はてなキーワード: 結果的とは
結果的に今他の国と比べて感染が抑えられてるんだから原因分析できてるならともかく「なんかようわからんけど効果はあった」って評価しなきゃいけねーんじゃねーの?
COVID-19の疫病は特異な歴史的コンテクストに現れました。まず、グローバル資本主義と自由民主主義の折り合いをつけるには他に解決策(ソリューション)がないと30年間も信じてきた後で、人類は自らに課した昏睡状態からしだいに目覚めつつあります。状況が改善するかもしれないが、急激に悪化するかもしれないという考えにもはや誰も驚きません。
他方で、これまでの4年間、ブレグジット、トランプの大統領当選、ジェレミー・コービンの登場と失脚――じきにバーニー・サンダースも同じ運命をたどることになりました――といった出来事から、グローバル資本主義がかなりしぶといものだということが見えてきました。世界主義から排外主義へ、ネオリベラリズムから社会民主主義へ、イデオロギーがたんに変わるだけでは、社会的・経済的な諸関係は変わりませんでした。資本主義の完全な作り直しという課題に直面して、かつてはあれほどラディカルに見えたイデオロギーが無力で陳腐なものであることが明らかになりました。
現在の健康上の緊急事態をどう考えるべきでしょうか。COVID-19の引き起こした危機が世界を変えて開放する可能性に希望を抱く人は、すぐに失望することになるかもしれません。私たちの期待が過剰だというのではありません。ユニバーサルベーシックインカムやグリーンニューディール政策は妥当だし、まさに必要なものです。ですが、私たちは現行のシステムのしぶとさを過小評価し、また同時に、思想が堅固な技術的・経済的インフラなしで世界を変える能力を過大評価しています。そうしたインフラがあってはじめて思想を作動させることができるのに。
「ネオリベラリズム」のドグマは諸悪の根源とみなされることが多いですが、このドグマであらゆることの説明がつくわけではありません。知的には「ネオリベラリズム」には似ているものの、これとはまた別の悪について、10年ほど前から私は指摘しています。それは「ソリューション主義」といいます。
このイデオロギーは、ポスト・イデオロギー的であることを標榜しており、グローバル資本主義が生み出す問題や矛盾を解決しながらこれを動かし続けるために、いわゆる「実践的」な、個別の対応策をまとめたものを勧めます。そして驚くべきことに、こうした対応策には美味しい利益がついてくるのです。
ソリューション主義のもっとも有害な帰結は、スタートアップではなく私たちの政府がもたらします。ソリューション主義国家とは、その前の時代の監視国家が人間的になりつつもより巧妙化したもので、二重の使命を帯びています。イノベーションを引き起こす人々(デベロッパー、ハッカー、起業家)は御しがたい存在ですが、これらの人々がその能力と既存のリソースを〔現在のグローバル資本主義とは異なる〕他の社会組織を作る実験に用いないよう、ソリューション国家は気をつけていなくてはなりません。AIやクラウドコンピューティングの恩恵を十全に受けたいのなら、資金的に余裕のあるスタートアップを作らなくてはいけないようになっているのは、偶然ではありません。逆にそれは意図的な政治的努力の結果なのです。
その帰結。非商業的なしかたで社会を編成する制度を生み出す可能性があり、既存の体制を転覆するおそれのある試みは、頓挫する。そういったものは胚子の段階で殺されます。そういうわけで、ウィキペディアの流れをくむ団体はもう20年以上現れていません。とにかくデータが欲しい多国籍企業が世界を完全にデジタル化してゆく時代に、国家は自分の分け前を手に入れようと目論んでいます。監視が完全に行き渡ったことに加えて、企業が世界をデジタル化してきたことで、諸国の政府は市場を利するかたちでソリューション主義的な数々の介入を進めることができるようになりました。
ナッジ (nudge)の技術はソリューション主義の完全な実践例です。ナッジのおかげで、問題の原因は変えないまま、取り組みやすい作業の方に集中することができる。それは、個人の行動を不可変の現実(それいかに残酷な現実であっても)に「合わせる」という作業です。
