はてなキーワード: 非常識とは
増田が結婚した時にその親戚が来たのならそのまんま呼び返すのが普通。
祝儀も貰ってるのなら同額返すのが当たり前。
逆に呼んでない・祝儀も貰ってないなら行かんで良し。
朝なり昼なりに白米を茶碗一杯食べる。
おかずは普通に食べていい。一般的な量で大丈夫…常識的な量だよ。
ジャンクフードは食べない。食べるとしても週に一回程度に絞る。
夜の食事は白米は食べない。ベストはサラダチキン二個くらいで良い。あとはスープ。春雨スープは駄目。
甘いものは糖質脂質吸収を抑えるチョコレートか、あとはプリン程度なら大丈夫。
全然食べないのは逆効果。欲しくなってしまうし、食べないと食べないで身体をおかしくする。
とにかく食事は昼間に少し多めに食べる。
運動は軽いものでいいよ。ストレッチでもいいしラジオ体操でもいい。10分くらいやるだけでいい。
これを続けていると身体が軽くなるのが分かる。分かるようになるのは個人差があるけど、最短だと10日かからないで分かる。
腕を回したりしたり足取りが軽くなるようなら効果があった証拠。わかりやすい人だとベルトが締めやすくなったりするからすぐ分かる。
なるべく多くの人に見てもらって情報、反応、反論等欲しかったので煽り気味に書いてるところはある。そこが気に障ったのならすまん。
まあ私の文章に煽りや売り言葉に買い言葉がないとは言わないのでそこはお互い様ということで。仲良くマサカリ投げあいましょう。
あくまで自分の見方を紹介しているだけで理系のやることが全て正しいとも思ってない。ただ理系では日本が一流研究をしていると誇る分野が数多くある一方で、文系の多くの分野で全体としては日本の学会は二流という嘆きが聞かれるのも確かだ(もちろんどんな分野にも日本人の一流研究者はいるだろうが)。
これ[要出典]ってタグ貼るべきところ? 私は最初の増田(anond:20180217012945)で(1つだけだけど)実例挙げたし、体験談ベースの話でよければ私の見た限りでは日本の外国研究ってけっこうレベル高いと思うんだけど。外国語に訳されても遜色ないモノグラフがたくさん出てる。
理系では著書でオリジナルな発見や研究成果を発表する奴はまずいない。いるとしたらほぼトンデモだと思って間違いない。文系増田が挙げてる怪しい医学博士とか。
文系では違うのか。正直文系のガチの研究書は見たことがない。三浦瑠麗の著書も調べてみたが、タイトルや値段を見る限り一般向けだろう。大学書籍部や図書館を探せばあったんだろうか。ただ(博士論文の出版等は除いて)著書で最新の研究を発表するというやり方は、どの部分に新規性があるのかの表明や議論の双方向性等に問題がないのだろうか?新規の研究成果なら第三者の査読を経て論文にするのが正統なように思えるが。数学の証明のように検証可能性が極めて高ければホームページで発表とかでもいいんだろうけど。
そこからか。何のために研究雑誌にBook Review欄があると思ってるんだ……(和文だろうが欧文だろうがたいていのメジャーな学術雑誌にはBook Review欄はあるし、場合によっては書評に査読がつくよ)。ていうか普通、序章とか第1章とかで先行研究の整理をするし(一般向けも混在するレーベルだと編集に嫌がられることもあるらしいけど)、そこで自分のオリジナリティについても言及するよな。
あくまで一例だけど、先日出た研究書の目次はこんな感じ→http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0871-6.html(適当なUniversity PressのHPを開いて適当な新刊をチョイスしただけなので、内容については何も言わないし、言えない。なぜなら私は読んでないからだ。あくまで「ちゃんと章立てに先行研究って入ってるでしょ」というサンプルとして受け取ってほしい。目次で明示されてないだけでちゃんと先行研究の整理をしている本もあるので気をつけて。それはそれとして面白そうな研究だと思うんで余裕があったら読んでみたい)。
駄目な研究は本として出版したってロクに引用されずにアカデミアから消えていくだろうし(もちろんあまりにマニアックすぎて引用するひとがいないという悲しい状況も有り得るのだがそういう場合は学術雑誌の書評でちゃんと良い研究ですよって言われてるからな。おべっか書評がないとは言わないけど、むっちゃ辛辣な書評も見かける)、まともな研究書なら議論の典拠は明示してあるんだから議論の双方向性に問題はないでしょ。
