「会いたかった」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 会いたかったとは

2022-08-11

どうやって結婚に辿り着いたかって?

結婚後は苦労の連続だし、独身のままでもいいんじゃね? と思う今日この頃

ふと、独身の同僚に尋ねられた、「増田さんはどうやって結婚の至ったの?」

10年も前、子供ももうそろそろ巣立っていく年頃、「んー、単なる偶然?」としかその時は答えられなかった。

実際、思い出すことも結構しかったくらい、記憶が薄い。

そう言えば、人生最大の失恋をした直後だった。

その恋愛は、当時全盛だった出会い系サービスの先駆けで、あまりラッキー出会いしたことから生じた恋愛だったのだが、今現在進行形宗教問題で、アレではないけれど、時々問題にされる宗教問題が絡んで結果大失恋に至ったのである

それで、別れて数週間、本気で「死のうか」くらいに落ち込んでたら、当時契約していた保険のおばちゃん(「おばちゃん」と呼ぶのは適切ではないのだけど、彼女自身が当時そう言っていたからここではそう呼ぶ)が、新しい商品が出たからと電話してきた時に増田の様子がおかしいのに気づいた。

「なんか本当に元気なさそうだけど、なんかあったの?」

と、半泣きでおばちゃん失恋を打ち明けたら、おばちゃんが「なら、合コンパーティーやるから気晴らしで来てみない?」と誘われた。

しかし、大失恋後だから参加する気など全く起きなかったのだけど、おばちゃんはその電話が終わる直前にこんな話をし出した。

「そう言えば、増田くんと似たように、最近失恋したみたいな感じの、同じ保険会社でやってる女の子がいるよ」と。

話はとんとんと進んで、その女の子と会うことになった。

いや、増田としては、そのおばちゃん会いたかったのだ。何故って、10歳くらい年上で結婚してて子供もいらっしゃったけど、その美人なおばちゃんちょっと憧れてたから。

でも、おばちゃん含めて三人で会って、おばちゃんは忙しいからとすぐに退散し、いきなり出会い喫茶店で二人きりにされたのだった。

全然タイプでもないし、話が合うわけでもないし、のちに妻に聞いたら、増田と同じ意見だったというではないか

ただ、彼女の別れ話に付き合ったりしているうちに、前の大失恋を忘れることができて、そのうちにするするっと3年も経つと、結婚してしまっただけのことだ。

言わば、なんだか知らないが、ご縁があったというだけのことである

実際のところ、妻には明かしてはいないが、3年間付き合っているその最中に、親に3回ほど見合いさせられて、特に断りもせずにノコノコ見合いに出かけていたくらいの、増田はいい加減な奴だった。

当時は、そんないい加減な輩でも結婚に至れる空気感はあったのかもしれないが、今みたいに必死婚活してどうにかして相手を見つける努力に勤しむって世間的な流行は無かったようには思うけど、それにしても増田みたいに特に努力をしたわけでもないのに、それが幸か不幸かは兎も角、結婚してしまえた時代もあったってだけの話――。

 

時代が変わったというよりは、増田から見ると、「婚活」というキーワード商売に上手く使われているだけなのではないか? という気がしたりもする昨今。

このダイアリーでしばしば、「こうすれば恋愛できる!」的告白がなされてホッテントリしたりするけれど、別にそんなのに流されなくてもなんとかなるんじゃね? って思ったり。

恋愛なんてなけりゃないで自由だよ。正直、恋愛中の互いの束縛には、自分自身相手からうんざりだったね。

今は家庭内別居で、自由の身だが 笑

2022-07-24

想像を絶する家康の苦労

来年大河ドラマになるけど。

家康の苦労はたくさんあるが、最大のもの奥さん長男を斬った話だろう。

築山殿が晴れ着を着て待っていた話などは心苦しいエピソードである

タイミングこそ全て。「阿茶局」との出会い必然だった⁈

天正7(1579)年。失意の中で自分を責め続けた男(38歳)が一人。というのも、これまでの、そしてこれから人生の中で、一番辛い出来事が、彼の身に起こったからだ。それは、子と妻を一気に亡くすという悲劇想像以上の痛手。トラウマさえ残るほどの苦行。これだけでも辛いのに、皮肉にも、その原因を作ったのは自分。自らが「彼らの死」を命じなければならなかった。誰を恨んでいいのか。人生矛盾に答えなどないと気付く。

その男性とは、のちに天下人となる徳川家康

当時、織田信長同盟関係にあった家康は、窮地に立たされていた。原因は、長男・信康(のぶやす)の妻、徳姫の手紙である。徳姫は信長の娘で、家康正室・築山殿と嫁姑関係がこじれている真っ最中の状況。そのせいもあり、徳姫は父・信長に対して、夫である信康の愚痴や、夫と姑が武田方に内通していると、手紙で訴える。これを受けて信長は即刻、罪状認否を行い、信康の切腹を言い渡す。

徳川家康

織田信長の決定に、徳川家中での反発は大きかった。しかし、当時の家康はまだまだ力不足選択肢などなかったのである。一時の感情で動いて信長敵対するなど、家の存続を考えればできぬこと。已む無く、長男・信康と正室の築山殿を見捨てる決断を下す。

天正7(1579)年8月に築山殿殺害9月幽閉されていた信康は切腹

残された文書に、築山殿が殺害された当時の状況が記されている。「今日岡崎から夫に会える」と築山殿は極上の晴れ着を身に着けていたのだとか。少しでも綺麗な姿で家康会いたかったのだろう。報告を受けた家康は、一説には、なんとか築山殿を逃がせなかったのかと、介錯人を責めたとも。地獄を見たとは、まさに当時の家康のコトなのかもしれない。

そして、同年。

天正7(1579)年のこと。『神尾氏旧記』と『当院古記』の資料によれば、「阿茶局(あちゃのつぼね)」が徳川家康側室として召し出されたのが、この年だとか。人生最悪の時期に、家康阿茶局出会ったのである。どのような経緯で、家康の目に留まったのかは不明。ただ、彼女が心の琴線に触れたのは確かだろう。ある意味家康阿茶局との出会いで、人生を救われたともいえるのだ。

https://intojapanwaraku.com/culture/98681/

2022-07-06

氷室京介さん(21)「おいステージに上るんじゃねえよ!」(観客30人)

氷室京介さん(58)「会いたかった横浜!」(観客2万5000人)

これがカリスマ

2022-05-15

収監される前日

もう今日しかないと気づいたのは今日、起きてから自由に動き回れて、いろんな用を足せるのは今日しかない。明日の朝になったら警察から迎えが来て、車に乗せられる。

なんとかこの状況を逃れる方法はなかったっけ、と布団の中で考えた。が、考えれば考えるほど、もう逃れようがないとわかるだけだ。自分がした、取返しのつかないこと。それが何か、はっきり思い出そうとすると、急に頭に霧がかかったみたいになって、思い出せない。でも、それに見合った刑を受けなくてはいけないことはわかる。罪悪感がすごくて吐きそうになる。

今日しかないなら、いちばんやらなくてはいけないことは何だっけ、と思うと、ますますからなくなって、焦る。全部はできないのなら、やることを決めないと。そもそもいちばんやらなくてはいけないことは何だっけ? と思考がぐるぐる回って、腹の底がチリチリしてくる。もうすぐ昼だ。

