はてなキーワード: 学術とは
2012年に京都大学数理解析研究所教授の望月新一が ABC予想を証明したと論文を発表し、およそ8年の査読を通して2021年3月学術誌「PRIMS」上で発表された。
2017年ごろから査読が終了しABC予想が証明される!とマスコミでも度々騒がれていたが、現状はどうなっているのだろうか。
結論からいえば、今現在も数学会はこれを証明として認めていない。
論点1
基本的には査読期間に問題点や疑問点があれば、他の数学者によってその懐疑点を提言し解決や訂正を重ねていく。
実際、望月氏の論文にも指摘があった。指摘を行ったのはボン大学教授のペーター・ショルツェである。ショルツェ氏は30歳でフィールズ賞を受賞した現在の数学界のトップリーダーでもある。
ショルツェ氏は2018年3月、望月氏のいる京都へ訪れ直接論文についての議論を行い、その上で『Why abc is still a conjecture』という評価文を発表した。
この評価文は、一言でいえば「証明は根本的な所で間違っている」である。
望月氏は2018年7月にこの評価文についての反論文を出しており、この両者の主張がどちらが正しかったのか、これに関して第三者が明確な判定は行っていない。
論点2
学術誌に論文が掲載されたのであれば証明に問題はないのではないか
→学術誌に論文が掲載されること自体は形式的な意味合いが強く、掲載=証明の担保とはいえない。
さらにいえばこの学術誌『PRIMS』であるが、この発行元は京都大学数理解析研究所であり、編集長は望月新一本人である。
他意的なことを排除しても、この掲載が正当な評価を出来ているのかは疑問が残る。
論点3
1. ある程度既に議論されているかもしれないが、今回の件が今まで問題視された公共空間・広告における性的な女性表象への批判と決定的に違うのは、Vtuberの身体は今まで問題とされたような二次元のキャラクターのような意図をもって製作された純粋な”デザインそのもの”なのではなく、中の人と結びつけられた疑似的な肉体でもある点だと思う。今までであれば、女性の描かれ方、デザインに関しての作り手の意図という点に着目して、性的に扱う意図をもってデザインされたものが公共空間や公共広告で扱われることを問題視する事に理があったように思う。描かれ方・デザイン(その意図)の問題であって単純に胸が大きいとかいう問題ではないという話だったからだ(だから宇崎ちゃんの件も現実の胸が大きい人への逆差別”ではない”というフェミニズムを支持する側の理屈にもなっていた)。
それが今回の件に関しては、Vtuberの身体はデザインでもある一方、中の人間の動きと外のガワが一体になって(今回の件では)3d空間で動いているVtuberという存在にとっての肉体そのものでもあるというのがややこしいというか、議連の批判が今までのフェミニズムからの公共・広告における性的な女性表象への批判と比べて明らかに大きく反発を受けて逆に批判を受けた部分だったなと思う。
議連の人たちはVtuberを3Ⅾアニメーションぐらいにしか認識していなかったのだろう。そして、今までの広告で扱われる性的な女性表象の問題においては、その作品がどういう作品なのかという文脈を知る必要はない、その作品を知らない人も目にするのが広告であるから、広告それ単体で女性表象がどう扱われているかのみが問題であるという理路が使われていたように思う。それはそれが二次元にとどまる話であれば正しかったように思う。だからこそVtuberがなんなのかよく知らなくても批判するという事が当然の帰結として起きた、今回の件は起こるべくして起こったと思う。
今回の件はフェミニズムという思想に依拠した批判・炎上問題の中でもとしてかなりフェミニズムに分が悪い出来事だったなと思う。Vtuberの身体とは何かという話は正直自分もきちんとした答えを持っていないし、この文化が今後も発展していけば学術的な議論も深まっていくんだろうなと思う。そんなまだ学術的な議論も深まっていない分野でフェミニズムの名を冠した人々が理論構築の甘い批判をしてしまった(少なくともそう思う人が過去の似た事例に比して格段に多かったと思う)。私はVtuberが好きな人間でもあるが、フェミニズムに興味がない人間だったとしたら、フェミニズムは自分の好きな文化にとっての敵だとしか思わなかっただろうなと思う。