三浦瑠麗の著書、内容(https://www.iwanami.co.jp/book/b261983.html)を見る限りでは研究書ということでいいと思うけど。文系は割と凝ったタイトルつけるひと多いからタイトルだけで研究書じゃないと即断することはできないし(『想像の共同体――ナショナリズムの起源と流行』も『〈日本人〉の境界――沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで』も立派な研究書です)、値段についても、うちの分野の研究書の半額くらいの値段で売れて羨ましい限りと思うけど、それが研究書であることを否定する材料にはならない(ていうか一般書だとしたら3000円以上ってクソ高では)。国際政治学の一般理論みたいに需要がある分野ならそれなりに廉価でも採算取れるよね。研究書は別に専業研究者だけが読むものではないので、政治学者以外の教養人にも売れそうだと判断したらこのお値段になるのは別に不思議じゃない(逆にマイナー分野では……お察し下さい。売れない→高い→売れない→高いの悪循環でございます。学術成果刊行助成でなんとか刊行できてる研究がたくさんあるんだよなぁ)。気が向いたら図書館で実物見てみるわ。
何度も言うけど、中身は知らない。ひょっとしたらダメダメな内容かもしれない。でもそれは、査読通ったちゃんとした学術論文でも中身がショボかったりオリジナリティが希薄だったりすることがありうるのと同じで、ダメダメだから研究業績にカウントされないということにはならない。たとえそれがサラミ論文であったとしても、英語で書かれた査読つき論文だったらそれは業績としてカウントされるべきだよね。公募で採用されたり学術界で優れた研究者として認知されるためには内容が優れてないといけないし、こんなサラミ論文しか書いてないやつがなんで○○大の講師なんだ! という批判はされていいと思うけど、それはあくまで内容を見た上での話であって、形式だけを見て業績じゃないと言うことはできないはず。今回の元増田の批判が内容を見た上での話なら『シビリアンの戦争』を未読の私は何も言ってないし言う資格がないけど、理系増田も読んでなくて、ここではあくまで形式の話をしてるんだよね。形式の話をするなら彼女は学術業績としてカウントされるべき本を書いていますとしか言いようがない。
一般論からすると著書はオリジナルな研究業績であり得るが、逆も然りで著書は必ずしもオリジナル研究業績とはみなされないというべきなのでは。門外漢は著書数もオリジナル業績数とみなせという主張は言い過ぎだろう。
「著書はオリジナルな研究業績(でありうる)」「研究書は立派なオリジナルの研究成果」と私は書いてるよね? それで前段へのアンサーになってると思うし(そのうしろでちゃんと「一般向けの本」と「研究書」を分けて記述してるよな)、そもそも私は最初の増田(anond:20180217012945)で「新書2冊はおいといて」って書いてるので、“すべての著書”がオリジナルの研究業績なんて端から主張してないってことは読めばわかってもらえると思ってたんだけど(オリジナルな研究を書籍化したものを「研究書」と呼ぶわけだから、“すべての研究書”はもちろんオリジナルな研究業績です。一方で著書のすべてが研究書というわけではないので、“すべての著書”が研究業績というわけではありません。こう書けばわかるかな?)。
後段、著書はオリジナルの学術業績とはみなされないという理系のローカルルール持ち出して他人を業績が少ないと批判する方が言い過ぎでは。いやもちろん他分野の常識に詳しくあらねばならない必然性はないけど、他人を「業績が少ない」と批判する以上は他分野の「業績」の基準も知っておくべき、って、そんな無茶な主張? 文学でも歴史学でも政治学でも社会学でも教育学でも文化人類学でも哲学でも法学でも、おおよそメジャーな文系の研究分野ではだいたい研究書はオリジナルな研究業績としてカウントされるんだから(これは英語圏でも変わらないと思うよ。少なくとも私の専門分野や隣接分野では英語だろうがフランス語だろうがドイツ語だろうが韓国語だろうが研究書はオリジナルな研究業績です)、文系からするとその常識が通用しない方が非常識ですよ。理系のローカルルールを勝手に学術界の一般ルールに敷衍するのやめてもらえます?