ソリューション主義者のみなさん! COVID-19はソリューション主義国家にとって、9/11のテロが監視国家にとって持っていたのと同じ意味を持っています。しかし、ソリューション主義が民主主義的な政治文化に対して示す脅威は、〔監視国家よりも〕陰険とはいわないまでも、より微妙なものです。
COVID-19の危機にさいして中国、韓国、シンガポールがとった独裁主義的な戦略は評価されました。3国ともに、市民が何をしてよいか、してはいけないか決めるために、アプリ、ドローンやセンサーの展開をトップダウンで決定しました。西洋で民主主義的な資本主義の擁護者を標榜する人たちは予想通り、すぐさまこれらの国を批判しました。
エリートの臆見をもっとも雄弁にうたう詩人たるユヴァル・ノア・ハラリがファイナンシャル・タイムズのコラムで表明した代替案は、シリコンバレーのプロパガンダマニュアルからそのまま出てきたようなもので、知識によって市民を自律的にしよう! というものでした。
人道主義的なソリューション主義者はみんなに手を洗ってほしいと思っています。それがみんなにとって、社会にとってよいことだと知っているからです。中国政府が暖房や電気を切るぞと脅したように、みんなを力ずくで束縛するよりは、そのほうがよいと思っているのです。このような言説は、政治のアプリ化〔アプリで市民を監視し行動を制限する方向性〕にたどりつくだけです。手洗いの奨励をめざして作ったアプリがその人道的な見地によって報酬を受けたとしても、そうなるのです。
認知行動的な介入によって市民を自律的にしようというハラリの呼びかけは結局のところ、キャス・サンスティーンやリチャード・セイラーに代表されるようなナッジの擁護者が推奨するステップとたいして変わりません。こうして、過去数百年で最大の健康上の危機への政治的な対応は、石鹸や手洗い槽の自販機というかたちで「実践的な」言説に還元されてしまいます。これはサンスティーンとセイラーが〔共著の『ナッジ』で事例として紹介しているアムステルダム〕空港の小便器の形をめぐる思考〔小便器の底に蠅の絵を印刷するというナッジにより、男性利用者がトイレの床を小便で汚す率が大幅に減るというもの〕の系統にある発想です。
ソリューション主義者の想像の中では、あらゆる中間団体や制度は、歴史と同様、政治のシーンからほぼ消えてしまったので、他にできることはあまりないのです。ハラリやサンスティーンのような人たちにとっては、世界は本質的に、消費者としての市民、企業、政府で成り立っています。労働組合、アソシエーション、社会運動、そして感情と連帯で結びつけられたあらゆる共同的制度のことをこの人たちは忘れているのです。
「知識による自律化」というお題目は古典的なリベラリズムの根底にあるものですが、今日ではひとつのことを示しているだけです。もっとソリューション主義を、ということです。だから諸国の政府は、去年私が「生存のための技術」(survival tech)と名付けたもの(つまりスペクタクル(見せ物)としての資本主義が、その主要な問題を緩和しつつ続くようにするデジタル技術の総称)に大金を投資するものと予期しておかねばなりません。そうやってソリューション主義国家は自分が「中国の道」は採らないことを標榜しつつ、自己の正当性を強化することになります。
この危機から脱するためには「ポスト・ネオリベラリズム」の政治が必要なだけでなく、とくに「ポスト・ソリューション主義」の政治が必要です。まず、スタートアップか、中央集権的な計画経済か、といった人為的な二項対立はもうやめてもいいでしょう。この考え方は、私たちが今日、イノベーションや社会的な協力を考える仕方を規定しています。
新しい政治的議論の中心となる問題は、「社会民主主義とネオリベラリズムのどちらの勢力が市場で競合する力を制御できるか?」ではなく、「社会的な協力と連帯の新しいかたちを追求するうえで、デジタル技術がもたらす巨大な機会をどの勢力が活かすことができるか?」でしょう。
「ソリューション主義」とはだいたいのところ、「他に選択肢はない」(There is no alternative)というマーガレット・サッチャーの有名なスローガンを応用したものにすぎません。このようなロジックは残酷で実践できるものではないことを、左翼の思想家は過去40年間にわたって明らかにしてきました。とはいえ、〔このサッチャー的なロジックが〕破綻していても、政治的な権力を持つようになるうえで支障はなかったのです。結果的に、私たちの暮らす技術的な世界は、市場が支配する世界秩序を逸脱するような試みはぜったいに制度化されることがないようにできています。私たちの議論の輪郭〔つまり議論の組み立て方〕そのものが、そのような〔逸脱の〕可能性を排除してしまっています。
