はてなキーワード: デカルトとは
「難しい作業」の慣れない要素に関しては、チェックリストを使うことで、使用する注意の量はぐっと減らせる。
デカルトは「困難を分割せよ」と言い、ビル・ゲイツは「問題を切り分けろ」と言った
ttp://www.huffingtonpost.jp/satoshi-nakajima/difficulity_problem_b_10325526.html
スティーブ・ジョブズ、マーク・ザッカーバーグ、オバマ大統領がいつも同じ服を着ている理由
ビル・ゲイツがいちいち顔を合わせて聞いていたら、膨大な時間がかかります。だから彼は、コストをかけてでも、説明を聞く時間を効率化するために専門のスタッフを雇っていたのです。
どうでもよいことについては中庸の道を選ぶことによって、われわれは自分自身の人生の大目標に全力を集中しえる。
【認知的節約】 人は、必要以上に認知資源を用いない傾向があることを示す。 【認知資源】 注意を向けて考える、記憶する、といった認知活動に要する能力。認知心理学では、「認知資源には一定の限界があり、そのために認知的節約が起こる」とする。
ttps://twitter.com/shakaiaku/status/563371671277817856
悩みに対して「ストップ・ロス・オーダー」という歯止めを用いよう。一つの問題に対してどの程度まで気にかけるべきかを決めて、その限度を超えたら忘れてしまうこと。
『私の考えでは、①好きなことをやり、②それで食べることができ、③その上それが他人のためにもいささかの役にたった人生が自己実現の人生であり、理想の人生である。』
ソース―あなたの人生の源はワクワクすることにある。: 本: マイク マクマナス,Mike McManus,ヒューイ 陽子
ttp://www.amazon.co.jp/gp/product/4900550132
この世(宇宙)の始まりは知性とともにあった。即ち「光あれ」(※1)の言の波とともにこの世が生まれたとあるように、「光とこの世」の前に存在したのが知性なのだ。この状態は混沌というわけではない。知性とは「Cogito ergo sum」※2 が個に生じた状態であり、その思念こそが創造の源となる。
自己を知覚した存在が「光」を欲すれば、「光」が生まれる。そして「光」の前に存在した「言」(※3)こそが、知性が行動を起こしたときに生まれる「想い」、即ち「思念」なのだ。知性の存続は時空間という概念を超えたところにある。つまり「Cogito ergo sum」という瞬間がいずれかの時空間軸で萌芽した時点でそれは「有る」。またそこに「有り続ける」。結果として、知性の存在は「場所や物質的なものに一切依存する必要のない」(※4)、言い換えれば、知性は時空間という概念から独立して存在しうる。つまり、これは世に出現するあらゆる現象(色)は本質ではなく(故に「空」であり)、世におけるあらゆる現象から独立して存在する知性(故に「空」)こそが本質(故に「色」)であること--「色即是空、空即是色」(※5)を意味する。
知性の繁栄とは、複数の知性が如何に結びつくかを示し、そこには2つの類型しかない。一つは、相互依存による共存共栄による知の拡大である。もう一方は、一個性による他、そして多の支配による侵略の拡大である。一方は永遠なる存続と相互補完により実現する存在であり、他方は、一個性の支配下により存続が左右される。
Cogito ergo sumは一般的に「我思う故に我あり」と訳されるが英語などでは、「I think Therefore Iam」、直訳すると「I think Therefore Am」となるためより「I」の存在そのものを強調した表現となっている。
※5 般若心経
僕は京都の大学に通っている.元々東京で育っていたがその大学への憧れと京都に住みたい実家を飛び出したいという気持ちで京都の大学への受験を決めた、そして何とか拾ってもらい今京都に住んでいる。
大学生になって実感したのは周りの人間がどんどん海外に行くということ。高校の同級生と久々の同窓会で再会したときも、夏休みに数カ月留学してたんだとか、今度どこどこの国に行くとか、そういう話ばっかだった。
そういう人間は多かれ少なかれ海外に行ったことを示すためにTwitterやFacebookに写真を投稿する。どんな人もまあそうするよね海外の風景なんて珍しいんだから。
でも行って何をしたかって言ったらサバイバル力磨いただけじゃないの?正直海外に行くことで何を得ているのかよく分からない。
単純に海外旅行に行って遊んできました~ならうわ羨ましいなお前でいいんだけど、留学、これは本当に何をしているんだ?
例えばサッカー選手が海外に挑戦するみたいに、よりレベルの高い環境で自分の力を試すなら分かる。自分の専門についてその本場で学びたいと言うのならよく分かる。「○○先生のところで勉強したくて!」って理由なら「おお頑張れよ!」って思える。
でも、大抵の留学に行く人間ってそういう理由で行ってないだろ?他人とは違う経験がしたいから、その場にあった留学に飛びついたんじゃないの?お前は何しに海外に行ってんだ?
