はてなキーワード: ポジティブとは
わかる。俺も選考近かったんで。
でも多分俺のほうが世代一個後だったんだと思う。
一時期、そういう感じで、インターネットの技術・機能的要素が、コミュニティ的な役割を果たすのではないか? という希望的言説が広まった。
でもなんつーかそれは有名書籍「インターネットは民主主義の敵か?」以前の話って感じするわ。
インターネット(の掲示板上で行われていた不特定多数間の会話)は、実際会話が成立してるんで一見コミュニティ的なふるまいに見える。
でも実態は希望と共に語られた「新しいコミュニティ」なんてものではなく、もっとアジテートされやすくてモブ的な、互いの支え合いとか相互の良影響みたいなコミュニティのポジティブ面が、オミットされた集団であった。
そういう話が俺の頃は主流になってたね。
確かに距離が遠かったり時間が無視できたり、情報化は進んでいる。が、それは電話と手紙どっちが進んでいるかの違いに過ぎない。進度の違いはあっても、本質的な違いはない。
インターネットでコミュニティは出来る。出来るが、「あたらしいコミュニティ」などというものはない。手話で話そうが英語で話そうが日本語で話そうがコミュニティはコミュニティ。コミュニティでないものはコミュニティではない。
そういう理解が一番近くなるんだと思う。
便乗して
NHKアニメの皮を被ったSF者アニメ。ガイナックスが孫請けにはいった。当時庵野さん30歳。マジで?
同人グループから出生したclampが、ついに一般に名を轟かせた作品。そういえばまだ当時は百合なんて言葉はなかったな。
これを履修してないと言ったら、先輩オタクから全館貸し出されてすっころんだ。リナは永遠の悪友。
実はエヴァンゲリオンに対するアンサーという面もあるかなと。ボクはるりるりになりたくてコンピュータサイエンスに進みました。
エロゲー原作のアニメの金字塔。この成功から多数の企画が生まれて、2002年から爆発的に増え、AIR,Kannonで京都アニメーション、true tears でP.A.Worksが出てくる。
日常系アニメの近年に繋がる流れを作った始祖。今見ても面白いし、見る度に発見がある。
いわゆる居候者の定番で裏と表の中間ぐらいに存在する。けどギリ裏かなと。
表がハルヒなら、裏はこちら。超ポジティブに、美少女に擬人化してオタクを描いたのはかなり大きかったのでは。父子家庭なのに悲壮感がないとか、ひたすら明るくてたのしい。ちょうどリーマンショックで○たくなってた人たちの命を救ったと思う。
以下言い訳。
オーストラリアのサーファーがインドネシアで遭難した後救助されたらしい。
助かってよかったね、どころじゃない。
当然謝罪なんてない。
よその国に遊びに行って遭難して救助されるとか、日本だったら犯罪者レベルで叩かれるでしょ。
よそ様の国でどんだけ迷惑かけてんだと。
すごいなオーストラリア。
俺は日本の心の狭さの方が合ってるわ。
今年の5月ごろにChoco zapを契約して、今月退会する予定なので、良かった点と悪かった点を書いていきます。
#前提
・匿名ダイアリーに投稿するのは初めてです。作法を守れてなかったらごめんなさい
・以前からエニタイムユーザー。同棲中の彼女がジムに行きたいと言い出したので、Choco zapも契約した
#なぜ書こうと思ったのか
Choco zapユーザーの爆発的増加もあり、検討中の友人にどんな感じかよく聞かれるので、文字に起こしておいて次回からこのエントリーを送ろうと思った
#Choco zapのここが良い!
・とにかく安い。税込みで月3000円ちょい?エニタイムの半額以下なので、これからジム通いしていきたいという人には超おすすめ。
・私服で行ける。正直めちゃくちゃ衝撃だった。エニタイムは基本的にトレーニングウェアを着たマッチョがほとんど。チョコザップは私服やスーツで体を鍛えてる人もいた(地域にもよるのか?)
