はてなキーワード: 再確認とは
コイツ、やっぱマジモンのパワハラ野郎だったんだと思わず笑いそうになったわ。
ここまで完璧な答え合わせってあるか?
・相手の人格を尊重してないから他人の心配より先に自分の都合が出る
・因果関係を想像する力が足りないから自分に責任があると気づけない
・自分を省みれないからやり方が間違っていたことを想像すらできない
・自分の物差しでしか測れないから自分の思い通りの結果が常に出ると思い込む
凄いよ満点だよ。
まあコイツが自分都合人間なのは、自分は仕事中1時間おきにタバコ休憩を10分取るのに、部下がパソコンの画面越しに1分雑談してたら「暇なら仕事したら?」といつも言い出す辺りから明らかだったわけだが、いざという時に取る態度でそれが凄い深い所から始まっていたことが分かっちゃったなあ……。
いやいやしかしだよ、アイツにとっては小さなミスについて毎回1時間ぐらい大声で相手に説教をして「常識で考えれば」「俺が若い頃は」とテンプレ無意味ワードを並べることが本当に教育であるという認識だったことに驚きだよ。
聴くところによればコンプラ教育や部下指導教育を「仕事が忙しいから」と言い張って10年ぐらいサボり続け、30分で終わるテストや講習だって部下に代返や代筆をさせ続けていたらしいが、いやはや教育やハラスメントについての知識が0のモンスターとして育ってしまったというわけだな。
超常識レベルの再確認を会社が事ある毎にやりたがるのも納得だわ……。
こういう完全経験値0レベル0の怪物がうようよしているのだから、それをせめてレベル1ぐらいにはなってもらいたいというのは雇い主や人事部からすれば当たり前よな……。
つうか一社員として俺もああいう奴とは一緒に働きたくないと今回のことで強く感じたね。
歪な愛の鞭とかそういうのだと必死に思い込もうとしてたが、倒れた相手に陰口で罵倒を投げている時点でツンデレ頑固オヤジの線は消えたわ。
ただのクズだった。
まあ、分かってたけど、ここまで完璧に答え合わせが来るとは思わなかったよ。
改めてそう感じましたねえ……
コロナの影響で成人式が中止、延期になったという話をよく耳にしました。
成人式というのは一生の中で一度しかない大切な式典です。本人はともかくその親御さんたちも、自分の愛する子供が晴れて成人となる日に、これまでの成長を噛み締め、凛々しいスーツ姿や華麗な振袖姿に、目に涙を浮かべるでしょう。
成人式に限らず、去年、今年はコロナによって多くのイベントや行事が中止になりました。その中には再開催可能なイベントもありますが、成人式のようなイベントは、その年に参加するから意味を持ちます。たまたまコロナという不運に見舞われ、普通なら開催するはずだった行事に参加できない人たちのために、なにかできないだろうかという想いから、今回「バーチャル成人式」を開催いたしました。
緊張感をバーチャルへ
バーチャル空間でのイベントの多くは、エンターテイメント性が高く、またお祭りのようなもののため、楽しいが緊張感のないものになることが多いです。
成人式は、区長様の挨拶から始まり、緊張感のある中、式典が進んでいきます。バーチャル空間におけるイベントの醍醐味は、バーチャルならではの「はちゃめちゃ感」が割合として大きくしめますが、そのはちゃめちゃ感を残しつつ、同時に、緊張感のあるイベントが開けないか、ということを考え進めておりました。
法律やルールのないバーチャル空間だからこそ、緊張感をあえて作る。
バーチャル成人式は、主催者WekENDの挨拶に始まり、来賓者の祝辞、バーチャル新成人の言葉など、それぞれが真面目なスピーチを壇上で決められた時間の中行い、無秩序さの中に規律というものを組み込んだ新しいイベントとして成功いたしました。また、司会進行に声優を起用したことも効果的でした。趣味で開いてるイベントとしてではなく、プロがしっかり準備して運営したイベントとして、参加者の態度が他のイベントと比べより真面目だった点も、我々バーチャル成人式の特徴と言えるでしょう。
全員がそれぞれ好きなアバターで、自由に離着席もできれば、飽きたらログアウトできてしまう空間で、スピーチの間は誰1人として会話をせずに、登壇者に耳を傾け、「起立、礼、着席」もバーチャル空間で行う。最後までログアウトする人は、1人もいませんでした。
