はてなキーワード: 非常識とは
昨今の#MeToo運動や世の中の流れ、あるいはLINEおじさんをバカにする傾向を見ていると、「ああ、自由恋愛は終わったんだな」というのをしみじみと思った。「自由恋愛」とは永遠不変の金科玉条ではなく、戦後数十年間の一時的な理念でしかなかったのだ。単線的な進化史をあえて描くとするならば、「仲介恋愛」(お見合い)から「自由恋愛」となり、これからは「契約恋愛」となるだろう。
「仲介恋愛」の時代に、自分の意思よりも仲介者(家族や親類)の意思が優先されるのはどうなんだ、という問題意識から、自分の意思で相手を選ぶ「自由恋愛」へと発展した。しかし、「自由恋愛」がセクハラやデートレイプなどのバグを生むことがここ十数年で問題視されるようになった。「俺は気に入られているはずだ」という勘違いから暴走していくセクハラ、デートレイプは「自由恋愛」における重大な欠陥だ。この欠陥を埋めるには「契約恋愛」しかないだろう。どのような形になるかはわからないが、お互いが同意していると明示された状態でないと、デートするのは非常識、という状態だ。例えば、相手が「デート指輪」を受け取らないと、デートに誘うことは非常識、というのもあり得るだろう。
「仲介恋愛」は家族間の契約だった。「契約恋愛」は個人間の契約になる。相手は自由に選べる。「仲介恋愛」と「自由恋愛」をアウフヘーベンしたものが「契約恋愛」だ。
「自由恋愛」とはたった数十年間の理念だったのだ。今までの自分の恋愛を振り返り、センチメンタルな気分になった。あの誤解の積み重ねによる感傷は、これからは古いものとして打ち捨てられていくのだ。「この子とセックスできるかも」とドキドキし、実際にできたときの昂揚感を味わうことは、もうできない。
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/ ` 、
/ (_ノL_) ヽ
/ ´・ ・` l 自由恋愛は死んだんだ
(l し l) いくら呼んでも帰っては来ないんだ
l __ l もうあの時間は終わって、君も人生と向き合う時なんだ
、 _ ィ
/  ̄ ヽ
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ハリウッドに端を発する #MeTooで提起されている問題の中核部分が
であることは、主張者・賛同者一人一人に聞いても「その通りだ」と言ってもらえると思う。
まさか、「権力・強制力とは関係なく、いやらしいジョークで不快にさせられた」程度のことではあるまい。もしそうだというなら、本家の運動と照らし合わせる限り、それは今回の#MeTooとは別のものだろう。
発端となったアメリカ映画界のケースは、"W"なる人物による被害をこれ以上広げないという意思も含めた「緊急避難」として告発を行ったという意味合いもあろかと思う。
法律の外だけで社会的抹殺を行おうという動きではない。きちんと訴訟も行われている。
[ハリウッドのセクハラ騒動:ハーベイ・ワインスタインに関する訴訟はどうなっているのか(猿渡由紀) - 個人 - Yahoo!ニュース](https://news.yahoo.co.jp/byline/saruwatariyuki/20171128-00078657/)
メディアを利用した社会的告発に対しては、相手方から名誉棄損などで訴えられる可能性もある。また、復讐心に基づく私刑(リンチ)ではないことを示す必要もあり、訴訟行為は当然と思える。
https://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/ASL131P4HL13UHBI001.html(「もう終わり」ハリウッド俳優ら、セクハラ訴訟基金設立)
一般社会のケースでの訴訟費用の支援が話題となっている。#MeTooの結果として相手方から起こされる訴訟も想定しているだろう。
自分の感じ方にすぎないが、本家ハリウッドの人々は自らのアクションに少なからず復讐心やリンチ性の要素が含まれていることを自覚しており、また「しょせんハリウッドという舞台でのマッチョな人々の内輪喧嘩ではないか、我々の生活とは関係ない」という一般の人々の厳しいまなざしをも感じ取ったうえで、さらなる公益性を目指しているように思う。