・ダンベルがない。特定のトレーニングに特化したマシンしかおいてないから、筋トレ未経験の彼女でもレクチャーなく器具を使えていた。トレーニングの方法がわからない、なんてことはないかも
・BGMがない。エニタイムだと聞いたことない洋楽っぽい音楽が流れているけど、チョコザップは無音だった。逆にその方がライト層には好かれるのかも
・ガチ勢がいない。ムキムキマッチョマンは見当たらなかったので、「う”ああ”!!」みたいな雄叫びは聞かなかったかな。
→総じて、筋トレやジム初心者におすすめ。 1回あたり15~30分くらいで満足できるので、行く前の「めんどくせええ!」が起きない。
エニタイムと比較して思ったのは、ダンベルがない、マッチョがいない、BGMがない、タイマーがない、スタッフがいない、など
エニタイム(や一般的なジム)にあるものを無くした事によって今までジムに近づきがたかった層を取り入れれたのがChoco zapの成功要因だったのかな、とか思ってる。
メリットは色々上げたが、デメリットは、「管理が行き届いてない」
Choco zapは無人運営だから、「そりゃそうだろ」ってなるんだけど、予想以上にマイナス面が大きかった。
無人運営で管理が行き届いておらず、下記みたいなことが生じてる
・急激に店舗を増やしてるためか、壊れたマシンが1ヶ月以上放置されてることもあった。
・ドア前に吊るされた宣伝用のつるしが、ドアの開け締めの邪魔をしていて、ボロボロになってた。本部の人が設置してそのままなのか、ずっと放置されてる。
・清掃が少ない。エニタイムはスタッフが1日の間に複数回清掃していえるが、チョコザップは無人なので掃除の回数が少なくなる(日に1回とか?)。その結果、床の髪の毛やホコリが目立つ。この間はGがいた。
安かろう悪かろうは承知の上で契約したのだが、特に最後が我慢できなかった。
個人的には運営会社が買収戦略の結果、経営がヤバくなったところから持ち直して、こうして新たな文化を生み出していることに関してはめちゃくちゃポジティブなんだけど、
実際ユーザーとして使ってみると先に上げたようなことが気になった。
まぁ今は赤字掘ってる攻めのタイミングだと思うから仕方ないが、安定したタイミングで店舗運営に目を届かせれるようにはなって欲しい。
そうなったらまた契約するかな。
バービーではマンスプレイニング(男が女に上から目線で、趣味などについて説明したがること)について、表面的には「男の馬鹿げた習性」として描いてるけど、
それと並行して女性達が、女がいかに虐げられてるか「説明」して回ることで蒙を啓いていくという展開について、まだ上手く咀嚼できないでいるけど、気になっている。
バービーの映画パロディネタ(いくつかは男性向け映画のネタと思われる)が、必ずしもフェミニズム一辺倒の意味ではないっぽくて、
それを男達が説明したがること、この映画によって説明を封じられることも視野に入れて仕込まれてるんだろうか?
今まで俺が書いた日記はほとんど反応なかったので、反応貰えてびっくり。
映画全体としては男女関係なく、「人間として云々」みたいな着地だと思うので、
このシーンが男女のどちらかに偏った悪意が向いてたとしても、まあいいやと個人的には思ってる。
同じ監督の「レディ・バード」でも、主人公はいささか強権的な母親に反抗しつつ、最後は母親側の事情を知ったりして和解するという展開だったし、基本スタンスはフェミニスト側なんだろうけど、それなりに正気というかバランスとか複雑さを持った監督なんだろうなと感じた。
「男が説明したがるのは鬱陶しい習性かもしれないけど、バービー達が今しているように、必ずしも独りよがりな快感のためにやっているだけではなく、バーニングマンの『ギブの精神』よろしく、頼まれもしないのに無償で知識を与え合う事で男達はブンメーをシンポさせてきたのだから、女もそうしていけば良い」
というような、男女両側にポジティブな解釈できないもんかな、なんて思った。
あるいは、
「このバービー達のように他人の説明で目が覚めるなんて事は現実にはありえない。ただのサウスパーク的なやり過ぎステレオタイプ演出なんだから、女達は男の説明に頼る事なく自分自身で学んでいかなければならない」
みたいな事なんだろうか?
