はてなキーワード: ブッダとは
タイトル | 執筆時点のブクマ数 | 投稿日 | 投稿曜日 | 投稿時刻 |
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手塚治虫「ブッダ」とおっぱい、20世紀のおっぱい税 | 276 | 2020/11/02 | 月 | 08:05 |
フレンチ・カンカンの穴あき見せパン、トップレスのショー | 84 | 2020/11/10 | 火 | 08:24 |
ラインダンスとレオタード少女、ブルマーの追記 | 48 | 2020/11/16 | 月 | 08:10 |
カーニバルのギリギリなビキニ、その歴史 | 11 | 2020/11/24 | 火(前日が祝日) | 08:04 |
ベリーダンスとマーニャのふんどし | 34 | 2020/11/30 | 月 | 08:10 |
ボディペインティングとドラえもんことわざ辞典のCFNMとPETA | 15 | 2020/12/07 | 月 | 07:57 |
根本的な疑問。ブルマーとスク水とセーラー服はなぜ紺色? | 14 | 2020/12/14 | 月 | 07:49 |
赤ブルマーの起源、障害者スポーツとブルマー | 29 | 2020/12/21 | 月 | 08:07 |
イギリス人の緑ブルマーと赤ブルマー、スパンキング、お尻ペンペン | 4 | 2020/12/28 | 月 | 08:01 |
ブクマで、どうしてブルマーの調査を個人のブログやnoteでやらないことをいぶかしがるコメントをいただくこともあった。理由はいくつかあるが、一番の理由はこの匿名の環境が心地よいためだ。もしもコテハンで延々とブルマーについて語っていると、自分のアイデンティティの深いところにブルマフェチであることが刻まれてしまうだろう。現に、さっきブルマーを脱がしてお尻を見る夢を見た。いつしか毎週のようにブルマーについての考察を書くことが求められ、承認欲求からそこに依存し、それが完全に習慣になってしまう。怖いことではないだろうか。
さらに、ある程度ライターやブロガーとして名前が売れたら世間で話題になったり、現在進行形で炎上していたりすることについてコメントすることが期待されるかもしれない。それは、気晴らしとはほど遠い。自分がやりたいのは個人的に気になったことの調査であり、それ以上ではない。だいたい、世間の議論は不毛なことが多く、建設的でない議論に巻き込まれても面白くない。要するに、期待されると疲れるのだ。
また、この記事はほとんどが海外の情報の斜め読みとその翻訳からなっており、それで閲覧数を稼いだり、有料の記事を作ったりするのは少しばかりおこがましく思う。最近はあまりやかましく言わなくなったのかもしれないが、リンクフリーかどうかもわからないサイトから引用している個所も多い。コンプライアンス的にはグレーだろう。こうして書いた記事がバズったら確かにうれしいが、あまりブクマ数は気にせずに遊びとしてやる距離感が一番楽しい。バズることが自己目的化しては意味がない。
匿名性の良さにはほかにもある。増田という環境は情報の書き手と受け手の関係がフラットで、記事の誤りを気軽に指摘してもらえるのだ。もともと自分の勉強のためにブルマーについて調べていたのだから、批判も含めてあらゆるコメントはいつもありがたい。
更に、増田でこうして書いたことで学べたこともある。ライター業というのは思いのほか大変なのだ。まとまった長さの文章を毎週書くことをしばらく続けてみたが、テーマを選ぶことも調査することもそれなりに気力を使う。小説で長い文章を書くのが元々苦ではなかったので、こういう記事も簡単だろうと油断していたのだが、自分で考えた締め切りを守るのも負担だとわかった。ましてや自分の興味がないことも書かないといけないうえに、ウケるテーマを探さないといけないプロはなおさらだろう。一時期、文筆業に憧れていたことがあったのだが、こうして実際にその真似事をやってみると、その苦労がどれほどのものか、かなり実感がわくようになった。
確かに、自分の妄想を必死でひねり出して数万字書いてスルーされがちな小説と比べ、調べたことをまとめたものはほんの数千字でブクマがもらえるので、かけた手間と承認欲求のコストパフォーマンスはこうした記事のほうがいいのだが、そういう問題ばかりでもない。