まず連絡。職場に。しばらく休ませてください。明日から収監されるので。そんなこと言えるか。いや、もうやめたんだっけ、やめさせられたんだっけ。しばらく行っていないので、どっちだったか、はっきり思い出せない。ロッカーに入れっぱなしのマグカップとか、キューピーコーワゴールドの瓶とか、もう誰か捨てただろうか。

明日から何の自由もきかないとか、本当にあり得ない。行きたいところに行けない。連絡したい人に自由にできない。外に出られない。明日からどうやって生きていくのか、なんにも想像できない。人生ここで終わるんだという実感が足の方から上ってきて、また吐きそうになる。

あとのことをいろいろ頼んでおかないと。家族に。いろいろ。でも何を? そもそも、頼んだからってやってくれるだろうか。自分収監されることを知られたのか、そういえばいっさい連絡がない。こっちから連絡をするのも気まずい。

明日からもうこの部屋に住めないなら、片付けておかなくちゃいけなかったのでは。気づいても遅い。クローゼットはぐちゃぐちゃで、洗濯物もかごに溜まっている。冷蔵庫には今日使いきれない生鮮食品がいっぱい入っている。今考えてもどうしようもないけれど、自分が出ていった後に、これは誰かが片付けるんだろうか。

どうしても伝えたいことは伝えておかないと、一生後悔する人。そういう人に絞って、連絡する。たとえば、この前会って、最後には少し手もつないで、きっといい感じだと思っていた人。あの人。でも何て? 自分は未練が残っても、収監されることがばれたら、そもそも相手になどしてくれないだろう。でも、ほんの少しでも可能性があるなら、それに賭けて、伝えたい。LINE。しばらく遠いところに行かなくてはなりません。でも本当はもっと会いたかったです。もし待っていてくれるのなら……未練がましい。もっとかんたんに。さよなら。また会いたかった。これで何が伝わる? いいや、もう送った。

もう昼過ぎ。腹の具合がおかしくてやたらと焦るのは、たぶん腹が減っているせい。最後ぐらい、なにか食べたいものを食べたい。そういえば、最近テレビでやっていたあの店。コーラで肉を煮て、スープコーラが入っているらしくて、やたらと黒いラーメンを出す店。以外に近所だったから。

ラーメン屋は思ったより空いていた。スープテレビてみたとおり黒くて、真中白髪ネギたっぷり載っていて、チャーシューはすごく柔らかかった。店を出た瞬間、次にこんなラーメンを食べられるのはいつだろうと思ったら、歩けなくなった。