どのみち深読みし過ぎかもね。
個人的な体験談になるけど、昔一人の腐女子と仲良くしていた頃、その腐女子から早口のオタク喋りでよく分からない知識を延々語られるというのが日常茶飯事だった。
だからマンスプが男特有のものという実感が、俺にはあんまりない。
当時はインターネット男女大戦なんて全く知らず、俺もよくオタク喋りをやり返して、共にオタクとして深化していったのが今となっては良かったのか悪かったのか、ただの懐かしい思い出になっている。
私にとっては足尾銅山といえば足尾鉱毒事件と田中正造であった。小中学校の国語と社会科でダブルで(ひょっとしたら道徳を含めてトリプルで)足尾鉱毒事件と田中正造について学んでいたので、足尾銅山の鉱山見学施設でも当然のことながら、そうした足尾銅山の明治近辺の負の歴史は重点的に扱われていると思っていた。ところが、鉱毒事件が無かったことになっていたというのは言い過ぎにしても、施設内部の展示でそこら辺のいきさつは非常にあっさりとした扱いであった。基本的に足尾銅山における銅採掘が江戸時代から明治大正昭和の日本の発展に対して如何に寄与してきたのかというポジティブな面を中心に打ち出していた。
私は恥ずかしながら知らなかったのだが、古河電工や富士通に代表される古河財閥グループの成り立ちが、財閥初代の古河某氏が渋沢栄一と組んで政府から足尾銅山の払い下げを受け、近代化に成功したことがきっかけだということである。想像するだに、いまでも古河グループの聖地ともいえるのが足尾銅山なのではないか。鉱山見学施設のすぐ近くでは、古河財閥の迎賓館が今でも有料で観覧できる。東京で言えば、鳩山会館や岩崎邸のようなセンスのいい明治風の洋館で、そこは今でも古河グループの研修に使われてたりするらしい。内部には古河グループのポスターが各種貼られていて非常に味わい深い。
足尾銅山が負の記憶の象徴であるというのが事実である一方で、ここが日本の近代化や一企業グループの発展において非常に重要な役割を担ったというのもまた事実であり、複雑な思いを抱えながら、自分も少しまた大人になったなあと感じた(実年齢はもうだいぶ中年だが)。
私は既に結婚して子供もいるけど、もし自分が独身で増田婚活するとしたら、条件を考えてみたので挙げておく。人の好みは多種多様だ。
33歳
162cm 53kgが標準だが、49〜59kgまでは減量増量可
タバコは吸わない、酒は飲めるが普段は飲まない、相手に合わせる
【外見など】
28〜38歳ぐらいまで希望、と言いつつタイプなら24〜55歳ぐらいまでいける気がする
180cm以下(背が高い人は苦手)
薄すぎず濃すぎない顔がタイプ
顔が大きい人が好き(大物感が出る)
メガネ好き
【内面】
年収学歴不問だが、ブラックな働き方をしていてそれを嫌に思ってるにもかかわらず現状を変えようとしない人は嫌かな…
好奇心旺盛で勉強好きな増田を良いと思ってくれて尊重してくれる人がいい
子供はどちらでも
転勤移住は状況次第で可
俗っぽい人は苦手
人生に対して前向きな人がいいけど、ポジティブすぎても疲れるかも
外食好きなのでB級グルメからオシャレなレストランまで?一緒に外食楽しめる人がいい
集団の中で中心になってるような人はタイプではない、集団の中では寡黙な人が好き 二人だといっぱい話したい
ミニマリストでなくてもいいけど、物は少なめがいい。収集癖のある人はちょっと…
苦手なもの
スピリチュアル全般、占い、疑似科学、BBQ、ウェイ系、チャラ男
追記2→キリッとした怖い顔より、柔和な可愛い顔がタイプ。大きい顔がタイプとは言いつつ、夫は小顔(好みの顔ではあった)。ex.片寄涼太さんは一般的にとてもイケメンだと思うけど、私にとっては小顔すぎる
ちなみに大きい顔が好きというのは自分で全く気付いてなかったのだが、友達に指摘されて初めて気付いた。
外見タイプから想像つくとは思うけど、ラグビーならスクラムハーフ、野球ならキャッチャーを好きになることが多い!!