院生だろうが単著で論文を発表するのがふつうの分野の人間からすると、理系では指導教授が論文の著者に名前を連ねるのか、変わった慣行だなぁ、って思うけど、それは理系の慣行なんだなとして受け止めてるし、この研究者は自分の学生の論文に名前を連ねて論文数稼ぎしてる! なんて主張しないよ(もちろんギフトオーサーシップは批判されるべきだけど、理系では自分が指導してる学生の論文の共著者になるのはギフトオーサーシップではないんだよね? このへん詳しくないので間違ってたらごめん)。分野が違うと業績のカウントの仕方も違うんだなぁ、って受け取っておけばいいじゃない。
その上で現在日本語の地位が低い分野や日本語でやる意義がまるでない分野まで、日本語で最新の論文を書いてもよい、あるいは日本語の地位を高めていこうなんていう理由がよくわからない。例えば挙げてくれた西洋古代史の最新論文を日本語で書くことに何の意味がある?日本全然関係ないのに?解説書や教科書は別だ。日本語で多くの人が学べることには意味がある。でも論文なのだとしたら欧米の研究者が読まなければ学問の進歩に乗らないんだからただの自己満足だろう。アマチュアの研究者だとしたらそれでもいいんだが、大学の研究者はプロだろう。国から研究費貰って英語が中心の分野で日本語しか書かないのは国民が納得しないだろうから税金泥棒としか言えない。
将来英語が中心じゃなくなることもありうるだろうという論を挙げているがそれは詭弁だ。理系だってラテン語から現代語への変化やドイツ語、フランス語の凋落を経ているが、最新の論文を主流の言語で書かない理由はない。(欧米の科学力を中国が圧倒的に上回ることは考えにくいが)将来中国語になるんだとしたらそれもいいだろう。もし仮に日本がその学問分野で覇権国家になるプランがあってそのためのリソースを投じているっていうなら別だけど、そうじゃないなら英語に圧倒的に負けてる分野はさっさと降伏して英語ベースにしたほうが世界中の学者のためになるし日本人が世界に認められる学問的成果をあげるためにも効率的だと思うんだけど。国際政治学についていえば英語圏の研究が中心だという知識は増田にもあって、反米主義だったり日本の世界覇権を夢見ていたりといった特殊な思想的背景があるわけでもない研究者が英語論文を書かないのだとしたら、怠慢あるいは研究の先進性の不足の誹りを免れないであろう。
これ最初にも書いたけど、主要国のアカデミアでは文系の研究の多くの部分を自分の国の言語でやってます。たとえそれが自分たちとは縁遠い地域のことだとしてもね。日本語と英語以外の言語で書かれた日本学の論文なんて日本人研究者はあまり読まないんじゃないかと思うけど、たとえばポーランド人はポーランド語で日本学の論文書いてるし(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006355425。ちなみに、このポーランド人みたいに、日本人の外国研究者がその国の言葉で日本での研究状況を紹介するっていうのは既にあちこちでやられてます)、それは日本のアカデミアで読まれていないとしても日本学の発展に寄与しポーランドのアカデミアを豊かにしていて、仮にポーランドで極めてオリジナリティが高い研究が出てきたら日本人の日本学者も何らかの方法でそれを読まないといけないだろうと思うわけですよ(別に自分で読む必要はない。他人に読んでもらえばいいんだから。翻訳ってそういうことだよね)。ポーランドのアカデミアは当然ポーランド固有の問題意識を持っているし、その土壌から日本にはない新鮮な日本観が生まれてくるかもしれない、という点で、色々な国のアカデミアがそれなりに独自の発達を遂げていることは重要だと思うけれども。
当たり前だけど西洋古代史の論文が日本語で書いてあっても最新の研究動向は反映されているわけ。書いてるひとは西洋諸言語読めるわけだしね。向こうがそれを読めない、または読もうとしないからといって先進性がないわけではない。読まれる/読まれないという尺度と研究が先進的である/先進的でないという尺度は別だよね? 混同すべきじゃない。そこにはちゃんと研究蓄積というものが存在しているんだよ。明治期以来、主要文系分野では日本語の分厚い研究蓄積がある。もちろんそこには西洋の猿真似だったり「横のものを縦にした」だけの研究もたくさんあるかもしれないけど、それらは日本のアカデミアを間違いなく豊かで質の高いものにしてきたと思う。
で、哲学の本場はドイツとかフランスとかイギリスとかだと思うけど(イメージが貧困すぎたらごめん。正直哲学のことはよくわからないんだ……)、日本人哲学者が優れた哲学書を発表すればそれはちゃんと英訳されてオックスフォード大学出版会から出版されていたりするのね(https://en.wikipedia.org/wiki/Kojin_Karatani)。これは日本語圏で外国人に読まれない研究を積み上げていても、良いものを書けば「日本の研究者面白いことやってんじゃん。翻訳して読んでみようぜ」ってなる実例なんじゃないかと。