2022-04-30

親友との出会いと別れ、再会、それから

幼少の頃、俺には親友がいた。


そいつ出会ったのは幼稚園の年長の時だ。

俺が通っていた幼稚園そいつ転入して来た。俺たちはすぐに仲良くなった。

未熟児早生まれだった俺は人一倍体が小さく、何をするにも周りに遅れを取っていた。いじめられることも多かった。

そいつはそんな俺にいつも付き合ってくれた。何をするにも二人一緒だった。


幼稚園卒業し、俺たちは同じ小学校に進学した。

一緒に行った入学式。校門で一緒に写真を取り、二人でドキドキして列に並び、名簿を見た。

俺たちは同じクラスだった。


学校では毎日一緒に校庭を走り回った。

放課後は補助輪の取れたばかりの自転車を漕いで、お互いの家を行き来した。

家に遊びに行く前には必ず電話をした。

当時は携帯電話も無かった時代だ。きっと電話の前で待っていたのだろう。

電話をかけるといつもすぐにそいつが出た。


「今から行っていい?」「いいよ、早く来てね!」


そいつの家は商社の社宅だった。

社宅の庭で、よくボール投げをした。縄跳びをした。鬼ごっこをした。かくれんぼをした。

夏休み、一緒ドラゴンボール映画に行った。二人で特典のジャンボカードダスを片手に、20円のカードダスを回した。

集めた「キラ」を見せあい、自慢し合った。


ある時、そいつの家で、そいつの兄が持っていたドラクエ2をやった。

まだ小学校2年生になったかならないかの頃だ。あの難しいゲームを進められるわけがない。

どうすればいいかからなくて困っていた時、なんとなく俺が言った一言


「その緑のやつ話しかけたら仲間になるんじゃない?」


知っていたわけじゃない。ただの偶然だ。

でもその緑のやつ、クッキーという名のサマルトリアの王子は本当に仲間になった。


「すげー!」「なんでわかったの?!」


俺は仲間になったこと、役に立てたことが嬉しくて泣いてしまった。



2年生の夏を過ぎた頃、残念そうな顔をした親から告げられた。

そいつが転校するということを。行き先は海外だということを。帰ってくるのは6年後だということを。

俺は泣いた。嫌だと喚いた。7歳の子供にとって、6年は永遠に近い時間に感じられた。


冬になり、最後の思い出作りに、お台場船の科学館に行った。

俺とそいつは手をつないで館内を回った。楽しかった。もうすぐ会えなくなるなんて信じられなかった。

船の舵の前で、2人で一緒に写真を取った。それは宝物になった。


3月になり、ついに別れの日が訪れた。

俺は成田空港まで見送りに行くことになった。

初めて乗る始発の電車ガラガラの席に2人並んで、いつもと変わらない話をした。

どうか着かないで欲しいと願いながら、やっぱり行かないと言って欲しいと願いながら。

そんな子供の願いは当然叶うことはなく、電車はすぐに終着駅に着いた。


バイバイ」「手紙書いてね」「6年後絶対会おうね」「約束だよ」


窓の外、そいつを乗せた飛行機はすぐに見えなくなった。



5年生の頃だ。

俺には障害のある伯母がいる。障害は軽度ではあるが、少し言葉不自由だ。

クラスメイトが、その伯母の口真似をしだした。

俺は子供ながらに、これは絶対に許してはいけないことだ。人として怒らなければいけないことだ、そう思った。

そして口真似をされたら、瞬間湯沸かし器のように怒り、殴りかかった。


当時の俺は学年で一番体が小さく、力も弱かった。

殴りかかられても怖くもなんともなかったのだろう。皆面白がって伯母の口真似をするようになった。

その度に俺は泣き、顔を真っ赤にしてそれを言ってきたやつらを追いかけた。


親には言えなかった。泣いて帰って来ても、「チビと言われた」と嘘をついた。

その時自分を庇い、寄り添ってくれるような友人は一人もいなかった。


俺は思った。そいつが、親友がいればこんな辛い思いはしなかったはずだ。

泣いている俺に寄り添ってくれたはずだ。皆に止めろと言ってくれたはずだ。

だって俺たちは親友なのだから


そいつから手紙が届いた。手紙にはシールが同封されていた。

シールにはにっこり笑ったイラストプリントされていた。

俺はそのシールを、当時自分にとって一番大切なものだったスーファミ本体に貼った。

なんて返事をしたかは覚えていない。



時は過ぎ、中学2年生になった。

あの別れから6年後。ついにそいつが帰ってきた。同じ学区内。同じ中学校だ。


その頃はもう周りも悪いことだと気づいていたのだろう、伯母の口真似をされることはなくなっていたが、

鬱屈とした気持ちが収まることはなく、人から向けられる悪意に敏感な人間になっていた。

俺は早く親友会いたかった親友と再会すれば、きっと俺の味方になってくれる。

あの頃のようにまた楽しい毎日が戻ってくる、そう思っていた。


始業式の日、ドキドキしながら学校に向かいクラス分けの名簿を見た。そいつと同じクラスだった。

始業式が終わり、教室に戻った。そいつはそこにいた。

教師からの紹介が終わり、下校の時刻になった。俺はそいつのところに行った。


「久しぶり!!」「久しぶり!!!」「やっと会えた!!!!」


俺たちは手を取りあって6年ぶりの再会を喜んだ。


だが、俺のそいつに関する思い出は、その場面が最後だ。



俺は、帰国した後のそいつの家がどこにあったのかを知らない。

どんな音楽を聴いていたのかを知らない、どの野球チームが好きだったのかを知らない。

休日服装を知らない。どこの高校に進学したのかも知らない。

そいつが誰と仲が良かったのかも知らない。いや、どうしても思い出せないんだ。


そいつは昔とは変わっていた。カッコつけたがりで、帰国子女であることを鼻にかけ、

スクールカースト上位グループに絡みたがるような痛々しいやつになっていた。


そいつ部活も同じテニス部に入った。俺がいるから入ったと、初めにそう聞いたような気がする。

俺は部活に熱心では無かったが、それでも何回も一緒に練習しているはずだ。

一緒に他校に試合に行っているはずだ。一緒に合宿に行っているはずだ。

でも俺にそいつと話した記憶は、笑いあった記憶は、共に時間を過ごした記憶は、一つも残っていない。


何故そうなってしまったのか。拒絶したのはどちらだったのか。

俺は当時、歩み寄らなかったのはそいつだと思っていた。自分気持ちはあの頃から変わっていないと思っていた。

でも本当は拒絶したのは俺だったのかもしれない。変わってしまったのは俺だったのかもしれない。

いけ好かないやつになってしまった、そう思うことで自分プライドを守っていたのかもしれない。


俺の部屋の、そいつから貰ったシールが貼られたスーファミは、その頃にはもうプレステに代わっていた。



つい先日の話だ。登録しただけで何も書いていないFacebookに気まぐれにログインした。

そいつ名前を見つけた。そいつも何も書いていなかった。

友達申請ボタンは押さなかった。


俺はそいつ小学生時代を共に過ごしたかったんだ。

ドラクエVをやって、隠し部屋のヘンリーを見つけて、「あいつ仲間になるんじゃない?」って言い合って、

そして人生で一番辛かったときに、そばにいてほしかった。俺を救って欲しかった。

そうして育んだ絆の上になら、きっと「それ以降」が続いたはずなんだ。



今でもドラクエで誰かが仲間になった時の音楽聴くと、少し涙が出そうになる。


「あの緑のやつ、話しかけたら仲間になるんじゃない?」「すげー!」「なんでわかったの?!」


俺には幼少の頃、親友がいたんだ。


2022-03-01

彼氏電話してたらロシア戦略核部隊が動いてるってニュースが流れてきてすごい暗くなった。

コロナのせいで今年に入ってからまだ一度も会えてない。次に会う時にすこしでも可愛くありたいなーと思って今年に入ってからダイエットしてる。毎日食べたいもの我慢して生きてる。世界のことよく分からないけども、もしかしたら日本核兵器撃たれたりするかなとか考えて、アラートがなった瞬間「もっと美味しいもの食べておけばよかった」とか「彼氏にもう一回会いたかったな」とか考えたりするかな。美味しいもの食べたいの方が先に来るの笑ってしまう。

電話切る時に「明日も無事に生きてるといいね」って言って切った。まだ死にたくない。

2022-02-13

anond:20220213175134

可愛らしいビール腹のおじさんチャン💓💞会いたかったヨ💙💚💛💜❤💗💖

可愛らしいビール腹のおじさんチャンは、五島かんころ餅、知ってるんダネ❣️

おばさんは、幼児さんの頃に、食べたことあるヨ😍すっごく美味しかったのを覚えているヨ😋🍴💗

舟和の芋羊羹、とっても美味しそうダネ🤤🤤

おばさん、今度、買ってみるヨ💰本当は可愛らしいビール腹のおじさんチャンと一緒に芋羊羹食べたいけどネ🥺ナーンチャッテ✌️😝✌️

2022-01-21

コロナ禍で祖母を亡くして思うこと

亡くなった、と病院から連絡が来た。

コロナ禍じゃなければ多分、危ないですって連絡が事前にきてたんだと思う。

それでもまだ生きてる内に会いたかったなぁ。

入院前に会った老人ホーム車椅子腰掛けて、こちらを見てくれる祖母はちっちゃかった。

この日が生きてる内に会える最後かもなぁとぼんやり思ってたけど、振り返るとやっぱり最後だった。

私も母も隣の市に住んでいて、コロナ禍での病院規定上、面会は一度もさせてもらえなかった。

受付だけ済ませて車内で待ち、タブレットを受け取ってほとんど返事も目線も返ってこない祖母を少し見ただけ。

しかもそれも一回。

生きてるおばあちゃんに泣いて縋って抱きつきたかった。

さな頃、ほとんど祖母に育てられていた期間があって、とある宗教信仰している祖母はよくそ教会に私を引き連れた。

教会にいくと祖母には祖母仕事があり、事務所のようなところに籠もるので私は寂しかった。

同じような子どもたちもいたけれど、私はあまり人と仲良くなるのが得意ではなく、誰ひとり好きでもなかった。現に今でも誰一人として顔も名前も覚えていない。

私はその宗教信仰していなかったし、神だ教えだは興味がなかった。

それでも少年部に属されることになり、何度か導師(式典においてメインで読経する位置)もさせられた。祖母は鼻高々って感じだったのを覚えてる。

母も青年部にいやいや属して、いやいや導師経験していた。

属しているかと言って全員が全員式典などで導師をできるものじゃないんだろうと思う。

高校生にもなれば自らの意思で参加不参加を決められたので、(祖母的には出てほしかっただろうが)基本的にそういったものは以降すべて不参加にした。

そんな宗教祖母が亡くなったことでもう完全に抜けさせてもらえると思う。母も私も信心深くなければ御布施も払わないタイプなので。

あぁでももっと、行ってあげたら良かったのかなぁ。

おばあちゃんがそれで、喜んでくれるのなら。

でもあそこトイレめちゃめちゃ寒いし、うん、嫌だな。

おばあちゃんがお墓参りときに作ってくれる鬼まんじゅうが好きだった。蒸しパンと呼んでいたが、多分鬼まんじゅうだったと思う。

おばあちゃんがよく作ってくれたヒメジの酢漬け、何故かいつも口内炎があるときに作ってくれるから、よく泣きながら食べてたな。

祖母の家に泊まって迎えた日曜日の朝、「ピザにしてあげようね」と作ってもらえるピザトーストが大好きだった。

なんか食べ物の話ばっかりだな。

皮のたるんで柔らかい腕が好きだった。冷たくてぽってりしている耳たぶが好きだった。「ただいま」と言う時のイントネーションが好きだった。(中一高で完全に“ヘタリア”と同じだった)