ドンピシャでタイプの芸能人は思い浮かばないけど、好きなタイプの可愛い健康デブ(デブじゃなくても何となく可愛くて丸っこい人を含む)の例としては、ケンコバ、サンド伊達、鬼越トマホーク金ちゃん、月亭方正、ザキヤマ、中尾彬、とかかな?ブラマヨ小杉は健康度が足りない。惜しい。
(以下女性は共感してくれるだろうが男性はよく分からないかも)サイズ上はEカップだけど筋肉少なめ骨格ウェーブタイプの平胴なので、下着取って裸見たら女体に詳しくない男性が想像するC〜Dカップぐらいの見た目だと思う。全然巨乳ではない!温泉なんか行くと、骨格ストレートのCカップぐらいの丸胴の子のほうが断然巨乳に見えるよね〜!
追記3→投稿した理由は、(特に低身長の男性に)人間の好みの多様性を知ってほしかったので 他のブクマカにも人によって異なる不思議な好みのポイントがあれば是非教えてほしい
追記4→今確認してみたら、夫は上記希望条件のうち2つを除いて全て満たしていた。特に夫のことを想定せずに書き殴ったのに、びっくり!
希望条件と違ったのは、大顔ではなく小顔だった点と、健康デブではなく細マッチョ(骨太ではあるが)だった点。しかし結婚後数年かけてぽっちゃりしてきたのでヨシ!
追記5→減量増量は元々割と大食いなのでそれをコントロールするだけで、食べる量に比例して体重も胸も増減できるってだけです。胸は増えた脇肉を寄せ集めるだけ。49kgCカップや59kgGカップにはなれるけど、49kgGカップや59kgCカップにはなれない。期待した人ごめんなさい。
ある人間に「死にたさ」が上がってきたときに、それを打ち払う便利な思想を自分の人生経験から編み出したので、それを紹介したいと思う。
これは自分はリアルでたくさん言っているのだがなかなか言うべき機会も少なく、普及しないので増田にも書いておく。
いってみよう!
「仮に10億円あってもまだ死にたいか?」と自らに問うてみて、直感的に出てきたその答えについて分析する手法だ。
「死にたさ」が上がっているときは「そんな夢みたいな荒唐無稽な話を聞かせてくれるな」などと言い出す人が多いが、それはすなわち「それが叶うなら生きてもいい」という証である。
ほとんどの問題はこれに帰着する。金があっても死のうとする場合は衝動的なものか、金持ちの道楽のようなものである。
「もし10億円あるなら死なない」という答えになった場合、そこから「5億あったら死なないか?」「1億あったら死なないか?」「2000万あったら死なないか?」などのように逆算する。
ここでたとえば「200万あったら死なない」のような結論が出た場合、死にたさの答えは明らかである。金がないことが問題であり、その金を稼げないこと、どのようにして稼げばいいのかを知らないことが問題である。
金があるなら仕事を辞めることもできるし、一時的に1年休むだとか、転職活動をすることもできるし、広い家にも住めて生活にゆとりとハリが出て、喧嘩も減り、やりたいことにも挑戦できる。
以上によって、死にたさの問題は金に帰着した。あとは這いずり回って稼げばよい。守銭奴のように金を求めれば救われる。
生死の問題だと思っていた人に「あなたの問題は200万円の問題ですよ」と示したとき、衝撃を受けたその人の顔を見るのはなんとも痛快である。
「死にたい」という思考が出てきたとき、通常は「望んで死にたい!!!!!!!」という朗らかポジティブるんるん思考ではないはずだ。
「自分は生きることは全然余裕綽々なんだけれども、でも、自分は絶対に死ななきゃならないんだ!!!!!自分は死ぬために生まれてきたんだから!!!!!死にたい!!!!!!!!!今すぐに死にたい!!!!!!!高らかに!!!」
のような気分ではなく、たいていは「死にたい…………(絶望)」のような気分になっているものだ。
重要なことは「本当は生きたいのだけれど、なんかうまくいかなくてめちゃくちゃ苦しくてもう無理……せや!! 生きるよりも死ぬことの方がマシなのでは????」という消極的な選択をしているという事実を認識することである。
「叶うことなら、本当はハッピーにしあわせに生きていきたいのだ」という自分の心を解放すると、周りの環境から「お前はハッピーでいてはいけない」「苦しみに耐えればいつか幸せになれるよ」などと教化されて、いつしか「苦しむことこそが自分の幸せなのだ!」という信念が強固になってゆく。
冷静に考えてみると何かおかしくないだろうか。