1回気になって留学に行く人に「なんで留学に行くの?」って聞いたことがある。そしたらそいつは「なんでだろうね。でも行きたいんだ。君は留学行きたくないの?」って答えやがった。ふざけるな真面目に考えてくれよ。
正直に言って俺は英語が苦手だ。文章を読むことは出来るけど会話は絶望的に出来ない。これはまあ中高の英語教育が(喋ることを重視し始めているとは言っても)読み書きに偏重しているから、そういう訓練を積んでいない、それだけだ。
京都という土地柄外国人に道を聞かれることは多い。そういう時「OK」「there(指差し)」「I don't know」ぐらいしか言えないぐらいにはクソな英語力だ。しかも超キョドってる。我ながらひどい。
だから、そういう英語弱者のコンプレックスから海外に行く人間を妬んでいるのかもしれないって自分でも思うよ。でも、だからこそ海外に行くメリットをちゃんと教えてくれよ。英語の出来ない俺を見捨てて海外に行かないでくれ。
海外に行くのは凄く怖いことに思える。
http://www.suzutaro.net/entry/2016/09/18/174626
でもこういう記事を読むとやっぱり本当にムカつくんだよな。大学に通っていても勉強してないのはお前だろ。そういう留学に行く人間の方が授業を真面目に聞かないんだろ。ふざけるな。
俺は今京都の大学で凄く授業が楽しいよ。そりゃ眠くなったり、全然集中出来ないときだってあるけど、それでも授業受けるだけでどんどん自分の中で知が広がっていく。特に哲学の授業なんかはこれまで考えもしなかったことを考えるんだ。俺はデカルトの認識論や観念論、現象学も講義を受けたけど今まで知らなかったことしかなくて本当に面白かったよ。でも友人はLINEで突然「○○の授業ってレポート課題出てたっけ?」とか試験直前に「○○の授業取ってるー?」とか聞いてきやがる。
今まで授業で一回も見なかった人間だ。他にも、授業後に「今の授業聞いてた?笑」とか聞いてくるやつだっている。興味ないなら来ないでくれよ。興味ないのに来るならもう少し申し訳なさそうにしてくれよ。。。
大学は授業出てるだけで面白いことはたくさんある。最初からそれを無視して勝手に大学の講義はつまらないとか行く価値がないとか言い切らないでくれよ。
上に貼った記事でも「ただ大学を卒業して、」って書いてあるけど、それ自体面白いんだって。
他にも日本で楽しいことはたくさんある。怪しげな地下イベントとか行ったことあるか?テレビでタモリ倶楽部見たことあるか?展覧会は行ったことあるか?
本を読んだことはあるか?京都は古本屋がたくさんある。古本屋で棚から棚へ視線をじっくり動かして掘り出し物探したことあるか?映画は行ったことあるか?ただあてもなく散歩したことあるか?何も考えずに路地裏を探検したことあるか?
毎日生きているだけで精神的に充実させることが出来てしまう。インターネットでいくらでも面白い記事が読める。YouTubeでMVを見てるだけで一日が終わったことがある。毎日生きるだけで楽しい。なあ、日本ってそんなにつまんないのか?
別にそんなことないだろ?京都にいるだけでも毎日を充実させようと思ったら出来てしまう。だから特別日本がつまらないって俺は思わない。
日本の文化の面白さって言ったらなんか薄っぺらいけどさ、でも面白さはあるんだよ。日本の文化っていうよりもうそれ自体が面白い、価値はよくわかんないけど好きだってものが。
だから、日本を軽く見て海外に目を向ける大学生はまずもっと毎日の生活を見つめてみようぜ。音楽でも文学でもアカデミックでもスポーツでもゲームでも何でもいいからハマれるものにハマってみようじゃんか。
意外と面白いものって視界のすぐ外側とか隅っこにあったりするんだって。だから安易に日本を捨てて海外に行くなんて言うなって。海外に素晴らしいものもたくさんあるだろうけど、日本で生きていたって十分面白い。
☆「神または邪悪な霊による欺きの可能性」という根拠で明証性の規則に従って導出される事柄を疑えるのか?
→これに対してデカルトはまず神の存在を証明しなおかつその神が欺かないということも証明することで疑えないと答えようとする
①何ものも無から生じることは無くそれが存在するためには原因を持たねばならない
②その場合、原因はそれがもたらす結果の実在性よりも大きな実在性を持たねばならない
③なぜなら、仮に原因が結果よりも少ない実在性しか持たないとしたら
結果の実在性の1部が無から生じたことになるがこれは明らかに①に矛盾するから
④ところで我々のうちには神(無限で独立していて全知全能で万物を想像した完全なもの)の観念が生まれつき存在する
⑤当然、この神の観念も原因を待たねばならない
⑥なぜなら、仮に我々に神の観念の原因だとすると、実在性が低いもの(我々)が実在性が高いもの(神の観念)を作り出したことになるが、これは明らかに②に反しているから。
⑧したがって 我々の外に神が存在し、それが我々に神の観念を送り込んでいると考える他ないし、またその限りで神は存在すると言える
「私」の存在の原因は?
「両親またはそれ以外の神より不完全な存在」 「神」
「私自身」はどうか?
① 仮に「私自身」が「私」の存在の原因だとすると、その場合。「私自身」は無から「私」をつくり出したことになる
↓
ところで無から何かを作ると 私ということ以上に困難なことはないから、こうしたことが出来るなら あらゆる完全性を自らに与えることもできるはずだしその結果「私」は神そのものと化すことに
↓
ところが「私」は神ではない
↓
↓
従って「私」を存在させるためには ある瞬間の「私」を次の瞬間の「私」へとつなげてゆく力がなければならない
↓
ところが「私自身」ににはそんな力がない
↓
従って「私自身」は「私」を存在させることはできないつまり「私自身」は「私」の存在の原因ではありえない
↓
「両親またはその他の神より不完全な存在はどうか?
仮に「両親、、、、」が「私」の存在の原因だとするとその場合、今度は「両親、、、」に関してその原因が問われることに
↓
その場合、私同様不完全な存在である「両親、、、」をそれ自らの原因だと考えることはできないから、さらに別のものに原因を求めることに
↓
しかしその場合も同じことの繰り返しとなり、その結果いつまでたっても最終的な原因にたどりつけず 不合理
神はどうか?
↓
従って「神」が「私」の存在の原因であり
その限りで神は存在すると言える
デカルトはどのようにして 「私」といつ存在を真っ先に疑い得ないものとして見つけ出すか?またその場合の私とは?