とはいえ、面白い経験ではあったので、例えば僕のフェティシズムとは関係のない記事を書いて、どの程度伸びるかどうかを実験しても面白いかもしれない。たとえば、筆者はよく美術館に行くのだけれど、刀剣には詳しくないため、どこをどう見ればいいのかがわかっていない。それについて調べた記事なんかを書くのもいいかもしれない。さっさと書籍を入手しろという話かもしれないが。
また、何かまとめたくなったら書く。それがいつになるかはわからない。
https://twitter.com/gaochan712/status/1333309508462862336
選択肢増やすだけといってるのは知ってるけど、腸に病気があると卵とやわらかめの白いご飯(玄米・麦飯・五穀米などアウト)と
スジや油の少ないお肉、白身魚程度しか食べられなくなることがある
自分は腸に病気が2つあってそっちは小麦粉も甘味料も全般的にアウト
もう長いことプリンしかスイーツをたべられないでいる 当然ながらビタミン剤も飲んでる
ヴィーガンのありがたがってる食事って私達にとっては野菜ハラスメントなんですよ
さすがに白いコメだけ食べて生きていけないので卵は週に30個くらい消費する
鶏肉もささみとか胸肉とかたっぷりたべないと脂肪だけついてどんどん筋肉が痩せていく
物価の優等生じゃなかったら自分で野生の鶏つかまえて飼うしかないんですけどね
一度開腹手術したことがある人ならいつでも掛かる可能性のある病気なのね
自分は自分でいいけど炊事担当者は家族だの将来の自分にハラスメントすんなよ
家族にも卵たべてほしくないとかへんな倫理観に踊らされてるだけだよそれ
結局、人は石油になった過去の死体なしでは生きられないんだからさ
若い男が「老女病」だとは医者が判断つけられなくてそのまま死んでしまった人もいて
1回だけでなく医療訴訟になってる(自分で見ててみつかったのは小学生男子と30代男性だったかな)
結局医療に負担かけて死人増やすくらいなら健康食として残酷食だろうがなんだろうが食え
人生から残酷さを完全に追い出すことなんてキリストでもブッダでもできねえよ
牛も豚もメスのほうが肉はうめえよ オスは子牛のうちにお肉か去勢するんだっけ
(私は牛豚はメスでも去勢でも食べたくても食べられない部位が多く、高くて油が多いやつは一食につき一切れくらいしかダメ。
おごってもらうことが多いのに申し訳ないやら腹が立つやら)
どうせ有精卵を遺伝子検査してオスメス見分けられるようになってオス卵冷蔵出荷食用してても
低血圧もあって塩分断ちもハラスメントですけどそれはまあ外食で醤油が卓上にあれば許す
結局踊らされてるものって青汁のごとき宗教的健康食品としてしか生き残らない
そういう「マズいもういっぱい(念仏)」以外の普通においしいたべものでも
アホじゃんwっておもっちゃう
好きなもんくえよ食えるうちにな、つか選べるうちにな
特に理由はないのだが、最近の通勤時間で「ラーマーヤナ」を読んでいる。特にインドに旅行する予定はないのだが、しいて言えば大学時代の友人二人がインド哲学科出身だったからかもしれない。そういえば、冒頭のムスカの台詞では長母音の場所が間違っている、みたいな話にもなった。
それはさておき、「ラーマーヤナ」である。英雄ラーマが囚われの妻シーターを仲間の助けで救いに行く話で、要するに古代インドのスーパーマリオなわけだが、そこで出てくる美人の形容が興味深い。たとえば「美しく黒ずんだ肌」という表現が出てくる。美白という美意識はやはり時代や地域によっては必ずしも自明ではないのだ。
また、ほっそりした腰つきや豊かな乳房の美しさを表現する箇所もある。
「二つの乳房はそれぞれの先端がむっちりと盛り上がって魅力的で、つやのあるヤシの実のように美しく、最上の宝石の装飾品をつけて輝いている」
この個所を読んで僕は首を傾げた。ここまで乳房の美しさを形容するってことは、シーターは上半身裸だったのか? 実際、インドや東南アジアの神々の像では女性たちは上半身裸だ。以下はエローラの石窟の姿である。
しかし、近現代のインドの叙事詩を描いた絵画では、上半身を普通に覆っている。
シーター姫を攫ったラーヴァナが助けに来たジャータユを返り討ちにする図
それを見て思い出すのは手塚治虫の「ブッダ」だ。正直なところ、みんなおっぱい丸出しで小学生の頃はエッチすぎて読めなった記憶しかないのだけれど、それはさておいて、あれは歴史的に見て正しいのだろうか? それとも、単なる手塚治虫の性的空想だったのだろうか?