COVID-19への技術的な対応策を考えるさいに直面する困難は、ポスト・ソリューション主義的な政治の方向性が私たちにどれほど必要か示しています。イタリアのような国では――私はローマで外出制限の3週間目に入るところです――提案されるソリューションは酷いほどに野心を欠いたものです。私生活と公衆衛生のあいだで妥協点をめぐって議論が繰り返されており、さらには、これはハラリが示した方向性に従うことですが(「反抗または生存」を参照)、「生存のための技術」を使ってスタートアップがイノベーションを引き起こしやすいようにしなくてはいけないという議論になっています。
他の選択肢はどこに行ったのかという疑問が浮かぶのはもっともなことです。なぜ公衆衛生のために私生活を犠牲にしなくてはならないのでしょうか。テクノロジー企業や通信事業者が作った現在のデジタルインフラが、それを提供する会社のビジネスモデルにかなった利益をもたらすようにできているからなのでしょうか。
現在のデジタルインフラは、私たちを個別に消費者として識別し、ターゲティングを行うようにできています。集団の行動についてマクロなレベルで匿名の情報を提供するようなインフラを実装する努力があまりされてきませんでした。なぜでしょうか。そのような〔匿名のデータ〕分析をする必要について検討した政治的プロジェクトがなかったからです。非商業的なしかたで社会を編成する形態の中でも、とりわけ〔社会主義的な意味での大規模な〕計画はネオリベラリズムが用いる手法ではなかったからです。社会民主主義を信奉する人たちのなかでも、そのような手法を用いるべきだと主張する人はいませんでした。
現在のデジタルインフラは残念ながら個人が消費活動をするためのインフラであり、相互扶助や連帯のためのインフラではありません。デジタルプラットフォームと同様、現在のデジタルインフラは、アクティヴィズム、人の動員や協力といったさまざまな目的に使うことはできますが、そのような使い方は、たとえそう見えていなくても、高くつくことになります。
ネオリベラリズム的でもなくソリューション主義的でもない社会秩序の基盤としては、これはじつに脆いです(さらにこうした基盤には、消費者、スタートアップ、起業家とは違う働きをする人が必ずいなくてはなりません)。アマゾン、フェイスブック、あるいはあなたがお住まいの国の通信事業者が提供するデジタル基盤のうえにこの新しい秩序を建てる誘惑にもかられますが、そうしてもろくなことにならないでしょう。それは良くてソリューション主義者が跋扈する新しいフィールドになるか、悪くすれば、監視と抑圧に基づく全体主義的で押し付けがましい社会となるでしょう。
この危機的事態を権威主義的な体制よりも民主主義がうまく収拾できると熱く説く声が、左翼方面からさかんに聞こえてきます。このような呼びかけは無意味なものに終わる可能性があります。現在の民主主義は民主主義的でない私的な権力の行使にとても依存しているので、名ばかりの民主主義になっているからです。これぞ「民主主義」と考えるものをほめたたえることで、潰れかかっているスタートアップの見えない持ち分を意図せずほめたたえたり、スタートアップほどには無害でなくソリューション主義国家を構成するテクノクラートの持ち分をほめたたえたりすることになります。
もしこの生ぬるい民主主義がCOVID-19を生き延びることができるのなら、私企業の権力から完全に自由になるためにポスト・ソリューション主義の道をまず選ばなくてはならないでしょう。そうしなければ権威主義的な体勢への道へまた踏み出すことになります。それは「民主主義的価値」、「規制の機序」、「人権」について、以前にもまして偽善的なエリートの支配を許す道です。
Covid-19, le solutionnisme n’est pas la solution
*ナッジとは、「行動経済学や行動科学分野において、人々が強制によってではなく自発的に望ましい行動を選択するよう促す仕掛けや手法を示す用語」(株式会社日立総合計画研究所)