一人部屋に閉じこもり思考実験
その結果「何ら確実なものはないということだけが確実」という自己矛盾的結論を行きつきかける。その瞬間、こうした自己矛盾的結論の作り主として「私」が必要だと考え、「私」という存在をデカルトは確信
(精神)
身体
⇒こうしたデカルト的な私の捉え方に対しては、精神的分析の立場から批判可能
分析における人間の心の構造の分析のもとに可能となるデカルト批判
前意識→ある時点では意識されていないが、それに向け思い出すことのできる心的内容の存在する心の層
無意識→どんなに意識化を試みても意識化出来ない抑圧された心的内容が存在する心の層
人間の心
es=it エス→人間の心における純粋に本能的・無意識的部分。専ら快感原則に従い。※現実原則は無視する。
他方、デカルトにおける私と明晰判断に認知できるものだけで構成、しかしそれでは私の全体像をとらえたことにならないのでは?
超自我がエディプスコンプレックス(異性の親に対する性的願望と同性の 親に対する敵対心の複合したもの)を克服してゆく過程で近親相姦願望を抑止する者として
<幼児がエディプスコンプレックスを克服する。同性の親を取り込んで心の中を番人にする。>
の同性の親を心の中に取り込むことで、それを核に成立(こうした説明を元に可能となるデカルト批判)フロイトに従う限り(人間の心をもつ)私の中には本来 「私」とは異なる他者(同性の親)が部分として存在していることに
↓
こうした本来の「私」の外に存在する他者、しかしそれでいて私を形成する他者をデカルトの目の内面でひたすら探るというやり方では捉えきれないのでは?
☆ジャック・ラカン(1901ー1981)が鏡像段階に関して展開する議論をもとに可能になる
鏡像段階→幼児の発育過程の中の一段階(生後6か月〜18か月)この段階の幼児は、鏡の中に映った自分の姿に強い関心を示しなおかつそれを見て大喜びするという特徴をもつ。
↓
なぜ大喜びするのか?
↓
自分が一つの統一的な身体を持つことの発見、そしてまたそうしたものとして他者から見られているのだということの発見
↓
そして発見を通してナルシシズム(自己像に対する愛着)がめばえ
様々に思い描くようになる
ラカンに従う限り、私というものの形成の出発点は鏡に映し出された自分の身体像であるということに
↓
従って私というものの形成においては身体が重要な役割を演じている。
他方、デカルトの議論においては身体が軽視。これはやはり問題では?
↓
これは超自我の核として
他者が不在 あれはあきらかに大きな
また我々自身が時に陥りがちな誤り
そしてそのように他者の目意識して思い描かれる自分の姿を通して輪郭が定まる以上私の形成には他者が深く関わっている 他方、デカルトの考察においては、他者が不在 これは明らかに大きな誤り
だし、我々自身が時に陥りがちな誤り
出題 最初と2回目hz除外
B デカルトは最初、まず四つの根拠に基づいてすべてを疑っていくが
その根拠の一つが"夢と現実を区別するしるしがない"というものであったでは残りの3つの根拠はどういうものか、全て記せ← 必ずでる
D 神はなぜ我々を欺くことがないとデカルトは考えたのか?
E
F
重要そうなところをヤマ貼っておく 何か書いておけば部分点があるらしい
コギトの原理(私はある、私は存在する)の成立条件に注目しデカルトは明証性の規則(私がきわめて明晰に判明に認知するところのものはすべて真である)を導き出す
→明証性の規則に従って導き出された事柄も四つの根拠で疑うことが出来るのでは?そしてそのように疑わしい事柄しか導きだせないなら明証性の規則を確立しても意味がないのでは?
☆「感覚は時に誤る」という根拠で明証性の規則に従って導き出される事柄を疑えるのか?
感覚が誤りを犯すように見える時、実はその時誤りを犯しているのは感覚ではなく感覚内容に余計な判断が付け加わることで誤りが生じている
ところで、明証性の規則に従う限り、こうした余計な判断がつけ加わることなくその結果感覚が誤るように見えることもなくなる
従って、明証性の規則に従う限り、もはや感覚は時に誤るという根拠で物事を疑うということが出来ない
☆<夢と現実を区別するための明確なしるしがない>という根拠で明証性の規則に従って導出される事柄を疑えるのか?
→少察5,6 で次のように解答
生涯の他の部分との連続性を明晰判明に認知できるということを我々は夢と現実を区別する印とみなせるはず。 さらに例えば数学的真理は明晰、判明に認知される限り、夢の中であろうと現実のなかであろうとその真理性が揺らぐことはない。つまり極論すれば、明証性の規則に従う限り 夢と現実の区別するための明確なしるしがない という根拠に物事を疑うことはできない。
☆ 「最も簡単な数学的真理に関してさえ人は時に誤る」という根拠で明証性の規則に従って導出される事柄を疑えるのか?
→「哲学の原理」などでは次のように解答 数学的真理に関しては公理(それ自体は証明不可能だが、直観的に真だと確信できる原理に十分な注意を払って推論・証明を行う限り 本来 誤りは生じえない
ところが人間は、公理に対する注意が保ちきれず、その結果 数学的真理に関して誤りを犯す
ところで、明証性の規則に従う限り、こうした不注意はあり得ず、従って数学的真理に関して誤りを犯すこともなくなる
それゆえ 明証性の規則に従う限り、「最も簡単な数学的真理に関してさえ時に人は誤る」という根拠で物事を扱うことはできない
「神または邪悪な霊による欺きの可能性」という根拠で明証性の規則に従う限り、の規則に従って導出される事柄をうたがえるのか?
神が欺かないことの証明
欺きは全て欠陥に基づく
⇩
ところで、存在の証明された神は「すべての完全性を持っており、いかなる欠陥からも全く免れている神」にならない
⇩
従って神は決して我々を欺かない
ギモン)邪悪な霊による欺きの可能性は?