そういうわけで僕は「ancient india topless」と検索した。すると、肯定的な証言をするサイトが数多く引っかかった]。特に、英語版ウィキペディアのtoplessの説明がわかりやすかった。
In many parts of northern India before the Muslim conquest of India, women were topless. ……(中略)……Toplessness was the norm for women among several indigenous peoples of South India until the 19th or early 20th century……(以下略)
ムスリム征服以前のインドの多くの地域では、女性は上半身裸であった。……(中略)……上半身裸は19世紀や20世紀初頭の南インドの先住民の女性の間では普通のことであった……(以下略)。
そういうわけで、古代インドの女性はおっぱい丸出しだった。手塚治虫は変態だったかもしれないが、古代のインドの服飾史については、嘘をついていなかった。
また、「古代インド おっぱい」と日本語で検索すると、次のようなツイートが見つかった。
https://twitter.com/tenjikukitan/status/1093099586778853378
古代インドに詳しい方が日本語で情報発信をしてくださると、大変助かる。
よく、東洋を舞台とした作品でブラトップ同然の格好をした女性が出てくることがあり、しばしば批判されるのだが、これは実際には上半身裸だったのを攻めておっぱいだけは隠しておこう、という配慮だったのかもしれない。
実際、いわゆる熱帯地域だけではなく、古代のクレタ島でも乳房は見せていたし、それこそ以前記述したように、日本の海女さんもかつては上半身裸が普通であった。
ところで、英語版のウィキペディアを読んでいたら、気になる記述を見つけた。
The Breast Tax (Mulakkaram or mula-karam in Malayalam) was a tax imposed on the lower caste (Shudra) and untouchable (Dalit) Hindu women by the Kingdom of Tranvancore (in present-day Kerala state of India) if they wanted to cover their breasts in public, until 1924. ……The tax was evaluated by the tax collectors depending on the size of their breasts.
乳房税(ムラカラム)とは、現在の(南インド)ケーララ州で低カースト(シュードラ)と不可触選民(ダリット)に属するヒンドゥー教徒の女性が、公共の場で乳房を覆いたければ支払わなければならなかった税である。……税金を集める役人が女性の乳房の大きさによって額を決めていた。
なんとも非人道的で、正直なところ読んでいてかなりのショックを受けた。身体の大きさを申告・検査しなければならない恥ずかしさ、支払えなかった女性の苦痛、いかほどのものであっただろうか。個人的には野外露出系のポルノは大好きだが、これが強制されたものだとなると不快だ。裸とは恥ずかしいものではなく、人間が生まれながらにして持つ、何物にも束縛されない自由を意味する気持ちのいいものであってほしい。それにこれはフィクションではない。歴史的事実だ。
これについて日本語の資料が見つからないかどうか探したが、幸いにしてナショナルジオグラフィック誌の記事があった。
古代ローマにトイレ税、世界5つのヘンな税 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
乳房税が廃止された経緯もまたショッキングである。ある女性が収税に来た役人に抗議するため、乳房を切り落として見せたことがそのきっかけだ。言葉もない。ローマの公衆便所から税を取り立てたケチで名高いウェスパシアヌス帝が単に合理的でまともに思える。
そのナショナルジオグラフィック誌だが、2018年に同誌は人種差別的であったことを公式に謝罪した。国内の有色人種を無視していたし、外国の文化も過去の姿をやや好奇の念をもって眺めていた。そして、異民族の過去の姿である上半身裸をピックアップしすぎた、と。
とても誠実な姿勢だと思う。確かに異文化への関心は、はじめのうちは興味本位や小ネタから始まるかもしれないが、それだけで終わってしまってはもったいないし、現在の姿を誤解したままでは失礼だ。それに、欧米や日本がオリエントの人間を過度にセクシャルに表現してきた歴史があり、それを是正することはまったく正しい。
それは欺瞞だ。伝統的に上半身を見せる文化を改変するのは子どもたちに嘘を教えることになる。乳房を恥としない相手の価値観や服飾文化の破壊ではないか、という意見もあり、それももっともだと思う。とはいえ、今のところ乳房は隠すものがデファクトなグローバルスタンダードになってしまっている。歴史的正確さと表現のふさわしさと、これもまた正解のない問いである。
シーター姫のおっぱいが気になった僕もこの罪とは無縁ではない。今を生きる人々の人格と彼らの先祖の文化や伝統、どうすれば両方に敬意を払えるかを考える日々である。できる限り正確性に努め、通説が誤っていれば訂正をするように心がけているが、それでも異文化への関心が性的な好奇心とは無縁ではないことを意識しないではいられない。