根本的な話をするなら、「国際政治学」という分野の標準言語が英語である必然性はどこにもないわけだよね。それは英語圏で優れた研究が積み上げられてきた帰結であって、英語圏の人が自分たちの言語で研究成果を積み上げた結果それが参照されるべき言語になっているだけの話。要するに彼らは先行者利益を得ているわけ。現代思想の分野でフランス語が大手を振って歩いているのも、フーコーやその他の人たちがフランス語で優れた成果を書いてきて、それが受け入れられてきたから英語や日本語にフランス語の文献が訳されまくっているという現状がある。日本語がこの高みを目指してはいけない理由はないよね。
私はここまで書いてきたような理由で日本語で論文を書くのも重要な営為だと思う(加えて、執筆言語が自国語であることは東アジアや欧米の主要国の文系アカデミアとしての標準に則っているので、ことさら日本のアカデミアだけが批判される謂れはないよな、とも思う)。ただ理系増田がそれにどうしても同意できないなら、それを説得する言葉を私は持たないなぁ、とも思う。私の論拠はだいたい言い尽くしたので、執筆言語の問題についてこれ以上理系増田に答えようとは思わない。なんと言って終わらせればいいかわからないけど、とりあえず、お互い研究頑張りましょう。
私が入社する直前くらいに結婚したというふうに聞いていたので、最初は「うちの嫁さんが~」話をうんうんと聞いていたらその後イヤミ男に変化した。
どうでもいいことで呼びつけてはミスをしたところをグチグチと責めて「うちの嫁だったら~」という心底どうでもいい比較をされた。
私が退社をするときの飲み会ではかなり酔って座った目で「お前のことが気に入っていた。いなくなるのは寂しい。考え直せ」と言われた。
私の辞めたい気持ちの8割くらいはお前が動機だと言いたかった。
退社後他の同僚を通じて「あいつが寂しがってるぞ」というキモい連絡が来た。
転職先の直属の上司だったが、入社当初から「お前は俺の個人秘書みたいなもんだからな」(実際は営業アシスタント)と言われてた。
夜中に出張先からその日に会ったこととか意識高い系の「仕事とは」みたいなメールが来て、急ぎでもなさそうなので放置しておいたら「非常識だ」と言われた。
「メールは3分以内に返すのが基本」とか謎ルールを勝手に作られて以降どうでもいいメールにも返信する指示が出た。
口実をつけて二人になろうとしているようだったが、私が仕事と関係ないと思って自衛していると不機嫌になってイヤミを言うようになる。
なお既婚者。
あくまでも私の方から誘うようにしたいらしく、自分の思うような行動をしないと仕事を理由にネチネチ攻撃をされた。
一度だけ出張に同行させられたが、キモいので接待の飲み会でそっと抜け出して一人でホテルに帰ってしっかり鍵かけて寝た。
年齢が若くそれなりに仕事ができ、顔もちょっと良かったので入社当初は一緒に飲みに行ったりしていた。恋人未満。
それなりに仲良くしていたので、ビビリセクハラ上司のネチネチをかばってくれるかと思ったら、実は影で私の悪口をその上司と一緒に言ってたことがわかった。
上司が「あいつは気が利かない」「気持ちをくんで動くことができないバカ」といった話を「そうっすよね~、わかります~」みたいにしてた。
社員旅行の飲み会で、旅館の一部屋のドア開けっ放しにして飲んでたのを通りかかった時に聞いた。
挙句、二人でいた時に上司が何気なく近寄ってきたらそっと席を外してそのまま戻ってこなかった。
また転職をしたら今度は社内で公然と不倫してるアホカップルがいた。
関わりたくないと思ったが、最初の方は馴れ馴れしく話しかけてきた女の方と仲良くなっていろいろ話をしてしまった。
そうしたらその女に話したことがなぜか不倫男の方に筒抜けになってて、偉そうにあちこちで話をしていたのでピンときて他の人に尋ねたら「気付かなかった?」とか言われた。
不倫女と仲がよいなら俺とも仲がいいだろうとばかりにやたらと馴れ馴れしくなってきて心底キモかった。
行く先々でキモいのばっかりにあたるんだけど、これって仕事運がないってことなのかどうか。
番外編として、ビビリセクハラ上司に出張同行させられたとき、無理に飲め飲めと言われてトイレに逃げていったところ、女子トイレの中に来て「私がうまく言っておくから逃げなさい」と出口まで送ってくれたお店の人(ホステス嬢)さんの御恩は今も忘れない。あの人元気かな。幸せになってるといいな。
15歳から10年間彼氏が途切れたことのない私が、とりあえず非モテ(だと思い込んでいる)あなたに彼氏の作り方を教える。まず、好きな人を作ってから以下を読んでほしい。
