はてなキーワード: 再確認とは
何かソースを出せという人が多かったから出す。あと本旨があまり理解されてないっぽいのでそれも再確認する。
前の文の下に繋げようとしたらできなかった(長すぎたのかな?)ので、トラバの方にぶら下げることにする。
フィンランドの鉄道については、元増田が引用したソースの下の方で
"Most stations are accessible." (ほとんどの駅はアクセシブルです)と書いてある通り。
accessibleとは直訳すれば"アクセスできる"という意味で、バリアフリーの文脈では障害等に関わらず利用可能な状態であることを指す。
ノルウェーの鉄道の場合、ありがたいことにノルウェー国鉄の全駅の情報が見れる。→https://www.banenor.no/en/startpage1/Search-for-stations/
ここにリストアップされている全336駅中、"Wheelchair access to platform"が無いのは34駅(有っても不完全な駅も含む。完全に無い駅に限ると23駅)。
Vakås駅のページにはアクセスできなかったので、23~34/335=約7~10%の駅が車椅子利用者にとって"not accessible"と言える。
これはド田舎まで含めたノルウェー全土の数値なので、ほとんどの駅でアクセシブルと言ってもいいだろう。「90%程度では"ほとんど"なんて言えない」と言う人は、まあ私と感覚が合わなかったということで一つ。
スウェーデンのほぼ全ての駅に関する情報はhttps://www.dinstation.comで提供されている。
掲載されている124駅のうち、アクセシビリティの情報が書いてあるのは97駅、そのうち車椅子でアクセスできないエントランスがあるのは12駅。
約12%の駅(情報なしは除外して12/97)が車椅子ユーザーにとって"not accessible"である。ただし仮に情報が無い駅を全部"not accessible"とカウントした場合、それは約31%(="accessible"な駅は69%だけ)になるため"ほとんどの駅でaccessible"という私の見解が揺らぐことを、公平のために記しておく。
地下鉄はエレベーター完備。列車の乗降口はプラットフォームと無段差。追加の支援が必要な場合は列車やプラットフォームにある呼び出しボタンが使える。→https://dinoffentligetransport.dk/en/customer-service/rules-and-guidelines/disability-access-conditions/
Lokaltog(地方鉄道の総括,123駅)についてはhttps://www.lokaltog.dk/kunde/handicaphjaelp/に書いてある。これは追記前にも言及済み。
曰く"Du kan som kørestolsbruger, spontant rejse med toget på alle Lokaltogs strækninger uden at aftale nærmere med Lokaltog på forhånd. På de stationer, hvor tog og perron ikke er i niveau, vil togets lokomotivfører lægge en rampe ud./車椅子利用者は、すべてのLokaltogで自由に事前連絡なしで旅行出来ます。もしプラットフォームと電車の乗降口に段差がある場合、車掌がスロープを設置します。"
ただし、Østbanen(デンマークの地方鉄道)のLille Syd線ではGadstrup、Havdrup、Lille Skensved、Ølbyの4駅についてはlevel-freeではないため、ここを利用したいなら事前(利用12時間前)にハンディキャップサービスに連絡が必要。そうした場合、最寄りのlevel-freeな駅まで送ってもらえる。
DSB(デンマーク国鉄)の駅に関する情報はhttps://www.dsb.dk/kundeservice/stationer/でみられる。
ここではアクセシビリティとして階段とエレベーターの有無が見られる。
リストされている317駅で"階段はあるがエレベーターが無い"駅は30である。またどちらもある駅が129、どちらもない駅(=平屋建て)が156。
ノルウェーと同様、9割以上の駅が"accessible"である。
「どちらもない駅がバリアフリーとは限らないじゃないか。階段がないだけで段差だらけかもしれないだろう」という意見もあるかもしれない。
このリストにはLokaltogの利用駅も含まれており、それらがlevel-freeと見做されている以上、他の駅もそうだろうと考えるのが自然と私は考えた。
ただGadstrup、Havdrup、Lille Skensvedの3駅はLokaltogのサイトで言ってる通り階段ありエレベーター無しだが、Ølbyは両方あることになってる。同名の別駅か、最近改修されたのか、情報が間違っているのか。
氏の紹介した例は要予約のサービスであり、別に予約しなくとも駅は使える。
車椅子ユーザーにとって"not accessible"でありかつその支援サービスが提供されている駅でのみ発生する事態なのだが、"not accessible"な駅自体が少ないことはこの追記で述べた通り。
