はてなキーワード: ドラクエ2とは
幼少の頃、俺には親友がいた。
俺が通っていた幼稚園にそいつは転入して来た。俺たちはすぐに仲良くなった。
未熟児で早生まれだった俺は人一倍体が小さく、何をするにも周りに遅れを取っていた。いじめられることも多かった。
そいつはそんな俺にいつも付き合ってくれた。何をするにも二人一緒だった。
一緒に行った入学式。校門で一緒に写真を取り、二人でドキドキして列に並び、名簿を見た。
俺たちは同じクラスだった。
放課後は補助輪の取れたばかりの自転車を漕いで、お互いの家を行き来した。
家に遊びに行く前には必ず電話をした。
当時は携帯電話も無かった時代だ。きっと電話の前で待っていたのだろう。
「今から行っていい?」「いいよ、早く来てね!」
社宅の庭で、よくボール投げをした。縄跳びをした。鬼ごっこをした。かくれんぼをした。
夏休み、一緒ドラゴンボールの映画に行った。二人で特典のジャンボカードダスを片手に、20円のカードダスを回した。
ある時、そいつの家で、そいつの兄が持っていたドラクエ2をやった。
まだ小学校2年生になったかならないかの頃だ。あの難しいゲームを進められるわけがない。
どうすればいいかわからなくて困っていた時、なんとなく俺が言った一言。
「その緑のやつ話しかけたら仲間になるんじゃない?」
知っていたわけじゃない。ただの偶然だ。
でもその緑のやつ、クッキーという名のサマルトリアの王子は本当に仲間になった。
「すげー!」「なんでわかったの?!」
俺は仲間になったこと、役に立てたことが嬉しくて泣いてしまった。
2年生の夏を過ぎた頃、残念そうな顔をした親から告げられた。
そいつが転校するということを。行き先は海外だということを。帰ってくるのは6年後だということを。
俺は泣いた。嫌だと喚いた。7歳の子供にとって、6年は永遠に近い時間に感じられた。
俺とそいつは手をつないで館内を回った。楽しかった。もうすぐ会えなくなるなんて信じられなかった。
船の舵の前で、2人で一緒に写真を取った。それは宝物になった。
3月になり、ついに別れの日が訪れた。
初めて乗る始発の電車。ガラガラの席に2人並んで、いつもと変わらない話をした。
どうか着かないで欲しいと願いながら、やっぱり行かないと言って欲しいと願いながら。
「バイバイ」「手紙書いてね」「6年後絶対会おうね」「約束だよ」
5年生の頃だ。
俺には障害のある伯母がいる。障害は軽度ではあるが、少し言葉が不自由だ。
クラスメイトが、その伯母の口真似をしだした。
俺は子供ながらに、これは絶対に許してはいけないことだ。人として怒らなければいけないことだ、そう思った。
そして口真似をされたら、瞬間湯沸かし器のように怒り、殴りかかった。
当時の俺は学年で一番体が小さく、力も弱かった。
殴りかかられても怖くもなんともなかったのだろう。皆面白がって伯母の口真似をするようになった。
その度に俺は泣き、顔を真っ赤にしてそれを言ってきたやつらを追いかけた。
親には言えなかった。泣いて帰って来ても、「チビと言われた」と嘘をついた。
その時自分を庇い、寄り添ってくれる友人は一人もいなかった。
俺は思った。そいつが、親友がいればこんな辛い思いはしなかったはずだ。
泣いている俺に寄り添ってくれたはずだ。皆に止めろと言ってくれたはずだ。
シールにはにっこり笑ったイラストと、「ゆっくり育っていくんだよ」と文字がプリントされていた。
俺はそのシールを、自分にとって一番大切なものだったスーファミの本体に貼った。
なんて返事をしたかは覚えていない。
時は過ぎ、中学2年生になった。
あの別れから6年後。ついにそいつが帰ってきた。同じ学区内。同じ中学校だ。
その頃はもう周りも悪いことだと気づいていたのだろう、伯母の口真似をされることはなくなっていたが、
未だからかいの対象になることも珍しくなく、鬱屈とした気持ちはずっと抱えていた。
俺は早く親友と会いたかった。親友と再会すれば、きっと俺の味方になってくれる。
あの頃のように人生はまた楽しくなる、そう思っていた。
始業式の日、ドキドキしながら学校に向かい、クラス分けの名簿を見た。そいつと同じクラスだった。
教師からの紹介が終わり、下校の時刻になった。俺はそいつのところに行った。
俺たちは手を取りあって6年ぶりの再会を喜んだ。
どんな音楽を聴いていたのかを知らない、どの野球チームが好きだったのかを知らない。
そいつが誰と仲が良かったのかも知らない。いや、どうしても思い出せないんだ。