今考えたら軽度の認知症が出始めた頃、週に一回くらい祖母の家で一緒に食事を摂っていた。基本的祖母食事の準備をしていくれていたのだが、一度、私が食べたいからという理由筑前煮を作ったことがある。

「おいしいねぇ。これで○○ちゃんもいつお嫁に行っても困らんねぇ」

これを50回位言われた。

当時私には恋人がいたが、最悪なことにその恋人には妻子がいた。

ごめんね、お嫁には行けないかも。

内心でめちゃめちゃ泣きながら「大げさすぎん?」って言いながら祖母の倍食べた。食べたくて作ったのですごい美味しかった。

妻子がいる人とお付き合いするのは本当に最低なのだが、一番最低なのは妻子がいる身分新入社員に手を出したそいつだと思う。あとこの世にいるご結婚なさってる方々、指輪嵌めろマジで。知らなくて好きになったあとだともう狂ってるから遅いんだよ。

言い訳はこの辺にしとく

棺桶に花を供える時に撫でた頬は芯から冷えていたね。

あの世がもしもあるなら、どこも痛くなといいな。

輪廻転生をすることがあるのなら、次はおばあちゃんのなりたいものになって、幸せに過ごしてもらえると嬉しいな。

火葬ボタン喪主に押させるのって酷だね。震える母の背中を見ながらそう思った。

もうおばあちゃんは私の名前を読んでくれない。

思い出すといつもちゃん付けで呼んでくれてたなとか、眠りが浅くてすぐに起きてしまうのに何故か毎晩ラジオをつけて寝ていたこととか、こたつ眠る私に毛布をかけてくれたこととか、思い出すのは些細なことで、そしてちょっとずつ美化されてる。

ちょっとまれが複雑な私に思うところとかたくさんあったと思う。叔母に幼少時首を締められた私としては叔母を擁護する家族に思うところもあったし。

それでもやっぱり大好きだったよ。洗脳でも刷り込みでも、大好きだった。

ありがとう

2022-01-20

anond:20200724233527

聞いてくれ。子供が帰ってきた!!

https://anond.hatelabo.jp/20200724233527

深夜に知らない電話がかかってきた。

電話に出ると女の人の声で駅で子供を預かっています、と。

なんと、子が自力で私に会いに来たそうだ。そして途中、優しい女の人に助けられたと。

なぜここにいるのかと訪ねたら、学校プリントを出さなくて義母に叱られ、父親(元夫)には無視されたと。

数年ぶりの子との再開が真冬の深夜。

メールを見ると、義母(元夫の妻)から「こっちの手には負えないし自分意志家出しました。何かあったら警察から連絡があると思います」だとさ。

は?

深夜に子供を追い出してメール一本で済ますとか頭おかしのか?何かあったら警察から連絡くるだと?死体になって帰ってきたらどうするんだよ。

とにかく、あらゆるところに通報した。そして調停して養育費もとった。

なんとあちらは子供が生まれるらしく義母(元夫の妻)の連れ子含めて子が3人。うちの子がそのままいたら4人になるところだ。養育費5万→3万に減額するように頼んできたし、子のキャッシュカードの名義も変えられてたし年収を考えるとまさか邪魔になったのか?

とにかくキモい

が今はとにかく子供が近くにいることが嬉しい。子の成長と私の仕事フレックスかつ在宅で心理的にも余裕がでて子育てのしんどさもない。

子も私にずっと会いたかったと言ってくれた。

ブクマカには心配かけた。本当にありがとう

2022-01-07

小島はとっても歌が好き母さん呼ぶのも歌で呼ぶ

普通に呼べよ

親なめてんのか

じゃあ経が好きなら経で呼んでもいいのか

小島はとっても経が好き

母さん呼ぶのも経で呼ぶ

摩訶般若波羅密多心経

自在菩薩行般若波羅密多時照見五

蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不

異色色即是空空即是色受想行識亦復如

是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄

不増不減是故空中無色無受想行識無眼

耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至

小島や、会いたかったわよ。元気にしてるかい

―母さん。

2021-12-19

anond:20211217130855

20代男性から実家住みで親兄弟サッカー観戦した可能性もあるんだぞ

20代女性正規彼女でお互い長期間離れていてすぐ会いたかったというのも無理からぬ話ではない

2021-12-18

先日、王将ボックス席にて。

わたくし30代オジサン残業を切り上げて帰ろうとしていたところ、同じく残業していた女性社員から着信アリ

王将行きたいなー」

はい、行きましょう。仕事彼氏愚痴を聞かされるんだろうなと思いつつも、オジサンは年下の女性から元気をもらえるのです。疲れた心を癒しに向かいます

---

ボックス席に座り注文を済ませて話し始めましたが、取り止めのない会話が続きます



などと何気ない会話ですが、途中途中で気になるワードが出てきました。違和感や不自然には必ず理由があるものです。ドヤ顔で2000円にも満たない会計を済ませて解散、足早に帰路につきます。(もちろん、彼女にはノータッチです。奥手な紳士ですので。)

さて、家に着いたら缶ビールを。お望み通り、「考察」してみましょう。Microsoft Whiteboard を立ち上げます

---

今見ているドラマ考察し合いたい

私はトレンドに疎く、最新ドラマなどフォローできません。どんなドラマが始まるのかな、くらいに興味はありますが、見るのは相棒くらい。彼女はそれを知らないでもないはず。急にぶち込んできたドラマ話、しなければならない理由があったのでしょう。おそらく続くドラマに次のヒントが隠されています。『ドラマ』、付箋に書いて貼っておきましょう。

吉高由里子の「最愛」が面白い

ドラマを見ていない人との会話と考えると、主演女優吉高由里子』もしくはタイトル最愛』がキーワードでしょう。付箋です。どうぞ。

男性に比べて女性俳優は入れ替わりが遅い?吉高由里子とか、新垣結衣とか、柴咲コウとか

かにイケメン俳優はどんどん主役を張って来ているようですが、女優は30前後が根強く主演しているのでしょうかね。・・・ちょっと待ってください。柴咲コウって今そんな話題になりますか?違和感を見つけました。『柴咲コウ』、付箋に書き出しましょう。

あなた趣味いっぱいあるよね、ドラマ映画音楽とか

ドラマ』、いや見てないって言っているでしょう。映画音楽も見るときは見ますけど、趣味と言えるほどではないと思います。『映画』『音楽』付箋はまだたくさんあります

---

ドラマ』『吉高由里子』『最愛』『柴咲コウ』『映画』『音楽

少し物足りないですが、これらのキーワードを精査してみましょう。

ドラマ』と『映画』、『柴咲コウ』と『吉高由里子』は色々出ていますが、2人が共演し、『音楽』があることを考えると、KOH+としてテーマソングを歌った「ガリレオ」が思い浮かびます・・・ちょっと待ってください。『最愛』、繋がりましたね。劇場版ガリレオ、「容疑者Xの献身」の主題歌KOH+で『最愛』です。