ルールのない自由な空間に、あえて制限をかけ緊張感を作ることで、イベント全体を引き締め、より強力に参加者の記憶に残るイベントとして理想のバーチャル成人式を主催できました。
式が終わったあとの交流会では、
「このような取り組みは素晴らしいと思います」
という声も聞くことができ、バーチャル成人式を開いた意義を再確認できたことも印象的です。
終わったあとの雑談会は、2時間以上も続き、それだけ初対面の人たちが、他の人たちと障壁なくコミュニケーションが取れる理由として、共通の貴重な体験をしたということが挙げられるでしょう。イベント体験を踏まえ、
「私も、こういうことしてみたいんですよね」
という意見を救いあげることができ、今後WekENDはよりクリエーターにとっての場の提供としても機能していきそうです。
バーチャル成人式を行った理由は、成人式に参加できなかった人たちのためのだけでなく、社会に対してもメッセージを発信するところにもあります。バーチャルとリアルは対立して存在するものではなく、バーチャル世界は、「リアル」の世界として存在しているということ。その中で、バーチャル空間がリアル空間を拡張している感覚に近いです。VRAR的概念とも言い換えれるでしょう。
リアルで行えないことを今回のようにバーチャルで行い、それをリアルの体験として強力に記憶に残るものにする。またバーチャルで作り出せない熱狂をリアルがバーチャルを拡張する。そのように「リアル」と「バーチャル」が別のものではなく、隣り合わせたものとして存在しているんだ、ということをもっと世に、社会に示していくその一歩として、バーチャル成人式は大きな足跡を残したと思います。
わかっていたけど、やっぱりなにもないんだな。虚無の再確認。
自分もふと思い出した。ちなみにオチは無いので期待しないように
その日はとにかく疲れていた
前日は23時まで会社に居て、そこから家に帰って飯食って風呂入って寝て、6時に起きて7時に家を出たからだ
時刻は大体正午を過ぎた辺りだっただろうか。仕事が一段落したので、廊下を歩いてお手洗いに入ろうとした時に事件は起きた
自分がお手洗いに入ろうとしたら、急にドアが開いて中から美人のお姉さんが出てきたのだ
お互いに数秒見つめ合った後に、このお姉さんが男性用トイレから出てきたのが不思議だったので目線を上に上げて、この先は男性用トイレだという事実を再確認しようとした
再確認しようとしたが、自分の眼に映ったマークはまぎれもなく女性用トイレを表すマークだった
とりあえず痴漢目的ではないことを釈明しようと思ったが、咄嗟に口をついた言葉は
「失礼しました」
だった。何が一体どう失礼だったのか分からないが、ものすごい真顔で、落ち着いた態度のまま謝ったのだけは覚えてる
その時自分は、首から社員証をぶら下げていたので、(たぶん外部の)お姉さんは瞬時に理解をしてくれたらしく
彼に会ったのは、人手が足りないからと友人に駆り出された室内楽のイベントだった。
私は普段アマチュアオーケストラの片隅でビオラを弾いているが、コロナ禍でオーケストラの練習は軒並み中止に追い込まれている。
(N響による検証では、管楽器でも一定距離以上の飛沫が飛ばないことは分かったが、練習会場が閉鎖されがちなのでどちらにせよ練習できない。)
そんな中、友人が所属するオーケストラでは、弦楽四重奏や五重奏の数曲を演奏する催しをするという。
予定曲に対して参加希望者が微妙に足りないということで、私にお声がかかった。昨年9月頃の話だ。
初回練習日に会場につくと、私と一緒の組で演奏するメンバーを友人が紹介してくれた。
巷のステレオタイプな研究職のイメージよろしく、眼鏡をかけており、外見にあまり気を遣っていないようだった。
リハーサルが進むごとに、心の機微をよく理解し、優しいことが分かった。そして音は自然で伸びやか。タイプだ。
ただ、こちらも三十余年を生きており、人並みの自制心は持っている。
数回のリハーサルを経て、本番を迎えた。
目を合わせる。息を一緒に吸い、一緒に音を出す。彼が問いかける。私は答える。音楽が少し走り出す。私たちは目くばせをして合わせる。
音楽の根幹が「空間を共有し、呼吸を合わせる」ことにあると再確認する。
コロナ禍で半年以上コミュニケーション自体が激減していたところ、彼との無言の会話は劇薬だった。