翻って、本邦の#MeTooでは告発者が将来的に払うことになるコスト(世間からの好奇の目・加害者側からの復讐など)の大きさを理由に、これ以上のコストを払う必要はなく、法律の外で加害者を社会的に抹殺する手法でよいと考えているように見受けられる。
[職場でのハラスメントでお悩みの方へ(セクシュアルハラスメント/妊娠・出産・育児休業等に関するハラスメント/パワーハラスメント) |厚生労働省](http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyoukintou/seisaku06/index.html)
がある
まずもって、これは雇用された者同士の問題というより、雇用主が解決しなければならない問題である。
もし話し合いで済まなかった場合は、まずは訴訟を考えるべきである。メディアを利用した告発とセットでも構わないとは思う。
仮に、話し合いで済んだにも拘わらず、社会的告発をしたいというのであれば、それこそ社会的非難を覚悟で行われるべきであろう。
いずれにせよ日本もアメリカ同様、法治国家なのだから、本来の手順を意識する必要がある。
「#metoo はリンチではありません」と宣言しているが、それは独自の解釈であろう。
被害者として名をさらしており、匿名の立場から石を投げているわけではないからといって、ただちに私刑としての性質から逃れられるものでもない。
もし、メディアを利用した社会的告発だけで問題が済むというのであれば、少なくともアメリカ発の#MeTooに自らを連ねるのはやめたほうが良いと思う。
もし、法律の外の告発だけでよいとすると、下記のような懸念が考えられる。
これらに対して社会的合意が形成されない限り、このタイプの#MeToo運動は深刻な問題を起こす。
まず、#MeTooを「アメリカ出羽守」や「フランス出羽守」として我が正義のマウンティングに走るより、もっと地べたから考えていくべきであろう。そして、それが#MeTooというハッシュタグのもとに語られる必要は全くない。
セクハラを「力関係の濫用」ととらえるか「不愉快行為・不愉快言動」まで広げるか(少なくともハリウッドの#MeTooは前者であろう)、本邦ではこの付近こそが争点になっていると見受けられる。それゆえ独自の問題系もあるかと思う。
また、#MeTooの周辺問題系としては、過去・現在についての個人的救済もさることながら、類似の問題を未然に防ぎ、未来に向けてよりよい環境を作ろうというテーマも含まれるように思う。ここについての議論がもっと必要なのではないかと感じる。これもまた、本家#MeTooベースで考える必要はない。例えば「就職時のOB訪問のあり方」、「副業解禁による個々人のフリーランス化(新たな上下関係が発生する)」など、具体的な問題をもとに性被害防止に向けたアイデアを出し合うといった、地に足がついた議論があってもよいのではないだろうか。
このことを思うとき、先般の件を受けてD通はどう変わったのであろうか。あくまで組織内の問題かもしれないが、社会への還元があってもよいように思う。
某丼チェーンでバイトしてるんだけど、この前、テイクアウトの商品にミスがあった。
お客さんの注文した商品と違う種類の商品を間違えて作ってしまっていたのだ。
それに関しては完全にこちらのミスである。すぐにお客様のご自宅まで商品をお持ちすることになった。
マニュアルでは間違えた商品と新しい商品を交換することになっている。電話では新しい商品をお持ちすることと、間違った商品の回収に参ることを伝えたのだが、今まで普通だったお客様のトーンがここでいきなり変わった。
どうやら、間違った商品を回収するのはおかしいのではないか?ということを言っているようだった。
ここが無自覚クレーマーの恐ろしいところだと思った。いくらこちら側のミスであっても、新しい商品を持っていく以上、商品を返してもらうのは当然のことだろう。
電気屋がテレビの設置時に型番違いの商品を持ってきてたら、購入した正しい型番のテレビを持ってくるのは当然だけど、間違えがあった商品を客が貰って良い訳がない。
それと同じなのにどうして食品なら許されると思っているのだろうか?