見えてきました。何気ない会話の裏に隠されたメッセージ、それは『劇場版ガリレオ主題歌最愛』だったのです。

歌詞をググって読んでみると、実らぬ恋のようなことでしょうか。彼女の、私への想いが切なく突き刺さります。そうか、彼氏の惚気話や愚痴を聞かせるように見せて、私に会いたかったんですね。わかった。愛せないかもしれないけど、遠くで見守っているよ。でも、強がるのに疲れたら、会いにおいでよ。

---

とかなんとか妄想してたら土曜日が終わりました。どこからどこまでが妄想かは、ご想像にお任せします。

---

12/19追記

王将ファンの皆様、タイトルで釣るような形になってしま申し訳ありません。

ちなみに、行ったのは大阪王将で、私はチャーハン餃子彼女中華そば餃子だったと思います

2021-12-06

あれが初恋だったのだろうか

いい加減時効だと思うので吐き出してみる。

mixiコミュニティで知り合った人がその相手だった。

相手は年上の女性で、初恋だなんて書いているが知り合った時点で子供もいる人妻だった。

同じ漫画話題でよく話してて、話がよく合う人だった。普段日記も穏やかで優しい人柄が伝わってくるような人だった。

同人活動をしている人で、自分と知り合う前に何冊か同人誌を出していた。その人の描く漫画特別上手いわけではなかったけれど、その漫画解釈自分とあっていて好きだった。影響されて自分同人誌を描き始めた。

元々は自己満足程度の絵しか描いていなかったので、本にするまでには結構時間がかかった。それでもその人からアドバイスを貰いながら少しずつ描き進めて、ようやく一冊完成させられた。イベントで本を出すことにした。当時の自分に下心があったのかはわからないけど、顔も知らない人だったので、イベントでその人と会えればいいなと思っていた。

結局その人には会えなかった。その人は第二子(第三子だったかもしれないが)を妊娠していて、イベントに参加できるタイミングではなかったのだ。

そのあと何冊か同人誌を出したしイベントにも参加したが、やはり生まれたばかりの子供がいると参加は難しかったのだろう。そこでも会えることはなかった。原作も完結してしまっていたので自分自身もそのうちにジャンルから離れてしまって、その後はその人とジャンルが被ることもなかった。相手が同性であればイベント関係なく会いましょうと誘えたのだが、成人した男が夫のいる女性を誘うのはさすがにはばかられた。誘ったところで断られていたと思う。だからその人とはもう会える機会はなかった。

それからしばらく経って、ペアーズを始めた。何人かの女性メッセージのやりとりで切られたとき特になんとも思わなかったのだが、直接会って何度かデートして、いいなと思った人から別れを切り出されたとき、その人の妊娠したという報告を見たときと同じような感覚を抱いた。胸の奥がギューッと絞られるような、それまで経験したことのない感情だった。

人妻相手で、顔も知らなくて、会ったこともなくて。失恋というのもおこがましい経験だけど、もしかしたらあれが初恋だったのかもしれないとそのとき思った。一目だけでも会いたかったと今でも思う。

2021-11-07

赤心が彩心に変わっていた

また唐揚げ定食赤心食いてぇなーと思ってなんとなくググったら、今はもう彩心という名前のお店になってるようだ。

店長おっさん引退したのかな?まあ歳だよなあ。

あのおっさん、(少なくとも表向きは)割と面白い人だったので、顔くらい見たかったな。

俺はラーメンではなくあのおっさん会いたかったのかも知れない。

2021-11-06

学校を退学した人とか留年した人ってどこにいるの?

今日、家に卒業した大学からニュースレターが届いていた。

で、学生時代を思い出した。

私が人生で一番楽しかった時期が大学1・2年であり、逆に3・4年がとてもつらかった。

1・2年までは部活動が楽しくて充実していたが、3年から研究室に入るようになったのだが先生が合わなかった。というか研究が合わなかった。

学ぶこと自体は好きな分野なのだが、じゃあ何がしたいのか?問い詰められて何もでなかった。

4年になりみんながテーマを決めて研究を進める中、一歩も進まない自分

就職も決まらず、付き合っていた恋人とは別れ、大学にも通えず風呂にも入れず一日中布団の中で過ごす毎日

当然留年した。卒業式には出なかったが、遠くへ行ってしま友達には会いたかったので大学には来た。

それでも同級生の華やかな姿は見たくなかったのでトイレの個室で待っていた(電気消された)

とりあえず親からは「二留はやめろ」と言われたので途中から研究室には顔を出した。でも何も決められなかったので見かねた別の先生テーマをくれたのでそれで卒論を出した。

半年留年して卒業した。

自分はこの留年という烙印屈辱的で情けなく、それ以来この出身校を避けていた。

学生時代前半はあんなに楽しく絶頂期だったはずなのに、楽しい学生生活で終わらせられなかったことが悔しかった。

特に部活動は熱心にやっていたのに、大学不登校になってから自分が情けなく関わりあいを避けた。自分から避けた癖に、仲間の輪に入れなかったことが寂しい。

それでも繋がりを持ってくれている数少ない友人は数名いる。だが同時に、「私の苦しみを友人でも共有できないのだ」と絶望していた。

出身校に対するネガティブ感情しかも誰かから被害を受けた等ではなく自分の失敗によるものによる苦しみ。

友人たちはそういったものを持っていないようだった。

卒業をして、ニートを挟みながら職場転々をして渡り歩いてきたが、「退学や留年した人ってどこにいるんだろう?」と思う。

まあ職場学歴の話なんてしないので、本当はしている人はごまんといるのかもしれないけど。

一度「中途退学したよー」とあっけらかんと話す人がいた。だがよく話題に出すので、本当に気にしているのかいないのかは判断がつかなかった。

あと対面で「実はこういう苦しみを持っているんですよ」って言わないよね。他人からしたら「留年?退学?ばかだな~w」という反応かもしれないけど自分は口に出すのもつらい過去だし。

ネットでも自分は人見知りだから知り合いいない。だから観測できない。でもいるだろ、同じような気持ちの奴。

情けない話だけど10年離れてやっとちょっと薄らいできたんだよな。いつもそのまま捨てるニュースレターを包装を解いて目を通したのも進歩なんだよ。

学校を退学した人とか留年した人ってどこにいるの?