【外見】
・大前提として、ブスはモテない。断言する。しかし、この場合のブスには「雰囲気ブス」が含まれる。
世の中の80%ぐらいの人の顔は「普通」だ。絶世の美女がほんのわずかしかいないように、絶世のブスもあまりいない。コンプレックスの肥大化とそれに伴う諦めやネガティブ、あるいは逆で自意識過剰が、「雰囲気ブス」を作ると思う。清潔感のある服装、髪と肌と爪の手入れを心がけて笑顔でいると、少なくとも第一印象が「この人ブスだな」にはならない。最初からフルスロットルで好かれる必要はないんだから、普通の顔の人は普通にしとけばいい。どうしても人前で笑顔になれない、美容に時間を割く気力も削ぐほどの甚大なコンプレックスがある人だけ、自分を「ブス」だと自称するべき。
・服も髪型も「似合う」かどうかが最重要。男の人に比べて女の人は服のジャンルが幅広いので、「これは万人に似合う」という服はあまりない。はっきり言って、20代半ば以降で自分に似合う服や色や髪型が分かっていないというのは洞察力が低い証拠だと思う。今はパーソナルカラー診断や骨格診断もあちこちでやっているし、簡単なチェックならネットでできる。自分を知ろうとしない人が他人にモテようなんて100年早い。
・メイクよりもスキンケア。肌は、化粧下地か薄づきのファンデーションにコンシーラーで十分。チークは練りチークを推奨します。こってり口紅塗る必要はないけど、色付きリップでもいいから唇に色を乗せることは最重要。似合う色についてはパーソナルカラー診断受けてください、今はプチプラコスメもたくさん出てるので化粧品が揃えられないということはない。私のおすすめは、マキアージュの化粧下地とKATEのCCリップクリーム。
【内面】
・常識的に考えて、暗いよりは明るいほうがいい。ネガティブよりはポジティブがいい。冷たいよりは優しいほうがいい。「常識的」であることに勝るものはない。逆に言えば、非常識な人がモテることは決してない。
【狙うべき男性】
・好きな男性。
【やってはいけないこと】
・自分が相手の立場に立ったとき「非常識だな」と感じること。例えば、飲み会終わりに「〇〇さんと前から話してみたかったんです、LINE教えてください」と話しかけることは非常識ではないけど、その後1日に何十通もLINEを連投したら非常識になる。判断に迷ったらまずググれ、「LINE 送るタイミング」とかで。
【私が言われたら嬉しいこと】
・くだらない項目なので割愛。
・自分から行動しよう。かけてない電話に出る人はいない。好きな人ができたら積極的に話しかけ、連絡先を聞いて、「ご飯でも行きましょう」と声をかけてくれ。あなたがよっぽど非常識な人でない限り、むげに扱われることはない。もし足蹴にされるようなら次を探そう。
・相手のことを理解しよう、コミュニケーションをとろうとする姿勢が大事。趣味ひとつでも、自分とドンピシャで話が合う人なんてあまりいない。自分の知らない趣味を持っている人には「〇〇の何がいいのかプレゼンしてほしい」と言ってみる。好きなものを語る人の横顔は基本的に美しい。〇〇がガンダムでも、エヴァでも、プロレスでも、ももクロでも、闇金ウシジマくんでも、なんでもいい。知ったかぶりする必要はない。できれば、帰ってからYouTubeとかWikipediaで調べてみる。趣味として成立するようなコンテンツには何らかの魅力があるので、彼の趣味を知るだけではなく自分の世界が広がってよい。
・忘れないこと。行ったお店、食べたもの、飲んだお酒、好きだと言っていたもの、会話の端々をなるべく覚えておく。相手のことを覚えていることは、相手を尊重していることを示す最も簡単な手段だと思う。相手のデータを手がかりに、次のデートにつなげよう。もちろん自分から誘ってください。理想は、3回目のデートは相手から誘ってもらうこと。
私は恋愛でたくさん失敗してきた。好きな人と付き合えても裏切られたり、いいなと思っていた人からヤリ捨てのようなことをされたこともある。でも、だからといって私の価値は下がらない。誰に何をされても、私の体も心も私だけのものだ。傷ついたとしても必ず立ち直れる。あなたも私もブスじゃないし、「好きです」と(常識的なシチュエーションで)言われて嫌な人はいない。相手のことをもっと知って、もっと好きになって、2人で色んな思い出を作るって最高すぎると思う。ビッチと言いたい人は言ってくれ、恋愛って楽しいよ。恋愛、サイコー。
私はそのお子さんを送ってくださった方を直接知らないけれど、でもお子さんを心配してくださったから送ってくれたわけで、あなたを非常識だと責める気持ちはないだろうし、もしあったとしても二の次だと思うのですよ。
世間様は意外と優しかったりもするから、怖がらなくていいと思いますよ。それよりはまず感謝ですよ。
お体をお大事に。