お客様はこちらの言い分に関して最後まで納得いかない様子で最終的に渋々回収には応じてくれたが、相手のミスだろうと商品を回収するのはアタリマエのことです。
国府津を出たときは、車両には俺1人、どころか、もはや15両編成に俺1人かと思うぐらいに人が乗っていなかった。
始発から1日中歩き回り、そして先程、小田原で食べたアジフライ定食による満腹感により、俺は眠りに落ちる寸前だった。
端の車両のボックスシートを占領して窓際に座り、大きなリュックサックは通路側の席に置いた。
もちろん、他に乗客なんていないんだから占領しているのはボックシートというよりこの車両のようなものだった。
そうして、ほとんど乗車率は変わらないまま、平塚あたりを過ぎ、俺は眠りに落ちた。
起きたら新宿だった。
車内は空席が8割ほど埋まるぐらい、混雑していた。
いつの間にこんなに乗ってきたんだ、という感想がまず思い浮かんだ。
しかし。
しかも、俺のリュックサックの代わりに、見知らぬおばさんが澄ました顔で座っている。
誰だこのおばさんは。
すると、眠りから覚めた俺に気付いたのか、おばさんはこっちを向いて、どこからか俺のリュックサックを無造作にドスンと音を立てて床に置いた。
俺は咄嗟に「ごめんなさい」と謝り、床に置かれたリュックサックを受け取った。
いやまて。
なぜこのおばさんが俺のリュックサックを持っているんだ。
最初は寝起きで何がなんだかわからず、罪悪感を感じ居心地が悪かったが、頭が覚醒するとともに不愉快な気持ちになった。
おそらく。
だからおばさんは、その邪魔なリュックサックを通路側の床にどかし、そうして空いた俺の隣のボックスシートに座った。
まず、なぜ俺の隣に座ったのか。一応、空いてるボックスシートは他にもちらほら確認できた。どれも相席だったが、それは俺の隣の席も同じことだ。
さらに、寝ている俺の隣の席に座りたかったのであれば、肩を叩くか何かして、俺を起こせばいいのではないか。
車内が混雑してきたら、リュックサックを網棚に乗せるか、胸に抱えるかするぐらいの常識を、この男は持ち合わせていないから、そもそも話しかけることすら無意味であるとでも思ったのか。心外だ。
根本に、勝手に人の荷物を勝手に移動し床に置くという非常識な行動をするか。
いつのまにか眠りに落ちて、車内の状況を把握できずに、1人で座席を2つ使っているという俺にも、過失はないとは言い切れない。それは間違いない。
道路交通法上、自転車は原則として車道を走らなければならない。しかし、軽車両と定められている自転車は、その他の車両に比べても圧倒的に非力であり、車道を走ることはまさに「命がけ」なのである。ここに上げたのは、自転車乗りにとっての”脅威”、そのほんの一部である。
言わずもがなの天敵。お前らを避けるために、自転車は右後方へ振り向き確認を行い、後続車両との車間距離を意識し、タイミングよく避ける必要がある。自転車乗りなら誰でも分かってくれると思うが、車道右側へと接近する恐怖は計り知れない。そこまでして避けたのに、停止していた車が突然動き出し、衝突する可能性もある。突然開いたドアに引っかかり、自転車もろとも空中を舞う可能性もある。路上に駐車する運転手は、常に「自転車乗りを死傷させる可能性がある」と意識してほしい。
巻き込み事故などの主犯となる強敵。まずそのサイズからして威圧感がハンパない。風圧、ヤバい。「車に乗ると性格が変わる」と言われるが、あれだけ強靭な鉄の塊に守られていて、気が強くならないほうがおかしい。自転車を追い越すな、とは言わないが、左脇にもっと余裕を持って抜けてくれ(スレスレだと本当に「あ、死んだ」って思う)。バス停で停まっている車両の追い越しに関しては①と同じ。前方が開けていない分、通常の乗用車よりも追い越しが困難。
これは本当に辞めてほしい。自転車というのは四輪と違って自立せず、走行中はバランスが命である。突然のクラクションに驚いてバランスを崩し、転倒したことであなたの乗用車の下敷きになるかもしれない。たしかに我々は邪魔な存在かもしれない。しかし、歩道と違って車道を走ることに関しては断固として「権利」がある。遅いからといって、クラクションを鳴らされる筋合いはない。