そいつは昔とは変わっていた。カッコつけたがりで、多少勉強ができることを鼻にかけ、
スクールカースト上位グループに絡みたがる痛々しいやつになっていた。
いや、それは俺の負け惜しみなのかもしれない。実際にそいつはリア充だったのかもしれない。
そいつは部活も同じテニス部に入った。俺がいるから入ったと、初めにそう聞いたような気がする。
俺は部活に熱心では無かったが、それでも何回も一緒に練習しているはずだ。
一緒に他校に試合に行っているはずだ。一緒に合宿に行っているはずだ。
でも俺にそいつと話した記憶は、笑いあった記憶は、共に時間を過ごした記憶は、一つも残っていない。
何故そうなってしまったのか。拒絶したのはどちらだったのか。恐らく、お互いに失望していたのだろう。
俺は当時、歩み寄らなかったのはそいつだと思っていた。自分の気持ちは変わっていないと思っていた。
でも本当は拒絶したのは俺だったのかもしれない。変わってしまったのは俺だったのかもしれない。
いけ好かないやつになってしまった、そう思うことで自分のプライドを守っていたのかもしれない。
ドラクエVをやって、隠し部屋のヘンリーを見つけて、「あいつ仲間になるんじゃない?」って言い合って、
そして人生で一番辛かったときに、そばにいてほしかった。俺を救って欲しかった。
そうして育んだ絆の上に、「それ以降」が続いてほしかったんだ。
俺の部屋の、そいつから貰ったシールが貼られたスーファミは、その頃にはもうプレステに代わっていた。
先日の話だ。登録しただけで何も書いていないFacebookに気まぐれにログインした。
今でもドラクエで誰かが仲間になった時の音楽を聴くと、少し涙が出そうになる。
「あの緑のやつ、話しかけたら仲間になるんじゃない?」「すげー!」「なんでわかったの?!」
俺には幼少の頃、親友がいたんだ。
貴族編 :ttps://anond.hatelabo.jp/20200706225819
王族編 :ttps://anond.hatelabo.jp/20200707102749
奴隷編 :ttps://anond.hatelabo.jp/20200707174539
竜編 :ttps://anond.hatelabo.jp/20200708062743
商人編 :ttps://anond.hatelabo.jp/20200708131233
馬編 :ttps://anond.hatelabo.jp/20200708203845
獣人編 :ttps://anond.hatelabo.jp/20200709092800
エルフ編:ttps://anond.hatelabo.jp/20200709173538
なろうにはパーティ追放というジャンルがある。勇者パーティ等に追放された主人公が
この追放における勇者は、総じて頭が悪いことや、どこかの不良みたいな性格をしており、
ある程度の実力は確かにあるのだが、実は大して強くなかったとか傲慢なせいで最終的には
なお、こうした元凶がボコボコにされた後、作品の人気は大体失速していく。
追放系の勇者を認定した奴とか誰だよとか、性格とか色んな事を考慮してないのかと言いたくなる。
その反面、SFC版のドラクエ3なんか最初に性格診断があるのもある意味納得してしまった。
勇者という存在が恐らく大体はドラクエを参考にしているような節があるが
なろう作品では聖女に勇者に選ばれたとか、王に任命されたとかそういう展開もそこそこある。
が、その後資質を見極めるために試練を課すべきじゃないのかと、なろう作品に対しては思う。
ドラクエ2で勇者の泉で清めてこいとか、ドラクエ3では、くろこしょうを手に入れてこいとか色々イベントがあるが
あれらも実は「お前が勇者だって言いたいなら先にそれを示せ」というと、なるほどなぁと思う。
ドラクエ3の場合は、オルテガの息子という根拠があるが、なろうでは実績もない輩を勇者としていきなり
認定する事が多いので、やはり勇者認定をした責任者は馬鹿なのではないかと思いたくなる。
集団転移作品では、クラスのイケメンなどが勇者になることが多いが、これは主人公のかませである事が多い。
転移後の職業認定で勇者とされるのだが、勇者だから強くなれるみたいな事を思い込んで、実際にある程度強くなるが
物凄く強くなれるというわけでもない。
クラスの美少女が、何の能力も無かったとされた主人公を好きになっていると、この勇者が嫉妬することもある。