小説執筆経験を含め、創作経験は無かった。仕事で文章を書くことはあるが、クリエイティブなものではない。
読書家と言えるほど読む量は多くないし、映画・アニメマニアなどに比べれば全く観ていないが、フィクションは好きな方だと思う。
投稿締切が今日だったので、まだわからない。1次選考の結果は7月で、最終選考の結果発表は10月らしい。
結果が出た後だと、良くても悪くてもまとめる気にならないし、変に情報を取捨選択してしまうと思うので、このタイミングで書き残しておく。
小説・映画・漫画・アニメなどの作品をみてストーリーについて「こうすればもっと面白くなるのに」と思う時が多かった。
あわよくばいろんな人に読んでほしいし、収入源にもなればと思った。ただ、今は普通に小説を出しても売れない時代。アニメ・ドラマ・映画化などのメディアミックスの選択肢が多いライトノベルは、まだマーケティング的に強いと思った。電撃を選んだのは、単純に最大手だから。
絵が描けない(ありがち)。
物語の作り方を勉強しようと思い、脚本についての本をいくつか読む。ここ最近の受賞作品や売れている小説を読む。ネットの情報も調べる。
その後、まず100字以内でどんな物語かをあらわす文章をたくさん作る(ログラインと言うらしい)。この時点で早速、創作の難しさに気づく。思いつくのはありきたりなストーリーばかり。
ゼロからアイデアを出していると、似たようなものばかりになることに気づく。自分がどんなストーリーを考えるのが得意かわからないし、この段階ではある程度多様性があった方がいいと思い、SF、現代青春もの、戦記物、みたいにカテゴリでわけて、その中で考えることにする。それぞれのカテゴリの中でまだマシと思えるログラインを、800字程度のあらすじに膨らませる。
なんとかかんとか、4本分ひねり出し、この段階で一度友人に見せてみる。わりと恥ずかしかった。
友人に見せた4本のあらすじがそれなりに評判が良かったので、キャラや世界観の設定を深めていく。ここで、あらすじごとに考えやすいものと考えにくいものがあることに気づく。わりとスムーズにキャラや設定を考えることができた2本を使って、書き始める。
いざ書き始めて、これは長期戦になるであろうことを瞬時に悟る。自分は夏休みの宿題を直前まで放置するタイプだが、それでは到底太刀打ちできない。そこで、毎日起きてから3時間を執筆にあてることにする。3時間にしたのは、仕事との兼ね合いと、これ以上は創作力が続かないから。土日だけは3時間x2スロットの6時間にした。また、毎日同じ小説を書いていると自分自身がその物語に飽きることに気づく。自分が心から楽しめないのはまずいだろう。なので、二作品を一日交代で書き進める。
電撃大賞には、全体で80ページ以上130ページ以内という規定がある。自分の執筆ペースは、エピソードの流れが頭にできていればだいたい3時間で8ページぐらい。文字数にすると約6000〜8000字。だがこの「流れが頭にある」というのがくせ者で、最初に作った800字程度のあらすじだけでは、一つ一つのエピソードが書き進められない。つまり、エピソードごとに、もっと細かなプロットが必要だった。なので、3時間の執筆時間以外でも、通勤時間を使って次に書くエピソードの流れを頭で考えて、スマホにメモを取っていった。
また、書いている途中は一度も推敲せずに一気に最後まで走るのが良いというアドバイスがネットにあったのでそれに従う。結果的にこれはよかったと思う。とりあえず終わらせるのがモチベーション的に非常に大事だと思った。特に序盤〜中盤あたりを書いているときは、本当に最後までたどり着けるか結構不安になった。その辺で行ったり来たりするのはあまり良くないのではないかと思う。
月末に二作分のドラフトが完成する。この段階ではまだ人に見せられるようなものではなく、第ゼロ稿というところか。
ドラフトが完成してから、1週間寝かせて、再度最初のページから直していく。
上に書いたとおり、一切途中に推敲は入れていないので、矛盾が生じていたり、伏線をまったく張っていない設定がたくさんある。他にも、安直でつまらない会話や、適当な人物や風景描写、冗長な文だらけ。まずは全体を見てそれらを洗い出し、一つ一つ潰していく。