Vtuberはなりたい自分になれる文化というのは特に2018年ぐらいの初期の頃のVtuberとは何かという話においてはまさしくその通りだったと思うし、今も個人VとかVRチャットとかの文化ではそうなんだと思う。この世界観をVtuberに親しんでいる人が共有しているというのも議連への批判が大きい点だろう。ただ、企業Vは必ずしもそうじゃない。デビューした後の別の新衣装とかは本人の意を汲んだものになることが多いけれど、最初は既にデザインとしての肉体(ガワ)は決まっていて、そこにオーディションを経て中身が決まっていく流れだと聞く(個々の企業によって差異はあるかもだが)。なりたい自分の姿を選んでいるとは限らない。
でもさらにややこしいのは、中の人間のプロポーションとガワの肉体のプロポーションをある程度同じにしている企業もあるらしいことで。胸が大きくてすごく揺れるVtuberがいて、そして更に中の人も胸が大きくて、中の人の動きをガワたる3dモデルに反映させている以上、3dモデルの胸の動きも中の人の胸の動きとある程度リンクしているとする(モデルと中の肉体で動き方が同じとは勿論限らないというか多分違うと思うが正直詳しくない)。そしてこのVtuberが警察とのコラボのような公的な広告に出ることがあった場合、今回と同じような批判がフェミニズムの立場からそれになされて、企業Vの中の人が自分のモデルを不適切だと批判されることは自分の肉体に対しても差別だと抗議した場合、自分は正直フェミニズム側からの批判を支持できないなと思ってしまう(起きていない仮のケースを想定して支持できないと述べるのは不誠実だとは思うが、起こり得ることだと思う)。今回議連を批判している人にとっては、私が例に出したケースと今回の事はほぼ同じだろってなりそうだけど(私にとってはそうではないが)。
Vtuber文化は今後も発展して警察のような公的な機関や催し事とのコラボも増えていく事と思う。そしてそれに付随して、公的なものに相応しくないという批判からの炎上も今後も目にしていくのではないかと思う。オリンピックの小山田氏やラーメンズ小林氏のような過去の不適切な発言での問題が、もしVtuberで起きて、そしてそれがVtuberとして活動する前の、Vtuberたるその人ではない純然な中の人間としての過去の発言だった場合、それはVtuber〇〇としての問題として扱われるのかどうかとか、そういった事を最近考えている。Vtuberの肉体とはなんなのかというのも、もっと議論が必要な部分だし、容易に結論がつくものでもなさそうだ。だからこそ、もし批判するなら真剣に理論を立てないといけない分野だと思う。普段の思想が近しい人同士でも、Vtuberの世界観(個々のVの世界観ではなくVtuberという文化の認識の枠組み)を共有している人とそれを知らない人の間で今回かなり意見の相違がある話だったと思うのだが、オタクの内輪の論理(Vtuberを知らない人には分からない世界観・認識)を持って来られても困るというのは一理あると思うが、この内輪の論理を共有する方が多数派になってしまったら結局そんな言葉もかきけされてしまうんだろうなと思う。知ろうとしない方が悪いとか言いたいのではなく、ただそういう未来がありそうで嫌だなと。
2. 現代の日本にはフラワーデモが起こったきっかけでもあった性犯罪の判決や、知識の不足や劣悪な環境に置かれたことでやむなく堕胎も出来ず病院にも行けずに一人で出産して赤子を死なせてしまった女性が犯罪者となり父親は何も責任を問われないような司法での女性の扱われ方に関する差別の問題がある。医学部の受験における差別措置も記憶に新しい。女性の政治家の数は少ないし、女性の総理大臣も0だ。ジェンダーギャップ指数の世界ランキングなんて参考にしなくても、日本には是正されるべき男女差別があり、その為にフェミニズムという思想がまだまだ必要である事は前提として認められる社会になってほしいと私は思っている。
公共空間・広告における女性表象の扱われ方の問題は勿論大事な問題であるし、フェミニズムにとってなおざりにしてよい問題であるとも思わない。だが、先に挙げたような女性差別の問題に比べると、人それぞれ色んな価値観があるし、フェミニズムを支持する人間の間でも一番意見がバラバラに感じるトピックだと思う。私としては女性表象の問題はフェミニズムという思想にとっての”鶏肋”であると常々思っている。鶏肋とは三国志で有名なエピソードが由来の言葉で、意味は「大して役に立たないが捨てるには惜しいもの」である。