今日、家に卒業した大学からニュースレターが届いていた。

で、学生時代を思い出した。

私が人生で一番楽しかった時期が大学1・2年であり、逆に3・4年がとてもつらかった。

1・2年までは部活動が楽しくて充実していたが、3年から研究室に入るようになったのだが先生が合わなかった。というか研究が合わなかった。

学ぶこと自体は好きな分野なのだが、じゃあ何がしたいのか?問い詰められて何もでなかった。

4年になりみんながテーマを決めて研究を進める中、一歩も進まない自分

就職も決まらず、付き合っていた恋人とは別れ、大学にも通えず風呂にも入れず一日中布団の中で過ごす毎日

当然留年した。卒業式には出なかったが、遠くへ行ってしま友達には会いたかったので大学には来た。

それでも同級生の華やかな姿は見たくなかったのでトイレの個室で待っていた(電気消された)

とりあえず親からは「二留はやめろ」と言われたので途中から研究室には顔を出した。でも何も決められなかったので見かねた別の先生テーマをくれたのでそれで卒論を出した。

半年留年して卒業した。

自分はこの留年という烙印屈辱的で情けなく、それ以来この出身校を避けていた。

学生時代前半はあんなに楽しく絶頂期だったはずなのに、楽しい学生生活で終わらせられなかったことが悔しかった。

特に部活動は熱心にやっていたのに、大学不登校になってから自分が情けなく関わりあいを避けた。自分から避けた癖に、仲間の輪に入れなかったことが寂しい。

それでも繋がりを持ってくれている数少ない友人は数名いる。だが同時に、「私の苦しみを友人でも共有できないのだ」と絶望していた。

出身校に対するネガティブ感情しかも誰かから被害を受けた等ではなく自分の失敗によるものによる苦しみ。

友人たちはそういったものを持っていないようだった。

卒業をして、ニートを挟みながら職場転々をして渡り歩いてきたが、「退学や留年した人ってどこにいるんだろう?」と思う。

まあ職場学歴の話なんてしないので、本当はしている人はごまんといるのかもしれないけど。

一度「中途退学したよー」とあっけらかんと話す人がいた。だがよく話題に出すので、本当に気にしているのかいないのかは判断がつかなかった。

あと対面で「実はこういう苦しみを持っているんですよ」って言わないよね。他人からしたら「留年?退学?ばかだな~w」という反応かもしれないけど自分は口に出すのもつらい過去だし。

ネットでも自分は人見知りだから知り合いいない。だから観測できない。でもいるだろ、同じような気持ちの奴。

情けない話だけど10年離れてやっとちょっと薄らいできたんだよな。いつもそのまま捨てるニュースレターを包装を解いて目を通したのも進歩なんだよ。

2021-09-05

[]東京に通院しているというだけで診察拒否をされた話

簡単に言うと次のことが起きた。


● やむを得ない事情地方にいるが東京に定期的に通院することになってしまった

● 体調不良を感じたので地方のクリニックに行った

● アナムネまで取り終えてから別室に呼び出され「東京に定期的に行っている方は診られない」と診察拒否された



諸般の事情は「本当になんでこのコロナ禍で東京に通院する羽目になってしまったのだ…」と自分でも心身ともに参っているので、つっこまないでほしい。

やむを得ない事情だ。

私は、MERS、SERSの時でさえ、自主的に外出自粛したくらいの人間なのだ

最悪に最悪のタイミングが重なってしまった。


今いる地方は、通院が不便だったり、仕事上の諸事情があって困難なので転院をあきらめ、定期的に都内病院に通っている。

新型コロナウイルス感染ほとんど発生していない地方にもらってきてしまっては針の筵になるのは想像に難くない。

通院の移動途中は、目に見えぬウイルスに怯えて感染対策を最大にしている。


もともと花粉症があったので、体内や家に「目に見えぬ敵」を持ち込まない対策には慣れていたが、新型コロナくしゃみや目のかゆみでは収まらない敵である

極力、公共物に手を触れずに済むための行動として、飲食制限して移動中にトイレに行かないようにまでしている。

飛行機距離で、移動には6時間かかる。

夏場は脱水にも気を付ける。


友達のお見舞いも辞退した。

気持ちが弱っていたから、ほんとうのところは会いたかったが、それが原因で感染してしまっては相手にも自分にもよくないと思ったからだ。


食品日用品の買い出し、仕事家族の世話、通院で日々が終わる。

空しい。

仕事の重圧は増してゆく。

リフレッシュ手段制限され続けている。

バーンアウト寸前という自覚がある。



夜中、胸が痛くて起きた。

そういう日が何日か続いた。


心労のせいかとも思ったが、手術をした後なのでやはり心配になる。

東京受診した際、主治医相談した。

大学病院のため、病院内で紹介は難しく、クリニックに行ってほしいというコメントだった。

それはそうだろう。

通っているからといってほいほい別の診療科に紹介していたら大学病院パンクしてしまう。

これが明らかに急を要する症状なら紹介はしてくれているだろうと思う。

自分でもこれは気持ちからきているのか、本当に身体症状なのかよくわからない症状なのだ

身体症状の所見がなければ、気持ちのことだと思って対処すればいい、そう考えた。


そういうわけで、地方医療機関を探した。

幸い、通えそうな距離にクリニックがあった。


前回都内に通院してから10日以上たっていた。

新型コロナを疑う症状はないが、念のため自費で購入していた抗原検査もしてから行くことにした。


初診受付の時間帯を確認して、有給を取得して、霧雨のなか目的のクリニックに到着した。

初診の人は玄関先で体温を測って熱がないのが確認されてから待合室に通される。

院内の様子をみるに、感染対策をしっかりしているという印象だった。


問診票を書いて待っていると、看護師さんが来てアナムネが始まった。

血圧を測定して、病歴、薬歴を伝えた。

都内に通院していることも言ったので、自主的に抗原検査してからたことも報告した。

抗原検査というのが通じず、何回言ってもPCRをしてきたんですねと言われた。

検査PCRだけじゃない。勉強しろ


しばらくたって呼ばれたので、行くと、ベテラン風の看護師さんが椅子を勧めてきた。

そこで言われたのが冒頭の「東京に定期的に通院している人は診られない」だ。

まりのことに呆れ、立腹していたので、一言一句正確に覚えているとは言えないがおおまかには下記のようなことを告げられた。


東京に行くことのある患者さんには、2週間以上空けてから来てもらっている、あなたはまだ2週間たっていない」

患者さんみなさんに、通院前には東京などの感染がある地域いかないようにお願いしている」

「今後も定期的に東京に通院する予定がある方は診られない」

「(だいぶん離れたところにある)××記念病院にも循環器があるのでそちらを受診してください」


まさか東京に定期的に通院している】という医学的根拠のない理由受診拒否をされるとは思わなかった。

東京に行けばみんなコロナ罹患するとでも?

地方だけで生活している人に比べればリスクは高い行動とはいえるが、対策は万全にしている。

コロナが疑われているので診れませんならわかる。

いや、コロナが疑われていたら私なら循環器科に行く前に保健所相談するなり発熱外来に行っているはずだ。

私の医療リテラシー馬鹿にするな。

これはなに?都会差別??

今はやりの「分断」とかそういうやつ?

