はてなキーワード: 告白とは
そうですね。いつか話す機会があれば…!
お相手の男性の話を聞くことが大好きだったので、色々聞けたら嬉しいですね。
セクハラですか。今のご時世大変ですよね。今は男性と、直接関わりがないので、大丈夫かと思います!
恋愛関係になるための態度ですか…こちらから告白するのがベストですよね
(状況的に今は、こちらからグイグイ行けないので、悲しいですが)
よくある太ももを触ったりしてアピールしても良さそうですかね…?
「ぐふふ」状態だと嬉しいのですがー!もしお相手の男性が嫌だったら、それはそれでセクハラになりますよね。そこだけ怖いです!相手の方が辛い思いをするので…。
行為に誘ってもらえたら、死ぬほど嬉しいのですが、どうなんでしょう?(女性側からは、なかなか誘えないので余計に…。)
私に対する告訴を検討しているという人物、ここでは仮にX氏と表記しますが、X氏及び第三者の方々に対して、以下の点について説明をします。
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1 私が「X氏の元・妻である」と自称したとするX氏の主張に対して
事実(1):私は、一度も「私はX氏の元・妻である」と自称していません。
まず明白な事実から述べると、私は「X氏の元・妻である」とは、最初から一言も書いていません。
これは、はてな社のログを確認できる立場の担当者ならば、直ちに確認が可能な事実であります。
したがって「私が自分のことを、X氏の元・妻であると自称した」という指摘は、明白な虚偽であります。
事実(2):私の記事には、特定の人物を想起させうるような、言外の情報は含まれていません。
或いは、X氏の側は「それでも私が書いた記事は、言葉による明記はしていないものの、X氏の元・妻であるかのように誤認されうるものであった」と主張されるかもしれません。
しかし、仮にそう言われたとしても、それは無理のある主張と言わざるを得ません。
私は、セクシャルハラスメント被害を受けた人間の立場として記事を執筆しましたが、そのセクシャルハラスメントが行われた場や年月日、関係者の個人情報(年齢・職業・居住または就業場所など)を一切記載していません。
また、元・配偶者が、私の受けたセクシャルハラスメントの被害について、理解や共感や被害回復の手助けや協力を示してくれなかったという話についても、ハラスメント被害者のパートナーや伴侶が被害者の苦痛について理解や共感をしてくれなかったり、被害回復の手助けをしてくれないという事は、多々あるハラスメント被害事例の中では(悲しいことに)ありふれた話です。
さらに、セクシャルハラスメントの加害者が、夫婦やカップルの公私に渡る知己の人物であることも、これもまた(悲しいことに)ありふれた話です。
セクシャルハラスメントの加害者が、年長者であるケースについては、指摘するまでもなく、ありふれた話です。
つまり、私のセクシャルハラスメント被害について書いた記事には、そもそも「言外の情報」と呼びうるような、特定の人物を強く示唆したり、想起させたりするような、特異な描写が含まれていません。
故に「私の執筆した記事は、言外情報によって、私をX氏の元・妻であると誤認させる内容であった」とする主張は、万が一なされたとしても、それは全くの言い掛かりに過ぎず、不合理で妥当性に欠ける主張と言わざるを得ません。
補足(1):曖昧な記述による告白や相談は、ハラスメント被害者が二次的被害を回避するための正当な防衛行為です。
私の書いた記事が特異な記述を避け、また曖昧さを有しているのは、二次的被害を回避するように心掛けた結果です。そのような曖昧な記述は、ハラスメント被害者が自身を護るための正当な行動であると私は考えています。
セクシャルハラスメントを含めた様々なハラスメントの被害は、一次的な被害そのものが非常に苦しいものであり、そうであるにも関わらず、その苦しみについての理解や共感、心理的な救いを他者に求めようとすれば、自分の顔や名前などの個人情報を知られることを伴って、二次的な被害を被る可能性も増大するというジレンマが有ります。
そのようなジレンマや二次的被害の苦痛を回避しつつ、匿名性を保ったままで被害者が自らの苦しい胸中を吐露して他者の理解や共感を得ることは、私が利用するはてな匿名ダイアリーの果たし得る貴重かつ社会的な意義のある機能であると、私は認識しております。これは、かつて、はてな匿名ダイアリーに「保育園落ちた、日本死ね」と題する匿名記事が投稿されたことによって、日本の社会全体で議論や改善の動きを促進した事例を思い出していただければ、容易に理解していただけうるものと私は信じております。
私がはてな匿名ダイアリーの機能を活用して、私自身の個人情報を推察されないように曖昧性を持たせ、匿名性を維持したまま、私自身のセクシャルハラスメント被害およびその苦しみについて告白したことは、他者から何ら非難されることではないと私は考えています。
補足(2):仮に「私の記事は、X氏の元・妻ではないと識別可能な程度の具体性を伴って執筆されるべきであった」という要求がなされたとしたら、それは不当且つ過大な要求と言わざるを得ません。