これに対する直接的解答は与えられていない。しかし「省察4」で展開される議論を参考にすると 恐らく次のように解答可能
仮に邪悪な霊をつくったのは神だから神が邪悪な霊を手先に我々を欺いていることに
⇩
ところが神は決して我々を欺かないから
こうしたことはありえない
⇩
従って邪悪な霊が我々をを欺くことはない
→以上の議論により「神または邪悪な霊による欺きの可能性」が打ち消されることに
従って、明証性の規則に従う限り「神または邪悪な霊による欺きの可能性を根拠に物事に従うことはできない
デカルトが感じる不安→自分にこれまで何度も誤りを犯してきた。仮にこの誤りの原因が特定できないと、これから先も同じように誤りを犯すことになるのでは?
この不安を解消するため、デカルトは誤りの原因を特定する作業に取り組むことに。
このうち意思する能力は極めて大きく神における意思する能力に匹敵するほど完全。
なぜ?
意思の本質→他から強制によることなしに自らの判断に基づいて何かを決断すること。
これを「私」は十分備えている。そしてその限界で意思の力は完全に近いと言える
⇩
こうした強大で完全な意思する能力が誤りの直接的原因になるとは
考えられない
他方、認識能力はきわめて小さく不完全だが、我々を決して欺くことがない神によって与えられたものだからこれが誤りの直接的原因だとも考えられない
→この結果一瞬デカルトは戸惑うがすぐにいい考えを思いつく
「それでは、私の誤りはいったいどこから生じるのであろうか。この1つ1つのことからすなわち意思は悟性よりも広い範囲に広がるものであるゆえ、私が意思を悟性と同じ範囲にとどめておかずに私の理解していない事柄にまで及ぼす、というこの1つのことから生じるのである」
死にたい。思考を止めたい。消えてなくなりたい。俺という存在を最初からなかったことにしたい。なんでこんなことになった?何かが間違っている。おかしいだろう。こんなことは、あっちゃいけないはずなんだ。
事の起こりは数ヶ月前。20年来の付き合いの悪友が電話をかけてきた。その時俺は家で焼き鳥をつまみにビールで晩酌していた。いつもはメールのくせに珍しく電話なんてかけてきて、なんだろうと思った。どうせくだらない話に決まっていた。あれに出なければよかったんだ。
奴は勢い切って言った。ハゲ始まったおでこの下に目ん玉剥きだして、ビックニュースに大興奮のキモい顔面がありありと目に浮かんだ。通報モノだったに違いない。
『魔女先輩』とは中学時代の1コ上の先輩で、すさまじい美人なのに、よく言えばエキセントリック、悪く言えばキチガイな奇行と相まって、学校の有名人だった女に勝手につけたアダ名だ。直に話したこともない、俺の初恋の相手だ。
洋菓子みたいな語感の芸名を教えてもらって、ネットで検索したらすぐに動画まとめが出てきた。もう20年近くも顔を見てなかったが、サムネイルだけで彼女だとわかった。独特の勝気な目つき、そのままだった。流れるような黒髪、長くなっていた。美少女は見事な美女に育ったらしかった。
奴が言うにはデビューは9年も前で、元同級生の間ではとっくに常識になっていたらしい。それを今まで知らなかったなんて、俺たち、まじで二人ぼっちだな、なんてホモくさいことを言い合いながら、俺は電話を切った。そして、瞬間、俺はプライベートな空間にいた。一人になった。パソコンの画面にはきらびやかなサムネイル。青春時代の憧れだった先輩の、あられもない姿が映っている。
一度ブラウザを閉じた。ついでにパソコンの電源を切った。トイレに行って小便を出して、ビールの残りを全部開けた。散らかった8畳間を無駄にうろちょろした。食いさしのポテチの袋を足にひっかけて中身をぶちまけた。
パソコンの電源を入れなおした。起動を待っている間に焼き鳥も平らげた。ついでに床にぶち撒いたポテチも拾って食った。罪悪感とも高揚感とも違う何かがへその下に溜まっていた。
震える指でおっかなびっくりブラウザを立ち上げ、検索窓にさっき聞いた女優の名前を打ち込んだ。唐突に高校生だった時に親父のパソコンでエロ画像を検索した時の事を思い出した。誰も居るわけがないが周囲や背後を確認して、検索ボタンをクリック。どうしようもない背徳感。さっきのページを見つけ、居もしない誰かに心の中で言い訳をしながら動画の再生が始まるまでの数秒感に、心臓が6回大きく脈を打った。
最初のインタビューの場面だけで勃起した。中学のころの面影を残した、大人になった彼女がそこにいた。くりっとした挑戦的な瞳。黒くしなやかな長髪。華奢な体格。胸は大きくなっていた。最近ではオナニーもルーティン・ワークになっていたというのに、その動画だけで3回抜いた。
それからは彼女ばかりでオナニーするようになった。ネットで動画を漁ったのは初日だけで、翌日からはDVDを買い揃えた。デビュー作から順々に。計算してみると、デビュー当時は22歳のはずだが、18歳の現役大学生というプロフィールでデビューしていた。
普段は気にも留めないインタビュー部分も、食い入るように見た。俺は彼女について、少しずつ知っていった。初体験は中学生の時、同級生と。経験人数は50人超え。性感帯は全身。クリ派。休みの日は3時間に一度オナニーする。中絶経験あり。今までにしたことがある一番の変態的プレイは彼氏の友達と宅呑みしてて女体盛りからの乱交。
最初はアイドルのイメージビデオみたいな内容だったが、年季が入るにつれだんだんとハードな内容が増えていった。潮ふき。初アナル。出血。許可無し中だし。浣腸。乱交。SM。全身ぶっかけ。100人斬り。最新作は喪服の未亡人モノだった。熟女というキャッチがついていた。