「なぜこの俺様がこんなに我慢を強いられているのか???俺様をお前らは殺そうとしているのではないか。鞭を打てて、かつ虐げることができる生贄として、ギリギリ生かされているだけなのではないか?」などという外に向ける凶暴で凶悪な怒りが実はあるはずなのだ。
死にたいのではなく、「周りの環境からの抑圧によって殺されつつある」という自覚がただひたすらに重要である。
ただ弱い、ただ無力、ただザコなのである。弱いから死にたいという気持ちがあがってくる。無力だから虐げられる。ザコだから一方的に攻撃される。
「仮に健康的で体力があって自分が笑顔でるんるんでもまだ死にたいか?」と自らに問うてみて、直感的に出てきたその答えについて分析する手法だ。
そのような気分にはなれないかもしれない。いや、そのような気分に、なりたくないのである。
なぜならそのような気分になっていた場合、周りから不審な目を向けられるからだ。
「お前には人の心というものが無いのか」「悲しまなければならないときになぜお前は悲しんでいないのか?」「絶望すべきときに、なぜ絶望しない?」「お前は人間ではなく、化け物だ」と扱われることの甚大なる恐怖によって、お前の感情は規定されている。
さて、通常、肉体が健康的な状態になっているならば死のうという気持ちが起こることはない。
つまり死にたさがあがったとき、そのような肉体を保持していることに原因がある。これは運動・睡眠・食事などの、肉体的なもので解決する問題である。したがって頭でこねくり回しても無意味である。
つまり外に出れば良い。
また、外見によって人は態度を大幅に変える。病的な人間には人は苛烈に対応する。とてもか弱い歯向かってこないひよわな人間に、人は優しくなどしないものだ。一見味方のフリをして、本当は支配したい人間も寄ってくる。支配したいのに「あなたの味方ですよ」という顔をするからたちが悪い。
所詮、手のひらの上で転がされているだけなのだ。飛び立とうとしてみろ。奴らは足を引っ張り出す。いつまで籠の中の鳥の気分でいるつもりだ。お前はインコか。
人生は不公平なものであり、なかなか思うようにうまくいかないものだ。どんなに言葉を取り繕ったとて、自分より明らかに楽をしていい思いをしている人々が多くいる。
自分は苦しい思いをしていて、呪縛され、どうにもならない、人生とはそんなものだという無力感を持っている。
「こんなにやったのに」「こんなに頑張ったのに」「でも自分はだめな人間だ」「もうどうしようもない」という自責の念・罪悪感を持っている。
「だから自分など、苦しんだほうがよいのだ」というふうに考えているのだ。仏教的、儒教的、アジア的、日本的な価値観である。
これは苦しんでいるようでいて、実は楽をしており、快楽を得ている。「苦しめばおっけ〜!」という甘いスイーツに酔いしれているのだ。
お前は簡単に苦しんではならない。もっと、より、高度に苦しまなければならない。お前の苦しみなど苦しみではない。せいぜい最大でも1人分の苦しみだ。
より苦しめば楽になるのである。
にもかかわらず、楽になろうとすると恐怖が湧く。見えている苦しみ、どうせ人生はトータルでいうとこれぐらいの苦しみだろうという予測以上の苦しみを得ることに恐怖を感じているから、現状の苦しみで安定する。
「自分が苦しみさえすればいいんでしょ?」「自分が全部悪いんだよね」という攻撃性をうまく覆い隠して、悲劇のヒロインを演じている。男も女も変わらない。お前はシンデレラか。
より苦しむべきである。
この世に期待などするな。それでももし諦めたくないのであれば、自分がその希望になる他ない。お前が無条件に他者に愛を注げ。
お前が他者に愛を注ぐような利他で無私の心で、その一部を証明せよ。愛はお前が与えなければこの世に存在しない。
だいたい、他人も生きていて、他人もその人の人生で手一杯である。どうしてお前を救えようか。
死にたいなどと思っているうちは、お前は利己的で自己中心的でわがままなのである。死にたい人間に生を与えろ。誰かの希死念慮を打ち払え。
人の価値を金銭で考えるべきではないといううぶな考え方を抱いている人が多いが、人命は金と交換可能である。
建前上、人命は金に変えられない高価なものだとされている。もちろん、この精神自体は素晴らしいものだ。理想として、そうあるべきだ。
しかし、現実はそうなっていない。200万円が無いことで死にたさが湧いて、そして実際死んでしまうというのは、命の値段が200万円であるということだ。
金を誰かがくれるわけではない。なぜ俺が赤の他人の、しかも俺に攻撃を仕掛けてくるような精神性の持ち主に金をやらねばならないのか?