具体的記述をすることによって、私が何者であるかを私自身のハラスメント事例における加害者や私の近しい人たちに察知され、私が二次的被害を被る可能性が増大します。そのような、私の危険に繋がりかねない具体的な記述を要請されたとしたら、それは私の意志や権利に反する不当かつ過大な要求であると私は考えます。
当初は明言を避けてはいたものの、既に私は「X氏の元・妻ではない」ことを明言しております。この明言は、訴訟の可能性を示すという手法によって、X氏から精神的プレッシャーを加えられたことによって判断力が低下したために、不本意ながら行った明言です。不本意というのは、一旦このような明言を行うと、それに続いて、覗き趣味的に「お前が被害を受けた事件とは、事件Aのことか?」「それとも事件Bか?」等々と、人物特定を目的とした質問が次々と発生することを誘発しかねず、そうなると包囲網が徐々に狭められて、ついにはセクシャルハラスメント被害者としての私が誰であるのかを個人特定されて、世間の好奇の目に曝されかねないからです。
仮に、私がX氏の元・妻と第三者に誤認されたのだとしても、ハラスメント被害者に対して個人特定が可能な証言や記述を強制して、被害者の負担を増大させるようなことは避けるべきと考えます。
事実(3):「私がX氏の元・妻ではない」ということが即ち「私がセクシャルハラスメント被害者ではない」ということを意味するということはありません。
X氏は、些か奇妙な主張として「この文章を書いた人間(私)は、自分(X氏)の元・妻ではない。したがって、この人間(私)が書いている内容はデタラメである」という主旨の論理を展開しています。
既に述べたとおり、私は最初から一言も「自分はX氏の元・妻である」と言っていませんし、言外情報によって「自分はX氏の元・妻である」と示唆したり想起させることもしていません。また、私はX氏の元・妻ではないことも(明言することで不利益や危険性が増大するため不本意なのですが)明言もしています。
これも既に述べたことですが、この社会においてセクシャルなもの非セクシャルなもの問わずハラスメント被害の事例は、悲しいことに「ありふれた出来事」と言ってもいいほどに頻繁に見られ、発生件数も多大なるものです。町山智浩氏の虚言を記録したインタビューの中で語られたセクシャルハラスメントが実在しなかったと判明したからと言って、世の中に起こっている多数のセクシャルハラスメントまで実在しなくなるわけではないことは、容易に理解できるはずです。私は、この社会にごまんと存在するハラスメント被害者たちの中の一人なのです。
一つ喩え話をしますが「こいつ(私)はX氏の元・妻ではない。だからセクハラの話はデタラメだ」という論理の構成は「この動物は犬ではない。だから哺乳動物ではない」というのに似ています。しかし「犬ではない哺乳動物(ネコ、ネズミetc.)」がいくらでも存在するのと同様に「X氏の元・妻ではないが、セクシャルハラスメントの被害者である人間」はいくらでも存在することは、すぐに思い至るはずです。論理学の基本を学ばれた方ならば「P→Q」(PならばQである)を否定するのは「¬Q→¬P」(QでないならばPでない)であって、決して「¬P→¬Q」(PでないならばQでない)ではないことはご存知のとおりです。
X氏が「こいつ(私)は自分(X氏)の元・妻ではない」ということを根拠にして、私のセクシャルハラスメント被害まで虚偽であるかのように結論づけようとされていることは、かなり無理があると私は思います。
謝罪すべき点は謝罪し、しかし、それとは別に誤った理解をされているおそれが有ると思った点については、説明すべきと思い、筆を取りました。
とりあえず、この記事は以上です。
何度か読み返した結果、「話にノれれば俺も十分に楽しめたが、話にノれない要素が多かった」という仮説が今のところ有力。
めちゃくちゃ露悪的に言えば俺に不親切だった。
以下、俺が俺に不親切だと感じた要素
・ふざけた見た目をした超高性能AI
手垢ついてる!
ひたすら人間を馬鹿にしてくるのも手垢! って感じで引っかかった。
本来は崇高なイメージになるが主人公の頭が悪くてイメージングに失敗した、という設定は好き。
ケンタウロスが出てきた時は特に引っかからなかったので俺がうんこたれ蔵に個人的な嫌悪感を抱いている可能性はある。
あれだけ「これ実は意味ないんですよ」「この姿に実は意味がないんですよ」を繰り返してるのは「シミュレーション上で告白しても意味ないんですよ」への導線であり、恐らくそれが最後の主人公の発言に繋がるのだが、読んでいる最中はずっと「シミュレーション上で告白しても意味なくない?」「シミュレーション上で生き返っても意味なくない?」と思っていた。
人生とか世界とかを変える話でなく、主人公のけじめとか魂の慰撫の話だったのだが、その事に気付くのが読んだ後というか、「なんであの話あんな褒められてんの?」と考えた段だったので読んでる最中はずっと駄目な気持ちで読んでいた……。
ただAIを存続させるための恐怖政治として支持しなかった人間の意識のコピーを永遠に拷問する、ってところは本気で無意味では? と思った。
本人との意識の連続性がない自分への拷問、流石に意味なくない……? 2084年の人間の感性が2022年とはかなり異なってる可能性はある。
・ヒロインの設定重すぎない?