私は少なくとも今までの女性表象に関する問題はフェミニズムの立場からの批判側に理があると思っている。しかし、一連の女性表象の批判は繰り返す度にフェミニズムを嫌う人間を増やしこそすれ、フェミニズムを支持しようという新しい賛同者をそこまで増やしているようには、少なくとも嫌われる人数を上回る程には新たな賛同者を増やしているトピックには思えない。思想が政治的に勝利するためには賛同者が増えなければいけない、いくら理論で勝っていたとしても民主主義においてはその賛同者の数が力になる、政治で勝つためには賛同者を増やす戦いになる。批判する側が悪いと言いたい訳ではない。これを批判する人々自体は必要であるとすら思う。女性表象に関する事で傷つけられた人も過去・現在も存在していて、その人たちの事を考えたら決して役に立たない問題なんかではない。ただ、女性表象の批判は賛同者の増減に関しては基本的に分が悪い戦いで、基本的に負け戦を強いられるものだなと見ていて思う。女性表象の批判でフェミニズムを敵視する人間の声が大きくなる風景がどんどん広がるばかりだ。嫌われるから批判をやめろという話ではない。嫌われるのだからこそ、理屈で負ける批判をしない事が大事だと思う。フェミニズムに興味のない人間にとっては、娯楽への批判なんてのは繰り返せば繰り返す程嫌われるものだ。いかに損害を出さずに負けるかという負け戦なのだと思う。今回の件がニュース番組や新聞など今までに比べて大きくメディアで取り上げられているのは、今回の件が華々しい(無惨な)負け戦だからだ。フェミニズムを嫌う人間にとってはこれほど溜飲が下がる事はないであろうし、メディアもフェミニズムが叩かれている所が人々の耳目を集める格好の餌だと分かっているから宇崎ちゃんやラブライブ!、アツギのタイツとは比較にならない程大きく取り上げる。自分は今回のメディアの取り上げ方にも不信感というか、怒りというか、やるせなさというか、とにかくいやな気持がした。
楊脩は”鶏肋”との言葉を聞いて「鶏のあばら骨は捨てるには惜しいが、食べても腹の足しになるほどの肉はついていない。この戦もそれと同じだ」と解釈して軍を撤退させた結果、曹操に首を切られた。私は自分を楊脩になぞらえるような真似をしたい訳ではないが、上記の自分の意見もフェミニズムを支持する人から批判されるだろうと思うし、それは甘んじて受けるつもりだ。正直言って自分が正しいかどうか自信がない。でも、この表現をめぐる問題で一致が見られなくても、社会に是正すべき女性差別があるという点で一致できれば連帯していく事が出来ると思う。もっと言えば、件の青識氏とおぎの議員に関しても、表現をめぐる問題で議連を批判する立場であっても、他の部分でこの社会に女性差別があり、それは解消されるべきで、そのためなら議連とも連帯していきたいというメッセージがあるのであれば彼らを支持するのも全くやぶさかではないと思う。私が彼らを支持しないのは、差別を是正して社会を良くしたいという動きに対して、方法論の違いで衝突しているのではなく、敵対者としてその理想そのものを腐し足を引っ張る為に、自分が支持していない敵対者の思想の論理だけを借りて相手を批判し、批判に使った論理の元の思想(フェミニズム)が目指す理想そのものは唾棄して見もしないような輩だと思うからだ。今回の件で彼らの影響力が増しても彼らはそれを上記の女性差別の解消には向ける気はないだろうし、そんな人間がフェミニズムの論理でフェミニズム議連を批判し、そしてフェミニズムに興味のない人間からは彼らの方がよっぽどフェミニストだと思われるであろう現状が死ぬほど馬鹿馬鹿しい。