お前の人生だろう。俺の人生ではない。なぜ俺だけがお前を一方的に助けなければならない?お前だけが生きているのではない。
誰も無償で助けてはくれないのだ。お前が助けてくれとヘルプを出さなければ誰も助けることはできないし、ヘルプを出したからといって必ず助けてもらえるとは限らない。
自分で自分を助けるしかない。他人に縋るな。絶望が足りない。だからシンデレラ思考だと言っているのだ。
世の中は不平等だ。それを改善しようとする動きもあるが、全然追いついていない。
なぜそれを待つのか。待って待って待って、待って耐えれば満足か?そんな日は来ない。だからシンデレラ思考だと言っているのだ。
優しくがんばれがんばれと言われたらそれで満足か?それがお前の人生か?そいつはお前の人生に責任など持たないぞ。
まずは自分で自分を鼓舞しろ。なぜ他人に身をまかせるのか。「どうにかしてくれ」ではない。お前がお前でどうにかしろ。
お前は死にたいのではない。生きたいのだから生きればいい。努力してもしても無理だったんだろうが、まだまだ絶対的に足りないのである。全く足りない。やってないのだ。
俺がお前のことを何もわかってないことが憎いか?殺したいか?怒りがこみあげたか?万能薬でないことに絶望したか?
逆にお前は俺の何を知ってるんだ?
クソザコに生きる術を伝えてるんだ。お前の無知の範疇で理解した気になるな。ちゃんと全部読めてんのか?眺めてるだけでは何一つとして読めんぞ。これはそういう文章だ。ありがたく精読して頂戴しろカス。
俺は超低身長(147cm)で低収入で低学歴で恋愛経験ゼロの32歳男性だ。
男としては極端な低身長で、服のサイズがなかなかないとか、飛行機の機内の荷物置き場から荷物を取り出せないとか普段の生活で不便な事がある。あと飲み屋ですれ違ったアホが「えっ小学生?」などと言ってクスクス笑ってきたりと不快な事もたまにある。
でも自分の身長について大きなコンプレックスとは感じでいない。背が低いのは俺の責任じゃないし。
ただ、婚活パーティーの応募条件とか、恋愛系のアンケート記事なんかで「年収」「学歴」「身長」と当たり前のように並べられてるのは嫌なんだ。
俺の年収、学歴が低いのはある程度は自分の行動の結果なので受け入れるけど、低身長はどうしようもなかったから身長に高い価値があるような表示に拒否感がある。
俺は恋愛経験ゼロだけど、恋愛したくない訳じゃない。マッチングアプリやってみたり、婚活パーティーとか調べたりと恋愛についてちょっと活動してみると男の低身長がハンデになるのがごく当たり前の考えになっていると感じる。
個人的に身長が高い方が好きな人がいるのは全く問題ないと思ってる。でも、それを当たり前に表明する結果、それが社会全体的な雰囲気になってるのが嫌というか、変えられない(骨延長手術とかあるけど現状ハードル高すぎ)身体的特徴に対して無遠慮じゃね?とは思う。
数年前からボディポジティブって言葉が流行ってスリムな体型の人だけじゃなくて太った人もモデルに起用されるようになった。
→相手を大切にすると決めてお互いに実行できているところが素敵。
感情と理性はどちらも大切で、好きだから大切にしたいのを前提に、大切にすると決めたから大切にする、
その継続で好きでいつづける/好きでいてもらえるように努める、という姿勢を見習いたい。
→コンプレックスに感じていた部分をさらっと受け止めて楽しい日常の一部にできているところが素敵。