なお駅が"not accessible"で支援サービスもない場合は諦めよう。駅員さんが賃金外労働で助けてくれたりはしないぞ。
これには特にソースを出さずに言ったため、疑問に思った人が多かったようだ。なので追記で根拠とソースを出した。私としてはこれで十分と思うが如何に。
(1)と若干被ってるか。事前連絡が必要なケースは北欧の方が日本より少ないのは確かだが、無いわけじゃない。(あと必須じゃないがした方が得なので自発的に連絡する人は多い。)
なので"伊是名女史のケースは北欧でも事前連絡が必要なケースに該当するかもしれない。"と書いた通り、「北欧なら伊是名女史は連絡なしで乗れたのに!日本は遅れてる!」という意見があるとすればあまり正しくない。
仮に伊是名女史がノルウェーのVieren駅(https://www.banenor.no/en/Railway/Search-for-stations/-V-/Vieren/)に行っても列車に乗るのは不可能だっただろう。この駅なら事前連絡しても無理だろうけど。
北欧ではどうやってエレベーターとかきっちりつけてんの?金もつん?という疑問が見受けられた。その疑問に一部答えよう。
バリアフリー化が法律で義務付けられてて、駅や列車の新築/新造や改修時に基準に沿ってないと許可が下りない。
福祉国家故か高い税金分ジャブジャブ注ぎ込む。スウェーデンなんかは何年か前に250億くらい突っ込んでた気がする。
あと平屋建てが多い。エレベーターとかなくともちょっとスロープ付けるだけでなんとかなる。
ぶっちゃけるとド田舎ではプラットフォームが線路の脇を舗装/草刈りしただけとかもままあるため、特になんもしなくても車椅子で行けたり、手作りや既製品のスロープがポンと置いてあるだけなんてことも多い。
一方でそういう駅ではプラットホームと列車の間の段差はそのままだったりする。
当たり前っちゃ当たり前だけど女性向けエッセイ漫画なんてほとんどの男性は見ないよ
理解のある彼くんの話がちょくちょく出てくるのはそれこそ増田とかだよ
「私はコミュ障喪女だ」と言っていかに自分が社会に溶け込めなかったか自分語りを始めるのに、なぜか途中で元カレが登場したり、今は結婚してますがとか言ったりするケースが頻出したので
「やっぱ男女では全く感覚違うんだな」ということになった
その後誰かの漫画がバズったのかどうかしらんけど、そうだとしても「やっぱり他の女性もそうなんだな」と再確認する材料になっただけだろう
まさかその自分を喪女だと思ってた増田たちはみんなハイスペックだったというわけ?本人の独白以外に判断材料ないけど
ダラダラと書き連ねますのでお時間があり且つ読み終えてからクレームなどはお控えくださると幸いです。
「生きるのが向いてない」という言葉が浮かび検索をする。これは小学生時代と高校2年とかそんな時期にも浮かんできたワード。再来している現状。
20代後半の社会不適合者でバイトを続けていた女がようやっと正社員になって1年目を迎える手前で鬱になりました。理由はある程度分かっていて冬場の繁忙期による激務に加えて本社の今やる必要ないですよね?案件、定時に帰れるのが少ない日々、などなど。そしてデカかったのはそれらのタイミングで休職者が出たことだった。新卒の女の子。私の仕事のモチベーションであった。
「そりゃそうなる」って気持ちと「他のみんなは頑張ってるのに私がこんな1人で苦しんでるなんておかしい。私の頑張りが足りないからだ」という気持ちでぐちゃぐちゃになっているにも関わらず、まだ耐えられるしもう親に迷惑かけたくないと思いながら仕事してたらいつのまにか仕事に出れない日が何日もできたり、仕事中トイレから出られなくなったりした。
そして見かねた優しい上司から休もう!と声をかけてくれて1ヶ月という名の本社の不手際かはよくわからないが伸びに伸びて2ヶ月の休職をする流れとなり今は短時間の勤務で復職して書き出しの文章へと至る。
つまり短時間勤務であれまともな復職が叶ってない。家から出られずご迷惑をおかけしてる自覚を持ちながら今現在自宅のトイレで下痢と胃の熱さに苦しめられながら奏でられる腹鳴と共にこの文章を書いている。もう2時間ぐらい真っ暗闇のトイレの中、スマホで書いてる。汚いとか言わないでください。もう切実だしちゃんとスマホもアルコール消毒します。
話が少し逸れるが私の仕事へのモチベーションが保てていたのは職場関係が比較的良好なのも勿論だが一番は同期と新卒ちゃんにあった。
ほわほわとしている年上の同期、控えめでおどおどしながらも頑張る可愛い年下の新卒ちゃん。この2人のおかげで慣れない仕事も辛いことも比較的ニコニコしながら業務できていた。しかし同期は勤務開始後すぐに人手不足の場所に異動。そして復職した現在、休職していた新卒は辞めていた。
話は戻り、最初に書いた文章を覚えていればわかるかと思うんですが鬱はもう何度も落ち着いては再発経験しているわけで「ええ歳こいてお前はなんやねん」っていう気持ちから逃げられない。理由は経験した人ならばよくわかると思います。わかって欲しい。
心療内科に現在通院し「調子はどうですか?」と聞かれたら今は「食事をする気力がない」「風呂にまともに入れない」としか言えない。なんならここ数週間ゴミ捨てにも行けてない。