彼女は俺の中学のヒロインだった。学校中の男が彼女に恋をしていた。彼女は凛とした美少女だった。女だてらに生徒会長をやっていた。ハードル走の選手で、学校で一番足が速かった。しかも成績も良くて、まさに完璧なお嬢様だった。
だけどなぜか魔術にハマっていて、放課後に空き教室を占拠して勝手に怪しげな儀式を執り行っていた。それでついたアダ名が『魔女先輩』だ。タロットや星占いは可愛い方で、床に魔法陣を描いたり、一度、鶏を殺して生き血を使った儀式を行って問題になったことがあった。
彼女らは日がな、何やら哲学的な議論に明け暮れていた。その集団に混ざっていく勇気はなかったが、俺はそれを隣の教室のベランダから、聞き耳を立てて聞いていた。抜けるような青空だった。俺は彼女の事が好きだった。
『魔女先輩』について、忘れられない思い出がある。その日もいつものようにベランダに身を潜めて教室内の会話を盗み聞きしていた。夏休み前の初夏の日差しの下で、汗をぶったらしながら、息を殺して部屋の中の様子を伺っていた。部屋の中には男女が5、6人はいたと思う。声だけしか聞いていないからはっきりとは分からないが。彼らの前で魔女先輩は高らかに宣言した。
ことさらに男女を強調するのに、思春期の俺はいかがわしい何かを予感した。先輩らは教室の窓とカーテンを閉めきって中で何をしているのか見えないようにした。廊下側の扉も鍵を閉めて中を見えないようにしていたようだった。何が始まるのか、俺は全神経を集中して聞き耳を立てた。
音が聞こえた。衣擦れ。どよめき。裸足の足音。「みんなも脱いで」先輩の声。何かをしゃぶる音。「見たことある?」肉と肉の打ち合う音。男子生徒の唸り声。女生徒のすすり泣き。「血を集めて」
いつもと様子が違う。なにか、いけない事をしているというのが分かった。興奮。胃袋がひっくり返るような興奮。同時にひどい汚らわしさも感じていた。今すぐここから立ち去るべきだと思いながら、その実、体は石のようになって動かない。狭窄した視界の中で、先輩の艶めかしい声だけがはっきりと聞こえていた。
オンナの声だった。今では先輩達は人目をはばかるのも忘れて、本能のままに声を上げていた。その声を聞いているうち、俺の中に何かが降りてきて、そして過ぎ去った。青臭い臭いが鼻についた。射精していた。手で触れたわけでもないのに。これが俺の精通だった。汚れた、と思った。
濡れた制服のズボンを前に呆然としていると、がらっと窓が開く音が聞こえた。驚きのあまり心臓が飛び出すかと思った。心臓がバクバクと脈打った。400m全力疾走の後のようだった。息もできなかった。誰が窓を開けたのかは分からない。『儀式』の終わった先輩達が、片付けを始めたのだ。逃げなければと思ったがぴくりとも動けなかった。『儀式』を盗み聴きして、射精までしたと知れたら。考えるだけで全身からおかしな汗が噴き出した。怒られるか、軽蔑されるか。自分の置かれた状況が、涙が出るほど汚らしかった。
結果的には何もなかった。臭いや気配で俺の存在はバレていたと思う。誰のものか、ぺたぺたと裸足の足音が遠ざかっていった時の安心感は、言葉では言い表せない。片付けの終わった先輩たちはそそくさと教室を後にしたようだった。脱力した俺はそのまま、日が沈むまでベランダに死体のようにうずくまっていた。その日から俺は盗み聞きをやめた。
さて、そんな彼女が俺の初めての相手になった話をしよう。俺は女に縁なくずっと今まで童貞だったが、なんとなく彼女の作品を作っている制作会社のホームページを眺めていると、汁男優の募集がかかっていることを知った。別に彼女の作品のための募集とは書いていなかったが、軽い気持ちで応募してみることにした。俺は運がいいのか悪いのか当選した。
撮影は平日だったが、有給を使って会社を休んで制作会社へ向かった。身分証を見せて控室に通されると、パンツ一丁になるよう言われ、服を脱いだ。控室では同じようにパンツ一丁で待機する男達が20名ほどいた。なんというか、出荷前の養豚場の豚のようだった。スタッフから汁の出し方について簡単なレクチャーがあった。
この期に及んでも、俺はなんてことなく思っていた。不思議なほどに、これが俺の初めての女性経験になることに思い至らなかった。うまくできなかったらどうしようとか、自分の性行為を撮影される不安もなかった。やがて男達は撮影用の部屋へ通された。
彼女は眩むような照明の中、マットの上で男に組み敷かれていた。白くか細い肢体を投げ出して。虎のような喘ぎ声を上げてイキ狂っていた。男の物とは違う、むせ返るような臭気がこもっていた。
男達は働き蟻のように整然と列をなして彼女の中に精を放っていった。彼女はその全てを受け入れていった。すぐに俺の番が回ってきた。
彼女の前に立った。男と女の、殴りつけるような臭気。肌の上に粒になって浮いた汗。白く浮き上がる手足。飲み込まれるような黒髪。目と目があった。磔にされた天使のようだった。
ふと見ると、画面越しでは気づかなかったが、うっすらと手首にリスカの跡があった。
俺は鉛のように重くなった性器を彼女に挿入した。これが初めての挿入だったが、思いの外スムーズに彼女の中に入っていった。彼女の熱い胎動が俺を包み込んだ。
彼女と一体になっている間、俺の脳裏には中学校のベランダで盗み聴きした彼女の言葉がよぎっていた。
『語りえぬものについて沈黙するのは知性の方法論に対する隷属』ですか?