本番が終わった後、ご飯に行けるはずもなく、話しながら一緒に帰った。遅くなりがちなところ上手くいってよかったです。でも最後はちょっとばらけちゃいましたね。
話している最中、目を逸らさずに見てくるので動揺した。反則なのでやめないか。瞬間、私は演奏中の光景を思い出して赤面する。
そんなこんなで私はあっさりノックアウトされた。
それから、特に用事もないまま時間だけが過ぎていく。コロナ前ならご飯に誘ったんだろうがこのご時世だ。
友人に探りを入れたが、二年ほど前に「今は仕事の正念場なので恋愛とか結婚とかは考えられない」と言っているのを聞いたという。
かく言う私も、このまま仕事がうまくいけば、半年後に今の居住地を離れる。こんな宙ぶらりんな状態でどうこうするのは申し訳ない。
第一、必死で仕事をしている人に「私のためにあなたの時間をください」と伝える勇気は今の自分にはない。
研究職が今が正念場なのも本当で、考えれば考えるほど、今はそっとするべきという結論になる。私の勝手で邪魔をしてしまうのも悪いしな。
友人の団体には、演奏会の助っ人枠にいつでも呼んでくれと伝えてはあるものの、冬に続き、夏の演奏会も無くなる公算が高そうだ。
というわけで、残念だけど、どうしようもない。
とりあえず、はよコロナ収まってくれ。
アイドルグループ「嵐」が2020年いっぱいで活動を休止する。最後のテレビ歌唱は12月31日の「紅白歌合戦」だろう。
おそらく「紅白」で披露するメドレーにはNHKの「NHK2020ソング」キャンペーンとタイアップしていた「カイト」も含まれるはずだ。
本来ならば7月24日に東京オリンピックが開幕し様々な種目の試合結果に世間が一喜一憂しているはずであった。
嵐が7月29日に発売した「カイト」はオリンピックを初めとするNHKの各所キャンペーンで大々的に使用される意図があったことは明白だ。
また嵐自身の活動休止という事情を踏んで、20年以上に及ぶその活動の総決算、ファンへの忘れ形見として製作陣やリスナーはこの「カイト」を据えてもいた。
そして国家総力を挙げた一大イベントのアンセムと日本のトップアイドルの記念碑を兼ねたこの楽曲をトータルプロデュースし制作したのは、これまた稀代のカリスマとして君臨しているシンガーソングライター米津玄師である。
まあ、ここまでは周知され切った事柄であり別段僕が説明する必要もないのだが、日本という国の2020年という時代を背負うことを予め定められたこの激重プロジェクトに「カイト」はどのように応えようとしたのか僕なりに感想を書き連ねた。
米津は前年にもNHKのタイアップソングとして「パプリカ」の書き下ろしとプロデュースを行っている。
結果として「パプリカ」は2019年を代表するヒットソングとなったが、その一要因として歌唱グループであるFoorinの愛らしさと無邪気なダンスがあげられる。
バズヒットの現代において「パプリカ」も例にもれずそのダンスを真似するムーブメントが起きた。「パプリカ」がEテレで繰り返し流されたことやFoorinメンバーと同年代である小学生が親近感を覚えたことも相まって、運動会の催しとして「パプリカ」のダンスを披露する小学校が続出したことはこのヒットの象徴的出来事であった。
おそらく「カイト」のキャンペーンはこの流れを踏襲していた。「パプリカ」と同じように運動会で使用される想定はもちろんとして、「パプリカ」に親しんだ子どもたちの門出を激励する卒業ソングとしても使われることをNHKサイドは期待していたように見える。
ともすれば「高度な技術を持っていない素人でも合唱や伴奏がそこまで難しくない曲を」という注文が米津側に与えられたはずだ。現に「パプリカ」にせよ「カイト」にせよ歌唱音域は1オクターブ半以内にコンパクトに収まっている。コードもところどころ4和音がでてくるものの実際に演奏すればわかるとおり、転回系を利用すればほとんどコードフォームを変えることない上に指の移動も少なくスムーズな運びとなり難易度の高くない造りになっている。
(そうはいっても「パプリカ」の”晴れた空に種をまこう”のノンダイアトニックコード、「カイト」における”高く飛んでいくカイト”の激しい跳躍やサビでの拍の取り方など、個性的な米津節に我々は始め戸惑うのだが)