隠れトラップ。縦長の排水口にタイヤがとられて、悲惨な事故へと繋がりかねない。タイヤ幅の狭い自転車ほどこのリスクが高い。しかも、排水口というのはまさに「自転車が走る軌道」上に位置している。端的に「おら!死ね!」と言われているようにしか思えない。
敵の敵はやはり敵であった。車道において、二輪車のためにあてがわれているスペースはあまりにも狭く、並走というのは不可能である。となると、バイクは自転車を、速い自転車は遅い自転車を、狭いスペースで追い抜く必要がある。接触の可能性は高く、両者ともバランスを崩した結果仲良くオダブツになりかねない。向かいから逆走している自転車も結構いて、ビビる。
原則として車道での走行を義務付けられている自転車だが、「やむを得ない場合」には歩道での走行を認められている。上記のような数多の危険性を鑑みたとき、安全面から歩道を走るのは「やむを得ない」。少なくともぼくは歩道を通行する際、自らに二つのルールを課している。1."走らせてもらってる"のだから、いくら邪魔な人がいてもベルは鳴らさない。2.なるべくゆっくり走行する。このルールを遵守し、「ごめんなさい!」と懺悔した上で、ぼくは歩道へと乗り上げる。
歩くのが遅いのは許そう。せめて後方に注意を向けてくれ。もはや世界には自分以外の主体は存在しないと思い込んでいる老人にとって、「後方から自転車が接近する」可能性は頭にも浮かばない。ギアチェンジや、ペダルをガチャガチャさせる音で健気にアピールしても、耳が遠いので聞こえない。追い抜けず、何十メートルも後続し続ける図はシュール。
自転車乗りでなくてもウザい敵No.1。右からも、左からも追い抜けない微妙なデッドスペースをキープして歩くヤツ、なんなん。詩的に、風を切りながら歩きやがって。シンガーソングライターのMVかよ。ちょっと端に寄るだけで、みんな幸せになれるんだ。寄れや。
彼女たちは広がって歩く。それはもういいだろう、諦めた。不可解なのは、決して”避けない”ことだ。気づいたとしても、避けない。目があったのに、無視。なぜなのか。スクールカーストか? 陰湿な女子社会において前後で歩くと角が立つので、とりあえず無難なフォーメーションとして真横に広がっているのか? そんな五人も六人も横に広がって……端と端のヤツはどうやって会話してんだ??
男子中学生は全人類において最も「フィジカル・コミュニケーション」が活発な人種だ。肩を組む、突っつく、カバンを引っ張る、押し合う、ケンカのフリ、ダイナミックな身体的交流の数々は、挙げるとキリがない(決してイジメではない、仲のいい子同士でじゃれ合っているのだ)。自分にもそういう時期があったとは言え、思い返せばアレなにが楽しいんだろうね。じゃれ合って突発的に動くので、大変危険。
予測のつかない動きは、まさに奇行種。児童が視界に入った瞬間、スピードを800000兆分の1に落とすのが正解。また、親御さんは大抵こっちに気付いてくれるんだが、とっさに「危ないッ!!!」って言うアレ、なんなんだろうね。「自分の子供が人様の通行妨害になっているのを叱る」意味での「ほら、どいて」的ニュアンスならまだ分かるが、どうしても「なんて危ない自転車!うちの子を轢くつもり!?」という風に聞こえて、悲しい気持ちになる。そんなつもりはないんだ……。
意外と思われるかもしれないが、これが結構危ない。棒状のブロックでタイヤ側面がこすれ、バランスが崩れる。棒状のアレをやめて全部点にする(かわりに信号前を棒状にする)とか、そういう技術的な努力でいくらでも改善できるので、バリアフリーを謳うのなら自転車乗りにも気をつかってください。
日本人によくある「すれ違いざまに右に避けようとしたら、相手も(こっちから見て)右に避けようとし、左に修正しようとしたら同じタイミングで相手も左に修正しようとして、ばたばたする」現象のことだ。気遣いが、優しさが、こころ苦しい。自転車というのは対向する歩行者とコンマ数秒でかけひきをする乗り物だ。前方に自転車を見かけたら、はやめに左右どちらかへ避けて、そこから動かないでほしい。