FGOのサービスが始まってから、ずっと遊んできたのだが課金システムがどうにも馴染めないまま先日までに至った。
天井のない課金システム、課金すればするほどにどツボにハマる。
一方でお空のゲームは天井があったり年数回にある程度の限定はされど好きなキャラを手に入れることができる。
どちらも並行して続けてきたが、どちらかというとFGOのストーリーが好きだったので何かイベが有る度に課金を続けてきた。
イベによっては3万~15万程度ぶちこんできたが、課金するほどにFGOが嫌いになっていってしまった。
それでもFateというブランドは好きだったし、好きなキャラもいたりで遊んできたのだが…それにも限界がきた。
そしていらないほどに溢れてくるドリル色欲バカと槍兄貴たちの群れ。赤デブもしょっちゅう出てきた。
課金する度に必ず出て来るそいつらを見ていると、だんだん嫌悪しか感じなくなってきた。
そんな嫌悪のおかげか、FGOに金をつぎ込むのは馬鹿のやる事と思うようになり止めた。
以前までは、好きなものにいくらつぎ込んでも別に良いじゃないかと思っていたが、
天井も何もない突っ込めば突っ込むほどに損をする仕様では、得るものは少なすぎる。
というか、無い。
ストレスが溜まるだけの仕様や、新章始まってからのクソイベントの連発。
天井までの金額は大金なれど、天井を設けている運営もあるし、課金よりゲーム性を大事にするような運営もある。
そういう運営をFGO運営と同じような括りにする事はできない。
FGO運営のやり方は、規制前のパチンコ店みたいなやり方と似ている。射幸心を煽るやり方だ。
ちなみに特定のキャラが出ないから、このような事を書いているのではなく天井も設定されていない状況で
常識はずれの課金額にならないと出てこないという状況に嫌悪している。
お空のゲームで例えれば9万課金したら手に入るキャラがFGOでは下手をすれば何十万単位でないと手に入らない場合もある。
まあ…お空のゲームも一時期干支キャラで問題があったが、その後天井実装を設定していたが…。
自制で課金を抑えればいい話であるのは間違いない。自己責任も分かる。
それを許してしまったら、ソシャゲ運営はやりたい放題になってしまうと思う。
結果、FGOの利益は見てみれば分かるように天井がないせいで利益がおかしい。
面白いからという理由だけでは、到底手に入らない金額が利益になっている。
Fateというブランドだから仕方ないという人もいるだろうが、非常識な課金でのレアの取得は、やはりおかしいだろう。
納得しているユーザーが課金してるんだろという人もいるだろう。
本当に納得してるんだろうか?回さないと手に入らないから課金しているだけじゃないだろうか。
それは納得しているのではなく、やむを得ず回しているように見える。
排出率も正直な所疑わしい。弄ってるんじゃないだろうかと思うような状況だ。
そう考えれば考えるほどに、FGOに疑心を抱く。
そんなことを言っても、結局は運営がどんな隠し事をしていてもユーザーはわからないし
ユーザー同士の意見は水掛け論にしかならないので、どうしようもないのだが…
アプリゲーム自体はこれからも続けていくだろうし、アプリゲームをやらない人からすれば無駄と思われるだろうが、
薬剤師の母の意見(愚痴ともいう)と照らし合わせてみても、正しいと感じる。
母が勤めている薬局は生保が日本でもトップクラスに多い地区に近い薬局らしい。偉そうで非常識な態度であられるのは、やはり福祉の方が多いようで。
ジェネリックを拒否する方もやはり福祉の方が多いよう。(勿論、守秘義務に違反しない程度の表現である)
母からは薬剤師や薬に関する法律の愚痴はよく聞かされますが、薬九層倍なんていつの時代の話やら、今はジェネリック処方をやらないととてもじゃないが点数足りずに薬局経営が困難、だとか福祉の方は原則ジェネリックにしてくれ、だとか。そういうネガティブな話しか聞かない。
ジェネリックと正規品の差については、何故かはわからないが効き目が違うものもあるらしい。
ただ、福祉の方は「本当にその効き目の違いに該当するの?」、という態度の方が多いそうで。(そんなに発生するわけないやんけ、、、という愚痴も)
母曰く、体調が悪かったり、何かイライラすることがあるのはわかるが、実際に窓口に立って対応する側の気分を少しは考えてほしい、そうです。
ジェネリックで薬局が儲かる、とはよくつけられる難癖の一つだそうだが、おそらく儲かっているとすれば製薬会社でしょう、とのこと。
まあ極端な喩えですが、車が飛ぶように売れたとして、車の需要がそこまででもない販売店が儲かるとお思いですか?みたいなもんらしいです。(薬価を決めるのは国であり、薬剤師会にはロビー活動する体力なんてありません。という単純な話)