細部の推敲と並行して、改めてプロットを見直す。物語全体の流れがほぼ確定したので、章立てを決める。各章内に、盛り上がる部分・落ち着く部分があって、最後に引きがあるかを確認する。うまくまとまっていない章については、エピソードを追加・削除・移動。また、全体をとおしてテーマに一貫性があるか、最後まで引っ張る謎や問題があるか、改めて確認する。
これも平日3時間、休日6時間のスケジュールで進める。「自分はこの小説を完成させられる」という自信のようなものがようやく出てくる。
第一稿が完成する。プロットを見てもらった友人に完成版を見せる。かなり恥ずかしかった。
1週間ほどで友人から感想をもらう。自分では気づかなかった有益な視点が多くもらえる。特に、物語の最初のテーマが放置されて途中から別のものに変わってしまっていたり、せっかく魅力的なキャラがいるのにそのキャラのエピソードがほとんどなかったり、そういうのこそ案外自分では気づかない。
感想を踏まえて、ぶれている部分を直したり、キャラのエピソードを追加したり、不要なキャラを削除したりする。
月末に再度友人に見せる。これぐらいになると、あまり恥ずかしくもなくなる。
漢字の使い方を見直したり、改行の入れ方を変えたりと、読みやすさやテンポに気をつけて変更していく。
脚本術の本に、「審査員はランダムにページを開いてそこが面白いかどうか見る」と書いてあった。なので、自分でもそれを試した。これは良かったと思う。通しで読んでいると良くも悪くも物語に入り込んでいくので、細かい欠点に気が向かなくなる。あと、無意識に自分が気になる部分ばかり直してしまうのも防げる。
10日が締め切りだったが、さすがに直前は結構時間を使った。コロナの影響で使える時間が多くなったこともあった。
受賞作の傾向をつかもうと思って読んだが、ストーリーという点では傾向はあってないようなものだと思った。文体も多様で、地の文多め漢字多めのものから、ほぼ会話文で構成されてるものまで。そんな感じではあったが、ある意味傾向がないのが傾向と言えるので、それがわかったのは良かった。
どう作れば失敗しないか、アンチパターンを学べた。当たり前のことを網羅的に並べてあるような印象は少し受けた。結局、面白いストーリーに方法なんてないのだろう。
序盤で一気に引き込むのが大事、というのはどんな指南書にも書いてあった。つまりそれぐらい難しいということなんだと思う。実際、キャラ紹介や世界観の説明が必要な序盤は、面白くするのが難しいと感じた。
よくできているドラマやアニメの一話は、テンポ良くこれらをこなしている。映像があるドラマやアニメと違い、小説は文章だけしか使えないのでそのまま真似はできないが、構成などは参考になる。
どこで盛り上げてどこで落ち着かせて、どこで困難にあわせて、、、とかの流れは常に意識した。二作品とも六章構成だったため、全体を六話構成のアニメだと考えて、各話の中できちんと盛り上がりポイントがあるか、全体の中でどういう位置付けか、などを意識した。そのために、定期的に全体の流れをノートに書き出した。
音楽を意識して、横軸に時間、縦軸に盛り上がり度、みたいなグラフを何回も描いた。可視化すると、ずっと盛り上がってばかりの章や(つまり盛り上がってない)、ずっと平坦な章があることに気づく。
過去の受賞作品、あるいは売れているプロの作品を読むと、文体に正解はないことがわかった。読みにくく目が滑るな、と思うような作品もあるが、それはそれで作品の雰囲気を作るのだと思う。ただ、自分にとってはやはり読みやすい文がよいと思った。なので、とにかくシンプルに読みやすく、を推敲時には心がけた。
普段読んでいる時は意識しなかったが、一つ一つの仕草や会話文の後に続ける文書ひとつとっても、無数に可能性がある。正解なんてないから、すべて自分で考えないといけない。ストーリーにしても、少し気をぬくとありきたりな展開になるし、会話文も安直な切り返しばかりになってしまう。少しも気が抜けない。
書き始めるまではいろいろなキャラや展開があったのに、書いていくとそれらをどんどん切り捨てる必要が出てくる。ページ数の要請ももちろんあるが、実際、切り捨てた後に読むと、そっちの方が大抵の場合面白いし読みやすい。熱くなれるはずと思ったシーンや、魅力的なキャラを、どんどん消していく。そうした決断をいつ、どうやってするかには常に悩んだ。