先日に簡単で比較的栄養も取れるであろう食事を確立したので食事についてはまぁなんとかなったがそれでも面倒になる時だってある。昨日はなんとかなってたが今がそれ。毎日ちゃんと1日2食とか3食を食べれる人は普通に凄いし偉い。あれだけ好きだった食事が今や「人間はなんで食事がいるんだよアホンダラ」である。人は変わりますね。風呂についてはもう小学生時代からの恐らく鬱であった時期からよくあることで再び再発しているので目も当てられない。風呂が一番ネック。
掻い摘んでお話ししたこれらを聞いて先生も頭を抱えてらした。そりゃそうだ。復職してすぐこれで良いわけあるかいって気持ちだろう。客観視し、他人事のように心中お察ししながらも本社からは「1ヶ月で復職不可能であれば自然退職」と勧告されていた訳で戻らない理由がない。戻りたくないけど転職する気力すら無いのだから。
趣味のために働がなければならないのもそうであり、仕事を辞められないのもある。趣味はあります。「趣味だけはできる」と言うあれです。かと言いつつもできる日できない日はあるので「趣味だけはできる」に当てはまってるのか?みたいなところはある。でもやれば胃の不快感も食べたくないご飯も忘れられるしずっとやり続けるので恐らくこれだけが本当の趣味だけはできるであり、唯一の逃避なんだろなって思います。オンラインゲームとソシャゲなのでこれからもお金はいるし働かないとな…と思いつつも戻れないのだからいつか趣味も消えて無くなりそう。過去にもそれがあり趣味が全て消えた時期があったのでなんとなく予感がする。
実家の話をします。実家との仲は比較的良好、他の家から見れば完璧なのではないかと。実際、休職中は実家で生活していました。
なので別に帰れない訳ではないのだがなんせ私が長女であり、兄弟たちもまた社会に生きることに向いてない子たち。
実家は田舎、私は軽度発達の診断を受けたことも原因にあるからなのかはわからないが車の運転が路上に変わった瞬間地獄に早変わりし、それらの出来事への職員からの態度や発言に対して鬱になりやめたので田舎生活で1人になった時にまともな生活を送ることが叶わなく、そして親にこれ以上の迷惑かけたくない上に父親と娘の間には仲の良さはあるが少しばかりのズレがある。どちらかと言うと父親とのその少しのズレに酷く問題に感じている。
父親はいわゆるアスペルガーという診断を過去に受けたそうだ。まぁなんとなくわかるし「娘の私もそういうとこあるのかね」ってぼんやりと思っていた時期があった。でも蓋を開けると私はむしろHSPの傾向があって「そりゃアスペルガーとHSPの2人は高確率で分かり合えないのでは!?」と答えを比較的最近たどり着いてしまったわけです。少し調べたらマジでそういうわかりあえない部分はあるようですね。心配されつつも無自覚で何かを言われて落ち込むのが目に見えて帰れない。気を揉んでいる。
立ち直って立ち直ってを繰り返してるのに今立ち直り方がわからない。いい歳した女が何いうとんねんである。本当にそう。けれども軽度だからとか相手がアスペルガーだからと人のせいにする前に出来る部分を我が身を振り直せである。治し方どころか押さえ方も20年近く生きて何もわからないのに?どうしたらいいんだろうか。
「見合いでもする?」と心配と冗談まじりにも親に言われたこともある。他者へ頼れたり仲良くなれたらこんな気持ちも抑えられるのかなとも思うのは小学生の頃から続いていて、思うけど人を不快にする言葉を父親のようにするっと吐いてる気がして長年付き合ってくれてる親友としか関係性を続けられない。しかも弱音はあまり見せたくないし「みんな頑張ってるから」と静かにしている。ツイッターなんかは結構吐いているので本末転倒すぎて今誰もいないところで書くようにしているが。
こんなんで見合い結婚して子供なんて産めばそれこそ私も子供も自殺まっしぐらだろなって思った。それはとてもとても悲しい。そもそも特定の他人と生き続けるとかセックスだとか何やら全部が怖いし煩わしいので前提から無理です。許して欲しい。
やはり生きるのを辞めたい。やめられないものを抱えているつもりで実の所抱えてないのではないのかという気持ちがあったけど「でも死んだらテレビに出ちゃう要因が割とあるし急な話で友達にショック与えたくないなぁ…」「親に電話入った時どんな反応されるんだろな」みたいなことになるのでちゃんと抱えてるんだなと噛み締めたのでなんとか耐えてる。かといってこないだ久々にタオルで首を力を込めて泣きながら締め上げて気持ちを落ち着かせたのでもうどうしようも無い。
全てが楽にならなくてもいいけどせめて忙しさに息苦しくて呼吸できなくて倒れそうだとか腹鳴だとか胃が熱いだとかキリキリ痛むだとか下痢だとかそういうのがなくなって欲しい。薬を試してもこのぐらいなら許容できるレベルに症状が抑えられずにもいる。好きなものもかなぐり捨てても辛くならずに他者や身内にも迷惑をかけずに世間が考える健全な終わりが早く来ないものかと今か今かと待ち続けている。
ここまでダラダラと書いた頑張って推敲しつつもヘタクソな文章を読んでくださった方、ありがとうございました。同じ気持ちで生きてらっしゃる方にはここに同じ人間もいると安心してもらえたら幸いです。また「私よりもマシだし救いがあるじゃないか!」と思われた方にはその幸せが備わっていたとしても苦しんでる人間が存在してしまうと心の内に留めていただければと思います。
