自ら死を選ぶというのは最も悲しいように感じる。
もっと単純に考えると、わざわざ損するとか苦しむという事自体が人間的に合わないのだろうか。
しかし安楽死は耐えられない苦しみから逃れるために仕方なく行われているはずである。
なんとなくパラドックスのようだ。
逃げるのも生存本能ですよ。
まとめ
仮説1「キングクリムゾンとエピタフは最初バラバラのスタンドであった」
仮説2「ディアボロはキンクリを、ドッピオはエピタフを持っていた」
仮説3「キング・クリムゾンは最初、一時的に自分が何者からも干渉されなくなる能力しか持っていなかった」
仮説4「エピタフと同化したことでキンクリは未来を見る力と飛ばした時間の中で世界に干渉する能力を身に着けた」
以上の仮説を一切検証すること無く妄想を垂れ流すだけの内容が以下の増田である。
これは間違いないことなんだよ。
なにせディアボロは自分にとって都合が悪くなるとドッピオという少年の人格に全てを押し付けて逃げてしまうんだから。
これが対等な関係でなく主従関係の形を取っているのも、自分自身に対してすら裏切りを恐れて完全に支配下に置こうとしている臆病さの現れなんだ。
「何か都合が悪いことがあったらひとまず姿をくらまして安全な所に引きこもる。キング・クリムゾンの能力の本質はこれなんだ。
銃弾が飛んできたり厄介な奴らが襲ってきたら、咄嗟に自分をこの世界からくらましてしまう臆病な卑怯者の力なんだよ。
困難に立ち向かうためにドッピオが産まれた
逃げてばかりではやがて手詰まりになるということは分かっていた。
しかし彼がヒーローであることを認めれば、ディアボロは自分が臆病な卑怯者であるという事実に向き合う必要がある。
だからドッピオは忠実な下僕であり、絶対的に下等な存在なのだ。
そんな彼が身につけた能力が「未来を直視した上でそれを乗り越える力」、エピタフだ。
エピタフは未来を見ることが出来る力であるが、そのビジョンにはときにドッピオやディアボロにとっては受け入れがたいような現実さえ映る。
そして何もしなければその未来はそのままの形でドッピオ達を襲う。
その未来を変えるには自分自身が世界に干渉していかなければいけない。逃げていてはしょうがない。
逃げてしまうのがディアボロの本能ならば、ドッピオはその影となる理性の存在。
キング・クリムゾンがディアボロの本能のビジョンならば、エピタフはディアボロの理性のビジョンなのだ。
逃げたいという本能と、立ち向かうという理性。
その2つはやがてひとつとなり「未来を見通した上で、ときに立ち向かい、ときに回避する」という力を持ったスタンドとなって現れる。
ディアボロはこの力を自分のものとして独占し、かつてはドッピオの物であったエピタフをさもディアボロが貸し与えたかのように所有権を主張する。
キンクリが持つ2つの側面
ジョジョフリークの間でしばし話題に上がるものに「キング・クリムゾンは果たして飛ばした時間に干渉しているのか」というものがある。
これについて私が建てた仮説が「キンクリはときに干渉するし、ときに干渉しない」である。
私はこれが言いたいがためにここまでダラダラと精神論を書き連ねたと言っていい。
飛ばした時間の中に干渉するとき、キング・クリムゾンは過酷な未来に向かって立ち向かう理性によって動き、
飛ばした時間の中に干渉しないとき、キング・クリムゾンは過酷な現実を避けようとする本能によって動くのだ。
逃げ出そうとする本能的な衝動を理性によって縫い固めたものこそが、キング・クリムゾンの繰り出す攻撃なのである。
度し難いほどに臆病で凶暴な生存本能と、それによって生まれた臆病で凶暴な理性、その2つが混じり合った姿こそ、2つの顔を持つ悪魔のスタンドなのである。
おわり