実際、勉強会に参加した帰りのお土産は「販促とはいえ頑張るねえTさん」、みたいに思います。(まあ製薬会社も所詮は株式会社なので、責めるつもりはありませんが)
おはよー。
なんかねー、たまに流れてくるこの日記のやつ、興味深くて。やって見たくなったんだよねー。
色々言いたいこととか…まあぶっちゃけ言いまくってるタイプの人間ではあるんだけど。
そんなんじゃないのよ、まあ。
人生。
よく悩む。人生。
人生って人が生きるって書くじゃないですか。
人ってなんだろうなあって、思うんですよ。
私はたしかにホモ・サピエンスっていう動物なんだろうけども、他者と自分がどうしてもおんなじ動物、というか生物には見えなくて。だから時々人間として生きることに戸惑う。
日本人だからかなあ。型にハマりたくないってなんとなく思ってるからかなあ。
みんなおんなじ髪の色で、同じ肌の色で、旬を追っかけて、おんなじ服着て。
うーん、人が生きるなあ。
まあ、こんな多様な形してるのも人間だけかあ。
男、って生き物と、女って生き物と。それって対なのかな?って思っちゃう。どちらかというと、比率かなって思ってる。
ある女性に騙されたのがきっかけですっかり女性が嫌いになっちゃう男性もいるじゃん。
ここで女性に叩かれすぎて女性全体が嫌いになっちゃう男性もいるじゃん。
ただ一部の女性が異性に嫌な目に遭わされて傷ついちゃってるだけなんだよ。
まあみんなそれぞれ心の傷が癒えるまで、「女は嫌いだ」とか「女だけの街が欲しい」とか口走ると思うけど、そっとしておいてあげようよ…
女性全員が男性全員を犯罪者だなんて思ってないよ、大丈夫だよ。
子供の学校の男性の先生のことも、職場の男性の上司や同僚のことも信頼しているし尊敬しているよ。
配達に来てくれるネットスーパーのおじちゃんも、いつも来てくれて嬉しいし感謝してるよ。
大体の人がみんなそうやって生きてるよ。
男性は疎外なんかされてないよ。みんな大切な仲間だよ。
左派の価値観(https://anond.hatelabo.jp/20180120234044)を書いたおっさん増田っす。ダラダラ長い補足をつけるのは何なので放置していたんだけど、いくつか気になるブコメをつけていただいたので、続きというわけではなく別記事で書いてみたいと思うよ。
なるべく教科書的なおおよそのところを書くつもりだけど、やはり人間なので私見は入る。明確に個人の意見の場合はマーキングします。また左派/右派って分類は今回の場合そぐわないので、革新/保守と言う表記で書くよ。
『右翼も現状否定では一致してるからな、左翼のそれとなにが違うんだろ』
革新と保守の何が違うのか? どっちも「今の社会をより良い方向に一歩でもすすめる」という点では一致しているのにどこが違うの? っていう疑問はなかなか良い切り口だと思う。
教科書的な答えは「革新は(ある任意の)理想の状況や体勢に跳躍、急進しようとする」「保守は方向に進むにしても一歩ずつ漸進(ゆっくり進む)してゆく」なんだけど、まあ要するに違いは「アクセルの踏み方だけ」。もちろん現実的には進むべき理想の方向や、その方向に進むにしても進む方法の実現手段では様々に意見は割れるんだけど、そんなもの革新と呼ばれる人の中でも保守と呼ばれる人の中でもバラバラなので、革新と保守の違いは? といえばアクセルの踏み方くらい。
でも、「違いは速度感だけ」っていうと、凄く小さいことに聞こえるし、なんでそんなことで揉めてるかさっぱりわからないよね。
「長い歴史と非常に(っていうか非常識なまでに)ユーザーの多い複合型の巨大Webサービスが存在する。日常的なメンテやバックアップはあるのだけど、このサービスに対して現在のユーザー環境や競合サービスを鑑みて大規模改修を加えることになった。
なお、この大規模回収にあたってサービスの停止やユーザーに不利益を与えることは許されないとする。また別サービスを立ち上げてのテストやユーザーのサービス間移動も許されない。
方針A:サービスを機能ごとに切り分けて細かい部分を解析して、小さな改修を加えて、少しずつ改善していく。改善を繰り返す。
方針B:機能単位、あるいはサービス単位、あるいはそれらをより大きな範囲でコードを新作してブロックごとまるっと入れ替える。」
方針Aが保守と呼ばれている思想で、方針Bが革新と言われている思想。
こうしてみると「AとBってぜんぜん違うじゃんよ!?」ってなるとおもう。主に現場の悲鳴的な意味で。
他の競合サービスへのキャッチアップや理想の快適サービスを目指すのであれば、たしかにBが良い。最近開発された新技術も突っ込めるし、技術的負債の返済もできそう。だけど、Bでなんかトラブったときの災害ってAの比ではない……。でも競合サービスに勝つため、あるいは環境変化に追従するためにどうしてもBを選ばなきゃならんこともままあるわけで……。そもそもAではなくBでしかたどり着けないサービス設計の方針転換だってある。