『デカルトが分離してしまった物質と魂を融合させる、グノーシス主義の実験』はどうなりましたか?
光が見えた。
時間にしたら数秒だったのだろう。性器を引き抜くと、俺の精子が他人のそれと混じり合いながら彼女の中からこぼれ出た。それだけだった。
そして気が付くと俺は家に帰ってきていた。ポケットに汁男優の謝礼の3000円が入っていたから、近くのコンビニでビールとつまみの唐揚げを買ってきて、泣きながらこれを書き上げて今に至る。死にたい。
デカルト閉圏というものがある。これは型付きλ計算や直観主義論理のモデルとなる圏だけども、その特徴は
である。これらをプログラムに対応させると次のようになるだろう。
終対象 | unit |
直積 | 直積型 |
冪 | 関数の型 |
- | 双対概念 | プログラムへの対応 |
終対象 | 始対象 | 終了しない計算(例外) |
直積 | 直和 | 判別共用体 |
冪 | 余冪 | ??? |
余冪に対応するものがよく分からん。余冪の定義からいうと余冪を X**Y と表現することにすれば
Hom(X**Y, Z)≅Hom(X, Y⊕Z)
が成立すればよい。だから、
IntOrString = IntValue of int | StringValue of string let f(x:int) : IntOrString = if x >= 2 then IntValue(1) else StringValue("1")
let f'(xy:X**Y) : string = "1"
のように書き換えることができればそれは余冪と言えると思えるのだが、そのような書き換えは可能なのか?
とりあえずこの場合に限れば、
exception Y of int type XToYCopower(x:int) = let x' = if x >= 2 then raise(Y(1)) else x let f'(xy:XToYCopower) = "1"
みたいにして、呼び出すときは、
let mutable z: IntOrString = IntValue(0) try z <- StringValue(f'(XToYCopower(0))) with | Y(y) -> z <- IntValue(y)
とすると、書き換えができているような気もするし、やはり何か違う気もする。
よく分からんなぁ…。
世紀 | ||
---|---|---|
前6 | 孔子(前551・儒教の祖) 孫子(前544・『孫子』著者) | |
前5 | 釈迦(?・仏教の開祖) ヘロドトス(前484・歴史の父) ヒポクラテス(前460・西洋医学の父) プラトン(前427・哲学者) | |
前4 | アリストテレス(前384・万学の祖) アレクサンドロス大王(前356・マケドニア王) | |
前3 | アルキメデス(前287・古代最大の数学者) 始皇帝(前259・最初の中華皇帝) 劉邦(前256・漢の高祖) ハンニバル(前247・包囲殲滅戦術を確立) | |
前2 | 司馬遷(前139・『史記』著者) | |
前1 | カエサル(前100・ローマの終身独裁官) ウェルギリウス(前70・ローマ最大の詩人) オクタウィアヌス(前63・ローマ帝国の初代皇帝) イエス(前4・キリスト教の開祖) | |
1 | プトレマイオス(83・天文学者) | |
2 | ガレノス(130・古代医学を確立) 張仲景(150・医聖) 曹操(155・三曹の一人) | |
3 | ||
4 | 王羲之(303・書聖) アウグスティヌス(354・古代最大の神学者) | |
5 | アッティラ(406・フン帝国の王) | |
6 | ムハンマド(570・イスラム教の開祖) 李靖(571・『李衛公問対』) 李世民(598・唐の第2代皇帝) | |
7 | ||
8 | アブー・ムスリム(700・アッバース革命の立役者) 李白(701・詩仙) 杜甫(712・詩聖) カール大帝(742・フランク王国) | |
9 | ||
10 | フェルドウスィー(934・『シャー・ナーメ』著者) イブン・ハイサム(965・光学の父) イブン・スィーナー(980・アラビア医学を体系化) | |
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12 | 朱子(1130・儒教の中興者) サラディン(1137・アイユーブ朝の開祖) インノケンティウス3世(1161・教皇権最盛期のローマ教皇) チンギス・ハン(1162・モンゴル帝国の初代皇帝) | |
13 | トマス・アクィナス(1225・『神学大全』著者) ダンテ(1265・イタリア最大の詩人) ジョット(1267・西洋絵画の父) | |
14 | 羅貫中(?・『三国志演義』『水滸伝』編者』) イブン・ハルドゥーン(1332・『歴史序説』著者) ティムール(1336・ティムール朝の建国者) ヤン・ジシュカ(1374・マスケット銃を使用) グーテンベルク(1398・活版印刷の発明者) | |
15 | ジャンヌ・ダルク(1412・百年戦争の聖女) コロンブス(1451・アメリカの再発見者) ダ・ヴィンチ(1452・万能の天才) ヴァスコ・ダ・ガマ(1460・インド航路の開拓者) マキャヴェッリ(1469・『君主論』著者) ミケランジェロ(1475・芸術家) マルティン・ルター(1483・宗教改革) スレイマン1世(1494・オスマン帝国最盛期の皇帝) | |
16 | エリザベス1世(1533・アルマダ海戦に勝利) セルバンテス(1547・『ドン・キホーテ』著者) ガリレオ(1564・科学革命の中心人物) シェイクスピア(1564・イギリス最高の詩人、劇作家) グスタフ・アドルフ(1594・三兵戦術を確立) デカルト(1596・合理主義哲学の父) | |