正直に言うと、なんかヒロインの設定が重すぎてそれを何とかする話だと思っちゃったんだよな……。
父親の酒代のために客を取らされている女を前に主人公のけじめとか魂の慰撫とかやってる場合か! とは思うがヒロインは死んでるしシミュレーションだしな……。
あと母親が死に対して強い反応を示さなかったのにヒロインの話に強く反応したのはちょっと違和感があった。
多分これが何かを変える話ではないと示す為の導線だったんだと思うんだけど(死の撤回ではなく告白のために動く、と言う事を証明するために死者を出す必要があった)これもヒロインの死が重すぎて何かを変える話だと俺が誤認した、のが恐らく俺の敗因。
作者のせいにするなら、AIが提供する報酬は本来主人公に対する「自己完結した楽園」だったのにも関わらず、その領分から外れた「他者への救済」を報酬の一部に提供しようとしたので読者が誤認してしまった、という形になる。
でもあれだけ他の人が褒めてるという事は俺以外の読者だいたい誤認せずに読んでるんだよな……と思うと責任は俺にあり。
AIがAIでなく真実神であり、提供できるのがシミュレーションでなく本当の蘇生だった場合、主人公は母親の死の段階で挑戦を決意したのかな、みたいなことは少し考える。
ただ遺影持ってるのもセーラー服の女だったので主人公の家庭環境もどっこいどっこいで特段気にしなかった、という可能性はある。いや流石に考えすぎだわ。
・技術的特異点を迎えた後の存在が過去視点からの特異点を特異点と呼ぶことにすごい違和感あるんだけど俺は理系じゃないのでこの違和感が正しいか分からねえ……。
・今気づいたんだけど未成年を殺害しておいて三年以内に出所して娘を殺害する父親何!?
気付いたから書いたけどこれは本質的にいちゃもんであり、話にノれてればあまり気にならない部分なので別にいいです。
昔、大好きだった大学の先生に告白して振られた女だけど、昨日ようやく先生の研究の凄さに気付いたよ!!
最近、身辺整理が終わり落ち着いている状態なんだけど、なぜか今まで読めないでいた文章が読めるようになり……(??)
久しぶりに先生の研究見よ!とググッたら論文が出てきたので、先生が書いたなんてエッチすぎる!と思いながら読んでたけど
こんな凄い研究してたの?とようやく気付く。内容はぼかすけど資金がゴニョゴニョで、自分が今働いている分野にも若干関わるので色々凄い
大学の講義ではあまり扱わない分野だった(と思う)けど、ニコニコしながら嬉しそうに話されていたのを思い出す。先生はあれだけ嬉しそうに話すのはナゼ?と不思議だったので、ようやく納得。
あーあ!業務上必要そうならワンチャン関わりが持てたかもしれないのに!告白テロしたばかりに!絶対こんな頭のおかしい人間は着拒!ブロック!されてるじゃん!
卒業前に「好きです」なんて言うものなら関係がぶち壊れるのは当たり前なので、告白しなきゃ良かった…告白テロには気を付けよう!
数日前、ドラッグストアでコンドームを探しまわった体験録を書いた悲しき24歳労働者です。
https://anond.hatelabo.jp/20220528225125
勢いに任せて書き殴りろくに推敲もしないままインターネットの大海へぽいと投げてしまったものの、なんだか恐ろしいことをしてしまったような気がして翌日こわごわ匿名はてなを開いたところ思いの外たくさんの方に読んでもらったようで。コメント見ました。全部見ました。匿名はてなを覗くとき、匿名はてなもまたこちらを覗いているのだ。
サガミオリジナル0.02Lサイズはやはり男のプライドなんでしょうか。白状するとさっぽろ時計台と書きながら思い浮かべていたのはテレビ塔のほうで普通に脳内変換ミスでした。長文乱文すみません、いやほんと、長いっていうのがいちばん多かった。す、すみません。
いやー、なんだかみんなおんなじ文章読んでるはずなのに気になる部分が全員違うって、そりゃそうなんだけど不思議なことだなあとブルーライトが眩しい液晶の前でうっすら笑みを浮かべながらスクロールに次ぐスクロールをしていたら。
「今好きな女の子がいて、のところがスルーされてるのはなぜ? 何度も読み返した」
さすがデュオ!
俺たちが見逃してしまうことに平然と気がつく!
そこにシビれる!憧れるゥ!