じゃあAの、つまり保守の言い分ってのは何なのか? と考えると「人間の集団(および集団の作るもの)なんて絶対ろくでもないアホやアホミスが混じってるものなんだから、いきなりすごいことしようとしてもコケるんだよ。今現在サービスは稼働してるんだからゆっくり進んでいくしかないんだよ」というもの。
例えておいてなんだけど国家というのはWebサービスと違って逃げ場がない。他サービスに移住とか容易く出来ないし、サービスが停止あるいは混乱したらすごい大きな迷惑がかかる。死人とか出ちゃう。だから、ゆっくり行こうぜ。と。
保守のこの言い分は説得力がある。人間は数が増えれば増えるほどカオスになっていっちゃう生き物だからだ。
革新(この場合は左派やリベラルも)は「みんなから見て素晴らしいこの理想を見せれば、その素晴らしさを理解したみんなは協力してくれるから、この理想は実現するはずだ」という理想主義ともいえる無邪気な思いを持っている。それそのものはそこまで間違ってるわけじゃない。明るい未来のビジョンも見せずに人がついてくるかと言えばNoなので、理想を見せるというのはとても重要だ。
その一方で、理想に耽溺しちゃうと説得する手間を惜しむようになる。程度の低いリベラルは「正しい理想はこれなのになんであなたはそれが分からないの? バカなの? 死ねば?」みたいな態度になりがちだ(あえて例は挙げないけどみんな心当たりあると思う)。
そこへ行くと保守というのは「人間は全員バカなので正しい理屈が他者に必ず認められるとは限らないし、ましてやそれが正しい設計や正しい実装として実現されるとも限らない。失敗前提でいくしかない」という、ある現実的な、ある意味非常に後ろ向きとも言える考えを持っている。
だが一方で、保守のその後ろ向きさは「俺はバカだしあんたも多分バカなので、今俺が考えてることを理解してもらうためには手間ひまかけて説得しなきゃならん(それでもうまくいくかどうかは賭けである)」という考えも内包している。つまり、説得したり協力したり、時には泥臭く妥協したり、薄々間違っていると思うことでも頭を下げたりすることを前提としているのだ。
私見だけど、自民党という政党が歴史とか規模において他よりの一歩抜きん出た存在になったのは、まさにこの「説得の手間ひまを惜しまない文化、意見細部は異なる他人同士が同じ舟に乗るというノウハウを持った」という理由によると思う。これがすなわち思想的政治的な正しさを保証するわけではないけれど、多人数が話し合うという政治の現場に対して技術力があるという言い方は出来るだろう。
今の日本は概ね保守な方向の国だと思うのだけど、じゃあ、この記事で説明した保守という思想に弱点がないのか? といえばそんなこともない。
革新が原理主義と相性が良くてダークサイド落ちしやすいように、保守も泣き所がある。それはおおざっぱにいえば「怠惰」だ。
「今現在サービスが稼働してて、変な改修をするとサービスが悪化するかもしれない」という考えは、一歩間違えれば容易く「今動いてるんだからこのままでいいじゃんよ」になりうる。そんな風にメンテをサボったシステムはリスクで膨れ上がる爆弾みたいなものだ。
また同じように「更新を停止して監視が緩んだシステム」は既得権益の温床になる。特定ユーザーが利益を受けたり、地位に居座ったりすることが固定化されてしまう。
この怠惰は話し合いの場にも及ぶ。「アホ同士の話し合いなんてどうせ完全な合意や完全な正解はないんだから、話し合いの内容なんて適当に打ち切って地位が上の人の命令に従えよ」という怠惰は、本当に発生しやすい。妥協が必要だっていうのは保守の言い分なのだけど、妥協し過ぎという怠惰には目も当てられない。
これらの怠惰と保守思想は本当に相性が良い。世襲制や不顕性のつい良い地方農村的な自治体とか、血族経営の企業とか。
しかし、左派がそうであるように「保守の綱紀を引き締めるのもやはり保守」であるはずだ。
そもそも、保守の真骨頂は「たゆまぬ、あきらめぬ」ことにある。
「社会をより良い方向に一歩でもすすめる」に関して、その理想の輝かしさは革新>保守だ。実現の確度を度外視して「一番良い理想をくれ!」で動ける革新に、保守はキラキラでは勝てるはずがないのだ。そういう革新の優位性にたいして保守ができる返答は「たゆまぬこと、あきらめぬこと」でしかない。
一歩一歩は小さくても、「ずっと歩き続ける」「不断の改善を続ける」「さぼらない」ことが保守思想の本質的な光だ。
その意味保守は「議論をつくす」と胸を張るべきだし、自分がメンテするシステムの監視を厳しくすべきだ。「相手が自分とは全く思想の違う存在でも、ギリギリのギリギリまで説得を続ける」という汗のかき方が保守の美徳であるはずなので、保守的には「むしろ議論バッチコイ!」くらいが健康的だと思うよ。