集団転移では真面目な勇者もいるが、皆の為とか周囲を考慮してとか色々としっかりしている部分もあるのだが
「みんなに嫌われないように」みたいなお優しい考えや自己犠牲精神を持ち合わせていることがあり、それが、
一部の人間から嫌わていることがある。これについては、少々思うところがある。
現実でいえば、この考えは割と問題のない平和主義そのものだが、異世界では通用しないということになる。
が、そうだとしても、この親切な勇者を主人公だとか色んな者が厳しく批判することが筆者は苦手である。
こういう優しい勇者に現実を知れというのは分かるし、そうしなければいけない過酷な状況だと言うのも分かる。
が、ゲームの世界と違い、普通に高校生などをしていた転移者が突然勇者をやるのである。16歳の勇者である。
16歳の少年に、めっちゃ切れ味のいい剣と頑丈な鎧とかの防具をあげるから、サバンナのライオンを倒してこいなんて言えるだろうか。
これは極端な事例であるが、勇者として呼ばれたからには強敵と戦う運命にあるようで、そういう事をしていかなければ
元から性格がねじ曲がった勇者なら、根性を鍛えなおし、性格が良く優しすぎる勇者なら覚悟を決めさせるという
勇者を導く存在が必要なのではないかと、なろう作品を読むたびに思う。
勇者へのアンチテーゼとして主人公がいる場合については、勇者が哀れになりすぎて、なんだかあまりいい気分ではなくなってしまう。
勇者が最強という作品も当然ある。しかし、魔王を倒したけれど勇者としての強さが怖くなったとか、勇者よりも目立つ存在がいたとか
諸々の事情で勇者が隠遁生活を送る事が多い。ドラゴンクエストモンスターズ+の、ローレシアの王子みたいな感じだ。
(ドラゴンクエストモンスターズ+では破壊神を破壊した男として民衆から恐れられるようになる)
現在、至極真っ当に、勇者として認定されて旅に出るような作品はないだろう。そんなドラクエのような王道作品はない。
大体主人公が勇者以上の力を持ってしまうからだ。なんだ、なろう作家は勇者の恨みでもあるのかとか、
勇者が勇者らしく生き生きと輝く作品は書きたくないんだろうか、なんて思う事もある。
生き生きしているというか、割と平和に過ごせるのは女勇者である。
女勇者は、主人公に甘やかされたり、反抗的であっても許されたり、なんだかんだと主人公の仲間っぽい位置に収まる。
主人公に好意的になっている場合なんかもよくあるので、筆者はこの場合「また女かっ!」と怒髪冠を衝く。
筆者は、聖剣伝説3で、デュラン、ケヴィン、ホークアイしか主人公及びパーティメンバーにしたことがないが別に女嫌いではない。
聖剣伝説3では美獣を屈服させたいと思っている嗜好があるくらいでいたって平常である。
話を戻す。
分からないでもない。なろうの勇者が使う必殺技とか魔法が、大体こんな、なんとなく強そうな名前がある。
しかし、このような名前をを聞くたびに、筆者は羞恥心を覚えるのだ。童心に返った気持ちで読めばいいのだが
どうにも、恥ずかしくなってくる。
今でも「計都羅喉剣・暗剣殺」なんかはカッコイイと思っているが、なろうを読むとなんだかこう、やりきれなくなる。
もうちょっと、頼むと言いたくなる。
最後になるが、なろうの勇者に関しての不満の多くは、これでもかってくらい可哀想な目にあうので(自業自得ということも多いが)
もうちょっと救済措置くらい用意しておかないと、ただのイジメにしか見えず(復讐物であっても)嫌な気分になるということである。
例:半沢直樹は倍返しをしても大和田常務に包丁を突き立てるまではしない
というわけでしばらく遊んでないのとか消した
ほぼ完璧なドラクエ2外伝。全てのドラクエ2を知ってる人に。マイクラやりたい人には勧められない
temtem
MMO+ポケモン=ただのMMO。やはりMMOはわるいぶんめいである。滅ぼさねばならぬ
Slime Launcher
丸くて跳ねるキュートなスライムを撃って回収し養殖して宝石的なうんこを売るゲーム。スライムの管理が意外とめどい
Graveyard Keeper
不満点はだいたいみんなと一緒です。パンがもりもり出てきたときはノーラの再来だと思ったんだけどなー
Euro Track Simulator 2
車を運転すると眠くなる・交差点を曲がるのに失敗すると渋滞する を身をもって体験できる素晴らしいゲーム。学校に配備すべき
パズルゲームだった。いや違うんだけど。でもこれパズルゲームだよね?弾幕ゲーを覚えパズルと呼ぶくらい乱暴?エロ同人みたいに!