ぬいぐるみを大事にしているのはそもそも欠点じゃないけど、欠点も含めて大切にしたいし、楽しめたら最高。
自分の感情を言葉にするのは難しくて、つい言いやすい事を理由にしてしまったり相手を責めてしまったりしがちだけど、
自分が本当はなにを求めているのかをポジティブな形で相手に伝えられる増田さんが素敵だし、
人が自由に生きられる若い時代・全盛期が終わって、被搾取者・賃労働マシン化することの象徴って感じだったけど、
選ばれた人しか結婚できない時代になって、やっと結婚が良いものというか、人生にとってポジティブなものの象徴になってきた気がする。
独身女性と既婚女性の幸福度を調べると、DVや不倫やレスなど不幸な結婚<独身<幸福な結婚となっていて、悲惨な結婚するよりは独身のほうがまし。
悲惨な結婚が減り、幸福な結婚のみが発生したり生き残ったりすることによって、結婚というもののイメージがとても良くなっているのを感じる。
これは皆婚主義の倫理のようなものが無くなって、人が自由になったことによって得られた、ポジティブなイメージだと思う。
また皆婚主義に戻して、結婚に向いてない人を無理やりに結婚させて不幸な結婚生活を量産すると、また結婚のイメージは人生の墓場に戻るよ。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD11D7P0R10C23A7000000/
歓迎すべきことじゃんね。まともに教育を受けた人間がこれからの生活を考えれば子どもを産まない方が絶対に幸せなんだし。これこそみんなが求めていた新時代で、目指すべき未来の代償に少子化がついてきたってだけだよね。
そもそも、昔の人間は社会的な圧力から結婚妊娠を強要されてたとこもあるんじゃないのかね。考えるより前に世間が許さないから結婚して子どもを産んでる人も絶対いたよね。そこに経済的な豊さとかは別に関係なかったんじゃないのかと思う。
そんで、もしこんな時代に少子化を改善したかったら、もっと子どもを産むことのポジティブな面を増やさないとダメだよね。シンプルに今の時代、子ども産むことつらそうって面ばっかり強調されてるし。経済的な面もそうだけど、世間的にもさ、子どもがいる人間を歓迎する雰囲気になってかないといけないよね。まあ、それができないから今の状況になってるんだろうけど。
とにかく、少子化は社会が選んだ当然の結果なんだから、今度は別のベクトルでそれを解決してかないといけないよね。今の時代、子ども騙しの政策なんかで騙される若者はいないのよ。学がある人間を納得させようとするならもっと本気で根本的なとこを考えていかないとね。わたしには学がないからどうにもできんけど。
セクシャルマイノリティ関連で私が大嫌いなのは「クィア」という言葉。
クィアの意味は下記のとおり。要は「変態」という、直球ストレートな差別語でしかない。
なのに何故かこの「クィア」という言葉は、性的少数派の権利を主張する人達からやたらと好んで使われる。
一体何故「ホモ」や「レズ」は差別語だと憤る、ポリティカルにコレクトネスな人達は「クィア」は積極的に使っているの?
言葉そのものの意味で言えば「ホモ」は「同一な」という意味でしかなく、「レズ」もレスボス島の略語だ。言葉自体に差別的な意味はない。
なのに何故「ホモ」や「レズ」は全面的に否定され、「クィア」は積極的に用いられるのか……理解不能で不愉快でしかない。
人権尊重の見地からは、性的少数派であってもただの一市民に過ぎないと考えるべきなのでは?