仕事の息抜きになるだけでなく、毎日の生きがいになる。普段の生活では辛いことも多いが、小説を書いている時間はそれらを忘れて空想の世界に浸れる。熱いシーンや悲しいシーンなどは泣きながら書くことも多く、そのあとには不思議な充実感が得られる。
自分はあまり人と喋るのが得意ではない。人と会話しないといけない時は、単なる雑談でさえ、そのシミュレーションをしてから参加してしまう。それでも失敗ばかりである。会話の後に反省会をすることは、もはやライフワークだ。ただ、人と会話するのが決して嫌いではないし、むしろ人が何を考えているのかにとても興味がある。小説ならば、いくらでも時間をかけて会話をすることができる。これはとても心地よいものだった。
こんなところだろうか。良い結果が出ればいいな。
医療崩壊があるから、検査数を絞るっていうのはいいんですけど、
それなら感染者数に関してはまったく意味ない(結果的に検査している)から、
結局、急激に重症化して、肺炎で亡くなった場合は肺炎で処理されるって聞くと、
もはや死亡者数も参考にならない。
今後の検証もできない。
価値の低い感染者数の増加の報道で、むやみに不安を感じさせる。
確かに統計の上では、インフルエンザの20倍の脅威というのは知ってるんだけど
新型インフルの時も初めは死亡率14%だったろ。結果的に1%に落ち着き、まず日本も海外も、母数が正確に把握できてない。
そして感染者も主に院内感染等、「弱い人」に集中してる。若い人の0.2%も、過大評価に過ぎない。
ダイヤモンドプリンセスでは「高齢者が異常に多く・船内は密接しており、医療体制も悪い」という最悪の状況だったわけで
毒性が強くならない限り「死亡率1.4%、重症率2.9%」の数値を超える事は、医療崩壊が起きない限り無い。医療崩壊の場合は死亡率が上がるだけ。
ダイヤモンドプリンセスを日本の年齢ピラミッドに置き換えれば、おそらくその数値はインフルエンザと同程度か少し上に落ち着く。
ちなみに2009年の新型インフルは、収束時点で死亡率1.28%。5-9歳児の呼吸器使用率は2.5%程だった。
インフルエンザと違うことが在るとすれば、「新型インフルエンザは子供に感染するが、コロナは大人・老人に感染する」だけ。
子供への感染は驚くべき低さを保っている。そして肺炎に関して、若い人間は回復しやすいが、老人は回復しにくい。
つまるところ、インフルエンザと似たような脅威だが、高齢化によって「高齢化社会には怖い病」となり、
SNSの発達によって批判が集まることを恐れ、各国の首脳は過度に反応し、SNSでも脅威論が伸びやすい為、みなこぞって投稿するようになり、「凄く怖い病」として宣伝されるようになった。
私は私のことで精一杯で、他人のことにそんなに一生懸命にはなれないんだよ
だからあなたの意見を受け入れる余裕がある時でもあなたの感情までは受け入れられる容量がないんだよ
だから私は「この人怒ってるな」と思った時点でその意見は見ない、聞かない様にしている(しているというか結果的にそうなってる)あなたが正しいのか間違ってるなんて判断まで行き着かない
怒るな、なんてこのご時世言えないのはわかってるし、この状況に怒りが溜まるのも分かるけど、それは私にはぶつけないで欲しい
多分あなたの怒りまで受け入れられる心の容量の大きな人はいっぱいいるから、その人たちには期待してもいいかもしれないけど、私には怒っているあなたの話す内容まで把握出来ないから、勘弁して欲しい
てのをはじめは自分のアカウントのブログに書こうとしたけどビビって匿名にしちゃった、「私にぶつけないで」の私って誰だよって感じだけど、まあ同じような精神状態の人はいっぱいいるだろうし良いか
書いてることがトーンポリシングなのは承知してるけど、別に「意見が自分にとって都合悪いから言い方の問題にすり替えてる」訳ではないことは理解して欲しい、自分と同じような政治的主張してる人でも怒ってる人は怒ってるっていうその事実だけでしんどくなっちゃうんだよ
変わりにリモートワーク手当てでもあるのかというとそんなことはない。
家で仕事するぶんかかる細かな経費みたいなもんあるのになあ。しょっぱい。
一応、出勤する必要がある場合は実費で出るみたいだけど、「定期代と比較して低いほう」みたいだから結果的に高くついたらどうすんだろうね。自腹かな?