山田太郎議員のようなオタクというアイデンティティをナショナリズムのようにくすぐって、あおって、票にしていくスタイルは、おぎの議員の登場により今後アンチフェミニズムと結びついて、それだけでシングルイシューとしてオタクから票を集められるような政治勢力に発展していくのだろうなと思う。「フェミニズムから表現を守るオタクの会」なんて党が出来て議席を得るのも時間の問題だろう。今後この問題がアンチフェミニズムの立場から定期的に引き合いに出されるだろうことも想像に難くない。Vtuberという若い文化が今後発展していけばいくほど、この文化に若い人間が参加していけばいくほど、「フェミニズムとは僕たちが愛する文化を排除しようとする敵なんだ」と先輩オタク達が後輩に囁く風景が見られることだろう。暗澹たる気持ちだ。どうしようもない負け戦だった。
こんなことやってるの俺だけじゃねと思っても、ネットで訊けばそんな奴たくさんいるという答えが返ってくる。
時代が古ければ古いほど何かをやったときにそれが今生きてる人やそのさらに昔の人がやったことと被る確率は低いはずだ。
今はもう時代が進み過ぎてる。生まれた時代が不幸だったといえる。
変な趣味を持ってると思ってもこんなもので抜いてる奴いねーだろと思っても、そういう一見奇抜だが日常的な範疇に属する行いでは先駆者になれない時代なのだ。
学術的な研究やスポーツならたとえばフィギュアスケートで5回転半するとかじゃないと可能性がない。とにかく日常的なことはだめ。
もしかしたら誰にも言ってないだけで実はサトシナカモトより先にブロックチェーンの理論を構築した人がいるのかもしれないし藤井聡太より強いのに協会に加盟してない八百屋のおじさんがいるのかもしれないが、そんなことまで考えてたらさすがにきりがないけど、でもやっぱりそうすると学術的なこととかでも先駆者になれる可能性は日常的なことに比べればせいぜい相対的に高いということしか言えないのかもしれない。
学術会議任命拒否は何も関係ないだろ。どさくさに紛れてしれっとねじ込むなよ。
フェミ議連がどれだけアレな集まりだろうが任命拒否は正当化不可能だから。
(まあ、騒動になる程度にアレな人間っていう印象のわかりやすい説明にはなるが。)
ちなみに日本数学会や日本物理学会も声明を出してるので、何も「一部の文系の政治的に偏った連中だけが騒いでた」わけではないことは理解して欲しい。
色々な話が散らばってしまっているので整理
学術会議への任命を拒否された宇野重規東大教授、全国フェミニスト議連の顧問だった(https://togetter.com/li/1778028)
フェミ議連ももちろん抗議している(https://afer-fem.org/?p=1225)
やまなみ工房という障碍者福祉施設があってそこに通う人がリハビリがてらに描いた文字を羅列しただけの絵に100万だかの値がついてる。
割と時間をかけた力作もあるがそれでも300万とか400万とかいう値がつくのは行き過ぎではないか。
他にもNFTだかいう技術の波に乗って小学生がWindowsのペイントで描いたようなクオリティの絵が万単位で売れていく。
その小学生は数か月で300云十万稼いでいる。どうにも海外の有名人の目に留まりSNSのアイコンに作品の一つが使われたことによって価値が爆上がりしたらしい。
俺はなんでも鑑定団をよく見るがあの番組では芸術に文字通り生涯を捧げた人達が紹介される。
画材などに財を全てなげうって、食べるものも切り詰める清貧の生活の中で芸術家として大成していく様が伝えられる。
そんな人が描いた絵なのに、たとえ本物でも「150万円」という鑑定額だったりする。
前はそれを安いとか思ったことはなかったが今の風潮に照らし合わせると過小評価な気がする。
あるいは逆か。障害者の描いた絵が数多の芸術家達の歴史を踏まえず評価されすぎているきらいがあるように思える。
なんで芸術家と比べてしまえば本気度が低いに決まってる人たちが悠々自適に描いた絵に悠々と大金をかっさらっていくのか。これでは芸術家が報われないのではないか。
別に「障害者が作り出すものは劣っている」とか言いたいわけじゃない。障害者どころか健常者の平均的な画家と比べても、なんでも鑑定団で特集される芸術家の芸術に捧げる熱量は、比較にもならないだろうが。
まあ作品が一品物だからということもあるわけで、たまたま金持ちがその障害者の絵を気に入ってそういう金額が買い取ったというだけの話かもしれない。
つまりそういう金額は一個人にとっての価値であるだけで、客観的な価値を反映したものではないのかもしれないというわけだ。
「客観的」という言葉を途端に胡散臭く感じるだろう?「『客観的な価値』ってなんだよ」と言いたくなるだろう?