女を好きな女の話をしましょう。
えー、いま現在わたくしは好きな女の子がいます。付き合ってはいません。思いを伝えてもいません。
わたしにとっては好きな女の子、向こうにとってはわからない。お互いにとっては毎日LINEをする友達。
仕事が終わらないだとか、三谷幸喜は血も涙もない脚本を書くねとか、コナンが外出するとそれだけで人的及び物的被害が多発するから彼は名探偵になるよりも早急にお祓いを受けたほうが世のため人のためってやつだよねとか、そんなくだらないことをつらつらと話すだけだけど、それで結構満足している。
LGBTというアルファベット4文字がだいぶ世間に浸透し、昨今なにかと話題のセクシュアル・マイノリティ。いや別に話題になろうがならまいがわたしが女を好きな女であることに変わりはないのだけれど。まあ言語でもって共通認識があったほうが話が早いのは確かな人間社会。
わたしは男の子も女の子も好きになる女なので、所謂バイセクシュアルの女性というやつにあたるんだろうなとふんわり思っている。
なぜふんわりかというと、実のところ自分のことを「女が好きな女である」と自覚したのがわりに最近、ここ数年のことだから。石のように揺るがない確固たる意志だとか、テコでも動かんぞ!というがんとした姿勢でもって「好きだ!」というのではなく「いやまあ好き……っすね………」みたいな感じ。
自分のことを定義付けできたのは大学生になってから。女の子への初恋は中学生のとき。憧れの先輩がいた。
週に一度、習い事のためにいつもは乗らない電車に乗るときが、部活も学年も帰り道も違う先輩と2人きりで話す唯一のチャンスだった。
容姿端麗・頭脳明晰・運動神経抜群な先輩は地区でいちばん頭のいい高校に合格した。卒業式の日、制服のボタンを貰った。翌年同じ高校に入学した。廊下ですれ違うたびに手を振ってくれる先輩が眩しかった。先輩みたいな人になりたい。憧れの存在だった。
ただ当時のわたしはアイドルの嵐がめちゃんこ好きだったり、仲の良いクラスの男子と定期テストの結果を競い合って負けたらサーティーワンのアイスを奢るために一緒にショッピングモールに遊びに行ったりと、まあ、なんだ。傍目から見たら普通に男子が好きなんだなあという感じだっただろうし、自分でも男子が好きなんだなあということは疑いようもなかった。
ただ一方で、じゃあこの先輩への説明のつかない気持ちはなんなんだという疑問が胸の奥ーーのほうでキャラメルリボンのようにぐるぐる渦巻いてもいた。
実際サーティーワンの男の子からはサーティーワンの帰り道に付き合ってほしいという申し出を受けた。素直に舞い上がった。けど、高揚のままによろしくお願いしますとシェイクハンドしてしまうのは、なんか、なんか違うよなと思った。
「ごめん」のひと言を伝えるのがやっとのわたしに、サーティーワンボーイは
「おっけ。次のテストも負けねえから」と爽やかに返してくれて、それが告白されたことよりも嬉しかったのを覚えている。
アイスの冷たさが沁みる季節も過ぎて、短い秋をのんべんだらりと過ごしていたある日。地元の図書館で本を貪り読んでいたところ、雷に打たれたような衝撃を食らった。
それは少女小説「マリア様がみてる」との出会いであった。まじ、衝撃であった。
マリア様がみてる、通称マリみてとの出会いはわたしの恋愛観を180度どころか900度くらい変えた。まじ、根底からひっくり返ったのち勢いそのまま何周かした。わたしの精神世界はさながらセカンドインパクト後のような様相であった。信じられん存在感をもってして、わたしの世界を一夜のうちに変えてしまった。
お、女の子のこと、好きになってええんか……。
先輩への憧れを、尊敬とか思慕とかそういう言葉でもやもやっとさせなくてもええんか……。
近付きたいと思ってええんか……。
まじか…………。いや、まじか…………。
もう、絶句であった。
クラスメイトたちがせっせと次の定期試験に向けて勉強しているさなか、わたしはただひとりマリみてを読み漁った。とりあえず全巻読破した。
まじか。うわー。まじかー。
マリみてを読むことに全ての力を注いでいたためサーティーワンボーイとの賭けには再び負け、今度は購買のパンを奢らされた。苦手な物理では赤点を取った。けれどもそれらはマリみての前では些細すぎる出来事だった。
まじかー。
この「まじかー」という思いを3年間引きずったまま、けれども先輩との距離をそれ以上縮めることもできずに、先輩が卒業したあとは何事もなかったかのような顔をして男の子と初お付き合いをしたりしてわたしの高校生活が終わった。
マリみてどころの騒ぎじゃなかった。
盆と正月とクリスマスと創造神と破壊神がいっぺんにこの世にやってきて世界をめちゃくちゃに踏み荒らし、亡き者の命を弔い新たなる生命の誕生を祝福し、一筋の光を灯しては消して灯しては消して「じゃ!あとは自分で頑張って!」と言って帰っていった。
まじ、衝撃であった。
セクシュアリティ、多様な性、LGBT、性別二元論エトセトラエトセトラ。それらすべての言葉や考え方が、自分がどれに当てはまる当てはまらない関係なく、誰もかれもに関係する言葉であるのにも関わらず、わたしは過去18年間何ひとつ知らなかった。
ただ己の直感のみで生きるしかなく、その直感の中に「もしかしたら女の子が好きかもしれん」というものがあり、がしかし、なまじ男子も好きになるがゆえに「いやいや、まあそれとこれとは違うっしょ」という感じで奇跡的な気付きに雑に蓋をしてしまっていたのだった。
と思わないでもなかった。
でも、じゃあ仮に高校時代に「女を好きになる女」みたいなことを調べたとして、わたしが先輩に何がしかアプローチすることはあったのか?先輩後輩の均衡を最後まで崩さなかったのは紛れもなくわたしの選択肢ではないのか?
どうしょもないIFすぎる問いを抱えたまま、とりあえず次に好きな女の子ができるまで、何事も何事もなかったムーブで過ごそうと決めた。
ただ、ちょぴっと知識を得たことで、わたしの「普通」がちょぴっと変わった。
女を好きな女であることをことさらに全面に出すこともなく、かといって、押し込めるわけでもなく。普通に男の子とも付き合うし、好きになったら女の子にも普通にアプローチする。だって好きなんだもん。別にいいじゃんね。
クィアの講義を受け持っていた先生は、セクシュアリティは個人的なもので、そして流動的なものでもあると言っていた。わたしは結構この言葉が気に入りだった。
個人的なもの。わたしだけのもの。流動的なもの。変わってもよいもの。わたしのものだから、変わったって変わんなくなって、誰に文句を言われる筋合いはない、もんもんとしたときは、そういうものがわたしの体の中心にすーっと通っていることを思った。
その「すーっ」を思う効能は、何事も何事もなかったムーブよりもはるかに効き目があった。
いま好きな女の子に対して、踏み込みたいという気持ちが無いわけではない。そりゃ好きだからな。
2人で遊ぶこともある。今度は旅行しようねと話してる。
舞い上がらないわけがない。でも彼女が少なからずわたしを信頼してくれているのがわかるから、それを壊すようなことはできないなーと、綺麗な横顔を見ながら思う。
わたしにとってわたしのセクシュアリティがわたしだけのものであると同時に、彼女にとってのセクシュアリティも彼女だけのものであり、そんでもって関係性というのは両者で作るものだ。お互いを尊重したうえで変容を求めるなら変容を、現状維持なら穏やかに関係を続けていけばいいのだ。
で、わたしは別に彼女に「わたしは男も女も好きです!」みたいな宣言をしたことはない。ので彼女は多分知らないと思う。言うならきっと、女だとか男だとかではなく。必要なのは「あなたが好きです」というただひと言なんだと思う。で、わたしはまだ思いの丈を伝える覚悟がないから言わないだけで。
ていうか別に、宣言とか、しないよね。なんかセクシュアル・マイノリティばかり言う言わないうんたらかんたら色々ありますが、
言う人もいる、言わない人もいる。
わたしのように匿名ツールでなら言えるとか、ざっくばらんな恋バナをする友人には言えるみたいな人も、いや家族や職場に言います、という人もいるだろうし。本当に、人それぞれ。その人だけのもの。個人的なもので流動的なものだから。
だからこう、ネットでも現実社会でも、まじかーまだその段階かーみたいな発言やら意見やらを見かけることは多々ありますが、知識を得た今ならそういったあれこれ全て、わたしの個人的なものを傷つけたり揺るがせたりすることはできないのだよ、と自分に言ってあげられる。ただ、中高生のころのわたしのように、じゅうぶんな情報や知識にアクセスできない若い子たちが不用意に傷ついていないかは心配しているよ。ていうか本当、いちばんはそこだよね。
言い尽くされたことではあるんだが、理解のある彼君漫画描いてる人達とかほんとわからない
だいたい
鬱→優しくて太い両親→ニート生活でも生きていける→そんなこんなで立ち直る
的な奴
そも盛大な虐めにあったり、毒親で酷い目に遭った、世の中は最低だ早く死んでしまいたい…
本当にダメな奴なら男性と接触の機会とかないだろうし、ダメな奴って自分の事思ってるなら告白されても相手に悪いから断らないか?????
絶望してる世の中に、子供を産み落として同じ地獄を味会わせたいの???
そもそも「他人と上手くつきあえない」のになんで彼ピッピがでてくるんだ?
結婚っていう状況まで持ち込めるなら上手く他人とつきあえてないか??
なにがなんだかわからないよ
「雑誌『映画秘宝』の記憶」を執筆している者です。既にご存知の方もいらっしゃると思いますが、町山智浩が、過去に雑誌インタビューの記事で「後輩男性の元・妻の女性に対してセクシャルハラスメントを行った。それは、後輩男性から申し出たことだった」と語った内容は、事実無根であることが既に判明しております。
謝罪の言葉をanond:20220530192850に記しました。
このため、私が過去に執筆した「雑誌『映画秘宝』の記憶」と題する一連の記事のうち、事実無根と判明した情報、その誤った情報を前提として記した人物評価を含む記事について、公開し続けることは問題があると判断し、はてな社に対してこれらの記事の削除依頼を私から申請しておりましたが、このたび2022/05/31に削除措置を済ませたとのご連絡をはてな社からいただきましたので、ここに報告いたします。
過去の記事を読み直して問題が有る箇所をチェックする作業に手間取ったために、町山智浩が虚言を告白してから削除依頼を申請するまでにタイムラグを生じ、速やかな対応ができなかったことをお詫び申し上げます。誠に申し訳ありませんでした。
誤った情報を伝播したことと誤認情報に基づいて誤った人物評価を行ったことにより、X氏の元・妻の女性たち及びX氏御本人に精神的苦痛を与えてしまったことを、改めて深くお詫び申し上げます。誠に申し訳ありませんでした。
私自身が誤認情報を拡散した一人なので、このようなことを今さら申し上げるのは誠に手前勝手と承知しておりますが、これを読まれた方は、町山智浩の虚言に基づいて形成された誤認情報が、これ以上拡散されることのないように何とぞ御協力をお願いいまします。
翔太(かなた)はいつも友達の輪の真ん中にいる陽キャで、陽(あきら)は特進クラスに所属する秀才で単独行動を好む陰キャである。彼らは同じ高校に通う同学年だということしか共通点がないが、なぜかすれ違いざまによく目が合う。
そんな二人はある日の昼休み、屋上に続く階段の踊場で出会った。いつもそこで一人で過ごす陽の隣は何故か居心地がよく、翔太は昼休みごとに入り浸るようになる。
翔太が急に行方をくらますようになったことに彼の友人達は不審に思いはじめる。一方で、陽は翔太には言えない秘密を抱えていて……。
こういう少女漫画系学園恋愛物語を読むことは、自分は一生ないんでないかと思ったのだが、そう思いつつも今年に入ってから『君の膵臓を食べたい』とか『コクリコ坂から』とか読んどるやんけ、ならBLでも読めない訳がない! と急に気分が変わったので読んでみた。なお、本作は全くエロがない。
登場人物の喋りがYouTubeとかで見る今時の若者そのものだが、日常の過ごし方が二十数年前の学生とあまり変わってない感じなのが驚き。今時の高校生も放課後にカラオケなんて行ったりするの……私の住んでる辺りのカラオケボックスなんか、疫病とか関係なく軒並み潰れましたが……。
屋上への出入口に続く階段の踊場で二人が出会うなどという、いっけなーい! 遅刻遅刻! とパンくわえて走ってたら曲がり角でイケメンと側面衝突したくらいの伝説的ベタさからのスタートで、そこからベタが幾重にも畳みかけて来るのだが、こうもベタを貫いていると一周回って目新しく感じた。まあ、ベタな展開の漫画って実例を挙げよと言われると案外出てこない、まぼろしだったりするからなあ。でもはい、「屋上への出入口に続く階段の踊場で二人が出会う」作品はこちらでございます。もしも、そんな作品本当にあるの? と誰かが言ったら『コントラスト』とこれからは自信を持って答えられる。
約300ページの長編なんだけど、背景の描き込みが少ないのと、ストーリーや設定がベタベタなのとで、余計なことに目が行ったり考え込んだりさせられないので、さくさくと読み進められるし、登場人物の心理描写に集中できる。
主人公二人のキャラが定番ながらも厚みがあってよかった。陽の方はちょっと詰め込み過ぎではないかとも思ったけど。主人公二人ともそれぞれ複雑な思いを抱えていて、それで互いや周囲の人達と齟齬を生んだりもするけど、思いやりで人間関係が回転していて、なんとも優しい世界観。あまり棘がないのが今時って感じかなあ。
広沢大河は高校入学と同時に演劇部への入部を決めた。彼の夢はヒーローになることで、日本一のビッグな俳優を目指しているのだ。
そして演劇部の催物を見学に行った大河は、舞台上で踊っていた美少女「マリア様」に一目惚れをしてしまう。
勢いでマリア様に告白したもののあっさり断られた大河。彼はめげずに入部を志望し演劇部の門戸を叩く。ところがそこへ現れたマリア様は男子の制服を着ていて……。
またもエロの無い学園もの。ファンシーな表紙とは違い、中身はどえらくパワフルな少年漫画系。あまりにも勢いがすごくて唖然としてしまった。情熱が爆発している! なんだこれ……こんなBL見たことがない……。あとなんか演劇部の顧問がすごくパニー(どうぶつの森シリーズの)じゃん……。
若さとパワー漲ってるなぁ、と思ったら出版当時、作者はやはり二十歳少し手前くらいだったのだそうで、さもありなん。画力といい構成力といいとんでもない逸材だなあ、ストーリーはだいぶ荒いけど。すごい、将来に期待……と思ったら、PEYO先生こと江口公生先生は23歳の若さで夭折されたとのこと。悲しい。
一連の「雑誌『映画秘宝』の記憶」という記事を執筆した増田から、以下のとおりお伝え申し上げます。
1 謝罪
初めに、町山智浩の後輩男性(以下"X氏"と表記します)の元・妻である女性たちに対して、私の記事によって名誉を傷つけたこと、精神的な苦痛を与えたことを、心より謝罪します。誠に申し訳ありませんでした。
次に、X氏に対して、事実とは異なる情報を事実であるかのように流布し、また、誤った人物評価を行い、名誉を傷つけたこと、精神的苦痛を与えたことを心より謝罪します。誠に申し訳ありませんでした。
私は、町山智浩を批判しているつもりでいながら、実際には町山の共犯者となっていました。これは、私の大きな過ちでした。X氏の元・妻の女性たち、X氏御本人に対して、お詫び申し上げます。誠に申し訳ありませんでした。
2 私は、どのようなことをしたのか
大きく分けて、次の二点になります。
(1) 町山智浩が雑誌のインタビュー記事で語った「X氏が町山に対してX氏の妻(※当時、現在は離婚成立済み)の身体を触ってよいと持ちかけてきた。自分(町山)はそれに乗って彼女の身体を触った」という主旨の話を、事実であると誤認した上に、その誤認情報を他者へ伝播した。
(2) その誤認情報に基づいて「X氏は配偶者を町山に献上するような人物である」という人物評価を行い、それをはてな匿名ダイアリーの記事として発信した。
(3) しかし先日、町山智浩が「インタビューの内容は盛って話していたことであり、事実ではない」とTwitter上で告白したこと、また、町山の告白を受けたX氏も「事実ではない」と証言したことから、私の事実誤認及びその誤認に基づいた誤った人物評価が明らかになったため、この度、上記1のとおり謝罪するに至ったものです。
3 過去に投稿した「雑誌『映画秘宝』の記憶」と題する記事について
一連の記事のうち問題の有る箇所(*)、すなわち「町山智浩が実際には行っていなかったセクシャルハラスメントについて言及した箇所」や「X氏に関する誤った人物評価を私が行った箇所」を含む記事について、この記事を投稿した後、はてな運営の担当者宛に削除依頼を申請する予定です。
私自身の手で削除しない(できない)理由ですが、一連の「雑誌『映画秘宝』の記憶」と題する記事に付記した番号で示しますと、これらのうちNo.60までについては、記事を執筆した当時のはてなアカウントの退会手続きを既に済ませていることから、私自身の手で削除作業を行うことができない状況にあります。
また、町山智浩の告白から削除に着手するまでにタイムラグが生じたのは、全記事を読み返して問題箇所(上記*印を参照)の有無を確認する作業に手間取ったことが原因です。本来は、町山智浩の告白及びX氏の証言を受けて、速やかに記事を削除するべきところを、それをしなかったことについても心よりお詫びいたします。
また、削除申請に対処していただく、はてな社の方々に対しても、御手数と御迷惑を心よりお詫びいたします。(2022/05/31の12:26、はてなサポート窓口 法務関連対応チームから、問題の記事の削除処理を済ませたとのご連絡をいただきました。担当者をはじめ、はてな社の方々には御手数を取らせてしまい、誠に申し訳ありませんでした。)
なお、問題箇所(上記*印を参照)を含まない記事については、削除申請をしない方針ですが、問題箇所を含む記事を私が見落としている可能性もあります。もしも、それらについてお気づきの方があれば、コメントなどで通知していただければと思います。なにとぞ御協力をお願いいたします。
現在、問題箇所を執筆した動機や当時の心理についても、私の反省するべきところを考察して、別記事に分けて説明することを考えています。
anond:20220530213745に少しだけ、考えたことを書きました。
よくニュースで問題になる女子生徒と男性教員の淫行、恋愛なんだけど
実際のところ、男性教員だけが一方的にセクハラをするだけじゃないって思うだよね。
だってさ、自分たちが子どもの頃を思い出してみ?男の先生に恋してる気狂い女子が学年に1人くらいいなかった?年の差親子かよ!!ってくらいの。
という自分は他人のことを言えない。だって男性教員に迫った側だったので……。
結果はナチュラルに振られた。忘れようと他の男性とも付き合ったが、結局忘れられず別れてしまい、今はフリーで社会のすみっコで腐っている状態。
ただ最近まで「絶対相手は自分のことを好きだが立場的に付き合えない」だけであり、もっと上手くやれば……と思っていた。完全にストーカーの思考。
職業的に子どもと関わることが多いのだけど、つい最近男児から告白&ハグ&キスをされ胸を揉まれるという珍事が起きてしまい、今でも思い出したら死にそうになる位には気持ち悪い。
という最近の出来ごとを振り返って、多分かつて女子生徒だった私から迫られた先生もそんな気持ちだったんじゃないかなと反省している。
矢島 楫子(やじま かじこ、1833年6月11日〈天保4年4月24日〉 - 1925年〈大正14年〉6月16日)は、日本の女子教育者、社会事業家。
肥後国上益城郡津森村杉堂(現・熊本県上益城郡益城町)の惣庄屋矢島忠左衛門直明・母鶴の1男7女の6女(末子)に生まれ、かつと命名された。極端な男性社会にあって度重なる女児の誕生は歓迎されず、名付け親は10歳違いの姉である三女・順子であった。順子(竹崎順子)は、横井小楠の高弟である竹崎茶堂と結婚し、熊本女学校校長となった教育者である。また、順子のすぐ下の姉・久子(徳富久子)も同じく横井小楠の高弟である徳富一敬と結婚し、湯浅初子・徳富蘇峰・徳冨蘆花の兄弟を生んでいる。蘇峰は明治、大正、昭和にかけての大論客、蘆花は明治、大正の文豪である。また、かつのすぐ上の姉つせ子(横井つせ子)は横井小楠の後妻となった。この姉妹4人は「肥後の猛婦」、「四賢婦人」と呼ばれた。
かつは学校などない当時、一通りの教育を母から厳しく身につけさせられるが、もとより勝気で秘めたる情熱の持ち主だったかつは、やがて母亡きあとは母に替わって兄・直方のために尽くす。その兄も妹のために良縁を求め、かつ25歳の時、初婚にはもはや遅いとして既に2男1女を儲けていた富豪林七郎(1828年生) を家柄・人物ともに相応と認め、後妻として嫁がせる。林は武家出身で、横井小楠の弟子であった。後年楫子自身の口からも「この人は気品の高い、竹を割ったような人でした」と語らせるが、家族への乱暴など夫の酒乱の悪癖にかつは極度の疲労と衰弱で半盲状態に陥り、かつ自身も三人の子まで儲けながら、このうえは身の破滅と思い、末子達子を連れ家出する。迎えに来た使いの者に見事に結い上げていた黒髪を根元からプッツリ切って紙に包み、無言の離縁を言い渡したのである。明治元年(1868年)、これを転機に新しい一歩を踏み出す「新生元年」ともなった。
妹たちの間を転々とする間、兄・直方が病に倒れ、達子を置いて上京を決意する。長崎発東京行き蒸気船に乗り込み、船上にて自ら「楫子」と改名する。兄は大参事(副知事)兼務の左院議員で、神田の800坪の屋敷に書生、手伝いらはもとより千円という借金を抱えていた。楫子はその放漫財政を正し、3年で借金を片付けると、生来の向学心から教員伝習所に通うこととなる。明治6年学制が施行され全国に小学校が設置、訓導試験に合格した楫子は芝の桜川小学校(現・港区立御成門小学校)に採用される。当時教員初任給3円のところ、楫子は5円という破格の待遇であった。
このころ長姉・藤島もと子が息子二人と、直方の妻・糸子も子供をつれて上京、兄宅は一気に賑やかになった。しかしそうした喧騒の中、楫子は妻子持ちの書生との間に女児を宿す。堕胎や父親に渡すべきだと諭す姉の言を受け入れず、楫子は妙子(鵜飼猛の妻、湯浅清子の母)と名付け、練馬の農家に預けて独り下宿生活に戻る。そんな折届いた兄からの手紙で、熊本に残してきた長子・治定がキリスト教徒になったのを知り愕然とする。熊本洋学校生徒35名による花岡山キリスト教奉教同盟事件である。治定だけでなく甥の横井時雄、徳富蘇峰、徳冨蘆花も参加している。やがて熊本洋学校は廃校になり、彼らの一部は、新島襄の同志社に入学し、熊本バンドと呼ばれることとなるが、この熊本バンドは札幌バンド、横浜バンドと並び日本におけるキリスト教の三大源流と言われている。教え子の居宅で父親の酒害を目撃し、寂しさでタバコを覚えた楫子だったが、悩める楫子にとってもキリスト教はわが子の信じる宗教であり、遠い異国の宗教ではなくなった。
明治11年(1878年)、楫子は後半生に多大な影響を受ける米国の宣教師で教育者のマリア・ツルー夫人と運命的に出会う。明治7年(1874年)にB六番女学校として設立された築地居留地にある新栄女学校の教師に請われ、住み慣れた下宿を引き払い、同女学校寄宿舎舎監室に移る。
自ら吸いかけのタバコによるぼや騒ぎを起こして禁煙を決意、翌12年(1879年)築地新栄教会でディビッド・タムソンから洗礼を受ける。ほぼ同時期に、三人の姉である徳富久子、横井つせ子、竹崎順子も洗礼を受けている。当時17歳のキリスト教徒であった甥の徳富蘇峰は、純粋がゆえに楫子の洗礼に際して、「過去の過ち(1.幼いわが子を置いて家を出たこと 2.妻子ある人の子を産んだこと)」を告白すべきでないかとの手紙を送っている。しかし、楫子は幼い妙子のことを考え、死ぬまで「過去の過ち」を公表することはなかった。
明治14年(1881年)夏、櫻井女学校の校主(現在の校長と理事長を兼ねた職)代理に就任。楫子は校則を作らず、「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」と生徒たちを諭したという。
明治23年(1890年)、櫻井女学校と新栄女学校は合併して女子学院となり、初代院長に推される。
明治29年(1896年)、恩師のツルー夫人が55歳で客死。楫子64歳であった。
一方、恵まれなかった結婚生活や小学校教師時代に抱いた心の疑問から、楫子は「一夫一婦制の建白」、「海外醜業婦取締に関する建白」を政府に提出、国会開設と共に二大請願運動として継続する。
楫子の情熱は日本に止まらず日本国外にも向かい、明治39年(1906年)、74歳にして渡米、ルーズベルト大統領と会見。激務のため白内障を患う。大正9年(1920年)には欧米の旅に出掛け、翌10年(1921年)には満州に、同年から11年(1922年)にかけては三度渡米、このとき楫子89歳であった。教職は大正3年(1914年)、女子学院院長を後裔に譲り、齢81で名誉院長として退いた。その後は禁酒運動、公娼制度廃止運動等に尽力するも、大正もその幕切れを迎えんとする大正14年(1925年)6月半ば、楫子は眠るように大往生を遂げた。明治、大正といういまだ婦人が一個の人間として尊重されることのなかった時代に、楫子は婦人福祉のためにその一生を捧げたのであった。
例の管理職のツイートに共感し、仕事に対してやる気のない人達を小馬鹿にするツイートをしている偉そうな人達のプロフィールを見たら、結構な確率で子持ちなんだよね。
あのさぁ、子供がいるくせに「自分は仕事に対して全力投球している優れた人間でござい」みたいな態度取るのやめてもらっていいですか? 子供がある程度の年齢になるまでは子持ちは仕事に全力投球なんて到底できないはず。もし「私は仕事に全力投球できています」という子持ちがいるなら、それは単に自分が子供を放置しているという児童虐待の告白、もしくは配偶者に子育てを押し付けていることの告白でしかないよね?
子無しの全力投球と子持ちの全力投球が同じレベルになるわけがないのに、なぜ子持ちのくせに「管理職の私は仕事に全力投球しているけれど、全力投球しないような未熟な社員に困ってるんだよね〜」みたいな偉そうなことが言えるんだろう。本気で仕事に全力投球したいなら子供なんて作るべきじゃないし、子供を作った自分を正当化したいなら“自分だって仕事に全力投球出来ている訳ではない”という認識でメンバーを管理すべきでしょう。自分のことは棚に置いて他人のやる気に上から目線であーだこーだ言っている糞みたいな連中って一体何なんだろう。