ブコメで自分の心情を整理して吐露したり、極端な意見には「弱者男性の代表みたいな態度してそんなことは書かないでくれ」と異議申し立てをしたりと、色々と頑張って建設的な話に持ってこうと頑張っているのだが、すぐに疲れてしまう。
当事者として「弱者男性」論を語るとき、自分がKKO(キモくて金のないおっさん)であることを再確認しなければならないし、現状から考えて自分の人生が惨めな結果に終わる可能性が高いであろうことを受け止めなければならない。
自分が生存している意義の無さを再確認する作業は、自傷に近い行為だ。
極端な言葉が飛び交う中、押し黙ってしまった人も多いのだろうな……と思う。
僕も黙ってしまおうかと思う時がある。
でも、黙ってしまっては、人と人との対立を煽るだけの極端な言論だけが残ってしまうだろう。
それだけはどうにも嫌で……もう少し書こうかなと……もう少しだけ頑張ろうかなと、そう思う。
[※1]について
あくまでこれは事実を再確認するという目的であって、今更呉座氏を非難するつもりではない。しかし例えば與那覇氏は本件について実証的に書くべきだとしており私もやむなく自身の事実認識はこういったものだと説明するところである。
フェミ垢の人、誰も聞いてないのに「私はブスじゃありませんから!ブスだからって抗議してるわけじゃないですから!人から可愛いとか言われることも多いけどそれも嫌なんです!」とわざわざ言ってくるよね。ブスで悪いか。ブス差別すんなよ(-_-)
これに対して呉座氏はこのように反応した。
さえぼう氏の悪口はやめて
ところで、元ツイート主はフェミニストが“ブス”を排除していると批判する趣旨であり容姿批判ではないと主張している。しかし、この説明はあまり意味をなさない。呉座氏は元ツイート主とは別人格でありこの元ツイートをどう捉えたかが重要だからだ。では、実際に入れ替えて読んでみよう。
さえぼう氏、誰も聞いてないのに「私はブスじゃありませんから!ブスだからって抗議してるわけじゃないですから!人から可愛いとか言われることも多いけどそれも嫌なんです!」とわざわざ言ってくるよね。ブスで悪いか。ブス差別すんなよ(-_-)
正直これだと容姿批判をしてるようにも見えなくもない。というのも、「フェミニストはブスばかり。そのひがみでフェミニズムに逃げている」という揶揄は伝統的なものなので、その文脈にのっとれば「ブスの癖にブスだと否定して結果ルッキズムに嵌っている様子」を揶揄しているのだと認識されかねないのである。例えば北村氏の2014年の発言を見てみよう。
前も言ったけど、「フェミはどうせ皆ブスだ」っていうのは誰も反論できないという点で非常に卑劣ないちゃもんなんだよ。だって分別のあるまともな大人なら「そんなことはない。私は美人でフェミだ!」とか言ってこないだろ。
また、北村氏はフェミニズムについて「可愛くな」い「私たちみたいな女の子」のためにあると考えていたと吐露している。
私、子どもの頃から理屈っぽいとか性格がキツイとかばっかり言われていたし、なんかやたら太ってて可愛くなかったので、小さい頃から可愛くて愛嬌があって才能溢れてた女の子たちとは縁遠かったです。20歳くらいまでは、フェミニズムは私たちみたいな女の子のためにあると思っていました(続)
さて、例の元ツイートを引用して「さえぼう氏の悪口はやめてください」と書いた呉座氏だが直接元ツイートにリプもしている。
反フェミは「俺はモテる。モテない男のひがみじゃない」とは言わないので、これは本当に非対称。ルッキズムや旧来のジェンダー観に囚われているのはどちらか。
後半を重視すれば元ツイート主の釈明通りの解釈になり、前半を考慮すると容姿の揶揄を含む文脈の発言だったのではないかという気がしないでもない。
しかし、本当に問題なのは容姿の揶揄ではなかったとしても逃げ場がないことだ。「可愛くて愛嬌があって才能溢れてた女の子たちとは縁遠かった」という自己認識で「分別のあるまともな大人なら『そんなことはない。私は美人でフェミだ!』とか言ってこない」と発言している北村氏を「誰も聞いてないのに『私はブスじゃありませんから!ブスだからって抗議してるわけじゃないですから!人から可愛いとか言われることも多いけどそれも嫌なんです』」とわざわざ言ってくる」人間だという風聞を流したことになるのである。これは大変なことだと思うよ。
今回も引き続き、雑誌『映画秘宝』の中に蔓延っていた「ボンクラと云う『甘え』」について考えてみます。このような風潮が同誌の内部に醸成された一因として、町山智浩や高橋ヨシキらが「恵まれた境遇に生まれ育った/生きている」ことの影響を考えてみる必要が有ると思います。
と言うのも、恵まれた境遇で生まれ育った/生きている人間にとっては「生きるか死ぬか」と云う状況や「生き延びる為には泥水をも啜る」と云う覚悟は、所詮「他人事」であり、だからこそ彼らは身勝手なまでに好き放題できたのです。
これまでの投稿で私は「雑誌『映画秘宝』内部では一部の人間により業務の『私物化』が起きていたのではないか」と云う仮説を述べました。そして、この仮説に符合するような動きが『映画秘宝』最新号に見られました。
それは、同誌にアニメ作品の特集記事が掲載されたことです。この動きは「高橋ヨシキらが居なくなった『途端に』」と言えます。そこに私は「新体制となった『映画秘宝』編集部から、読者を始めとする外部の人間に向けてのメッセージ」が込められていると考えています。
そのメッセージとは何でしょうか?