脱線するがアレイスタークロウリーなる魔術師を自称した実在の人物は法の書という出版物のなかで「真の意志」という概念について説いている。
「真」という言葉も、客観性と同じようなうさん臭さを持っていると思う。
たとえば惰性で好き勝手に振る舞うことを真の意志とは異なるというようなことが書かれている。でも見方によっては、好き勝手に振る舞うとは何かしら律するものの影響下にないということで、そこで発現されている行動はありのままの意志の反映なのではないのか。
ありのままを「真」という言葉で言い替えれるとするなら結局それはそのまま真の意志という概念に対する反論になる。
それを退けるためにはこのような「ありのまま」が真というものに対する言い替えとはならないわけとともに、では真という言葉は具体的にどのような性状を指しているのかを説明する必要がある。
真とか客観とかいう言葉を使う人たちは往々にしてそこらへんを「当たり前のもの」として、分かっているものとして論を進めてしまうから胡散臭いのだと思う。
とはいえ、こうも当たり前のように客観とかいう言葉が飛び交っていると、その中身は素人にはブラックボックスながらも客観というもの自体は幻想ではなく確かに存在すると思うことこそが妥当で健全な生き方なのかなとも思えてきてしまう(こういやって長いものに巻かれる感じで客観や真などのような概念の存在を信じることにしたのは俺だけだろうか?)
俺は気象学が好きでその勉強をしているなかで「予報精度はモデル計算の不確実性に依存する」という文言が出てきたのだが、まあ不確実性って言葉もまた客観とか真という言葉と同等なあいまいさ、抽象性を帯びているったらない。
そりゃ人間が作ったモデルは現実の物理法則に完全に依拠したものではないだろうことはわかるが、不確実性って単語一つで言いくるめられてもしっくりこないわけよ。それでもまあ「モデル計算の不確実性」が在るものとして、そらんじれるぐらいに自分にとって真実になるように努力するわけ。科学的な文脈で語られていることまでいちいち無いものとして疑ってかかるよりも、とりあえず丸呑みにする方が妥当な態度な気がするから。学術的な文脈でも「客観」という言葉をよく見るから、とりあえず客観というものは存在するものとして妥協しておくというのと同じ。
話を戻すが、たとえば俺がモナリザとかひまわりを価値ないといったところで、それらの絵画の価値には微塵も傷がつかないだろう。
そう言うときの価値が客観的な価値だ。逆に言えば、一人の人間がいくら熱狂的に特定の絵を愛して大枚を叩いたところで、ただちにその絵の客観的な価値がそれに相当する客観的価値をもつものとして裏付けられるわけではない。個人の好き嫌いと客観的価値はいうまでもなく独立したものであるはずである。
ダヴィンチとかピカソみたいな大芸術家、あるいはバンクシーも含めてああいう人たちに作品の絵の価値は客観的価値を反映しているといえる。
それは同じ絵が(何度も)オークションにかけられるという過程を経てその経済的価値が民主主義的に固まっていっているからだ。これを実勢価格ともいう。
一方で障害者の絵に対するにわか景気はある個人にとっての価値の反映でしかない。それを指標としても客観的価値は見えてこない。
だからまあ結局、このような状況は五体不満足な障害者にせめて富がもたらされる機会が作り出されているだけであって、芸術家より評価されているというわけではないから、まあ誰も(故人も含めて)実体的そして精神的な被害者はいないからこのままでいいかなと思う。
https://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/2010596.html
この辺見てて思ったけど、はてなーってネット情報に踊らされすぎてる
テレビの情報は鵜呑みにしないくせにネットの情報は鵜呑みにするよな
農業の中でもとりわけ稲作でドローンの利用が考えられているけれど
その主な利用として期待されてるのが農薬散布
昔から小型ヘリとか小型飛行機みたいなのを使った農薬散布はあるんだけど
ドローンになってそれが格安になったから期待されてるんだけど実情はなかなか厳しい
安くなったといっても農薬散布できるぐらい大型のドローンになると100万とかになってきて
村とか市とかの単位で買えば良いって簡単にみんな思うし実際やってるとこもあるんだけど
そもそも農薬って蒔く時期が厳密に決められていてそこから少しでもズレると効果が薄くなる