今回は古代インドではトップレスが普通であったことを示した。また、乳房の隠蔽はキリスト教だけではなく、イスラームの影響もあることも明らかになった。
今後は、世界の中で乳房がどのような文脈を持っていたかを調べたい。例えばシチリアの聖アガタも乳房を切断され、かつては形の似ているパンや鐘の職人の守護聖人であったが、いまでは乳がんの守護聖人ともなっている。また、戦時中の日本を含め、多くのプロパガンダでは、乳房は母性の記号として国土の豊かさを意味してきたし、しばしば女性を母としての役割に閉じ込める役割も担ってきた。逆に、女性自身が抗議の意味で露出することもある。私の身体は私のもので、勝手に意味を担わせないで欲しいという奪還の意図もあるのだろう。
加えて、世界各地ではどのような形の乳房が理想とされてきたのか、その変遷もいつかはたどりたい。
実際、「ラーマーヤナ」ではほっそりした体を(乳房の重みで)曲げて、と形容されるターラーという猿の夫人がいる。今も残るインドの彫刻から判断すると、古代インドには細い腰とそれに対する豊かな乳房への明確な好みがあったのではないかと推測される。また、この彫刻の特徴は東南アジアにも受け継がれている。その辺が知りたいのである。
このあたりは西洋の絵画史からたどるのがいいかもしれないが、芸術が個人の自己表現となった時代以降は、画家自身の好みも反映されて難しい。
また、逆にトップレスが世界の標準であった可能性についても検討したい。すなわち、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの広がっていない地域の服飾史について検討し、トップレスでいることの自由がどのように失われていったかについても調査したい。
こないだ、増田見てたら「私は悟った」みたいなことを言っていた人がいた。
単純に、非常に失礼だが、「馬鹿だな」と思った。
悪いけど、悟るなんてことはない。悟りを開くとか、生きて仏になるとか、そんな人はいない。
それは単に、仏教思想というか古代の仏教思想の説いたことを誤って理解してしまったがためにそんな解釈を生んでしまったのだろうと思っている。
根本的に誤っているのは、原始仏教が生まれた背景をものの見事にみんな無視するからである。
考え方がまるで逆で、当時の世間に流布していた思想からの脱却を、悟りを開いたとか、覚ったとか、多分そんな風に言ったのであろう。
要するに「輪廻転生」に象徴される、人は定まった運命の中でしか生きられないという、あの現代にも続くインドカースト的な考え方からの脱却に他ならなかっだ。
一切は空なりとは、つまり、輪廻転生であるとか、そんな迷妄な考え方・思想には実体などない、そういう意味なのである。
そんなの言ってたら、永久に人は苦しみから逃れられないと言っているようなものじゃないか、とゴータマは覚ったのである。これこそがほんとの悟り・覚りなのだ。
だから、釈迦牟尼世尊の超絶的な苦行の話が逸話として出てくるのである、そうした苦行には意味がないのである。
ところが、馬鹿で無知な民衆は、あの四苦、すなわち生老病死の「生」を「生きる苦しみ」と解釈してしまったのである。あるいは一切皆苦という言葉をこの世には苦しみしかない、などと全くの誤解をしてしまったのだ。
生老病死は、これは「死」は別なのである。これは四つではなく三つの苦しみ説く言葉であり、生・老・病の三つとも解決不能な苦しみのことを例としてあげたのである。
この言葉は、人は、生まれてはすぐ死に、病んではすぐ死に、老いてはすぐ死ぬ、ということを意味する。
考えてみたらわかる。原始仏教は今から2500年前の劣悪環境のインドで生じた思想である。人は生まれたら大半がすぐ死んだのである。乳児死亡率は今とは比較にならない。病んだって、その多くは治療方法すらなく死んでしまうし、老いたって病院や介護など期待できる世の中ではなかったのだ。
ブッダ達が言ったのは、古代インド思想の輪廻転生などのそれ以前の問題として、解決不能の苦しみ(生老病死)があるってみんな知ってるじゃないか、だったらせめて解決可能な苦しみをどうにか解決していこうではないか、というコロンブス的な発想の大転換だったのである。
このように考えれば、仏教はアホほど簡単なことしか言っていないことがわかる。
一切皆苦とは、修行者らに対するテーマのようなものである。現実の問題のみを解決していこうという超現実志向を表す言葉である。
一切皆空とは、この世には実体みたいな、どうにも出来ないものなどないと見よ、という極めて強い教えなのである。
諸行無常とは、輪廻転生みたいな、永久に変わらぬ事柄などない、という希望を与える言葉なのである。
諸法無我とは、神のような存在の意思に頼るのではなく、物事に対する法を見出し、その法に従って問題を解決していこうじゃないかという、当たり前のことなのである。
みんな世の中に出て、例えば大人は仕事という問題解決にあたっているはずであろう。
例え、どうにもならん問題があっても、ストレス発散くらいするはずだ。
少なくとも人権主義思想は、すべての人にとって平等な社会の実現の根本的思想になっている。
そして、私たちは、法律であったり、科学であれば法則であったり、マナーだったり、様々なルールだったり、あらゆる物事に対して法を実際に使っている。
つまり、とっくの昔に、仏教など不要の社会になってしまっているのだ。
私たちにとって、仏教は本当に単なる当たり前のことを言っていただけなのである、2500年も前に、だ。
だから、悟った・覚ったとか無意味なことを言っても何の意味もないのである。
「1回」が途中で切れてたので別にした
1回しか出てない方が熱が入ってる紹介も多くて、個人的には気になる漫画が多い