しょっぱい。
これについて、ワイドショー等で多くの人が無責任な批判をしているわけだが、あからさまなポジショントークが多すぎて辟易する。
東京都としては、効果を最大限にするためには複数の施策を同時に打つことによって、短期間で感染者数を減らした方が長期的に見たら経済的にもプラスである、緩い要請をダラダラと長く続けるのが一番悪いのだ、という考え方だと思う。
一方国としては、一気に休業要請まで行くと経済が大きな打撃を受け大変な事になる。様子を見ながら徐々に手を打っていけば良い。目的は医療崩壊を防ぐ事だから医療崩壊しない程度に感染拡大を防げれば良い、という考え方のように思う。
これは、現状では、どちらが正しくてどちらが間違っているかは誰にも分からない。
まあ、結果が出てそれを確認してから、鬼の首を取ったように批判する人がたくさん出てくるのだろうが。
この2つは欧米型と日本型とも言え、どちらが正解かは今のところまだ結論が出ていない。
小池さんの味方をするとすれば、FRBとMITの研究者3人が3月26日に発表したスペイン風邪の米国内での状況を題材にした論文だ。それによると、「より早期に、より踏み込んで当局が市民生活に介入した都市では結果的に経済は悪化せず、むしろ流行終息後には流行前に比べ経済は拡大する」という結論に達したとある。
安部さんの味方をするなら、スペイン風邪が流行した時代と現代では社会状況が大きく変わっており、そのままスペイン風邪への対応を参考には出来ない、と言ったところか。
さらに、より厳しい施策を打ったところで感染をゼロにする事は出来ず、どっちにしろワクチンが出来るまでの長期戦になるのだから経済を締め付ける施策は可能な限り避けた方が良い、となる。
どちらを選択するのが良いのか、タイムマシンでも無い限り正解は分からない。
ワイドショーの司会者というのは、元芸人とか元俳優とか嫁の浮気を弟子のせいにしてキレる落語家とか、中途半端なタレントのたまり場だ。
視聴率と自分のタレント価値を上げることを最優先にしている人達だ。
そして、橋下徹が「小遣い稼ぎのコメンテーター」と馬鹿にしたように、ワイドショーのコメンテーターというのは言いっぱなしで一切の責任を取らない人達だ。
玉川徹は朝日新聞グループの社員として正しく反安部になり、政府の政策は全て否定する。
安倍政権と対立しているならそれは全て善となる。敵の敵は味方的な。
田崎史郎は表向きは政治評論家と名乗っているが、実情は官邸の広報担当者だ。
政府が正しいことをしているのに目立ちたがり屋の小池が邪魔をしている、悪いのは小池なのだ、と政府の政策を全力で擁護する。
在宅勤務になって昼食をとりながらワイドショーを見る人も増えていると思うが、ハッキリ言って時間の無駄。
結果的にそうなってるね。
はてながまたしても改悪をして、はてブの黄色スターを表示させなくなった。一部カテゴリだけだが。
https://bookmark.hatenastaff.com/entry/2020/03/31/180820
そのせいで、困ったことになった。有力な情報を得ることが難しくなったのだ。
現状では、(はてブで)有力な情報を得るには、「人気のコメント」を見るしかない。しかし、ここで表示されるのは、初期に人気になったコメントだけだ。最近になって上がったコメントは、まだ星が三つぐらいしか付いていないので、表示されない。また、表示されるのはトップの 10件ぐらいであって、それに次ぐ重要性のコメントは表示されない。
こうなると、あとは全部のコメントを一つ一つシラミつぶしに見ていくしかない。しかし、そんなことをしたら、すごく時間がかかるので、いちいちやることはできない。結果的には、重要なコメントを見るのを諦めるしかない。
※ はてブを見ている滞留時間も減少することになるので、はてな(株)という会社にとっても損になる。
以前では、そうではなかった。星が三つぐらい付いている最新のコメントだけを拾い上げて読むことができた。また、星が 10個以上も付いているコメントだけを拾い上げて読むことで、11位~20位ぐらいの有力コメントを見ることもできた。とても便利だった。
※ はてブを見ている滞留時間も多くなっていたので、はてな(株)という会社にとっても得になっていた。
現状の「黄色スターの表示なし」というのは、はてブというシステムそのもの自殺行為であるにすぎない。「いいね」をなくした、フェイスブックやツイッターみたいなものだ。SNS としての魅力を大きく損なっている。