あと雨に弱い場合とかもあって天気予報と睨めっこしながら農薬蒔くんだけど共同所有だと融通が利かなくなる
コンバインとか田植機とかと似てる
昔の小型ヘリとか飛行機はどうだったかっていうと、地域まとめて農薬散布してたのでそういう問題は無かった
ドローンはそんなに広い範囲に農薬蒔けないので結局個人所有になる
結局、各家庭で個人所有するぐらいなら村単位で小型ヘリとか持たせた方がいいよね、っていう感じになってる
ただ、人手で散布しても1日でざーっと終わってしまうのでやっぱ人件費の方が安いよね、という話になるし
北海道とかの広いとこだとそういうわけにもいかないけど、小型ヘリでいいよね、ってなる
夜寝てる間に田んぼを耕してくれるという夢のような話だけれどこれも厳しい
ただ単に耕すだけならまだしも、田んぼって割と綺麗に畝を作らないと水はけが悪くなる
自動運転がGPS制御されてる場合は誤差が大きくて畝を綺麗に作れない
補正情報貰ってセンチメーターレベルで補正が効けば比較的真っ直ぐ走るけど投資費用が半端ない
田植えや稲刈りなんてのは運転は二の次でどっちかっていうと苗の補充や籾の運搬なんかの方が遙かに大変
軽トラに自動運転付けてボタン一つで家まで持って帰ってくれる方が遙かに嬉しいが、公道を走る自動運転レベルがどれぐらいかはご存じの通り
クローズドな田んぼの中だと自動運転が楽に出来ます、っていう話だけどそもそも需要があんまりない
そもそも今の稲作のやり方を続けて自動化するってのは無理があって
人間が作業しやすいように設計された稲作の方法じゃなくAIが作業しやすいような稲作の方法への転換、っていう考え方がある
例えば苗を作って田植えするんじゃなくて種を直播きしよう、とかいう試み
収穫量は減るが稼働も減るし自動化もしやすいのでトータルとしてはバランスが良いという考え方
しかし実際にやってみると昔はいなかったジャンボタニシに種を全部食べられて全滅っていうね
考え方はあってると思うけれど実用化するにはまだまだ先が長い
よくテレビで出てくるのは大学とか大手企業とかが参加した実証実験
お金は全部出してくれるしなんなら謝礼や使用料とかを払ってくれる
なのでドローンを使った夢のような農業とか無人で耕すとか採算度外視で実施して
いざ実用化ってなると上記のような問題にぶち当たって実現せずにいつの間にか無かったことになる
学術系のこういうムーブメントは否定はしないけどもうちょっと考えてやって欲しい
ただただ目の前の科研費とか研究費を消化するためにやってるようにしか見えないし
下手にメディア受けするもんだから見ている側はiPhoneが発表されてるのと同列に扱ってしまって
「すぐにでも実現可能でしょ?」
女子中高生ら装いSNSで交流相手募ったら…9時間で160人返信、性的要求が大半
https://news.yahoo.co.jp/articles/b8a19d3749989c993e2730e4f95e285f66617a65
これさあ、実態を把握するのは意味があるし、ゲスいアプローチの地獄絵図なのも気持ち悪いけど、
学術的な裏付けにもとづく安全管理や法的根拠や倫理性に細心の注意が必要なので
記事中でも、2020年のチェコのドキュメンタリー映画「SNS―少女たちの10日間―」を参考にしたと書いてあるが
それであれば当然2007年のアメリカのリアリティショー「To Catch a Predator」も念頭に置くべきで、
こちらは番組がおとりの少年少女を用意して接触してきた大人にカメラクルーが突撃するという番組。
最終的に、13歳の少年を装ったおとりにひっかかった検事に突撃したらその場で自殺したという事件があって放送打ち切りになった。
そもそも借金抱えている人の前に大金の入った財布を落としておくような、
ギリギリで犯罪を犯さないように耐えている人の背中を押すような行為はどうなのかとか
いろいろ論点があるのをわかったうえでやっているのかこの報道だけでは疑問が残る。
こういうこと言うと犯罪者や予備軍の擁護と言われるんだろうけど
なるほどね
ニューヨーク・タイムズの報道では、2014年時点で入手できる中で最も包括的なデータでは、最新の瞬間冷凍プロセスを使った場合、新生児出生の失敗率は30歳女性で77%、40歳女性で91%であり、2011年の1年間で38歳以上の女性が冷凍卵子で出産した新生児は世界全体でも推定10人程度となっている。