17 | ルイ14世(1638・絶対王政最盛期の王) ジョン・ロック(1632・イギリス経験論の父) ニュートン(1642・科学革命の中心人物) 康熙帝(1654・清の第4代皇帝) バッハ(1685・音楽の父) | |
18 | オイラー(1707・数学者) 曹雪芹(1715・『紅楼夢』著者) アダム・スミス(1723・経済学の父) カント(1724・哲学者) ワシントン(1732・アメリカ初代大統領) ワット(1736・蒸気機関の改良) ラボアジェ(1743・近代化学の父) モーツァルト(1756・音楽家) ナポレオン(1769・初代フランス皇帝) ベートーヴェン(1770・音楽家) ガウス(1777・数学者) クラウゼヴィッツ(1780・『戦争論』著者) スチーブンソン(1781・鉄道の父) ファラデー(1791・電磁気学の父) バベッジ(1791・コンピュータの父) | |
19 | ダーウィン(1809・進化論を提唱) ポー(1809・ミステリの父) マルクス(1818・共産主義を提唱) ヴィクトリア女王(1819・帝国主義最盛期の女王) パスツール(1822・近代細菌学の父) ヴェルヌ(1828・SFの父) モネ(1840・印象派の祖) ロダン(1840・近代彫刻の父) エジソン(1847・発明王) フォード(1863・自動車の大量生産) ライト兄弟(1867・飛行機の発明) アインシュタイン(1879・相対性理論を発表) ピカソ(1881・画家) ケインズ(1883・マクロ経済学を確立) グデーリアン(1888・電撃戦を確立) ヒトラー(1889・ナチス指導者) |
見て分からない人間に言って分からせるのは難しい。こんな言葉がある。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、 ほめてやらねば、人は動かじ。」。五十六ちゃんの名言だ。
見ても分からない人間に教えるのはかくも難しい。「見て分かるでしょ?」で済む「見て分かる人材」がいかに貴重なことか。
「1を聞いて10を知る」なんてまだまだ有能じゃない。「聞かなくても知る」のが真に有能だ。
人生には無数のシチュエーションがある。本で読んだ知識が通用しない時、頭で考えていた通りにいかない時も沢山ある。「言われなくても知る」には知識や思考だけではダメなんだ。
「見て分かる力」が大事なんだ。そんな「見て分かる力」を持った人こそ「地頭がよい」とみるべきだ。
ところで、程度の差はあれ見て知るのは誰でもやっていることである。私たち人間は頭で考えなくても見てある程度学習できる。
いちいち全てを頭で考えていたら頭がパンクする。時間もかかる。忙しい世の中にもついていけない。だから多くの知識は見て学ばねばならぬ。見て分かる力は超重要。
重要な力だが個人差は激しい。見ても中々覚えられない人から一発で覚えられる人までいる。見て一発で多くのことが分かる人は極めて少ない。そんな人材を我が国は育てるべきだ。
知識だけで役に立たない人間はいくらでもいる。そこで「生きた知識」って言葉が叫ばれる。臨機応変に使える知識。
そんな知識をつけるにはどうすればいいか?とにかく実践?そうじゃない。沢山実践しても要領をつかめないと意味がない。その要領をつかむために見て分かる力が重要なのだ。
「身体で覚える」という言葉は窓から投げ捨てよう。馬車馬のように働くのは御免だ。無駄な努力大好きなドMでもない限り。
日本は美徳の勤労を「無駄のない勤労」にアップデートすべき。国際競争に勝つためにも、そうすべき時代に来ている。今すぐにも見て分かる力を養成せねば。
見て分かる力は従来の学校教育では育たない。知識偏重は駄目ってことで思考を育てる教育が推進されてる。でも、思考偏重もダメなんだよ。
確かに論理的思考力は情報の真偽や矛盾を判断するのに重要だ。また、思考力があれば知識の少なさをかなりカバーできる。だから、思考力は育てたほうがよい。
だけど、思考力だけでは臨機応変にはほど遠い。いくら論理を構築しても現実に即していないと意味がない。論理性と実用性の間には解決しがたい隔たりがあるのだ。
なのに思考力ばかりが重視されてしまっている。それも本の知識をもとにした思考が想定されており、現場の知識はほとんど想定されない。
そんなことだから、それに反発して「とにかく実践」を連呼する実践至上主義が出てくる。結果、頭でっかちな人間と体育会系人間を育てているだけで、本当に必要な人材を育てていないのである。
そもそもの原因は思考への誤解である。思考など人間の情報処理の氷山の一角なのである。それがよく分かってないから思考偏重になる。
人間はいちいち考えずとも見て沢山の情報を処理している。思考はその一部をピックアップして制限された処理をしてるだけ。
具体的には、使用言語、論理性、興味、好み、道徳性、常識、先入観といった制限を受けるということだ。
そうした制限とは引き替えに良質な情報が得られるかはともかく、とにかくかなり制限される。仮に良質でも微量では役に立たない恐れがある。
そんな思考ばかりを推進せず、まず現場の実物や実態をよく見たほうが良い。そのほうが現実に即した情報が大量に入る。
この手段を世間では「観察」や「直観」と呼ぶ。「観察」だと得られるのは生データであり規則性を認識するニュアンスが弱い。よって、ここでは「直観」という言葉を用いる。
教育学において直観は古くから重視されてきた。しかし、教育制度や教育現場ではあまり重視されてこなかった。
思考への過剰な信頼が原因である。今こそ我が国はデカルトに象徴される西洋近代合理主義を振り払う時なのだ。
スローガンは「見りゃ分かる」だ。この言葉をどんどん使っていこう。「ググレカス」(調べれば分かる)や「頭使え」(考えれば分かる)は抑え目にしていこう。
俗に言われる「空気読め」という言葉や、世の会社で言われる「周り見ろ」という言葉もこの亜種だ。じつに妥当な言葉である。
ただ、「見ようとしないこと」を非難してはいけない。部下が言うことを聞かないのはあなたが部下を「見ていない」からである。