わざわざ「クィア=変態」という用語を使って、異常性を強調する意味が分からない。
もともとは、英語で「不思議な」「風変わりな」「奇妙な」といった意味合いを持つ言葉だった。性自認といえば「男か女」、恋愛といえば「異性愛」以外への理解がなかった時代では、変態という意味を込めた同性愛者への蔑称でもあったのだ。しかし現在では、性的マイノリティ当事者が自分から、ポジティブな意味でクィアという言葉を使うことが増えている。
数年前に結婚した妻を観察した結果をどこかに殴り書きしたく、結論のない文章を投下してみる。
良い国立大学の文系出身なので勉強はできたはずなのだけど、勉強自体にコンプレックスがあった様子。
まぁお互い30歳を超えているので、いい年の大人が高校の勉強どうだったのかなんて話すのはアレな気はするが、
思春期の記憶は強く人格形成に影響するらしく、数学っぽい話をすると拒否反応みたいなのが起きてしまう。
自分は理工学部の出身なので結構楽しく数学の話をする時があるが、そういうのを見て自分との差を感じて一人で辛くなってしまうらしい。
思い切って教科書取り扱いのある販売店に行き、数学の教科書を買ってみた。
ちなみに高校の教科書はすべての書店にあるわけではないが、教科書取り扱いの販売店なら一般の人にも売ってくれる。アマゾンでも買える。
買ったのは数研出版の高等学校シリーズで、教科書によって難易度の差があるのは知っていたが、何でもいいかなと思って目についた標準っぽいのを買った。
妻の数学理解度を確認してみると、数学1の二次方程式の解き方・不等式の解き方についてはかなり鮮明に覚えていた。
躓きポイントは数学2からの三角関数・指数・対数のあたりっぽい。
観察の結果、定義を定義として受け入れるときに、なぜそうなっているのか?というのを真っ先に考えてしまい、
あまり無味乾燥と感じる状態では理解を拒否反応を示してしまう、というのがあった。
例えば指数関数で、 (a^x)^y = a^{xy} なんだよ、というのを理解するのにどうして?というのが真っ先に思い浮かんでしまう。
初学者はまず定義を受け入れて、いろいろな練習や思考を重ねていくうちにどうしてその定義になっているのか、という順序で考えたほうがいいと思うのだが、
この順序でなかなか物事を考えられない。
定義がどうしてそうなっているのか、はある程度それ自体に親しまないとわからなかったりする。
こういう時は具体的な例を列挙して、これがただしそうだよね?という話をしてあげる。
こういうときは、実験を観察を繰り替えす自然科学のようなアプローチがいいと思っている。数学はもちろん論理的に厳密な学問なので定義の積み重ねの上だけでも議論できると思うのだが、高校の基礎レベルの理解だと体で納得できないといけないこともあると思う。
たとえば(a^x)^y = a^{xy} の正しさの確認なら、
(a^2) ^ 3 は a^2 * a^2 * a^2 = a * a * a * a * a * a = a^6 みたいに具体的な数をあてはめて、合っているねというのを見ていく。
なんとなくこの定義でいいんだ、というのがつかめてきたらそれを定着させるべくたくさん練習問題を解いてもらう。
大切なことは、一度挫折している人なので、事あるごとにほめること。
たすき掛け早い!理解が速い!いいね、合ってる、などとにかくポジティブにほめる。
逆にどれだけ学生時代に自信を失わせるようなことがあったんだと想像してしまう。
女子学生は昔から勉強してない自慢したり、集まってヤバイヤバイと言い合って安心する、みたいなことがあったと思う。
出来なければテストで悪い点を取り、親から・先生から怒られて、自信を無くすとどんどん数学自体に向き合えなくなっていってしまう。
数学に向き合えないと、勿論数学ができなくなっていき、授業も何言っているのかわからなくなり、ついていけている子から日を追うごとに差をつけられてしまう。
計算ミスが多いから、本質的な問題の理解に時間を割くことができず、学びもうまくいかない。
最初に数学が得意になるかどうかの分かれ目は、少しワーキングメモリーが大きいとか、少し注意深いとか、少し計算が速いとか、そういう差なのかもしれない。
とりあえず数2の範囲については章末問題が全て解けるようになった。
こころなしか、最初のころは私に「トラウマに向きあえ~~」と言われてイヤイヤやっていた感じがあったけども、自分ができるようになる過程を楽しんでいる感じがある。
別に彼女の仕事には今更高校数学を振り返っても役に立つわけではないが、週末には数学をやるのが定着してきた。
そのうちどこかの大学の入試問題を一緒に解いてみようか。自信にもなるだろう。
何歳になっても学ぶことは良い。
これ系のやつって「原動力はこれが好きだという純粋な気持ちでいいんだよ」という非常に耳障りの良い言葉に起因するやつと思う。
それに更に耳障りの良い「むしろ好きじゃないと続けられない、最後の最後で結果を分けるのは好きという圧倒的初期衝動」みたいなやつが現実に則していないのが尚更それを助長するんだと思う。
たまたま最初に上手く掴めた、好きという正の情熱はとっくに失せたが、自分にはもうこれしかないので必死にしがみつく負の情熱で乗り切って、結果を受けて、まだ自分のやってきた事は無駄ではないよなと確認する継続法で走る奴だっていくらでもいる。