2020年1月、スコットランド・エジンバラで開催された学術集会でNewcastle Fertility Centreの研究者が過去15年間わたる「ヒト受精・発生学委員会」のデータを解析し、卵子凍結での妊娠成功率は18%と発表した。この報告を受けて英国不妊学会は「卵子凍結をしても『将来の出産が保証されるわけではない』ことを知っておくべき」と警告している。
まあもう散々言われてることなんだけどさ、先週の立憲民主のこれ
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210907/k10013248911000.html
もう本当に残念って言うか、これ本当に今言わなきゃだめなんか?って感じがめっちゃするよね。
わかってるよ、もう増田でも散々言われてて、今更言うことなんてないよ。
https://anond.hatelabo.jp/20210908083306
https://anond.hatelabo.jp/20210913214824
https://anond.hatelabo.jp/20210913215824
でもさ、改めて並べるけどさ、中身のこれさ
1.補正予算の編成
5.スリランカ人ウィシュマさん死亡事案における監視カメラ映像ならびに関係資料の公開
2.LGBT平等法の制定/同性婚を可能とする法制度の実現を目指す
3.DV対策や性暴力被害者支援など、困難を抱える女性への支援を充実
4.インターネット上の誹謗中傷を含む、性別・部落・民族・障がい・国籍、あらゆる差別の解消を目指すとともに、差別を防止し、差別に対応するため国内人権機関を設置
まじでやるべきとか議論するのがアホなんじゃないのって思うぐらい当たり前のことじゃないすか???
この中で政治っぽいことと言ったらせいぜいが学術会議と、モリカケと、人権機関設置ぐらいで、あとはまじで本当になんでやらんのかわかんなくないか???
こんなことを言わなくちゃいけないのがまじで異常だと思うし、わざわざ言うのもアホだし、言われてもやらないできたのはまじで狂ってるとしか思えない。
特に入管の話、いくらなんでも日本国民の多数がスリランカの人を虐め殺した機関を庇い続けたいと思ってるわけはないと思うんだが???
人が死んでんだよ???
いやもうほんと、俺は自民党の偉そうにしてる爺さん婆さんは心から気に入らないんだけど、正直なところ、ここでこんな高校生が考えたみたいな目先だけの主張出してくる立憲民主党に投票したくはないです。
でもさ、自民党の今マトモそうな顔して喋ってる岸田とか、って言うか現職のガースーにしても、このまま上のやつまじでやらないのか???いくらなんでも人非人すぎないか???
まじでこんなことぐらいは普通にやってくれよ。これ一個やってもらうためにアホに投票しなきゃなんねえのかよ。まじでクソすぎる。クソだよ。
単に自民党との差別化のためにエキセントリックな項目を並べただけではないですよ。
そのあたりが、自民党の工作員なのか、単に読解力がないだけなのか分からないんだけど、SNSで腐すためだけの評価が先行してしまったのが残念という話です。
7日の第1弾についてみてみると、
(1) 新型コロナ対策として国民の生命と生活を守るために30兆円の補正予算を組む
自分たちの不祥事の追及から逃げるために、このコロナ禍で補正予算審議すら応じない自民公明に政権担当能力なし
自公政権は、厚労相、コロナ担当相、ワクチン担当相をそろえて船を山に登らせただけ
自民党よ、官邸主導の政治は私利私欲や自己保身のために使うものではない
(3) 当然22年度(令和4年度)予算も新型コロナ対策を中心に国民生活を守るにふさわしいものに組み替える
このように要約したら、今の国民の大多数が求める新型コロナ対応と経済財政政策重視にとてつもなくマッチしてるように見えるでしょう。
そして枝野はどこをどう見ても記者会見の冒頭でそのように言ってる。
これは、政権がかわれば何が変わるのかということを、まず初閣議でもこれだけ変わるということを国民の皆さんに具体的に知っていただくということにつながるのではないかということで、まずこの点について整理させていただいて発表させていただくことにいたしました。
優先順位として後ろに置いた、学術会議人事、モリカケ桜、ウィシュマさん殺害事件の究明(これらがどうでもいいとは言わないが)の方が優先順位が高いかのように書きたててる人は、工作員か報道記事の読解力がないかのどちらかでしょう。