私はそれを「これまでの『映画秘宝』では高橋ヨシキら『切り株作品好きの派閥』の一存で、アニメ作品などの特定ジャンルに関しては肯定的に取り上げないように抑圧されていたが、これからの本誌は変に気兼ねすること無く幅広いジャンルにも目を向けるように努めて変革する」と解釈しています。
仮にこの解釈が正しいならば、映画を紹介・批評するメディアとして実に「まっとうな態度」と言えるでしょう。
投稿(13)でも述べましたが、雑誌『映画秘宝』が生き延びるには、読者層を拡大することが避けて通れない課題でした。仮にアニメ作品を取り上げても、それが正しい戦略か否か、直ぐに読者層の拡大と獲得に繋がるのか否かは未知数です。しかし少なくとも、従来の『映画秘宝』が好んだ、自分たちと異なる趣味や嗜好を排斥するような閉鎖的で排他的な態度を、反省して改めていくという「ポジティブな可能性」を感じさせるものであることは確かです。
路線を模索して読者層の拡大を図り、それにより雑誌の生き残りに努める姿勢を打ち出した新体制『映画秘宝』の姿は、過去の同誌を主導していた『切り株派』よりもよっぽど「生きることに真剣かつ必死である」ように私には見えます。謂わば「生きる為の切実さ」を感じます。
これとは対照的に「読者の拡大なんぞ知ったことか!」「アニメが好きな奴らに読んで欲しくなんざ無えよ!」と云う強気な態度を取り続けてきたのが、高橋ヨシキら『切り株派』に主導権を握られていた従来の『映画秘宝』でした。
おそらく、彼らにとっては「『たかが』雑誌の生き残りの為に、女やアニメ好きに媚びる必要は無えよ!『そんな』事をするぐらいなら潰れた/死んだ方がマシだ!」と思えたのではないでしょうか。
この「思えた」「できた」と云うのが重要な点で、これは「そうすることが『できる』と云う『可能』」を表す物言いです。こんなことを「思える」上に「実行できる」のは、それをできる「余裕」が有るからです。
人は「食べるための苦労」をせずに済む「恵まれた境遇」なればこそ、「生き残る為に泥水を啜るなんて、みっともない真似するか!」と云う態度も取れるのです。
町山智浩と高橋ヨシキが早稲田大学出身者であることは、ファンやウォッチャーにはよく知られた話です。入学金や授業料が高額な有名私立大学に通うことが可能であった、こんな「お坊ちゃんたち」に、生きる為に泥水をも啜るような覚悟が生まれるでしょうか?もちろん「否」です。
そうです。彼らの本質は、何処かの首相の息子と同じく「お気楽な身分のお坊ちゃんたち」なのです。
ちなみに高橋ヨシキは、英語とフランス語がペラペラらしいですね。これは素直に凄いと思いますよ。しかし、そんな彼が非・都市部居住者や非・富裕層をあからさまに侮蔑する姿を見る度に、私は赤塚不二夫の漫画の登場人物であるイヤミを連想しつつ「やっぱり外国語能力と人間性の間には関係が無いんだなあ」と再確認する次第です。
柳下毅一郎は東大出身者ですが、柳下のファンやウォッチャーからは「翻訳・文筆の仕事だけで食えているのか?」「食う心配をしなくて良いぐらいに実家が太いんじゃないの?」と言われている様子です。少なくとも「爪に火をともして暮らしている」とか「糊口をしのいでいる」といったイメージは抱かれていない様子です。まあ、浮世離れした人間でなければ、海外のシリアル・キラー事情に詳しい特殊翻訳家稼業とか無理でしょう。
てらさわホークは…私はよく知りません。
恫喝DM事件以降に露呈した『映画秘宝』内部の対立に於いて高橋ヨシキの側に立つ『切り株派』ライター人脈を見ると「普段は会社員をやってます」的な人間が目立ちます。これは「食い扶持に悩まなくて済むから『映画秘宝』の売り上げも気にせずに済む」と云う条件にも当て嵌まるように思えます。
もっとも、この人たちの場合、自分で働いて身を立てているのですから、決して「お気楽な身分のお坊ちゃん」ではありません。少なくとも、奥様の稼ぎに助けられつつTwitter芸人としての活動に日夜勤しんでいる、何処かの誰かさんとは雲泥の違いです。
しかし、切り株派の「お気楽な身分」とは、結局のところ「他人に負担を押し付ける」ことで成り立っていたに過ぎません。彼らが好き勝手にしていた分の尻拭いを負担していたのが、他ならぬ洋泉社です。洋泉社としては雑誌の刊行を「商売」として成立させたかったのに、それを雑誌の作り手たち自身が「私物化」することで台無しにしていたのです。そう考えれば、休刊から復活を遂げた『映画秘宝』が、町山智浩らの古巣である宝島社に拾われなかったのも容易に理解できるでしょう。
泥水を啜る覚悟も持たず、負担は他人に押し付ける。このような姿勢については、まだまだ話を展開できそうですが、また長くなりました。
時々ふと思い出す、数年前に死んだ愛猫のこと。思い出すたびに胸の底が冷たくなる。
先に書いておくが、飼い主としてとかではない。私は猫は好きだけど飼い猫にイマイチ愛情を持てなくて、他の家族が可愛がっているのを遠目に見ているくらいだ。
数年前に死んだ猫は私が小学低学年の頃に母が知り合いからもらってきた猫で、大柄で毛が長くて臆病な子だった。