確かにあちこちの台詞回しにナウシカっぽさが感じられるし、改心後のリルルの言動は明らかにナウシカをモデルにしていると感じられる。修理中のリルルとしずかちゃんのやり取りは、クシャナと風の谷のじいや達のやり取りを彷彿とさせるようでもある。
竜の騎士はキャラデザインや背景、BGMなどにナウシカっぽさが見えたが、鉄人兵団は心理描写にその影響が強く出ているなと思った。
トラバにもあるけど、私も竜の騎士、鉄人兵団、宇宙小戦争の三作がドラえもん劇場版の中で別格に好きです。
ストーリー展開にはアラやご都合主義もそりゃあるけど(ロボット達が鏡面世界に気づくの遅すぎだろ、とか、タイムマシンはさすがに禁じ手だろ、とか)子どもの心をあんなに惹きつける作品はやっぱりなかなかない。
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アマプラを物色していてふと目に入った「ドラえもん のび太と竜の騎士」、そういやこれ子どもの頃大好きで何度もビデオ見てたなーと思い出して30年ぶりぐらいに見てみたら、ものすごく「風の谷のナウシカ」でびっくりした。
検索してみたら、監督の芝山努氏と宮崎駿氏は東映の同期入社組なんですね。
さらに芝山氏は高畑勲氏と一緒に仕事をしたこともあるようで、それでなんとなく腑に落ちるところはあるのだけども。
にしても似方がすごい。
鎧と兜は土鬼(アニメではトルメキアの下級兵)、胸の紋章はペジテ。
乗用の小型竜はトリウマ。
地下世界の郊外には、ちょうど風の谷の郊外にもあるカッパドキアのような砂漠の光景が繰り返し描かれる。
ドラえもんの地下世界は高度に科学文明が発達した社会で、街並みは近世ヨーロッパに20世紀当時のSFっぽさを付け加えたような雰囲気だ。そこにトルコ的な何かは見えない。
未開の部族が住む秘境も点在しているが、それもアフリカや中南米の原住民文化がベースになって描かれているものだ。
すなわち、わざわざカッパドキア的モチーフをあんなに時間をかけて画面に出す必然性は何もない。にもかかわらず何度も出てくる。
ドラえもん一行が、地上人に脅威を知らせるべく竜の騎士の家からひそかにタケコプターで逃亡するときの情景は、BGMも含めてまるきりオマージュ。ナウシカが風の谷の住民達に脅威を知らせるためペジテのブリックからメーヴェで飛び立ったシーンのオマージュだ。これをオマージュと言わずして何を言うかというぐらい、立派なオマージュだ。
地上人を守りたいドラえもん一行と、地上の覇権を取り戻したい竜人達は最終的に全面戦争を始めることになる。
ここにも一瞬オマージュがある。
風雲ドラえもん城に竜人達が攻城櫓を運ぶシーンが、酸の海でクシャナがあの娘の帰りを待たないで進軍を始めたときと同じだ。これも状況がそっくり。BGMも。
そしてそこにクライマックスとなる天災(風の谷のナウシカのほうは人間が引き起こした天災なので本当は人災なのだけど)が訪れ、両軍ともに戦争どころではなくなる。
キャラデザインや風景、BGMのみならずストーン展開のこの重なりよう。
意図しないとここまでの重なり方はしないと思う。
ただ最後、ドラえもんは人類の科学技術の粋であるところのひみつ道具をバンバン使って本来なら絶滅していたはずの恐竜を安住の地へと導き、竜人達の始祖の神となってしまう。自然を破壊してるわけではないにしても自然の摂理に強く介入する行為であることに間違いはなく、人類が自然の営みを支配しコントロールすることの是非という点ではナウシカではなくクシャナ寄りの価値観と行動だ。ここがナウシカとは決定的に違うとこで、まあそこはドラえもんが『ドラえもん』というアニメ作品の主人公としての役割をきちんと果たしているということで、どちらが正解でどちらが間違いという話ではない。
この相似、たぶんいろんな人が言ってることだと思ったんだけど、ちょっとググった程度では見つけられなかった。
芝山氏は何を思ってこんな作風にしたのだろう。この作品だけでなく当時のアニメはみんなナウシカの二番煎じみたいな作風だったのだろうか(そんなこともなかったと思うのだけど)。
それが知りたいな、と思った。
そういや鳥山明氏も宮崎駿氏に影響を受けたって聞くよね。ドラクエ2の三人にはナウシカのデザインが色濃く反映されているという話は有名だと思う。