また学校教育の場での合唱曲として「カイト」を見たときコーラスワークの絶妙な塩梅は見事。基本ユニゾンだが、要所要所で二宮が3度上、松潤が1オクターブ下を歌っている。嵐はユニゾン主体だが大野がメイン、桜井がラップ、二宮が上ハモ、松潤が下ハモ、相葉がファルセットという役割分担がありアレンジしだいでは主メロとは別フレーズを歌うらしく、このメンバー構成を活かしたようだ。なにより飽きが来ないよう工夫しつつもそれを不特定多数の素人が寄せ集められて歌ったとしても収集がつく程度の複雑さに収めているのがいい。ブルーノマーズプロデュースの「Whenever You Call」ではブルーノ自身も加わりふんだんにコーラスを織り交ぜ比較的高レベルなパフォーマンスを見せていたが、とっつくやすさで比べると格段に「カイト」が勝っていた。
なぜ米津玄師はカイトというモチーフで曲を書いたのか。未来を切り開くポジティブさや成長のイメージとして飛翔体をモチーフに据える曲はあまたとあるがなぜ凧なのか。
同じくNHKのテレビ番組とタイアップしヒットした「地上の星」や「365日の紙飛行機」も飛翔するものから見た世界を歌っている。
これらと「カイト」の大きな違いはカイトは出発地点と着地地点が同一であるということである。
「地上の星」は上空を見渡すことのできる渡り鳥を超人的な視座をもった存在として捉え、それに動乱する世界を切り抜ける道筋を教えてくれと訴える曲である。「365日の紙飛行機」は惰性で飛ぶしかない紙飛行機を世相に揉まれる人の人生に準え愚直に一日一日を丁寧に過ごすことを説いた曲である。どちらも世界は常に変動的なものであり人は同じ環境に居続けられないという前提がありそれを踏まえてリスナーの冒険心を鼓舞する内容なのだ。
対照的に「カイト」におけるカイトは作中では常に同一のものとして描写されているため変化がない。そもそもカイトは糸で繋がれているため自由に飛んでいけない物体である。
さらに面白いのはこのカイトは最初から空に浮かんでいるということだ。”小さな頃に見た”からの冒頭4フレーズは、かつて”憧れた未来”は別世界の一番星の横に鎮座しているようだったとその様をカイトに例えて”ぎゅっと強く握りしめていた糸”というフレーズで夢に邁進していたことを説明している。それが二番に入ると成長した今では”カイト”や”憧れていた未来”は”とても古く小さい姿”で”右ポケット”に忍ばせておく程度のものになってしまったと幻滅に近い感情を吐露する。そして大サビでそれでもこの小さいカイトが嵐のように厳しい世間を生き抜く指標であり心の拠り所であることを告白する。
つまりカイトとは未来に向かって邁進する人間そのものの象徴ではなく彼らの先進の当たる親や先輩といった人々なのである。この曲が巧みなのはカイトを地上から見上げる立場であった主人公もまた今は後進から憧れを背負ったカイトであるという双方向性を示している点だ。
カイトへの郷愁や憧れを語りつつもサビでは”君の夢よ叶えと願う”。大サビに至っては”嵐の中を”からの2フレーズでカイトの先に焦がれた自身の憧れを歌いつつ、続く”悲しみを超えて”からは人々の模範となるカイトの先からの視点に移る。何よりすごいのは憧れを一身に集め自身の悲しみすら超越して前に進んでいけと言った直後に”糸の繋がった先まで”帰ろうと優しく口添えしているところだ。
人は絶えず不安や孤独に苛まれる瀬戸際で生きている。そんなきりきりした思いを汲んで「幼年期に自分を形成した、自分が無邪気でいられた場所や人はカイトの手綱を握る人のように自分の足元にある」「自分がカイトとなってもカイトを揚げる側だった頃の場所はなくならない」と安心感を与える文句を曲のハイライトに持ってくる米津玄師の慈悲深さや度量の広さには舌を巻くし、米津玄師がこの時代に指示される所以を垣間見た気がする。
「パプリカ」と「カイト」には”らるらりら”や”一番星”など共通するワードが散見される。また「パプリカ」出だしのキーはA、「カイト」出だしのキーはEであり下属調の関係となり、DかD#かの違い以外は殆ど同じ調である。サビでは短3度下のメジャーキー、つまり平行調の同主調に移るという同じパターンの転調を両曲とも行っている。
これは「パプリカ」と「カイト」は同じ世界観にあり同じ事象を取り扱っているとみていいのではないだろうか。「パプリカ」も先人から思いを受け取ることや後進に託していくことについて語った曲であり、幼少期のシンボルとしてAやEのキーが設定されそこからの成長として短3度下への転調があると。
そう考えれば「パプリカ」内でミステリアスな”誰か”や”あなた”の存在、また”パプリカ”という言葉の意味も合点がいく。「カイト」の世界に照らし合わせればこの”あなた”は自分たちが進む道を作り上げたこれまでの先人たちや自分たちが歩む先の未来にいる自分自身のことだと見なすことができる。
パプリカとピーマンには明確な違いはない。ただ主観的に派手な色味であることや比較的甘味があること等で区別されている。ピーマンが実像の象徴とすれば、パプリカは子どもが憧れる華やかな夢のようなものなのだ。そしてパプリカの花言葉は「同情」「憐み」「君を忘れない」である。僕の解釈では”パプリカ”もまた子どもや次世代を見守りかつて子どもだった自分に郷愁を寄せる歌である。
よって「パプリカ」はサビにおいて、”花が咲いたら”つまり夢が叶えばその立場で私欲を満たすような「実になる期間」をすっ飛ばして後進育成のために種を蒔くことを誓い、自分の描いた夢が自分が憧れた上の世代に伝わっていてほしいと願っている。
「カイト」が下世代への決意を固める歌であれば「パプリカ」は上世代に向けた誓いを告げている。
「パプリカ」の”会いに行くよ”から始まるCメロは、憧れの先人がいる「カイトの先」の次元まで自分もたどり着いてみせるという宣誓なのだ。そして「パプリカ」の宣誓に対し「カイト」は”君の夢よ叶えと願う”と励ましのアンサーを告げている。
これに加えて5人組の子役集団であるFoorinと、ローティーンから20年以上活動を続ける5人で構成される嵐という、歌い手自身の対比や世代間の違いにも意識して両曲が制作されたとまでいうのははたして考えすぎだろうか。
「カイト」という曲は「パプリカ」の続編であり無邪気に夢を語っていた子どものその後を捉えた曲なのだと思う。荒れ狂う嵐のなかで傷つくことがあっても、かつての空を見上げていた自分のように下から羨望の眼差しを向ける子どものためにメッセージを発信し続ける姿を描写し、「パプリカ」から託された”らるらりら”がしっかり自分たちに届き溢れ出していると返答している。
そしてそんな自分を見守ってくれた親の様な存在や友人や”あなた”が投げかけてくれた思いは不変で誰でもそこに甘えたっていいと働きづめの同世代も励ます。
様々な期待を抱え自分を追い込みながら高みを目指すトップアスリートや人気絶頂のアイドルが抱えるドラマテックな感傷のみならず、信条のもと日々頑張る人々や未来に向かって前進する若者なら誰でも共感できる叙情が「カイト」にはある。
この物語は徳島の実家から独立しニコニコ動画からトップクリエイターへと様々な場面や人々を経ながら飛躍していった米津玄師自身にも当てはまる。
ジャニーズではデビュー以前で持ち歌のないJrメンバーがコンサートやテレビ番組で歌唱する場合披露されるのはもっぱら先輩の曲だ。このレパートリーには今は活動していないグループや退所した者の曲も含まれる。歌い継ぐことをテーマにした「カイト」をジャニーズJrが歌うときそこには確実に嵐のメンバーの幻影が守護霊のように現れる。この先何があろうとジャニーズが存在する限り嵐という存在が薄れていくことはないのだ。
オリンピックというドラマに加えるエッセンスや嵐というアイドルグループのメモリアル的な意味合いをしっかりクリアしながら、普遍的な人間の感情を見事に描写しただけでもとてつもないが、それでもなお米津玄師が作家性は微塵も薄らいでいないことでその才能の大きさを再確認させられた。ただの合唱向けのバラードとして割り切れないエッジがこの曲には確かにあって、そういう細やかなセンスが米津玄師足らしめているのだなと唸ってしまった。そしてそれだけの才能の上に立ちながらこの曲を自分のものにしている嵐のタレント性にも感心してしまった。
ガッチャのMVに殴られて死んだ。金銀クリスタルしかやったことなかったのでHGSSを中古で揃えて進めていたのが10~11月。最高だった。ワカバタウンの風が吹く音、草むらと地面を歩くときの音が違うこと、マタツボミの塔の柱が揺れる度に軋む音。あとポケモンがのっけから後ろをついてきたときの可愛さ。時間帯で細かく違う明るさ。最初の感動がほんとに忘れられない。レッドを倒すところまでめちゃくちゃ時間をかけて楽しんだ。旅を進めるのが楽しいエンジョイ勢なので終わってしまうのは本当に本当に悲しかった。他のシリーズ、マジで興味なかったけどあまりに寂しすぎたのでポケパルレがよさそうなXを買ってやってみた。地方が1つしかないのですぐ終わった。エピソードは重いけど良かった。でも、やっぱりHGSSの感動を超えられない。
これからいろんな人に進められたBWを買う。それが終わったら多分スイッチ買って剣盾もやっちゃうと思う。でもそれはHGSSの素晴らしさを再確認する作業になると薄々気付いている。
思い出補正で完全に主観。自分の貧相な思考が記録を更新したくないだけ。そう分かっているけど言わせてほしい。金銀からのHGSSは本当に最高なんだ。
ジョウトの街並みは歴史を感じられて好き。元になった都市が明らかに分かるのが良い。奈良と京都がモデルの町は、景観保護で渋い色の建物になっている。良い。ライバルは正統派のライバルで好き。物語の中で人と関わりながらちゃんと成長しているのが本当に良い。彼はもう一人の主人公だと思う。他の登場人物もキャラクターが立ってていい。有名なカリンさんの台詞のあとに、ワタルがいかにも趣味全開のパーティ組んで待ってるのがいい。正義感強くていかにもチャンピオンなワタルすごくいい。アカネもマツバもミカンもシジマもイブキも、カントーのジムリもみんないい。殿堂入り後にそれぞれで交流しているのを見れるのがいい。
EDが好き。ポケモンが可愛い。ポケモンが可愛い。登場人物の演出も個性があってすごくいい。切ないような名残惜しいようなメロディーがすごくいい。ラストで駆けていく主人公と赤緑アレンジを組み合わせるのが終わらない旅を示していて本当に好き。
物語もすごくいい。イベントは他の作品と比べたらミニマムだったけど、あのくらいの身の丈にあっているのがちょうどいい。私たちは一般人だから、世界を救う話は遠すぎる。大都市が占拠されて地下を探し回るくらいの非日常がよかった。何よりクリア後の展開が、本当に、本当に好きすぎる。新しい土地を開拓する、旅は終わらない形をとってくれたのがいい。そして、裏ラスボスのレッド。私はHGSSをやるまで他の作品でもラスボスとしてレッドがいるものだと勘違いしていた。それくらい当時の私にとって「前作品の主人公がラスボス」という展開は印象的だった。どのゲームを見てもあのレベルのポケモンを持つ人物はいないらしい。勝手にレッドが全世界で最強のトレーナーだと思っているので、その男の相手をするという展開が最後に置いてあるのが、本当に、本当に興奮した。最高だと思う。
連れ歩きはもちろん良すぎる。大型ポケモンは施設内に入れないところ、場所とタイプによって反応が違うところ、特定のポケモンと特定のしぐさがあるところ、細かく分かれていて本当にすごいと思うしすごい楽しかった。私が一番感動したのは、ポケモンリーグに来たときの「ゆっくりとうなずいた」の反応。他のどんなに可愛いしぐさよりこれが一番心に響いて、最初見たときに泣きそうになった。鳴き声が出ていないから無言で目を合わせて頷いているポケモンを想像したら、何もかも信頼してくれているように思えた。
キャラクターデザインもいい。男の子はなんとなくレッドをリスペクトしている形があっていい。二人とも絶妙に地味なのがいい。
ポケモンのデザインも全部がいい。伝説・準伝説、御三家、全部かっこいい。本当に究極体だと思う。いや、初代のそれぞれにはやっぱ負けるけれども……でも二作目としてあのデザインが置かれているのは正解だったと思う。初代の人相悪そうだけど愛嬌がある雰囲気を、見事に踏襲していて、かつモンスターさがまったく薄れていないあのデザイン。もう本当に、あそこ以外の御三家が考えられない。
もう他にもいいところはいっぱいある。全部がいい。46・47番道路の音楽がいい。ヒワダタウンのヤドンのチョイスがいい。君は今!の台詞がいい。ぼんぐりが自然採取できる特別感がいい。鈴音の小道の色彩がいい。可愛いもの好きな暴走族がいるのがいい。サカキのトージョウの滝のイベントがいい。全然出てこないのがもどかしい。でも本当に小さいネタを見ては良いと思ってしまう。本当に全部いいんだ。
こういうこと言ってると、どうしても他sage発言をしてしまうのが嫌 そういうつもりは一切ないけど、別のものをやってみて、やっぱりこっちが…と思ってしまう。
多分これは昔自分が最強だった話を何度もする大人と同じ感じなんだと思う…昔の思い出が強すぎて、今を受け入れてなくて何度も同じ部分を懐かしむというか…
HGSSは最高。それは変わらない事実だけど、その前後にある自分の思考は良いものとは限らないんだよね…。その思考を変える努力をしていない自分はダメだと思う。精進します…
https://www.nintendo.co.jp/ds/interview/ipkj/vol1/index6.html
"それから、今作ではトレーナーとポケモンがどう向き合っていくか、どう関わっていくかを大きなテーマにしていて、それをシナリオにも入れています。”
泣いた
なぜ自民がどれだけダメでも野党(特に民主)に票が流れないのか、の話がここんとこバズっていたけれど
イデオロギーの話が多くて、割と重要だと思うのに地方組織の話があまり出てこないので、私見をまとめてみた。
地方の有権者は国政の問題より、自治体の運営実績を判断基準にしている人がけっこういるのだけれど、この層をほとんど取れていない。例えば2019の統一地方選の結果(リンク先)見れば一目瞭然で、対抗軸が自民VS自民(県連)かVS保守系無所属ばかり。
https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_pol_election-local20190408j-01-w600
統一地方選はそれだけで普通の知事選より8%投票率上がるから、本来野党に有利なはずなのに土俵にすら上がれていない。知事のうち野党系(民主以外&元野党現無所属も含め)は相乗りまで加えても11(山形、岩手、東京、埼玉、大阪、静岡、石川、長野、滋賀、愛媛、沖縄)。民主除名→自民推薦の青森入れても12。うち、東京・大阪・滋賀は地方政党。
元々民主党は国政選挙のための政党で、地方は国政選挙の下請くらいの扱いをされていた。例えば2009年の地方選ではその地方の問題ではなく政権交代を中心に訴えたし、国政候補者選定も地方議員からの抜擢より公募が重視された。そのうえ政権喪失後は中央で数合わせの離合集散するたびに、地方組織はダメージを受けて立て直せないまま弱体化していった。
対して自民は、この手の離合集散から無縁だったおかげで地方組織は温存されたし、影響力を失うこともなかった。公明党がいるのも大きいが。結果地方での存在感は、大げさに言うと自民系の内紛の際の数合わせのコマか、国政選挙の時だけ湧いてくる連中、にまで落ちてる。
おまけに、中央と地方の人材の流動性も自民より弱い。地方組織が弱いから地方で絵が描けず、中央から人も来ず、勝負できずにジリ貧の悪循環が続いてる。野党で例外は維新(大阪限定)ぐらいか。「大阪」があるからそれがショーウィンドウ兼補給基地になって中央でも存在感を維持できてる。
これらのために地方から上がってくる情報の質と量と多様性が自民に遠く及ばないことも、民主政権の失敗の原因の一つになったと思う。陳情や会食もはてなだと嫌われているが、地方から情報を吸い上げるパイプにもなっているわけで、それを否定するなら代替システムを用意すべきだった。この懸念は政権奪取前に一度議員や秘書と話しする機会があった時に言ってはみたんだが、どうも危機感をもっていないようだった。
残念ながら、当時の民主が選んだ「生の情報不足をメディアと理論で代替する」方法は地方との軋轢になって噴出したし、思い込みで動く口だけの連中というイメージを広めてしまった。
政権を失ったあと民主が取るべき方針は、地方組織を地道に構築して知事の座を取って実績を積むことで、野合して看板掛け替えることではなかったんじゃないか。自民が強くなったわけじゃない。保守系無所属知事の増加が、「自民も野党も支持できない(でも強いて言うなら民主以外)」って声の反映だと思うし。
どぶ板しろとは言わないが、特に民主系はもっと地方に張り付いて運動家以外の声を聴いて「野党も地方を救える」って絵図を書いて実践する体制作れないとこの状況は変わらないし、なにかの間違いで政権取れてもまた失敗する可能性が高いと思う。