はてなは、これまでたびたびユーザーインターフェースの改悪をやって来たが、今回の改悪は最悪のものであって、ほとんど「はてブとしての独自性の喪失」を意味する、自殺行為だとしか思えない。アポトーシスか。頭がコロナに感染したのか。
現在、コロナに関する情報を、はてブ経由で仕入れようとしているのだが、大幅に不便になったせいで、情報取得に支障をきたしている。まったく、困ったことだ。はてブは、コロナ拡大の一助として、ユーザーインターフェースの改悪をやってしまったようだ。
※ 最近になって、私の環境では、黄色いスターを付けることもできなくなってしまった。バグだね。
【 追記 】
別件で、次の項目もある。 http://bit.ly/2ugJWDm
【 後日記 】
元に戻りました。4月14日。
正月・ハッピーニューイヤーソングはそれなりにあるが、ポップスのテーマとしてはダサいのであまり出てこない印象
いちばん冬っぽいので冬ソングの舞台にはなってそうなのだが、わざわざ二月であることに言及しないので結果的には雑魚ということになってしまう
年度末ということで卒業とかそういう転機が多いのでかなり良く歌われる 3月9日もそうだし、卒業ソング系は全部三月の傘下 屈指の強さと言ってよかろう
新生活の始まる月だし春の代表なのでかなり強い 大量の桜ソングは全部四月所属と思うと最強候補の一角か
いい季節だが、特徴に乏しいので微妙
イベントも鯉のぼりとかでダサいので振るわない 五月雨は字面的には五月だが実際指してるのは六月なので難しいところ
嫌な季節だが梅雨ソングは意外なことにかなりある かなり詩情のある花であるあじさいを味方につけているのも大きく、結構な実力者といえよう
とはいえ夏休みという分かりやすさがない分八月には一歩及ばずか
夏休みソングがかなりあるし、純粋な夏ソングもこの辺を意識して書かれてることが多い印象 八月というだけでエモくなるので歌詞の中で言及されることも多く、もしかすると最強の月かもしれない
いい季節だし夏の終わりという一大テーマを持っているものの、なみいる列強にはさすがに及ばない印象 しかしいぶし銀!
それなりのテーマの広さを持つ月だが、わざわざ言及されることは少ないこともあって印象は薄い
最弱候補 秋でも冬でもない半端さとイベントのなさが相まって歌にされる要素がゼロ はっぴいえんどに救われている
年末とクリスマスを併せ持つ最強月候補 12月24日はおそらく最もポップスで名指しされることが多い一日であり、それを持っている時点でその実力は計り知れない
ぜーーーったい、伝えた方がいいよ!
わたし逆の立場だったけど(相手の身内に軽い障害を持ったひとがいる)、はっきりいって相手を見る目が変わった。(まぁその見る目変わった方が彼の本当の姿だったんだけど)
わたしは、彼の親族がまさか話してないと思わず、雑談でわたしの親族に話す→わたしの親族もわたしがまさか聞いてないとは思わずわたしに話す(好意的に)、ときてはじめて知って、本当にショックだった。
いや、それでもし話が壊れたら……って臆病になるのはわかるよ?でもそれは裏を返せば、壊れるかもしれないほど重大な件だと自分では考えてるくせに、なんで話さないの?相手のこと大切じゃないの?
自分ではさして重大じゃないと考えてて言い忘れてたとかならぜんぜん構わない。たとえもしそれがわたしにとっては重大な瑕疵だったしても。相手の誠実さはかわりないから。
でも、重大だと考えてるのに言わないってのは、本当に、相手のこと1ミリも考えてないから。不誠実きわまりないから。
わたしの場合は、わたしその身内のひとのことぜんぜん悪く思わないしそのこと自体は何一つ問題じゃない。
隠して黙って結婚しようとしてたことが、何よりも大きな問題なわけ。
で、それでもその相手と結婚して、その後10年以上幸せに暮らしてるけど、結果的に、彼の隠蔽体質は彼の本質でした。いい人なんだけどね。わたしにどう思われるか気にしすぎて重要なことを隠すタイプ。
あなたも、そうならないように。
ただまぁ、それでもうちの家庭は幸せに仲良しで過ごしているので。今まで書いたことと真逆のこと言うけど、相手の人間性と自分のその他の美徳に自信があるなら、話さないまま結婚してもやっていけるかもです。分が悪いけどそれに掛けて今回は逃げるのも、あなたの人生です。