先住猫が既に1匹いたが、結局最後まで仲良くはなれなかった。
若い頃から晩年まであんまり活発的に動くこともなく"ネコ"の名に相応しいくらい寝てばっかりだったし、そのくせ食い意地だけは張っていて、人が何かを食べていると結構な確率で起きてくる。あと人馴れもしなかったんだけど、亡くなる少し前には何故かとても人懐こい猫になっていた。
私は飼い猫が嫌いってわけではなったけど、他の家族が飼い猫のことをずっと可愛がっていたから、ほっといても誰かがやってくれるし世話もしなくて良いや〜っと思っていた。事実、母が頻繁に餌をやっていたし、父は凄く凄く溺愛していた(+トイレ掃除)し、妹は散歩に連れて行ってあげていたので、私の出番は殆ど無い。別にやりたいというわけでもないので、特に何も気にすることはなかった。
飼い猫が亡くなる数ヶ月前、家族で行った買い物先から帰ったところ、キッチンの床に血が付いていた。みんなビックリして何の血かと探したら、飼い猫の口周りに血が付いていた。痛そうにしてるとか怪我してるとかもなくて、本当にいつも通り座っていたものだから「鳥とか生肉とかでも食べた?」と考えたりもした。
次の日に大事な親戚の集まりがあって、どうしても欠席は出来なかった。まー普通にしてるし、大丈夫でしょ。みたいな雰囲気になったけど、私は心配で仕方なかったので、飼い猫を壊れかけのキャリーケースに詰めて、検索して出てきた遠くの夜間病院まで行った。
もう終電間際だったから途中で電車が無くなったので、深夜の住宅街をひたすらに歩いてやっと着いた病院。結果は何にも無かったんだけど、何かあったらいけないからということで獣医さんが紹介状を書いてくれた。
それから紆余曲折あって、数ヶ月後に突然死してしまった。今回の話とは関係ないので端折るけど、良い死に方はしなかった。厳密に言えば母のせいではないんだけれど、母が発端となり亡くなってしまったので、母は一時期とても落ち込んだ。
で、初めて飼い猫が死んだので知らなかったんだけど、火葬用の車が家の近くまで来てくれて、一応葬儀らしきものをしてくれるらしい。私は暇だったから参加することにした。父と妹はどうするんだろ?と思っていたところ、二人は「欠席する」との事だった。
え???父は元々冷血漢だから別にだけど、妹はイベントか何かがあって行かれないとかで???ん??あんなに可愛がってたのに????世の中にはペットが死んだ場合に有給の申請が認められてるらしいが、我が家では誰も取る人がいなかった。この記憶が、私の中の心がヒヤッとする思い出の一つである。
葬式は、母が終始大号泣、葬式を取り仕切ってた人(?)もつられて大号泣、安っぽい小サイズのスピーカーから流れる安っぽい音のG線上のアリア。私はこういう"ほら、泣けよ"という演出(捻くれててすまない)が昔から苦手で、気持ちが冷めて二人の雰囲気にどんどん置いてかれて居心地が最高に悪かったことを覚えてる。あと当たり前なんだけど、死後硬直した猫って人形みたいな感じで、死体がすごい苦手なので触らなかった。生前は触れてたのに。
大体1時間くらい近所で骨を焼いて、戻ってきた。母はまた泣いてたけど、私は何も感じなかった。死んだと聞いた時も、葬式の間も、骨になって帰ってきた時も、今もずっと。
何も無いというか、10年以上居た飼い猫が死んだことよりも、その周りのことの方がよっぽど感情を揺さぶられるというのが近い。
あんなに可愛がってたと思っていたのに、飼い猫の死をきっかけに"みんな実は言うほど可愛がっているわけじゃ無いのでは?"と考えるようになった。いや、勿論、世話をたまにしかしない私より、世話をしてるみんなの方が愛情はずっと深いと思う。
でもたまに、あの葬式前夜のモヤモヤ感や、夜間病院の道のりを思い出しては、何とも言えない感情が湧き上がる。
葬式の当日、父は様子を尋ねることもなかった。妹は聞いてきたけど、上記の通り私は完全に気持ちが離れていたので、母のことを中心に伝えた。それ以上のことは聞かれなかった。
夜間病院の時、冬間近で小雨も降っていて、寒くて心細かったけど、今考えてみれば飼い猫との唯一の思い出だ。壊れかけのキャリーケースの中でたまに細く鳴く猫の声を頼りに歩いた暗い道を、今でも覚えている。ちょっとスタンドバイミーみたいだとも思う。
もし飼い猫に何かあった時、真っ先に立ち上がるのは自分じゃなくて誰かなんだろうなーと自覚してたし、他の家族にも「アンタは飼い猫に興味ないよね」言われた。きっとあの日までは事実だった。愛情って何だろうね。私が何かあった時、家族に同じ対応されたら、そして手遅れになってしまったらどうだろう?と時々考える。
因みにここまで書くと母が一番猫のことを思っているように見えるけど、多分母が中でも特にヤバい。私よりヤバい。詳しくは書けないけど、猫の対応見てると「あ、この人はやっぱり毒親なんだな」と再確認させられる。
コイツ、やっぱマジモンのパワハラ野郎だったんだと思わず笑いそうになったわ。
ここまで完璧な答え合わせってあるか?
・相手の人格を尊重してないから他人の心配より先に自分の都合が出る
・因果関係を想像する力が足りないから自分に責任があると気づけない
・自分を省みれないからやり方が間違っていたことを想像すらできない
・自分の物差しでしか測れないから自分の思い通りの結果が常に出ると思い込む
凄いよ満点だよ。
まあコイツが自分都合人間なのは、自分は仕事中1時間おきにタバコ休憩を10分取るのに、部下がパソコンの画面越しに1分雑談してたら「暇なら仕事したら?」といつも言い出す辺りから明らかだったわけだが、いざという時に取る態度でそれが凄い深い所から始まっていたことが分かっちゃったなあ……。
いやいやしかしだよ、アイツにとっては小さなミスについて毎回1時間ぐらい大声で相手に説教をして「常識で考えれば」「俺が若い頃は」とテンプレ無意味ワードを並べることが本当に教育であるという認識だったことに驚きだよ。
聴くところによればコンプラ教育や部下指導教育を「仕事が忙しいから」と言い張って10年ぐらいサボり続け、30分で終わるテストや講習だって部下に代返や代筆をさせ続けていたらしいが、いやはや教育やハラスメントについての知識が0のモンスターとして育ってしまったというわけだな。
超常識レベルの再確認を会社が事ある毎にやりたがるのも納得だわ……。
こういう完全経験値0レベル0の怪物がうようよしているのだから、それをせめてレベル1ぐらいにはなってもらいたいというのは雇い主や人事部からすれば当たり前よな……。
つうか一社員として俺もああいう奴とは一緒に働きたくないと今回のことで強く感じたね。
歪な愛の鞭とかそういうのだと必死に思い込もうとしてたが、倒れた相手に陰口で罵倒を投げている時点でツンデレ頑固オヤジの線は消えたわ。
ただのクズだった。
まあ、分かってたけど、ここまで完璧に答え合わせが来るとは思わなかったよ。
改めてそう感じましたねえ……
コロナの影響で成人式が中止、延期になったという話をよく耳にしました。
成人式というのは一生の中で一度しかない大切な式典です。本人はともかくその親御さんたちも、自分の愛する子供が晴れて成人となる日に、これまでの成長を噛み締め、凛々しいスーツ姿や華麗な振袖姿に、目に涙を浮かべるでしょう。
成人式に限らず、去年、今年はコロナによって多くのイベントや行事が中止になりました。その中には再開催可能なイベントもありますが、成人式のようなイベントは、その年に参加するから意味を持ちます。たまたまコロナという不運に見舞われ、普通なら開催するはずだった行事に参加できない人たちのために、なにかできないだろうかという想いから、今回「バーチャル成人式」を開催いたしました。
緊張感をバーチャルへ
バーチャル空間でのイベントの多くは、エンターテイメント性が高く、またお祭りのようなもののため、楽しいが緊張感のないものになることが多いです。
成人式は、区長様の挨拶から始まり、緊張感のある中、式典が進んでいきます。バーチャル空間におけるイベントの醍醐味は、バーチャルならではの「はちゃめちゃ感」が割合として大きくしめますが、そのはちゃめちゃ感を残しつつ、同時に、緊張感のあるイベントが開けないか、ということを考え進めておりました。
法律やルールのないバーチャル空間だからこそ、緊張感をあえて作る。
バーチャル成人式は、主催者WekENDの挨拶に始まり、来賓者の祝辞、バーチャル新成人の言葉など、それぞれが真面目なスピーチを壇上で決められた時間の中行い、無秩序さの中に規律というものを組み込んだ新しいイベントとして成功いたしました。また、司会進行に声優を起用したことも効果的でした。趣味で開いてるイベントとしてではなく、プロがしっかり準備して運営したイベントとして、参加者の態度が他のイベントと比べより真面目だった点も、我々バーチャル成人式の特徴と言えるでしょう。
全員がそれぞれ好きなアバターで、自由に離着席もできれば、飽きたらログアウトできてしまう空間で、スピーチの間は誰1人として会話をせずに、登壇者に耳を傾け、「起立、礼、着席」もバーチャル空間で行う。最後までログアウトする人は、1人もいませんでした。
ルールのない自由な空間に、あえて制限をかけ緊張感を作ることで、イベント全体を引き締め、より強力に参加者の記憶に残るイベントとして理想のバーチャル成人式を主催できました。
式が終わったあとの交流会では、
「このような取り組みは素晴らしいと思います」
という声も聞くことができ、バーチャル成人式を開いた意義を再確認できたことも印象的です。
終わったあとの雑談会は、2時間以上も続き、それだけ初対面の人たちが、他の人たちと障壁なくコミュニケーションが取れる理由として、共通の貴重な体験をしたということが挙げられるでしょう。イベント体験を踏まえ、
「私も、こういうことしてみたいんですよね」
という意見を救いあげることができ、今後WekENDはよりクリエーターにとっての場の提供としても機能していきそうです。
バーチャル成人式を行った理由は、成人式に参加できなかった人たちのためのだけでなく、社会に対してもメッセージを発信するところにもあります。バーチャルとリアルは対立して存在するものではなく、バーチャル世界は、「リアル」の世界として存在しているということ。その中で、バーチャル空間がリアル空間を拡張している感覚に近いです。VRAR的概念とも言い換えれるでしょう。
リアルで行えないことを今回のようにバーチャルで行い、それをリアルの体験として強力に記憶に残るものにする。またバーチャルで作り出せない熱狂をリアルがバーチャルを拡張する。そのように「リアル」と「バーチャル」が別のものではなく、隣り合わせたものとして存在しているんだ、ということをもっと世に、社会に示していくその一歩として、バーチャル成人式は大きな足跡を残したと思います。
わかっていたけど、やっぱりなにもないんだな。虚無の再確認。
自分もふと思い出した。ちなみにオチは無いので期待しないように
その日はとにかく疲れていた
前日は23時まで会社に居て、そこから家に帰って飯食って風呂入って寝て、6時に起きて7時に家を出たからだ
時刻は大体正午を過ぎた辺りだっただろうか。仕事が一段落したので、廊下を歩いてお手洗いに入ろうとした時に事件は起きた
自分がお手洗いに入ろうとしたら、急にドアが開いて中から美人のお姉さんが出てきたのだ
お互いに数秒見つめ合った後に、このお姉さんが男性用トイレから出てきたのが不思議だったので目線を上に上げて、この先は男性用トイレだという事実を再確認しようとした
再確認しようとしたが、自分の眼に映ったマークはまぎれもなく女性用トイレを表すマークだった
とりあえず痴漢目的ではないことを釈明しようと思ったが、咄嗟に口をついた言葉は
「失礼しました」
だった。何が一体どう失礼だったのか分からないが、ものすごい真顔で、落ち着いた態度のまま謝ったのだけは覚えてる
その時自分は、首から社員証をぶら下げていたので、(たぶん外部の)お姉さんは瞬時に理解をしてくれたらしく
彼に会ったのは、人手が足りないからと友人に駆り出された室内楽のイベントだった。
私は普段アマチュアオーケストラの片隅でビオラを弾いているが、コロナ禍でオーケストラの練習は軒並み中止に追い込まれている。
(N響による検証では、管楽器でも一定距離以上の飛沫が飛ばないことは分かったが、練習会場が閉鎖されがちなのでどちらにせよ練習できない。)
そんな中、友人が所属するオーケストラでは、弦楽四重奏や五重奏の数曲を演奏する催しをするという。
予定曲に対して参加希望者が微妙に足りないということで、私にお声がかかった。昨年9月頃の話だ。
初回練習日に会場につくと、私と一緒の組で演奏するメンバーを友人が紹介してくれた。
巷のステレオタイプな研究職のイメージよろしく、眼鏡をかけており、外見にあまり気を遣っていないようだった。
リハーサルが進むごとに、心の機微をよく理解し、優しいことが分かった。そして音は自然で伸びやか。タイプだ。
ただ、こちらも三十余年を生きており、人並みの自制心は持っている。
数回のリハーサルを経て、本番を迎えた。
目を合わせる。息を一緒に吸い、一緒に音を出す。彼が問いかける。私は答える。音楽が少し走り出す。私たちは目くばせをして合わせる。
音楽の根幹が「空間を共有し、呼吸を合わせる」ことにあると再確認する。
コロナ禍で半年以上コミュニケーション自体が激減していたところ、彼との無言の会話は劇薬だった。
本番が終わった後、ご飯に行けるはずもなく、話しながら一緒に帰った。遅くなりがちなところ上手くいってよかったです。でも最後はちょっとばらけちゃいましたね。
話している最中、目を逸らさずに見てくるので動揺した。反則なのでやめないか。瞬間、私は演奏中の光景を思い出して赤面する。
そんなこんなで私はあっさりノックアウトされた。
それから、特に用事もないまま時間だけが過ぎていく。コロナ前ならご飯に誘ったんだろうがこのご時世だ。
友人に探りを入れたが、二年ほど前に「今は仕事の正念場なので恋愛とか結婚とかは考えられない」と言っているのを聞いたという。
かく言う私も、このまま仕事がうまくいけば、半年後に今の居住地を離れる。こんな宙ぶらりんな状態でどうこうするのは申し訳ない。
第一、必死で仕事をしている人に「私のためにあなたの時間をください」と伝える勇気は今の自分にはない。
研究職が今が正念場なのも本当で、考えれば考えるほど、今はそっとするべきという結論になる。私の勝手で邪魔をしてしまうのも悪いしな。
友人の団体には、演奏会の助っ人枠にいつでも呼んでくれと伝えてはあるものの、冬に続き、夏の演奏会も無くなる公算が高そうだ。
というわけで、残念だけど、どうしようもない。
とりあえず、はよコロナ収まってくれ。