迫害されるのも無理はない。世の中には車道で奇妙な動きをしたり、平気で歩行者に向かってベルを鳴らす非常識な自転車乗りがいくらでもいる。そんな悪いイメージを払拭するためにも、我々個々の自転車乗りが謙虚に、ゆっくり、周りを気にして走るしかない。この謙虚さが社会的に認められれば、自転車優先レーンの整備も進むことだろう。
そして、そこに乗用車が駐車する。
人生は苦痛だらけです。特に幼少期は酷いものでした。親の指導というものが基本的に世間的な常識にそぐわないものばかりで、社会と自分とのズレがひどく苦しかったです。
両親はとても収入が低かったため、貧乏でとても汚い家に住んでいて、よくバカにされました。挙句にはいじめられました。下半身を裸にされるようないじめもありました。パンツ姿で走らされたりしました。殴られたり唾を吐かれたりしました。
もっと辛い人生の人もいるでしょうが、私にとってはまさに地獄のような日々でした。その苦しみは中学、高校になるにつれて深まっていきました。認めたくない現実ばかりでした。特に両親が統合失調症という現実がとても自分を苦しめました。
きっと大人になったら今度は自分がああ言う風になるんだ。商店街を大声で汚言を叫びながら練り歩く母親、いつも誰かが俺を狙ってるとか会社のやつに死ねとか言われたとか言いながら私に愚痴る父親。私が学校社会を過ごしながら気付いてきた現実の普通の両親像からはあまりにもかけ離れていました。それは私の反抗期を強力なものにしました。しかし臆病な私はその現実から逃げることもできませんでした。
そのような現実を歩んできた私から言わせると、生まれてきたことが幸福であったか問われるとうなづけるわけがありません。
両親は統合失調調なりに何を考えて子供を作ったかは分かりません。本人たちに病識はなかったので、人と同じことをしていると思ったかもしれません。子である私から言わせれば不幸の再生産とだったとしか思えません。
しかし現実として私は生まれてしまったのです。生まれてしまったからには幸福を目指すよりありません。
その後私は大学に進学し、大企業に就職し給料は30代半ばで900万ほどまで上がりましたし、結婚して可愛い子供も授かりました。命より大事な子です。大切に育てているし、貧しい思いや非常識に悩ませるような環境とは決別できた気がします。
私自身はメンタルは弱いですが統合失調症には罹患せずに済んだようです。被害妄想も汚言もなく過ごせています。
いくら出自が不幸であろうと大人になると人生はある程度コントロールできるようになります。そこには苦しみばかりではなく、安らぎも存在します。より良い存在になろうという気持ちもあります。それ自体が生まれてきてしまったこの自分自信の命を大切にしていることだと思います。
さて子供を作らない方が良いという元増田さんのお考えですが、それは賛成も反対もありません。
私の人生を見てもらえば分かる通り人が意識して子供を作るのではなく、なにかのきっかけで子供はできるからです。
出生というのは実はコントロール不可能なものなんだと思います。ある環境があって、何人まで育てられるか無意識のプログラムが出した最適解が自動的に走っており、その結果として生まれるのです。別の言い方をすれば神様が生を与えてくれるのです。そしてその生がどのような結果をもたらすかはわかりません。分からないことに対して予測を立てることはできます。しかし予測は予測でしかありません。したがって元増田さんが言ってるのは全て予測の話でしかないんですよ。
「最近の若者は~」で始まる若者批判は、いつの時代もなくならないものである。50代くらいのサラリーマンが、居酒屋でビールを飲みながらくだをまく様子がありありと思い浮かぶ。きっと彼らも30年位前に同じようなことを言われていたのだろう。
しかし、批判の対象となっている「若者」の中には、こう思っている人も多いだろう。「この『若者』とは果たして誰のことを言っているのだろうか?」と。
例えば、「最近の若者は根性がない」などという話を、仕事や勉強に頑張っている若者の前で言っても、白い目で見られるだけだろう。または、「最近の若者は向上心がない」と、若い起業家が集まるセミナーで言えるだろうか?