無駄になった貴重な有給返して。



言葉を失うというのはこういうことか。


混乱する考えのなか、感情を抑えてクリニックを後にした。


釈然としない思いをそのままgoogleレビューに書き込むようなことは我慢した。

レビュー業者被害にあってしまえ、くらいの呪詛は吐くが。


しばらく寝かせた。

ここに書いて忘れてしまおうということにした。




新型コロナのことは話題になりがちだが、余波をくらっているその他の疾患もある。


移動中、咳をする人がいたり、ウレタンマスクでおしゃべりしていたり、ノーマスクだったり、感染対策がきちんとしてない人が近くにいるとびくびくする。

移動する人のなかには、やむを得ない理由感染しないように気を付けて移動している人がいることを知ってほしい。



ワクチン接種はものすごい勢いで進んでいる。

効果があることは、厚労省やこびなび、医療者のSNSあたりでいっぱい言われている。

だが、打ったからといって、コロナ前の行動にするにはまだ早い。

変異株やブレークスルー感染懸念がある。

感染拡大防止のための行動を維持する雰囲気が強まってほしい。


もう自粛うんざりだ、そう思うのもわかる。私もそうだからだ。

旅行ライブも気の置けない仲間との会食も全て我慢して1年以上経っている。


旅行に行きたい。ライブに行きたい。友達ごはんをたべたい。


早期に新型コロナ感染が終息してほしいと願うばかりだ。

2021-08-19

ワクチン後に風〇で本番したら死にかけた

こういう話はなかなか表に出ないと思うので体験談を記録しておきます

42歳の既婚者で、嫁には内緒でよく風〇行ってます

2度目のモデルワクチン接種後、翌日は副反応で39度の熱が出ました。

翌々日に回復したので、ずっと自粛していたお風呂屋さんにレッツゴー。

ウッキウキでした。

だってそうでしょ、もし仮に接種前に行ってコロナにかかったらとんだ恥さらしですよ。

まさか風〇行ってかかったなんて絶対に言えませんよ。

感染経路不明にするし、GPS履歴も全部消しますよ。

まして嫁にばれたらどうなることやら。

で、用心深いおれはそんなことはせずにずっと我慢していました。

そしてやっと行ける!と、気分上々でお店へ。

実に1年半ぶりくらいのお風呂屋さんでした。

自粛中にチェックしていた好みの19歳の娘を指名して、いざ開始!

おれ「ずっと会いたかったよ!」嬢「嬉しい!」なんてやり取りを挟んで。

ここまでは良かった。

問題が出たのは、本番開始して自分が動く番になってから

正〇位で腰を振り振りして、気持ちよくなってさらに動きを激しくしたら…。

突然激しい動機息切れ!!

わず咳き込んでしまい、同時に視界がぐわんぐわんして、意識がフッと遠のきました。

えっ?あれ?これやばいかも?って感じ。

嬢の上に全体重かけて崩れ落ちてしまい、相手もびっくり&痛そうでした。

「ちょと、ごめん、待って、、」みたいなことをかろうじで言って、そのまま数秒間動けず。

少したってようやく意識が戻ってきましたが、それでもまだ心臓が辛い感じで。

嬢のほうは「え!?何?」って感じで何が起きたかわけもわからず、びっくりして固まってたようでした。

ただこのときおれには相手に気を遣うような余裕もなく、恐怖感でいっぱいでした。

いま死んだらどうなるんだろう、最悪だ…お葬式の時に何て言われるんだろうって。

そのあとも座ったまま休み10分くらいたってやっと動けるように。

嬢は「ほんとに大丈夫?」とすごく不安そうな顔をしてました。

この時おれの頭の中では「本当に心配してくれてるのかな、いやいや、自分の客が倒れたなんて最悪だし、厄介ごと持ち込まれてうざがられてそうだな」とか色々考えてました。

からもうとにかく一刻も早く店からたかったです。

おれだって風呂屋さんに救急車呼ばれるような事態はまっぴらごめんだったし。

まだフラつくなか、急いで店の外に出て電車に乗って、とにかく街から離れました。

いざぶったおれても、その街から遠ければ言いわけが立つじゃないですか。

なんとか地元まで帰ってきたときは心底命拾いしたと思いましたよ。

嫁が帰ってきてからは平静を装い、事なきを得ました。

から皆さんに警告です。

コロナワクチンを打ったら、しばらくは安静にしていたほうがいいです!!

風〇に行きたかったら、疑似的に同じような運動をしてみてください。

ベッドの上で腰振ってみるとかね。

それを激しくやって何ともなかったら大丈夫ですが、急激に息切れと動悸がしたら止めておきましょう!

おれは喫煙もするしちょい肥満体型だったので、それも影響したかな…。

好みの嬢だったけど、もうあの娘は指名できないな…あの気絶おやじとか言われてNG客にされそう。

風〇嬢なんて金のない奴と厄介ごと持ち込むやつには超辛らつだしな。

残念だ。

同志には同じ思いをしてほしくないから書いたよ!みんなも気を付けてくれ。

2021-08-16

追記離婚の際の絶対的女性優位はどうにもならないのだろうか

ある日突然出張から帰ってきたら荷物をまとめて実家に帰ってて、以後はLineのみのやり取り。

まずは子供に会わせてくれという要望は一切無視子供写真を送ることすらせず、更には元嫁両親からの「実家に近付いたら警察を呼ぶ」という宣告。(元嫁が暴力を振るわれて追い出されたと言っているらしい)

当然協議が上手くいくはずもなく、調停もつれ込む。

当初元嫁は何か入れ知恵されたのか、肉体的なDV証拠が無いことを指摘された後も「経済的DVが~、精神的に追い込まれて~」など色々のたまわっていたが、調停担当者がこの時はまともで協議時の履歴発言一貫性が無いことであくまで『性格の不一致』という形での離婚には落ち着くことができた。

親権協議時に決まらなかったので、子供が小さいこともあってかほぼ強制的に元嫁側が取ることになり、そこから養育費の話で泥沼になった。

通常はお互いの年収から算出される表で決まっているのだが、慰謝料が取れないと確定したからか表の金額では少なすぎると文句を言い始めた。

「こんな額じゃ習い事一つさせてあげられない、子供が可愛くないのか」「あなたお金を渡して終わりなのに、少しでも多く払おうと思わないのか」そんな言葉を元嫁からも元嫁両親からも終始投げ掛けられ、調停担当者も「算定表は必要最低限の金額なので、今の子育てにお金が掛かる時代では少なく感じる金額ですね」と元嫁側の肩を持つ感じだった。

そんなに経済的不安があるなら離婚しなければいい、親権も取らなければいいと思っていた、こっちが一方的に殴られているのに「お前を殴った手が痛い、責任を取れ!」と言われてる気分だった。

結局調停平行線で続いても自分は算定表金額中央値絶対に譲らず、担当者の最終的に裁判したとしても金額は変わらないという言葉に元嫁も折れたようだった。

全てが終わる頃には2歳だった息子は3歳を目前にしていた。

初回の養育費は息子の3歳の誕生日に手渡しする、それ以外は認めないと言ったこちらの要望に、嫁は意外なほど素直に応じた。

誕生日プレゼントは山程用意した、当時好きだったアンパンマンや緊急車両おもちゃ、少し大人になったから好みも変わるかと思いネットで色々調べて3歳に人気のおもちゃも沢山見繕って、買い物している時から高揚する気持ちを抑えることが出来なかった。

元嫁の実家での面会だったが、当日は義両親は出掛けているとのことで、少し気が楽になった。

呼び鈴をならし、元嫁がドアを開ける、そこにはずっと会いたかった息子の姿もあった。

前までなら帰る度に大声で「パパ!パパ!」と飛びついてきたはずの息子は、元嫁の脚にすがり付いて、こちらを静かに見つめていた。

まりの態度の違いに茫然自失になりながら、リビングへ向かう元嫁と息子の後ろを力無く追いかけた。

増田さんがプレゼント買ってきてくれたよ、お礼言わなきゃ」とまるで遠い親戚が来たかのような物言いの嫁に合わせて、息子は少し照れながら「ありがとう」と言った。

今までの息子のお礼と言ったら大人の真似をして全身を使ってお辞儀を繰り返してニコニコ笑うもので、それが可愛くて一緒になって同じ動きをしたりして二人で笑い合っていたのにな。