また、「見ても分からないこと」も非難してはいけない。誰でもステップバイステップで成長していくのであり例外はない。適切なステップを与えるのは教育者の役目である。
大胆な想像から新しい議論が始まるのはそのとおりなんだけど、相手が議論できる基礎を持って分かってて言うのと、単なる素人があてずっぽう言うのは違うでしょ。
さっきは少し乱暴に言ってしまったがその通り。
増田の問題意識は科学哲学の話になると思うんで、そこの既存の枠組みのどのへんから枝を伸ばしてるのか、あたりも言ってくれれば議論がしやすいんじゃない。
科学哲学というよりただの哲学から派生しているんだが。強いて言うならデカルト的な懐疑主義かな。
自分がサイエンスに携わっているからそれを懐疑主義的に見ているんだけど。
俺なんかは理論じゃなくて実験、そして実験的事実を数理モデルで解析するってことをしてるんだが、
実験で得られた結果というのは所詮は眼で認識したものだ。人間の脳が勝手に知覚したものであって本当にそれがそこに存在するかは分からないと考える。
原子なんかも最近では観測されたと言っているが、直接見た人間はいないし、そもそも可視光では見ることはできない。
実際に見たものですら信じられないのに、電子顕微鏡なんかで電子をブチあてたら見えたなんてのはますます疑ってかかるわけだ。
原子なんて本当にあるのか?って思っている。
つまり目に見えるものなんてのは脳が勝手に知覚したもの。あるかどうかは分からんってこと。
デカルトは疑ってる自分だけは絶対存在すると考えたそうだが、疑ってる自分すらも本当にいるのかと疑っている。
だから「絶対的なものはこの世に存在しないということだけが絶対的な真理」と考えるようになったわけだ。
しかし、真理には到達できなくとも、近づくことはできると思っている。その近づける行為が研究だ。
ま、色々書いたけど、まさか論文に「見えたけど本当かどうか分からん」とも書けんから研究は既存の理論に基づいて普通にやっている。
just doingは和訳すると「ひたすらそれをやりなさい」。という意味だ。つべこべ言わず、ごたくわ並べずにとにかくやりなさいという古くからの聖人が繰り言のようにつぶやいてきた言葉だ。
日本でも古くは只管打坐(しかんだざ)という言葉がある。只管というのは「ひたすら」という意味。打坐は、坐を打つ、つまり「座禅に打ち込む」なんだな。
今日こんな記事があったけど、日本もやっとこさアホみたいな努力厨が減ってきていい世の中に向かいつつあるのかなとホッとしたと同時に、
会社で「艦これ」プレイする人々 専用ウィジェットで「最小化」、テザリングで「ログ残さず」 | ニコニコニュース
http://news.nicovideo.jp/watch/nw1104289
古くからの日本の心が失われているようで寂しさもひとしおだったんだよね。変に真面目で凝り固まった部分がある一方で、やたらと無気力でマニュアル化された考え方しかできない指示待ち人間が増えていて複雑な気持ち。
人生生きているとそういう複雑な気持ちになることがあって多大な時間とお金を浪費していることに気づいたほうがよい。
偉い人の伝記とか読むと決まって苦しみを打ち消すように研究に没頭したと書いてあるでしょ?板挟みの中間管理職でも酒に逃げたりしない。打ち消すようにjust doing。
あれは脚色なんだろなと思ってたけどこの歳になって本当にその通りだなと思うわ。とにかくやるしかない。
我らがdankogaiも5年も前に「やる気を出すな。手足出せ」という名エントリを上梓しているが誠に先見の明と言うべきだろう。
分かってるとは思うが「俺はやってるんだぜ」とひけらかして自慢する人は全然just doingじゃないんだよ。当たり前のことをやってるという感覚じゃないとjust doingにはならない。別に偉いことでもなんでもなくて普通。
だからってやってない人が普通以下というわけでもない。比べちゃだめ。比べた途端にjustじゃなくて条件付き確率になるのよ。こういう時はこれくらいの確率で仕事できるけど、
そうじゃなくなったらがんばれるの君?って話になるわけだ。それがベイズ確率論。
結局のところしょーもない努力厨も無気力人間もどっちも条件付きという点でjustじゃない。ということが分かってもらえるかと思うんだけど、ここでつい我々現代人の悪いくせは、
どうしたらいいの?と考えてしまう。justはjustでもjustなシステムズはなーんだ?を見つけようとする。小学校のときに先生が理科の授業で「なぜ?を繰り返しましょうね~」と言ってたけど、
だいたい専門知識のない奴が「なぜ?」を連呼してもロクなことにはならないだろと子供心に思ったし大人になってその考えはいっそう強まるばかりだ。
我々現代人は西洋のデカルト的世界観を知らず知らずのうちになんだかんだ引きずっているから、つい社会面や政治面のニュースを見て「なぜ?」「どうしたら?」という形でどうしても方法序説を考えてしまうのが
悪いところで、そんなくだらないこと考える暇あったら自分のことやればいいのにと老婆心ながら指摘してしまう。
未来検索ブラジルのグニャラくんこと末永匡34歳会社員も社会のことなんて考える必要はありませんと明言している。ネットで声の大きなスポークスマンがそのように言ってくれるのは実に心強いことである。
この「まず自分」の精神はまさにjust doingそのものと言って良い。世の中エゴは悪いこととされていて、周りに気を遣うべきというマナーや、周りに合わせるよう押し寄せてくる同調圧力があるけど、
よく考えてほしいのは周りと自分を対置させて相容れないもののように扱っていること自体がデカルティズムの陥穽にドハマリしているということだ。
無意識に利他と利己は反対で、利他は大事だから、じゃけん利己はやめましょうね~とみんな当たり前のように思っているのがおかしいんだよね。