そもそもそういった「若者批判」をする人たちは、どれほど若者と接しているのだろうか。おそらくは自分の身の回りにいる数名だけではないだろうか。その数名がたまたま出来が悪かったり素行が悪かったりした時に「最近の若者は…」という思いが湧くのだろう。非常にくだらない話である。
そういった批判をする人たちが、「最近のおじさんは電車で痴漢ばかりしている。おじさんは皆性犯罪者だ」と言われたり、「最近のおばさんは気に入らないことがあるとすぐクレームを入れる。おばさんはクレーマーだから気をつけた方が良い」と言われたら、どう思うだろうか。「ふざけるな!自分はそんなことしない!一緒にするな!」と憤るのではないだろうか。
当然である。一部の事例を挙げて全体を評価することほど愚かなことはない。少数の非常識な「おじさん」「おばさん」がいるからと言って、全ての中年が悪いはずがないのである。そして、それは若者も同じなのである。
もちろん、批判に当てはまる人もいるだろう。根性のない若者や、向上心のない若者もいる。痴漢をしているおじさんや理不尽なクレームをつけるおばさんもいる。だが、それは必ずしも多数派ではない。多数派であったとしても、全員ではない。
誰かが「最近の若者は~」と批判した時、批判の対象となる人は、「若者」という漠然とした集団ではない。それは批判した人と同じように、個別の名前を持ち、血の通った一人の人間なのである。
そんな基本的なことも忘れて、「最近の若者は~」「これだからおじさんは~」と安易に批判する人は、「想像力が欠如している人」ではないだろうか。
そして、想像力の欠如は容易に差別を生み出す。「最近の若者は~」という批判は、人種差別や性差別と、本質的な違いはないのではなかろうか。
集団を批判することに意味はない。個別の事例については、その当人を論じるべきだ。イスラム教徒がテロを起こしたからと言って、全てのイスラム教徒が悪い訳ではないし、痴漢を犯した男性がいるからと言って、全ての男性が痴漢を犯す訳でもない。同様に、あなたの身の回りにいる若者が出来が悪いからと言って、全ての若者が出来損ないという訳もないのである。
ちなみに、冒頭に例として挙げた「50代くらいのサラリーマンが、居酒屋でビールを飲みながらくだをまく」というのも同じだ。「若者批判をするのはそういう下らないおっさんたちだ!」というただの偏見であり、合理的な意見ではない。もちろん冗談ではあるが、正直そういうイメージが湧かなかったかと言えばウソになる。自分も偏見が捨てきれていないことを反省しなければならないと感じた今日この頃であった。
残業のリモートワークを認めてほしいという提案を社内でしています。
追加のリスクもコストもさほど無いと個人的には思うのですが、上の人間と話が噛み合いません。
→現在の制度もただの自己申告で悪用できる。リモートワークの方がPCに監視ソフトを入れられる分むしろ監視できる。
→入社半年くらいまでは指導員が付くので、それが外れたら? いずれにせよ決めればいいだけ。
→ルールを決めて、どうしても曖昧なものは残業とカウントしない、としてもよい。
そもそも現状は30分単位切り捨てなのでさほど細かな話も要らないはず。
【私の思う導入メリット】
なんで駄目なの?と思う一方、残業だけリモート可という話もあまり聞かないし、非常識な提案なのかとも思います。
でも、なんで駄目なの?
はあちゅう氏が元電通の岸勇希氏からのパワハラを告発し、インターネットをざわつかせた。
確かに岸氏は素晴らしいクリエイターだが、プライベートでは女性関係にかなり甘く、外部の女性だけではなく、電通の女性社員やインターンにまで手を出すと言うのは広告業界では有名な話だ。
電通関係ということで、マスコミにとっても美味しい話題のはずなのに、なぜ全く明るみにならないのか、私自身も長く疑問に思っていた。
私の知り合いに数人、彼のパワハラの被害に遭っていた人がいる。
そのうちのひとりの女性から聞いた話だが、彼女の話によると、体の関係までは要求されていないものの、はっきりした上下関係があるなかで、家に呼び出されたり、交際を求めらたりしていたそうだ。
また当時の関係性上、そういったパワハラを受け入れざるをえなかったのだという。
もちろん岸氏は相手が受け入れざるをえないこと分かってやっているのだろう。非常に卑劣だ。
ふと「なんで文春に告発しないの」と尋ねた。
すると彼女はそれに対してこう答えた。
「なんだかんだで面倒見のいい人なんだよ」
彼女曰く、後輩に対してかなり面倒見の良い人で、彼女自身もアドバイスをもらったり、指導をしてもらったりしていたようだ。
私はこの話から、「でも、なんだかんだこの人にはお世話になったからなあ…」と相手に思い込ませることができれば、非常識な女遊びも最悪の事態には陥らないわけだ、さすがコミュニケーションデザイナー!
が、そういうことでもなかったようである、ということが今回の一件で分かった。
若者の恋愛観を、実際に当事者に話を聞きながら調べ続けてきました。今の20~30代は、恋愛を必需品ではなくて嗜好(しこう)品と捉えており、手間やリスクを考えると割に合わないもの、と考える人が多くなっていると感じます。
わからないでもない気がした。
少年少女時代の恋愛が続いていれば、おそらくこういう考えよりも継続を選ぶんだろうけど、現実では生活面などで悩みが増えるだけになりそう。
TVでやってる女性の男性における理想像が非常識すぎてって思うけど、実際にああいうのが結構多いを経験してショックを受けたりして
人肌恋しい時もあるが、結局はよっぽど相性が合わないと恋愛はむりっぽそう。
結婚した時も流れでしてみたが、いつもと変わらんなぁ…と思っただけだった。
恋愛って難しいな。
聞け。
私の好きな男はアイドルじゃない。
私の推しは、今日もどこかで誰かを笑わせている。そういう仕事をしている。
それをアイドル扱いして舞台に登場した途端奇声をあげたり、出待ちで時間を潰させたり、常識はずれの行為をする。
他のジャンルでは常識だとか普通とされている行為も、別のコミュニティにおいては非常識ということも十分にある。そういうことを考えられないクズ。
普通に考えて、一般的に考えて、お笑いを観劇する上で私たちに許される感情表現は拍手と笑い声と指名された時の一言二言。悲鳴も奇声も論外。
お前のクソみたいな声でフリが聞こえない、きっと練りに練ったであろうセリフが聞こえない、渾身のオチが聞こえない。
言うまでもないかもしれないけど舞台は生物だ。最近は収録して動画サイトで配信されたりもあるけれど、基本は一度きり、一瞬を目で耳で肌で刻みつけなきゃならないもの。
初めて推しを見る興奮が抑えられないのかもしれないし、何度も見ているうちの一回だからどんな無礼も許されると思っているのかもしれない。
でもあなたにとってどんな一回でも、例えばお小遣いやアルバイトで貯めたお金で遠方から来た忠実なファンもいるかもしれないし、ずっとあなたが好きになる以前から嬉しい場面も苦しい場面も見届けて来たファンもいるかもしれない。
あなたの一回だって誰にも壊されちゃいけないのと同じように、その他の誰の一回も、潰されちゃいけないのだ。
そうして潰された誰かはファンを辞めていく。
わずかな一人かもしれない。でも、着実に、推しを支える人員が減る。
ファンはATMとはよく言ったものだと思う。そういう存在たれと思う。あまり多くを語らず、出すのは良い感情とお金。
極端な話、推しについて何か口出しするのは、道徳倫理に反したことを推しが行なった時や犯罪行為を犯した時、とか、とにかく言わなきゃいけない究極の状況まで別に何も私は言いたくないタイプ。
衣装?私服?彼女じゃねぇし。やり方?売り方?本人の方が何十倍も考えてるし。私生活?私が好きな、というか関わって良い面じゃないし。
出待ちですらキモい。本人が喜んでる分にはまだ見てられるけど、本人がやめて欲しいと言ってやめれないのは流石に頭おかしいよ。
まぁ大体のイベントとかライブ会場は出待ちご遠慮くださいスポットだと思いますけど。そこでもう一個引いてる。
あそこで会話しただけで彼女ヅラするようになるのはなんなんでしょうかね。「〇〇くん、今日元気なかった;;」お前の対応しとるからじゃボケ
全部理解できない。
そういえば観客側が許される感情表現として笑うことと拍手と指名された時の一言二言って言ったけど。
例えば推しが何か賞レースに向けて調整しているのだとしたら、その過剰な笑いは感覚を鈍らせる。自信を過剰にする。神経を麻痺させる。
私の推しがそうして死んでいく。
見事な言語感覚は枯れ、表情に気迫がなくなり、発声がまろやかになり、ネタに精彩を欠く。
私が愛した彼らの姿が徐々に消えてゆく。