一緒に座ってプレゼントを開けながら、絞り出すように「パパだよ、覚えてる?」と息子に精一杯の笑顔を見せた。

「パパ、おぼえた」と言う息子の「パパ」は、元気一杯で全力で世界に一人だけのパパを呼ぶ今までの言い方ではなく、この人はパパという呼称の人なんだ、という呼び方で、同じように呼ばれているはずなのに全く違う言葉のように聞こえた。

そこからはもう堪えることができず、2時間の面会の予定だったけれど、15分で切り上げて養育費の入ったアンパンマンの小袋を嫁に押し付けて、飛び出す様に家を出た。

車に乗って、少し離れたコンビニ駐車場に車を停めると、大声で泣いた、子供の頃だってこんなに泣いたことは無いと思うぐらい嗚咽した、人生で初めての経験だった。

しかった、悔しかった、寂しかった、情けなかった、自分が意地を張らずにもっと調停を早く終わらせて会いに行ってればこんなことにならなかったのかと死ぬほど悔やんだ。

次に怒りが沸いた、また実家に戻って元嫁を殺して子供を奪い取ろうかと考えた。

でも今の息子からしたら他人が来て、大好きなママに酷いことをする人間しかなれず、結局自分が捕まれ子供は両親を失ってしまうと思うと何も出来なかった。

その後も泣き続けた、自分の中の水分が全部出尽くしてしまうんじゃないかと思った、そのまま渇れて死んでしまえばいいと思った。

そのまま泣き続けて、気がつけば外は真っ暗になっていた。

そこからどう帰ったかは憶えてないけれど、どこを見ても息子との思い出だらけの自分の家を何も見たくなくて、倒れるようにベッドに入ってまた泣きながら寝た。

元々冴えない人生だった、生きてる意味があると思えたことがなかった。

それでも子供が出来て、この子のための人生だったと思った、自分に出来ることは全部してあげようと思った。

どれだけ疲れて帰ってきても、息子とお風呂に入るだけで癒された。

どれだけしんどいことがあっても、寝かしつけている時にうとうとし始める息子の顔を見れば何だって出来ると思えた。

面会はまた半年後に予定されているけど、1年に2回だけあえる得体の知れないパパでいることが子供にとって良い影響を与えるのだろうか。

これから先、どうやって生きていけばいいのかが分からない。

追記

ここまで見られると思わなかった、考えを整理出来てないままでも吐き出さないとおかしくなりそうで書きなぐった、日本語が所々おかしいのは申し訳ないです。

自分でも「これは嘘の話で起きたら隣に息子の寝顔がある朝が戻ってくる」と馬鹿みたいなことを考えているので皆にも嘘だと思っていて欲しい。

一応、目についた疑問とか、ちょっと反論したいことにだけ答えます

·離婚理由

金銭感覚が合わなかったのが一番の理由だと思っている。

元嫁の実家経営者で、金銭面での苦労はしたことなかったらしい。(結婚後はあんまり甘やかすのも良くないと言われて大っぴらな援助は無かった、というか男は自分で稼いで家族を喰わすもんだみたいな思想の人だった)

一方で自分は30前半で年収400万ちょっとなので、正直贅沢な生活とかはさせられんかった。

元々恋人時代に「お肉買って帰ってきて」って頼んだら黒いパックに入った国産和牛とか選んでくる人だったのと、子供が産まれた時に貰ったお祝い金50万をブランドベビー服や友達とのお食事で一瞬で溶かしたこともあって、家計自分管理してました。

元嫁には子供のために使うという名目で月3~4万渡してたのと、必要であればその都度別に渡してた。

加えて元嫁は父親会社で時折パートはしてたが、その給料家計には加えなかった。(そもそも幾ら貰ってたのかも分からん)

当然家計は火の車で、カードを駆使しながらやりくりしてたんだが、件の出張の直前に「もっと広くて綺麗な家に引っ越したい」「マイホームが欲しい」みたいな話をされて、支払いに頭を抱えていたこともあって「頼むからもう少し現実を見て欲しい」「もっと色んなことを諦めないとダメだよ」と軽い言い争いなってしまったのが原因かと思っている。

諦める対象として選ばれたのは夫婦生活でした、笑う。

·子供を育てられる自信あったの

もちろん一人では無理だと分かっていたので、自分実家で両親の援助を受けれることを確約し、その上での提案でした。

·何で養育費を出し渋ったの

前述した通り生活がかなりカツカツだったのでいくつかのローンなどもあり、そもそも生きていけない⇒養育費を支払えなくなるという状態を避けたかった。

ちなみに元嫁の希望した当初の養育費は月額15万、相場の3倍でした。

·なんで半年に一回しか会えない条件なの

月額15万を要求するような感じだったので全然話がまとまらずにとにかく長引いて、調停から裁判に移行する一歩手前だったけれど、弁護士を雇うようなお金も無かったので何とかして調停で終わらせたかった。

そして3歳の誕生日にも会えないというのも避けたくて少しでも早く解決したいと焦っていたところで、「もうじゃあ養育費相場通りでいいから、会うのは盆正月ぐらいにして」と溢した元嫁の条件に後先考えずに飛びついてしまった結果です。

·15分で帰ったり、殺したいって言ったりヤバいでしょ

これだけは反論させて欲しかった。

「色々あったけど誕生日の日は家族としてお祝いしたい」という相談を事前にしていたのにも関わらず、息子に自分が来ることは一切伝えていなかった。

夫婦の頃には元嫁もパパ呼びだったのに、当日は子供の前であてつけのように終始「(苗字)さん」呼びをされたため、こちらが息子に「パパだよ」と伝えているのに、その後にわざとらしく元嫁が自分のことを名字で呼ぶことで息子にまで「(苗字)さん」と呼ばせようとしたことに本当に腹が立った。

後、息子の今までと違うパパの言い方にとても平静でいられなくなり、折角の楽しい誕生日を言い争いする元両親や涙を流す父親の姿にしたくなくて、逃げ出すように家を出たことを分かって欲しい。

「殺したい」なんて書いたけど、少しよぎったくらいの話で、緻密な殺人計画を考えるようなことはしていないよ。

皆さんは余程の人格者なのでそういう感情が沸くこともないのでしょうけれど。

·これからどうするの

実は皆さんの言葉結構救われました、「時間解決する」系の内容には淡い期待を抱いています

少しは落ち着いたと思っていたけれど、仕事から帰ってきて少し横になろうとしたら、息子が大切にしていたはずのアンパンマン人形がおきざりにされているのを見てまた号泣するぐらいには情緒不安定なので、そんなんだから離婚されたというのにも否定できずにいる。

まずは自分生活を立て直さないと子供に何かあった時に何も出来ないので、節約生活を頑張ろうと思います

あんまりちゃんと回答できていない気もするけれど、自分で書いた文章なのに読み返すと吐きそうになるので許してくれ。

追記はこれで最後します。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん